表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/53

第32話 大補給戦


 第1次大戦が終わって復興が始まる前、休戦協定の交渉から、フランスはドイツに残った機関車を差し出すよう要求した。鉄道車両は経済を回していくための不可欠なストックだった。もちろん講和が成ってからも、ドイツの鉄道は賠償金の原資を生み出す公企業として期待され、搾取された。かなり取られたとはいえ、ドイツの経済が縮んでいる間、ドイツに残った鉄道車両は(老朽化は問題だったが)輸送力不足を表面化させない程度には十分あった。


 ヒトラー政権になって、老朽化した鉄道施設は直され、あちこちの国境が緊張するたびに輸送力増強工事が行われた。それに比べると、機関車の更新・増強は後回しにされた。もちろんアウトバーン(高速道路網)とリソースを食い合ったことはひとつの要因だったが、陸軍の中で鉄道を扱う参謀本部5課と、装備調達を扱う国防省兵器局が別組織で(というより、ライヒスバーンか運輸省が頑張るしかないのだが)、鉄道車両の増加を勝ち取る「予算の獲り手」が不在であったことも響いた。


 以前述べたように、ポーランド戦は直前で1週間近く延期があったために、輸送日程に余裕ができた。フランス戦では6月に入って、フランス西部や南部に入り込んだドイツ軍部隊への補給に無理が生じたが、フランス軍自身もパリを失っては自分自身の補給も、組織だった抵抗も難しかったから、補給の限界が表面化せずに済んだ。


 だがソヴィエトとなると、規模が想像を絶した。ハルダーは希望的観測として、国境近くで大規模な包囲が成功すれば、短期間のうちに講和の申し出があるだろうと部下たちに述べていた。だから空前の規模で準備がなされたけれども、実際にモスクワまで補給線を伸ばせるかどうかは問われなかったのである。準備段階ですでに、1918年にフランスに分捕られた機関車が奪い返されて輸送に従事しているありさまで、機関車が足りなくなる兆候はあった。


 当時の独ソ国境に通じるドイツの鉄道路線は6本あった。そのそれぞれに精いっぱい東行き列車を走らせるとそれぞれ1日30本、合計180本出せる計算だった。そのうち150本もあれば余裕で所要の輸送ができるはずだったが、降雪の影響があり、70編成もあれば歩兵1個師団を運べるだろうという見通しにも甘さがあり、何と言ってもポーランド戦時の3倍の輸送量が重かった。だからポーランド戦の時とは全く逆に、バルバロッサ作戦開始時までに国境へ運ぶはずの人と荷物を独ソ国境まで運ぶのに、7月9日までかかってしまったのであった。


---------


 リヴィウ(ロシア語ではルヴォフ、ドイツ語ではオーストリア領当時の呼び方でレンベルク)は、かつてオーストリアが併合したポーランドの一部だった。そしてポーランドの指導者ピウスツキがロシアに対する独立運動でオーストリア領を根城にしていたように、ウクライナ人の民族運動もオーストリア領の方が息苦しくなかった。


 1920年にポーランドがソヴィエト軍を押し返したとき、この辺りはポーランド領になってしまった。だからここには、「ポーランドからの独立を目指すウクライナ人地下組織」があった。1939年にやってきてここを占領したソヴィエト軍は彼らにとってモスクワの手先だったから、地下組織の一部がドイツに接近して、ウクライナ人の独立を期待した。「ウクライナ人が我らとともに戦っている」ことはドイツにとって好都合な宣伝材料であったが、戦力として当てにされているわけではなかった。彼らはナイチンゲール部隊と呼ばれ、二線級装備をあてがわれて、治安部隊としてリヴィウに入ってきていた。


 第一の惨劇はすでに終わっており、第二の惨劇はまだ始まっていなかった。ソヴィエト内務省の刑吏たちは、収監していた人々を処刑してしまっていたし、ナイチンゲール部隊が遅れてやってきた親衛隊とともに、街のユダヤ人を狩り出すのはもう少し後だった。ドイツ軍の多くはすでに街を離れて前進していたが、第17軍司令部所属車を示す黒白のチェッカー旗をつけた中型乗用車には、相応の敬意が払われていた。


 乗用車はおおむね無事な建物のひとつで止まり、運転手はパンと缶詰と飲料水の瓶が入ったかごを助手席から出すと、ドアを開けた。


「テスケ少佐殿!」


「こっちだ。上だ」


 返答を聞いた兵士が2階に上がると、上半身が裸のテスケが自分のシャツを振っていた。


「気をつけろ。シラミが飛ぶぞ」


「おおっ。いや、失礼しました」


 衣服を順々に身に着けるテスケを、兵士は少し待った。


「朝食をお持ちしました、少佐」


「すまんな。待っていた。すぐわかったか」


「はい、戦前の地図通りでありましたので」


 ここはリヴィウの鉄道管区司令部だった。フランス戦が終わってから輸送総監部に転属になり、第17軍鉄道輸送全権士官を拝命していたテスケ少佐は、ここに残っているはずの鉄道管理についての書類を目当てに、身ひとつで先着していたのであった。


「探し物は見つかったのでありますか」


「書類は残っていたがな。せっかくの調度が、前の住人の無精のせいで台無しだ」


 テスケは恨めしげに、豪奢な長椅子を見た。どうやらオーストリア帝政時代の遺物であるアンティーク家具は、シラミの住みかとなっていたようだった。長椅子で寝たら、伏兵に損害を受けたのである。


 兵士は、上衣の大きなポケットから封筒を取り出した。


「少佐殿にお手紙であります」


 輸送全権士官はいわば軍司令部への客人であり、固有の部下を持つ補給主任参謀の世話になっている。手紙が補給主任参謀の私信になっているのは、一般兵に公電のたぐいを運ばせるわけにいかないからだろう。手紙によると、南方軍集団の野戦鉄道司令部に連絡がついて、午後には書類の接収に車両と人が来るということだった。この建物も接収することになるが、軍用電話が引かれるのはずっと後回しになるようだった。


「少し書類を頭に入れておくか。ここでできることはそのくらいだろう」


 おそらく第17軍司令部に戻っても、すぐには鉄道は延伸できないのだから、不満をぶつけられる係のようなことしかできないだろう。テスケはしばらく前世紀の遺物を楽しむことにした。シラミには気を付けないといけないが。


--------


 戦争がないとき、軍隊は兵営にいる。ドイツ軍の中隊や大隊や連隊は平時でも移動することがあるから、移動のとき食糧・弾薬などを自分で運ぶためのトラックは、平時から持っている。毎日消費していく分は、もっと上位の司令部や、その指示を受けた民間業者が決まった場所まで持ってくる。


 ところが戦時となると、師団司令部や独立部隊は、軍司令部レベルの物資交付所まで取りに行くためのトラック部隊または馬車部隊を配属された。軍団司令部は、原則としてトラック部隊も物資交付所部隊も持たず、自分自身の補給を取りに行くトラック部隊だけを持っていた。軍司令部は物資交付所部隊と、いくらかのトラック部隊を持ち、物資交付所部隊の運営とその移転が主な仕事だった。


 原則として軍司令部の物資交付所は鉄道駅の近くに置かれるが、それができないときは、軍集団司令部がギャップを埋めるトラックを用意し、軍司令部以下もそれを補うため、自分たちのトラックを臨時に所属部隊から召し上げる必要があった。つまり原則として軍物資交付所を境に、「戦闘部隊が輸送にあたる地域」と「後方で輸送に責任を持つ地域」が分かれ、後者をグロストランスポートラウムと呼んだ。もともとは地域区分なのだが、高級司令部裁量分のトラック部隊をグロストランスポートラウムと呼ぶことがあり、それらのトラック部隊が危機の軍司令部に貸し出されるケースも出て、さらにややこしくなった。


--------


「少尉どの!」


 ノックの音で、アムトラッハは板に毛布を敷いただけの寝床から身を起こした。まだバルバロッサ作戦は始まったばかりで、ウクライナで過ごした夜は片手で数えられるが、すでに配下の兵たちにはテントで寝ている者がいた。無事な家屋は少なく、もともと建っている家屋自体が多くはなかった。


 アムトラッハは予備少尉である。戦前の軍歴が長い者などが選考と追加講習を受けて士官に取り立ててもらえるもので、ヒトラー政権下の軍容急拡大に伴って推進された。学歴条件もあるし、いかにも士官社会で一生小さくなって過ごさせられそうだが、衣食住の何事も兵より優先してもらえるのは正直ありがたかった。


 もさもさと身支度をして、アムトラッハは農具小屋を出た。農家の大部屋を兵たちに譲って、個室で過ごしたのだった。脇をポリポリかいている兵士がいるのを見て、アムトラッハは自分の用心深さが報われたことを知った。人が暮らすところには、当然シラミがいる。


 アムトラッハはグロストランスポートラウムに属する60トン段列の段列長である。車両の都合によって、1.5トン車が40両であったり3トン車が20両であったりするし、それに合わせて部下の数も変わる。後方は道路が良いはずだから、希少な4.5トントラックや4トントレーラーは陸軍ではグロストランスポートラウムに属しているものが多かったが、アムトラッハの段列は最も普通の3トントラックだった。


 炊事兵が大きなヤカンを抱えてくると、兵たちが列を作った。当然のように、先任軍曹が列を無視してカップをふたつ出し、炊事兵も心得たもので真っ先にそれを満たした。先任軍曹はそのひとつをアムトラッハに差し出した。なにしろ所帯が小さいから、隊長に当番兵をひとり張り付ける余裕がない。


 ふつうの歩兵部隊なら、朝のコーヒーは事情が許す限りで兵たちが勝手に沸かすしかない。だが段列は変則的で、人数は小隊規模だが専任の炊事兵がひとりいて、トラック搭載型のフィールドキッチンでその場で調理できるし、湯を沸かせる。遠くまでトラックを走らせるときは何日も冷食になるのだから、ささやかなぜいたくとしてアムトラッハは朝のコーヒーを必ず出させていた。だいぶ前から代用コーヒーになってしまってはいるが、それは仕方ない。熱いうちにコーヒーを半分呑んだところで、アムトラッハは大声を出した。


「そのまま聞け。今日も弾薬運搬だ。交付所に行く前に給油と整備は必ず済ませておけ」


 荷積みと荷下ろしは補給大隊(物資交付所を運営する大隊)の連中がやってくれるが、弾薬を運ぶ横で整備などして火花でも飛んだら大変である。ルート情報の細部は後で分隊長に念を押す……というか、悪いニュースの伝達役は彼らにやらせるつもりだった。昨日の夕刻に配属先軍集団の補給司令部から、荷物の受取先と行き先を指示する日日命令が届いていた。日日命令は上から順に降りてくるから、上位の司令部に配属されると、当日の午前様に届いたりしないので楽だった。


 まだ線路のゲージ転換工事は始まってもいない。ソヴィエトはドイツなどより幅の広い線路規格を使っており、レールの片方を引き直してゲージを変えないと本国からの列車をそのまま通せなかった。だから、すでに前進した軍交付所とポーランド総督府領のあいだはトラックで補うしかなかった。日本陸軍が鉄道牽引車(てつどうけんいんしゃ)と呼ぶ、トラックの車輪をレールを走る車軸に付け替えた車両も、損傷した鉄橋の強度が怪しいなどの事情がある最前線近くで、ギャップを埋めていた。


 兵たちがパンの袋を取り出し始めた。ドイツ軍は原則として昼食が温食で、そのとき夕食と朝食のパンや肉製品を一緒に渡す。フィールドキッチンが流れ弾でも食らうと大変だから、前線へは兵が担いで運ぶのである。段列の温食は食える時に食うしかない。昨夜遅くに帰ってきた面々に温かいシチューを出し、その時に今日の昼食分までパンを配ってあった。


 パンをかじりながらの談笑が、ふと止まった。炊事兵が余分のパンと缶詰を並べ始めたからである。これはつまり……遠方なので帰りは翌朝ということだった。アムトラッハと先任軍曹は、表情を消して視線を交わした。なんとなく分隊長たちの視線が痛かった。


--------


 レンド・リース法は1941年3月にアメリカで成立したばかりで、6月にドイツがソヴィエトに攻め込んだ時には、それによる増産分はまだイギリスが実感できるほどではなかった。ようやくイギリス海空軍はイングランド南西沖の狩場から狼たちを追い出したところで、アイルランドの西側やアフリカ西海岸に移り住んだUボートは、イギリスの造船能力を上回るペースで商船を沈めていた。


 チャーチルはスターリンにすぐ親書を出して、援助が欲しければ言ってくれと伝えた。スターリンは7月19日まで返事をしなかった。それはおそらく、スターリンがしばらくドヨ~ンと落ち込んでいたせいであり、そのあと遅れを取り戻すのに忙しかったせいだった。返書には、何が欲しいとも書かず、ただ第二戦線をフランスか、でなければ極北に早く作ってくれと書いてあった。


 奇遇なことに、チャーチルが真っ先に参謀総長たちに相談したのも、どこかへ上陸作戦をやることだった。だが、ようやく本土を守れるめどが立った程度の戦力では、どこを攻めても後が続かない……というのが返答だった。


 そこでチャーチルは、これは何としても物資を送らねばならんと心に決めた。ちょうどイギリスに、アメリカからハリー・ホプキンス大統領特使が来ていた。身体は弱いが使命感にあふれる男だった。ホプキンスはイギリス空軍のサンダーランド飛行艇で北極圏を飛び、スターリンに会って、本音を聞きだしてきた。それでようやく、交渉が動くようになった。


 イギリスでもアメリカでもこの件に関しては、トップが「ガンガンいこうぜ」で、下僚が「しげんをだいじに」だった。ソヴィエトは戦闘機よりも軽爆撃機、おそらくもっとはっきり言えば襲撃機が欲しかったのだが、イギリスとアメリカが具体化していくうちに、主にハリケーン戦闘機やトマホーク戦闘機が送られるようになった。最新の航空機や爆弾は送る余裕がなかった。どちらにせよチャーチル主導で、イギリスがもらう分の兵器や資源をソヴィエトに分けてやる分と、アメリカから出す分が並行してソヴィエトに届くようになった。ソヴィエトに届くハリケーン戦闘機は、アメリカから届く資源を使って生産されていたわけである。


 アメリカ西海岸からウラジオストックに向かうルートも開設され、日ソ中立条約を破りたくない日本軍はソヴィエト国旗を掲げた輸送船に手出しを控えたが、武器弾薬をこのルートで送ることはできなかった。衣料や食料といった、軍需にも民生用品にも使える「両用品」が主に送られた。


 ソヴィエトに向かう最初の船団は8月12日にイギリスを発った。真っ先に運ばれたものにはハリケーン戦闘機と、イギリス空軍の戦闘航空団ひとつが含まれていた。つまりハリケーンでムルマンスク港周辺の防空に当たりながら、ソヴィエト空軍の機種転換訓練を支援したのである。まだこの船団には、通し番号すらついていなかった。ソヴィエトに向かう次の船団が、PQ1というコードネームをもらうことになった。


--------


 すでに秋の日は短く、空は薄暗かった。スターリンは執務室からすべてのゲストを締め出して、考え事をしていた。


 戦争が始まるまでは必ずしもそうではなかったのだが、開戦後のスターリンは勤勉な独裁者で、戦場の出来事に隅々まで目と耳を張り巡らせ、驚くべき理解力と記憶力を発揮した。毎日10時と16時、まあスターリンの気分次第で1時間くらいは遅れることがあるが、スターリンは参謀本部へ電話をかけて、参謀総長か作戦課長に状況報告をさせた。そして23時ごろ、参謀総長と作戦課長がスターリンの執務室を訪ねて、地図を見せながらその日最後の状況報告をして、スターリンの名で出す重要命令を決裁してもらった。1942年5月にシャポーシニコフ参謀総長が精魂尽き果てて退任し、優秀なワシレフスキー作戦課長が後任となった後、スターリンの質問に応じてきたワシレフスキーの席が埋まらずに参謀本部作戦課は苦難の時期を迎えるのだが、そのことはいずれ語るとしよう。


 すでに触れたが、深夜の報告にあたって、参謀総長が持ってくる書類の束の中には戦況図のほか、各種予備部隊・機材・物資の現況綴、輸送予定表、前線部隊の戦力現況表といったものが入っていた。これを独占していることが、スターリンの権力の源泉ともいえた。特に、方面軍司令官たちやスターリンの個人的要請で督戦に行く軍人たちには、スターリンの財布の中身を知られてはならなかった。増援の要求で足元を見られるだけではない。例えば予備部隊の配置を見れば、スターリンがレニングラードの喪失にどれだけ真剣に備えているか見抜かれてしまうかもしれなかった。


 だが今日は、それすらどうでもよかった。どの方面軍に相談しても仕方ないことだった。モスクワへの道をふさぐヴャージマで4個軍、ブリャンスクで3個軍がドイツにつかまり、もう全滅は避けられなかった。いっぽう、すでに秋雨を従えた泥将軍が来援してドイツ軍の足を止め、雪が降り始めていた。これから道路が凍結すれば泥将軍は帰ってしまうが、やがて雪がすべてを支配していく。モスクワ詰むや詰まざるや……ということを考えこんでいるわけでもなかった。


「やったほうが、士気には良いのだろうな」


 スターリンのつぶやきは、誰にも聞こえなかった。チャーチルならば下僚にトピックスを投げて、まず検討と提案をさせるところだが、先例に頼れない事柄を迅速に進めるには、スターリンはまず自分の結論を示さねばならなかった。


--------



「頼めるか。ちょっと多いんだ」


 座席から降りてきた機銃手が鎖のようになった給弾ベルトを整備員に渡すと、じゃらりと金属音がした。自分はもっと細い給弾ベルトを下げたままである。ベルトに弾を通すのを手伝えというのである。


「こりゃあまた、撃ったねえ」


「大物はいなかったがな。燃料タンクだと思ったんだが、燃えなかったし、何も噴き出さなかった。ありゃあ穀物倉庫だったかもしれん」


 整備員はMG151/15機関砲の給弾ベルトを受け取りながら、「そりゃあ残念」という意味で肩をすくめた。Bf110双発戦闘機は、ソヴィエト空軍の飛行場を襲撃して戻ってきたところだった。15mm機関砲の50発入りベルトを2本つないだものがきれいに空になっていた。7.92mm機銃で済ませなかったのは、価値のある目標として燃料タンクに奮発したに違いなかった。


「どうだい、空は」


「イワンがだいぶ戻ってきたらしいが、この辺はまだだな。地上にもあまりいない」


「そうらしいな」


 整備員にも、帰ってくる機体についた……あるいは、ついていない傷の様子から、そのことは察することができた。ソヴィエト空軍はドイツの飛行場爆撃に対して、準備ができていなかった。後方からばらばらに来る増援部隊は、まだドイツ空軍にとって大きな脅威ではなかった。


 Bf110の後継機種となるべきMe210双発戦闘機は、開発が行き詰まっていた。ドイツ空軍は「ゲーリングが出した要求書類に、ヒトラーは必ずサインする」ことを大前提として急拡大してきた組織で、開発失敗というつまずきをうまく処理できなかった。それはヒトラーに対するゲーリングの失態ということになるからである。だから開発は継続され、「Me210完成の暁には任務を引き継ぐ」という含みで、地上攻撃部隊がBf110を使って作戦していた。さすがにもう、Me210に敵戦闘機と殴り合いをやらせることは想定されていなかった。


 機銃手は、パイロットが指揮所のドアから手招きしているのに気づいて走った。パイロットと機銃手のペアは、訓練課程の最後のほうで互いの合意により固定される。死傷による補充がないことはないが、長いこと命を預け合う間柄だった。


 まだこのころは、笑顔が珍しいものではなかった……と後に機銃手は回想することになった。


--------


 ドイツの航空部隊である航空団や飛行隊は、最大で12機の飛行中隊を積み上げて構成されている。この飛行中隊そのものに、最低限の整備員は含まれている。だが本格的な修理となると、独力ではできなかった。


 ドイツ空軍の航空機修理組織についていくら情報を検索しても、見つけることは難しい。名称に「修理」が入っていないものが多いからである。前線を動き回る航空機修理部隊には大きく分けて3つの系統があった。


 平時には軍用飛行場があれば、その近くには修理部品などを管理する物資交付所があり、修理もそこで行われたが、これが発展して「修理機能のある移動航空材料廠」となったのが、移動物資交付所(Ausgabestelle(mot.))である。もちろん本国にある物資交付所自体にも修理機能は残った。


 もうひとつは空軍野戦工廠大隊(Feldwerft-Abteilung der Luftwaffe)をはじめ、werft(工廠)という文字が入る大小さまざまな修理部隊で、大戦が始まってから多く編成され、飛行場や物資交付所で部品供給を受けながら、修理の仕事をした。


 最後に、大戦初期には飛行場付き修理中隊(Flughafen-Betriebs-Kompanie)があり、当然その飛行場に駐留する部隊の機体修理に慣れていくので、その飛行隊・航空団について移動し、継続的に修理を引き受けていくことが増えた。


 戦時になったら絶対に必要となる修理組織をめぐるグダグダさには、「列強とは戦争にならない。威嚇だけだ」というゲーリングの思い込みが影を落としていた。それでもゲーリングが長年にわたって集めてきたリソースの巨大さが、ドイツ空軍を今まで戦わせていた。


 本国の航空基地は地域割りの航空管区司令部に指揮されていて、ソヴィエトに攻め入った当初は各航空艦隊のホームグラウンドである航空管区のどれかから、補給と修理を行う派遣隊が出ていた。これが戦争が長引くにつれ、地名や連番付きの「野戦航空管区司令部」に改編され、近隣の航空基地の後方任務を行った。これもまた、「現物合わせ」で「出たとこ勝負」な組織運営と言えないこともなかった。


--------


 ドニプロペトロフスクは、ドニエプル川の河口にかなり近い街である。アメリカのセントルイス、フランスのパリなど多くの街と同じように、水運と街道が交差する場所に発達した。だからドイツ軍にとってこの街は、さらに東へ攻めていくための交通の要地だった。


 砲撃で掘り返され、舗装が引き裂かれた場所がいくつもあったから、秋の雨は街にも泥を持ち込んでいた。泥だらけになった車を降りると、テスケははるかに年上の鉄道工兵大佐に面会を求めた。鉄道橋修理の責任者だった。


「先日の報告から状況は変わりません。全通は5日ですね。11月の5日」


「ありがたいことです、大佐」


 テスケの口調は、ありがたそうではなかった。このところ物資が滞るので、あらゆる部隊から文句を言われていた。10月12日には、もう第17軍はこのドニプロペトロフスクまで物資交付所を前進させていたが、対岸で戦う部隊はどんどん東へ動いていた。ドニエプル川を渡していたのでは効率が悪すぎるので、10月下旬に入ったころから、わずかに捕獲した広軌対応の列車ではるか北方から物資を運んでいた。


 ドニプロペトロフスクの鉄道橋は、ドニエプル川にかかるものとしては最初に(他の工事より最優先とされて)復旧が進められていた。支流が合流する街なので、2ヶ所の橋を同時復旧しないとドニエプル東岸に列車を通せなかった。


 大佐は同情の目を若いテスケに向けた。


「廃墟だらけで、廃材はたくさんありますので燃料事情は良いのです。温かいものでもいかがですか」


「ありがとうございます、大佐」


 ふたりは木と鉄板と石と煉瓦で補修された、小さな建物に入った。工事現場の金属音が不思議なほどさえぎられた。従兵が湯気を立てた代用コーヒーをすぐ机に置いた。大佐は仕事の話を避けて話題を探した。


「まったく壮観です。橋梁と水中作業のことがわかるわが軍の部隊はみんなここにいます、ベフォ(全権輸送士官)」


「上の決定でした。他の場所よりここだというのは」


「もう冬季ですが、我々はどこまで行くのでしょうな」


「第1装甲集団はドン川に近づいているということですが、物資が要る点では我々よりきついでしょう」


 テスケの返答がまだ硬いので、大佐はポケットから紙たばこを出して勧めた。紫煙と沈黙が、しばらく部屋を支配した。


--------


 ラーザリ・カガノーヴィチについて戦史で語られることはほとんどない。だが、後から考えると東部戦線におけるドイツ勝利のチャンスはほぼ1941年にしかなかったのだから、カガノーヴィチはドイツの勝利を阻んだ貢献者としてかなり上位にランクインさせるべきである。もちろんスターリンと同様の意味で、その倫理的な汚点は見ないことにしてであるが。


 カガノーヴィチはソヴィエト鉄道部門のドンであった。スターリンに忠実な経済官僚だったカガノーヴィチは、1931年にモスクワ市共産党第一書記になって、モスクワ地下鉄の建設を指導したが、1935年に鉄道人民委員になるまでこの業界との縁はそれだけだった。だが「スパイ」を次々に処刑する恐怖支配の才と、大計画をち密に成し遂げる組織者の才を振るって、カガノーヴィチはこの産業を乗りこなした。そして独ソ開戦を待たず始められた、工場疎開の責任者ともなったのである。これはライヒスバーンが独ソ開戦前の輸送に全面協力したものの、その後の作戦計画を教えてもらえなかったことと好対照だった。


 トハチェフスキーと結び付けられた重要橋梁などの爆破計画は、戦時に慌てて再立ち上げされることになり、しばしば失敗した。しかし工場疎開に加えて、列車と保線・車両整備器材をドイツに渡さないための指示は徹底された。ドイツ鉄道工兵は、指導者たちの見込み違いのツケを一方的に押し付けられることになり、鉄道路線をドイツの標準軌に直す膨大な工事に取り組んだが、それはソヴィエトからの捕獲列車が得られない分まで、ドイツの蒸気機関車がすべての路線を支えるという想定外の事態を招いた。これもまた、1941年秋から始まる輸送力危機の背景のひとつであった。


 カガノーヴィチは1942年5月にいったん鉄道人民委員を下ろされ、トルコ国境を守るザカフカズ(トランスコーカサス)方面軍の政治委員に左遷された。だが1年ほどして元の職に就けられ、大勢が決した1944年12月にまた免じられた。鉄道業界を我が物顔に支配していてなんとなく気に入らないが、戦争に勝つにはこいつしかいない……というスターリンの迷いが感じられる。その後のスターリンは自分が死ぬまで、カガノーヴィチに政治の焦点から外れた、しかし高い地位のポストを与え続けた。この小説のレンジを超えた先のことを書くと、カガノーヴィチはフルシチョフとの政争に負けてただの人になってから、長生きした。もう半年生きていたら、ソヴィエト崩壊を見てしまうところだった。



--------


 フランス戦までのドイツ陸軍では、軍団の補給部隊が余分の段列を持ち、軍団長の裁量で指揮下師団のどれかに配属されていた例がある。おそらく英仏と全面戦争にならなかったら、もう少し部隊数に対してトラックの余裕があって、そうした運用が一般的になったのだろう。だがバルバロッサ作戦以後、軍団の補給主任参謀には、所属部隊間で裁量する実戦力がなくなってしまった。


 報告は軍団を通り、取りまとめられた。特に大切なのは、毎日の弾薬使用量報告である。弾薬車両の戦闘被害などによる損耗もあるから、10日に一度は現在の保有量も報告した。使った分は原則として補充されるが、いつ補充されるかは全体のひっ迫具合を見ながら上から裁量されていった。


 進撃路や補給路について命令を出し、限られた良い道路を師団に割り当てるのは軍団の役目だった。軍司令部も師団司令部も補給関係の部署は実務に忙殺されるから、上に文句を言ったり要求したりするのも期待されていた。最後のものは補給担当者に限ったことではなく、指揮官から指揮官へ補給関係の要望、あるいは事情切迫を訴えることもあった。


 ロンメルが出世してドイツ・アフリカ戦車軍司令官になるまで、北アフリカにはドイツの軍司令部がなかった。ドイツ・アフリカ軍団にはイタリア軍から人員を出してもらって物資交付所が作られ、段列も余分に配属されたが、最前線近くにアフリカ軍団の物資交付所は持てなかった。だから1942年にアフリカ戦車集団がアフリカ装甲軍に昇格するまで、余分な段列は各師団司令部に配属され、それらがベンガジやトリポリにある軍団物資交付所からエジプト国境の師団本隊まで物資を運んでいた。ノルウェーも1940年12月にノルウェー駐留軍司令部ができるまでは、捕虜を荷役に使うなどして変則的な補給組織になっていた。


--------


 1941年11月、ドイツ空軍省技術局長ウーデット上級大将が自殺した。航空機の生産と開発の責任者という意味ではビーヴァーブルックやフリーマンに似た立場だったが、ウーデットはビーヴァーブルックほど知恵の回る人物ではなかったし、フリーマンほど最新技術のことはわからなかったから、報告する生産機数そのものを改ざんし、それが半年前に発覚して、立場をなくしていた。すぐに首にはならなかったが、職務権限は奪われた。第1次大戦のエースパイロットではあるが技術のわからないウーデットを、押し込むようにこの地位につけていたのはゲーリングであり、それはミルヒ空軍次官の権勢をそぐためだった。虚偽報告が発覚するとゲーリングは口を拭うしかなく、ウーデットは孤立した。


 例えばBf110戦闘機は、同じ仕様で3社が競作したことがきっかけとなって、じつはその仕様には合わないが別のアプローチで任務を果たせるBf110が開発継続予算をもらい、誕生したものだった。イギリスのフリーマンが原則としたように、開発失敗によって敵の類似機種に対し劣勢となることを避けようとすれば、コストを我慢して複数プロジェクトを同時に走らせるしかない。その裏返しとして、発注者は限りある資源を一番有効な用途に使うため、ときにはプロジェクトを中止させ、絞り込む決断をして、それを関係者全員に押し通さなければならない。ウーデットは、それがまるでできなかった。形式的な技術局長の権限だけでなく、説得し押し通す政治力と意志力が必要だったが、欠いていた。


 ウーデットがメッサーシュミットなど数社をひいきして残りを等閑視したというのは、誇張と言っていいだろう。一番にらまれたとされるハインケルもHe177(変則)四発爆撃機の開発契約をもらって、ずっと取り組んでいたし、ドルニエ社にもDo217の仕事があった。ウーデットは間違ったことをしたというより、するべきことをしなかった。ある時期のイギリス航空機開発がそうであったように、将来有望だが間に合いそうにない多くのプロジェクトと、もう見込薄になったプロジェクトが、どれも切られないままだらだらと続いていた。


 また、ドイツが「ずっと」航空機開発で後れを取ったかというと、トーネードやタイフーンの開発が行き詰まっていた時期にはBf109FやFw190が優位に立った数か月があったし、四発重爆が消費したリソースに見合った戦果を挙げるようになるまでには、多くの血とアルミが大地に飛び散った。生産の伸び悩みで機会損失はあったであろうが、開発上の劣位がはっきりしてきたのは、ドイツにマクロ的な勝ち目が失われた1943年以降のことではなかったかと思われる。


 むしろ、「周辺国を脅す空軍」として「本物の戦争」に対する弱さも抱えていたドイツ空軍の問題点は、もっと大きなところにあったというべきかもしれない。重爆撃機を持たないドイツ空軍は「イギリスに勝つ方法」を提供できなかったし、「ソヴィエトに勝つ方法」を提供するには規模が不足だった。戦争をするつもりがないから、強大な仮想敵に勝つための兵備がなかった。ヒトラーはゲーリングの予想を超えた男であり、ドイツ空軍はヒトラーと戦って負けた。


 1941年11月にウーデットが自殺し、ずっと先の話になるが、1943年8月にはイェションネク空軍参謀総長が自殺した。おぼろげであった劣勢がはっきりとした敗勢に変わるまでに、それだけの時間がかかったともいえる。


--------


 アムトラッハの段列本部班は、3両と5人である。アムトラッハのキューベルワーゲンと運転手。先任軍曹のサイドカーと運転手。オートバイ伝令がひとり。それがいま、軍集団の新しい補給基地に到着した。線路の幅をドイツの規格に合わせて狭くする工事が進み、自動車輸送の起点が変わったから、段列も引っ越しすることになったのである。トラック2両で追随する段列自身の行李と、トラック運転手たちがテントを張る分の場所まで、現地責任者から割り当てを受けねばならなかった。建物をもらえる望みがないことは、周囲に立ち並ぶテントを見てすぐわかった。段列のトラックは指定された待機場所に並んだままである。みんな睡眠負債の返済に忙しいに違いなかった。


 だが気分は明るかった。周囲にはパンの匂いがしていた。輸送がひっ迫すると食料は後回しにされ、弾薬が優先される。アムトラッハたちもしばらく、硬いビスケットや缶詰で暮らしていた。


 ここはまだ輸送ルートの途中だから、ゆきかうトラックに積まれた物資は頑丈な木箱に入っていた。小銃弾15発入りの紙箱が20個ぎっちりスーツケース風の紙箱に詰められ、それが5個並んで入る1500発入り50kgの木箱が、標準的な小銃弾の荷姿だった。前線でそれを小分けする手間も相当なものだが、途中でばらけたら事故の危険があった。


 さいわい今回は、アムトラッハたちへの移動命令が現地を管理する補給大隊にちゃんと届いていたので、現地責任者のテントに行くとすぐ野営場所を指示された。


「済まないが、ここの野戦郵便隊はどこにいる」


 応対に出てきた眼鏡の曹長は、「ああ、あんたもか」という中途半端な微笑を浮かべて、テントの枠に吊り下げてある地図を示した。最前線では本国向けのトラック便は原則通りに出ないから、上流の補給基地に帰るトラックがあれば、託されることもあった。


 先任軍曹は別の下士官から、段列自体が食料や燃料を取りに行く場所やルールの説明を受けていた。段列にいる下士官と言えば、先任軍曹のほかには分隊長と整備班長と衛生下士官だけだから、先任軍曹は残りすべてを引き受けるほかなかった。


「久しぶりだな、アムトラッハ少尉」


 後ろから声がかかった。振り向いたアムトラッハは、急に電気が通じたようにこわばって敬礼した。少佐の階級章をつけた男はゆっくり答礼すると、ビジネスマン的なにこやかさを保ったまま言った。


「バルバロッサが始まる前に会って以来ではないかな」


「その通りであります、少佐殿」


 男は、アムトラッハの段列が属する大隊長だった。自動車輸送連隊がまだ編制表通りの姿をしているなら、この少佐は5人の中隊長と、15人の段列長を率いているはずだった。アムトラッハは命令書は受け取るものの、中隊長とも時々野戦電話で話すだけになっていた。あちこちの手伝いに行くうち、大隊がばらばらになってしまっているのだ。


「いい機会だ。明日にでも大隊本部に顔を出せ。大隊本部は……」


 少佐はきょろきょろと吊り下げられた地図を探した。眼鏡の曹長は、つとめて無表情を保ちながら、大隊本部のある位置を地図で示した。まだ誰も自分の場所を覚えられていないようだった。


第32話へのヒストリカルノート



 日本軍が使った「段列」「行李」というふたつの言葉は、もともと明治時代にドイツ軍の用語を翻訳したものなのですが、古い言葉を使ってきたため、ドイツ軍自身の(何度か変わった)分類ともぴったり合わなくなっていました。また日本軍も部隊名としては、トラック部隊には「自動車連隊(大隊、中隊……)」、馬匹部隊には「輜重兵連隊」という言葉をよく使っていて、役目で分類するための短い表現があまりありません。この作品の補給関係の言葉には、ドイツ軍の分類でも日本軍の用語法としても、厳密にはおかしいところが出ることをあらかじめお断りします。


 アムトラッハは久々に登場する架空の人物です。



 よく「バルカン方面で戦わず、バルバロッサ作戦をもっと早く始めていたら……」という話がありますが、比較的後回しにされていたのは空軍関係の物資でした。早く戦闘が始まると、空軍が物資不足で息切れしてしまうかもしれんのですよね。「国境向け1日150編成」というのは、別の会議資料を基にもう少し多い数字を掲げる研究もありますが、ここではテスケに従います。ただ他の研究者によると、フライブルク公文書館にある公式記録とテスケの数字が一致しない例がいくつも見つかっているそうです。


 イギリス空軍のウイングは指揮官が中佐~大佐であるため、ドイツの航空団に準じて訳すことにしました。イギリス空軍のスコードロンはドイツの飛行隊(グルッペ)程度の規模があることが多く、これから「飛行隊」と訳することもあるでしょう。



 Ausgabestelle(mot.)は移動物資交付所と訳すことにしました。「自動車化」としないのは列車1編成がまるごと修理工場だったり、Ju52輸送機で(この場合、保有部品は特に機種を限定するようですが)移動していたりするケースもあるからです。


 ハルダー陸軍参謀総長の10月8日付戦時日誌によると、この日に空軍作戦担当参謀次長のフォン・ヴァルダウ少将から現況報告があって、全戦線合計の作戦機はこんな数になっています。


爆撃機650 急降下爆撃機290 夜間戦闘機150 長距離戦闘機90 戦闘機780


 おそくこの時点で、Ju88Cは長距離戦闘機に若干含まれ(ビスケー湾でUボートを狙うイギリス機に対抗)、夜間戦闘機と長距離戦闘機の多くはBf110であろうと思います。また、この表には偵察機が入っていませんが、戦術偵察機になったBf110もいました。


 1942年3月から1943年3月まで、北アフリカ戦線で「撃墜が報告された数」と「実際に喪失が記録された数」を参加全軍について、それぞれ母国語のわかる人が共同研究で調べつくしたすごい本があります。(地上攻撃、まれに輸送機護衛)戦闘機として、また偵察機として使われたBf110の落ち方には特徴があって、ほとんどが対空砲火で落とされていて戦闘機に落とされたものが少なく、1ヶ所で多く失われることもありません。ですから攻勢作戦で集中使用された短い期間以外、地上攻撃では敵陣地攻撃に使われるのではなく、少数で獲物を探し回る使われ方をしたと思われます。東部戦線では地上攻撃専門のBf110部隊が1941年には既にあり、飛行場攻撃に使われた「例」はありますが、そればかりやっていたわけではないでしょう。



 野戦郵便局は自前の郵便車(1.5トントラック)を持つことになっています。ただ後方へ侵入し放題の北アフリカや、パルチザンがいる東部戦線では補給部隊に護衛が必要であり、そうなるとトラックも護送船団のようにまとまって移動する必要がありました。本国向けの郵便は、補給を取りに行く他部門のトラックに預けることもあっただろうと思いますが想像です。


 協力的なソヴィエト軍捕虜に非戦闘任務をさせるヒーウィが制度化されるのはずっと後ですが、捕虜を部隊内にとどめ、農家から取り上げた員数外の馬車などを扱わせることは1941年から始まっており、荷物運びのほかに手紙を届けたり、用のある軍人を乗せて行ったりもしたようです。



 軍集団には輸送総監部から(主に鉄道輸送の調整をする)輸送指揮官が配属されていますが、軍司令部や師団司令部のような補給主任参謀はいないこともあったようです。第15装甲師団のフレイのように補給指揮官も必要なはずですが、グロストランスポートラウムの中心的存在である自動車輸送連隊が配属されており、その連隊長が事実上「軍集団トラック部隊長」として裁量や調整をやっていたのでしよう。1942年になると「自動車輸送連隊本部」と「自動車輸送大隊」がばらけて、自動車輸送大隊が要るだけ配置される(実情としては、足りないと配備できない)ようになり、「自動車輸送連隊本部」の一部は「軍集団補給指揮官部隊」という名前になって、連隊長が軍集団の補給状況を差配してきた実態が肩書と一致するようになりました。



 今回は兵站特集でしたので、本編では使いようのない兵站の話をひとつしたいと思います。今回も出てきたテスケは、おおよそ1942年新年から年末まで、フィンランド輸送全権士官として本国とフィンランドの物資や兵員の流れを管理する仕事につきました。陸軍と空軍と本国が無理を言いフィンランドの離反も気になり、重い貨物列車を引ける220両の優良機関車を個別に管理して1両の余裕もないことを確認し続けるような仕事で、テスケ中佐は転任願を出しました。輸送総監部の人事担当者がよこした返事には「我々参謀士官は全員、君と同様に前線に戻りたいと思っている」と書かれていました。そして1943年新春、大佐昇進とともにテスケにはさらに無理な職務が待っていたのでした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ