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第31話 戦わずして決するもの


 スモレンスクは北緯54.5度であり、サハリン(樺太)島の北端とほぼ同じである。夏の高緯度地方ではなかなか日が落ちない。スモレンスク後方に東から回り込もうとするグデーリアン集団は、遅い夕暮れを迎えようとしていた。


 Sd.Kfz.222装甲車の車長をつとめるベンケ軍曹は、後続車に腕を振って「路肩に寄せろ」と命じた。道の両側には不規則に林や茂みがあったが、右側に少しまとまった平地があって、進行方向にいるかもしれない敵から装甲車の姿を隠すにはいい場所だった。2両の装甲車は茂みに近づいて、手前で止まった。ぴったり寄せると、ソヴィエト兵がこっそり忍び寄るのに便利すぎる。


「今夜はここで偵察を続ける。車両を対空偽装しろ。クランツは俺と来い」


 短機関銃に弾倉を差し、Sd.Kfz.223通信装甲車の車長であるクランツ伍長を伴って、ベンケは徒歩で先へ進んだ。毎日聞いていた砲声がここでは途切れているのがありがたかった。


 ドイツ装甲捜索大隊の構成要素は、3つに分けて考えるとよい。ひとつは軽騎兵の伝統を受け継ぐ連中である。オートバイ中隊(サイドカー中隊と言ったほうが実態に近い)がまずこれにあたり、Sd.Kfz.250装甲兵員輸送車に乗った兵たちが加わった。サイドカーでは不整地を走りにくいし、負傷兵の扱い、移動中の奇襲への対処などに問題が多いから、大戦中盤からキューベルワーゲンやケッテンクラートといった乗り物に置き換えられていった。


 これらの共通点は、足は(歩兵より)速いが長距離通信機がないことである。本隊から数十km先行した場所で何かあったら、自分で戻ることでしか連絡ができず、弱い敵を見つければ襲撃もした。偵察隊の基本的な仕事のひとつは、敵の同種の部隊と戦い、偵察を失敗させることである。とはいえフリードリヒ大王や騎兵指揮官ザイドリッツの時代ではない。中隊本部までは無線や野戦電話が来ているから、現場の独断で威力偵察を仕掛けることは少なくなった。


 もうひとつは、対戦車砲や迫撃砲などの火力支援部隊である。その支援があれば、装甲捜索大隊は小部隊や偵察部隊を火力で圧倒し、敵指揮官が事情を把握する前に有利をつかめたし、退却時には遅滞戦闘もできた。敵が砲兵や支援部隊を呼ぶ前に、現場で裁量できる火力を集めて「急ぎ仕事」をするのである。Sd.Kfz.233重装甲車(75mm砲付き)は当時はまだ配備されていなかったが、歩兵の人数の割には大きな火力が与えられるのが普通だった。


 最後の構成要素は、装甲車部隊である。長距離通信機を持ったSd.Kfz.223やSd.Kfz.232が1両と、20mm砲を持った護衛役の装甲車1~2両がチームになって、敵がいるかもしれないコースを哨戒したり、定点の見張りについたりした。ベンケやクランツはその一員であった。軽装甲車の1個小隊にはSd.Kfz.222が4両、Sd.Kfz.223が2両いたから、2チームで偵察できることになる。


 100mほど進むと、視界が開けた。太い道が通っている。ここは進撃中の師団にとって側面だからそっと観察し、敵の動きが現れたら脅威として報告しろと命じられていた。


「当面の我が脅威は、蚊ですかね。軽機関銃を前進させますか」


 首の横を叩きながらクランツが言った。車載機銃を外してここに持ってこさせるか? ということである。


「要らんだろう。車両に戻って誰かと交代してくれ。ああ、2人だ。スコップを持たせろ」


「ヤーヴォール」


 クランツが去り、ひとりになったベンケは双眼鏡を取り出しながら、首の横を叩いた。蚊がいた。



--------


 6月末からミンスクで戦ったソヴィエト軍は、国境から退却してきた部隊だった。7月中旬からスモレンスクを守った部隊には大戦中に急いで編成された新米師団が多く混じっていた。だから定数に対して不足はいろいろあるとはいえ、国境から重火器を捨てて逃げてきた部隊ではなかったから、火力と火力の争いになった。


 以前述べたように、フランス戦では「南の戦車部隊が壁を作り、北東からポックのB軍集団が英仏軍をダンケルクに押す」展開になった。だからグデーリアンたちは有力な歩兵部隊と撃ち合いをやらずに済んだ。バルバロッサ作戦が始まると、装甲部隊はあちこちの重要地点、典型的には渡河地点を確保しようと前進した。やはり、有力なソヴィエト軍部隊と撃ち合い、包囲し、すりつぶすのは歩兵と砲兵の役目だった。


 ところがスモレンスクまで来ると、ホトやグデーリアンの装甲集団が包囲戦に加わらざるを得なくなった。包囲戦は二重包囲と言って、外の敵を追い払う部隊と、内側の敵を圧迫する部隊に分業しなければならない。優勢な攻撃側も弾薬と出血を必要とする戦いである。広い国土で歩兵が足りなくなったともいえるし、ここまでのスピードについて来られたのが少数であったともいえる。「国境で相当な規模のソヴィエト軍を壊滅させる」ことは確かにもう達成していた。だがそれはソヴィエト軍の一部でしかなかったことが、だんだんドイツ軍にも実感できてきた。そして装甲部隊も相応の流血と消耗を強いられ始めたのである。


--------


 ここで7月からの東部戦線をおさらいしておこう。


 すでに述べたように、7月19日の総統命令33号には、「戦いの焦点はレニングラードとウクライナに移った。ホト集団は北方軍集団、グデーリアン集団は南方軍集団に協力しそれぞれ包囲作戦を実行せよ」といったことが書かれていた。


 この命令をホトやグデーリアンは知らなかった。中央軍集団司令官のポックですら知らなかった。命令のあて先は三軍の総司令官だから、陸軍ではブラウヒッチュだった。その幕僚としてハルダーは当然それを知っていたが、そこから下の階層には、ブラウヒッチュの(その名を借りたハルダーの)命令が届くのだった。ポックのところには7月18日、中央軍集団北端と南端の軍団をそれぞれの軍集団に譲り渡したいというハルダーの意向が示され、ポックは反対意見を述べた。


 つまりこの命令は、7月中旬に入ってヒトラーとハルダーが何度も協議していたアイデアを反映していた。「国境のソヴィエト軍は食ったが決定的な打撃は与えられなかった。モスクワやレニングラードはまだ遠い。ならば手近な包囲殲滅の可能性は、軍集団同士の境界に取り残されたソヴィエト軍にあるのではないか」といった話である。


 ホトやグデーリアンは別のことを気にしていた。装甲部隊「本来」の役目として、もっと前進し、要地を取りたいと考えていた。特にホトの先鋒である第19装甲師団は北東に進み、モスクワ~リガ線の鉄道駅でもあるヴェリキエ・ルーキの街を取っていた。だがソヴィエトの全力反撃が予想されたし、ドイツの後続部隊はまだスモレンスクを囲み切っていなかった。当時ホト装甲集団は第7軍のクルーゲのもとにあったが、7月18日にポックの意を受けたクルーゲは第19装甲師団を呼び返すようホトに命じた。東へ押したいグデーリアンも似たようなもので、北回りのホトと呼応して南からモスクワ-スモレンスク街道を遮断する命令をいつまでたっても果たさないので、ホトもポックもイライラしていた。


 そしてどちらにしても、包囲環はまだ閉じていなかった。グルッパ・ゲネララ・ロコソフスキーとカタカナで書くと魔法少女の呪文のように聞こえるが、ジューコフの長年の友人であるロコソフスキーを指揮官とした2個師団基幹の反撃部隊「ロコソフスキー将軍集団」、そして同様に2~3個師団の作戦集団が合計5つ作られ、スモレンスクの外から包囲を食い破ろうとした。


 7月23日、少しだけ変更された総統命令33号aが出た。「協力ではなく、ふたつの装甲集団は中央軍集団から離れて北方・南方軍集団につけ」と書いてあったから、これはハルダーの胃に悪い命令だった。これもストレートに軍集団レベルに伝達されたわけではないが、24日の日記にポックはハルダーの「提案」への返答として「中央軍集団の解散を提案した」と書いた。ちょうどこのころ、スモレンスクの包囲はようやく成った。


 命令が実行されないのでヒトラーはポックに電話し、カイテルは自分で訪ねてきた。「スモレンスクを囲んだ中央軍集団に対し、ソヴィエトは全力を挙げて反撃している」ことをヒトラーは徐々に納得したのであろう。7月30日の総統命令第34号で、第33号と第33号aは取り消され、中央軍集団は現状の戦力のまま守勢を取ることとされた。8月に入っても、ソヴィエト軍の作戦集団群は包囲環を攻めつけたが、ソヴィエトの歩兵たちや砲兵たちを機敏に移動させるリソースも、指揮官が全体を即時に把握するリソースもなかった。


 だが血の取引ではソヴィエト軍が不利でも、弾薬の相互消耗はドイツを苦しめた。中央軍集団の弾薬消費は危険なほど増大し、鉄道輸送網はその限界を試された。まさにスモレンスクそのものがモスクワへ通じる道路や鉄道の結節点なのだから、迂回してもそれほど遠くには行けなかった。8月4日、中央軍集団司令部をヒトラーが訪れ、ポック、ホト、グデーリアンが出迎えた。「モスクワへ早く」と積極的な意見を吐いたのはポックだけだった。ホトとグデーリアンは装備補充を含む補給の不足を言い立てた。ヒトラーが「目標としてはレニングラードが第1、ハリコフ周辺のドンバス地方が第2、モスクワは第3」と述べたことは、以前すでに触れた。


 8月22日、これもすでに触れたように、ジューコフの予備方面軍は作戦集団の多くをスモレンスクの周囲から引き抜いて、もっと南のイェルニャに転戦した。STAVKAがスモレンスクをあきらめた瞬間ともいえる。しかしスモレンスクが掃討されつくすまでドイツの補給線は伸ばせなかったし、モスクワ方向への攻勢にはそれを使って補給を届けることが必要だった。1941年にモスクワを守り抜くことがソヴィエトの勝利を意味したとすれば、もちろんそれは開戦以来ソヴィエト軍が流した血の集積によるものだとしても、スモレンスク消耗戦の貢献は象徴的な意味を持つだろう。


--------


 Sd.Kfz.222装甲車の20mm機関砲は、対空機関砲を短くしたものだから、給弾もベルトではなく弾倉である。1発が500gくらいだから、10発入り弾倉はずっしり重かった。ベンケは残りの弾を数えて、かろうじて無言を保った。車内では射撃手が7.92mmMG34機関銃のドラム型弾倉に小銃弾を詰めていた。ベンケは射撃手に20mm弾倉の詰め替えを命じようかと思ったが、もう詰め替える弾がないから射撃手はMG34の世話を焼いているのだと気づいた。


 1時間前から断続的に榴弾ばかり撃っている。3発は残せと小隊長が戦闘前に指示していたが、その状態に近づいている。20mm砲弾がなくなったら、同軸機銃のMG34を斜め上に向けて撃てと指示されていた。放物線弾道で撃ったMG34は3000m届くと教範には書いてあったが、当たると書いてあったかどうかベンケには記憶がなかった。軽装甲車など敵歩兵に接近されたらおしまいである。映画のようにかっこよく歩兵に接近するには貴重すぎる車両である。オートバイ歩兵が急いで掘った塹壕の後ろから、できることをするしかなかった。


 ソヴィエトの英雄トハチェフスキーは処刑されたが、彼の編んだ教範は使われ続けていた。彼の頭脳の産物というより、労農赤軍のプロレタリアートの軍たる立場上、不利な状況でも攻撃を忘れないことが強調されていた。国力で勝る列強との戦いが予想されるソヴィエト軍は持久戦を避けるべきだ……と当時のトハチェフスキーは自分の意見を政治的要求に合わせた。だからソヴィエト軍は数的に劣勢でも、1000人を超える規模での攻撃を無造作に仕掛け、ドイツ軍はそれを威力偵察の類だと思っていた。今回は師団前縁に展開する装甲捜索大隊がそれを受け止め、ベンケの装甲車中隊も急報を受けて、その応援に加わっていた。本来ならこういう戦闘は一般歩兵に任せ、装甲偵察大隊は側面か背後を突くためにいったん敵との接触を断つべきだったが、多勢に無勢ではそうもいかなかった。


 すでにソヴィエト軍は、戦友の死体を踏まなければ前進できない状態だった。オートバイ兵たちの射撃が主に仕事をしてきたが、だんだん銃声がまばらになっているように感じられた。敵もいないが、弾ももうないのだ。


 装甲板を叩く音がして、ベンケは振り向いた。中隊先任軍曹の青白い顔が見えた。その従えた兵士が、小銃弾の300発入り紙箱をかざしたので、ベンケは身を乗り出して受け取った。ありがたい。中隊先任軍曹が言った。


「中隊本部より伝言だ。砲撃がある。30分耐えろ」


「ヤーヴォール」


 師団司令部は増援を送らず、砲兵連隊に接近する敵を撃たせる手配をしたらしかった。だがそれは敵も同じことである。火力支援に駆け付けた装甲車群は目立つ的だから、そろそろ迫撃砲か何かが降る頃合いだった。移動したほうがいい。


 弾薬を届け終えた中隊先任軍曹が小隊長車を指さしながら離れていった。小隊長車がエンジンをかけている。「ついてこい」というハンドサインが見えた。ベンケは操縦手にエンジンをかけるよう怒鳴った。


--------


 砲撃が終わると、ソヴィエト軍はもう押してこなくなった。退却したようだった。


 今はベンケの顔も中隊先任軍曹同様、緊張で青白くなっているに違いなかった。3両のSd.Kfz.222装甲車が、友軍の砲撃が作ったくぼみを避けながら進み、2個分隊のオートバイ兵がすぐ後ろを歩いていた。迅速にソヴィエト軍を追えば、重機関銃や対戦車砲(ソヴィエトの45mm対戦車砲は、歩兵支援にもよく使われた)といった遺棄兵器、さらに運が良ければ遺棄書類があるのではないか……というのがオートバイ中隊長の目論見だった。歩兵の後ろに、2両の無線装甲車とIf.8軍用リヤカーがついてきていた。


 ようやくソヴィエト兵を踏まずに進めるようになった。さっきの塹壕のすぐ前でも、別の兵士たちが陰気な片付け仕事を始めているはずだった。現実はファンタジー世界ではないから、死体はゾンビにならない。だが疫病の原因になるから埋葬する必要があった。


「止まれ!」


 装甲車小隊長が叫んだ直後、小隊長車のMG34が50発ほど前方の茂みに弾をまいた。全員が耳を澄まし、銃声の残響は無事に消えた。歩兵たちが先に立つようになり、下を見ながらそろそろと進んだ。いま一番恐ろしいものは、敵が退却前に埋めた地雷である。ときどき歩兵が銃剣で地面をほじくった。


「待て」


 今度は歩兵の指揮官が低い声で言った。茂みに突っ込んで傾いた乗用車があった。指示もないのに前進し、罠を探しにかかる兵士は、分隊の古参なのだろう。やがてその兵士が手招きした。自動車の陰からトレーラーごと横転した迫撃砲が見つかり、ありったけの砲弾とともに軍用リヤカーに収まった。手榴弾はブービートラップが怖いので放置された。戦闘前の事故であったのか、周囲に血痕はあったが人はいなかった。


「どうして迫撃砲を置いていったのだろうな」


「軍曹どの、使い方がわかる兵士が、車に乗っているだけしかいなかったのかもしれません」


 ベンケは、答えてくれた歩兵に笑顔で謝意を示した。やりとりを聞いていたらしい装甲車小隊長が大声で笑った。


「イワンにもツヴェックオフィツィア(専用士官=総合的な教育が足りない戦時士官で、特定の仕事しかできない者への蔑称)がいるわけだ。はっは!」


 この場にいる士官は装甲車小隊長だけだったから、みんな自虐ギャグが聞こえないふりをするしかなかった。


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 すでに触れたように、グデーリアンは9月には南方へ転戦し、キエフ包囲戦に参加した。ここでグデーリアンが無理を押してモスクワに向かえば、補給物資の流れがスモレンスクで詰まり、「遠すぎた街」へ行ったグデーリアンは史実より早く包囲される危機に立っただろう。


 逆に、南方軍集団には独力でキエフを落とせない事情があった。キエフの街を流れているのはドニエプル川だが、ここからはるか南東の河口まで、ドイツは鉄道橋をひとつも確保できなかったのである。だから中央軍集団を追って整備される鉄道を使って、キエフ北東方向の包囲部隊に物資を送るほかなかった。南方軍集団はドニエプル川の西側を、ドニプロペトロフスクへ向かった。ドニエプル川にかかる最初の鉄道橋は、ドニプロペトロフスクで11月5日に通れるようになったが、それはずっと先のことだった。


 7月30日と8月10日の総統指令は、ホトとグデーリアンの装甲集団を南北の軍集団に移す件を取り消したままだった。そういうわけでウマーニで勝ち、スモレンスクの確保にもめどがついた8月15日、OKWはOKHに対してヨードルが署名した文書を出し、グデーリアン集団をいったん南方軍集団に渡し、ホト装甲集団の半分(1個装甲軍団)を北方軍集団に割愛するよう総統命令が出たと通知した。命令は15日夕刻にポックまで下りてきて、ポックはハルダーに電凸した。ハルダーは、北方軍集団の側面が危険だと強調した。


 確かに北西方面軍(ソベニコフ少将、7月3日から)は8月12日から、ソヴィエト軍が後に「スタラヤ・ルッサ反攻」と呼んだ反撃作戦を展開していた。広い戦線を受け持ったわずかな歩兵部隊は悲鳴を上げ、北方軍集団でもマンシュタインの第56装甲軍団司令部とともに、ダスライヒ師団や第3自動車化歩兵師団が火消しに割かれた。


 そして、1942年に起きたのと同じことが1941年にも起きた。スターリンの頭には終始モスクワ防衛があった。だからソベニコフが失敗し、南西方面でドニエプル川の西側がごっそりドイツに取られるまで、スターリンは増援を出し惜しんだのである。そしてグデーリアンは長い道のりを中央軍集団に帰ってきた。モスクワから南向きの鉄道はドイツ鉄道工兵が近づくルートがなかったから、グデーリアンは自前の燃料でモスクワを目指し、帰ってくるしかなかった。そのことはいずれ語ることになる。


 すでに取り扱ったように、レニングラードでは9月8日にドイツ軍はラドガ湖に達して陸路の補給路はなくなり、危機が深まったが、ジューコフがリリーフで登板し、市民を動員してかろうじて戦線を保たせた。



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 総統命令35号は9月に出た。つまりヒトラーは、8月の間(実際にはホト集団を分割したように、重要な命令を短い文書で出していたが)まとまった長さの総統命令を出さなかった。「ソヴィエトにはもう勝った」という認識の下で、「もう少し野戦軍を削らないと降伏しないかもしれないが、補給状況がきついのであればもう数週間遅らせてよい」と譲ったのである。


 これに対しハルダーは、8月18日にモスクワ攻撃計画をヒトラーに上申した。「モスクワかレニングラードか」は問題の中心ではなかった。ハルダーもヨードルも、「国境近くでの野戦軍撃滅」ではソヴィエトは、いやスターリンの政府は屈しないという判断に傾いていたのである。降伏しないスターリンへの打撃を与えるには、政治的目標の奪取が効くだろうというのが軍人なりの考慮であった。ヒトラーは決して戦争を終わらせようとしないのだから、スターリンに和を乞わせないといけなかった。


 9月6日の総統命令35号は、「Heeresgruppe Timoschenko」、つまりソヴィエト西部方面軍(予備方面軍は、この命令が出たときは存在したが、西部方面軍に統合された)を壊滅させることが目標だとして、その大部分が壊滅した後でのみモスクワ方面への攻撃を開始するものとしていた。中央軍集団の進撃目標はヴャージマであり、北方・南方軍集団はその両翼を支援するように攻め上ることとされた。9月19日に出た短いOKW通達で、この攻撃作戦は「タイフン」と名付けられた。つまりヒトラーは9月初旬にもまだ、モスクワを取ること「自体」が勝利のカギだとは思っていなかった。


 10月になると、南方軍集団に属するドイツ第6軍は、ウクライナの北東端に近いハリコフ(ハルキウ)を目指した。増援がもらえない南西のソヴィエト軍は、かろうじて施設破壊や生産設備疎開のために時間を稼いだだけだった。すでにクリミア半島の戦線にも火がついていた。


 10月5日にブリャンスクへドイツ軍が突っ込んでソヴィエト軍の交通を切った。ヴャージマではドイツ軍の機動力がまだまだ上で、通信網が混乱したソヴィエト軍は撤退命令を間に合うように伝えられなかった。ブリャンスク付近では北上するグデーリアンが東から回り込んで、ソヴィエトが対応できないうちに大きな(ふたつの)包囲環を作り出した。10月7日にはヴャージマにもドイツ軍が入り、10月12日までにモスクワから100km~200km離れた位置で、3つの包囲環ができあがった。


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 いまや9月とは逆に、北方軍集団が第4装甲集団の一部を、モスクワの北を抜いていくために差し出していた。第3装甲集団はラインハルトが指揮してモスクワの北を目指していた。そしてもちろん、南を抜くのはグデーリアンの第2装甲集団(このころ第2装甲軍と改称)となるはずだった。


 12月になると、すでに触れたように第2航空艦隊は地中海に行った。このころのドイツ空軍には厳寒期に航空機を飛ばすノウハウが不十分だったし、ロンメルたちは増援されたイギリス空軍の航空優勢と、それを背景とした補給妨害のせいでクルセイダー作戦に大敗していた。地上支援で最も頼りにされたリヒトホーフェン元帥の第8航空軍団は中央軍集団の戦区に残ったが、何度もドイツ陸軍の不可能を可能に変えてきた空軍は、ハルダーの手の届かないところでその力を弱めていた。ハルダーの危機感をヒトラーは共有していなかったと言われても仕方がない。


 ヒトラーはラジオを聞くように戦況を受け止め、自分の幻想世界に置き直していた。そこには必ず解決があり、悪いニュースには犯人がいた。政治家ヒトラーはほとんど妥協や譲歩をしないで、ここまで成功してきたのである。その勝利のパターンを自ら崩すことは難しかったし、外からいさめてくれる枠組みは自分で取り払っていた。


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 スモレンスクに残った建物は多くはなかった。郊外に何とか使える託児施設の建物を見つけて、ボックの中央軍集団総司令部が引っ越してきたのは9月20日だった。さっそく地図を広げて、部下たちが書き込んでいく最新情報をながめながら、作戦主任参謀のトレスコウ中佐はむしゃむしゃと昼食を取っていた。まさにワーキングランチである。参謀長のグライフェンベルク少将とボック総司令官に決裁を仰いで、早く軍集団日日命令を出してやらないと、師団日日命令などが将棋倒しに遅くなってしまう。


 総司令部も移転当日には給与品が来ないから、士官たちにもビスケットと缶詰食品が供されていた。燃料を気にせず熱い代用コーヒーがついてくるのが総司令部らしい特典だった。


「また捕虜を自分で歩かせるのか」


 周囲の士官たちは、トレスコウの独り言を聞かないことにした。ユダヤ人の連行(その後に起きることは言うまでもない)、捕虜への虐待、そしてソヴィエト軍の政治委員は捕虜とせず処刑してよしとする「コミッサール指令」など、戦後に人道上の犯罪とされる措置にトレスコウは敏感に反応した。そしてひそかに同志を募り、1938年のミュンヘン危機のときヒトラー襲撃寸前までいったベルリンのグループに接触を図っていた。


「勝ってはいるが……」


 ボックやグデーリアンは「敵も苦しいかもしれない、崩壊するかもしれない」と考えてモスクワを取れる可能性を捨てていないが、補給線をモスクワ近くまで延ばして行く必要期間を考えると、トレスコウにはとても成功するように思えなかった。


 ドイツがもう勝てない状態でダラダラと戦闘を続けていくとき、自分たちはどうすべきか。トレスコウはそれを考えていた。


第31話へのヒストリカルノート




 装甲車の車長は(開戦直後のことはよくわかりませんが、戦中は)マイク付き無線レシーバを「着けない」ことを黙認されていました。ぜい弱な装甲車が被弾したらすぐ逃げないと助かりませんが、通信コードが巻き付いてすぐレシーバが外せないことがあるからです。ですから僚車への簡単な指示は手振りで行いました。



 MP40/42短機関銃は弾倉3つ入りの弾倉ケース2つとともに支給されます。だから弾倉つきの短機関銃を持っている士官や下士官がいたら、弾倉ポケットがひとつへこんでいないと正しい軍装ではないのだそうです。



 スモレンスクの包囲が何日に完成したか、判断するのは困難です。ずっと外からも中からも圧力がありましたし、8月になっても小集団や個人の脱出は続いたようです。ポックは7月27日に「ようやく包囲が成った」と日記に記しました。


 細かいことを言えば、スモレンスク市街そのものは比較的早い段階でドイツ軍が確保し、ソヴィエト軍は市の北西から北東にかけて、ゴーグルのような形の地域に押し込められていました。



 8月10日に出たOKWの戦況分析は、相変わらずモスクワ重視で書かれており、中央軍集団からの装甲戦力引き抜きに否定的でした。つまりおそらく、ヨードルは相対的にモスクワ重視論であったと想像できます。ヒトラーはこれにかまわず、8月12日に総統命令34号補足(Ergänzung)を出しました。これは南方軍集団のウマーニ包囲戦が終わったことを受けてのもので、南方軍集団への指示が一番長いのですが、中央軍集団についても南方軍集団との境界を確保するよう求め、モスクワ周辺の敵軍に対処するのは両側面(北方軍集団と南方軍集団)から揺さぶられた(unter Staffelung)あとだと述べています。



 ソベニコフはこのあとスモレンスクでも新米師団を率いた軍司令官を任され、かろうじて脱出しましたが、処刑されたパヴロフ同様に無断撤退だの(勝利の命令を果たせなかった)裏切りだのを犯罪とされ、恩赦されたものの大佐に降格されました。その後、1943年から最前線に出されて勇戦し、終戦時には中将でした。



 総統指令36号と37号は、フィンランドからソヴィエトを攻める銀狐作戦に関するものでした。38号はケッセルリング元帥と南方軍総司令部の位置づけに関するもの、39号は東部戦線が冬将軍で守勢に入ったことに関する指示です。じつは連番付きの総統命令には、「さあモスクワを獲れ」と明確に命じるものはないのです。



 トレスコウのシーンは、全体が架空です。

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