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第30話 眠れないチャーチル


 1922年に署名されたワシントン海軍軍縮条約は、主力艦の総トン数などを制限したことで有名であるが、太平洋に浮かぶ島や、香港など大陸の要港について要塞化(厳密にいうと、強化)を禁じる条項があった。この交渉を控えた時期にはすでに、シンガポールはこの制限に引っかからないぎりぎりの場所、そして日本に対する前線基地としてイギリス政府の念頭に置かれていた。それがはっきりわかるのは、南太平洋のイギリス連邦諸国を交えて1921年6月に会議を開催した記録が残っているからである。シンガポールを基地として連邦諸国を守ることは、イギリス本国の公約のようなものであった。


 イギリスには先見の明があったが、別の観点から言うと、それは早すぎた。主な脅威は海上から、しかも艦砲射撃と直接上陸の形でやってくるという想定の下で防衛計画が立てられた。航空優勢の下、ジャングルを越えてマレー半島を日本陸軍が南下するシナリオへの備えが足りなかったのである。イギリス軍全体が予算と人的規模を緊縮されている時期でもあったし、20年間の航空機の発展は予想しづらかった。もちろんイギリスは日米摩擦が高まる中で、日本が現在のベトナム南部に設けた航空基地を考えに入れて陸の脅威を再認識したが、もうどうすることもできなかった。


 とくに陸上兵力として、イギリスはオーストラリアやニュージーランドの精兵を中東やアフリカ、さらに最近はギリシアでも使い、とても母国の危機に返してやれる余裕がなかった。それがますます、イギリスの戦艦をシンガポールの守りに参加させるべきだという要求をかき立てることになっていた。シンガポールにある固定砲台の傘を借りれば、数的に劣勢な戦艦でも沈むことなく時間が稼げるはずであった。


--------



 ロンメルがエジプト国境まで一気に奪還したのは1941年3月から4月にかけてだったが、それはユーゴスラビアとギリシアで作戦するため、第10航空軍団の主力がマルタ島攻撃から手を引くまでのわずかな期間を最大限に利用したものだった。トブルクへの攻撃はパウルス参謀次長が督戦したが、5月上旬に放棄された。


 もともと船も足りなかったし、ベンガジ港への空襲を防ぐ戦力が足らず、ロンメルのドイツ軍とイタリア軍の補給能力は現在の部隊を維持することすら困難だった。ただし、トブルクへの補給線を死守するイギリス海軍も、緩慢ながら大量の出血をした。


 ギリシアとクレタでの大敗から、チャーチルは何としても陸上での勝利が欲しかったが、4月にはドイツ第15装甲師団が到着していたこともあり、中東総軍司令官のウェーヴェルは戦車が欲しかった。訓練未成の植民地軍も含めれば人はいたが、戦車がなかった。すでに触れたように、チャーチルはこの提案をもっともだと考え、参謀総長たちにその強い意向を伝えて、話をまとめさせた。


 その待望の戦車を乗せた5隻の輸送船は、厳重な護衛の下で地中海を突っ切り、うち4隻が戦車238両を乗せて5月12日にアレクサンドリア港に着いた。タイガー船団のコードネームで知られる。イギリス軍はこの戦車を配備する間を惜しみ、現有戦車部隊のすべてを参加させ、海軍の艦砲射撃や空軍の支援をつけて15日に「プレヴィティ」作戦を発起した。いったんハルファヤ峠はイギリスが取り戻したが、ドイツが押し返し、月末にはハルファヤ峠を再奪取した。イギリスの戦車喪失は5両、ドイツは3両で、限定的な戦力での押し合いに終わった。


 そして。


「何だこの報告は。どれだけ貴重なリソースを奴らは無駄にしたのだ」


 イスメイ少将は、報告書を振り回して激高するチャーチルにあいまいな苦笑を向けた。中途半端な解説は、火に油を注ぐに違いなかった。


 本格的なイギリスの反攻作戦「バトルアクス」は6月15日発起され、17日で打ち切られた。海岸部と内陸部で戦闘団が動き回り、重要地点の奪取を狙った攻撃が繰り返され、成功と失敗が交錯した。


「参謀本部に説明を求めますか、首相」


「要らん。負けたのだ」


 なぜ負けたかと言えば……チャーチルが精兵を引き抜いて無駄に失ったからだった。多くはギリシアに行き、一部はクレタ島に逃げたが、5月20日にドイツ軍は降下作戦で島を落とした。バトルアクス作戦では、最新装備と未熟な兵士たちの組み合わせが、このような結果をもたらしたに違いなかった。そのことをわかっていても、口にできないのがチャーチルの立場だった。


 イスメイはマクロ的な見識であればいつでも陸軍大臣の代理が務まったであろうが、戦術の技術的な側面ではチャーチル同様、何が起きているのかすぐには見抜けなかったし、チャーチルの代理人に徹するため自分の意見は控えていた。


 この一連の戦いを理解するカギは3つある。ひとつは、少し前にイギリス軍が仕掛けたプレヴィティ作戦である。限られた戦力だったのでイギリス軍は損害が積み上がる前に退いたが、いったんハルファヤ峠を奪取するなど、むしろ成功した点も多かった。だがロンメルは敵が攻めるところ、言い換えれば敵から見た自陣の弱点を知って、そこを強化することができた。特にバッハ少佐の守るハルファヤ峠には88mm対空砲が持ち込まれた。これがバトルアクス作戦の序盤、接近する12両のマチルダ戦車を受け止めて、11両を撃破したのである。


 もうひとつは、兵科間の柔軟なチームワークの差であった。イギリス軍の戦車は歩兵を近距離から支援する歩兵戦車と、近代的騎兵として敵戦車と渡り合い、非装甲目標には肉薄して戦う巡航戦車に分かれていて、どちらも遠距離にいる非装甲目標が撃てなかった。だがドイツのIV号戦車が短砲身75mm砲を斜め上に向けて榴弾を撃つと、イギリス軍の砲兵は近づけなかったから、戦車部隊と連携して待ち伏せるドイツ側の対戦車砲に対して、効果的に制圧できる兵器がなかった。


 兵器と部隊を組み合わせ、弱点を補いあって目的を遂げることをドイツは当然のこととして、日ごろからそうした訓練をしていたが、フランスほどではないにせよ、イギリスも第1次大戦末期の勝ちパターンにとらわれて柔軟性を欠いていた。砲兵と空の優勢を背景にして、歩兵も戦車も周りを見ないで自分への命令だけを遂行する……という戦い方を改革しようとする機運が、なまじ第1次大戦に勝ったために高まらなかったのである。それはベルギーやフランスでもある程度表面化していたのだが、装甲部隊と急降下爆撃機の成功があまりにも強い印象を残したので、イギリス陸軍に内在する問題点への取り組みは進まなかった。


 最後は、空中での力関係である。バルバロッサ作戦を控えてドイツの支援も薄くなったが、まだまだ本国に戦力が欲しいイギリス空軍も、はっきり優勢を取れるほどの人と機材をつぎ込めなかった。そしてロンメルは航空偵察によって全体の戦況を知り、イギリスの数的優位がもう怪しいと知ると、さっさと自分の全軍をまとめてハルファヤ峠の救援につぎ込んだ。分散していたイギリス軍はこれを阻止できなかったし、逆に包囲するイギリス軍が、補給に苦しむハルファヤ峠の守備隊を迅速に屈服させることもできなかった。情報とスピードで総合的にロンメルが勝ったのである。ドイツ軍・イタリア軍は内陸から大きく回り込んで包囲中のイギリス軍を逆包囲の危機におとしいれ、イギリスは退いた。そして戦場のあちこちに価値ある残骸を残して、ドイツにさらわせる結果になった。


「ウェーヴェルを替える。インド方面司令官のオーキンレックと入れ替えよう」


 チャーチルは言葉を切り、イスメイに発言の機会を与えた。ウェーヴェルが切迫したリソースで様々な任務を押し付けられていることは、陸軍の高位軍人たちがみんな感じていることで、同情もされていた。だが一方で、その過程でウェーヴェルの感情的な反対を本国の参謀本部が押し切ることが、1941年春のイラクとシリアで2度も起きていた。チャーチルはウェーヴェルのように、言葉を慎重に選ぶイギリス紳士が好きではないのだが、ふたりの仲が良い悪いで済まない「現地司令官と参謀本部の亀裂」がすでに目立ってきていた。


 チャーチルはサイコロを振ろうともしない司令官には我慢できず電報攻めにするのだが、振った目が悪いからと更迭することはほとんどなかった。だがウェーヴェルとの関係はどうしようもなく悪化しており、第三者的に見ても、現職に留めることもそれはそれで問題だった。だからイスメイは言葉を選んだ。


「彼をよく知る指揮官たちとも話をしましたが、彼はもう疲れているという判断がほとんどの口から出ました。参謀本部から伝えさせますか、首相」


「私が電報を打つが、まずディル(当時大将、陸軍参謀総長)に知らせろ。オーキンレックの件もだ」


「了解しました。今すぐに」


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 ソサボフスキ大佐は何か気の利いたことを言ってやろうと昨夜一晩考えたのだが、何か言ったら舌を噛むから何も言えないことにさっき気づいた。グライダーの扉をふさぐわけにはいかず、何か言う時間もない。


 スコットランドの風景はなじみがない異国のものだった。重力加速度を受けているうちに、それがぐんぐん近づいてきた。パラシュートを開いたが、あまり降下が遅くなったと感じない。聞かされていた通りだった。地上に激突する速度は、パラシュートがあってもかなりのものだ。


 もちろん見晴らしの良い平地が降下場所に選ばれているのだが、いつもの訓練時より人が多いように感じた。自分が見世物になっているのは認めたくなかったが、今は切迫した確認事項が多かった。終戦を病院で迎えないために、着地は大切だ。


 どうにか足を折らずに転がることができた。数秒立ち上がれないのは恥ずかしいことではない。生き延びるために焦っても短縮できない時間というものはある。そう教わったが、さっきのギャラリーがそれを見ているかと思うと腹が立った。


 立ち上がるのと、駆け寄った教員たちが肩を持ち上げるのとが同時だった。拍手が聞こえた。来賓に交じっていた、亡命政権のシコルスキ首相が握手を求めてきた。


「みんなよくやった。よくやった。すごいことだ。君たちが私たちをワルシャワに連れて行ってくれるのだ」


 ソサボフスキ旅団長は、最後の降下組だった。1個旅団丸ごとの降下演習は成功し、スコットランドの海岸防備を手伝っていた「ポーランド第4士官候補生旅団」は丸ごと、この1941年9月23日をもって本土奪還の尖兵「ポーランド第1空挺旅団」に変じた。こうしておかないと、ポーランド軍亡命部隊はどんな任務にすりつぶされるかわからなかった。だからソサボフスキは志願者を募らず、有無を言わさず全員が空挺兵になるよう命じたのだし、そうなると……1892年生まれのソサボフスキも降下して見せねばならなかった。


 戦いは始まったばかりだった。イギリス陸軍は全力を挙げて、この貴重な部隊を取り込んで自分の望む戦場に送り込もうとするに違いなかった。


 緊張が解けてはじける部下たちに囲まれながら、ソサボフスキは戦い抜く決意を新たにした。


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「ビスマルクの追撃戦で損傷したと聞きましたが、もうすっかり良いのですか、首相」


「それはもう。3番艦のデューク・オブ・ヨークは今月のうちに就役します、大統領。4番艦のアンソンは去年進水しましたが、その後の工事に時間がかかっております。」


 ルーズベルトと甲板を散歩しながら、チャーチルはにこやかに、プリンス・オブ・ウェールズの現状についての話題をそらした。1月に工事未成のまま就役し、5月にビスマルク追撃戦に加わった。だがこの1隻を欠いたらビスマルクを逃がしてしまったかもしれず、シャルンホルストとグナイゼナウをフランスから無理に出撃させなかったドイツに気合勝ちしたようなものであった。その代償として、乗組員が艦に慣れるべきタイミングで、また6週間をドックで過ごすことになってしまっていた。


 修理明けの初仕事が、この訪問だった。合意文書に報道機関が付けた「大西洋憲章」の名前で知られる、1941年8月のチャーチルとルーズベルトの会談(暗号名リビエラ)は、カナダ沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズにルーズベルトの巡洋艦を迎えて行われた。


 ニューファンドランド島はラブラドル半島の一部とともに、当時はカナダとは別のイギリス植民地だった。1940年に50隻の旧式駆逐艦と交換でアメリカ軍に提供されたニューファンドランド島のアルジェンシャ海軍基地は、住民を立ち退かせて新たに造成したものだったが、この完成直後の施設が両首脳の軍艦を支援し、基地の滑走路も使ってスタッフたちが陸海空を往来して、1か月にわたる会談が行われたのである。


「この艦にもますます仕事が増えることになるでしょう」


「義務を果たす用意はできております、大統領」


 ルーズベルトはチャーチルに向けた視線を強めた。「そういう言い方をして良いのか」と言わんばかりだった。チャーチルは職業的微笑を大盛りに増量した。


 ルーズベルトは、軍縮条約失効後の建艦計画がだいぶ進んできたので日米交渉で強気に出ること、その結果日米開戦に至る可能性もあることをすでにチャーチルに告げていた。それはイギリスとしてはレンドリースの援助を越えて、アメリカ軍そのものが味方に付くことを意味していたから、チャーチルとしては尻尾でもなんでも振って見せる慶事だった。


 すでに6月には、イギリスは英領植民地にある日本領事館と日本の間で、有線電信(電信柱と言う呼称が残るように、海底ケーブルなどを使った電報は電話と並行してまだ盛んに使われていた)が顕著に増加していることに気づいていたし、日本海軍が予備士官である船員たちを呼集し始めたことも、その後だんだん漏れてきた。だから戦争に至りかねない日米対立の激化は、イギリスも感じていたところだった。


「東南アジアのイギリス艦隊は増援されるのですか、首相」


「海軍が検討しております。決定的な時期には間に合うようにいたします」


 戦艦を先頭とした有力な艦隊を送らねばならない。それはニュージーランドやオーストラリア、そしていまだ連邦内の国家となっていないイギリスのアジア植民地群に対して、たとえそれがポーズであっても、もう避けられない政治的行動になっていた。アメリカもまた、フィリピンにせっかく植えた影響力を賭け、たぶんそれは一時的に失われるのだから。


 もちろんイギリス海軍は、送るのであれば優勢な艦隊を一気に送りたかった。だがその準備が整うのを待っていては、日米間の緊張が高まるペースに追いつけなかった。ビスマルク級2番艦のティルビッツはいつ戦場に出てきてもおかしくなかった。その備えのために、アジアに最新鋭戦艦は割きたくなかった。


 ルーズベルトを居室に見送ったチャーチルは、厳しい表情に戻った。不愉快な選択肢しかないとしても、選ばねばならないときだった。


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 首脳だけではなく、多くのスタッフも様々な立場で交渉をしていた。アルジェンシャ海軍基地では、船に弱いハリー・ホプキンスが陸の医務室で休んでいるところへ、フリーマン英空軍参謀次長が談じ込みに来ていた。さすがに参謀次長では官職対応というものがあり、ルーズベルトとの直接交渉はできなかったから、フリーマンは最も有力な交渉相手としてホプキンスを狙うようになった。


 ホプキンスは大統領特使としてしばしば派遣されるが、職務権限は何もない。だがルーズベルトは重要なことを決める前に、ホプキンスの意見を聞く。ホプキンスもまた関係者の間を飛び回り、妥協案を提示する。大戦を通じ、「調整者」としてハリー・ホプキンスは巨大な存在だった。


「私がハップ(米軍のアーノルド陸軍航空隊司令官)から受け取った重爆撃機生産計画は、ワシントンのイギリス代表団が受け取っていた数字より控えめであったようです」


 フリーマンはいつもの率直で実務的な調子で、体調が良くなさそうなホプキンスに迫った。イギリスに譲る重爆撃機の余裕が本当はあるんじゃないのか……というのである。


「それは残念なことです。ですが私が聞いている、ウィル(フリーマン)の要求も、本気とは思えない巨大なものです。相当なマージンを取っているのですね」


 ホプキンスは柔らかくはあるが決して鈍くない。フリーマンも苦笑するしかなかった。


「それにしても助かりましたよ。イギリスからの要求がやっと1種類になりましたからね」


 フリーマンは思わず笑顔にならないよう気を付けながら、無言でうなずいた。そう。ビーヴァーブルックは1941年5月1日、ついに辞職した。「イギリスが生産・調達した航空機数」を自分のスコアとみなすビーヴァーブルックは、バトル・オブ・ブリテンで負けがなくなってからも、機数が稼げない重爆撃機を徹底的に冷遇し、アメリカから購入する航空機についても重爆撃機を避けるばかりでなく、空軍参謀本部が要求してもいない急降下爆撃機を何百機も含めようとした。だからアメリカから見ると、ずっとイギリスは航空機生産省と空軍参謀本部が全く違う要求を出してくるので、困っていたのである。


 ビーヴァーブルックが煙を立てたところには、まったく火がないわけではない……ところが空軍にとって厄介だった。急降下爆撃機を欲しがっていたのは、イギリス陸軍だった。フランスでドイツにシュツーカ(Ju87急降下爆撃機)があって地上支援に活躍し、イギリス空軍にその種の機体がなかったことがイギリス陸軍は不満だった。そして戦時内閣は、大筋で陸軍の言い分を認めていた。だからビーヴァーブルックは、陸軍の指揮に服する地上支援航空部隊を空軍からもぎ取ろうとする陸軍の意見を刺激しながら、それを既成事実のようにして急降下爆撃機の調達を進めようとしたわけで、空軍参謀本部も航空省も何としてでも抵抗するしかなかったのである。


 重爆撃機を持たないということは、内陸の価値ある目標を爆撃できないということで、イギリス戦時内閣としても困ったことには違いなかったが、それでもチャーチルは大恩あるビーヴァーブルックを切ろうとしなかった。だからフリーマンはついに、ポータル参謀総長を擁立するとき縁のできた空軍元帥、トレンチャード子爵を頼った。以前にも触れたように、トレンチャードは空軍による攻撃作戦強化を何より大切だと思っていたから、重爆撃機部隊の拡張スピードが上がることを望んでいた。


 1941年4月、トレンチャードは貴族院にビーヴァーブルックを招いて、最新の航空機生産事情について秘密会で集中審議を行った。そのときトレンチャード自身が発した質問のいくつかは、事情を知る者でなければ発することのできない鋭いもので、それに答えてしまうと、ビーヴァーブルックが生産機数を稼ぐために今までどんな歪んだ指示を出してきたか、白状することになるものだった。当日は即答を避けることができても、文書により回答しないわけにもいかず、ついにビーヴァーブルックは航空機生産大臣を降りたのである。チャーチルは2か月後、ビーヴァーブルックを軍需大臣(陸軍武器弾薬生産大臣と思えばよい)としてふたたび閣僚にしたが、空軍への圧力は大きく減った。


 だが、すっかり戦争をする気になっているアメリカ軍は、まさに自分たちのために重爆撃機を必要とする段階に来ていたから、フリーマンは頂上交渉の機会を求めることになったのである。


「私は思うのですが、ウィル」


 ホプキンスは温容を崩さなかった。


「我々はこれから共同の敵に立ち向かっていくことになるでしょう。もし可能であれば、我々自身の部隊がB-17やB-24をもって、皆さんの空軍と肩を並べて戦います。それがかなわないような戦域があるなら、そのような戦線には我々の部隊の代わりに、我々の機材を優先的に出すこととしましょう。そういった合意を順々に取り付けていこうと思うのですが、どうお考えですか」


「大変ありがたいお申し出です」


 フリーマンは折れておくしかなかった。そして、決してこれは悪い話ではなかった。アメリカ陸軍航空隊はまだ50機ほどしか高価なB-17爆撃機を持っていない。アーノルドとの交渉で、アメリカ重爆撃機隊をイギリス本土に展開することは当面望み薄だとフリーマンは知っていた。ならば、この合意ができればイギリスは大いに得をしそうだった。


「いずれにしても、重爆撃機の生産ラインを増やすにはとても時間がかかります。イギリスの爆撃機をアメリカで生産するというご提案もありましたが、それはその問題をさらに深刻にします」


「我々も重爆撃機の生産体制を再建しているところです」


「再建ですか」


「はい」


 ホプキンスが人懐っこい微笑を見せた。今度はフリーマンも釣り込まれた。ビーヴァーブルックの負の遺産のことも、ホプキンスはすべて知っていた。フリーマンとホプキンスの信頼関係は、この時期のイギリス航空機調達を円滑にする重要な要素だった。まあフリーマンにとっては残念ながら、未経験パイロットとぴかぴかのアメリカ機が一緒にやってくるケースは多くて、これ以後にイギリス空軍が最新鋭機体をもらえるチャンスはあまりなかったのだが。


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 イラクからイギリス軍を追い出そうとする民族派士官たちは、枢軸軍がリビアで勝ったり負けたりするたびに、イラク国内での立場を満ち欠けさせた。ロンメルが3月から4月にかけて快進撃したことにより、イラクには反英派の首相が誕生し、イギリスはイラクの反英勢力を一掃することを緊急の課題とした。バルカン方面の戦況を気にしながら、5月2日から5月30日までかかって、イギリス軍は首都バグダッドを制圧した。すでに取り扱ったように、エチオピアにいたイタリア軍のアオスタ大公は5月18日に降伏していたし、5月20日から始まったクレタ島の戦いは6月1日には終わった。まだ中東総軍司令官だったウェーヴェルのもとでイラク、シリアでイギリス軍が戦い、いずれも勝ったもののウェーヴェルと本国の関係が悪化したことは、すでに触れたとおりである。6月11日払暁には紅海沿岸最後のイタリア軍がアッサブで壊滅し、アメリカ商船が参戦を待たず、戦闘地域でなくなった紅海を通ってエジプトを目指せる条件を整えたが、実際には1941年8月にルーズベルトとチャーチルが会ってからのことになった。


 1941年夏は、ヴィシー・フランスが最もドイツに接近した時期だった。自由フランス軍に参加するよう連合国側からシリアへの呼びかけもあったが、様々な口実でシリアを訪れるドイツ人たちもイギリス政府をいら立たせていたし、イラクの親ドイツ勢力を助けるドイツの爆撃機がシリアのアレッポ飛行場を利用する事件もあった。だからバトルアクス作戦を全力遂行すべきこの時に、自由フランス軍を含む相当な兵力がかき集められ、フランス領シリア=レバノンに投じられたのだった。


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 仕事にならない真日中から少し日が陰ってきて、第15装甲師団補給指揮官のフレイ少佐は、執務室であるテントの中でごそごそと書類を並べ始めた。バトルアクス作戦が失敗してから、フレイは国境の街サルームの近くに事務所を構えていた。


 未済書類箱の中身は到着順になっているから、上から順に重要とは限らない。最初の1枚を取り上げると、それは今週の献立予定表だった。


「果物があって野菜がないとはなあ」


「まあ、高いだけですがね」


 補給中隊長は調子を合わせた。リビア内陸部の部族社会はイタリアの植民地政府となんとか折り合いをつけてきていたし、イタリア・リラを使う限りドイツ軍との取引にも応じてくれていた。だが彼らにとって高価なものは、ドイツ軍にも安く売ってくれなかった。


 フレイは野戦病院や野戦郵便隊なども指揮下に置いていたが、日常的な細部を指図する相手は「中隊」と「段列」だった。前者はだいたい「補給中隊」に属する兵たちで、師団の物資交付所で荷役をやったり書類をそろえたり車両を修理したり、移動しなくていいあらゆる仕事をした。後者はほぼトラック運転手ばかりだった。段列は3トントラック10~20両ごと(小型トラックならもっと多い)のチームに分かれていたが、そのいくつかはトリポリに本部を置いてエジプト国境まで往復しており、彼ら自身は数日に1度しか温かい食事が食べられないのだった。


「だがこのところ、イタリア軍は機嫌がいい。トマトが待ち遠しいな」


「缶詰でしょうけどね」


 ドイツ軍が地中海で勝利を重ねたことで、補給でも優遇してくれるようになり、イタリアがあっせんしたスペイン産の野菜が届く手はずになった。4月に師団が上陸してから、製パン中隊が活動を始めたのは5月にずれ込んだが、ようやく兵士の食生活に不可欠なものがそろい始めていた。


「お茶が入りました、少佐どの」


 入口から、テントにコーヒーの高い香りが流れてきた。従兵がコーヒーと軽食を持ってきたのだ。目立たないように三食を少しずつ削ってスイーツの材料を確保するのは、炊事兵の甲斐性のようなものだった。もうコーヒーは、本国では手に入れにくくなっていた。



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 チャーチルは日本がマレー、ボルネオ、インドネシアと言った東南アジアを一気に陸上兵力込みで制圧にかかることを想定していなかった。しばらくシンガポールは持ちこたえ、陸軍の主力を中国大陸に拘束されたままの日本海軍は、小艦隊で通商破壊に出てくるものと考えていた。そうだとすると、旧式戦艦を何隻もアジアに拘束するより、ティルビッツ以外になら勝てる艦として大西洋や地中海の護送船団に張り付け、代わりに少数で最精強の艦隊を送るべきではないか。チャーチルはそう考えた。


 まだ公海を走る戦艦が航空機に沈められた例はなかった。だがビスマルクは雷撃機によって速度を落とされ、撃沈につながった。護衛空母はまだ少数であてにならないとしても、いまや英米を結ぶ北大西洋航路には基地航空隊(といくらかの軽空母)の傘がみっしりと広がっており、最新鋭戦艦が到着するまでティルビッツの足を止める程度なら、現有勢力でもできるはずだった。ならば1隻くらいキングジョージV世級をアジアにやってもいいではないか。これが海軍に対するチャーチルの理屈だった。


「海軍としては、内閣の提案に反対です」


「ティルビッツが出撃した場合に生じる輸送船団への損害については、私と戦時内閣が責任を持つ。海軍の責任とはしない」


 10月20日の会議で、チャーチルはついにこう言い切った。1個船団くらいティルビッツの位置を突き止めて沈める囮としてドイツにくれてやる……とまでは政治家チャーチルは口にしなかったが、そういうことであった。だからキングジョージV世級を1隻、海軍はアジアによこせというのであった。アジアやオセアニアの植民地政府が本国政府に突き付けた要求をチャーチルなりに受け止めると、最も安上がりな答えが……それなのだった。イタリア艦隊からマルタ島への護送船団を守るためには今後も一定の護衛部隊が必要であり、「旧式戦艦をごっそりインド洋に送るかわり、キングジョージV世級は1隻たりとも渡さない」という海軍の反対提案は「駒切れ」を起こしかねないというのがチャーチルの懸念だった。


「タイにおいて、あるいはソヴィエトにおいて日本軍に行動の自由を与えないためには、我が海軍が断固たる姿勢を示す必要があります。外務省としては首相の提案に賛成です」


 イーデン外務大臣はチャーチルを支持した。まさにイーデンが、植民地政府やそこに駐在する公使たちから「戦艦の派遣」をせっつかれる窓口となっていた。イーデンも、あえて言えば海軍そのものも、日本軍が本土の陸軍部隊をすっからかんに吐き出し、陸海軍の歩調を合わせて一気に南進してくる可能性を軽く見ていた。


 第一海軍卿(海軍の参謀総長に当たる)パウンド元帥は、重い口を開いた。


「巡洋戦艦レパルスはすでに東洋艦隊再構築のため、8月からケープタウン周り船団の護衛に参加して、現在ケープタウンに待機しております。プリンス・オブ・ウェールズを、一昨日に就役した航空母艦インドミタブルとともにケープタウンに派遣し、現地で3隻の任務部隊を組むということで、いかがでしょう」


 アジアまで送り込むことは、ここでは決めない。だがアジア方向へ送る体にする。これがこの日に海軍が譲った妥協だった。チャーチルはイーデンの方を向いて、うなずき合った。


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 オーキンレック(第1話に登場)は若いうちから秀才であり、自信満々で楽観的な言動の多い人物だった。困難に立ち向かうイギリス軍の指揮官として、それは良い面もあった。イギリス陸軍は自分の問題点を見つけ、学ぶことも必要であったが、その面では問題の多くが後任者に先送りされた。当面の問題として、オーキンレックはずっとインド軍にいたので、まったく類例のない傑物であるチャーチルをどう扱っていいかわからなかった。8月末の一時帰国で、イスメイは旧友のオーキンレックにチャーチルとの付き合い方をレクチャーしたが、チャーチルの方はあまりオーキンレックとの距離を詰められなかった。オーキンレックの持つ内向的な傾向は、常に率直さを求めるチャーチルと付き合っていくには不利に働いた。


 攻勢準備が進んだ9月、オーキンレックのもとにイギリス第8軍が組織され、北アフリカでドイツ軍と戦う部隊は第8軍の下で第13軍団と第30軍団に分かれた。


 ロンメルも大将に進み、アフリカ戦車集団が創設されて初代司令官となった。もともとロンメルとアフリカ軍団は一種の出向扱いで、イタリア軍総司令部の指揮を受けるのであり、11月になるまでロンメルがその命令に異議を唱えようと思ったら、ヒトラーからムッソリーニに交渉してもらうしかなかった。だから逆に、ロンメルが一部のイタリア軍を指揮下においても、何の問題もないのであった。そしてロンメルは、本当はできないはずの命令への抵抗を盛んにやって、多くのイタリア軍将帥を怒らせ、悩ませた。


 地勢上、困った問題があった。トブルクはイギリス海軍の補給で持ちこたえていたが、イタリア海軍に同じことはやり抜けない。ベンガジ周辺で後ろに回り込まれず、長いこと持ちこたえられそうな場所がないのである。イタリア軍の高官たちはトブルク包囲に費やされる兵力と弾薬を気にして、もっと西に防衛線を敷いてはどうかとロンメルに言うのだが、適当な場所がなく、ハルファヤ峠からの撤退すらしないロンメルを言い負かせなかった。ベンガジからエジプト国境まで、500km足らずであった。


 状況は日増しに悪化していた。リビア向けの輸送船団が航空機と潜水艦の攻撃を受け、損害が耐えられないほど多かったのである。ヒトラーは厳冬期に入る機会に、ケッセルリング元帥の第2航空艦隊を丸ごと東部戦線から引き抜き、攻撃基地となっていたマルタ島への圧迫を担当させた。同時にケッセルリングには、OKW直属の「南方軍総司令官」という辞令を出した。つまりOKL(戦時の空軍参謀本部)に対しては第2航空艦隊司令官、OKWに対しては南方軍総司令官として、両方に報告書を出すのである。このときには陸軍系の幕僚は補されず、南方軍総司令部というのは第2航空艦隊司令部にかかった2枚目の看板だった。


 じつはこのとき、ヒトラーは独伊の指揮権を統一することを考えていた。つまりケッセルリングにイタリア陸空軍をロンメルごとまとめて指揮させるのである。だがおよそ政治家として妥協を求めた経験の少ないヒトラーは、ムッソリーニのあいまいな同意を引き出しただけで、その交渉をケッセルリング自身にやらせた。当然、イタリア軍首脳は怒った。よく言えば紳士的、悪く言えば強面(こわもて)の交渉が苦手なケッセルリングは、「ケッセルリングの同意なしに重要な決定をしない」ことをイタリア軍首脳に約束させると、それで良しとしてしまった。それと同時に、ロンメルがケッセルリングの下にいるのかいないのか、あいまいなところが出てきてしまったのだが、その問題が火を噴くのは数か月先のことだった。


 ともあれ、ケッセルリングはマルタ島を抑え込みにかかったが、カイロのイギリス空軍は満を持していた。航空機生産省からリーダーが送り込まれて、航空機の回収・修理・整備にあたる組織がテコ入れされ、機数増大以上の戦力増加があった。イギリス軍は11月18日、クルセイダー作戦を発起した。


 バトルアクス作戦は2個師団を中核として戦われたが、今回は4個師団だったし、再戦となる2個師団にもそれぞれ増援がついた。まず第7機甲師団は2個機甲旅団で戦っていたところ、本国から10月にエジプトに着いたばかりの第22機甲旅団が加わった。第4インド歩兵師団には、これも本国から着いた第1戦車旅団が戦術的指揮下に入った。戦前のカイロ歩兵旅団を源流とする第22近衛旅団は、バトルアクス作戦では第4インド師団の戦術的指揮下にあったが、今回も引き続き参加することになった。


 新しく参加する第2ニュージーランド師団は、師団長フレイバーク少将の下でギリシア、クレタと転戦し、相当な損害を受けながらも精兵として評価されてきた。第1南アフリカ師団は……少し問題があった。エチオピアを南のケニアから攻める戦いに参加し、実戦経験は相当期間積んできていたが、ドイツ軍と戦い続けてきたエジプトのイギリス軍将官たちには練度不足と映った。実戦経験のない第2南アフリカ師団がエジプトに来て、補充物資と人員を食い合っているのもマイナス材料だった。南アフリカ共和国陸軍総司令官がエジプトに乗り込んできて協議に参加し、南アフリカ部隊に重要な任務を振ることは政治問題の色彩も帯びた。第2南アフリカ師団は予備とされ、これを数えれば侵攻作戦は5個師団(とトブルク守備隊)で戦われた。


 ハルファヤ峠、サルームの街など国境の海岸近くを押さえ、楕円形に広がるドイツ陣地群に対し、第4インド師団が正面から拘束し、他の部隊はそれぞれの機動力の限りで内陸部の国境を越えた。


 バトルアクス作戦当時と違って、航空優勢はイギリス軍にあり、ロンメルには戦線全体の様子がつかめなかった。だがロンメルも部下たちも、局所優勢をつかむことがうまく、あちこちの遭遇戦でイギリスは大きな損害を被った。前回も今回も、イギリス軍の第1目標はトブルクの包囲を破ることなのだが、ハルファヤ峠をそのままにしたので迅速にトブルクへ集結できないのだった。


 トブルクを囲むイタリア軍に襲い掛かるための、イギリス軍集合地点ともいえる場所が、トブルク手前の交差点に当たるシディ・レゼクだった。自動車化されていない第1南アフリカ師団や第2ニュージーランド師団がここに集結してきたことを知ったロンメルは、ありったけの戦車部隊をここにつぎ込んだ。11月23日のことである。


挿絵(By みてみん)


 戦場を支配したのはドイツでもイギリスでもなく、砂塵だった。夜になるとイギリス歩兵は退却を始め、報告がそろってきた。脅威は去ったと確信したロンメルは、無造作に運命のサイコロを振った。今度は全装甲部隊をエジプト国境に向け、ハルファヤ峠やサルームを脅かしているイギリス軍を覆滅しようとしたのである。さすがのロンメルも、戦場の霧の中で用心を薄れさせ、自分が見たい現実を見てしまったのかもしれない。


 イギリス第8軍司令官カニンガム中将は、イタリア軍をエチオピアで攻め立てている間は優秀な将軍だったが、このようなカオスな戦況を経験したことがなかった。そして、エジプトへの全面撤退を具申してオーキンレックに解任された。


 だが、まだ届いていないニュースには良いものもあった。第7機甲師団は実際にはまだ戦力を残していたし、内陸部や東側に押し出されたイギリス軍は迅速に立ち直ったのである。


 ロンメルの戦車はエジプト国境まで有力な抵抗を受けなかった。だが戦力不足で、周囲の偵察が雑になった。おそらくこのため、そしてドイツ空軍の手元不如意も加わって、周囲にいくつかあったイギリス軍の補給物資集積所を見逃した。


 26日、アフリカ戦車軍作戦主任参謀としてロンメルの留守番をしていたヴェストファル中佐は勇を振るって、第21装甲師団をトブルク周辺へ呼び返す命令を出した。だが電波状況が悪く、届かなかった。連絡機は撃墜された。27日早朝6時前後に、絶望的になったヴェストファルは、ロンメルに(第15装甲師団の)第8戦車連隊を戻すよう願う電文を発するとともに、第21装甲師団と第15装甲師団あてに戦車軍司令部として、一部でもいいからトブルクへ戻るよう命じた。第15装甲師団はこの電文を受け取って撤退を始め、間もなくロンメル本人が第15装甲師団に合流した。前線へ向かう途中で車両故障を起こし、迷子になった有名な事件である。ひと騒動あったが、ロンメルは撤退することを承認した。第21装甲師団も東への前進を阻まれ、自然に合流してきた。


 ロンメルはもう一度シディ・レゼクに攻めかかった。まだ傷がいえないイギリス第7機甲師団の反撃は限定的だったが、弱り切ったドイツも、イギリスが内陸部の道路でつないでいる補給路を切れなかった。互いに足を止めて殴り合う展開になると、イギリス砲兵はドイツ砲兵に対して数の優位を生かすことができた。そして、砂漠では後方を守り切れないことを悟るのは、今度はドイツ側だった。


 12月3日には戦えるドイツ戦車は34両、イタリア戦車は90両となっていたが、まだロンメルは戦う気だった。だが目の前のイギリス軍を打ち破っても、それを利用して機動する力がもうなかった。トブルクは10日に解放され、ロンメルは小刻みに撤退を続け、16日にはキレナイカ地方全体を放棄して、内陸に湖と塩交じりの細かい砂が広がるエル・アゲイラまで一気に退いた。サルームのイタリア軍は粘ったが降伏し、ハルファヤ峠のバッハ少佐も続いた。


 すでに述べたように、まさにクルセイダー作戦が始まったのと偶然同じタイミングで、ドイツは資源配分を変えて、地中海におけるイギリス優位の前提を崩した。第2航空艦隊の投入である。それは数か月かかって、戦いの天秤をもう一度傾けて行った。それとちょうど表裏一体に、12月に日本が参戦したので、イギリス空軍は中東から大規模に航空部隊を引き抜いた。新しい空のバランスは、1942年1月にロンメルが再起したことの背景となったのだが、それは次の機会に語るとしよう。


 もうひとつ、このあとの展開に大きく影響した要素をここで挙げておきたい。オーキンレック本人は間違いなく地頭(じあたま)の良い秀才であり、軍人としての能力不足を示した例もほとんどないが、無造作に付き合いの浅い人物を登用することがあった。多くのオーキンレックを知る軍人たちが、彼の登用した人材の少なくともひとりを「使えない奴」と断じた。


 リッチーは第8軍司令官への抜擢(ばってき)人事に続いて中将になったが、オーキンレックの幕僚の中では若手であり、「私の意図をもっともよく知る者だ」というあいまいな評価でオーキンレックから大役を振られた。


 補給不足に泣いた(補給以上の仕事をしていただけかもしれないが)アフリカ軍団を打ち破ったイギリス第8軍は、当然に、ひとつの悩みを抱えることになった。燃料を捕獲できなかったのである。だから新たな占領地にとどまるなら、急いで補給物資を前進させる必要があった。そうした(ある意味で、政治的と言っていい)行動の必要性が、本国で師団長を1年足らずやっただけのリッチーにはわからなかったのである。そしてリッチーの幕僚たちも、そうした点はカバーできなかった。


 ドイツは良くも悪くも、「同じような行動原則を叩きこまれている」参謀士官の層が厚かった。少々軍理に明るくない将軍がいても、参謀長以下が何とかした。イギリス陸軍は戦争で急拡大するたびに、将軍だけでなく上位サポートメンバーの不ぞろいさに泣かされる傾向があった。



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 11月5日に英領シエラレオネに、16日にケープタウンに着いたプリンス・オブ・ウェールズは、早くも18日にセイロン島のコロンボに向けて出港した。インドミタブルは10月に就役した新造艦であり、カリブ海へ慣熟訓練に出かけて、ジャマイカの近くで座礁事故を起こしたために、この出発に間に合わなかった。レパルスはすでにセイロン島にいた。海軍は、過去のことは棚に上げて、2隻がすぐシンガポールに向かうよう急き立てた。いまや英米は同盟国であり、日米交渉に関する最新の情報が、イギリス海軍にそうさせた。


 12月2日、2隻はぎりぎりのタイミングでシンガポールに入った。そのあとのことはこの読み物の範囲を超えるし、読者はとうにご存知であろう。


第30話へのヒストリカルノート


 細かく言えば、イギリス軍が見落としていた要素はもうひとつあります。補給物資を兵士自身に背負わせ(あとは粗食に耐え)、それを食い延ばして道なきジャングルを踏破してくる日本陸軍の作戦は、日本軍は道路沿いに来るものと決めてかかったイギリス陸軍の意表を突きました。日本軍砲兵も追いつき、シンガポールはマレー半島(と空)からの攻撃によって陥落することになったのですが、そのこと自体はこの読み物の範囲を超えます。



 クレタ島でドイツ降下猟兵が受けた大きな損害は、シリアへドイツが積極的に介入することを妨げた……と戦後のイギリス公刊戦史は評価しています。ロンメルのアフリカ軍団がそうであったように、イラクを一時的に確保できても補給負担を考えれば、ドイツの荷物になってしまったかもしれないのですが。



 フリーマンとホプキンスの会話は創作であり、リビエラ会談だけでなく、1941年後半に行われた交渉内容をまとめた「説明的なセリフ」というやつです。1941年4月23日のイギリス貴族院議事録は少なくともオンライン版では閲覧不可になっているようですが、フリーマンの評伝著者はトレンチャードの遺した文書を踏まえたうえで、トレンチャードの質問はフリーマンが入れ知恵したのだろうと推測しています。


 例えばフランスがアメリカに発注したまま開発が遅延し、フランス敗戦で宙に浮いていた急降下爆撃機があり、1940年7月にイギリスはこの機体を改めてレンドリース機として発注しました。イギリスではヴェンジャンス、アメリカ陸軍ではA-31(エンジン強化型はA-35)と呼ばれたこの機体は、アメリカ参戦でしばらくアメリカ陸軍がキープしましたが、1942年以降にイギリス軍なども受けとりました。フリーマンたち重爆撃機優先論者から言えば、こんなものに限られたレンドリース予算枠は使いたくなかったわけです。



 ハルファヤ峠はHalfaya Passの定訳ですが、これは実際には険しい岩山の脇を内陸部に向けて進む、曲がりくねった細い道です。海岸沿いの主要街道と、岩山の内側を並行する脇街道を結んでいます。ですからHalfaya Passは日本語の「峠」からイメージされる「上がって下がって」はありません。岩山から海岸までは2kmほどで、海岸沿いを進む主要街道には迫撃砲弾すら届きます。ですからイギリス軍から見ると、これは「ハルファヤ山塞」のようなもので、除かないとエジプトとリビアをつなぐ主要街道が撃たれ放題になって、兵站路として使えないわけでした。しかし近づくにはHalfaya Passを上から丸見え、撃たれ放題のまま近づくか、脇街道を西へ行ってから比較的平坦なルートを回り込むかしかありませんでした。当時のドイツ軍作戦地図では、Halfaya Passの道路に沿って戦線のしるしがある一方(多くの書籍では、この地図に従って「ハルファヤ峠」を海岸から内陸への通路のように示しています)、岩山のあたりにドイツ軍とイタリア軍の所在を示す丸印がついています。ハルファヤ峠守備隊の降伏時には、イタリア軍サヴォナ師団4200名とバッハ少佐(第15装甲師団の歩兵大隊長)以下のドイツ軍2100名がここで降伏しています。


 ロンメルの司令部付き士官だったシュミットが、ここに88mm対空砲をロンメルの直接指示で据え付けたところを描写していますが、中央に88mm対空砲をなるべく低く掘り下げて設置し、周囲の3方向に重機関銃や対空機関砲の銃座を据えています。ですから88mm砲は西から回り込む敵も、Halfaya Passから接近する敵も撃てる場所にあったでしょう。ブレヴィティ作戦のとき、イギリス兵はここをHellfire Passと呼んだと言いますから、Halfaya Passで撃ちすくめられたのでしょう。歩兵や軽車両であれば、岩山の上から飛んでくる弾は口径の大小を問わず致命的であったでしょうが。



 フレイはスペイン産のキュウリやトマトが届きそうだと兄への手紙に書いています。おそらく現代日本にも入ってきているような、ピクルスやホールトマトやカットトマトの缶詰だったろうと思います。



 戦車と装甲と機甲の訳語はどう書いてもおさまらない部分はあります。この小説ではイギリスの兵科としてのarmored corpsを機械化総監部と訳してきましたが、部隊としてのarmored brigadeを機械化旅団と訳すのは、戦車がいないように響く気がします。そこでarmored brigadeは機甲旅団と訳すことにしました。またarmy tank brigadeのarmyは「師団に属さない軍直轄」という響きなのだと思いますが、単に「戦車旅団」と訳すことにしました。



 プリンス・オブ・ウェールズをめぐる海軍とチャーチルのやり取りは、チャーチルが軍事問題を扱う典型的なフォーマットを教えてくれます。チャーチルは軍人たちが納得しないうちに結論を押し付けることを避けましたが、だからといって簡単には引き下がらず、同じことをしつこく求めることもありました。防衛委員会(作戦)という常設の委員会はチャーチルが議長を務めるもので、三軍の担当大臣と参謀総長、外務大臣、労働党首で1942年2月から「首相代理」という非公式な肩書をもらったアトリーが常に呼ばれるメンバーでした。この委員会で大筋合意が得られると、参謀本部や統合計画室が成案を練り、最後に戦時内閣に概略が示されました。


「首相代理」は非公式な職名でしたが、チャーチルが首脳会談で外遊したとき、本国で戦時内閣を招集するのはアトリーでした。



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