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第29話 キエフとレニングラード


 ドイツの装甲兵員輸送車Sd.Kfz.251系列は、最初から装甲師団の自動車化歩兵連隊のために仕様決定された。しかしその時期は、騎兵科の軽機械化師団や歩兵科の自動車化歩兵師団との資源の分捕り合いが戦車兵科に不利に傾き、逆に言えば最初の3個装甲師団があまり拡張されなさそうな時期であった。だから20個装甲師団がひしめく1941年になってみると、それは高価で量産困難なために、各師団にわずかずつしか行き渡らなかった。1942年になってやっとまとまった、装甲兵員輸送車に乗った随伴歩兵のためのマニュアルによると、その原則的な任務は「戦車より良好な視界で敵の抵抗巣、陣地、個人用たこつぼなど、戦車が認識・撃破出来ないものを撃破すること」だった。


 装甲兵員輸送車が足りないので、トラックや大型乗用車に乗った自動車化歩兵がそのすき間を埋めたが、彼らは移動中は脆弱(ぜいじゃく)であり、戦車とともに進むのは無理だった。


 だからオートバイ大隊が無理を承知で進撃の先頭に立ち、戦車が歩兵を必要とするとき駆け付け、あるいは火力の低さに耐えて罠のはじき役を務めることはよく生じた。


 そんなオートバイ大隊のひとつが、ウクライナを進撃しているうち、村の手前で前哨が銃撃を受けた。様子がわからない場所に密集隊形で突っ込む指揮官はいない。先頭に立つ中隊はその危険な任務をわきまえ、自分も前と右と左にわずかずつの前哨を出すものだった。だから前哨に立った分隊は、心の備えができていた。分隊長のサイドカーが道の右にずれると、残りの3両も収穫の終わった麦畑に突っ込んだ。


「ハンス! アントン! 村に向かって機関銃のたこつぼだ」


 分隊長は、いちばん射撃の下手なふたりに壕を掘るよう命じた。どれだけ撃ち合いが続くかは小隊長や中隊長の腹のうち次第だが、村のソヴィエト兵に対してここで持ちこたえることになるかもしれない。


 誰も撃たない。命令がないからだ。もちろん命令は出ない。距離があって、敵の位置がはっきりしないからだ。分隊長は数秒迷った。今の状況を知らせるべきか。もちろん後続部隊は前哨の様子を見ている。少なくとも小隊長は異変に気付いて、中隊本部に伝令を出しているに違いない。


 壕を掘る間、軽機関銃手はとりあえず身を伏せて銃を構えた。軽機関銃手の周りには弾薬箱と予備弾倉が手際よく並べられて、分隊長の指示を待っていた。分隊長は立て膝をついて、改めて村の様子を見た。果樹が多く、ソヴィエト兵はどこにでも隠れられる。


「機関銃でなくて助かったな」


 独り言に答えるものはいなかったが、全員が分隊長と同意見なようだった。向こうにも臆病すぎる新兵はいるはずだ。命令なしに撃って、今頃殴られているかもしれない。だが中隊規模以上の敵なら、待ち伏せのための指示も徹底するし、たった4両のサイドカーに臆病にもならないはずだ。だとすれば村にいるソヴィエト兵はこちら同様、小規模な偵察隊かもしれない。それくらいのことは小隊長も……


 分隊長の沈思を破るように、背後から聞きなれたエンジン音がした。1個分隊4両と、余計なサイドカーが2両。小隊長と、中隊員ではないが見慣れた連中が混じっている。


「おっ、もう掘ってるのか。もらっていいか」


「ハンス! アントン! 作業やめだ」


「ヤーヴォール」


 まだいくらも掘れていない穴を、新来の兵士たちが広げにかかった。前哨中隊にはすぐ脅威に対処できるよう、いくらか余分の武器とそれを扱う兵士がつけられる。中隊長は、その中から重機関銃班ひとつを送ってきたのだ。三脚にしっかり固定できるし、携行している弾の数が違うから、けちけちしないで済む。小隊長が言った。


「いま助攻の分隊が回り込んでる。13時20分にこっちも前進を開始する。村を制圧しろとの命令だ。敵は小勢だろうが、油断するな」


「ヤーヴォール」


 今度は分隊長が言った。視界の隅を、別の方向から村に近づくサイドカーの群れが通り過ぎた。だがもう分隊長の視線は主に、わずかな起伏をなるべく利用して村まで走り込むルート選びに使われていた。小隊長も当然それをするが、突撃中にどちらが倒れるかわからない。


 もし判断が外れ、敵が無線機で砲兵と連絡を取っていたり、迫撃砲を隠し持っていたりしたら、やられるのはこちらの方だ。だが、それもオートバイ兵の仕事だった。


--------


「グデーリアンがしゅうしゅう怒っておりましたが、これだけの勝ち戦でぜいたくなことですよ、元帥」


 7月中旬、総統副官のシュムント大佐は、中央軍集団でふたつの装甲集団を指揮するグデーリアンとホトの司令部を回って、ラステンブルクの総統大本営に戻ってきたところだった。カイテルはシュムントを昼食に誘って、話を聞いていた。


「ミンスクに続いてスモレンスクも包囲が始まったことは聞いている」


 ハルダーの上司はブラウヒッチュ総司令官だから、ハルダーはヒトラーへの戦況説明に出てくる日も、出て来ない日もある。細かい報告はOKWにも来ていたから、ハルダーのいない日はヨードルが代わりにヒトラーへの説明をしていた。旧知のヨードルとハルダーの関係は別に悪くなかった。


 シュムントは昼食にしては少々豪快にジョッキを傾けた。ヒトラーの前では遠慮しているのだろうとカイテルは思った。カイテルも菜食主義のヒトラーと相伴していないこの機会に、湯気の立ったヴルスト(ソーセージ)にかじりついていた。


「包囲に加わるくらいなら前進したいのですよ。ホトもそう言っていました」


「想像を絶する規模だからな。我が兵員の損害も短期間で相当出ている」


 ブラウヒッチュはヒトラーに、「戦前から所在をつかんでいるソヴィエト歩兵師団の半数以上を壊滅させた」と報告していた。大戦前のソヴィエト軍兵力についてドイツ軍の推定はだいたい正しかったし、壊滅させた師団の数もそう間違ってはいなかった。だが、ソヴィエト軍が若者や予備役を招集し、ろくな訓練期間も置かず新しい師団を丸ごと編成して、前線に送り込んでくる様子は、ドイツ軍の想像を絶していた。すでにスモレンスクで戦っている師団の多くは、大戦が始まってから編成された師団や、大戦直前に編成された師団だった。だからカイテルも、本当に起こっていることの一部しか実感できていなかった。


 戦線の広さに苦しんでいるのはソヴィエト軍も同じだった。南のウクライナでは、キエフを守るために兵力を集中させるあまり、その南側に戦線の薄い場所ができてしまい、そこを起点に包囲戦が始まりつつあった。


「そろそろ、和平の話が出てきても良いのだがな」


 現場を見ていない軍人たちの目からは、勝ちは見えてきた……ように思えた。ヒトラーは相変わらず何か作戦を思いついては語っているが、あれは自分の印象世界内で、自分の功績により勝利したいという気持ちを、実世界の方に押し付けているだけだとカイテルは思っていた。だが、そのヒトラーに仕え、その望みをかなえるのが務めだとカイテルは割り切っていた。


「グデーリアンもホトも、まだまだ戦う気でおりますよ。だがキエフが落ちれば、スターリンも自分の寿命について考えるでしょう」


 シュムントは自信満々に言った。


 じつは7月後半になると、ハルダーとOKH(陸軍参謀本部が戦時動員されるとこう名前が変わる)は「なんだか予定と違うぞ、まずいぞ」と思い始めていた。スターリンが国境を固めることをためらったせいで、動員前の予備役兵や兵員定数を割り込んだ二線級師団が戦線はるか後方に残ってしまい、「ソヴィエト軍の大半を国境で包囲して壊滅させる」ことができなかった。そしてソヴィエトは練度不足もかまわず、二線級や新編成の師団を次々に戦線に出していた。一気に勝負をつけることができないとすると、ドイツの精いっぱいふくれ上がった兵力はもう補充の余地がないのだから、消耗を避けて大事に使わねばならず、局地的に有利な戦いだけを選んでゆく必要があった。だがカイテルやヨードルと言ったOKWの首脳たちも、それらとは違った意味でグデーリアンたち前線の将軍たちも、必ずしもそう思ってはいなかった。


 ヒトラーは、将軍たちが右と言えば、ときどき気まぐれに左を指して言い負かそうとしたのだが、1941年の東部戦線についていえば、将軍たちの言うとおりにやらせたことも多かった。ただ政治家として、戦争を終わらせるための外交努力は一切しなかった。だから1行で書いてしまえば、第2次大戦とはヒトラーの自滅物語であった。外交なしに軍事力で結果を押し付けていけばそのうちサイコロの悪い目が出るという話であった。そのメインストーリーに乗っかって、1941年の陸軍首脳部はドイツにとっての軟着陸を求め、果たせなかったのであるが、まだその物語は語るべきクライマックスを残していた。



--------


「予備方面軍などというポストにつくと、引退したような気分になる」


 ジューコフの自虐に、ホジン参謀長は礼儀正しく沈黙を保った。司令部として接収したのは少し大きめの農家だったが、無人の時期が続いたように少し傷んでいた。スターリンの時代になってから姿を消した豪農の家かもしれなかった。ひっきりなしにトラックのエンジン音が近づき、遠ざかった。下士官たちの怒号も聞こえてきた。


 7月30日、参謀総長を辞したジューコフは、編成されたばかりの師団がほとんどの「予備方面軍司令官」に任じられた。スモレンスクの包囲環はすでに閉じ、その後詰として使うはずの兵力をジューコフは無造作に掌握したのだった。


 スモレンスク東南東80kmほどのところに、イェリニャ(エリニャ)という街がある。主要な街道から外れたところで、ドイツから見ると「欲しくはないが抜かれては困る」程度の場所である。ジューコフは、ここなら反撃してドイツを局地的に負かすことができると踏んだ。新米兵団とはいえ、数十万の戦力が集まり始めていた。


 参謀総長の後任は、もう高齢のシャポーシニコフだった。スターリンがジューコフを手放したのは、ジューコフの手掛けようとする作戦に、見込みがあるからだった。スターリンも国民へのメンツにかけて、どこかで勝ちたいのだ。


「弾薬の集積に、10日では足りないと思われますが」


「仕方がないな」


 ドイツ装甲部隊が近づきにくいところを選んでいるのだから、地域内では比較的良い道路の結節点だとはいえ、ソヴィエトのトラックも活動しづらいのは当然だった。ジューコフは誰にともなく、大きな声で言った。野外の香りが気分を高揚させていた。


「ソヴィエトはここで勝つのだ。潮目は変わる。変えねばならん」


 冬にモスクワでドイツ軍を食い止めるまで、ジューコフの追い求めるものは他の司令官の誰にも負けず、単調な攻撃と死守だった。いちど勝つまでは他のことはしてはならん、とでも言いたげだった。


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 イェルニャでの攻勢準備と並行して、その南に中央方面軍が作られた。大軍が移動しづらいプリビャチ湿地を含む戦域であったが消耗が続き、わずかな増援とともにやってきたブリャンスク方面軍に吸収された。つまり、この方面軍が敗走すれば南西方面軍の北側に穴が空き、キエフを北回りで包囲するドイツ軍部隊が入って来られるのであった。すでに触れたようにキエフの南側でも、のちにウマーニ包囲戦につながる戦線のほころびが生じ始めていた。


 ヒトラーはスモレンスクもまだ落ちていない7月19日、総統命令第33号を発した。これは要約すると、「戦いの焦点はレニングラードとウクライナに移った。ホト集団は北方軍集団、グデーリアン集団は南方軍集団に協力しそれぞれ包囲作戦を実行せよ」というものだった。すでに触れたように、7月下旬にOKHが出した指示は、局地的に有利な戦いだけを選んでゆくことを求めていたのだから、ヒトラーも似たようなことを考えていたと言えなくもない。しかし優先順位のつけ方にルールがなく、このあとも冬に向かって何度も変わっていったのだから、やはり素人っぽさはあった。


 8月4日、ヒトラーとブラウヒッチュはポックの中央軍集団司令部を訪ね、そこにホトとグデーリアンも呼び出された。ハルダーはいなかったが、OKHからはホイジンガー作戦課長が出てきていた。スモレンスク包囲戦にホトの装甲集団はまだ関わり合っており、消耗した装甲部隊はあらゆる物資の補充に時間がかかっていた。このときヒトラーは、重要目標を第一にレニングラード、第二にハリコフ、第三にモスクワとした。中央軍集団司令官であるポックは、フランス戦で自分の部隊を主役にしたがったように、今回もモスクワを推した。ヒトラーは言質も与えなかったし、ここでははっきりした命令を出さなかった。


 少し先の話になるが、ヒトラーは8月下旬にかけて、ハルダーの焦燥にかまわずホトの部隊から一部を北に、グデーリアンの装甲集団は丸ごと南へ向かわせた。ドイツ側のこの動きについては、後でまた触れることになる。


 やがてキエフの南ではウマーニ包囲戦でごっそりソヴィエト軍が削られ、グデーリアンはブリャンスク方面軍を打ち破ってキエフの東側へ侵入した。キエフに立てこもる南西方面軍の運命はこうして極まったのだが、少し時間を戻して、ソヴィエト側で起きたことを語ろう。


--------


 スターリンがソヴィエト軍を掌握する決意を固めた7月初旬、ドイツの3つの軍集団に気合で対抗するように、3つの司令部が作られた。これは方面軍とSTAVKAの間に挟まるもので、熟語のような表現に直しづらいのだが「総軍」と呼んでおこう。北西総軍にヴォロシロフ、西部総軍にティモシェンコ、南西総軍にブジョンヌイが配置された。ティモシェンコが西部方面軍司令官を兼ねているのが象徴するように、この司令部には付属するスタッフもほとんどおらず、裁量すべき予備部隊もなかったから、手間が増えるだけでメリットがなかった。8月に北西総軍と西部総軍が相次いで廃止され、南西総軍の廃止は少し遅れたがどうせ南西方面軍司令官が兼ねていたから、ほとんど歴史に残る役割は果たさなかった。


 だがこの司令部はひとつの点で、やはり歴史を変えた。南西方面軍政治委員のニキータ・フルシチョフは、南西総軍政治委員に転任し、それによってキエフから離れることができた。話を先取りすると、キルポノスとともに戦った南西方面軍の軍事委員会メンバーには、キエフの包囲を生き延びた者はいない。そしてもうひとつの歴史的分岐点が、これからお話する物語である。


 バグラミャン少将は南西方面軍の作戦主任参謀であり、参謀長に次ぐ地位にあって、6月からドゥブノ方面の戦車戦を指導に出ていて、キエフの司令部に戻れなくなってしまった。9月16日、そんなバグラミャンを呼び出したのは南西総軍司令官のティモシェンコであった。


 ティモシェンコ? そう。ブジョンヌイは更迭されてしまったし、北西総軍のヴォロシロフはジューコフと入れ替わりに(この小説では少し後になる)モスクワに呼び戻され、北西総軍は廃止された。北でも南でも、破局の迫った司令官をスターリンは交替させた。北ではドイツの失策もあってかろうじてレニングラードへの侵入を食い止めたが、キエフは包囲の危機が深まっていた。いったんキエフに入ったティモシェンコも、急いで後退してきたところだった。もうキエフは、飛行機でしか行けないところになっていた。


「イワン・クリストフォロヴィチ(バグラミャン)、君もなかなか悪運が強いな」


「同志元帥、お久しぶりです」


 ティモシェンコも、かつてキエフ特別軍管区を指揮していた地縁がある。ましてバグラミャンは俊英だから、初対面ではなかった。フルシチョフが脇でにやにや笑っていた。すでに触れたように、もともとフルシチョフが政治委員なのは戦時の兼職のようなもので、本来の地位はモスクワから天下りしたウクライナ共産党第一書記なのだから、当然フルシチョフも知人である。


「同志ブジョンヌイは、キエフから撤退することを上申して……私が交代することになった。わかるな」


「はい、同志司令官」


「ところで、私もそうすべきだと思っているのだ。だが、その命令がなかなか得られない」


「大丈夫か?」と問いたげな表情がフルシチョフに浮かんだ。スターリンの意向を、少将クラスに漏らしていいのかと。ティモシェンコは構わず続けた。


「そこで、使者に立ってもらいたい。キエフへの使者だ。とても危険だ。やってくれるか」


「命令を遂行する用意はできております、同志司令官」


 そう答えるしかないところだが、それだけではないという気持ちが声音に乗っていることをバグラミャンは願った。仲間たちの運命に関わる使者であることは間違いなく、そしてやはりバグラミャンは、自分の持ち場に戻りたかった。自分で勝ち取ったわけでもない幸運で、自分だけ助かりたくなかった。


 ティモシェンコはあまり心を動かされた風ではなかった。バグラミャンは少しがっかりしたが、ティモシェンコが懸命に言葉を練っていることに気づいた。


「口頭をもって、命令を伝える」


 メモを取るべきではない。なぜか、そう思った。ティモシェンコの声音は厳粛であり、バグラミャンに向けられるというより、虚空に向けられたように響いた。フルシチョフは、その命令を聞かないふりをするように、横を向いてしまっていた。


「南西方面軍は秩序ある撤退を開始せよ」


 それきり、次の指示はなかった。ティモシェンコはじっとバグラミャンを見ていた。根負けするように、バグラミャンは短く言った。


「はい、同志元帥」


 スターリンからの命令はまだない。ブジョンヌイはまさにその命令を乞うて、免じられた。とすればこの撤退命令は、ティモシェンコの独断である。だが撤退を「開始せよ」というのは、やがて来る撤退命令の準備をしているだけだとも聞こえる。だからこれを実行したとき、ティモシェンコのみが責を問われ、キルポノス以下は言われた通りやっただけだと言える。そのようにバグラミャンは受け取り……だが、感謝の言葉はやはり口にできなかった。


 ティモシェンコも照れ臭そうに横を向いた。


「飛行機の用意はできている。発て」


--------


「そうか! 同志元帥は決意してくださったのか!」


 トゥピコフ方面軍参謀長は、キエフに滑り込んだバグラミャンの右腕を両手でつかむとぶんぶん振った。シャポーシニコフ参謀総長から名指しでパニック扇動者呼ばわりされても、司令部における撤退推進派として突っ張っていたトゥピコフの喜びは伝わってきた。みんなで助かるのだ。バグラミャンも開戦以来、こんなに気分が高まったことはなかった。キルポノスのところへ同行する廊下が、花園のように感じられた。


 だが。


「どうして命令は書面ではないのだ」


「はい、同志司令官。緊急の命令でありましたので」


「……」


 キルポノス司令官の吐き出した沈黙は、トゥピコフを呼吸困難にした。軍事委員会の残りのメンバーであるウクライナ共産党中央委員会書記と方面軍政治委員は、きょろきょろと視線をさまよわせた。スターリンがティモシェンコを許さないとして、自分たちは許されるのか。自分たちが許されないとしても、将兵を救うべきか。その場の皆が、ティモシェンコが本当に引き受けた責任を推察していたが、ティモシェンコが(おとこ)になっただけでは済まないかもしれなかった。


同志第一書記(フルシチョフ)はその決定を認めたのか」


 バグラミャンはキルポノスの質問に、胸を押さえた。心臓がドクンと不自然に鳴った。政治委員が承認しない退却など、ありえなかった。それもティモシェンコの責任……いや、気づかないでは済まされない命令の瑕疵(かし)だった。


「同志スターリンに問い合わせろ。この命令は最高司令部のものか」


 キルポノスは短く命じた。4つのため息が続き、トゥピコフが通信班に必要な指示を出し始めた。


--------


 たった2日であった。シャポーシニコフがキエフの放棄を認める命令を伝えたのは、たった2日後の18日夜であった。だが包囲は閉じ、どこにも逃げるところはなかった。


 方面軍司令部は降伏しなかった。武器を捨てず、脱出を試みた。人数は1000人に及んだが、そのうち800人が士官とあっては戦力として取るに足らない一団だった。20日払暁に東を目指して出発したが、グデーリアンの先鋒である第3装甲師団が突っ込んできた。多くの士官や政治指導者が殺され、別の多くは最期の様子すら伝わらず行方不明となった。


 20日夕刻、体の震えを止める方法もないバグラミャンは隠れ場所を出て、東へ歩いた。すでに身を隠せるほどの薄暮が大地を覆っていた。周囲でも人が歩いているのは、だから気配でかろうじてわかるだけだった。


 キルポノスも、トゥピコフもだいぶ前から姿を見かけなかった。空腹で渇いていたが、それが一番大事な問題のようには思えなかった。いつどこから死が襲ってくるか、わからなかった。うかつに声も出せなかったが、遠雷のように銃撃音や爆発音が聞こえていた。そしてそれらが途切れると、あちこちから負傷者のうめきが聞こえた。彼らはそこで、日中からずっとうめいているが、そのままにされているのだ。


「どこから来た!」


 前方で兵が叫んだ。ロシア語での返答を期待していることを、鈍った頭が結論するのに1秒かかった。それはかなり危険な沈黙だったが、間に合った。


「キエフだ。方面軍司令部の所属だ」


「同志! こちらへ!」


 銃をまだ突きつける兵士を押しのけるように、別の兵士が出てきた。腕を取られた瞬間、力が抜けた。兵の背に負われたことを感じたが、バグラミャンの意識はそこまでだった。自分のことも、キルポノスたちのことも、国のことも、今は考えることができなかった。


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 また、少し前からの話になる。


 8月末から9月上旬にかけて、ジューコフは新米だらけの予備方面軍を叱咤して、イェルニャの街を奪回した。グデーリアン装甲集団が南下した後の手薄なところを突いたのである。小さな、一時的でしかない勝利だったが、士気崩壊を食い止める大事なくさびだった。だがスターリンはまた電話でジューコフをモスクワに呼んだ。レニングラードが危機だった。いつもの執務室にジューコフを迎え、イェルニャを取り返した方面軍の状況を満足げに聞いたスターリンは、レニングラード方面軍とバルト海艦隊をヴォロシロフから引き継げと命じた。ドイツ軍はレニングラードの東にあるラドガ湖に達し、包囲が完成しようとしていた。ジューコフにとっては唐突だったが、受ける以外の選択はなかった。


「急ぐぞ」


 ジューコフたちを乗せた輸送機は2機のBf109戦闘機に追いかけられ、低空を飛んで雲を味方につけ、ようやく無事に着いた。直衛機が上がってこなかった不始末を責めている時間も惜しく、ジューコフは司令部へ向かった。大きくない荷物を兵たちに持たせ、ホジンとフェジュニンスキーが続いた。ホジンは前任地での参謀長、フェジュニンスキーはノモンハンで頭角を現した若手指揮官で、司令官代理(副司令官)予定者としてジューコフが指名して、連れてきたものだった。


「……わかった」


 大人数の会議が終わった直後だった。ヴォロシロフはジューコフの差し出した紙片に目を走らせると、短く答えた。スターリンが執務室のありあわせの紙に手書きしたもので、「方面軍司令官をジューコフに譲り、モスクワに戻れ」とだけ書いてあった。スターリンはジューコフの輸送機が落とされる可能性を憂慮して、正式な司令官交代を遅らせたのである。ヴォロシロフもスターリンが言いたいことの見当はついた。ジューコフが実務的な男で、最近の不首尾を責めないのはヴォロシロフにはありがたかった。


 マルキアン・ポポフはそのやり取りを見ていたが、声は聞こえてこなかった。だがジューコフが新しい司令官らしいことは、すぐにバルト海艦隊の首脳部が呼びにやられたことで見当がついた。ポポフはもう呼ばれもしなかった。


 大戦になるまでレニングラードは後方だった。そしてポポフは軍管区司令官をやっていた。9月初めまではレニングラード方面軍司令官だった。7月から北西総軍司令官のヴォロシロフが上に座っていて、レニングラードが次第に危機に陥ったのでポポフは首になった。次のポストがもらえないまま、ポポフはここにいた。


 いつかと同様に、ジューコフはポポフにはまぶしすぎた。


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 すでに何度も触れてきたように、ドイツ軍の「電撃戦」と理解されているものの中には、「プロイセン陸軍2.0」とでもいうような、現場で独断専行してずいずい進んでいくドイツ軍古来の戦法を近代兵器でやっているだけ……という側面が含まれていた。フラーの提唱した戦車機動戦を「長駆(ちょうく)して敵の司令部、補給・通信の要所を()く」とやや広めに取っても、ポーランドではそんな危険な機動はやらせてもらえなかったし、フランスで起きたことも、それではなかった。フランスではドイツ装甲部隊はか細いながら「包囲の腕」として働いた。点に達することではなく、線として英仏軍を囲むことで勝利したのである。グデーリアンにヒントをもらったとはいえ、戦車部隊を指揮したことがないマンシュタイン歩兵大将が案出したのだから、ストレートなフラー流になるはずもないのだが。


 その一方で、ドイツ装甲部隊は戦車に対して歩兵と砲兵の比率を増す方向に部隊構成を変えてきていた。自動車化歩兵師団は装甲師団増設にペースを合わせて、師団当たりの規模を縮小しながら数は増え、装甲師団と同じ軍団に組み入れられることが増えていた。自走歩兵砲や自走対戦車砲がわずかながらも投入され、1940年夏にイギリス本土上陸作戦を立てたときは全軍に48両しかいなかったIII号突撃砲が、支援車両として次第に存在感を持ち始めていた。その結果、装甲部隊は単に弱いところを突破するだけでなく、確保した土地を守っていく力や、強大な敵を正面から打ち破る力も上がっていた。しかしそれは、実際に汗と血を流す包囲の腕として、装甲部隊が足を止めて戦うことを求められる……ということでもあった。まあそうなった第一の理由は、装甲部隊運用のコンセプトが変わったからではなくて、ソヴィエト侵攻が全体としてドイツ軍の手に余るとはっきりしてきたからだが。


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 1941年のうちにレニングラードが落ちなかったのは、ドイツ軍側に「迷い箸」のような意思決定があり、戦力が追加されたり引き抜かれたりして、移動に時間もかかるので決め手を欠いた面が大きい。しかしソヴィエト側も、海軍から水兵を出させて陸上部隊にしたり、市民から義勇軍を募ったり、兵器と弾薬の生産に婦人や老人を動員したりと言った地味な強化策を積み上げていたのも確かで、そうしたことに断固とした采配を振るったのがジューコフだった。こうした権限の垣根を自分の責任で蹴り破るようなことは、ポポフも不得意だったし、ヴォロシロフにもその種の根気はもうなかった。レニングラードを包囲するドイツ軍の外側にもレニングラード軍管区所属部隊がいて、もちろんそこへの補充も新米部隊になっていったが、ジューコフもスターリンも反撃を急き立てた。


 そして10月5日、スターリンがまたジューコフに会見を求めた。西部方面軍が攻め立てられて混乱し、イェルニャから後退した予備方面軍とともに、スターリンから見て状況が分からなくなっていた。単なる混乱だけでなく、方面軍が不都合な事実を隠していることをスターリンは疑っていた。


 西部方面軍司令官は若手成長株のコーニェフであり、ジューコフをレニングラードに引き抜いた後の予備方面軍には古だぬきのブジョンヌイが入り、その下に政治委員としてレフ・メフリスがついていた。メフリスはかつてプラウダの編集長をしていた男で、人のあら捜しとスターリンへの告げ口を天職と心得ていた。およそスピーディな決断ができる司令部ではなかった。


 モスクワへの道をこじ開けようと、北のビャージマと南のブリャンスクにふたつの包囲網ができかかっていた。ジューコフはふたつの方面軍に「送られる」ことがまず決まった。この人事はSTAVKA代表というシステムが完成する前の、ひとつのステップであった。


 STAVKAは「設置すること」と正式メンバーだけ決められ、正式メンバーの入れ替わりだけは発令されたが、発足当時の各兵科専門家を中心とする「顧問」は入れ替わってもいちいち公示されなかった。前線における「STAVKA代表」となると、その任務すら公式な文書になっていなかった。


 だが今日から見ると、それも当然である。皇帝スターリンはソヴィエトの法制度を超越した存在であって、STAVKA代表はその権威を借りて、適切だと思ったことをする。毎日直接スターリンに電話報告することが期待されていて、怠ればスターリンから電凸される。スターリンの机の上には、配分可能な物資や予備軍の一覧表が毎日参謀本部から上がってくるから、それを分捕ることもSTAVKA代表の甲斐性である。STAVKA代表の任務と権限はスターリンの意向によってのみ制約されるのだから、どこにも書かれていなかった。1943年にジューコフがコーカサス方面に出張したときなど、随員として空軍総司令官と海軍総司令官がついていった。STAVKA代表はスターリンの使者だから、その下で空軍部隊や黒海艦隊とあれこれ調整する空軍や海軍の元締めより偉かったのである。


 だがこのとき、この「STAVKA代表」というシステムは翌年以降ほどいつも使われていたわけではなかった。スターリンはSTAVKAを代表して現地に入ったジューコフから報告を受けると、すぐにコーニェフとブジョンヌイを免職し、予備方面軍は西部方面軍に統合して、ジューコフをその司令官につけた。逆にジューコフは巨大すぎる担当区域を嫌って、北端にカリーニン方面軍を新たに作ってもらい、司令官にコーニェフを推薦した。12月になると、モスクワを北回りで包囲しようとするラインハルト(10月からホトと交代)の第3装甲集団にはコーニェフが立ちはだかり、南回りでモスクワへ向かうグデーリアンはジューコフと押し合うことになった。


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 東プロイセンのラステンブルク(現ケントシン)に東部戦線を指揮する総統大本営ができると、20km離れたマウアーヴァルトに地下壕の集合体が作られ、OKHが引っ越してきた。ハルダー参謀総長は長い勤務時間をここで過ごしたが、それでも気にかけるべき案件は増えていった。だからハルダーはアポを取りづらい高官のひとりだったが、今日はワーキングランチの約束があった。OKW作戦部長のヨードル大将である。同席者はホイジンガー作戦課長だけにした。


「今日は肉を多めにするように言っておいた、アルフレート」


「それは助かります、フランツ」


 席に着いたヨードルがにやりと笑った。最上の料理を相伴しているとはいえ、ヒトラーと毎日同じ食生活というのはきつい。従兵にこぽこぽと注がれるテーブルワインのグラスが妙に大きいのもハルダーの配慮……というか冗談だろうとヨードルは思った。


 ライ麦比率が高い軍用パンと、小麦だけのロールパンが盛られていたし、本物のバターの小壺が塗り放題に置かれていた。もちろん二度付け禁止で、パンを一口ずつちぎって食べるマナーは「食卓で共有するバター壺」を前提にすれば当然のことである。「まるで平時のような」食卓は、戦時下のドイツではすでにぜいたくなものになり始めていた。


「最近は、色々とご負担をかけています」


「なに、君もそれなりに胃薬を使っているのだろうな」


 ヨードルはハルダーへのあいまいな謝罪から会話を始めた。今日は特に何かを取り決める用事があるわけではない。


「ところで、前から聞きたいと思っていたのだが」


「答えられることなら答えます」


「我々はこの戦争を勝てるのか」


 食器のがちゃつく音がした。黙って聞いていたホイジンガーがワインを吹いたので、従兵がナプキンで復旧作業をしていた。


「総統に外交で戦争終結を早める動きがないのは、認めざるを得ませんね」


「やはり、そうなのか」


「後方の治め方だけでも穏便にすべきだとは、私も思うのです」


 今度はハルダーが用心深く黙ってしまった。ホイジンガーはもう、壁にかけられた絵をじっと見ている。


「いまの現役兵で勝負をつけなければならない。モスクワが最後の希望というわけか」


 ヨードルはうなずいた。モスクワを落とせば、ソヴィエトに政変か、単独講和の動きが出るだろう。出てほしい。そういうことだった。


 第1次大戦で戦死した兵たちは、生きていてもおっさんである。問題なのは、ドイツに限ったことではないが、大戦中に滞った子作りのことである。第1次大戦は1914年に始まったから、1915年から1919年までの出生数が少なかった。そして1920年、1921年にベビーブームが来た。その1921年生まれが18才になって徴兵されたのが、1939年。教練を終えて配属されたのが1940年。


 つまり、来年からは補充できる兵がだんだん減っていく。1941年は、ドイツ国防軍最高の年なのである。


「努力しよう。そちらもお手柔らかにな」


「もちろんです、フランツ」


 目の前のソーセージとキャベツが、少し冷めてしまっていることに、ふたりとも同時に気が付いた。


第29話へのヒストリカルノート


 すでに触れたように、1933年までにソヴィエト陸軍がドイツ軍から学んだ戦争の方法は、ロシアの広大な大地に合わせて整理され発展したいわゆる「作戦術」に接ぎ木され、それなりに花を咲かせていました。ですから、英仏に比べるとドイツがはるかに手馴れていた諸兵科連合での戦い方も、理屈の上では多くのソヴィエト士官が学び、理解していたはずです。しかしまだ1941年にはソヴィエト軍は戦車と歩兵と砲兵をバラバラに使ってしまうことが多く、1945年になっても、(調子が良かった頃の)ドイツ軍のように戦うことはできませんでした。


 組織上の根本的な問題があったことにはいずれ触れようと思いますが、ハードウェアの問題としても、理由はふたつありました。ひとつは、歩兵を運ぶ車両を欠いていたことです。戦車軍団などに配属された歩兵部隊の行李・段列を馬車ではなくトラックにするのが精いっぱいで、戦車の上に歩兵をつかまらせて運ぶことができるだけでした。この方法は、敵の待ち伏せや砲撃で(歩兵に)大きな損害を出すことにつながりましたから、ドイツほどうまく歩兵を戦車のそばに展開できませんでした。


 もうひとつの理由は、砲を引く牽引車の速度です。第28話でも触れたように、ソヴィエト軍の大口径砲をけん引する代表的車両であるSTZ-5は最高時速22kmでした。もちろん砲を引いていないときの速度です。アメリカから送られた「M1重牽引車」は実際はメーカーも異なる数種類の車両を集合的に指しましたが、多くはブルドーザーのプレートを外したもので、速度もブルドーザー並みでした。ですからソヴィエト軍は(最終的には)長い時間をかけて計画的に砲兵を攻撃予定地域に集め、ドイツ軍の前線をたたきつぶすくらいの砲弾を撃ち込み、歩兵が前線を崩したところへ戦車を集中投入し、一気に突破距離を稼ぐことを基本パターンとするようになりました。鉄道を使って弾薬も送らねばなりませんから、1944年などは東部戦線全体を見ていると、あちこちで時間差攻撃を仕掛けているような外観になりました。



 ジューコフはキエフからの撤退を上申してスターリンと対立したように回想録に書いていますが、ジューコフがスターリンに会ったという日、スターリンの会見者名簿にジューコフの名がないことを回想録の英訳者であるロバーツが指摘しています。ジューコフのころは陸軍大学校に当たるものが1年制で、1936年秋に2年制の参謀本部大学校ができて、2年フルに教育を受けたのは1940年までに卒業した3学年だけであったようです。とにかく参謀なんかやりたくない、俺は指揮官がやりたいんだという士官たちが多かったことを、自分も何度も前線に戻すよう嘆願したシチェメンコが書き残しています。だからジューコフは、何より前線に戻りたかったのではないでしょうか。「イェルニャを取ってくるんで総長辞めさせてくれませんか、おやっさん」と。


 予備方面軍は大戦を通じて3回編成されています。実戦に出るときにはたいてい、もう少し個体識別可能な名前に変わったのですが、1941年のものは9月に消滅するまでそのままでした。ジューコフがどうでもいいことに関心を持たなかったんでしょうか。



 本文中で「ブラウヒッチュはヒトラーに、『戦前から所在をつかんでいるソヴィエト歩兵師団の半数以上を壊滅させた』と報告していた……壊滅させた師団の数もそう間違ってはいなかった」と書きました。じつは北部(フィンランドやコラ湾方面)・北西・西部・南西・南部(ルーマニア国境、オデッサ、クリミア)の国境5方面軍に開戦時に配置されていた歩兵師団・山岳師団101個のうち、7月のスモレンスク包囲戦までに全滅したのはわずか11個師団に過ぎません。1000人残っているとか2000人残っているとか4000人残ってるけど半分は銃がないとか、そういう師団残余がたくさん包囲を抜け、ソヴィエト軍再建の核となったのです。ところがウマーニ包囲戦では14個師団が完全に失われ、キエフでさらに17個師団が完全消滅しました。もしドイツ軍が南方で手を抜いて、モスクワなりレニングラードなりを史実より多くの兵力で攻めていたら、生き延びたソヴィエト兵はどこかでドイツへの抵抗を強めていたはずです。グデーリアンの南方転用でソヴィエトが失ったものもまた、巨大でした。



 キエフの最終段階をめぐる記述はバグラミャンの回想をもとに書きましたが、最後に助かるシーンは創作です。ロシア語版Wikipediaの関連項目も同じ資料を基にしているものと思います。ここではひとことの台詞もありませんが、生き延びたバグラミャンに責任をかぶせる動きもあったところ、才を惜しんでティモシェンコの幕下に引き取ることで助命したのは、フルシチョフの口添えであったと言われます。



 ジューコフは9月14日付でレニングラード方面軍司令官になっていますが、飛行機がレニングラードに着いたのは9日~13日で諸説あり、ジューコフ回想録では10日となっています。



 ヨードルとハルダーの会食はフィクションです。戦前からの隊友とはいえ、立場的に距離があったのは間違いありません。ただ「モスクワを」と声をそろえたのは、「終わらせるにはそれしかない」という共通認識があったのかな?  というのはあくまでマイソフの想像です。



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