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第28話 スターリン 最初の十九日間


 ソヴィエトの重要な会合はしばしば、スターリンの官邸で行われた。特定の用件で政治局員一同が呼び集められることもあったし、誰かがスターリンに呼ばれて官邸に着くと、スターリンの書斎に関係のない官僚がいて、スターリンと協議すらせずに自分の仕事書類を持ち込んで内職をしていることもあった。もっと格上の政治局員クラスがいることもあった。


 スターリンは「Herzegovina Flor」という高級紙巻きたばこがお気に入りで、それをわざわざペリペリと紙をむいてほぐし、パイプに詰めて吸った。列席者の議論を歩き回りながら聞いていたスターリンが部屋の隅の執務机に行って煙草に手を伸ばすことがあった。何かぼそぼそとつぶやきながら煙草をほぐし、詰め終わって悠然と一服ふかすまでにスターリンは考えをまとめるのであって、間が空いたと思ってもうかつに口ははさめなかった。


 だが、そんな緊張は和やかな日常のひとコマであったことをジューコフ参謀総長は思い知った。ティモシェンコ国防人民委員とともにスターリンの書斎に入ると、スターリンは火のついていないパイプを持ったまま、おろおろと歩き回っていたのである。6月22日の午前4時半だった。


「4時を過ぎて、新たな報告も増えたが、連絡のつかない司令部も増えた」


「同志スターリン、我々の受けた報告も同様です」


 ティモシェンコが言葉を控え、スターリンの反撃指令を期待した。開戦におじけづき、あるいは個人的なつまらない問題を起こして、夜のうちに脱走したドイツ士官や兵がソヴィエトに逃れ、午前4時という攻撃開始予定時刻は伝えられていた。それでもスターリンは、ソヴィエトを暴発させるドイツの謀略かもしれないと、ドイツが攻撃してこない希望にすがっていたのである。


 この夜、師団長などの高級指揮官が何者かに銃撃される事件がいくつかあった。そしてあちこちで電話や有線電信のケーブルが切断された。


「同志スターリン! シューレンブルク(モスクワ駐在ドイツ大使)が電話に出ました」


 モロトフ外務人民委員の声が、スターリンたちのいる書斎の隣室から聞こえた。スターリン専属の通信手たちが控える部屋である。そしてドアから顔を出したモロトフは、唇を震わせてゆっくりと言葉を選んだ。


「シューレンブルクは、同志スターリンに直接手交(しゅこう)したい書簡を持っていると言っています」


 ティモシェンコ、ジューコフ、スターリンの間に視線の火花が散った。すでに受信と翻訳を終え、渡せばよいだけになっている手紙。


 宣戦布告に間違いなかった。


 スターリンは部屋の端まで歩き、いつも書類が山積みになっている執務机の前に腰かけた。そして声を上げた。


「ポスクレビシェフ!」


 3秒ほどしてポスクレビシェフ官房長が顔を出した。スターリンの書斎に行くにはポスクレビシェフの詰める部屋を通らねばならない構造になっていたから、数メートルを走り抜ける必要があったのである。


「ここにおります、同志スターリン」


「ドイツと戦争になる。用意していた指令草案を、全部出せ」


「直ちに」


 ティモシェンコとジューコフは一言もはさまなかったが、表情は一様に苦々しかった。これから反撃命令が出ても、それを届けるべき通信網はもう寸断されているのだった。


--------


 簡単に言えば、スターリンのソヴィエトは帝政であり、意思決定の最上位に近づくほど人治の要素が強くなった。大粛清による人材不足も手伝ってか、スターリンが知っている人物は、不向きな仕事をさせられて失敗し降格や左遷を食らうことはあっても、短期間で要職に復帰した。例えば開戦時に赤軍情報部長をしていたゴリコフは、1942年にヴォロネジ方面軍司令官を務めていて7月にヴォロネジを失い、軍司令官ポストに左遷された。順次復権して1943年にはヴォロネジ方面軍司令官に戻っていたが、第3次ハリコフ攻防戦でハウサーとマンシュタインにハリコフを奪回され、さすがに野戦部隊の指揮は任されなくなって、人事担当国防人民委員代理として後方の職に就いた。


 多くの問題で、スターリンは下僚の言うことを聞いたが、話を聞く相手は自分で選んだし、自分がよく知っていると思うことは誰も口が出せなかった。例えば上司が次々に粛清され、若くして就任した海軍人民委員のクズネツォフは、先輩たちから「重巡洋艦の予算は削減するな。スターリンはその艦種が好きだ」とアドバイスされた。


 スターリンは独裁者の常として、自分の目と耳を広げることを心掛けていた。そのための基本的な方法のひとつは、自分が熟知し、信頼する者を現場に送り込むことだった。この意向と軍組織の硬い性質に折り合いをつけるため、大戦中に「STAVKA代表」といった独特の存在が生まれた。それについてはいずれ語ることになる。


 もうひとつの方法は、公式に上がってくる報告を精査し、矛盾や漏れを見つけて叱責することだった。スターリンは宵っ張りであったが、起き抜けともいえる時間にまず参謀本部から電話報告を受け、夕刻にもう一度受け、夜になって地図を広げた状況説明を受けた。状況説明の前後や最中に方面軍司令官たちから次々に電話がかかってきた。その中に提案があればその場で諾否を口にしたが、新たな計画を立てるときは人を呼んで相談した。ブジョンヌイやヴォロシロフと言った、あたかも失脚したように大戦中盤以降の戦史に登場しない指導者たちも、こうした人治的・非公式な意思決定システムの中で、スターリンの目となり耳となって活発に働いていたのである。もっとも間欠的に記録されている彼らの言動は、やはりあまり生産的なものではなかったが。


--------


 ドイツ軍は入念に準備していたし、もともと弱体なソヴィエトの通信網に対して、攻撃直前にサボタージュも仕掛けた。スターリンが予防措置も即時反撃もためらったことがソヴィエト軍の反撃を鈍らせたのも確かである。だがソヴィエトの防衛計画そのものが、ポーランド戦やフランス戦で様変わりした戦場のスピードに追い付けていなかったことも問題だった。動員に時間がかかるために最初の数日間は小競り合いに終始するだろう……といった古臭い戦争観に基づいた計画になっていたのである。


 さらに、プリビャチ湿地をはさんで北と南の戦力バランスも、ドイツ軍が猛スピードで押してくる北側に薄め、南側に厚めになっていた。ドイツが不穏な動きを見せる前から、すでに述べたようにスターリンは「いずれドイツとは戦争になる」と予想していた。しかし同時に、「ドイツはソヴィエトが送り続けている物資の調達先、つまりウクライナの鉱山群や穀倉を狙ってくるだろう」とも思っていた。伝統的に「キエフ特別軍管区」が最精鋭部隊であり、北の「西部軍管区」はそれよりも部隊の練度、したがって戦争への備えが劣っていたことも悪い方に働いた。ドイツが北側に厚い戦力配置をしてきたのも侵攻直前であり、ソヴィエトは対応が遅れた。実際、のちに1943年冬から1944年春にかけて、ソヴィエトは戦車部隊をプリビャチ湿地の南側に送り込み、平坦で乾いた地形を利用してルーマニア国境近くまで一気に進んだ。北側に取り残された突出部が1944年夏のバグラチオン作戦で処理されたのだが、(適切な季節を選べば)戦車部隊の突進に適した地形はむしろ南側だということをソヴィエト軍自身が示しているのである。


 だからドイツ北方軍集団や中央軍集団は、ソヴィエト軍の反撃が弱いという意味では快進撃できた一方、ベラルーシの森と川と湿地によるマイナスの影響を受けることにもなった。


--------


 作戦開始から一夜が明けた6月23日、ドイツ北方軍集団はリトアニアのリガを目指して進んでいたが、その先鋒部隊のひとつが第6装甲師団だった。


「気に入らんな」


 ラウス大佐はつぶやいたが、周囲の士官も兵士も聞こえなかったふりをした。合理的で、部下を生き延びさせてくれる指揮官だが、フレンドリーな性格ではなかった。車両の列はのろのろと前進していた。


 第6装甲師団は、当時としては「(はず)れ戦車」になりつつある、チェコスロバキア製の35(t)旧式戦車を主要装備にしていた。ありていに言えば、ドイツ軍が散々使いつぶした残りを全部この師団に集めていたのである。だんだん部品もなくなってきていた。だから第41装甲軍団のラインハルト軍団長は、優良装備の第1装甲師団に一番いい道路のあるルートを使わせ、第6装甲師団には森の中の細い道を使わせた。


 ラウスはふたつの歩兵連隊を束ねる、自動車化歩兵旅団長だった。編成表のうえではフォン・ゼッケンドルフ中佐の第114自動車化歩兵連隊はラウスの部下だったが、師団長のラングラフ少将はラウスとゼッケンドルフを戦闘群長として、目標と地形に合わせてそれぞれに任せる戦力を調節した。そして戦車が集団で押し出せる地形でないことから、戦車部隊は両方に分け与えて、支援に徹することにさせたのである。


 だからラウスが気に入らないのは、森が九分に道が一分と言う「地勢」だった。道しか通れないから、侵攻経路を敵に読まれてしまう。ソヴィエト軍も道路事情の良い場所で抵抗しているのか、作戦初日の6月22日にはほとんど発砲も起きないような戦況のまま前進が続いたが、敵の出方について何の情報もないのは、ラウスのような立場の指揮官には嫌なニュースだった。


 水平方向の見通しは木々がさえぎっていたが、遠くに黒煙がのぼっていた。ゼッケンドルフ戦闘群が、渡河地点を見下ろすラゼニアイの村か、その外周にとりついて戦っているに違いなかった。ラウス戦闘群の先鋒からも、村の近くで敵を見つけたと無線が入っていたから、いくらかの煙はラウスの部下のせいかもしれなかった。砲兵たちは後方で狭い道と交通混雑に悩まされているに違いなく、歩兵と戦車の火力だけで押し切る必要があった。


「退避! 退避!」


 道の前方で誰かが叫び、その声にかぶせるように砲撃の着弾音が聞こえた。ラウスも車から飛び出し、道路から逃れた。だが数十秒後、砲撃がかなり前方に集中していることに気づいて、そっと道から空を見上げた。


「通信班! アンテナを立てろ。各中隊に状況を報告させろ」


 ラウスは怒鳴りながら道の脇を指さした。通信を安定させ、伝令を迎えるために、情勢が動くとき指揮所は動かない方がよかった。ラウスはそのことも気に入らなかった。


 だがラウスは間もなく、イライラする暇もないほど多忙になった。23日の夕方までにラウスとゼッケンドルフは歩兵たちを追い立てて、ラゼニアイの村を挟撃して落とし、ラウスは北の橋、ゼッケンドルフは東の橋を確保して次の日に備えた。


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 真新しい紙にはカーボン紙(普通紙とカーボン紙を交互に重ね、タイプライターの活字を打ち付ける勢いを利用して「裏写り」させ、一度のタイピングで何枚も複写する昔の事務技術があった)の跡がわずかに残っていて、多くのコピーが作られて配布されたことをうかがわせた。第6装甲師団を指揮する第41装甲軍団長のラインハルト大将は、偵察機からの報告書に目を走らせた。様々な兆候が報告されていたが、ソヴィエト装甲部隊は第6装甲師団戦区の東側に発見報告が集中していた。頁をめくると茶色い砂ほこりが落ちた。オートバイ伝令兵が運んできたものに違いなかった。


 すでに触れたように、空軍と陸海軍の分担協定は非常に多岐にわたり、「空軍部隊が陸軍から命令を受ける」ケースもあった。短距離偵察機と若干の長距離偵察機、そして多くの対空砲部隊を空軍は陸軍に差し出し、コルフトと総称される協力司令部を陸軍の軍司令部や装甲集団司令部に配属して、軍司令部の手伝いをさせた。空軍部隊へ陸軍が出す命令に、指定がないと働けない事項が抜けていたり、実行不可能な部分があったりしないようコルフトが助言するのだが、命令は陸軍が出した。コルフトを指揮するのは中佐か大佐が普通で、軍司令官と言えば最低でも大将だから、指図めいたことは言えなかった。


 ヘップナー上級大将の第4装甲集団は北方軍集団の戦車部隊を一手に指揮していたが、ヘッブナーに協力するコルフトには短距離偵察機5個中隊、定数いっぱいなら60機が割り当てられていた。これが指揮下の装甲軍団や装甲師団に割り振られ、どこをどう偵察してほしいか要望が集約されて、ヘッブナーの司令部から命令が出て偵察機が飛び、結果報告がもたらされた。侵攻2日目とあっては、急進撃する部隊に飛行場の前進が追い付くはずもなく、後方からオートバイで偵察結果が届くことになったわけである。


 ラインハルトが渡した報告書を参謀長のド・ボーリュー大佐は素早く読み下した。ラインハルトが黙っているので、ド・ボーリューは提案を求められていると察した。


「相当数の戦車が、歩兵を伴わず移動しているようです」


「奴らのドクトリンがどうあれ、歩兵を運ぶ手段がないから、そうなるのだろうな」


「はい、将軍」


 偵察機に命令はできても、戦闘機や爆撃機に陸軍が指示を出すことを空軍は許さなかった。逆に言えば、空軍が移動する敵戦車群を見つけたのなら、空軍は陸軍が何も言わなくても、リソースの許す限りでそれを攻撃するはずだった。はっきりした進撃の支障が生じていないなら、空軍に支援を頼むのは控えたほうがよかった。


「我が軍の側面を衝こうとしているのだろう」


「はい、将軍。敵の目標となるのは第6装甲師団ですが、第1装甲師団の装甲連隊も、渡河の済んだものから応援させてはいかがかと」


 大雑把に言って、ドイツ軍は北東方向に攻めている。それを真東から阻止しに来ていると思われた。


「そうだな。第1装甲師団は戦車を中心に派遣隊を抽出させろ。ラングラフ(第6装甲師団長)にもこの動きを知らせてやれ。文面は任せる」


「はい、将軍」


 第6装甲師団の35(t)戦車は非力だが、大半のソヴィエト戦車は似たり寄ったりの非力さであるし、その対戦車大隊が持つ36門の対戦車砲は1/3が50mm対戦車砲にアップグレードされていた。直ちに増援が必要だとは、ラインハルトは思わなかった。


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 1941年6月から大戦勝利までのほとんどの期間、スターリンは党書記長、STAVKA最高司令官、人民委員会議議長、GKO委員長、国防人民委員を兼ねた。しかしこれら5つのうち、6月23日時点でスターリンが占めていたのは党書記長と人民委員会議議長だけであり、ティモシェンコ国防人民委員がSTAVKA議長を兼ねて最高司令官は置かれず、GKOはまだ存在しなかった。つまりスターリンは、戦争によって生じた新たな指導責任を、まるでティモシェンコに丸投げするような態度をとった。ドイツの攻撃に備える決心がつかなかったスターリンは、ドイツを跳ね返す先頭に立つ決心もまた、つかなかったのである。


 反撃は命じた。6月23日の国防人民委員指令第3号は、すでにドイツ軍を迎えた方面軍に反撃を、それ以外の方面軍に固守を命じていた。だが反撃のための戦力が新たに配分されたわけではなかったし、集中すべき目標もはっきりしなかった。ジューコフ参謀総長は、すでにスターリンが署名した命令草案を示され、副署を求められたから、口もはさめなかった。


 局所優勢( local superiority)という軍事用語がある。A国とB国が10万人ずつの兵力でにらみ合っていても、ある地区にA国が3000人を集中させ、B国の1000人を攻撃すれば、一方的にB国に大損害を与えられる。そのためにはA国は3000人が攻めかかる攻撃目標を気づかせず、B国軍より速く移動したり、B国軍の応援が到着するのを邪魔したりしなければならない。充実した通信機材と航空優勢に恵まれ、そして諸兵科連合で戦う訓練を積んだドイツに対して、スターリンはソヴィエト軍に攻撃と言う「動作」を命じ、局所優勢をつかむ手段も裁量権も与えなかった。だから12月にモスクワ前面で潮目が変わるまで、ドイツ軍は一方的に局所優勢を作り出して行けたのである。


 そんなことはソヴィエト軍指揮官たちもわかっていたが、命令は命令である。ソヴィエト北西方面軍がその保有する2個戦車軍団の全力をラインハルトの側面にぶつけてきたのは、スターリンがティモシェンコに出させた6月23日の命令によるものだった。当時のソヴィエト戦車軍団は、開戦後に編成された「砲兵連隊を含む歩兵師団+戦車部隊+対空砲部隊」といった編成ではなく、最初にグデーリアンが計画したドイツ装甲師団のプランを参考にしたのか、T-26やBT-7といった比較的軽量な戦車を中心に1000両以上保有し、歩兵3個連隊程度、砲兵6~7個大隊72門程度(ドイツ歩兵師団は48門だから、師団を越える砲兵戦力ではある)と言う編成になっていた。しかし歩兵を運ぶトラックも装甲兵員輸送車もなかったから、一緒に移動するとすれば歩兵が戦車によじ登るしかなかったし、主力の牽引車STZ-5は最高時速22km/hで戦車に追随できなかった。また、多くの点で新しい戦車軍団は編成未了で、欠員が多かった。だから戦車軍団の主力は、それぞれ少なくとも700両くらいは以前の編成から引き継いでいる旧式戦車だった。


 そしてこれらの中に、わずかなT-34戦車と、やはりわずかな重戦車のKV-I、KV-IIが混じっていた。最新のものは乗員の錬成が足らず、古いものはメカの信頼性が足らなかった。移動するだけで損失が出た。それでも、ソヴィエトの軍人たちは命令を実行した。


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 同じような戦車部隊を中心とする反撃は、どの方面軍も命じられていた。ジューコフはウクライナの南西方面軍で、そうした攻撃を指導していた。


「そうカリカリするものじゃないよ、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ。あんたの性格はよく知っちゃあいるがね」


 フルシチョフは、無言でバレニキ(餃子に似た形のウクライナ料理)をほおばるジューコフをにやにやと眺めた。キエフに着いたばかりで、道中ろくな食事をしていないのだった。フルシチョフは南西方面軍司令官キルポノスの政治委員だった。司令官、参謀長、政治委員で「軍事委員会」を作って重要事項を決める(地方政府幹部なども加わることがある)のがソヴィエト軍の高級司令部共通ルールである。フルシチョフは1938年からウクライナをスターリンから任され、ウクライナ共産党中央委員会第一書記を務めていたが、いまや政治委員の方が本業になろうとしていた。ジューコフはノモンハンで殊勲を挙げてから参謀総長になるまで、キエフ特別軍管区で司令官をしていたから、もちろん互いによく知る仲であった。根っからの政治屋で農業統制も仕事にしているフルシチョフのところは、軍人一筋のジューコフの目からすると、「行けばうまいものがある」場所であった。ちょっとした出張の余禄である。


 ジューコフが連隊長や旅団長であったころ、視察にやってくる上司には、のちにトハチェフスキーの一味として処刑された弟子たちがいた。そんな人々は視察に来ると、ただちに連隊演習を企画して実行して見せろとか、そういった「即応性」を重視したシゴキをやった。騎兵連隊に遠くから攻撃させ、守備側は広い地域のどこに潜んでいるかわからない……といった大規模演習もあった。つまり、1933年以前にドイツ陸軍から学んだことを生かし、即応性や独断専行を重視するドイツのドクトリンに、ソヴィエト流の無茶振りを混ぜた訓練をやっていた。


「いよいよお前さんが本領発揮だね」


 ジューコフは何も言わず、喉を鳴らしてボルシチを飲んだ。ビーツ(ボルシチの色を決めている赤っぽい野菜)しか入っていないボルシチだったが、たっぷり入っていた。


「セミョーン・コンスタンチノヴィチ(ティモシェンコ)はどうしている」


「忙しくしている」


 ティモシェンコも冬戦争で出世する前はキエフ特別軍管区の司令官だったから、フルシチョフはよく知っていた。フルシチョフはジューコフの短い返答に苦笑いしながら、茶の入ったカップをそっと押し出した。ジューコフは例も言わずそれを飲んで、言った。


「ありがとう、ニキータ・セルゲーエヴィチ」


 言うと同時に、ジューコフは顔いっぱいに笑った。強面(こわもて)だが、人を引っ張る男でもあった。フルシチョフの政治家としての勘が、この男のすべてを許すよう告げていた。そして予想通り、ジューコフは席を立った。


「キルポノスに会うのか」


「そうだな。だが、たぶんすぐ前線だ」


「ボルシチのお代わりを用意しておくよ」


「バレニキもな」


 握手は短く、力強かった。ジューコフの背中を見送るフルシチョフは右手を振りながら肩をすくめた。


 スターリン帝国は粛清による圧力も加わり、下に行くほど上意下達、ノルマ絶対のブラック職場となった。前進しろと言われたから前進する……というたぐいの攻撃はあちこちで繰り返され、ドイツ軍の血と弾薬と燃料を絶え間なく消耗させながら、自分たち自身をすり減らすことになった。


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 6月24日、ラインハルトはゼッケンドルフ戦闘群からの報告を受けて、交通混雑をかき分けて前線に出てきた。そして危機を知ると、軍団予備の88mm高射砲部隊を呼び寄せた。第6装甲師団の砲兵からも、虎の子の10cm(実際には105mm)カノン砲が出てきた。すぐに変化は訪れなかったが、30分ほどすると戦いの流れが変わってくるのが分かった。銃声や爆発音が遠ざかってゆくのだ。ラインハルトは少し前進すると、中隊本部らしい集団を見つけた。


「続けろ。そのまま」


 ラインハルトは敬礼を省略させた。大隊本部くらいになると被弾時の壊滅を恐れ、1ヶ所に固まらないように配慮するのだが、衛生兵も通信兵も、タイプライターで何かを打っている中隊書記らしい兵もここにいた。そのすぐ脇では荷造りのような作業が続いていた。


「それは、何だね」


「集束爆薬であります、将軍。奴らの重戦車のキャタピラは、集束手榴弾や対戦車地雷では傷もつかないのであります」


 ありあわせのロープで対戦車地雷を5個結び合わせながら、兵士はラインハルトに答えた。集束手榴弾とは、ドイツ軍の柄つき手榴弾を7個ぐるぐる巻きに束ねて、中央の1本以外は柄を外したものだが、T34やKV-Iのキャタピラを確実に切るには火薬が足りなかった。一緒に作業をしている下士官は、肩章の縁が工兵の黒い兵科色だったが、商売道具の非力を指摘されたように感じたのか、あえて口をはさんだ。


「すみません、将軍。申し上げたいのですが」


「かまわんよ」


「もし十分に接近して、エンジングリルの上に乗せられるならば、集束手榴弾も火炎瓶も有効でありますが、成功の見込みが低いのであります。特にソヴィエトの重戦車は、砲塔の後ろに機関銃を持っております」


 ラインハルトはふと気づいた。


「近接攻撃で部下を失ったか」


「中隊長殿が戦死されました。残念であります」


 ラインハルトは、その場の全員がうつむいたように感じた。


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 ラウス戦闘群は正面切った戦車群の突撃は受けずに済んだが、後方の補給路に入り込んだ1両のKV-II重戦車がどうしても排除できず、重傷の士官が後送できずに亡くなる深刻な状況に陥った。最終的には35(t)戦車が決死のおとり攻撃を仕掛け、88mm高射砲の射界におびき寄せたのだが、7発の88mm砲弾が命中しても、貫通したのは2発だけだった。50mm対戦車砲の当たった跡は青い点のように識別できたが、37mm対戦車砲弾は跡すら残していなかった。


 KV系列でもT-34戦車でもない、もっとありふれたソヴィエト戦車も戦いに加わっていたが、ドイツ側からもありふれた戦車群が集まってきて、ようやく戦線に接近した砲兵の援護を受けた。


 ソヴィエト戦車部隊は命令通りに攻撃をかけたが、歩兵や砲兵は協力できず、撤退のための燃料も届かなかったから、無事な戦車も遺棄するしかなかった。通信機材と輸送車両・連絡車両の不足は、ただでさえ縦割りにノルマが下りてくるソヴィエト軍が互いに協力することを困難にした。独ソ戦序盤のソヴィエト兵士は、独ソ戦終盤のドイツ兵がそうしたように、勇敢にバラバラに戦ったのである。そして無理な前進がもたらした弾薬や燃料の不足で、戦場を支配できなかったから、損傷した両軍の戦車はドイツ軍のものとなって、ドイツ軍は修理した車両を戦列に戻せた。


 南西方面軍でジューコフが督戦した攻撃も、多数の戦車を動員しながら、竜頭蛇尾に終わろうとしていた。南西方面軍の空軍部隊は初日の飛行場攻撃で西部方面軍ほどの打撃を受けなかったが、数日の交戦と、その間もしつこく新たに見つけた飛行場を狙ってくるドイツ空軍のために、戦場に介入できる力は急速に失われてきていた。


 ドイツ南方軍集団の先頭を走る第11装甲師団が相当な損害を受けたことを知り、わらわらと増援が集まってきた。キルポノスはドイツ軍の増援がソヴィエト軍の戦線を破り、逆にソヴィエト軍を包囲してくる可能性を気にして、攻勢を中止したがったが、ジューコフはそれを「弱気に過ぎる」と反対した。そして6月26日、ジューコフはスターリンから電話を受けた。


「パヴロフの西部方面軍が説明のつかない敗北を喫している。クリーク元帥を見に行かせたが彼自身も行方不明だ。一度モスクワに来て状況を見てくれまいか」


「ご命令のままに、同志スターリン」


 電話を切ったジューコフは大きく息を吐いた。混乱するモスクワにいなかったのは、幸いかもしれなかった。だからといって、いつまでもここにいられなかった。ジューコフは参謀総長だったし、キルポノスには強気にかみついたものの、本来ジューコフに方面軍の決定に直接口を出す権限はなかった。本来の居場所である参謀本部にいるほうが、何かできるかもしれなかった。


 負ける……とは思わなかった。ドイツとの関係悪化はスターリンも自認するところだったから、東への工場疎開は以前から少しずつ進んでいた。


 庶民には何の夢もない帝政時代のことを、ジューコフは覚えていた。レーニンは偉大な指導者だったが、優秀な農業経営者である富農を温存した。彼らが蓄えた財産と私兵も一緒に残されてしまい、蓄財を暴こうとすると「恐ろしい事故」が起きて、地方官吏になったジューコフの友人にも殉職者が出ていた。スターリンは集団農場へ農業を集約していく過程で、富農たちを処刑した。富農たちは農業指導者でもあったから、それが混乱と飢饉を呼び、国内を締め付け反乱の芽を摘む必要が生じた。スターリンの意を迎えた内務人民委員エジョフと後任のベリヤは、軍や産業の権威者を含む、多くの人々を粛清した。ひどい世の中ではあったが、ソヴィエトは数百年絶えてなかった、「庶民も成り上がれる時代」を迎えていた。子供たちはロシア帝国時代には考えられなかったほど体系的な教育を受け、上司や職場の当たりはずれは依然として大きかったものの、才を伸ばせるチャンスは広がっていた。だから今風に言うと、スターリンの支持率は決して低くなかった。


 国民は持ちこたえる。ことに憎むべき侵略者に対しては、持ちこたえる。ジューコフはそう思っていた。だからむしろ問題は……


 スターリンが持ちこたえるかどうかにかかっていた。


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「メレツコフはどうした」


 参謀本部の誰も、ジューコフと目を合わせようとしなかった。メレツコフはジューコフに参謀総長の地位を譲った後、訓練担当の国防人民委員代理として働いていた。開戦直前にレニングラードへ派遣されていたはずで、STAVKAの正式メンバーにも含まれていた。北方の様子を聞こうと思ったジューコフだったが、姿が見えなかった。


「彼は逮捕されました、同志将軍」


 勇気を奮って答えたのは、バトゥーティン参謀次長だった。そしてゲーリングにも負けないほど広い肩をジューコフに寄せて、スキンヘッドを傾け、ささやいた。


「3年前の逮捕者の一味であったとか、そのような嫌疑のようです。正式な命令でレニングラードから呼び戻されて、すぐ逮捕でした」


 ジューコフは怒りの光を目から走らせ、すぐに消した。この敗戦には生贄がそろそろ欲しくなる頃合いかと、ベリヤ内務人民委員がスターリンの心境を忖度したのかもしれなかったし、新年の不愉快なプレゼンをスターリンが思い出し、ベリヤが持ってきた最新の逮捕予定者リストに手書きで人名ひとつを加えたのかもしれなかった。


「ここにいたのか、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ。ああ……」


 ティモシェンコは部屋に入ってきて、いま何が話し合われていたかを察した。そして言った。


「昨日起きたことよりも、明日のために今日決めなければならないことがある。そうだろう」


「……そうだ、セミョーン・コンスタンチノヴィチ。その通りだ。第二防衛線をどこに引く。予備軍はもとの場所にいるのか」


 考え込んだジューコフはいったん口を開くと、自分を説得するように早口になった。バトゥーティンは予備部隊の位置を示す作戦地図を持って来させる指図を始めた。


 だが7月にスモレンスクで戦うことになっても、「線」によって守るには、ロシアは……いまやベラルーシは失われつつある……広大過ぎた。スモレンスクの戦いでは、平時から後方に存在した二線級師団が中心になった。晩秋を迎えて、戦いがモスクワに近づいたころ、ようやくソヴィエトの防衛は「線」をめぐるものになったのである。そしてそのとき戦っていたのは、大戦が始まってから編成された師団群だった。


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 西部方面軍という当時の呼称をずっと使ってきたが、多くの読者には「ベラルーシ方面軍」と言った方がイメージしやすいだろう。とするとその本拠たる中心都市は、当然ミンスクである。


 開戦後数日でミンスクが戦場になるなど、ソヴィエトの誰も考えていなかった。後方から前線に急いでいるわずかな兵力と、最前線の包囲から逃れてきた兵力がここで合流し、抵抗を試みた。だが後退の過程で、多くの重火器は失われていた。人は数十万人いたが武器はなかった。6月26日、パヴロフ方面軍司令官は司令部をミンスクから後退させ、通信の混乱に拍車をかけた。


 27日夜、グデーリアンとホトの装甲集団はミンスクからモスクワに至る道路を遮断した。はるか西にも包囲環が残っていたが、西部方面軍残余は半分以上がミンスクに孤立した。そして28日、最初のドイツ軍が市内に突入した。7月に入っても一部の抵抗は続いたが、ミンスクの運命は28日にはっきりした。


 明けて、29日。スターリンは参謀本部に突入した。自分の参謀本部に。


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「チキショーメ!」


 スターリンは参謀本部と労農赤軍への罵詈雑言(ばりぞうごん)を締めくくると、後をも見ずに背中を向けた。ぽろぽろ落涙するジューコフの形相もすごかったから、誰も怖くてハンカチを差し出せなかった。


 やがて、ごしごしと軍服の袖で涙を拭いたジューコフは、遠巻きにする参謀士官たちに向き直って吠えた。


「仕事に戻れ、同志ども!」


 きびきびと歩み去る士官たちの足音だけが、ジューコフへの拍手だった。それが去ると、静寂だけが残った。いや、ひとつだけ足音が近づいてきた。


「同志将軍、午後の現状報告がまとまっております……」


 まだ顔がぐしゃぐしゃなジューコフがにっこり笑ったので、バトゥーティン参謀次長は言葉を失った。いまジューコフは仕事の話が聞きたかった。仕事の話以外、聞きたくなかった。


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 異変は29日から30日の朝にかけて、軍人よりも政治家たちが真っ先に気づき、ひそひそと伝達された。スターリンが郊外の別荘にこもったまま、誰にも会わず、仕事をしようとしないのだ。ソヴィエト連邦ではスターリンの決裁なしに重大事は何一つ決まらないのだから、これは一大事だった。


 6月30日、閣僚級の政治家たちが下相談をした後、連れ立ってスターリンの別荘を訪れた。そして統治者にして事実上の最高司令官たるスターリンの責任と負荷を分担するため、GKO(国家防衛委員会)を組織することで、スターリンをなだめることに成功した。


 GKOには軍人はひとりもいない……というとヴォロシロフに怒られてしまうが、戦争と軍需生産、後には輸送などに関連する政治家たちが集まった戦時内閣のようなものだった。


「君たちには従来にも増して、忠誠と献身を期待する。敵は強大だが、我々には妥協の余地はない。そんなことはわかっていたが、私はそれを忘れていたようだ」


 スターリンの口調には普段通りの冷徹さがあって、それが閣僚たちの表情を和らげていた。スターリンが()てば団結は保てる。団結が崩れない限り、ソヴィエトは最後には必ず勝つ。人口と国土を武器として強敵を受け止め、ついには牙を抜いてしまう戦争は、ロシアの歴史において何度も起きた。


「だが、私にも許せない男たちがいる。私自身がそれに対処するが、せっかく君たちに盛り立ててもらった私の最初の仕事が、そんなものになることを許してほしい」


 政治家たちは顔を見合わせた。拍手するような趣旨の話でもなさそうだった。だから誰も口を開かなかった。


<いっそニヤリと笑ってくれたら、この男も人間のうちに数えてやっても良いのにな>


「何か言いたいことがあるのか、クリメント・エフレモヴィチ」


「あっ、いいえ、なにもございません、同志スターリン」


 物思いが表情に出たヴォロシロフは、ベリヤ内務人民委員から視線を離した。尊敬する叔父の葬儀に出てきた……というふうに、ベリヤは完全に平静で、神妙な表情を保っていた。


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 7月1日、ヴォロシロフがジューコフを参謀本部に尋ねると、箱を抱えた参謀士官と何も持っていない参謀士官がそれぞれ大勢、アリの巣のように歩き回っていた。まさに大きな引っ越しであった。目を覚ますように軍事に口を出し始めたスターリンは6月30日、敗北が続いた北西方面軍の参謀長にバトゥーティン参謀次長を当て、その下のマランディン作戦課長を西部方面軍参謀長に補した。西部方面軍司令官にはエリョーメンコ中将が発令された。軍司令官になって1年も経たないエリョーメンコは、誰かが来るまでのつなぎだと思われたが、とにかく参謀本部のナンバー2と3がいなくなるので大騒ぎであった。


 会議室でジューコフに会ったヴォロシロフは、別に急ぎでもない確認事項をひとつふたつ片付けると、目線でジューコフに人払いを促した。ジューコフは部屋から下僚たちを去らせた。


「パヴロフのことは聞いているか」


「罷免されたと聞きました」


「逮捕された。家族と……幕僚たちも一緒だ。同志スターリンが、彼らを反逆罪に問うた」


 ジューコフが何も言わなかったので、ヴォロシロフは合格点を与える教師のような顔をした。


「セミョーン・コンスタンチノヴィチが彼の後任となる。エリョーメンコは司令官代理(副司令官)だ。国防人民委員は同志スターリンが兼ねる」


 ティモシェンコが閣僚を外れて西部方面軍を任されることを、ジューコフは喜ぶべきか迷った。ヴォロシロフは続けた。


「同志スターリンが、STAVKA最高司令官となるのだ」


「それは喜ばしいことです、同志元帥」


 ジューコフは力を込めた。スターリンがそうしないから、ティモシェンコ「議長」がスターリンの代理のような顔でいろいろな命令に署名する羽目になっていたのである。


「だから、これまでのことを背負う人間が必要になる。わかるな」


 すぐにはジューコフは答えなかった。


「簡単に飲み込める人間はおらんよ、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ。だが飲み込んでくれ。今までで一番、ソヴィエトは同志スターリンを必要としているのだ」


「私もスターリン最高司令官を必要としております、同志元帥」


「それを聞けて何よりだ」


 ヴォロシロフは立ち上がった。もう用事は何もなかった。


 7月10日、STAVKAは改組されてティモシェンコは「議長」から一般メンバーに戻り、スターリンは正式にSTAVKA最高司令官となった。孤独な支配者は、最初の危機を乗り切ったのである。


 クリーク元帥は戦場を護衛なしで移動することに耐えられず、農夫の服に着替えて、7月13日になって友軍のところにたどり着いた。


第28話へのヒストリカルノート


 最初のシーンは基本的にジューコフの回想によるのですが、マイソフの脚色が入っています。座って話を聞かず、ゆっくり歩きながら聞くのはスターリンの癖でした。


 わざわざ紙巻きたばこをほぐす理由は本人にしかわかりませんが、ぜいたくな煙草の箱を国民に見せたくないという政治家の打算であったかもしれません。


 スターリンと同席していた人々は、たぶん(少なくとも内務官僚以外は)相手や要件に合わせ、スターリンが選んで呼んでいたのであろうと思います。行ってみたらスターリンしかいなかった……という腹を割った会見にすることも含めて。



 ラウスたちが戦っていた相手の北西方面軍は、1940年にソヴィエトがバルト三国に進駐したさい創設された司令部です。この司令部と、ジューコフが出向いてドゥブノ(Dubno)の戦いを督戦した南西方面軍の間に、西部方面軍司令部があり、グデーリアンやホトの装甲集団はこれと戦っていました。この方面軍が一番混乱していて、督戦に向かったクリーク元帥の失態もあり、開戦当初の数日はモスクワに様子が伝わらない戦区でした。とはいえ同じような構成の部隊がおり、同じような反撃命令が出ていたので、個別にはドイツ兵を驚かせたT-34やKV-Iが西部方面軍にもいたでしょう。じつはラウスたちを悩ませた「街道上の怪物」KV-IIも、どこの所属であったのかいまだにわかっていないようです。



 フルシチョフは1953年6月にベリヤを逮捕するとき、彼を取り押さえる役のひとりに、親交のあるジューコフを使いました。映画『スターリンの葬送行進曲』は1953年3月にスターリンが死んだ前後の物語ですが、おそらくこのことを踏まえてジューコフは武装して出てきます。フルシチョフ政権の国防大臣になったジューコフは何年か経って、政治上のことでフルシチョフと対立し、迫害に近い扱いを受けました。フルシチョフが失脚してから出版されたジューコフの回想録にはフルシチョフはほとんど登場しませんが、わずかに残った短い記述は「彼のところに行くと、いつもうまいものがあった」でした。



 10cm(105mm)カノン砲は、1941年以降のドイツ装甲師団に1個中隊4門ずつ配備されました。ハードウェアとしてのカノン砲は高初速で対戦車砲に似ていますが、榴弾砲よりも遠くの目標を撃つタイプの砲で、軍団以上の軍直轄砲兵が扱うのが普通でした。装甲師団はどうしても砲兵が戦車の前進に遅れるので、遠くも撃てるカノン砲を特別につけてもらったのではないかと思います。もちろん今回の例のように、ソヴィエト重戦車に対して(もったいないけど仕方なく)使われることもありました。



 ソヴィエト軍は基本的に陸軍でした。例えば黒海艦隊が丸ごと陸軍の方面軍司令部指揮下に置かれることは珍しくなく(例外的にウラジオストックの太平洋艦隊は、近隣の陸軍部隊を指揮していました)、最前線で戦う航空部隊のほとんどはその地域の方面軍、ときには軍司令部の指揮下に入りました。この結果、敵飛行場を攻撃する任務はもちろん、戦闘機で航空優勢を取る任務すら軽視されて、もっぱら敵陸上部隊への攻撃とその護衛にリソースが割かれる傾向がありました。これでは都市や重要施設の防衛は当然後回しになりますから、戦闘機と対空砲を持った防空軍が別に創設されました。



 STAVKAはスターリンとモロトフ外務人民委員、数名の将軍・提督たちから成り、さらに数人の政治家・将軍・提督が顧問という肩書で準メンバーとなっていました。委員会の形式をとりますが、それを設置する命令には「どうやって意思決定するか」が書いてありませんでした。実際に率直な議論が戦わされましたが、最後はスターリンが決めたのです。多忙な全員が集まることはなく、逆にSTAVKA以外のメンバーが議論に加わることもありました。いま開かれているのがSTAVKAなのかGKOなのか、スターリンは形式にこだわりませんでした。


 ソヴィエト軍(労農赤軍)参謀本部はSTAVKAを補佐するような位置づけとなりましたから、STAVKAの所在地は強いて言えば参謀本部のあるところとも言えました。数か月後に参謀本部が地下鉄駅のホームを使って地下で業務を始めたころ、駅舎の中にスターリンが執務できる部屋も作られ、たまにスターリンが訪れて使用することもありました。



 6月29日にジューコフが涙をこぼした話はスターリンの側近が回顧していますが、ジューコフ本人は書いていません。スターリンが来て怒って帰ったことだけ書いています。



 ヴォロシロフを巡るシーンはすべて架空です。1933年、ヴォロシロフやスターリンに縁のある第1騎兵軍に属した第4騎兵師団が宿営地を変更した結果、長期間の建設工事に従事することになって、士気と練度がすっかり落ちてしまったことをヴォロシロフが聞きました。ブジョンヌイがお気に入りのジューコフを師団長に推し、1935年にはすっかり精鋭師団となってレーニン勲章を受けるまでに立て直しました。だからこの辺の人たちはみんな仲良しで「騎兵閥」のようになっていたのです。まったく陰口を言わなかったわけではないのですが。



 パヴロフは処刑され、妻子は収容所に送られました。娘がひとり、収容所を生き延びました。ただし、パヴロフとその関係者が大戦中に処刑された「唯一の」高級軍人グループではありません。メレツコフは結局生き延びたのですが、大戦直前の不祥事や架空の陰謀を理由に逮捕され、ベリヤの支配下にあるNKVDの内部で戦時特例の略式裁判を経て処刑された人々は大勢いました。おそらく周囲は、「敗戦責任を押し付けられた」ととらえていたでしょうけれど。例えば南西方面軍の空軍司令官だったプトゥヒン中将は、開戦から数日後に逮捕され、トゥハチェフスキー一味の陰謀に加担していた罪で処刑されました。なお史実ではジューコフはモスクワに召還されたパヴロフの審問に加わっているので、今回の一部の会話はドラマ的なねつ造です。


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