第27話 イギリスは持ちこたえる
イギリス空軍のハンプデン双発爆撃機のことを、のちに供与されたソヴィエト空軍は「バラライカ」とあだ名した。日本軍に供与されていたら「羽子板」と呼ばれたかもしれない。胴体が横に細く、縦に平べったいのである。後ろにいるふたりの機銃手は手動で機関銃を回すために気密性のない座席に座っており、もし電熱服が故障したら高空の低温に機銃手は耐えられず、機長は任務を中止してもよいことになっていた。
1936年に初飛行したハンプデンは、低速だった。もっぱら夜間爆撃か機雷敷設に使われていたが、まだ生産されていて、しかも不足していた。ハンプデンやウェリントン、そしてホイットレーといった低速の双発爆撃機が、とりあえずイギリス爆撃機部隊を支えていた。
しかしロンドンが激しい空襲に見舞われている以上、イギリス空軍はドイツの都市か工業集積を爆撃しなければ政治的にまずかった。
「みんな言い訳が多い。ベルリンと思われる都市へ爆撃したのはまだわかる。実際にどの街に落としたのかは別としてだ。目標到達不可能なのでハンブルクに落としたというのは、どういう航法だ」
「雲があると、いろいろなことが起きます。小さなことで人に突っかかると、またウィル(フリーマン参謀次長)に怒られますよ」
アーサー・ハリス空軍参謀総長代理(略称DCAS、参謀次長VCASのすぐ下の地位)は、参謀総長のポータル中将にパイロットの報告書を突き出していた。ポータルは今の地位につくまで爆撃機軍団司令官をやっていたし、ハリスはハンプデン爆撃機ばかり集めた第5航空団の司令だった。爆撃機のことは、ふたりともよくわかっているつもりだった。特にパイロット席がひとつしかないハンプデンで、ナビゲーターの助けすらなくベルリンまで夜間飛行して、間違いなく目標を見つけて爆撃して戻ってくることは難事であり、成功者が少なくても理解はできた。
爆撃機にとって、雲は味方であり、敵だった。地上からも見えなくなるが、爆撃目標も見えなかった。悪天候で雲海の底が下がっていると、その下に出ることはパイロットの期待余命を縮めた。
「出撃機数を増やさなければどうにもならんよ。少なくともクラウツ(ドイツ人=「キャベツ野郎」)の新聞を読めば、どこに落ちたかわかるようになるだろう。我々も、人は集まってきたが機材がな」
EATS(Empire Air Training Scheme)という食い物のような名前のシステムは、1940年12月にイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで合意された航空機搭乗員養成システムに関する協定であった。年間50000人の搭乗員を統一されたシステムで訓練し、その過半である28000人をイギリス以外の連邦加盟国が出すというものだった。これらはいわゆるバトル・オブ・ブリテンには間に合わず、1940年11月以降にようやく卒業者が出始めた。もちろんそれに先立って、出身地であれイギリス本土であれ、普通の課程で養成されたパイロットたちがイギリス空軍の飛行中隊に所属して戦ったし、カナダ空軍は1個飛行中隊のハリケーン戦闘機乗りを丸ごとイギリスに送り込んだのだが。
1941年も半ばに差し掛かり、カナダの巨大な訓練センターと、加盟各国の訓練施設を合わせてEATSが回り出し、ようやく人は足りるようになってきた。
空軍技術顧問のティザードは、後にドイツ爆撃機が使った電波航法システム「X装置」に対抗する電波航法システム「Gee」の開発を主導したが、フリーマンと昔から懇意だった。偵察機部隊出身のフリーマンだったが、イギリスも電波航法装置を持たなければドイツに勝てないこと、その技術なり訓練なりが確立するまで出動を控える方がよいことを主張していた。これが当たり前だと思い込むポータルたち爆撃機部隊出身者はなかなかフリーマンに同意しなかったし、「出撃して見せる」ことが政治的要請なのだから、フリーマンの言い分はなかなか通らなかった。そして、まずベルリンへ行って帰ってこられそうな熟練度になるまで、アントワープやシェルブールといった近場の爆撃任務や、フランス沿岸に航空機雷を投下する任務が課されるようになった。
ポータルの頭には、パイロットの量的増大に見合う機材増加のほうが緊急の課題であり、数がそろえば爆撃もうまくいくのだという思い込みがあった。となると、成立したばかりのレンド・リース法を当てにするしかなかった。後になって見ると、1941年半ば以降にいろいろなことが立て続けに起こって、1941年春にイギリス軍が考えていたことは吹き飛んでしまったのである。
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「中尉! 今日はおごりですよね、中尉!」
「いきなり2機ですか! あっという間に抜かれました!」
1941年5月11日……というより着陸すると12日朝だったが、飛行中隊長のレント中尉がBf110を降りようとすると、先に降りたクルーと地上要員が輪を作って口々に祝いを言った。夜間戦闘機部隊に転じて以来、「撃墜スコア伸びない歴」11ヶ月目に入っていたレントが、いきなり2機のウェリントン爆撃機を一夜にして落としたのであった。
操縦の疲れもあったが、レントの笑顔は弱々しかった。爆発的な喜びより、ほっとした気持ちがにじんでいた。部下が初撃墜を記録するたびに中隊長としてプレッシャーがかかっていた。このころまで主流だった夜間戦闘ではレーダー情報は戦闘機ではなくサーチライトに与えられていて、戦闘機パイロットは特定のサーチライトの周囲を徘徊し、たまたまサーチライトが敵機をとらえるのを毎晩毎晩待つしかなかった。といっても11ヶ月の間に中隊の撃墜スコアはこれで合計11機であり、そのうち2機をレントが落としたことになった。
「諸君、俺の言いたいことは、ひとつだ」
人々が静まり返ったところで、レントは言った。
「諦めてはだめだ」
爆笑と拍手が続いた。レントがもうひとこと言うと、さらに大きくなった。
「俺は諦めてた」
レントは11か月、夜間撃墜数ゼロのまま部下をまとめて飛行中隊長を続けてきたわけで、その温厚で冷静なリーダーシップは高く評価されていた。レントが「坊主」でなくなるのを待っていたように(実際、誰か経験ある士官パイロットがそうなるのを待っていたのだろうが)、レントは別の飛行中隊長に転任させられた。部下が成果を挙げすぎて飛行中隊長の言うことを聞かなくなり、撃墜数と始末書の数が競うように伸びている連中だった。
ちょうどこのころを境に、1機ずつの戦闘機を各1基の地上レーダーで目標まで誘導する「ヒンメルベッド」方式が効果を上げ始め、新しい中隊は先んじてこの狩猟法に転換していたのだった。そして、レントも新しい狩りの方法を学んでいくことになった。カムフーバー少将は1941年8月にサーチライト部隊・レーダー部隊・夜間戦闘機部隊を指揮下に収める第12航空軍団長となり、ヒンメルベッド方式を推進した。
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「済まんね。期待させたか」
「いえ」
ヨードルの返事はそっけなく聞こえなくもなかったが、カイテルは気にしなかった。国防省にあるカイテルの執務室を訪ねたヨードルは、カイテルの個人的な食品戸棚から接待を受けていた。従兵が入れてくれたのは代用コーヒーだった。ヨードルは砂糖を大盛りで入れたようにカイテルは感じたが、特に何も言わなかった。ヒトラーがちょっと離れたところにいる今が貴重な息抜きの時間なのは、お互い様なのだ。
「外交的解決というのは、必ず決定的な勝利のあとに来るものなのでしょうか」
「もちろんそうとは限らないさ。オオシマは日露戦争の話をしてくれた。最初から日本は講和を言い出してくれる中立国を探していたそうだ。そしてアメリカを見つけた」
カイテルは日本大使で陸軍駐在武官でもある大島浩と仲が良かった。
「ソヴィエトをあんな形でこちら側に引き寄せてしまったのは、今から思うとイギリスとの講和を遠ざける選択でしたね」
「それを言うなら日本だってそうだ。ゼークト将軍は最後まで、蒋介石との関係を断つことはドイツにとって損だと言い続けておられた。その場合、日本が我々にとって得になる仲介者になってくれたかは怪しいものだがな」
「我々は外交において一方的に得をすることに慣れすぎました」
「どうした。ヴァーリモントかロスバークに、何か言われたのか」
「いえ、自分でそう思うのです」
イギリスは当面、ドイツから安全なところにいる。アメリカはますます親イギリスに傾いていて、イギリスに和平を言い出させる条件はそろわない。イギリスが持っている海軍と空軍を見ていれば、イギリスがそうした形で生き延びることを最終防衛ラインとして堅持しているのはわかりそうなものだが、ヒトラーは終始そんなことを問題にしなかった。ヒトラーは対策も持っていないし、つてをたどってイギリスと対話し妥協点を探ることもしていない。そしてソヴィエトを叩き、軍事的解決をはかろうとしている。
だが、その軍事的解決はやはり、政治的解決に変換しなければ戦争は終わらない。
「ハルダー将軍は、国境近くでソヴィエト軍を壊滅させることに自信を持っておられる。スターリンは和を乞うよ」
「……そうですね」
「このあと予定がないんであれば、親睦会でもやるか」
ヨードルはカイテルを思わず見返した。国難であろうと、自分にどうすることもできないことには関わらず、淡々と出来る仕事をこなす。それはカイテルの大いなる欠落であり、まれに見る美質でもあった。
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コロニアルはただの商船だから、OB-318護送船団司令部が執務に使える部屋などなかった。船倉の一部に布で囲いを作り、会議のできるスペースを確保していた。護送船団の出港を控え、その一角は各商船から集まった高級船員たちでいっぱいだった。
「よろしく頼む。何しろ指揮船と言ってもこの設備だ。本船に何か生じたときは、船団を守ってくれ」
船団指揮官のウィリアム・マッケンジー少将は、商船ブリティッシュ・プリンスから会議にやってきた、副指揮官のリース大佐と握手した。
「この船と閣下が欠けては、私などにできることは何もありますまい」
「君の方が、船長たちに言うことを聞かせられるだろう。商船に自分で逃げろと言うようでは、ロイヤル・ネイビーの名に重みなどないさ」
このころのイギリス海軍士官はいくつかの種別があって、マッケンジーはRNであり、リースはRNRだった。つまりマッケンジーは職業軍人だが、リースは高級船員の学校を出るとき有事の応召を約束させられ、ずっと民間船員として過ごして、そしてここにいるのである。実際、リースはキャプテン(海軍大佐)でもあるが、ここにいるのはむしろブリティッシュ・プリンス号のマスター(船長)としてだった。マッケンジーには正直、民間の船乗りが何をどう感じるのか想像もできなかったし、リースには戦闘のことが分からなかった。それでも何とか、急ごしらえのこのチームをイギリスのリバプールから、グリーンランドの南あたりまで連れて行かねばならなかった。
とはいえ、彼らは船団の指揮官であって、護衛部隊の戦闘に口は出せない。どうも大損害を予期されていそうな会話だが、護衛艦艇の艦長や艇長は気が付かぬ顔で、また第7護衛隊のボケット=プーフ中佐は押し殺した無表情で、それをスルーしていた。
駆逐艦は3隻で、残りはフラワー級コルベットかスループ、中にはもっと格下の徴用トロール漁船を改装した特設駆潜艇もいる。駆逐艦3隻のうち、ボケット=プーフ中佐が艦長を兼ねる駆逐艦ウェストコットは第1次大戦中の完成だし、残り2隻は昨年にアメリカから譲られた旧式駆逐艦。そのうち1隻はオランダ海軍のクルーに任されているときている。鉄火場で英語が通じることを祈るしかない。43隻の商船に負けず劣らず、10隻の護衛隊も寄せ集めチームだったが、これまで短期間ながら激しい戦闘を生き抜いてきていた。
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1941年5月2日にリバプールを出発した船団は、7日にはアイスランドのレイキャビク港に近づいた。海のこととなると容赦のないイギリスは、1940年5月に上陸作戦を行って、アイスランドの港などを占領していた。ここが目的地だった数隻の商船が第7護衛隊の艦艇群とともに船団から抜け、ベイカー・クレスウェル大佐の駆逐艦ブルドッグが率いる第3護衛隊の艦艇群が代わった。
このころはまだ、イギリス軍はドイツの暗号が少ししか解けていなかった。この数日前、ドイツ潜水艦U-95は船団から見て西にいたが、北米からリバプールに向かう別の船団を見つけて、フランスに進出しているデーニッツ潜水艦隊司令官に通信を発し、U-95の位置が分かった。何を報告したかはわからないが、とにかく1隻そこにいる……と知ったイギリス海軍は、そこを避けて迂回するようマッケンジーたちに命じた。だが、水場で草食獣を待つ肉食獣のように、重要な港であるレイキャビクの周囲には別のUボートがいて、新しいコースは彼らへの道でもあった。
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「コモドア! コモドア・サー!」
その声の前に遠くで爆発音があって振動が来たので、マッケンジーは起きていた。この場合のコモドアは小艦隊指揮官と言ったニュアンスである。急いで髪に櫛だけ当てると、マッケンジーは上着を羽織ってドアを開けた。本来なら船長室に使われている部屋である。こればかりは船内秩序のようなもので、遠慮しても仕方がなかった。
呼びに来たのは水兵だから状況を聞くだけ無駄だ。マッケンジーは寒気の中を船橋に向けて走った。少し小さな爆発の衝撃が何度も来た。爆雷攻撃に違いない。Uボートが出たのだ。
船長はすでに到着していたが、通信を扱う海軍士官は無言のままマッケンジーを待っていた。だが護送船団は軍人と民間人の混成部隊である。船長を民間人扱いして秘密から締め出すようでは、心からの支持は得られない。
「船団の状況を話せ」
マッケンジーの指示で、士官は口を開いた。
「イエス・サー。イクシオンとイースタン・スターが被雷しました」
2隻の商船には特設駆潜艇やコルベットが救助のため接近していた。船を放棄するかどうかはまだ確定ではないが、船橋から見える炎の大きさは見通しを暗くした。数少ない駆逐艦が、爆雷攻撃の主役になっていた。
じつはたまたま進路にいたU-94は4本の魚雷を撃ったのだが、2本は外れて、イギリス側では把握していなかった。この初回の攻撃以降、数時間にわたって爆雷を落とし続けた護衛隊だったが、ついに撃沈の兆候は現れなかった。ブリッジに運ばれたコーヒーと軽食につかのま慰められながら、マッケンジーはブリッジで北極圏の早い夜明けを迎えた。
夜明けとともにマッケンジーは忙しくなった。船団司令官は羊の親玉として、羊飼いが狩りに専念できるよう、いるべき場所を外れた羊たちに指図をする。夜の間は無線機の前に座って、護衛部隊の奮闘ぶりを聞いているしかないが、船影が見えるようになったら出すべき指示は多かった。
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リース大佐はブリティッシュ・プリンスの船橋から退出するタイミングをさっきから測っていた。マッケンジーですら護衛隊に指示が出せないのに、副指揮官としてのリースに差し迫った仕事などないのだ。むしろ最も権威ある傍観者、そしてマッケンジーの次席指揮官として、すべての経過を記録し、理解しておくことこそ必要であった。朝になって第3護衛隊の残りが加わり、居残ってくれていた第7護衛隊の小艦艇群がレイキャビクへ去っていくのを見届ければ、リースは朝寝をしてもよさそうだった。
さっきからコロニアル号が去り行く艦艇に向けてチカチカと発光信号を送っていた。平文のモールス通信だったが、「素晴らしい協力に感謝し」まで読んでリースは興味を失った。こういうことは大事だとは思うが、リースが記録しても仕方のない通信だった。
腹に響く大型航空機のエンジン音が聞こえて、リースは飛びつくように窓に近づいた。イギリス空軍機の色をしていてひと安心だった。つい先月から、ドイツの大型航空機がアイルランドの西側まで飛んでくるようになって、船乗りたちはひそひそとその影響を予想し合っていたところだった。さすがにアイスランドにイギリス空軍がいるとあっては、大型機だけでここまで来られるものではないはずだった。
いわゆる狼群戦法は、このころから試行錯誤で生まれてきた戦い方で、広い意味では今まさに、船団はその最初期の狼群に突っ込んでいくところだった。 大西洋北西部にUボート23隻が集中し、5月8日から6月20日までに商船33隻、19万トン余りが撃沈されたのである。U-95が見つけて報告した船団はとうにリバプールに到着していたが、Uボートは逆に警戒の緩い狩場を求めて、大西洋の西半分にさまよい出てきたところだった。
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5月9日早朝、U-201はそっと浮上して、艦長シュネー中尉と数名の乗組員が目を凝らした。暁の水平線に、小さいが見慣れたシルエットが見つかったのは間もなくだった。
U-110は1939年の開戦当時から外洋で作戦できた、貴重なVIIA(7A)型の1隻だった。そして開戦直後、船型リストのチェックを誤り、客船アテニア号を沈めてしまった艦でもあったが、そのことは友軍にも極秘にされていた。だから若いシュネーにとって、U-110艦長のレンプ大尉は騎士十字章持ちの偉大な先輩だった。シュネーは小型でいくらも航続距離がないIIC型で去年初撃沈を記録したばかりで、ようやく中型のVIIC(7C)型に乗せてもらえたところだった。
向こうもこちらに気づいたようで、慎重にフードをかぶせ、方向を限定した発光信号が、艦の接近を要求してきた。OB-318船団を先に見つけたのはU-110であり、船団のコースはレンプの方がシュネーより知っていた。そして夜のうちに浮上して距離を稼いでおかないと、潜航時の速度では船団について行くのも難しかったから、距離を稼ぎながら話そうということなのだった。シュネーとレンプは艦を近づけて、肉声で襲撃を打ち合わせた。
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鈍い振動が次々とU-201を襲ってきた。レンプは自分が仕掛けてから、シュネーは30分後にしろと命じた。だから今、先に位置をさらして爆雷を浴びているのはU-110だった。シュネーが薄暗い中央指令室を見渡すと、みんな胃の痛そうな顔をしていた。
「時計を見ろ。時計だけを見ろ……」
シュネーは自分自身にそう念じていた。そして30分が過ぎた。願わくば、これでレンプへの爆雷攻撃が緩んでほしかった。
「雷数4、雷撃用意」
中央指令室の空気が、少し緩んだようにシュネーは感じた。当座の仕事で、みんなU-110のことを忘れていられるようになったのだ。それもまあ、こちらに爆雷が落ちてくるまでのことだろうが。シュネーは照準をつけるために、潜望鏡を上げた。
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「こんなに近くにいるというのにな」
マッケンジーはつぶやいた。連夜の襲撃で、コロニアル号に乗り組んだわずかな軍人たちにも、船長以下の船員たちにも、睡眠不足から来るとげとげしさがあった。2隻のUボートは4隻の商船を沈めた。直後には船団内の位置修正や人命救助の指示で忙しくなったが、救助活動の細部は……できるとしたら、だが……護衛隊指揮官に任せるしかないから、すぐにまた仕事がなくなって、ただ守られているだけになった。救助のために商船が居残ったら、二度と船団に追いつけないからである。
さっきから、イギリス本国と護衛隊指揮官がしきりに長い通信をやり取りしていた。レベルの高い暗号通信なので傍受もできなかった。何か起こっているのだが、何が起こっているのか知らせてもらえず、貢献もできない。そのことがマッケンジーをいらだたせていた。
「悪いことではないのでしょう、提督」
コロニアル号の船長が穏やかに口をはさんだ。マッケンジーは周囲に視線をやって、自分の不機嫌が周囲を気遣わせていることに気づいた。
「サー! 寝椅子をお使いになってはいかがですか」
マッケンジーの従兵に指定されていた水兵が、上級者たちの会話が途切れた瞬間をとらえてマッケンジーを呼んだ。ありあわせのクッションや板を毛布でまとめて、毛布の下で足を伸ばせる「椅子状の空間」が作られていた。戦闘配置中だから、護衛指揮官が別室で休むなど論外であるが、ここは護衛船団である。うるさいことを言わず、目を開けているなら楽な姿勢くらいは許容されるべきだった。船長も笑顔で賛意を表した。日本風に言うと、1885年生まれのマッケンジーは還暦をちょっと過ぎている。
「ありがとう」
部下たちも休ませてやりたかったが、マッケンジーはしばらく考えて、いまそれを命じることをやめた。少なくともマッケンジーが楽をしていれば、総員戦闘配置を解く提案はしやすくなる。まだ爆雷が次々と投下され、生存者の捜索が済んでいない状態では、それはできなかった。毛布を掛けるとすぐに体温が移って、数時間ぶりの温かみが足全体に広がった。
通信士官がさりげなく近づいて、マッケンジーの耳元でささやいた。
「制圧したUボートの艦内から、エニグマ暗号機の現物が捕獲できたようです」
マッケンジーの視線は一瞬強くきらめいたはずだが、かろうじて声は出さずに済んだ。護衛指揮官が心配する事項が含まれていないと知って強まった眠気を、マッケンジーは首を振って払った。
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U-201は逃げ切り、U-110のレンプ艦長は浮上時の小競り合いで戦死して、多くのクルーは捕虜になった。沈没直前のU-110にイギリス海軍が決死隊を出して、エニグマ暗号機と関係書類をぎりぎりで押収した。9日から10日にかけての夜に、船団にはさらにU-556が追い付いて被害を増やした。10日に船団が解散されたのは、爆雷がすっからかんになって護衛艦艇が救助者でいっぱいになったからではなく、もともとそういう予定だった。船団の一部は独航船として、ここから南アフリカ方面へ向かうのであった。
リベリア共和国がアメリカからの解放奴隷の再定住地として発展したように、アフリカ西岸にある英領シエラレオネはイギリスからの解放奴隷が多く入植したところで、その中心都市はフリータウンと言った。ここがマッケンジーの乗るコロニアル号の次の目的地で、最終的には喜望峰を回ってポルトガル領モザンビークまで行く予定だった。
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ボルドーの名を知らない日本人はあまりいない。だがほとんどはワインの産地として名を知っているだけだから、その位置を正確にイメージできる人となるとぐっと少なくなるだろう。ボルドーはフランスの南西、大西洋岸にあり、パリよりもスペイン国境の方がずっと近い。ドイツ空軍の海上大型機部隊は、ボルドーのメリニャック基地を使うものが多かった。
ロリアンとなると、知っている日本人はぐっと少なくなるだろう。ボルドーから海岸を500kmほど北上したところにあるロリアンは、フランスでのUボート基地だった。
ロリアン中心部から10km余りのところにある、当時の人口が500人余りのブランデリオン村となると、もう尋ねるだけ野暮というものだが、ここにドイツ空軍大西洋航空指揮官部が置かれていた。
空軍が陸軍に偵察機や対空砲(の一部)の指揮をゆだねたように、海軍にも海軍に協力する部隊を差し出すという約束は何度も出され、何度も骨抜きにされた。ゲーリングがメンツにかけて政治力を発揮したのが主に悪いのだが、あらゆる任務を押し付けられたドイツ空軍が「支出を抑制」しようと懸命に逃げまわった面もある。海上でも、ドイツ空軍は仕事をしていなかったわけではない。だがその大西洋航空指揮官がハルリングハウゼン「中佐」だというあたりに、部隊の規模が表れていた。
さて……そのハルリングハウゼン中佐であるが、現在ロリアンの病院にいた。船舶攻撃のエースであり、総撃沈トン数が20万トンを超えるハルリングハウゼンは、ここでも自ら大西洋に出撃して、不時着のさい重傷を負ったのである。病床で仕事を続けていたから、後任は発令されなかった。
「最近は海軍が静かだな。何も言って来ない」
「大西洋の向こう半分に集中しているようです」
書類を持ってきた幕僚に、ハルリングハウゼンは軽口をたたいた。まだ大西洋に護衛空母はほとんどおらず、商船に取り付けたカタパルトで戦闘機が片道発進するCAMシップのことが報告されている程度だったが、ドイツの哨戒機では大西洋の西半分までは飛べなかった。だからコロニアル号はいったん大西洋を西へ渡って迂回コースを取ったのである。
「我々の手の届くところから、船団も逃げているようだな。特に南向きだ。だが鷲の届かないところには、狼がいるさ」
U-94がレイキャビクの近海で待ち伏せていたように、シエラレオネのフリータウンに入ろうとする船もまたUボートに狙われた。U-107もそうした位置についており、艦長のギュンター・ヘスラー大尉はUボート部隊総司令官・デーニッツ中将の娘婿だった。
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状況を考えれば、ボートに揺られた面々の表情は「暗くはない」と言うべきだった。5月27日未明、へスラーのUボートはフリータウンまであと少しのところまで来たコロニアル号を撃沈した。ひとりも欠けることなく船員と海軍軍人がボートに乗れたことは幸運だったし、事態を知らせる無線は打てたから、救助も来るはずだった。ただ、どんな船がどちらから来るかはわからなかった。
「サー! 船です、サー!」
「ボートを揺らすな!」
高級船員のひとりが双眼鏡を目に当てたまま叫んだ。そして船長が指示を付け足した。狭いボートの片側に人が一斉に駆け寄ると危ない。だからマッケンジーも、そっと首を回すにとどめた。
長く長く感じられる時間だった。船のシルエットはだんだん大きくなってきて、どうやらサイズも兵装も戦艦に見えるのだが、首をかしげる海軍士官の数がだんだん増えた。誰も、その艦のシルエットに見覚えがないのだ。
「イギリス国旗です、サー!」
双眼鏡持ちの叫びが、皆の不安を消した。ドイツの戦艦や巡洋艦だったら、捕虜として連れていかれ、途中で友軍に撃沈されるかもしれなかった。
「キングジョージV世級でしょうか、提督」
「主砲の並びはそのように見えるが……」
海軍士官たちの「何かが違う」という思いは、実際に艦上へ迎えられるまで解けることはなかった。
「ようこそHMSセンチュリオンへ、提督」
「センチュリオンだと!」
冷静で聞こえたマッケンジーが、思わずその艦名をそのまま問い返した。34センチ砲5基10門を備えた前大戦の戦艦センチュリオンは、ワシントン軍縮条約のせいで標的艦に改修され、大戦が始まると本国の軍港で工作艦を務めていたはずだった。センチュリオンの艦長はイギリス的な諧謔を見せて、無表情を保ったまま言った。
「あの砲塔は我々の自信作です。木製にしてはよくできているでしょう。HMSアンソンはまだ建造中ですが、こうして我々がクラウツ(キャベツ野郎=ドイツ人の蔑称)どものために、偽アンソンとして飛び回って見せておるのです。ちょうどフリータウンへ寄るよう言われていたところへ、ご災難のことを聞きまして」
アンソンはキングジョージV世級戦艦の4番艦だが、当時のイギリス海軍は、ビスマルク級2番艦ティルビッツが出撃してきたなら、キングジョージV世級戦艦でないと対抗できないと考えていた。だからセンチュリオンがアンソンとして大西洋のあちこちに姿を見せ、「すでに4隻いるのだぞ」とドイツ海軍をけん制していたのである。マッケンジーより先に、いっしょに救助された通信士官たちがくすくす笑いを漏らした。
「ということは、本当の主砲は、あれかね」
「ご明察です、提督」
笑い声はもっと大きくなった。マッケンジーが指さしたのは、40mm対空機関砲だったからである。
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大戦直前のスターリンによる軍の指導は、ヒトラーがすでに何度かはっきりと示し、敗戦に向かってますますひどくなっていく統帥の欠点を、ほとんどすべて備えていた。古い経験や生半可な知識で特定の武器を重視して見せることがよくあり、部下たちが賛否両論を戦わせて技術の問題になると、現在の資源配分通りにやれと言って議論を打ち切ることもあった。何を犠牲にしても何を守るのかという優先順位を示さず、ヒトラーがすべての場所に死守命令を出したように、限られた資源が生み出す限られた達成に甘んじていた。
ひとつのことだけは、はっきりしていた。
ヒトラーとはいずれ戦争になる。
スターリンと接する人々は、スターリンがそう思っていることを感じ取っていた。航空機設計者のヤコブレフを閣僚(人民委員)として遇したのを筆頭に、スターリンは技術者たちと直接話し、鋭い目で質問し、優れた政治家としての直観力を働かせて、根拠のない憶断を自分自身から急速に追い出しつつあった。大粛清が多くの専門家を葬ってしまったこと自体の認識も含め、ドイツとソヴィエト両方のありのままの姿をスターリンは理解し始めていた。
ソヴィエト陸軍参謀本部が情報部から知らされたところでは、ドイツの東方への戦力移動は1月下旬から見られるようになった。鉄道複線化工事や飛行場拡張と言った悪い兆候も積み重なり始めた。ジューコフは参謀総長として、3月になるとティモシェンコ国防人民委員と口をそろえ、国境へもっと部隊を進めるようスターリンに進言し始めた。既存部隊への増員にまずスターリンが応じたのは3月末だった。しかしドイツ軍の兵力移動は止まらず、5月下旬になってさらにペースを増した。ジューコフたちは「訓練」の名目で、西部軍管区やウクライナ軍管区の東側に内陸部の部隊を前進させておくこともした。
だが、陸上にほとんど脅威となる戦線を持たないドイツ軍は、ソヴィエト軍の予想を上回る戦力を集中させてきた。部隊を動員し、訓練し、装備を与え、移動させ、そして補給を届かせるという巨大システムの運用にドイツは長けていたし、今なら動員できる資源も多かった。
明らかにソヴィエトは、この状況に備えていなかった。仮に1941年3月か4月に、スターリンが内心でドイツの侵攻を確信し、ティモシェンコとジューコフが提案するすべての対抗措置を承認したとしても、1941年6月にはドイツに対してやはり数的・質的劣勢に立ったであろう。
だからヒトラーはもとより、ハルダーが勝利の自信を持っていたとしても不思議はないし、「いま開戦されたら」という恐れをスターリンが持ち、それが目先の判断を狂わせたとしても、異常なことではない。むしろ正常性バイアスにとらわれた、ごく自然な不決断であった。
その絶対的不利に、ソヴィエトは持ちこたえ、逆にドイツはついえた。ソヴィエトが強靭さを見せ、ドイツは弱点をさらけ出した。それは決して単純な物語ではないが、そのいくつかの構成要素を、私たちはこの物語で見ていくことになるだろう。
おことわり
第28話~第32話では、1941年6月~11月の出来事が描かれます。すでに戦いは世界に飛び火し、ひとつの戦域やトピックスを追うために、物語の中での日時が各話ごとに巻き戻ってしまうことが多くなります。読みにくくなる点をあらかじめお詫びします。
第27話へのヒストリカルノート
今回の海上護衛戦話は、艦名・人名と戦闘の時系列はだいたい史実通りと思われます。思われるというのは、一部が研究家の遺稿に基づくサイト情報で、典拠が失われているからです。各時点の戦況判断、船内の様子(マッケンジーが座るなど)、会話・通信のほとんどは創作ですが、シュネーとレンプが艦を近づけて直接会話したのは本当のようです。外れた魚雷の数も、多くの場合わかりません。
マッケンジーは基本的に水雷屋でしたが、1932年から34年まで空母ハーミズの艦長も務めていました。1936年に営門少将(退役直前に進級することを営門〇〇と俗称しますが、イギリス海軍じゃどう言うのでしょう)として退役し、1939年に現役復帰していました。
実際には、船団結団式のような会合は船長全員を集めて、リバプールで行われたようです。理由はわかりませんが、航海初日には駆逐艦ウェストコットは船団におらず、後から追いついてきました。この架空の会議にはボケット=プーフ中佐がいますが、そこにいなかったはずです。また、商船ビルマの船長が船団指揮序列第3位のリア・コモドアに指名されていましたが、名前がわかりませんので出てきません。
第7駆逐隊でオランダ海軍のクルーが運用していた駆逐艦キャンベルタウンは、イギリス海軍の手に戻った後、サン・ナゼールの大型ドックを使えなくする作戦のために自沈させられ、『封鎖作戦』という映画にもなっています。
シュネー中尉もやがて騎士十字章を授与され、名前にちなんだ雪だるまのエンブレムで有名になりました。
U-110から見つかったエニグマ暗号機は、ご存知の読者も多いと思いますがイギリスが手に入れたものとして、ポーランド軍情報部から託されたものに続く2台目です。U-110撃沈直前のビスマルク撃沈時には空軍用のエニグマ暗号解読が大きく貢献したといわれており、そうだとすると基本的な部分ではエニグマ暗号はもう解けていたことになりますから、この2台目がどれくらい役に立ったかは議論があります。少なくとも一緒に見つかった冊子の方には価値があって、以後はUボートの位置推定が正確になりました。見つかったのは「短縮暗号表」で、おそらくミッドウェイをAFと略すたぐいの、位置や航路を言い換えるためのコード表であったのでしょう。マッケンジーがエニグマのことを知らされたのはフィクションです。
「ドイツの東方への戦力移動は1月下旬から」というソヴィエト軍情報部の認識は、ドイツ側士官の回想と一致します。当初は通常ダイヤにいくらか臨時列車を混ぜていたものが、ピークを迎えると民需などを最低限に抑え、通せるだけの軍需列車を通すような臨時ダイヤに変わりました。ですからだんだん、ドイツの策動はソヴィエト軍の目から隠せなくなっていたはずです。
ジューコフの回想録は、「将軍たちが軽挙に出ようとしている。くれぐれも慎重に対応してくれ」というヒトラーの秘密親書がソヴィエトの手に渡るように企まれたこと、スターリンがその種のものを実際に読んでしまったかもしれないことを指摘しています。しかしそうだとしても、スターリンの抱える正常性バイアスがその背後になければ、スターリンはそれに心を動かされはしなかったでしょう。「独裁者に秘密報告が行く」ことには、「独裁者は孤独に情報を評価しなければならない」という負の面がありました。
イギリスは、1941年4月に第15装甲師団がリビアに現れたことに対応して、300両近い戦車を一気にエジプトまで送ることを決めました(輸送船が撃沈され、届いたのは238両でしたが)。そのとき、ドイツはソヴィエトを攻める準備をしていることが明らかなので、イギリス本土の戦車がそれくらい減っても差し支えないという判断をしました。岡目八目(おかめはちもく=遠くから見ているので当事者より全体が理解しやすいこと)のイギリスにもそれだけの情報があったのですから、ソヴィエトには十分な判断材料が届いていたはずなのです。




