表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/53

第26話 ドイツ軍アフリカへ


 ムッソリーニによるイタリア参戦は、目の前でフランスの敗北が確定し、イギリスもまたドイツに講和を求めてくると見込んだ博打であった。1935年にエチオピアに攻め込んで占領することには成功したものの国際的な批判にさらされ、スペイン内戦でもフランコ派を助けて戦費と人と装備を使った。現地人兵士を除いても23万人以上のイタリア軍人がエチオピアに孤立し、あらゆる物資が不足した中での参戦は、端的に言えば英仏からの領土獲得が目当てであった。南フランスに攻め込んだイタリア軍はがっちりと受け止められてしまったし、守備兵力がわずかな英領ジブチや英領ソマリランドを占領したほかは、攻勢そのものを取らなかった。リビアとエジプトの国境では小規模な戦闘が続き、6月14日にはリビア側のフォート・カプッツォ陣地が奇襲でイギリスに取られていた。


 だがイギリスとの早期講和についてヒトラーの目算が狂うと同時に、ムッソリーニの目算も狂った。ヒトラーのイギリス本土上陸作戦は「やるやる詐欺」に終わったが、ムッソリーニは自分もイギリスに対して戦果を挙げる必要に迫られた。だが後年ロンメルを苦しめた補給の困難は、リビアのイタリア軍にも同様に降りかかっていた。エジプトに深く攻め込むための車両や物資は現地にもなく、本国からも届かなかった。


 9月9日、イタリア軍はリビアからエジプトに侵攻した。イギリスはまだ本土防衛の心配をしなければならず、紅海が安全でない以上、エジプトへの輸送ルートはどれも危険だった。数的に劣勢だから国境を固守などせず、わずかな部隊が遅滞戦闘をしただけだった。イギリスが決戦の場所と覚悟していたところまでイタリア軍は進まず、50km余りを歩いたあと陣地を築いてとどまった。


 ある意味で、イタリア軍はムッソリーニの注文通りのことをしていた。イギリスに対して「攻めて見せた」のである。ムッソリーニはアフリカにかまわず、さらに明確な戦勝を求めて10月28日にギリシア国境を越えた。だがイギリスはこの間に、人と戦車と航空機をエジプトに集めることができた。どこかで勝って見せたいのはチャーチル政権も同じである。さらに重油不足が気になるイタリア海軍を横目に、イギリス海軍も道路のある沿岸に布陣したイタリア軍を狙った。弾も兵器も足りないとしても、イラクやクウェートの油田があったから重油の心配だけはなかった。


 1940年12月にイギリス軍がエジプトで発起した攻勢は、イタリア軍を壊滅させた。退却するための車両もなかった。1941年2月までに、イギリス軍はベンガジなど東リビアを制した。捕虜たちはカイロ方面への鉄道駅まで歩くしかなかった。


 イタリア軍がエジプトに攻め込む前から、ドイツ軍の援兵を求める交渉は始まっていた。軍馬の使える場所ではなく、何もかも自動車化された部隊でなければだめだ……とドイツ軍はすぐに理解したが、自分の作戦のためにひとつでも装甲師団は欲しいところだった。陸軍の軍人たちも、2個装甲師団あればエジプトまで行けそうだとか、総じて無責任なことを言った。イギリス海軍や空軍の関与についての情報が十分に伝わっていなかった。


 それら(後から見れば)グダグダな議論によって結果的に出来上がったのが、アフリカ防衛部隊(Sperrverband Afrika)の主力となる、第5軽機械化師団の構成だった。当初は歩兵連隊がなく、「第200特設連隊司令部」のもとに(独立)機関銃大隊が2つつけられた。この機関銃大隊はもともと重機関銃を持って応援に駆けつけるたぐいの軍直轄大隊なのだが、それを運ぶためにサイドカーや、1940年から生産の始まったキューベルワーゲンで全員が動けるようになっていた。そこを見込まれて、歩兵の代わりをさせられたのである。砲兵連隊は装甲師団として通常かそれ以下の戦力だったが、比較的小型の車両でけん引できる対戦車砲部隊が多めに配属されていた。


 ベンガジ陥落の報を聞いて観念したように、ヒトラーが派遣部隊に第15装甲師団を追加し、1941年2月も終わらないうちにアフリカ防衛部隊の司令部である「在リビア・ドイツ軍司令部」は「ドイツ・アフリカ軍団(DAK)司令部」に格上げされた。1個師団程度を送るつもりが、2個師団に増えてしまったからである。中将になったばかりのロンメルが、この軍団を任された。


--------


 イギリスの失敗は、ドイツ軍の来援が大攻勢につながると予想できず、リビアで勝利した戦力の多くをギリシアとスーダンに送ってしまったことだった。4月にならないと第15装甲師団は届かないというのに、イギリス軍が弱体化していることを航空偵察で見抜いたロンメル中将は、上陸できた部隊だけで大攻勢に出たのである。


 イギリスはこの時期、もうひとつの仕事に取り掛かっていた。北のスーダン、南のケニアからエチオピアを攻める大作戦である。西アフリカや南アフリカのイギリス植民地部隊が次々とケニアに集まった。スーダンには第5インド師団が増援され、第4インド師団がリビアから戻された。ロンメルが登場する前に、リビアでの大敗で士気阻喪したイタリア軍はわずかな陣地に追い詰められてしまっていたし、状況の好転を利用することももうできなかった。


 港町トブルクをめぐる陣地に立てこもるイギリス軍は海路の補給を頼りに粘ったが、他のイギリス軍はエジプト国境まで引いた。トブルクがすぐに落ちないと見たロンメルは小規模な部隊をエジプト国境に送り、わずかに国境を越えてハルファヤ峠を取った。実際にはハルファヤ・パスと呼ばれる細い谷間より、その西の山塞(さんさい)めいた高台が重要で、陣地もここにあった。ここはフランス戦でストンヌ村がそうだったように、それ自身は攻めにくく、しかしそこを攻め取らないと重要な道路が使えないような地形だった。


 攻撃任務につけられる部隊は、人数や装備で有力でないと優位に立てない。攻撃に向かう部隊や、敵襲に応じて反撃するような部隊になるべくそれをあて、陣地をひたすら守っている部隊に戦闘で消耗した部隊をあてるのは理にかなっていた。ロンメルがハルファヤ峠に配したのはそういう消耗した大隊で、召集されるまでは牧師をしていたバッハ少佐がその指揮に当たった。


 4月になると第15装甲師団がやってきた。だがエチオピアにいるイタリア軍の主力を率いるアオスタ大公(イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のいとこの子)はすでに追い詰められていて、5月19日に最後の陣地を開城した。首都アジスアベバを中心とした地域は制圧されたものの、全土のイタリア軍がいなくなったのは11月だった。


--------


 大西洋上では静かな競争が続いていた。ドイツはFw200が発着できる長い滑走路(現在のオスロ国際空港と、スタヴァンゲル国際空港)を1941年4月にようやく完成させ、イギリスがようやく航空優勢を取り始めたイングランド南西海上での狩りから転じて、「く」の字型にノルウェーからアイルランドの西を回ってフランスのボルドー・メリニャック基地に至る大回りの哨戒機ルートを使い始めた。イギリスは戦闘機1機をカタパルト射出できるCAMシップを船団に随行させ、最初の護衛空母オーダシティを6月に竣工させた。大西洋の戦いについては、これから何度も触れることになるが、少し先のことまで、ここでひとつながりに概要を語っておくことにしよう。


 アメリカはすでに、1939年11月に中立法(中立を守るための貿易制限などを定めた法律)にキャッシュ・アンド・キャリー条項を付け加えていた。もともと中立法では交戦国への融資も、アメリカ船が交戦地域に入ることも禁じられていたが、それはそのままに「代金を直ちに支払い(キャッシュ)」「交戦国の船舶でアメリカから持ち帰る(キャリー)」のであれば、弾薬などを売ってもよいという修正であった。つまり大西洋を渡れる英仏とだけ取引をしても不公平ではないという理屈である。


 だが、イギリスの国庫はもう空であった。選挙を終えたルーズベルト大統領はレームダック状態を脱して、イギリスを救うべく国内世論に働きかけた。


 決定的な転機は、1941年3月のレンド・リース法成立だった。「大統領が、その防衛が合衆国防衛に不可欠と認める国(any country whose defense the President deems vital to the defense of the United States)」に対し、武器を含む物資の供与・貸与などを認めるものであった。二国間の協定にはアメリカの法律より踏み込んで、「消費または喪失した分を除いて返却する」などと「借りもらい」の実態が書かれていた。イギリス初の護衛空母オーダシティが1941年9月に初出撃したとき、アメリカのF4F戦闘機(イギリス空軍名マートレット)が積まれていたし、後に護衛空母アヴェンジャーとなるアメリカ商船は1941年7月にイギリス海軍に供与され改装に入った。それらは、護衛空母そのものが供与されるまでのつなぎであった。レンド・リース法の効果が目に見えてくるには時間がかかったが、1941年も半ばになると、それは始まっていた。


 前年8月にアメリカから受け取った50隻の旧式駆逐艦は、1940年末から1941年の春にかけて改修を終え護衛艦隊に加わっていた。大戦直前、捕鯨船の設計図をもとにわずかな武装を加え、量産が始まったフラワー級コルベットも次々に完成した。非力なコルベットも駆逐艦の代わりにイギリス付近で沿岸防備や船団の送り迎えに従事し、一部は船団そのものに加わって大西洋を往来した。


--------


 地下水にも海水が混じりこんでいるため、塩気のあるコーヒーや塩気のある紅茶を我慢して飲まなければならないのはエジプト・リビア戦線の悩みだった。リビア東端に近いデルナの街だけは真水の地下水が得られ、古代からこの地域で珍重されていたが、デルナ自体はおよそ防御に利点のある地勢ではなく、この水を得ようと思ったら全般的優勢を勝ち取って地域ごと手に入れるしかなかった。だからいま、デルナはロンメルのものだった。


「届いたばかりのデルナ水です、少佐」


「ほほう、ありがたい」


 ドイツ第15装甲師団補給指揮官のフレイ少佐は、それを聞いて表情を緩めた。エジプト国境の指揮所からベンガジに自動車で出張する途中、トブルクを包囲するドイツ軍部隊の物資交付所に寄って水の補給を所望したら、100km西のデルナからの水があったのだった。部隊は違うが、同じ補給部門のフレイへの特別サービスなのに違いない。交付所を指揮する曹長は愛想がよかった。従兵が白十字マークの付いた水専用のカニスター(ジェリカン)を受け取った。


 ついでに日陰で午睡を取らせてもらうつもりだった。夏を迎えた東リビアは日陰でも摂氏60度に達する日があり、真日中の行動は消耗が大きすぎた。思い出したように、トブルクの方向で何かが爆発していた。かといって非武装の乗用車にとって、夜の移動もそれはそれで危険だったのだが。


「最近は港を爆撃しているようです」


「あそこは爆撃目標が多いからな」


 イギリス陸軍だけがトブルクを支えているわけではなかった。海軍が補給品と武器弾薬、さらには交代要員を運んでくることで、トブルクの粘り強い抵抗が可能になっていた。この「トブルク・フェリー・サービス」には駆逐艦や、それより少し小さなスループが当てられていて、潜水艦や航空機と激しく渡り合い、1941年を通じてみればかなりの喪失艦を出すことになった。イギリス空軍も包囲網の内側に平地を見つけて戦闘機を、それが難しくなってからは偵察機を飛ばして支援した。イギリス軍がギリシアに続いて1941年5月にクレタ島をドイツに奪われると、トブルクを守り抜いていることの政治的な意味が重くなっていた。イギリスはひとりで戦争をしていたのではない。アメリカから自分がどう見えているのか、自問自答しながら戦っていたのである。


「少佐殿の買い付け担当者はイタリア語ができるのですか」


「そうだな。戦争まではアレキサンドリアでホテルのボーイをしていた男だ」


「それはうらやましい。私どもの担当者はリビア人の通訳に頼っていまして、いろいろ上手くいきません」


 この戦争についてリビア現地人は原則的に中立であって、しかしイタリア・リラでの物資購買に応じてくれていた。部族の長老たちのもとにいる武装した民間人はキレナイカ地方だけで12000人……とフレイはレクチャーされていた。気を使う相手だった。こうした日々の実務は、戦間期に民間人経験のあるフレイのような「世間を分かった士官」が補給指揮官として、調理、屠畜と言ったその道のプロたちと一緒に仕切っていた。そうしたプロたちもまた、階級が高くないからと言って怒らせてはいけない人々だった。日々を回すのが補給指揮官、その上に立って改善と変化への対応に動くのが若手の補給主任参謀と言ったところであった。


 小さいがはっきりした銃声が西へ延びる街道から聞こえた。複数だが機関銃ではないようだった。交付所が一気にざわめき、野戦電話が鳴った。鉄十字を描いたイギリス軍のディンゴ偵察車が日除けの布地を外され、1個分隊ほどの歩兵を従えて偵察に出るのが見えた。


「最近こう言うことは多いのか」


「日中は珍しいですね。イタリアの民間人は本土か西部に避難してますが、いくらか残っています。車両が狙われたかもしれません。でなければ海岸にこっそり上がったトミー(イギリス兵)かもしれませんが。出発は少々お待ちください」


「当然だな。休むとなると日陰を借りたい」


 長老たちとリビア総督の間で話はついているとしても、イタリアの警察力が低くなった現在、征服者たちを襲うリビア人もいた。フレイの預かるトラック部隊は護衛がついていなかったが、定期的にドライバーたちに射撃の訓練を課したほうが良いかとフレイは考え始めていた。


--------


 高級ブランデーの一番基本的な条件は、コニャック地方かアルマニャック地方のどちらかで取れたブドウだけで作られ、その地方内で生産されていることである。端的に言えば、このふたつの地方にある酒造組合が産地ブランドの声価を守る主役をつとめてきた。


 ただし、自社の畑から取れるブドウだけでブランデーを作るとなると、生産量が限られてしまう。思い切って地方内のあちこちからブドウを買い込み、ブレンドして毎年同じ味のブランデーを作る難業に成功した大手酒蔵であれば、生産量も多く、宣伝費をかけて名を売ることができる。こうした酒蔵はアルマニャック地方よりコニャック地方に多かったから、ドイツでも「コニャック」はフランス・ブランデーの代名詞であり、兵隊街のバーではウイスキーの倍の値段だった。当然の成り行きとして、1940年秋以降のドイツ士官たちはコニャックをごっそりと安く買って飲んだし、お近づきのしるしに新しい任地などに持ち込んだ。


 だから、今日ベルリンで開かれた高官たちのパーティにもコニャックやシャンパンが供され、ドイツワインのグラスより早くウェイターの盆から消え失せていた。今夜のカイテルはヒトラーのそばを離れて、パーティにいた。幕僚総監として国防大臣の職責を継いでいたから、どっちみちカイテルはヒトラーがどこにいようと時々ベルリンに戻ってきて、たまった書類を決裁しなければならなかった。ヨードルは戻っても特に仕事はないので、旧国防省の建物にはヨードルの部屋はなく、ベルリン南西部の別の場所にヨードルとOKW作戦部のための小さなオフィスがあった。


「カイテル元帥、ご無沙汰しております」


「リューデル将軍」


 カイテルは旧知の人物と握手した。陸軍から空軍創設時に移った、対空砲兵総監のリューデル空軍大将だった。カイテルと同じ砲兵出身だが、元をたどればバイエルン軍人だから「肩を並べた」というほどの付き合いではない。


「紹介いたします。カムフーバー少将です。第1夜間戦闘機師団を率いております」


「お会いできて光栄です、元帥」


「カイテルだ。夜に爆撃機と戦うのか」


「はい。なかなか容易ではありませんが」


 カイテルはカムフーバーの首に騎士十字章があるのに気づいていた。わざわざリューデルが引き合わせるのだから期待されている人物のようだが、カイテルは新兵器や新技術に詳しいほうではなかった。リューデルがカイテルの戸惑いを察した。


「ヨゼフ[カムフーバー]は私と同じバイエルン人です。もとは工兵ですがソヴィエトの飛行場でパイロットになりました」


「今は戦闘機部隊どうしの連携を保つのが主な仕事で、今日は仕事前に一杯というわけです」


 カムフーバーは簡潔に説明した。


「彼が仕事に慣れてくれれば、防空の主役も交代していくことでしょう」


 リューデルの言葉にカムフーバーが困った顔をするのを、カイテルは視界の端にとらえた。リューデルが名目上の元締めである対空砲については、カムフーバーの権限は及ばないようだった。


 カイテルは1940年7月に元帥となった。ヒトラーが気前良く、フランス戦に参加した将帥たちを昇進させたのである。幕僚総監としてその上に立つカイテルもまた昇進させられた。だがリューデルの首には騎士十字章がなかったし、開戦してから昇進はなかった。空軍の首脳陣とうまくいっていないのだった。


 リューデルの構想では、前線部隊の防空には88mm砲は使わないことになっていた。ところが要塞攻撃や対戦車戦闘に新しい役目ができたので、空軍の88mm砲部隊が多数陸軍に協力し、フランス戦で少数の88mm砲が対戦車・対陣地用途で陸軍部隊に提供されたのを皮切りに、ソヴィエト戦を前にして陸軍所属の88mm砲部隊も編成され始めていた。不和の種はそれだけではないが、陸軍がリューデルの立場を悪くしているようなところもあり、カイテルは言葉少なになった。


 後の話をしておくと、カムフーバーが航空機部隊に加えてサーチライト部隊やレーダー部隊まで指揮下に収める航空軍団長に出世したのは1941年8月だったが、それを目前にした7月、リューデルは依願退職した。


--------


 少し時がさかのぼるが、ここでユーゴスラビアとギリシアでの推移についてまとめて語っておきたい。


 映画「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐のもとになったオーストリア海軍のトラップ少佐は、潜水艦乗りとして地中海で第1次大戦を戦った。トラップ少佐は回想録の中で、敗戦直後「ユーゴスラビア海軍が」オーストリア海軍将兵を歓迎すると言ってきたが誰も応じなかった……と書いている。敗戦直後であれば国名はユーゴスラビアでなく「セルボ・クロアート・スロヴェーン」であったはずなのだが、1935年に回想録を出版するころには、トラップはそんな長い国名を忘れてしまっていたのかもしれないし、長い旧国名を注記するのが面倒であったのかもしれない。


 ユーゴスラビアは、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、モンテネグロなど大小の国家群を無理に統一した国で、主導権争いは常にあった。国名が変わったことも、セルビア主導の集権化を進めるためのステップだったのである。ユーゴスラビアでは戦前のセルビア王家が王位についたが、1934年に国王が暗殺され、11才の少年王が即位して王族の摂政がついた。ところがこの摂政がヒトラーの圧迫を受け、1941年3月25日に日独伊三国同盟への参加を調印してしまった。27日に軍部がクーデターを起こして摂政を追い、17才の国王ペータル2世が親政を始めた。


 新政府はドイツ駐在大使に対して、日独伊三国同盟を批准することも含めて、今までの政府の約束は守るととりあえず言った。しかし「印象」でものを見るヒトラーに、このクーデターは許しがたい裏切りと映った。ヒトラーは早くも4月11日、18個師団を集めてユーゴスラビアに攻め入った。ハンガリー、ルーマニア、イタリアがこれに協力した。


 ユーゴスラビア軍の高級指揮官もほとんどセルビア人が占めていた。ドイツ軍が侵攻すると、一部の部隊はセルビア人の指揮官を追い出し、クロアチアに拠って独立を宣言した。これは極端な例であるとしても、ユーゴスラビア軍はむしろ数的に優勢とすら言えたのに、セルビアとセルビア以外のすき間風が影響して、急速に崩壊した。セルビア人とセルビア正教会を嫌う政治結社ウスタシャが地下活動から表に出てきて、クロアチア独立国樹立についてヒトラーの支援を受けた。


 1940年12月3日の総統指令20号では、ギリシアに侵攻するドイツ軍はブルガリアからギリシアに入り、ユーゴスラビアは態度不明の国として放置することになっていた。ギリシア=ブルガリア国境は長いが、ギリシア北東部とそれ以外のギリシアをつなぐ部分は細くくびれており、イギリス自身が「ノビレス・オブリージュ(貴族の義務)」と勝ち目の薄さを自嘲してはいたものの、イギリスが送った数個師団が盛り立てれば守りようもあった。ところがユーゴスラビア=ギリシア国境も侵攻ルートに加わると、一気に分が悪くなった。リビアからイギリス軍を追い出すロンメルの攻勢も激しくなってきたところで、ギリシアに増援もできなかった。


 クレタ島に逃れたギリシア政府、ギリシア軍、イギリス軍を追って、ヒトラーは4月25日にクレタ島上陸作戦を下令し、5月20日から降下・上陸作戦が始まった。勝ったものの、ドイツ軍は貴重な降下猟兵を中心に死者・不明者4000名近くを出し、ヒトラーに降下作戦についてネガティブな印象を与えた。


--------


 ヒトラーが潜水部隊指揮官カール・デーニッツを信頼していたことはよく語られる。しかし海軍総司令官としてデーニッツの前任者であったレーダーも、海軍の持っていた資源をぎりぎりまで使って勝利に貢献しようとした。レーダーもイギリス本土上陸作戦をめぐる経緯ではっきりしているように、ヒトラーの無理な作戦には抵抗したし、デーニッツも大戦後半には戦果を挙げられなくなったが、陸軍軍人たちがヒトラーに抵抗する「印象」がヒトラーに強かったため、海軍は空軍とともにヒトラーと比較的良好な関係を保った。そして主力艦を通商破壊に出して大きなリスクにさらすことには海軍部内の反対も強かったが、レーダーは断行した。ブラウヒッチュができなかったことを、レーダーは批判をかぶりつつ押し通した……と評したらブラウヒッチュに酷であろうか。


 1941年1月、巡洋戦艦グナイゼナウとシャルンホルストが通商破壊のため、本国からノルウェー沖を通って大西洋に出た。ところがすでにふれたように前年11月、装甲艦アドミラル・シェーアが弱体な護衛部隊ごとHX84船団を蹴散らしたことがイギリスを用心させていて、1隻ずつだが旧式戦艦が船団のお供をするようになっていた。今度はドイツ海軍が、アドミラル・グラーフ・シュペーの喪失を思い出す番だった。大西洋の真ん中で損傷を受ければ、襲撃側は戻ってこられる見込みがない。いくらかの損傷を追い、ゼロではないが主力艦投入に見合うほどの戦果もなく、両艦は西フランスのブレスト軍港に帰ってきた。


 これらと合流する形で、虎の子の戦艦ビスマルクを重巡洋艦プリンツ・オイゲンとともに通商破壊に出すことが計画された。ところがシャルンホルストやグナイゼナウは修理のためしばらく動けないことがはっきりした。4艦を併せ指揮することになったリュチェンス中将も、レーダー元帥も2艦だけでの成功を危ぶんだ。リュチェンスは視察にやってきたヒトラーに作戦延期を訴え、ヒトラーも同意したように見えたが、作戦を延期するヒトラーの指示は出されなかった。こうして集団無責任のような形で、準備を終えてしまったビスマルクはプリンツ・オイゲンと出港するしかなくなった。


 ノルウェーから大西洋に出るルートは幅広く、これまでドイツの大型艦は(発見されても追撃までは間に合わず)無事に通過できていた。しかし今回は、イギリス重巡洋艦がビスマルクの出撃を視認してしまった。イギリス軍はどうにか、空軍のエニグマ暗号(部隊が広範囲に散らばるため、解読用ディスクの種類が少なく解読しやすい)なら解けるようになっていたので、乗り組んだ空軍士官に関する通信を傍受して位置を当てたともいわれている。巡洋戦艦フッドと戦艦プリンス・オブ・ウェールズを中心とする迎撃部隊が触接を試みた。


 フッドは38cm砲4基8門を持ち、日本の巡洋戦艦である金剛型と主砲を比べると同数・短射程・大口径である。巡洋戦艦と言いながら排水量は長門型を上回り、その余裕は防御力の向上に振られていた。だが被弾から直接引き起こされたか、何らかの誘爆であるかははっきりしないが、ビスマルクの主砲斉射が起こした艦尾弾薬庫の爆発により、フッドはほとんどの乗組員とともに短時間で轟沈した。プリンス・オブ・ウェールズも大損害を受けて避退した。


 この戦いは「デンマーク海峡の戦い」と呼ばれるのだが、この「デンマーク海峡」とは「アイスランドとデンマーク領グリーンランドの間」であることに注意する必要がある。つまりこの時点で、ビスマルクとプリンツ・オイゲンはノルウェーからはるか遠くまで来ていた。だから両艦はフランスを目指して、それぞれ単独行動をとった。


 イギリス本国艦隊司令長官トーヴィー大将は、戦艦キング・ジョージ5世に座乗して、多くの随伴艦とともにビスマルク追撃戦の後方にいたが、フッド喪失という事態になっては何としてもビスマルクを沈めないといけなくなった。護衛任務に就いていた戦艦ロドニーが呼び返され、ジブラルタルからは巡洋戦艦レナウンと空母アークロイヤルが発進した。小艦艇による触接と夜間攻撃が執拗に続けられ、アークロイヤルの艦載機がビスマルクの舵を魚雷で破壊する殊勲を挙げた。低速でしか航行できなくなったビスマルクに、追いついたキング・ジョージ5世とロドニーが砲戦を仕掛け、数百の敵弾を受けたビスマルクは自沈を選択した。


 フランスで合流したプリンツ・オイゲン、シャルンホルスト、グナイゼナウのドラマにはまだ続きがあったが、それは翌1942年に持ち越されることになった。


第26話へのヒストリカルノート


 すでに何度か出てきた参謀士官ヘルマン・テスケは、1941年6月6日に輸送総監部へ出張して、世界情勢について誰か偉い人の解説を聞きました。そのときのメモが回想録に残っているのですが、「[北アフリカの]ドイツ・イタリア軍の補給状況は好転しており、秋の終わりにはアレクサンドリアに迫れるだろう」という一節がありました。1941年秋にロンメルたちの運命が暗転したことはいずれ触れますが、ロンメルがハルファヤ峠まで取り返した時には、本国でも楽観的な発言をする人がいたことが分かります。



 イタリア軍がまだエジプトに攻め込んでいなかった1940年7月、エジプトに大規模な戦車の増援を送ることは決まっていましたが、緊急性が低いものとして先延ばしになっていました。第15装甲師団の増援を知ったウェーヴェルはチャーチルに緊急電報を打ち、チャーチルは軍人たちを叱咤して地中海を厳重な護衛の下に突っ切る「タイガー船団」を送り込む作戦をまとめさせました。5月になって実施されたこの作戦のついでに、マルタ島へはジブラルタル方向からも、迎えに出る艦隊とともにアレクサンドリアからも、物資が送り込まれました。1940年11月のタラント港空襲で多くの主力艦が戦線離脱していたイタリア海軍は軽巡以下の艦隊で襲撃を企てましたが失敗し、エジプトには大量の戦車が届きました。植民地部隊には訓練不足のままとりあえずエジプトに集まったものも多く、部隊ではなく戦車が切望されたのです。



 小型艦艇は航続距離が短く、また本国の近くが敵にとっては狙い目になることから、小型の護衛艦艇が本国に近づいた船団の護衛に加わったり、途中まで送ったりすることはよくありました。日本海軍もそうでしたが。



 まだ機上搭載レーダーがなかった頃は、Bf110双発戦闘機のほうが、双発爆撃機を戦闘機にしたJu88Cよりも比較的軽快でパイロットから喜ばれる傾向がありました。海上で双発機、時には飛行艇同士が撃ち合うようなビスケー湾(フランス西部とスペインが作る湾)では、大型で長く飛べるJu88Cにも利点がありました。



 戦線後方の対空砲部隊は地域の航空基地や見張り台を預かる航空管区司令部に属し、さらに航空艦隊司令部か本土空軍司令部(Luftwaffenbefehlshaber Mitte)に属していました。当時の西部戦線ではこれらは上級大将か元帥が指揮しており、カムフーバーが細かい指示を出せる相手ではありませんでした。しかし対空砲弾を上げる最大高度(遅発信管を点火するリードタイム)を約束しておけば、その上では夜間戦闘機が自由に行動できました。まあ戦場のことで、手違いで高く飛んでしまう砲弾もあったようですが。



 ユーゴスラビア軍には崩壊した部隊が多く、多くの軍人が捕虜にならず隠れました。国王政権との関係を保った勢力と、独立勢力であるチトー派に大きく分かれたものの、多数の軍人が抵抗運動に身を投じたことは戦中期ユーゴスラビアの特徴でした。



 イスメイの回想によると、2月下旬の会談でイギリス軍の進駐を受け入れると決めたギリシアは、北西のアルバニア国境から相当な戦力を引き抜いてギリシア中部に並べ直し、アリアクモン川に沿ってギリシアの南半分を共同で防衛することにしていました。ところが3月になってイギリスの輸送船団が動き出した後、突然それはできないと言い出しました。イスメイは書いていませんが、実はイギリスの戦力を引き入れて欲をかいたギリシア軍は、2月下旬にアルバニアのイタリア軍に単独攻撃をかけて撃退され、大損失を出していたのです。攻撃攻撃とうるさいチャーチルもノルウェーでの不首尾は記憶に新しかったので、ギリシアで調整に当たるイーデン外務大臣には「ダメだと思ったら正直にそう言え」と念を押して送り出していました。本国のイギリス陸軍参謀本部は、言葉を選びながらも、この救援は中止したほうがよいとチャーチルに上申しましたが、現地で交渉していたイーデンやディル陸軍参謀総長は「もう約束してしまったことだから……」と返電し、すでに始まっていたイギリス軍上陸はそのまま続けられました。イスメイは、軍事的には中止の方がよかったかもしれないが、約束を破ったら外交的な失点も巨大であったろうとコメントしています。


 ところで読者の皆さんは、嘘が好きですか。好きな人はいないでしょうが、もし保身のためのごまかしや、関係を損なわないための遠慮(嘘は言わずとも、気づいたことを全部言わないこと)をいっさい許さない隣人や同僚がいたら、すごくやりにくいと思いませんか。チャーチルは、そういう人なのです。ディルもウェーヴェルも、慎重に言葉を選ぶイギリス紳士でしたから、チャーチルにとってはイラつく相手でした。リビアやギリシアで負けが込んでいくうち、ふたりとも遠い任地にご栄転を命じられてしまったのですが、具体的に何が悪かったというより、もともとチャーチルに言わせれば「どうも合わない相手」であったのだと思います。イスメイが人並み外れた人間観察力と忍耐力を発揮してチャーチルに調子を合わせていったのに引き換え、ふたりは黙々と従来通り自分のペースで仕事をしていたわけで、誰が悪いかというと……むしろチャーチルのコミュ力が偏っているというべきでしょうね。イスメイはチャーチルに対して示した稀有のコミュ力で、戦後にNATO初代事務総長を5年務める偉業を成し遂げました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ