第25話 さなぎの中のドイツ
1940年11月、ジョゼフ・ケネディは帰国した。アメリカがイギリスを援助することに頑固に反対し、ヒトラーとの和解を支持するケネディをイギリス政府が忌避して、大使として居心地が悪くなったので、ルーズベルトに願い出て帰国させてもらったのである。ちょうど大統領選の時期だったから、正式な辞任は翌年1月、ルーズベルトの再選後になった。
11月はルーズベルトが3度目の任期に当選した月でもあった。建国の父ワシントンが自ら3期目の出馬を控えたことから、大統領は2期までという不文律があったが、危急の時期に経験ある大統領を続投させるというルーズベルトの説得に選挙民が応じたのだった。これで当面、「アメリカを戦争に引き入れようとしている」という共和党候補の批判からルーズベルトは解放された。ただしこのとき共和党候補となったウェンデル・ウィルキーは(ジョゼフ・ケネディとは正反対に)イギリスを参戦以外の方法でぜひ援助すべきだと主張していたし、1941年にはイギリスを視察した後、議会報告でレンド・リース法成立を支持した。そのような候補を共和党員たちが選ぶほど、アメリカ国民はモンロー主義(アメリカ大陸の外との相互不干渉)を守っている場合ではないと考え始めていた。実際、ユーラシアの反対側を巡ってアメリカと日本の対立は危険な水準だった。
だからケネディの退任は、ちょうどインタビュー記事で舌禍事件を起こしていたせいもあるのだが、むしろアメリカの潮流が変わることで政治的な居場所をなくした……と理解したほうがいいかもしれない。ケネディがイギリス敗北の見込みを本国に書き送っている間に、ハル国務長官とロシアン駐米イギリス大使は駆逐艦と基地の交換交渉を粛々とまとめていたのである。それがうまくゆくとなればチャーチル政権がケネディのご機嫌を取る理由もないし、ケネディがいなくなると後任任命を待たず、ハリー・ホプキンス元商務長官などルーズベルトの特使たちがロンドンにやってきて、様々な相談をした。
これはイギリスに比べ議会から独立しているアメリカの大統領制度を象徴したことかもしれなかった。権威はあってもルーズベルトからハブられればジョゼフ・ケネディには何もできなかったし、何の権限もなくても「大統領の信任」があれば、ホプキンスを軸とした米英の調整は迅速に進んだ。
ジョゼフ・ケネディの分まで仕事をしたロシアン駐米大使は12月、腎臓病の悪化で急逝した。チャーチルはハリファックスを後任に立てた。チェンバレンが11月に亡くなって保守党内のバランスが大きく変化した時期だったが、レンド・リース法成立直前のタイミングでのイギリス駐米大使は、国庫が空っぽに近いイギリスにとって、決定的に重要な立場だった。何度か触れたように保守党内でのチャーチルの立場は不安定だったから、長年チェンバレンの政治的同盟者だった何人かの閣僚は、実権のない職や海外の職にあてられて内閣から除かれたのだが、ハリファックスも含めて、こうして海外で重要な任務に就いた人々は多かった。
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ドイツ軍が演習場として接収したその土地は、元は牧場であるらしかった。牧場主の住居は管理棟として使われ、あちこちに掘った塹壕の跡がいくらかの起伏を作っていた。周囲の森や生垣から、偽装用の灌木も持ち込まれていた。
「赤部隊、青部隊の機関銃座を制圧!」
審判役の中隊先任曹長が宣言すると、兵士たちの緊張がゆるんだ。数十m向こうでは、守備側の分隊からため息交じりの声がした。守備側の2個分隊が2丁の機関銃を持って前線を作り、攻撃側の2個分隊が慎重に接近して前線と機関銃の位置を探り当て、自分たちの機関銃や接近した兵士の手榴弾で守備側機関銃座をひとつつぶす……という演習だった。
「正面から見えるところに機関銃を置くな。幅広く撃てなくていい。撃つ前に敵に見つからないように隠せ。敵から見て一番怪しいところには偽の銃座を作れ」
負けた青部隊に、新米小隊長の少尉が訓示をした。それを中隊先任曹長がじっと聞いていた。その視線があるから、分隊長の伍長や軍曹も少尉に対して生意気な顔はできなかった。少尉自身が、中隊先任曹長を試験官のように感じていた。
1935年から急拡大したドイツ陸軍は、そのころ徴兵した兵士が(軍役を続けていれば)5年目に入るところだった。それに比べれば、ライヒスヴェーアから勤務を続ける兵士は各年次の人数としては少なかったが、ライヒスヴェーアのころより基準を緩めて、多くが下士官に進み、学歴の高い一部の下士官はさらに訓練を受けて、予備士官として少尉以上になっていた。こうした練度の高い下士官と下級士官が、ドイツ陸軍の大きな強みであった。それに比べれば、士官を育てる訓練期間は短縮される一方で、すでに若さや気力を失いつつある応召士官も任務につけないと軍の急拡大に対応できなかった。だから指揮官たちは、配属された士官も注意深く育てていく必要があった。
「いい知らせがある。来週にはMG34が支給される。返納に備えてよく機関銃を手入れしておけ」
小隊長が最後に言うと、機関銃兵たちが一斉に笑顔になった。チェコスロバキア製のMG26(t)はMG34より軽くて、簡単に銃身交換もできたが、発射速度が遅めで、ベルト給弾ができなかった。ぎりぎりまで引き付けて洪水のように撃つ、今風の使い方に向かないのだ。だいいち、旧式武器の二線級部隊だと嫌でも意識させられた。
だが後に、兵士たちはそのときの笑顔を苦々しく思い出すことになった。それは師団がフランスを離れ、東部戦線に投入されることの予兆だったのだから。
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9月にイギリス本土上陸作戦がついえ、夜間爆撃、そして洋上での船舶攻撃が続いた。ドイツ空軍の目標は港湾都市や産業の中心地、そして何といってもロンドンだった。「負けないが勝ちは遠い」道を歩み始めたイギリスを屈服させる戦略爆撃としては、それは量的に足りなかった。だがロンドン市民は、爆弾が自分の頭上に落ちる番がいつ回ってくるとも知れなかった。「グッドナイト、アンド……グッドラック」が市民の夜のあいさつとなり、エド・マローの放送でも使われた。
ドイツ海軍も忙しかった。装甲艦アドミラル・シェーアはノルウェー沿岸をまず北に進み、11月になるころグリーンランドとアイスランドの中間を抜けて大西洋に出た。輸送船団を航空機で守る体制はまだ整っておらず、かえってシェーアの積んでいた水上機が輸送船団を見つけ、軽巡洋艦並みの砲を積んだ商船改造巡洋艦ジャーヴィス・ベイを沈め、残りを食い散らかした。
陸軍は待たされていた。「もう勝ったはずの戦争」を「勝ち」に持って行く一手がどうしても見つからなかった。ヒトラーはスペインのフランコ、ヴィシー・フランスのペタンと会談したが、戦争に積極的に関わってイギリスから一緒に何かを分捕ろうとする姿勢を引き出すことはできなかった。つい最近まで戦っていたフランスはともかく、スペインは大西洋岸が長いだけでなく、守りようがない遠方にまだ多くの植民地と在外資産があって、ドイツの恫喝と天秤にかけても参戦など損でしかなかった。
だからヒトラーは恫喝を本物の侵攻に変えることを考えた。スペインを抜けて、英領ジブラルタルに陸から迫るのである。今日では当時の世界地図を思い描くことが容易でないが、まだエチオピアやイタリア領エリトリア、そして英領ジブチとソマリランドはイタリア軍が制圧していた。つまり紅海の入り口、いわゆる「アフリカの角」からの脅威を排除しないと紅海、そしてスエズ運河は安全ではない。もしジブラルタルまでドイツが押さえてしまったら、エジプトと中東のイギリス軍はインドからの陸路、あるいはホルムズ海峡ルートくらいしか補給ルートがなくなってしまう。当時のイギリス軍はスーダンからナイル上流に抜けエジプトを目指す補給ルートの検討を命じて、現地軍を絶句させたのであるが、ジブラルタルはそれくらい「取られたら大変」なところではあった。
取れれば……である。
いったんドイツ軍がスペイン国境を越えれば、ドイツとイタリアの援助で政権を取ったフランコは観念して枢軸に参加するだろう。それがヒトラーの読み……あるいは虫の良い願望だった。
その準備が進むうち、10月28日になってイタリアがギリシアに攻め込んだというニュースが飛び込んできた。ドイツはギリシア侵攻作戦も考えねばならなくなった。そしてスペインは一向に色よい返事をしなかった。
11月、スターリンを枢軸に誘うヒトラーの手紙への返事を持って、モロトフ外務人民委員がやってきた。スターリンはトルコやブルガリアについてドイツがさらに譲歩するなら考慮してもよいと言ってきた。だがヒトラーは、イギリスを追い詰める他の策がことごとく行き詰った現状に苛立ち、返答を受け取る前から侵攻準備を一歩進める総統指令18号を出してしまった。そして12月18日の総統指令21号で、従来「オットー」であった作戦名称が「バルバロッサ」に変わった。
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「モスクワを狙うか、レニングラードを狙うか、それ自体は問題ではない。どちらを狙えばソヴィエト野戦軍を誘い出してせん滅できるか。そこだ」
OKHはパリ郊外のフォンテンブロー宮殿に進出していたが、10月末にそこを引き払ってツォッセンに戻っていた。常勝ドイツ陸軍を率いるハルダー参謀総長は、数的優位がないまま連合軍に挑んでいた春に比べれば、自信のある表情だった。大戦を終わらせるのは政治の領分だから心配することではないし、バラバラな位置にいる中立国をひとつずつ攻略することは容易だった。そしてソヴィエトは情報が得にくい国ではあるが、大粛清以降に経験ある軍人が失われ、装備の近代化も進んでいないことはまず確実と思われた。
「それならば、ソヴィエト軍の重点配備が見られる南方に我々も主力を配してはいかがでしょう」
9月から作戦担当参謀次長を務めているパウルス中将は、優秀な参謀士官だったが、1935年に大隊長の任を離れてから参謀やら総監やら、自分で決断しない職ばかリを転々として、中将まで出世していた。ポーランド戦からフランス戦までずっとライヒェナウの下で軍参謀長をしていて、最近になってOKHに迎えられたところだった。
「いい道路がないからな。我が車両のほとんどはキャタピラを持っていないし、わが軍のほとんどはそもそも歩いて行くのだ。まあそれも、古い地図が役に立つとしての話だが」
ソヴィエトとドイツの友好関係は表面上は続いていたが、最新の地図を手に入れることはやはり困難だった。じつはカルパチア山脈を抜けてしまうと、車両を動かしやすいのはむしろ南のウクライナなのだが、地図だけ見ていると北のベラルーシの方が道が良いように見えた。
「北半分のソヴィエト軍を包囲殲滅することができたら、十分にバランスは崩れるだろう。極東に配された部隊があるとしても、訓練された予備軍はそれほど手厚くもなかろうよ。補給はゲルケの頑張り次第というところか」
ゲルケ輸送総監の責任範囲は広いが、何よりも鉄道輸送の責任者であり、鉄道工兵もゲルケの全般的な指導下にあった。逆に1939年に英仏との全面戦争となり、第5波歩兵師団以降を編成する羽目になってからずっと、陸軍はトラック不足に悩まされていた。だから鉄道輸送のキャパシティが足りなくなれば、それをトラックでカバーすることは望めないのである。
「弾薬は足りるでしょうか」
「長引かせなければ大丈夫だろう」
トート機関はドイツ国内での様々な建設を担う組織として年々規模を大きくしてきた。その長であるフリッツ・トートは1940年3月から兵器・弾薬担当大臣を兼ねていた。全般的な戦争経済統制のためには、4か年計画担当大臣を兼ねるゲーリングの権限を削らねばならなかった。これはうまくいかなかったが、ドイツ各地には次々に弾薬工場が立ち上がり、ゆっくりと生産能力は上がってきていた。
ただ「来年以降に大規模な攻撃計画があること自体が秘密」な現状では、もうフランスを破って戦争は終わった気でいる多くの国民、特に多くの経営者を戦時生産体制に駆り立てることは難しかったし、ペタン政権からの矢の催促をぬらりくらり受け流し、フランスの戦時捕虜を帰さずに働かせているものの、労働力確保そのものが難問だった。イギリスの必死な軍備拡張との差が開いていくのは、国というものの構造上どうしようもない面があった。ヒトラー政権の縦割り支配が持つ無理と、ヒトラーの指示(と不指示)が持つ無理が重なっていたのである。
もうOKHでは誰もスペインやジブラルタルの話はしなかったし、イギリスのことも忘れていた。そんな場当たり的な戦争指導はどう考えても異常だったが、勝っているという認識がハルダーたちの警戒心を鈍らせていた。去年の今頃はヒトラーを射殺しようとピストルを持ち出した時期もあったのを、ハルダーは都合よく忘れていた。
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昼寝明けのチャーチルは、書類をつかんだまま寝室から出てきた。ベッドの上で朝食を食べながら書類を決裁することもあるチャーチルにとって、執務室の概念はあいまいだったし、書類の定位置はもっとあいまいだった。そして執務室にはイスメイが待っていた。
「愉快な報告など求めてはおらん。私が求めているのはいつも、本当の報告だ。知っておるだろう、パグ(イスメイ)。何か知らんか。欠片でもいい」
1940年5月には1300機足らずだったイギリスの航空機月間生産数は、6月から8月まで1600機を上回り続け、9月には1300機余りまでストンと落ちた。チャーチルが投げるようにイスメイに示したのは、その報告書だった。5月にチャーチルが航空機生産省を航空省から切り離してビーヴァーブルックに任せ、しばらくは非常にうまく行っていた。明らかに航空省と空軍参謀本部はビーヴァーブルックを嫌っていて、しばしばその方針に反対したけれども、数字は圧倒的だった。それが、数字で見てもおかしくなっていた。
イスメイは、慎重にチャーチルの顔色をうかがったので、チャーチルは不機嫌になった。つまりイスメイは「なぜビーヴァーブルック大臣に直接お尋ねにならないので?」と無言で伺いを立て、チャーチルは「理由は聞くな」と無言ではねつけたのである。若いころから世話になっているビーヴァーブルックは、チャーチルの頭が上がらない数少ない相手のひとりだと、イスメイは良く知っていた。
「ナフィールド子爵の修理組織は、大変な数の補修部品を抱え込んでいたと聞いております」
「モリス・モータースか」
チャーチルは、ナフィールド子爵が社主を務める自動車会社の名を挙げた。平日なら毎日、チャーチルがベッドで朝食を取っているあいだに陸海空の参謀総長会議が行われていて、イスメイも同席していた。ビーヴァーブルックはシンクレア航空大臣と航空省はもちろん、空軍参謀本部とも緊張関係にあったから、イスメイがそのルートでビーヴァーブルックの報告しない事実をつかんでいないか、チャーチルは尋ねたのだった。
大戦が始まったとき、ナフィールド子爵は当時のウッド航空大臣に申し出て、機械修理のできる(できそうな)民間企業をかき集めて航空機修理を引き受ける組織CROを立ち上げた。ところがこれがとんでもない安請け合いで、スクラップのリサイクルを引き受ける組織との連携もできていなかったから、修理不可能な機体が修理工場を埋めて、修理上がり機がわずかしか出てこない半面、工場が欲しがっている部品が補修用に死蔵されてしまっていた。ビーヴァーブルックはそういう問題への決断は早く、着任後数日でナフィールド子爵を解任して航空機生産省がCROを直轄し、抱え込んでいた部品も工場へ分配した。
ナフィールド子爵とモリス・モータースが抱え込んだままのリソースはもうひとつあって、プロムウィッチ城にある最大級のスピットファイア工場がずっと「建設中」だったが、これも政府の直接管理に移して6月から完成機が出始めた。
「作戦部隊の補修用部品も取り上げて生産に回したと聞いております。そうした海賊の埋蔵金のようなものは、短期間でなくなってしまうでしょう」
「うむむ」
「それに、ドイツの上陸は今年はなさそうだと感じているのは、工場労働者も同じでしょう、首相」
無理なシフトや休日返上で「自発的に」上げた生産性は、危機を過ぎれば元に戻ってしまうとしても不思議はなかった。
イスメイの知らない事情もあった。1938年にドイツがオーストリアを併合したのを見てイギリス議会もチェンバレン首相も一定の覚悟を固め、それまでメーカー間の自由競争に気をつかっていたところを、工場や設備に国費を出して(特定の)メーカーに使わせる、戦時並みの航空機生産拡大策を取った。だが工場ができ、工員チームが最新鋭設備に慣れていくためには、年単位の時間がかかった。戦争が始まると熟練工が業界外から補充できなくなったから、なおさらである。工員ひとり当たりの生産性は、遊休生産設備がなくなった1939年に(開戦を待たず)大きく上がり、ドイツ上陸の危機を見て無理を重ねてさらに上がったが、このころから1941年末まで低迷することになった。1938年から急拡大と工場疎開が続いた新工場が、1941年末に向けて慣熟を終えていったのである。
「そうしたことに一番詳しいのは誰だ」
「フリーマン空軍大将かと思います、首相」
「ビーヴァーが手放したがらない理由があるわけだな……」
「転任させるのですか」
チャーチルは何か言いかけて、やめた。そしてまた口を開いた。
「ダウディングとニューウェルを辞めさせるという提案が、年寄りどもから出ている」
空軍草創期の元帥たち、トレンチャードとサーモンドが、戦闘機部隊司令官のダウディングと空軍参謀総長のニューウェルをセットで辞めさせる提案をしていたのだった。定年を繰り返し延長して戦闘機部隊司令官にとどまっているダウディングの解任に、ニューウェルが反対していることがセットになる理由のひとつだったが、それだけではなかった。(戦略)爆撃による反撃が全くできていないことが長老たちには腹立たしく、ニューウェルの後任にはポータル爆撃機部隊司令官を昇格させようと提案してきていた。またドイツが都市爆撃の重点を夜間に移していて、航空機搭載レーダーなどの新技術にダウディングの対応が鈍いことも批判されていた。だいたいダウディングはちょっとコミュ障なところがあった。国民とチャーチルは遠いところにいるから手放しでバトル・オブ・ブリテンの英雄としてダウディングを賞賛できたが、上司として、同僚として、あるいは部下としての評価はまた違っていたのである。
「それでフリーマンですか」
「パグ。覚えておけ」
噛みつかれたイスメイは首をすくめた。チャーチルのストレスが自分に飛び散ってくることには、もう慣れてしまっていた。
「上のポストになるとな。国王の耳に入れねばならん。ウィンザー公爵(当時の国王ジョージ6世の兄であるエドワード8世。離婚歴のある女性と結婚するため退位)のことは知っておろう。離婚経験者はダメなのだ」
イスメイは目を大きく見引いて、口を閉じた。ありそうな話だった。
10月に入ってから、トレンチャードとサーモンドはフリーマンに言い含めて、ポータル中将に空軍参謀総長を引き受けるよう説得させた。ポータルは「フリーマンが次長をやってくれること」を条件に抵抗したので、フリーマンはそれを受けた。あとでポータルは空軍大将に昇進するとともに、昇進の日付を操作して、フリーマンの昇進日付の数日前にされた。部下より後輩というわけにいかないからだった。
じつはビーヴァーブルックが慰留していてチャーチルに伝えていなかったのだが、フリーマンはすでに9月初め、長期投資を削って「今月の数字」を出そうとするビーヴァーブルックとの果てしない暗闘に嫌気がさして、辞職したいと言い始めていた。空軍大将の就けるポストなどほとんどないのだから、参謀次長に気が進まなくても、フリーマンとしては受けるしかない提案であった。何と言っても、フリーマンは離婚経験者なのだから。
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ビーヴァーブルックの下で、近未来のための投資を守ったり、「前向きの」生産目標が実際の生産現場を混乱させないように図ったりしたのはフリーマンだけではなかった。だがテキサン(英軍呼称はハーバード)練習機を買った縁をたどって、ノースアメリカン社から戦闘機を購入する相談をまとめたことにはフリーマンの功績が大きかった。この戦闘機はイギリス空軍ではムスタング(マスタング)と呼ばれ、後から採用したアメリカ陸軍航空隊によってP-51の型番が振られることになった。そしてこれもフリーマンの在任中に決まったアメリカでのマーリンエンジン生産が端緒になって、(改良型)マーリンエンジン搭載P-51が大幅な性能向上を見せ、大戦後半の空を変えていったのである。
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「ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ! 」
「同志元帥! お元気そうで何よりです」
「極東での大手柄(ノモンハン事件)のことは聞いたぞ。お前さんに教えるものは、もうバヤン(アコーディオン)くらいしかないな。はっはっ!」
ノモンハンで日本軍を打ち破ったジューコフ上級大将は、騎兵の大先輩であるブジョンヌイ元帥と大きな音を立てて背中をたたき合った。ジューコフはキエフ特別軍管区司令官である。いわゆる冬戦争を勝利に導いたティモシェンコが元帥号を得て国防人民委員(大臣相当)に座り、ブジョンヌイはその第一人民委員代理(筆頭次官ないし副大臣相当、ただし「第一」は先任順の問題で、騎兵と馬に関する問題を担当)をつとめていた。
ソヴィエト軍は毎年11月か12月に、軍管区(平時の方面軍に当たる)や野戦軍の幹部を中心とした会議を行った。1940年の場合はそれが12月下旬で、訓練成果や作戦研究を発表する場であるため、師団長や軍団長も一部が集まっていた。フィンランドとの冬戦争を総括する会議であるため、例年になく軍人たちの注目が集まっていた。
「発表を楽しみにしておるよ」
「恐縮です、同志元帥」
「戦争に勝つのは良いものだ。迫撃砲を廃止するだの言っておった連中も黙ったようだ」
誰かを支持する発言をすれば、その人物の粛清に連座してしまう。うかつなことが言えないソヴィエト軍において、戦訓は近代化を後押ししてくれる「ニュートラルな発言者」だった。スターリンも革命戦争時の古い記憶で兵器開発や部隊編成に口を出すことがあったし、国防人民委員代理のひとりであるクリーク元帥が砲兵の近代化を阻む一方で大口径砲をひたすら優先し、迫撃砲の開発や配備が滞っていたのが、冬戦争のおかげで改善した。
クリークはノモンハン事件の時に砲兵アドバイザーとして派遣されてジューコフともめ事を起こしていたから、当てこすられる相手が誰か気づいたジューコフも、露骨に顔をしかめた。ブジョンヌイはブジョンヌイで騎兵の未来を信じ続け、ソヴィエト軍に巨大な騎兵部隊が残っていたことにかなり責任があるのだが、ジューコフはその点については注意深く沈黙した。まさにジューコフがノモンハンで戦車・歩兵・砲兵の共同攻撃をやって成功したため、戦車を組み込んだ諸兵科連合部隊がにわかに重視され始めていた。
「それより、大役が待っているのだろう」
「先のフィンランドとの戦争では陣地攻撃がカギになりました。現代的な野戦について人々を説得することは容易ではありません」
「野戦か。ふむ」
独ソ不可侵条約があるといっても、ヒトラーとドイツ共産党は仇敵であり続けてきた。ソヴィエト軍人たちはいつかドイツとの戦争はあるだろうと思っていた。だから今回の会議に続いて、ドイツとソヴィエトが戦う想定の机上演習をやることになった。その一方の指揮官としてジューコフが選ばれていた。
いわゆる「冬戦争」において、フィンランドの国境陣地帯であるマンネルハイム線でソヴィエトは足止めを食い、それが突破されるとまもなくフィンランド軍は講和を申し出てきた。だからソヴィエト軍はスピードのある追撃戦を経験せずじまいだった。それに伴って、ドイツ軍が進撃しながらごく自然に実行する諸兵科協同の経験が積めていなかった。ジューコフは野心ある有能な軍人として、ドイツが勝つように勝ちたかった。ドイツ軍ができることなら、ソヴィエト軍にもやらせたかった。だからジューコフは、演習でもそうするつもりだった。
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「君たちの尽力で、アフリカを横断する航空機ルートが確保できた。これは小さな功績ではないぞ」
チャーチルは官邸で、不機嫌そうなド・ゴールをなだめていた。1940年も12月に入り、ロンドン空襲は悪天候という友軍を得て下火にはなったが、続いていた。だが海を渡ってきたカナダ陸軍と、再編の進む(元)大陸派遣軍諸部隊がイングランドを固め、イギリスにとって最も危険な時期は過ぎ去ろうとしていた。
ド・ゴールの自由フランスを支持するフランス植民地はほとんどなかった。孤立したシリア=レバノン信託統治領やマダガスカルですらペタンのヴィシー・フランス政権についた。唯一と言ってもいい例外がフランス領赤道アフリカ(コンゴなど)であり、11月には隣接するチャドやガボンのヴィシー政権派を制圧して、イギリス領ケニアやスーダンへアフリカを横断する空路が確保されることになった。チャーチルはそのことを言っていた。
「我が植民地を回復するため、イギリス軍のご支援は頂けないのですか、首相」
「いずれな。そう、いずれはだ」
イタリア参戦によって、イギリスと枢軸国の勢力範囲はまだら模様になった。何より、イタリア軍が居座ったままのエチオピアという問題があったし、リビアのイタリア軍はエジプトに向かって攻勢に出ていた。人も物資も優先順位を管理して、大切に使わねばならなかった。植民地兵と仮装巡洋艦がいるだけのマダガスカルや、少数派のキリスト教徒を重用して平時から民政が不安定だったシリア=レバノン信託統治領など、当面は放置するしかなかった。
ならばド・ゴールにいま気をつかうことは、チャーチルにとって優先順位が低いはずである。それをわざわざ招いて相手をするのだから、ド・ゴールの不機嫌と見えるものは、実は警戒感であった。
「兵員の再編は進んでいるのか」
「再編と申しますか……アフリカは常に最良のフランス兵の供給地です」
とはいえド・ゴールも、この種の政治的会話に慣れてきていた。イギリスに脱出した本土のフランス兵は、フランスにヴィシー政権がある以上、ド・ゴールの部隊に加わりたがらず、アフリカを中心とする植民地の兵たちが自由フランス陸軍の多数派だった。もちろんチャーチルも事情の下調べはさせていて、ド・ゴールに念押しをしているだけだった。
ド・ゴールの勘は正しかった。12月になるとレンド・リース法成立に向けた交渉に明るさが見えてきて、武器から人へとボトルネックが移ることをチャーチルは予感していたのだった。
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1941年1月11日、会議室はざわついていた。パブロフ大将の不機嫌さは、表情には出ていなかった。ジューコフはこんなとき、細かい気遣いを見せるような男ではなかった。年末に集まったソヴィエト軍の司令官たちは、年が変わるとすぐに始まったジューコフとパブロフの独ソ戦机上演習を見るためにモスクワにとどまった。ドイツ軍とソヴィエト軍の立場を入れ替えて、10日がかりで2回行った演習で、ジューコフはどちらを持ってもパブロフに対して優勢を勝ち得たのである。少なくともジューコフはそう思っていたし、パブロフも見たところ、そう思っているようだった。
参謀総長のメレツコフ上級大将がやってきた。室内で無帽だったので敬礼はせず、ふたりは周囲の士官たちとともにかかとを合わせた。
「ジューコフ将軍、パブロフ将軍、ご苦労だった。見事な指揮だったよ。報告のために、形勢判断についてそれぞれまとめてくれないか」
ジューコフはぎょろりと目をむき、パブロフもメレツコフをまっすぐに見返した。どっちが勝ったか、メレツコフには判断がつかなかったというのか……という叫ぶような疑問がふたつの視線に乗っていた。メレツコフは逃げるように去った。
「ソヴィエトは敗けるかもしれない」という報告をスターリンの前でするのは、気の重いことに違いなかった。なにしろ結果は「ソヴィエトの1勝1敗」だったのだから。だからメレツコフはそこのところを自分の言葉で語りたくないのかもしれなかった。
だがスターリンは、まさにそれをメレツコフから聞きたかった。「どっちが勝った」というスターリンの問いに、メレツコフはもごもごとはっきりしない答えをしたので、スターリンは報告をやめさせてジューコフに答えさせた。1月14日、スターリンはメレツコフを免じてジューコフを参謀総長とした。
さて、この時期……1940年秋から1941年初冬と言えば、もちろん北アフリカでいろいろなことが起きた時期である。少し時間をさかのぼることになるが、次話では地中海と北アフリカのことを取り上げることにしよう。
第25話へのヒストリカルノート
イスメイとチャーチルの会話は創作で、説明的なシーンです。実際にはイスメイは空軍関係のことについて、回想にほとんど書いていません。フリーマンの評伝を書いたファースは、離婚歴がなければフリーマンが順当な参謀総長候補だったろうと指摘しています。ポータルが選任された経緯についてほとんど記録がないのは、フリーマンの離婚問題がカギであったことが関係しているのだろう……とも。そしてポータルをフリーマンが説得したのは公用車の中で、運転手が「自分は離婚経験者だから」というフリーマンの言葉を覚えているのだそうです。
ビーヴァーブルック時代のフリーマンがやったことはもうひとつあり、高馬力エンジンの開発が難航していたアブロ・マンチェスター双発爆撃機を、もう性能が安定したマーリンエンジン4基に設計変更したものを開発すると決めました。大戦後半、このアブロ・ランカスターがイギリス主力重爆となりました。
リーダーとしては決然としているが同僚や部下を穏やかに説得するのが苦手……というビジネスマンを指して「社長しか務まらない人」という表現がありますが、ビーヴァーブルックはそういうタイプであったようです。「資本家っぽい人」と言ってもいいでしょう。チャーチル戦時内閣はアトリー率いる労働党の支持が大切な基盤になっていて、特に労働組合指導者がそのまま労働・徴用大臣となったベヴィンとビーヴァーブルックはは水と油の関係でした。そして部下にはわがまま放題のチャーチルは会議では民主的でしたから、戦後にアトリーがインタビューを受けて寸評したところでは、戦時内閣でビーヴァーブルックは味方が得られなかったようです。
ドイツ士官社会では、NSDAPに近づいて出世したライヒェナウは嫌われ者でした。こういう「誰を付けたらうまくいくか難しい司令官」につける参謀長として、パウルスはライヒェナウの生地カールスルーエにある連隊の出身だということで選ばれたものと思います。もちろん軍参謀長にふさわしい、優秀で多くの仕事をこなしてきた人物で、例えば自動車兵総監参謀長としてグデーリアン大佐の後任を務めました。
パウルスとハルダーの会話は架空のものです。ハルダーは1941年7月に知人にあてた手紙で「ソヴィエトとの戦争は勝った」という意味のことを書いていて、「野戦軍撃滅=勝利」というドイツ軍人の基本的な感覚を持っていたものと思います。
ゲーリケの鉄道工兵への指導権限は旧日本軍であれば「区処」と呼ばれたものと思います。個々の鉄道部隊はOKH予備から特定の軍司令部、軍集団司令部などに配属され、作戦上の命令はそちらから受けます。しかし仕事の手順などについての専門的な指示は輸送総監部のもとにある鉄道工兵司令部から出てきましたし、その鉄道工兵司令部がゲーリケの指揮を受けていました。また、どこを復旧するかの優先順位は現地の軍司令部だけで決まるものではなく、輸送総監部と、そこから現地司令部に派遣された輸送指揮官が加わって調整してゆくものでした。
ソヴィエトには英語でcolonel-generalと訳される階級があります。ドイツ軍でcolonel-generalと訳されるのは上級大将なのですが、ソヴィエト軍のcolonel-generalは中将と大将の中間です。ドイツの階級と入り混じったとき理解しやすいよう、ソヴィエト軍のgeneral of the arnyを上級大将と訳し、colonel-generalは大将と訳すことにしました。
装備の充足状況、ロジスティクス、練度などいろいろな側面から、1941年春にドイツ国境にいたソヴィエト軍部隊は、もしドイツに向けて先制攻撃するとしたら心もとない戦力でした。ただその戦力は、ドイツがモスクワやレニングラードを目指して猛進するに違いない北半分ではなく、ルーマニアに面した南半分に厚く配置されていました。ドイツ側から見ると、いかにもルーマニアのプロエステ油田を狙っているように見えました。ジューコフは連隊長として、また師団長として長くベラルーシにいましたが、キエフ特別軍管区の部隊群はソヴィエト軍でも最高の練度を保っていました。この「実績」に加え、ジューコフによれば1940年のスターリンは「ドイツはソヴィエトから送っている資源の産地を狙って侵攻するのではないか」と言っていて、それはニーコポリのマンガン、ドネツの石炭、クリビイ・リフ(クリヴォイログ)の鉄鉱石など主にウクライナにあったのです。
メレツコフの不首尾な報告については、スターリンへの報告機会が一方的に1日繰り上げられたので、準備が間に合わなかったせいだという証言もあります。ジューコフの回想では、メレツコフはソヴィエト軍の充実した軍備や数的優勢について語りすぎ、作戦上の選択やその良し悪しについてコメントしなかったので、いらいらしたスターリンに発表をさえぎられたと書かれています。演習から報告、ジューコフの参謀総長指名という一連の流れについてはジューコフ自身も含めて多くの回想があり、細部の記述がかみ合いません。
クリークやヴォロシロフのようにスターリンの知遇を得て能力以上の権限を持ち、ほめる人のいない将軍たちと、ジューコフなど個人的指導力をだれもが認める人々の、メレツコフは中間にいました。フィンランドとの冬戦争で軍司令官を務めて脚光を浴びたメレツコフでしたが、レニングラード方面で独ソ戦序盤には失敗の責任を問われて左遷され、あとになって方面軍司令官に再起用され、最終的にレニングラードの包囲を解くことに貢献して声価を取り戻し、元帥に進みました。初期の失敗はもちろんメレツコフだけのせいではないのですが、ドイツ軍が摩耗しきってから包囲を破ったのも、本人の才覚が主な勝因とも言い切れないのです。
メレツコフの人物像については、大戦後半にソヴィエト参謀本部作戦課長を務めたシチェメンコが面白いエピソードを語っています。大戦中盤、メレツコフはある攻撃作戦計画をスターリンに提案しようとしました。その作戦がもたらす効果を印象付けるために、メレツコフはその地方の地形を示す立体模型を作らせました。そんなプレゼンを同志スターリンは嫌いますよ……とシチェメンコは止めましたが「これがいちばんいいんだ」とメレツコフは聞きません。そしてやはり、メレツコフはすぐにスターリンからプレゼンをやめさせられ、決まった形式の提案書を書いて報告するよう厳命されました。スターリンは予備部隊や兵器を配分する責任者でもありますから、印象に左右されて配分を誤らないよう、提案はみんな同じ形式にそろえるようにしていたのです。つまりメレツコフは「お客が本当に望んでいるもの」を考えずに「自分が語るべきこと、伝えるべきこと」で頭がいっぱいになってしまうタイプの人でした。だから19400/41年冬の危機に際して、ソヴィエト軍の偉大さをほめたたえることが最重要だと信じたのですが、スターリンの聞きたいことはそれではなかったのだと思います。
ブジョンヌイを一面的に無能呼ばわりする人がいますが、マイソフの見立てではブジョンヌイは「出世しすぎた人」であり、「終わった人」です。革命から1920年代にかけて、騎兵を率いて戦場の勝利を勝ち取る手腕にブジョンヌイは優れていましたが、「その場所を取る意義」や「維持できるかどうか」をバランスよく考えることはできませんでした。騎兵という立場をいまさら離れることはできず、1930年代以降の戦争に向けた騎兵の近代化でも、少なくとも英仏の同僚たちと同程度には馬上槍とサーベルを引きずりすぎ、ソヴィエト軍が遅れて大戦に登場した分だけ騎兵の非近代的な部分が後世に印象付けられてしまいました。ただ戦う男としての常識をわきまえ、個人的勇気を持った人であったことは、いずれ触れる機会があるでしょう。




