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第24話 ドーバーの白い壁


「英仏海峡を渡る作戦においては、我が総統、航空優勢が上陸成功の絶対条件であります。単なる上空の航空優勢ではなく、空軍が海峡に侵入しようとするイギリス海軍に相当の打撃を与えてくれることが必要です」


 ヒトラーはレーダー海軍総司令官の言葉を無言でむっつりと聞いていた。まだダンケルクでの停止命令すら出ていない、1940年5月21日のことだった。


 ドイツ海軍は1939年11月からひそかに、シュニーヴィント参謀総長とフリッケ作戦課長を中心として、イギリス上陸作戦が行われた場合の技術的(海上輸送)問題を検討する小グループを作っていた。はっきり言えば、根拠をもって無理だと言えるように……である。誰かにあおられて、ヒトラーの命令が出てからでは遅い。陸軍が英仏海峡に達したとき、レーダーは自分からヒトラーに話を振った。


「当面、上陸作戦の準備は不要だ」


 ヒトラーと海軍首脳部の関係は、陸軍に比べれば良かった。ヒトラーに陸軍の対英仏戦争への抵抗、さらに攻勢作戦への抵抗が強い印象を与えたために、海軍は忠実に、淡々と命令を果たしているように見えていた。だからヒトラーの言葉にトゲはなかった。とはいえレーダーは笑うほどには喜べなかった。ヒトラーはまだ誰からも何も吹き込まれていない……というだけで、後日の思い付きや、後日の誰かの献言が状況を変えるかもしれなかった。


 思った通り6月になって、カイテルからあらためて上陸作戦の可否について問い合わせがあり、レーダーは同じような返答をした。だが勝勢明らかとはいえ、6月21日の休戦申し入れで実質的にフランスが降伏するまでは、それは仮想的な話に過ぎなかった。


 イギリスと和平の話が出る。それは間違えようのない予想だった。そして実際、間違ってもいなかった。


--------


「首相、私たちの新しい職掌について、定義する余裕がなかったのですが、いかがなさいますか」


「それはもちろん私の職掌範囲ということだろうな、パグ(イスメイ少将)。私が何かを撃ったら、君たちはその方向へ飛び出すのだ。君らは私の猟犬だ。私が狩るものを狩るのだ」


「もちろんです、首相」


 イスメイはそれほど困った顔をしなかった。むしろ、チームの権限がその処理能力によってのみ制約されるというのは、理想の職場かもしれなかった。


「約束しよう。君たちは私と同じくらい忙しくなる。だが私が顔を出せん委員会だの部門だのがあっても、仕事にならん。私はネヴィル(チェンバレン前首相)に自分で委員会に出ろと言ったが、私が首相になった以上、当然私が出るのだ」


「その通りです、サー」


 ドイツ軍がフランスに侵攻した5月10日はチャーチル内閣の発足日でもあったが、この日に決定され、大きく歴史を動かした決定は他にもあった。国防担当閣外大臣の創設である。かつてインスキップやチャトフィールドが防衛統括大臣となり、権限がないことから調整の腕も振るえなかった問題は、「チャーチル首相が国防担当閣外大臣を兼ねる」ことであっさりと解決された。その職務範囲はもちろん国防全般であり、職掌の限界は明確に定義されなかったが、首相が兼任しているのだからそれでもよかった。


 首相が国防担当閣外大臣を兼ねるのだから、そのスタッフも内閣官房が兼ねればよく、イスメイ以下のスタッフが国防担当閣外大臣官房に併任された。それは「政府と軍の境界」を構成する10人ほどのチームであり、純軍事的な検討は三軍の参謀本部や、出向者の集まった内閣官房統合計画室に投げられた。黒子に徹して実質的な検討をしないから、そんな人数で済んだのである。そしてイスメイたちはアドバイザーそのものではなく、議事録や合意文書をまとめ、チャーチルの代理人として折衝に当たるのが役目だった。


--------


 国家防衛委員会のもとで成し遂げられたひとつの戦争準備は、官庁街の地下に広がる巨大防空壕だった。参謀本部の業務はもちろん、閣議室もあった。だが、まったく地上を移動しないわけにもいかなかった。


「ウィニー、期待してるよ」


「勝とうぜ、首相!」


 庶民たちが速足で歩くチャーチルとイスメイに気づいて、口々に言葉を投げた。それらに帽子を上げ、チャーチルは足を止めずに歩いた。人が途切れると、チャーチルはイスメイにささやいた。


「負けはせん。だが勝つのはずっと先だ。そのことを知ったら、あいつらはどういう顔をするのかな」


 まだロンドンは空襲を受けたことがなかった。軍服が目立つ以外、街の風景はあまり変わっていなかった。


「哀れなことだ。まったく哀れなことだよ」


 チャーチルが鼻声になっているので、イスメイはコメントを控えた。


 イスメイは戦後になって、「チャーチルをほめる人でも、チャーチルを思いやり深いとは言わない。チャーチルに批判的な人でも、チャーチルが私心なくすべてを戦争指導にささげたことは否定しない」とチャーチルを評した。チャーチルは、危険な視察をしたがることは別問題としても、きつい仕事を自らに課したが、下僚にも容赦をしなかった。仕える者からすれば、チャーチルのチームはブラック職場だった。だがチャーチルは同時に、集合的な「人々の思い」への感受性が鋭かった。それはチャーチルが人に求めてやまない「真実」のひとつだったからだろう。


「だが、いまは今日の閣議に勝たねばならん」


「はい、首相」


 チャーチルは、もういつもの表情に戻っていた。


 チャーチルは決然とした有事の指導者としては大衆の評価を得ていたが、何といっても保守党議員として政策論争から造反し、自由党から立候補して当選し、(共産主義者と連帯していた、当時の)労働党と組むのが嫌さにもう一度保守党に戻ったという履歴は、保守党議員の支持を一身に集めるわけにはいかないものだった。そしてチェンバレンは保守党首としては辞職しなかった。


 すでに触れたように、ボールドウィンやチェンバレンの下で次世代のプリンス扱いされていた人物はというと、まずはハリファックス子爵(当時)であった。チャーチル内閣でも引き続き外務大臣をしていた。


 チャーチルの戦時内閣は発足したとき、チャーチルを含めて5人だった。実権のない枢密院議長となったチェンバレン、外務大臣ハリファックス、労働党首アトリー、労働党首代理グリーンウッドという面々である。「労働党をもって保守党主流を討ち、余力をもってドイツと戦う」と言ったら意地悪が過ぎるであろうが、国会と国民から全般的に歓迎されたとは言っても、子分があまりいないのが戦争屋チャーチルの内閣だった。


 チャーチルは徹底抗戦で突っ張ったから、外務大臣であるハリファックスが自然に和平派の希望の星となった。英仏海峡を支配させない程度の戦力はすでにあった。それは「敗けない」というだけで、「勝つ」となると数年の血と汗を要するし、攻勢に転じたときは第1次大戦のガリポリ上陸作戦のように無残な失敗がないとも言えなかった。「帝国の血と汗」を冷静に天秤にかければ、1940年5月のイギリスにとって、抗戦は苦みの強い選択であり、決意を維持することも容易ではなかった。


 5月下旬、和平の可能性を意識するハリファックスと、まったく考えもしないチャーチルの対立は頂点に達した。労働党の戦時内閣メンバーふたりがチャーチルを断固支持したこともあったが、チェンバレンはチャーチルに暗黙の賛同を与えた。これが事実上、チェンバレンがイギリスの舵を取った最後の機会となった。


--------


 アメリカのカトリックは少数派であり、少なくともまだルーズベルト大統領の時代には、多くの少数派グループと同様に民主党の支持基盤だった。その大立者であるジョゼフ・ケネディはフランクリン・ルーズベルト大統領と親交があり、1933年に禁酒条項が合衆国憲法から外されたときにはイギリスの有名銘柄酒をアメリカに輸入する権利をいち早く取りに行き、そのビジネスにルーズベルトの長男を関与させた。ルーズベルトにとってケネディは少々煙たいスポンサーであり、潜在的なスキャンダル源でもあったから、1938年になってケネディをワシントンから引きはがし、アメリカ駐英大使としてイギリスに送り込むことになった。


 じつは1933年の輸入商談のさい、ケネディは不遇期のチャーチルに接触していて、以来親交はあった。ところがドイツと戦争になった現在、ふたりは過去を忘れて対峙しなければならない関係であった。


「ウィンストン、このようなことを言うのは残念なのだが、私もアメリカの防衛について責任があるのだ。君の国を第一にはできない」


 チャーチルはアメリカ大使を呼びつけていい立場だったが、このところの気の抜けない公務で、他人の勘定でいい酒が飲みたい気分だったから、ケネディの私邸を訪ねていた。


「わかる。わかるよジョー。私の目の前にはドーバー海峡があって、君の目の前には大西洋がある。同じようなものだ。だがイギリスがいなくなれば、奴らは日本を助ける。大西洋の西に引っ込んだつもりで、アメリカは太平洋の東にも引っ込むことになってしまうのだ。イギリスの艦隊を手に入れたドイツがそれを誰に対して使うのか、それもわかるだろう」


「いい取引ではないな、ウィンストン。いい話に聞こえない。ヒトラーと話がつけば、我々の艦隊は全部太平洋に出せる。イギリスとフランスを黙らせてしまえば、ドイツは日本などもう要らない。アメリカが話をまとめられるよ」


 ケネディ大使はアメリカがイギリスを助けることに反対だった。「西半球には手を触れるな」という孤立主義がアメリカにとって最も血と金の節約になると信じていた。ケネディがアイルランド系移民の一族であることは、イギリスの(少なくとも、イングランドの)幸せに関心を持たない理由になってもおかしくはなかったが、ジョゼフ・ケネディは主に打算で動いた。人種差別的な言動は多かったが、差別感情を貫くために損失を我慢する人物ではなかった。そしてケネディは政権の要職に、できればその一番上につきたいと思っていたから、国益だと自分が考えるものを押し通した。


「戦って見せる方法を考えねばならんな。君のように考える人間はアメリカには多いのだろう」


「たぶんな。君のように考える人間は、ブリテンには多いのか?」


 チャーチルはいらいらと葉巻をふかし、ワイングラスを一気に空けた。椅子を引こうとすると、すでにケネディが立ち上がり、椅子に手を添えていた。よほど帰る意思が表情に出たようだった。


 5月末になると、イタリアも19世紀に戦ったイタリア統一戦争以来の経緯がある南フランス国境地帯を分捕ることを当て込んで、ドイツ側に立って参戦する準備をしていることがはっきりしてきた。だからハリファックスが和平交渉をしようとしても、仲裁に立てる勢力がもういなかった。かといって国民の戦争への意欲は、当時の世論調査によれば、あまり高いとは言えなかった。


「また来る」


「だろうな。ウィンストン、君のことはよく知っている」


 ケネディはデザートとして、0ドルのスマイルを大盛りで振る舞ったが、チャーチルがそんなものを賞味しない男だということは、長い付き合いでよくわかっていた。


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 6月10日にイタリアは参戦し、6月21日にフランスが休戦を提案して事実上降伏した。イギリスは地中海にいた艦隊を動かして、フランス領アルジェリアにいたフランス艦隊に艦の引き渡し、さもなくば自沈を迫り、交戦の末に戦艦ブルターニュを撃沈した。イギリスは掛け金を引き上げるカード・プレイヤーのように、抗戦を続けるメッセージを続けて発した。ドイツ空軍は基地を整え、7月10日から英仏海峡を渡り始めた。


「イギリスはもうだめ」だという印象を与える要素もあった。戦前から積み上げられたイギリスの防空計画には、フランスやオランダの飛行場をドイツが使う可能性などは盛り込まれていなかった。前線の独断専行を許さず、緻密な計画を組み立てるイギリスの戦争指導スタイルでは、これだけ広範に計画外の事態が生じたことは致命傷だと考えてもおかしくなかった。


 いっぽう、国民に広がる不安と、危機において団結する心は、広がるスピードを競い合っていた。チャーチルはフランスが最後の奮闘をしている最中の6月18日、下院において、「バトル・オブ・フランスは終わりました。私の考えでは、バトル・オブ・ブリテンが始まろうとしております」と国民を鼓舞した。


 最終的な勝利を約束し、国民に忍耐を呼びかけるチャーチルは、ち密な計算を示さなかった。「これしかない」と語っているだけだった。「奴が言うのであれば、そうなのであろう」と静観する国民の感性が、イギリスの道筋と世界の道筋を決めたと言ってよいだろう。チャーチルは国民の好感を求めなかったし、国民も今さら、戦時指導者を好きになろうとしなかった。できる奴であればよい。勝てばよいのだ。


 そしてそのチャーチルは、ドイツ空軍が大挙してイギリスに現れたころには、「今年のドイツ軍上陸は不可能」と見切っていた。主な判断材料は海軍と空軍の戦力比であり、レーダーがヒトラーに告げたことの裏返しだった。それでもチャーチルは素人集団のホームガード(志願してきた「銃の扱いに慣れた男子」たちであったが銃は足らず、さすがに竹槍は持たされなかったが、鉄の槍は試作された)を盛り立てたし、ルーズベルトなどに対しては深刻にドイツの侵攻を心配している顔をした。ドイツがイギリスから和平のメッセージを無駄に待ち、上陸作戦を延ばしてくれると都合がよかった。時間が稼げるほど、ダンケルクから逃げてきた陸軍の再編が進み、ますますドイツが成功する見込みが下がるからだった。


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「ヒトラーは今度こそバスを逃した。我が兵士たちにはもう銃と弾薬がある。市民には槍で我慢してもらうが」


 チャーチルは水のように赤ワインをあおった。チャーチルはドライ・マティーニ(ジンとベルモットのカクテル)に混ぜられるベルモットの甘みが我慢ならなかったが、ワインは呑んだしシャンパンは好んだ。


 今日のワーキングランチは市内のレストランだった。チャーチル夫人が今日の会食相手を嫌っているので、官邸に呼ぶのを避けたのである。


「ネヴィルももうわかっておるのだろうな。上陸もない、負けもないと。だが、今のままにもしておけん。これが刷り上がってきた」


 ビーヴァーブルック男爵は、カバンに手を伸ばすと本を1冊取り出した。「Guilty Men」というタイトルである。


「変名だが、うちの記者に共同で書かせた。3人だ。スピードが大事なのでな」


 チャーチルは黙ってうなずき、目線で少し遠いテーブルの秘書を呼んだ。本を受け取った秘書が下がると、ビーヴァーブルックは再び口を開いた。


「君は戦争をしろ。カードゲームは俺がやる」


 ビーヴァーブルック男爵は『デイリー・エクスプレス』などいくつかの新聞社を持つが、下院議員でもある。以前にも触れたが、第1次大戦のとき、ボナー・ロー保守党首と自由党のロイド=ジョージの仲を取り持ち、アスキス自由党首とその支持者を戦時内閣から追い出すという政変を演出したキングメーカーである。ロイド=ジョージに引き立てられたチャーチルにとっても頼りになる参謀であり、新聞業界以外の実業家としての経験はないのに、航空機生産大臣として遇していた。


『Guilty Men』という本は、1938年のミュンヘン会談を頂点とするドイツへの宥和政策を批判し、それに責任のある人々の名前を挙げていく本であった。当然それは、チェンバレン内閣有力者リストと重なるのであり、この本が読まれれば、当時は政治的に干されていたせいで何の責任もないチャーチルの立場は相対的に良くなるはずだった。


「珍しいことだが、ネヴィルの体調が良くない」


「それなりの年齢だ。若いうちのようにはいかんさ。だがさっきの本で、ツーダウン(コントラクトブリッジというトランプゲームの用語で、13周のうち子が親の宣言した数より2周多く取ること)くらいは頂きだ」


「来月、君を戦時内閣に加える」


「まだ働かせる気か」


「主に、人を働かせる相談だがな。来月にはネヴィルも戻ってくるらしい」


 チェンバレンが末期の大腸がんであることは7月の入院で分かったのだが、本人にすら告知されなかったので、チャーチルたちはチェンバレンをまだ精力的な政敵とみなしていた。


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 7月19日、ヒトラーはゲーリング国会議長にライヒスターク(国会)を開かせた。既に全権委任法で何の権限もなくなったに等しい国会は、ヒトラーの演説を拝聴する場に等しくなっていた。当日のヒトラーは2時間語った。主な内容は、イギリスに講和に応じるよう呼びかけ、応じなかったときの災厄について語るものだった。イギリスは黙々と、戦闘機をイングランドの空に上げ続けた。すでに7月17日、イギリス陸軍に水陸両用作戦の研究・訓練・計画を統括する「連合作戦司令部」がキース海軍元帥を長として発足し、少数のコマンド部隊による上陸作戦の可能性を模索し始めていた。部分的であっても、攻めることを忘れるなというチャーチルの意向が働いていた。


 だがヒトラーも演説に先立つ7月15日、イギリス本土上陸の準備を命じていた。翌日の16日付で、それは総統指令第16号にまとまった。


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 レーダーはヒトラーに示した報告を陸軍にも示した。海軍は航空優勢が上陸成功の条件だと言ったのではない。航空優勢など天候次第で不安定だから、ドイツ空軍にイギリス海軍を押しとどめられるかは運任せで、それ故にたぶん失敗するぞと言ったのである。それを「航空優勢が取れればいいのだな」とすり替えてしまったのはヒトラーとゲーリングだった。総統指令16号には「8月前半のうちに」作戦準備を完了せよと明記してあったのだが、海軍が譲らないのを見てヒトラーは会議の場でそれを曲げ、それでも9月16日までに上陸が行われねばならぬと言った。


 船舶の徴用、改造は命令により黙々と続けられた。船首には歩板が取り付けられ、パタンと下ろせば兵士が降りられるようになった。英仏海峡を渡るため、河川用の船や港から徴用された舟艇にはコンクリートが敷かれ、喫水を深くする処置がとられた。


 陸軍は上陸させる兵員を多く、上陸地点を幅広くしようとして、逆を主張する海軍と切り結んだ。8月になって得られた妥協が、第1波として9個師団を4ヶ所に同時上陸させるというものだった。


 そのために必要な舟艇は、だいたい、9月半ばには海岸にそろっていた。イギリス海軍が高速機雷敷設艦を夜中にフランスに接近させたり、航空機雷を投下したりして、ドイツの舟艇を集まったそばから沈め始めていたので、概数でものを言うしかないのであるが。


 陸軍と海軍は、成功の見込みはともかくとして、上陸作戦をやれるだけの準備はしていた。おそらく読者の皆さんのほとんどは、この夏に航空優勢の行方がどうなったかはご存知であろうが、その話を始めるとしよう。



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「要するに航空撃滅戦をやればよいのだろう」


「イングランドまでしか航続距離が届かんし、海峡への介入を防ぐのであればそれで十分だろうな」


 ケッセルリングに答えながら、シュペールはリュクサンブール宮殿(パリ)の豪華な内装を見上げた。ふたりとも数日前に元帥になったばかりだった。ヒトラーの命令がそれと競うように航空艦隊レベルまで降りてきた。


「味見していくか。パリにはいいコニャックがある」


「いただこう」


 シュペールの第3航空艦隊がフランスに本拠を移し、ケッセルリングの第2航空艦隊はブリュッセルに司令部を置いてそれより東寄りに陣取った。ドイツは国を挙げて勝利に酔っており、その一方で夏はもうあまり残っていなかった。


 当時のイギリス主力機であるハリケーンは1935年、スピットファイアは1936年の初飛行である。すでに述べてきたように、イギリス空軍は大戦が迫るほど戦闘機部隊拡充に重点を置き、機体ができすぎてパイロット不足に悩むほどであった。レーダー網と人の目による監視網が、迎撃部隊に割の良い目標を知らせ、早めに準備をさせた。ボールドウィンが爆撃機の防空体制に対する優位を信じたころとは技術のバランスが変わっており、イギリスは思い切った賭けの配当金を受け取っているところだった。


 そしてイギリスは戦闘機軍団の4つの地区割りを頑固に守り、ロンドン南部を守る第11集団が耐えず苦戦を強いられていても、全力をそこに集めたりはしなかった。しかし訓練と生産で人と機体を補うとともに、部隊をローテーションさせて疲労を抑えようと努めた。


 逆にひとりひとりは開戦以来歴戦のパイロットでも、ドイツ空軍の戦闘機乗りはもともと総数で劣り、断続的な出撃が続くにつれて疲労していった。フランス戦のためにぎりぎりの徴兵をしたドイツでは軍需生産を拡大しづらかった。逆にチャーチル政権は、確実だがずっと遠くにある勝利に向けて、国民の血と汗を懸命に動員していた。


 ドイツとイギリスは今までにないゲームを始めようとしていた。イギリスにとっては、恐れつつも予想していたゲームの始まりであった。ドイツにとっては、予想もしていなかった展開であり、リーダーたちは自分たちがどんなゲームを始めようとしているのか、ルールブックを読み込めていなかった。司令長官級の高官ですら、実際には何が必要とされ、それは可能なのかもともと無理なのか、正確にわかっていなかったのである。


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 8月15日、ノルウェーのスタヴァンゲルには火薬と燃料と金属の焼けこげる匂いがただよっていた。滑走路にいる誰かが叫ぶと、損傷したHe111爆撃機を滑走路から押し出していた整備員たちが滑走路から走って逃げ、平時であれば規制当局に怒られそうな狭いすき間が確保された。それを目がけて、別のHe111が控えめな黒煙をたなびかせ、着陸してきた。


 数秒間、尾輪は持ちこたえたが、機体尾部に受けていたダメージのせいで折れ飛び、胴体が滑走路にこすれる摩擦音が周囲で見守る整備員たちの耳を刺した。さいわい無事に機体は止まり、別の作業車が急いで機体を滑走路からどかせる作業にかかった。摩擦音が消え、地上整備員たちの怒号めいた指示の叫びが戻ってきた。


担架兵(トレーガー)!」


 コクピットに駆け寄った衛生兵の叫びはひときわよく聞こえた。血がにじんだままの担架を持って兵たちが走ってきた。


 それでも何人かの整備員は、もう上を見ていた。上空を旋回する双発機の何機かは、コースが安定していない様子が見えていた。


 第10航空軍団参謀長のハルリングハウゼン少佐は、クルーが帰ってくるたびに抱き合ったり握手したりしていた。言葉はほとんど交わさなかった。洋上で最初の敵戦闘機に出会い、爆弾を捨てて真っ先に帰還した搭乗員たちから、敵の迎撃準備がすっかり整っていたことは聞いていた。ドイツ空軍でもレーダーで戦果をあげ始めていたから、何が起こったかはよく分かった。だが、昨日会った連中や今日あいさつした連中が帰ってこない現実を、ハルリングハウゼンは受け止めにくかった。


 疲れ切って宿舎に戻る搭乗員と、滑走路のそばでハルリングハウゼンたちに交じって、1機1機の運命を確かめる搭乗員がいた。その場に残る搭乗員たちも無言だった。


「この作戦には無理があった。こんな形では二度とやらせない。約束する」


 つぶやくほどの小さな声だった。命令があれば逆らえるのか……などと食って掛かる者はいなかった。ひとりでは飛ばない双発機の世界は、単座戦闘機乗りに比べると大人の集団だった。ハルリングハウゼン自身が爆撃機を乗りこなし、ノルウェー戦線でも航空軍団参謀長ながら自分で輸送船も沈めて、騎士十字章を受けたばかりだった。


 7月以来、イングランドへの空襲は小規模とはいえずっと続いていた。だからもう北の守りは手薄に違いないと、Bf109戦闘機が護衛につけない距離のノルウェーから、イングランドの北東端に近いドリフフィールド飛行場など2ヶ所をBf110双発戦闘機、He111爆撃機、Ju88爆撃機の組み合わせが襲ったのである。だがレーダー網の知らせを受けたスピットファイア戦闘機とハリケーン戦闘機、若干のデファイアント戦闘機とブレニム軽爆撃機(夜間戦闘機として)、そしてもちろん対空砲火が待ち構えていて、159機のうち戦闘機・爆撃機合わせて23機が一方的に撃墜される惨状となった。


 ドイツ軍は互角以上の航空撃滅戦をやっているつもりだったが、もともと持っている戦闘機部隊はむしろイギリス側優勢だったから、消耗を強いられているのはドイツ側なのだった。この大損害は、ドイツ軍が状況への誤解に気づくチャンスであったが、ロンドンから遠く離れた沿岸部にも同じような密度のスピットファイアがいることの意味は見過ごされ、8月後半に南イングランドの飛行場への空襲が相次いで成功したことから、不吉な情報は忘れ去られてしまった。


 この日を生き延びたBf110のパイロットには、5機撃墜のエース、ヘルムート・レント中尉もいた。「高速で重武装な双発戦闘機なら、小回りが利かなくても航空優勢が取れるのではないか」という賭けに出たBf110戦闘機は、小型の大出力航空エンジンが各国で登場し、流線型の全金属製戦闘機も増えて速度の優位がなくなったので、賭けに負けたことがはっきりしてきていた。そして飛行隊丸ごと、9月になるとオランダに移され、第1夜間戦闘航空団(NJG1)に組み込まれて別の任務へ再訓練されることになったのである。


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「我々がひどい損害を受けたことは事実です。ですが我々にはまだ戦力と、基地と、闘志があります」


「これからどのように戦って行かれる計画ですか」


「夏が終われば秋です。そして悪天候の季節がやってきます。ブリテンへの観光をお考えなら、おすすめできない季節です。しかし我々の味方は少しずつ世界から集まってきています」


「時間はブリテンの味方ということですか」


「そう考えています。いずれ大西洋の向こうの友人たちも、我々を助けてくれると信じています」


「ありがとうございました。ロンドンから、エド・マローがお送りしました。グッドナイト、アンドグッドラック」


 アメリカ・CBSラジオのヨーロッパ支局長だったエドワード・マローは、1938年のオーストリア併合を報じるラジオ番組で現地レポートをやったのをきっかけに、ニュースレポーターとしても人気者になりつつあった。後にキャスター、あるいはアンカーと呼ばれた職種の先駆けである。今日はイギリス空軍の報道官に、先ごろドイツ空軍の大攻勢を受けた影響を取材していた。


 放送を終えると、周囲のスタッフがざわつき、緊張がほぐれた。マローはこの際、いくつかオフレコの質問をしておこうと思いついた。


「ドイツ空軍の狙いは何だとお考えですか」


「彼らは7月から、まず我々の見張り台を狙ってきました。8月中旬には飛行場です。我々の業界では、こういう戦いを航空撃滅戦と呼んでいます。空軍を使って空軍をすりつぶすのです」


 報道官は慎重に、「レーダー基地」に注意を引くことを避けた。もちろんドイツはそのことを承知で襲ったのだろうが。


「つまり彼らは、優位にあると思っているのですね」


「そう思ってくれている間に、私たちが本物の優位を築かないといけません。おっと、しゃべりすぎましたね」


 マローは無言で笑った。イギリス軍は適度に……アメリカが離反しない程度に、苦戦しているイメージをドイツに吹き込みたいのだ。ドイツにイギリス上空で割の悪い取引をさせるために。


「しかし彼らはリバプールの南でも大きな戦果を挙げていると聞いています」


 今度は報道官が無言で嫌な顔をした。


「彼らは戦略爆撃に相当な資源を割いています。海軍も協力していますがね」


 Uボート部隊がフランスのロリアンに作り始めた巨大な基地は未完成だったが、すでに狼たちはフランスの軍港を使って活躍を始めていた。ドーバー海峡が安全とは言えない今、イングランド南西部のリバプールはイギリスの玄関口だったが、その周辺はドイツ空軍爆撃機とUボートの狩場になっていた。その海域で航空優勢を確立できるほど、まだイギリスには余力がなかったのである。


「潜水艦、航空機、そして機雷です。彼らは何でも使います。イギリスの海上輸送を締め上げようとしているのです」


「成功の見込みはありますか。すみません、こんな質問をして」


「かまいませんよ。戦略爆撃というのは、強いものが弱いものに勝つ方法のひとつです。優位もないのに形だけ仕掛けてみても、成果は上がらないのです。だから最終的には勝てるでしょう。我々にも、彼らを抑え込む双発戦闘機はあります」


「テラー爆撃(国民の士気をくじくための市街地爆撃)は始まりますか」


 報道官は首を振った。


「わかりませんね。それこそ、よほどのリソースを投じなければ目に見える効果はないでしょう。我々の国民が屈しないように、あちらの国民も簡単には屈しないでしょうから」


「ありがとうございました」


 マローは右手を差し出して握手した。


 その後、たまたま8月24日夜に航法を誤ったドイツ爆撃機がロンドンに爆弾を落としてしまい、チャーチルの指示で25日夜にベルリン爆撃が試みられた。国民のためにも、アメリカというスポンサーへのアピールのためにも、イギリスはやられっ放しではいられなかった。だが自分の防空を第一に考えなければならないイギリス空軍は、ドイツへの都市爆撃で目に見える戦果が出せない時期がだらだらと続いていくことになった。


 ドイツの上陸がなくなったことがはっきりすると、政府も軍部も国民も爆撃機による反撃を求めた。ビーヴァーブルック航空機生産大臣は、爆撃機重点に生産計画を切り替えようとして……いや赤裸々に言うと、自分の成績として機数を稼ぐために小型爆撃機生産を増やし大型爆撃機生産を抑えようとして失敗し、1941年春に職を去って軍需大臣に転じることになるのだが、その話はいずれするとしよう。


-------


 アメリカは中立を守りつつ、「余剰物資」である旧式駆逐艦50隻をイギリスに引き渡し、代わりにアメリカ周辺やアフリカにあるイギリス軍基地の99か年無償利用権を得ることを9月初めに決めた。駆逐艦の多くは相当に補修しないと役に立たなかったが、それを決めたことの政治的な「印象付け」はいくらか効果があった。イギリスはアメリカのさらなる譲歩を期待して、イギリスの虎の子である技術情報をいくつか、一方的にアメリカに供与した。のちの原爆に関連するものもあったし、敵機に近づいただけで爆発する画期的な対空砲弾の部品、「VT信管」もこのとき渡した技術が基礎となった。


 イギリスは9月15日前後を警戒していた。情報もかき集められていたし、実際にヒトラーも9月16日までに上陸を行うように言っていた。だが、特に暗号を解読しなくても、この日付に注目すべき理由はあった。1940年9月16日は、満月だったのである。だから大潮の日であり、干満の差が大きいので上陸作戦に向いていた。1944年6月7日も満月であったから、やはり悪天候の予報でもロンメル元帥は6月6日には任地にいるべきだったのである。


--------


「このような形で君との仕事を終わらせるとは、不本意だ」


「私もだ、ネヴィル。また良くなって、復帰してくれ」


 チェンバレンは答えなかった。ただ右手を差し出し、チャーチルも応じた。9月下旬ともなると、チェンバレンの体調変化が二度と良くならないものなのは明らかだった。閣僚としての辞表を受理したことを告げるため、チャーチルはチェンバレンの病室を見舞っていた。


 手を離したチェンバレンは、まだ国事を語り足りないように話を継いだ。


「彼らは今月来なかった。今年は来ないし、ずっと来ないだろう。君は勝つよ、ウィンストン」


「我々は勝つのだ、ネヴィル」


「ふふん……」


 柄にもないチャーチルのリップサービスは、チェンバレンの残り少ない燃料に火を入れたようだった。チェンバレンは枕元にある数冊の本から、1冊を取り出した。


「君は読んだか」


「私は書いていないし、実のところ忙しかったので読んでもおらん。だが、知っていた」


「だろうな」


 チェンバレンは笑っただけで、『Guilty Men』から手を離した。十数秒の政争が、今日のチェンバレンから体力の残りを奪ったようだった。


「7月が遠い昔に思えるよ。あのころ私は、君の強敵だった」


「そうだ。君は強かった」


 今はもう敵でも味方でもなくなった。チャーチルの率直さを、チェンバレンは無言で笑った。そしてもう小さな声で、言った。


「デイビッド(ロイド=ジョージ)には気をつけろ」


 チャーチルは笑顔でうなずいた。ロイド=ジョージはチェンバレンとは違った意味で、1920年代以降の不遇期にドイツとの妥協を口にすることが多かったから、ドイツからの和平工作に乗って画策する可能性はあった。最後の最後になって、やはり厄介な相手のことが心に浮かぶのかとチャーチルは苦笑するしかなかった。


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 9月に入り、イギリス空軍の飛行場とともに戦闘機をあらかた撃滅したと信じたドイツ空軍は、ロンドンを主な目標として爆撃隊を繰り出し、それほど減ってもいなかったイギリス空軍のために大損害を被った。イギリス戦闘機隊は(イングランド以外にいる部隊を合わせれば)もともと数的に優勢であっただけでなく、その数的優勢をくつがえすためにイギリス本土の奥深く飛行場を叩きに行く手段が、ドイツにはなかった。ドイツは最初から最後まで、イギリス本土航空戦の全体をバランスよく理解することができなかった。


 ヒトラーは上陸作戦の実施を無期限に延期し、イギリスへの圧力のためだけに準備を続けるよう命じ、やがてそれを取り消した。だが秋にかけて悪くなってゆく天候のことを考えれば、今年の上陸はもう無理であることは、イギリスにもドイツにも明らかだった。


第24話へのヒストリカルノート


 戦後にヨードルとヴァーリモントが証言したところによると、1940年7月下旬、ヒトラーはヨードルに対し「この夏のうちにソヴィエトを攻撃する可能性について」検討するよう命じました。ヨードルはヴァーリモントに検討を命じ、返事は「無理」であったので口頭でヒトラーに復命しました。これはOKW内部での話ですから、直接的にOKHへは話が行かなかったと思われます。


 しかし7月13日、そして7月31日にも、ハルダーの戦時日誌に「ソヴィエトがイギリスの希望となっている」というヒトラーの言葉があります。ヨードルは戦後のニュルンベルク裁判で「ソヴィエト侵攻は、ソヴィエトがドイツやルーマニアに攻め入ることを防ぐ予防戦争だった」ことを主張しました。補足すると、1942年11月ごろにルイゼ・フォン・ベンダ(ヨードル夫妻の友人で、夫人が亡くなってから1年経った終戦直前に、ヨードルの再婚相手になります)がヨードルから聞いたところでは、ヒトラーは独ソ不可侵条約が結ばれた1939年8月の少し前までソヴィエトと英仏が(ポーランドを守るための)同盟交渉をやっていたことを気にしており、ドイツの後ろから攻めかかる密約があるのではなかろうかと(だからイギリスは和平に応じないのだと)疑っていました。ハルダーも似たようなヒトラーの見方を聞かされていたことが分かります。


 それに先立つ7月3日、ハルダーはグライフェンベルク作戦課長に、イギリスの次の課題としてソヴィエトがあり、ドイツの優位を認めさせる「干渉」が作戦課題となる……と指示しました。ミース作戦担当参謀次長は7月下旬からフランスでの休戦委員会委員長となり、事実上転出する予定だったので、ハルダーは日記にはグライフェンベルクが「作戦担当参謀次長を引き継がねばならない」と書いています。当面は事実上の次長代理となったわけですが、グライフェンベルクは8月1日付で少将になった人で、次長になるには貫目が足りません。9月に(例のスターリングラードの)パウルス中将が後任に補されました。


 また7月4日、西部戦線が片付いたので東部国境に移駐する第18軍のキュヒラー司令官・マルクス参謀長と会い、ハルダーは「任務の説明」をしました。おそらくこのとき指示された対ソヴィエト作戦について、8月5日にマルクス参謀長がハルダーに復命して、作戦研究結果を報告しました。これは、のちにハルダーがバルバロッサ作戦の計画をまとめる土台のひとつになったことが知られています。


 7月31日の会議で、陸海空三軍の首脳たちに向かってヒトラーは「イギリス本土上陸が不可能なときは」イギリスの希望となっているアメリカ・ソヴィエトのうち、ドイツが攻められるソヴィエトのほうを翌年に攻めなければならないと述べました。しかしハルダー自身も対ソヴィエト作戦計画を立案する必要を感じていましたから、その前から検討は進められていました。



 チャーチルの母親はアメリカ人でした。性的に少々奔放な人であったようで、長男ウィンストン・チャーチルも結婚から8か月で生まれてしまいました。「早産であった」ことにされていて、後年そのことにコメントを求められたチャーチルは「私はその場にいたに違いないが、そのころのことはよく覚えていない」と受け流しました。チャーチルはアメリカ人の協力を求めるため、アメリカ人の血を引くことをしばしば口にしました。



 エド・マローのラジオ放送はアメリカで評判になりました。戦後のテレビ時代にマッカーシズムを批判する番組を作り、世論の流れを変えたことで知られています。しかし報道番組が西部劇に押され、晩年は商業的に数字が出せず不遇でした。



 ロイド=ジョージは当時の知人への言動から、チャーチルが戦況を好転させられないときは自分がドイツとの和平に動くつもりだったかもしれません。1941年5月の下院で戦況を悲観的に見る演説をしましたが、それはレンド=リース制度が本格的に動き出し、アメリカが建艦計画の進捗を見て対日強硬方針に転じるタイミングのどちらも少し前であって、ロイド=ジョージの目にする程度の機密情報では、まだイギリスが勝利するめどが見えなかったのでしょう。彼は大戦中盤から政治的プレゼンスをなくしていき、1945年3月に亡くなりました。


 本文ではチェンバレンがロイド=ジョージを嫌っているように書きましたが、むしろロイド=ジョージがチェンバレンを嫌いでした。大戦が始まり、ロイド=ジョージはチェンバレンの入閣打診を断ったので、チェンバレンは息子の下院議員であるグウィリム・ロイド=ジョージを起用して、日本で言えば政務次官に当たるような職につけました。チャーチルはさらにグウィリムを、石炭や石油の輸入と生産をつかさどる大臣職につけ、戦後に第2次チャーチル内閣ができたときも別の閣僚ポストで起用しました。チャーチルにとっては兄貴の息子みたいなものですからね。



 チェンバレンは保守党首も辞職したので、10月にチャーチルが後任に選ばれました。10月にチャーチルは戦時内閣を一気に3人増員しました。もうチェンバレン派と反チェンバレン派の数のバランスを気にしなくていいということでしょう。チェンバレンは11月に亡くなりました。


 今回、すべての会話は創作です。


付記 「(お前ら欧州列強は)西半球には手を触れるな」というのがモンロー主義です。これを第一優先とする結果、アメリカはフィリピンなど東洋に市場を求めることはあっても、欧州に介入してカネと血を費やすことを避けました。西半球を東半球とすべきだという誤植報告がありましたがそれはモンロー主義ではありません。

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