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第23話 フランス戦


 ノルウェーでドイツ海軍はひどい損害を受け、ナルヴィクに上陸したドイツ山岳部隊もかろうじて持ちこたえていた。イギリス軍はイギリス軍で、ノルウェー軍との協力どころか、海軍と陸軍が地域司令官を統一できていなかった。もっとも陸軍も海軍もフランス軍や自由ポーランド軍の協力を受けていて、自分たちの命令系統を整理するだけで大変であったのだが。そして南ノルウェーでは敗勢になったから、撤退作戦を計画する膨大な仕事ができた。


「お届け物です、大臣」


「手早く片付けよう、パグ(イスメイの愛称)。もっとも手早く終わる量ではないのだろうな」


 イスメイ少将は部下に重い書類かばんを持たせて、海軍省にチャーチル海軍大臣を訪ねた。もうすっかり夜になっていた。軍事調整委員会はホスト役がチャーチルになったので、海軍省で開催されるようになった。生活パターンが夜昼逆転に近いチャーチルはまだ元気そうだった。


 チャーチルはチェンバレンにスケープゴートのような立場にされたことに気づくと、「自分で重要委員会に出ろ」とねじ込んだ。チャーチルをなだめるつもりか、4月末になってチェンバレンは内閣官房に属していたイスメイを「基幹(central)スタッフ」としてチャーチル直属にした。そして海軍大臣たるチャーチルは、「軍事調整委員会のために」陸空軍参謀総長を指導し指示できるものとしたのである。


 チャーチルは皇帝とは言わずとも皇太子くらいにはなったつもりだったかもしれない。海軍省の自分の部屋の近くにある大きな部屋を空にして、イスメイにスタッフを連れて移って来いと言った。だがチャーチルは軍事調整委員会の調整者に過ぎないし、イスメイの仕事も調整にとどまる。チャーチルの威を借る物言いをしても、調整相手の反発を買うだけなのである。だから「チャーチルの手先」に見えてはならないし、中立的な場所にあるイスメイのオフィスに誰彼なく話に来てもらうようにしないと各部署の本音も集まって来ないのであった。そのことをイスメイはチャーチルにぴしゃりと言った。


 ヒトラーが敗報を嫌うように、チャーチルは嘘を嫌った。その場限りの言い逃れ、気づいたことを言わずに飲み込む保身の類に鋭く気付き、許さなかった。イスメイはそういう点で、チャーチルとうまくやっていける数少ないスタッフのひとりとして終戦まで生き残った。もちろんそれはストレスいっぱいの生活であったが。


 そういうわけでイスメイは元の場所で元のスタッフに囲まれて仕事をし、夕刻になると海軍省に通ってくるのが通例になっていた。


「こう案件が多くては悪いことをする間もない。ネヴィルは元気にやっておるのか」


「メイビイ、サー(たぶん、大臣)。私もここ数日お会いしておりません」


 すでに何度か触れたように、チャーチルは自由党からの出戻りであり、与党反主流派と自由党が連携する核になりかねない人物として警戒されてきた。だがこう多忙では、倒閣を企む時間がなかった。


「奴でないとサム(サミュエル・ホーア航空大臣)は動かせん。もっと航空機が必要だ」


 ホーアはチェンバレンに心酔していて、従ってチャーチルが嫌いだった。ドイツはデンマーク経由で南ノルウェーに送り込んだ戦闘機や爆撃機を少しずつ北へ送っており、有力な空母部隊もいないイギリス軍は陸軍部隊の物資を焼かれて難渋していた。チャーチルはまだまだノルウェーをあきらめていなかった。


「私からも空軍に話してみます、大臣」


「頼む」


 ふたりとも、まだ当分はチェンバレンが首相だと思っていた。ノルウェーでの不首尾をきっかけに、下院におけるチェンバレンの立場がどんどん悪化していることが、実感として伝わっていなかったのである。5月8日の下院での論戦が、そのことをチャーチルにもチェンバレンにもわからせることになった。


--------


「あれは偵察機か」


 オープンカーの運転手が全く退避しようとしないので、ソサボフスキは尋ねた。大声でないとエンジン音で聞こえないくらいには敵機は近かった。だが確かに、高度を下げて機銃掃射するそぶりはなかった。年配でこんな後方勤務になっているらしい運転手の返事には緊迫感がなかった。


「ときどきわが軍が撃墜しております。偵察機のようですよ」


 ドイツのHs126偵察機はポーランド戦ではまだあまり行き渡っておらず、最近ようやく近距離偵察機の主力と呼べる比率になってきた。そんなドイツの台所事情はフランス側の一般軍人にもわからないのだが。


 偵察機だと言われてみると、視界をよくするためか、翼が胴体の上にある飛行機だった。最新鋭の機体には見えなかった。危険な敵国の空からそそくさと退出していくように見えた。


 ソサボフスキは降伏したポーランド軍の隊列から脱出し、抵抗運動に身を投じようとした。第一次大戦になってオーストリア軍に徴兵されるまで、少年時代に地下独立運動の地域リーダーをしていたのだから、それは当然の行動だった。だがドイツの締め付けは巧妙で徹底していて、抵抗運動の協力者を見つけることは容易でなく、活動資金を得るすべもなかった。ソサボフスキは選ばれて、パリの亡命政権に窮状を訴えるべくハンガリーに危険な脱出をした。現地の大使館から連絡を受けた亡命政権は、すぐにソサボフスキを呼び寄せて事情を聴いた。早い時期にポーランド国境を越えた兵士たちは多かったが、最後までワルシャワで戦った高級軍人は、ほとんど脱出できていなかったのである。亡命政権の首相は1920年にソヴィエトと戦った指揮官のひとり、シコルスキだった。政治家としては英雄ピウツスキやその後継者と対立して、ずっとパリで暮らしていた。


 目立った戦闘のないフランスで、しかも英仏の援助を受けて暮らすということは、戦闘とは関係ない世渡りのスキルで処遇が決まるということだった。ソサボフスキは気に入らなかったから、早々に亡命ポーランド軍部隊の指揮官……もっとありていに言えば、訓練教官として兵舎に入ることを望んだ。


 ドイツ空軍は、爆撃機部隊を重視するだけでなく、数をそろえる傾向があった。ドイツ空軍は近隣の中小国を圧迫したり、列強にリスクを感じさせて手出しさせないようにしたりする性格の空軍であったから、小型でも「爆撃機何百機」といった数による演出を見せたかったのである。そのような空軍だから、脅しの役に立たない偵察機の機種更新はあまり早くなかった。


「空のほうは優勢なのか」


「大きな戦いはまだないようですね。都市爆撃をどっちかがやっちまったら、掛け金が上がるんで」


 ワルシャワで見た市民たちの死体を思い出して、ソサボフスキは不機嫌な顔になったのだろう。運転手は言葉を止めた。世界大戦はポーランドだけが殴られたような形で推移して、最近ノルウェーとデンマークがそれに加わったが、ポーランド軍人を負け犬のように見るフランス士官はあちこちにいたので、ソサボフスキは無念だった。運転手のフランス兵は、話題を変えようと懸命になった。


「12月にイギリス空軍がウィルヘルムスハーフェン(ドイツの重要な軍港)を爆撃に行って、半分落とされて帰ってきたそうですよ」


「ほう」


 ソサボフスキには初耳だった。出国しようとポーランドで奔走していたころの話だ。


「爆撃機が20機以上で編隊を組んで、ハリネズミみたいにして行ったら、後から後からすばしっこい戦闘機が集まってきたんだそうです」


 1939年12月18日、双発のウェリントン爆撃機は24機編隊で出動し、ドイツ空軍のパイロットたちは合計38機の撃墜を報告した。ちょっと多いなと思う指揮官もいたかもしれないが、防空見張台からは敵機44機の襲来が報告されていたから、問題にならなかった。実際に撃墜されたのは12機で、貴重な長距離爆撃機の損害としては十分に大惨事だった。ドイツ側は2機を失った。


 第1次大戦以降、まず爆撃機が、次いで戦闘機が著しく高速化した。第16話で触れたように、第1次大戦では後部座席の旋回機銃で戦う複座戦闘機が活躍したから、各国はその近代化版として、モーターで回転する銃座を取り付けた戦闘機を競って開発した。前方を撃てる機関銃がないイギリスの回転銃塔つき戦闘機デファイアントも、当時のコンセプトとしてはおかしくなかったのである。


 計算違いだったのは、高速な戦闘機に対して人が銃塔を回して対応するのが、どうしても間に合わないことだった。モーターで回せばいいだろうと期待されたが、それもダメだった。練度の高いパイロットたちが編隊を組んで死角を消し合えば、銃座の力で戦闘機の接近を阻めるはずだったが……それがうまくいかないことをはっきりさせたのが、1939年12月18日の空戦だった。爆撃機部隊がどう対応するかが問われていた。


 空から視線を戻すと、フランス陸軍の兵士が塹壕を掘る訓練をしているのがソサボフスキの目に留まった。フランスの軍服をもらうしかなかったから、ソサボフスキはフランスの大佐略帽をかぶっている。兵士たちがそれに反応して敬礼するまでに、時間がかかった。ソサボフスキは軽く答礼した。


「新兵どものご無礼、お詫びします。大佐どの。ですが我が陸軍にはまともな兵士もたくさんおります」


 運転手がまた言った。


「お国は不運なことでしたが、こちら側にいれば安心ですよ」


「ありがとう」


 ソサボフスキは、フランス軍にも、出稼ぎ炭鉱労働者などを動員した亡命ポーランド軍にも士気の低さを感じていた。それはまあ軍務経験がないからで、最前線には緊張感があるのだろうと思っていた。そのことにちょっと自信が持てなくなってきた視察旅行だった。


--------


「これは敵機かね」


「はい、イギリスのブレニム爆撃機です。偵察任務で我が空に入ってきたものでしょう」


 案内に出た若い空軍士官は、それを見慣れているようだった。前線近くではあまり見かけない4.5トントラックが、見慣れない塗装の大きな主翼……の右半分を積んで航空基地の門をくぐるところだった。もっと小さな部品には、緑っぽいドイツ軍機のものも混じっていた。細長く悪路に弱い4.5トントラックは、航空機の残骸回収といった特殊用途を除けば、戦線後方で使うものだった。第4軍のクルーゲ上級大将は見慣れない景色に見とれていたが、来訪の用事を思い出し、車から降りた。


 大出力エンジンの開発や航空力学の蓄積が進み、爆撃機の速度に戦闘機が追い付いてくると、重い荷物を運びつつ戦闘機から逃れるには、エンジンひとつの単発爆撃機では苦しくなってきた。第2次大戦を待たずJu87急降下爆撃機は旧式化が懸念されていたが、イギリスの単発爆撃機バトルやウェルズレイも負けず劣らず、速度や武装で戦局についていけなくなってきていた。大きな双発機を積みにくい空母の世界はともかく、対空砲を持った敵部隊への攻撃任務はいま残骸をさらすブレニムのように、双発以上の爆撃機が担うようになってきていた。大戦序盤の偵察任務で散々な目にあったバトル爆撃機部隊は、いま再訓練の最中で、偵察に出てくることは少なくなっていた。


 2月の開進命令改定で、クルーゲの第4軍はA軍集団に配置換えになった。それは航空支援をケッセルリングの第2航空艦隊ではなく、シュペール上級大将の第3航空艦隊から受けるということだったから、全般的な打ち合わせに来たのだった。


 会議室で待っていたシュペール(第18話に登場)はゲーリングに横幅で対抗できる数少ないドイツ軍人のひとりだった。ライヒスヴェーアでも順調に出世していたが、第1次大戦で偵察/砲兵観測機の部隊を率いていた縁で航空畑に戻ってきていた。


「南のフランス軍に動きはありませんか」


「将軍のお仕事が減りそうな兆候はありませんなあ。我々の仕事は、多少あちらの新型機が届いておるようで、増えそうです。ああ、大丈夫ですよ。わが軍には何といっても最近の戦訓がある」


 クルーゲの不安を打ち消すように、シュペールは元気づけた。


 ドイツのBf109戦闘機もエンジンや武装をアップグレードしていたものの、1935年初飛行、1937年配備開始ともはや最新型とは言えなかった。ドイツ空軍は熱心に地上部隊攻撃に協力したけれども、英仏に対して無条件に優勢なわけではなく、ポーランド戦ほどの航空優勢は取れないだろうと考える陸軍軍人も多かった。とくにポック上級大将は攻勢の主役から外された悔しさも加わって、A軍集団に集中された装甲部隊が英仏空軍に食われることを懸念していた。クルーゲはポックの愛弟子として、愚痴を聞く機会が多かったから、ポックの懸念を共有していた。


「南に陸軍の重心があることが、ばれていないのでしょうか、将軍」


「それは私からは何とも。わが部隊がドイツを航空偵察するわけにはいきませんでな。だがC軍集団のほうで、活発に欺瞞(ぎまん)をやっていることは耳に入っております」


 マジノ線の正面あたりで毎日同じ軍用列車を往復させ、部隊がぞろぞろ到着しているように見せるなど、スダンに向かう第12軍から注意をそらすべく、ドイツ軍側としては考えつく限りの印象操作をしていた。南に大軍がいることは隠しにくかったから、それはもっと南、つまりスイスを通る迂回作戦のためなのだ……というカバーストーリーがちらちらとフランス軍に示された。


「フランスは物を隠すには不便なところです。平坦すぎる。フランス軍の心は読めませんが、フランス軍はベルギーに向かって身を乗り出しております。予期せぬ待ち伏せの類はありませんよ」


「後はサイコロを振るだけ……ということですか」


「誰がサイコロを振るかということですなあ、案外それは若い連中なのかもしれません」


 そう言われたクルーゲはポーランド戦を思い出した。驚くべきスピードで推移したあの戦争では、下級士官のちょっとした機転と偶然で橋が取れたり落とされたりした。ドイツ軍はそうした現場の機転に寛容だったが、もちろん成功するとは限らなかった。


「勝つのは若者の仕事です。我々は負けないことを考えましょう」


「そうですね」


 そしてどちらにせよ、自分の第4軍は決戦部隊の側面防御が仕事であることをクルーゲは思った。もちろんクルーゲはこのとき、自分の指揮下にもロンメルの第7装甲師団があることを意識していなかった。


--------


 1940年5月7日。3日後にドイツ軍が動き出すとは誰も知らず、イギリス下院は最近の戦争指導をめぐる集中審議を行うことになっていた。南部ノルウェーからの撤退作戦が終わるまで、国会にも細部は報告できなかったからである。


 戦時になって、チェンバレンはすぐ戦時内閣を発足させたが、労働党などの野党に対しては連立政権を組もうと言わなかった。そのことがアトリー党首の率いる労働党はずっと不満であったが、1935年に保守党が取った多数はすぐにはどうしようもなく、ドイツ空軍がいつロンドンに来るかわからないときに解散を迫ることもできなかった。だから7日は「自由討議」であって、労働党は様子見だと思っていたし、保守党はガス抜きだと思っていた。


 午後に始まった本会議は、議員がばらばらに夕食で抜けることを許容しつつ深更まで続いた。その夕食時から、雲行きが変わってきた。何人かの保守党議員が、回りくどい言い方を含めれば、チェンバレンの退陣を求める演説をしたのである。


 8日の朝から、労働党は役員会を開いた。保守党から造反が見込めるのであれば、内閣不信任案を出すべきかもしれない。だが否決されたらわざわざ信任決議をしたことになる。労働党はサイコロを振ってみることにした。労働党議員から本会議に先立って「今日の議事の最後に、議決を願いたいことがある」と発言があったが、何の決議かは聞くまでもなかった。保守党議員たちも、前日の議事の流れを踏まえていたのである。


 そのあとの駆け引きは、多くの読者の皆さんにはやや退屈だろうから、早送りしよう。チェンバレンは政権維持に自信満々なところを見せようとして、与党が多数であることを強調し、「戦争の行く末の方が大事だ」と切り返されてやや失点を増やした。チャーチルは「このようなときに不信任案など出すものではない」とだけ論じて、敵も味方も誰も批判しないよう気をつかった。


 結果は……不信任案否決だった。だが与党議員数に対して反対票が何十人も少なかったし、その場にいたはずの議員数に対して総投票数が少なかった。つまり不信任賛成者と棄権者を合わせると、与党の造反が目立ったのである。これでは重要法案がいつ否決されるかわからない不安定な状態だった。このように政権交代につながりかねない意見対立が表面化することを、日本の政治報道では「政局になった」と表現する。


 集中審議最終日の5月9日、すでに議場にチェンバレン首相はいなかった。アトリー労働党首もいなかった。第1次大戦で後半の首相を務めたロイド=ジョージが回顧談交じりの演説をぶっていたが、現役の党幹部たちは新たな戦時連立政権の枠組みを模索すべく、断続的に会議をやっていた。


 労働党は、チェンバレンが首相であるなら連立政権に加わらないと言った。チェンバレンはハリファックス外務大臣を後継にしたいと言ったが、意向を聞かれたハリファックスは断った。すでに子爵であり、下院に籍がなかったからである。20世紀に入って下院の貴族院に対する優越は確立しており、国王の信任だけで貴族が組閣できる時代ではなかった。


 それはチェンバレンから問われ、ハリファックスがその場で答えたのだが、イギリスの政治に携わる者なら予想できる答えだった。チャーチルはハリファックスが固辞したその場にいて、チェンバレンから次善の者として指名を受けたのだが、チェンバレンが連立工作を始めたときからそのことは予期できていた。翌5月10日に……よりによって5月10日に国王ジョージ6世に拝謁したチェンバレンは退陣を告げ、後任にチャーチルを推し、夜になるとBBCラジオで演説した。そして5月11日になった深夜、チャーチルがいつものように夜更かしの眠りにつく頃には、チャーチル内閣のメンバーはすでに固まっていたのである。


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 フォン・シュポネック中将は1937年まで航空部隊とは一切縁のない陸軍軍人だったが、航空管区司令官(つまり、空軍基地部隊の地域司令官)として空軍に迎えられ、そのあと陸軍に戻されて、輸送機による降下任務を担う第22歩兵(空輸)師団の師団長となった。


 だからシュポネックは、いま全身を包んでいるJu52輸送機の振動になじみがなく、不快で仕方なかった。このJu52は、いまオランダ・ベルギー領空に侵入している多数の同型機の1機だった。


 作戦計画書の上では、シュポネックの師団から歩兵9個大隊、シュトゥデント中将の第7航空師団から降下猟兵2個連隊と独立大隊を合わせて6個大隊がオランダやベルギーに順次降下することになっていた。全体が大きくふたつに分けられ、シュポネックがデン・ハーグ降下作戦を、シュトゥデントがロッテルダム周辺とオランダ国境の降下作戦を指揮することになっており、互いに手兵のいくらかを交換した。シュトゥデントのもとで戦った第22歩兵師団の一部には、「パリは燃えているか」で後年有名になったコルティッツ大将(当時は中佐)もいた。


 オランダの首都は憲法にはアムステルダムと定められているが、ベルギーから分離したときの諸事情により、オランダ・ベルギーの連合王国政府があったデン・ハーグがそのまま首都として機能していた。そして……ややこしい話だが、当時も定期便の発着する空港としては、アムステルダムのスキポール空港が使われていた。デン・ハーグの政府や王宮を制圧するために、その周囲にある3つの小さな空港をめがけてJu52の大群がいま飛んでいるのだった。


「師団長どの!」


 エンジンとプロペラの音に負けないよう、副操縦士が怒鳴るようにシュポネックを呼んだ。操縦室に顔をのぞかせたシュポネックに、機長が振り向いた。


「イペンブルク飛行場は、先行した機体の残骸でいっぱいです。降りられませんので、オッケンブルク飛行場に向かうのが良いと考えます。ご指示を頂けますか」


 陸軍部隊が侵攻してきて戦線がつながるまで、シュポネックの師団は空軍の指揮下にあった。それでも機長から見れば上司であるから、申し出はシュポネックの顔を立てるものだった。だからと言って、その不愉快な現実が和らぐというものでもなかった。


「頼む。オッケンブルク。それでよい」


 3つのうち中央に降りるはずが、南端に降りることになってしまった。シュポネックは口から出かかった悪態を、まだ残しておくことにした。今日という忌々しい日はまだ始まったばかりだった。


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 マーストリヒト市を含むオランダの東南端部分は、ベルギーとドイツの中間に涙滴のように突き出している。市街地のうえ飛び地に等しいとあっては、オランダ軍が守りを固めることはおよそできない。だからベルギー軍は、ドイツ軍がここを抜けてきたところを砲撃で抑え込むよう、エバン・エマール要塞を築いていた。


 コッホ大尉に率いられた1個大隊相当の降下猟兵たちは、5か所の目標に分散し、複雑に蛇行する川にかかった橋を占領するとともに、橋そのものすら攻撃しうる要塞の無力化に挑んだ。ベルギーも要塞を定数いっぱいの兵士で埋めておく思い切りがなく、降下猟兵を蹴散らす歩兵戦力を欠いていた。手榴弾などの攻撃を免れた砲塔を地中に引っ込めてしまうと、結果的にはドイツ軍が陸を進んでくるまで、にらみあいを続けるしかなかったのである。


 陸軍同士も前線の様子がすぐ伝わるわけではなかった。戦車部隊以外では、たとえ自動車化歩兵であっても、無線機があるのは中隊本部までだった。大隊、連隊、師団、軍団と報告が上がっていき、軍司令部に連絡が来てやっとコルフトを通じて空軍に様子が分かる。せいぜい考えられる近道と言えば、軍団司令部に提供した偵察機部隊が、情報を空軍にも持ってくるくらいだった。だから偵察機が空軍にとっての戦況第一報を持ってくることもあった。それらに比べると、エバン・エマール要塞の降下猟兵たちは攻勢開始日の5月10日夜には友軍が追い付いてきていたから、「空軍から見て様子が分からない」時間は短くて済んだ。


 ハルダーはマンシュタインが構想した「鎌刈り」作戦の内側に、もっと小さな鎌を用意していた。オランダはエイセル湖とマルセル湖で国土の真ん中がえぐられる形になっているが、この湖の水位を上げると、海水がさらに南へあふれて、オランダを東西に分断してしまう。これがオランダの第2防衛線である。だがロッテルダムのいくつかの橋を無傷で手にすることができれば、ドイツ軍はオランダの西半分に対して迅速に南から侵入できるので、この巨大なギミックを無力化できるのである。


 もちろんドイツによるこれらすべての努力は、アルデンヌから英仏の目をそらしておく釣り針でもあるのだった。


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 スキポール空港には降下猟兵のパラシュートは降らなかったが、ドイツの爆弾が降った。飛行場を爆撃し、補給や離着陸に使えなくすると同時に航空機の地上撃破も狙う。これが正統的な航空撃滅戦だった。エバン・エマール要塞を越えてロッテルダムに迫ったのはライヒェナウの第6軍、その北から仕掛けてオランダに攻め入ったのはキュヒラー大将の第18軍だったが、ケッセルリングのスツーカ部隊はライヒェナウの正面突破作戦に加わり、急降下爆撃できない爆撃機は航空撃滅戦に参加するか、降下した2個師団を援護する努力をした。


 オランダの北半分では、第18軍の一部である第1騎兵師団が(馬の速度で)疾走していた。エイセル湖を大西洋と隔てる堤防の基部に近い村に防御陣地があり、それより前にいる5個大隊ほどの警備兵は、有事にはなるべく時間を稼いで堤防に退くよう命じられていた。機関銃で数時間を稼ぐ兵士もいたが、大部分の兵士は急いで逃げ、ドイツ騎兵と自転車歩兵はそれを追った。防御陣地は深く掘ると海水が染み出すところにあり、師団砲兵の援護を受けたドイツ兵を支えられるほど強固ではなかった。だがダムと一体化したコンクリート陣地はそうはいかなかった。共に攻撃するはずの装甲列車や大口径砲は、オランダが初日に数百の橋梁を落としたことで、到着が遅れていた。オランダ海軍は念入りに、エイセル湖の東側から民間船を西側に移したから、湖面を渡ることもできなかった。湖の北端にある堤防を、ドイツ軍は渡れなかった。


 オランダの南半分には国境陣地があった。対するドイツ第18軍もアルデンヌに主力を向かわせた「残り物」という面が否めなかったが、歩兵と砲兵と空軍が連携する点において、オランダ軍はポーランド軍と同じような弱点をさらした。もちろんそれはドイツ軍よりは失敗が多いという程度のことだが、ドイツ軍の攻撃が時々成功し、オランダ軍の反撃がことごとく失敗する繰り返しの中で、南オランダでもオランダ軍は後退した。


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 シュポネックの周囲には、1000人ほどのドイツ兵がいるはずだった。正確な数もわからないし、人家と田園と小川に視界を分断されて、全体を見渡すこともできなかった。あちこちで無秩序に銃声がした。これくらいの集団が、やはり飛行場から追い出されて、北の海岸沿いに陣を張っているとケッセルリングから無線連絡を受けていた。


 11日朝、ようやく無線連絡がついたシュポネックに、飛行場脱出を指示したのはケッセルリングだった。輸送機が往復して師団をそっくり運ぶはずのところ、第一陣が飛行場で破壊され、ひどい例になると未舗装の未成滑走路に車輪をめり込ませ、そのまま障害物になってしまったのである。増援を下ろしようがないから、あとは敵を引き付けて粘れるだけ粘るしかなかった。デン・ハーグ降下組は3空港に降りた兵たちが2か所に固まり、救援を待った。シュトゥデントもロッテルダムに降下したまま、なかなかケッセルリングと連絡がつかずにいた。


「この村に抵抗巣を張ります、師団長どの」


 降下猟兵中佐が、シュポネックに同意を求めた。断固とした口調だった。シュポネックは力なくうなずいた。孤立した状況で心を強く持つことについて、降下猟兵は一般歩兵より心構えができていた。ふたつの飛行場からの残兵をまとめたシュポネックたちは、いまデン・ハーグとロッテルダムの中間にいた。


 シュポネックは目標地点を確保できず、シュトゥデントは一部の重要地点を確保した。だが壊滅の危機に瀕していたのはどちらも同じで、助かった理由も大筋で同じだった。東から危機が迫り、英仏軍も陣地を固めるまでベルギー軍が遅滞戦闘をしてくれることを期待したので、後方の降下猟兵を制圧できる支援砲兵を集められなかったのである。第22歩兵師団も第1波師団である。歩兵火力だけで攻められても数日持ちこたえられるほどには、ドイツ兵たちは鍛えられていた。


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 フランス陸軍は計画に沿って行動するときは速かった。10日夕刻にはフランス第7軍の先鋒がベルギーを縦断してオランダ国境を越えた。英仏軍は計画通りに有利な位置を占め、主要都市とアントワープ港を支配下に保ったまま、ドイツ軍に一方的な出血を強いることができるはずだった。ドイツ軍が占領地を急速に拡大していることを、必ずしもドイツ有利と見ない軍人たちも多かったのである。


 英仏軍が計画通りにダイレ川防衛線を固めていく一方、ベルギー軍は単独でベルギーの東半分をできるだけ長く守ろうとしていたが、うまくいかなかった。エバン・エマール要塞で敗れ、ベルギー軍の背後にドイツ軍が入り込む余地が生じたためである。ライヒェナウの第6軍は早々にオランダのマーストリヒトを通過して、侵攻ルートの本命と誰もが考える(つまり、前大戦の)ルートで進み、ベルギー軍を追ったが、第4軍と第6軍の戦区を分ける交通の要衝リェージュ市は周囲に防御陣地を巡らせており、13日になってもほとんどの陣地は健在だった。


 12日から13日にかけて、ドイツ第6軍の先鋒をつとめる第3・第4装甲師団は、ダイレ川まであと30kmほどのアニュー(Hannut)で第2・第3フランス軽機械化師団(DLM)とぶつかった。騎兵系の部隊であったから、47mm砲を備えるソミュアS35戦車が全体の1/4を占めていた。ドイツ側のほうが戦車の総数で言えば上回っていたとされるが、3/4がI号戦車かII号戦車で、戦車同士で撃ち合いになればフランスに分があった。ドイツは多くの損害を出したが、空軍や88mm高射砲と連携して柔軟に立ち回った。フランス戦車には無線機がないため部隊としていったん決めた並び方を崩せず、1ヶ所に集まって攻めるドイツ戦車を支えきれなくなると、全体として後退した。フランス軍は時間を稼いでよしとしたが、優勢を生かしてドイツに出血を強いる機会を逸した。


 このようにドイツ第18軍と第6軍の猛進は全体として強い抵抗を受けていて、10日から13日にかけて前進は勝ち取ったものの、損害を見れば一方的な勝利ではなかった。その姿は全体として、「ドイツは第1次大戦と同様のコースで攻めてくる」というガムラン仏陸軍総司令官の見方と矛盾しなかった。実際にはドイツがルクセンブルク方面で怪しい動きをしていることが断片的に報告されてきていたが、それを評価する士官たちか、でなければガムランその人によって「重要でない情報または誤認」だとみなされた。


 その南に陣取るクルーゲの第4軍も同様にリェージュの外郭陣地群に邪魔をされ、陣地攻略部隊と前進する部隊を分けていたが、ロンメルの第7装甲師団はその先頭を切って進んでいた。逆S字型にくねくね蛇行するマース川が西に膨らんだ部分の内側を進んでいたため、なかなか川に着かず、渡河のタイミングはグデーリアンがマース川のほとりに立ったのとほぼ同時になった。だからロンメルのことは後回しにして、アルデンヌを抜けたグデーリアンたちの足跡をたどることにしよう。


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「攻撃しましょう」


 グデーリアンの口調にはトゲがあった。3日寝ていないから不機嫌なのだ。部下たちも同様だった。攻勢開始から54時間。森林を守り、道路に障害物を置くはずだったベルギー軍は、指示を受け取ることもできず排除された。退却命令を受け取れるくらい電話線が生きていたら、もっとドイツ軍の前進は楽だったという後世の指摘もある。


 マース川を挟んで、スダンの街があった。川沿いに西へ進み、砲兵の到着を待って、大軍が渡りやすい開けたところから渡河しろというのがハルダーの指示だった。だがそこにはフランス軍の有力な陣地がある。スダンの街そのものが周囲の陣地からの視界を阻むから、スダンの正面を狭い幅で攻めるべきだというのがグデーリアンの主張だった。


「やりましょう、将軍。敵が集まってくる前に」


 ツァイツラー大佐(第17話に登場)は、クライスト大将をけしかけた。A軍集団予備も数に入れれば7個装甲師団が集中しているこの戦域で、誰かが装甲部隊の統一指揮をとらねばならない。第22軍団長のクライストは大将としてグデーリアンより先任でもあったから、軍団所属部隊のほとんどを他に渡して「クライスト装甲集団」という名前で3個軍団を指揮することになった。軍団参謀長だったツァイツラーも、そのまま装甲集団参謀長になっていた。


「悪くない考えだと思うが……」


 クライストは騎兵としては慎重な人物と目されていた。もちろん、騎兵の同僚がこの程度に無鉄砲なことを言い出すのには慣れているはずであった。グデーリアンはクライストの抵抗は弱いとみて取ると、声を低くした。


「よろしければ、私の独断で」


 クライストは黙ってうなずき、ツァイツラーは軍議を閉じることに異議が出ないか、列席者を見回した。ざわめきがあったが、苦笑の成分が圧倒的で、苦みはほとんどなかった。みんなグデーリアンとは長い付き合いだった。ツァイツラーが散会を告げると、グデーリアンは着帽しないまま頭を下げただけで退出した。部屋を出たグデーリアンの足音が駆け足になり、列席の指揮官たちは声をあげて笑った。


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 グデーリアンの第19軍団を構成する3個装甲師団のうち、第2装甲師団は午前中にはまだアルデンヌの森を抜けきっていなかったし、どの師団も砲兵の多くが未着だった。だがグデーリアンには空軍があった。5月13日になると、ケッセルリングの航空部隊もシュペールの戦区に入ってきて、航続距離内でできるだけのことをした。


 このころ、すべての軍団と装甲師団には、わずかではあったが、偵察先と着目点などを指示できる偵察機が割り当てられていた。陸軍と空軍で指示が伝わるだけの通信手段があり、スタッフが毎日の連絡をこなし経験をつけているということだった。グデーリアンがシュペールの爆撃機部隊を預かるレルツァー大将の個人的な支持を受け、希望通りの地上支援をしてもらったことは大きな影響があったが、確立したシステムと思い切った13日の航空戦力シフトは、そうした成功の土台となるものだった。13日の戦闘が決定的なものであることはちゃんと隣のB軍集団を支援するケッセルリングの第2航空艦隊に伝わっていて、リヒトホーフェン少将の第8航空軍団から、虎の子のJu87部隊である第77地上攻撃航空団(StG77)が周辺の陣地制圧に加わった。StG77のシュワルツコフ司令は、翌14日にスダン周辺で戦死することになった。


 さすがに橋を無傷で手に入れることはできなかったから、撃たれ放題に撃たれながら、ゴムボートでまず川を渡るしかなかった。ドイツ空軍の爆撃機は、切れ目なく少しずつ現れて、フランス軍が渡河部隊に対して集まってくるのを妨げた。これがグデーリアンの望んだことだった。第2装甲師団は森を抜けたら渡河命令が待っていて驚いたが、それでも遅れて渡河を試みた。もっとも他の師団も、準備を終えて攻撃にかかったのは16時だったのだが。第10装甲師団の指揮下には、初陣のグロスドイッチュラント自動車化歩兵連隊も臨時に配属されていた。ベルリンを警備する部隊がもとになっていて、1939年初めに名称内の「警備(Wach)」が「歩兵(Infanterie)」に置き換わり、外征も意識されるようになった。


 いくつかの陣地が肉薄攻撃で沈黙した。川を往来できるようになると、次は橋である。14日朝までに、船を並べて板を渡していく「舟橋」が1本だけ作られた。工兵の架橋器材もまたアルデンヌの渋滞につかまり、架橋器材が1本分しかなかったのである。


 だから14日の焦点は、この舟橋を使ってドイツ軍が戦車と兵士を渡河させ、しっかりした橋頭堡をつくれるか、英仏軍の砲と歩兵と爆撃機が早いうちに橋を落とせるかというものになった。


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「将軍! ヘルメットを着用ください。破片が危険です」


 自分もヘルメットをかぶった対空砲部隊の中佐が、もうひとつをグデーリアンに差し出した。グデーリアンは無言でそれをかぶった。上に対してはありあわせの樹木を使っていくらか偽装しているが、地上から見ればあちこちにある銃座と砲座はよくわかった。いや……あまりにも密集しているから、上空からも丸バレかもしれなかった。なにしろ攻撃するものはひとつだし、これだけの対空砲が守るものも、ひとつなのだ。


 どこかから聞こえてくるエンジン音が、途絶えることはなかった。味方の戦闘機も姿が見えた。もちろん、この陣地の近くは飛ばないように注意されてはいるはずだった。


 グデーリアンも目の前にあるリスクの性質について、座学的な知識はあった。すでに早朝から戦いが断続していたから、地面にきらきらと金属片が光っていた。対空砲弾の破片だ。だからグデーリアンは対空火器が密集する丘の手前で、上るのをやめた。


 大口径の対空砲弾には、先頭に着発信管、底部に時限信管が仕込まれている。ある秒数飛んで、まだ何にもぶつかっていなければ、時限信管が弾を破裂させ、弾片をまき散らして周囲の航空機を傷つけるのだ。どうせ高空まで届かない20mm対空機関砲はもう少し簡単になっていて、弾に導火線の役目をする「ひも」がついていた。どちらにしても、対空砲の周囲には命中弾が出ようと出まいと、確実に危険な弾片が降った。


 フランス戦当時、88mm砲のほとんどは空軍所属であったがコルフトを通じて陸軍の指揮下に差し出されたものがあり、あちこちの戦場に姿を見せた。低空用の20mmと37mmの対空機関砲は陸軍部隊にもあった。だから丘の上には緑色の陸軍軍服と青灰色の空軍軍服がどちらもひしめいていた。


 さて、陣地に近づけないとしたら、ここで士気の鼓舞を図らねばならない。グデーリアンは見まわすようにゆっくりと、視察に付き添っていた対空砲部隊の士官たちに告げた。


「今日のことは君らに任せる。私は明日の準備をするが、君たちが私に明日をくれるのだ」


 返答はなかった。笑顔とうなずきがあった。トン、トン、トン、トンと20mm機銃が合唱して、士官たちは一斉に頭を下げたのでグデーリアンもならった。低空を近づいてきたフランスの爆撃機が舟橋を狙ったが、爆弾は川に落ち、爆撃機は水柱を残して飛び去った。細い舟橋は爆撃機にとって良い目標ではなかった。


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 フランス陸軍の多くの地上部隊は、戦局の急展開に情報共有がついて行っていなかった。大変なことになっているという意識は、むしろ空軍の報告を受けた高級司令部にあったが、軍団級以下の司令部は状況不明のままおろおろしていた。そして打ち合わせの時間もなく、普段一緒に行動しない部隊と共同作戦を行うことに、指揮官たちは不慣れだった。グデーリアンに食い破られた川岸の陣地はフランス第55歩兵師団のもので、その上のフランス第10軍団司令部は直ちに反撃するよう命じたが、細かい命令が上から降りてこなかったので「準備」をしているうちに14日の夜が明けた。積極的に動くドイツ軍に対し、フランス軍は整合的な指示をもらえず、バラバラに戦闘に入って各個撃破された。フランス第2軍はさらに遠方にいる第21軍団を呼び寄せた。この軍団は自動車化2個師団(第3DCR、第3DIM)を持ち、DIMは歩兵がトラックに乗っているだけだったが、DCRにはルノーB1bis重戦車とオチキス軽戦車が2個大隊ずつあった。


 地上支援のためには、多くの爆撃機は鈍重すぎて向かない。そしてフランス空軍はあまりに作戦機数が足りなかった。大陸のイギリス空軍の指揮系統はBAFFという司令部が頂点で、バラット空軍中将が指揮していた。5月14日の午前中からBAFFはグデーリアンの仮設橋を攻撃して壊せず、ドイツ軍が厳戒しているとわかっていても、午後の攻撃をしないわけにはいかなかった。バラットは爆撃機乗りたちに志願の意思を尋ねた。全員が志願した。71機が出撃し、31機が帰ってきた。


 バラットはフランスの戦いが終わった後、訓練部隊や学校で大戦の残りを過ごした。彼は壊れたのだという人もいた。そう見えた……と評すべきだろう。じつは壊れ、傷ついていたのはイギリス陸軍だった。バラットは、空軍と陸軍の果てしない資源獲得バトルに巻き込まれて、ちょっと気の毒なキャリアを歩むことになってしまったのだが、それはこれから語っていくこととしよう。


 14日のエアランドバトルを勝ち抜き、軍団をすっかり対岸に渡したグデーリアンは、ひとりでフランス戦を終わらせる決断をした。第10装甲師団とグロスドイッチュラント連隊を20km南のストンヌ(Stonne)村制圧に向かわせ、残りの2個師団は全力で西進し、大西洋に向かわせたのである。


 等高線の入っていない地図とにらめっこしてもストンヌ村の重要性は全くわからないのだが、Google Mapsを「航空写真」に切り替えると少しわかる。東西に山と森が連なり、ストンヌは峠の村といったところである。平べったいフランスでは絶好の砲兵観測地点となるだけでなく、ここを通せんぼすればスダン橋頭堡は陸からはまず安全である。当時の師団砲兵はせいぜい12kmくらいの射程しかないからである。


 15日から16日にかけて、第10装甲師団とフランス第21軍団はストンヌの争奪戦に明け暮れた。ドイツの37mm対戦車砲がこのころから露呈した貫徹力のなさについてはよく語られるが、正確に狙える砲ではあった。だからB1bisは、側面にあるラジエーターを攻撃されて撃破される例があり、後年のティーガー戦車同様に燃料切れも大敵だった。逆にIII号戦車11両とIV号戦車2両を1両のB1bisに撃破された事例もあった。


 第10装甲師団が最終的に勝利したのは16日になってからだったが、あえて言えば彼らは最終的にストンヌを取ったことでではなく、15日のうちにフランスにストンヌを渡さず、観測地点として使わせもしなかったことによって、フランスの運命を決めた。A軍集団が師団単位で次々にマース川を渡り、周囲のフランス軍を一掃してしまえば、渡河地点の代わりはいくらでもある。そして14日に大損害を受けた英仏爆撃機部隊には、もうドイツ軍の渡河を止めるすべがなかった。


 英仏の政治家たちは15日の朝から深夜にかけて、軍人たちからフランスは敗けたと伝えられた。グデーリアン軍団の先鋒が大西洋に達したのは5月19日だったが、それを止められなくなったことは15日にすでに明白だったのである。


 チャーチルはすぐにパリに飛んだが、パリの民衆は車上のチャーチルにもう挨拶すらしなかった。ガムラン参謀総長たちは何よりも戦闘機部隊を希望したが、イギリス空軍参謀本部は懸命に抵抗した。チャーチルは「連立内閣を保たせる男」として選ばれたのであって絶対者ではなかったから、戦時内閣が空軍の剣幕に黙り込んでしまうと、無理押しはできなかった。どうにか数十機の戦闘機が送られ、6月にいよいよパリが脅かされるとフランスの要求はさらに高まったが、イギリス空軍の支援はさらに細った。


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「予想はしていたが、君に追いつくのは大変だったぞ、ハインツ」


 第6装甲師団は、ボーランド戦で盛大な足回りトラブルを起こしたチェコスロバキア製35(t)戦車を集中配備された師団である。それがグデーリアン同様、およそ戦車が役に立たない渡河戦闘をどうにか乗り切って、スダンより北西の渡河地点でフランス軍陣地を打ち破った。空軍の応援もなかったが、グデーリアンの渡河より少し後だったせいで、フランス軍の増援も来なかったのが幸いした。そして師団長のケンプ少将はここ、モンコルネの街で、西に向かってきたグデーリアンとばったり遭遇したのである。


 グデーリアンは大将だがケンプより2才若い。出世が早すぎるのである。軍団違いで指揮系統上の上下関係ではないから、ケンプも遠慮しなかった。ケンプもこの後出世して、1943年にはケンプ軍支隊を率いてクルスクの戦いに姿を見せることになる。


 街の広場には緑のドイツ軍服があふれていた。市民たちはどうしても用事のある者以外、窓からその様子をうかがっていた。


「こんなに早く大西洋に行けるなら海水着を用意するのだったな。ロンメルもマース川を越えたそうだ」


「ほほう」


 ふたりとも自分の手柄を両手いっぱいに抱えていたから、ロンメルの強引さをとやかく言う気持ちはなかった。


「奴は稼がねばならんからな」


「何がだ」


「ふむ。まあやめておこう。めでたい日にする話ではない。再開を祝して、一杯どうだ。捕獲品だ」


 ケンプが従兵にちらりと視線を送った。フランスのビール瓶らしきものに割れないよう布を巻いて、ありあわせの袋で手に提げている。


「俺の指揮車はあっちだ。コップを用意させよう。ひとり1本というわけにはいかんな」


「当たり前だ。寝てしまうぞ」


 ケンプもグデーリアンも、いや装甲部隊の全兵士が、このところ寝不足続きだった。


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 ヘルマン・ホート大将が入営したのは第1次大戦前だが、士官候補生採用から6年で、少尉のまま陸軍大学校に進んだ。実役停年(次の昇進までに最低限勤めねばならない年数)の関係で、中尉のまま参謀本部で勤務することにもなった。日本ではあだ名の「パパ・ホート」が「ホート親父」とよく訳されるせいもあって、何となく大雑把で話のわかる人物のようなイメージがあるが、大変な早熟エリートなのである。第1次大戦では頭のいい参謀として便利に使われすぎたのか昇進できず、その後のライヒスヴェーアで出世が停滞したが、1935年にカイテルやハルダーと一緒に師団長に進んだ。そして軍団長として初めて装甲部隊の指揮を執ることになったのであった。


 さて、ホートの第15自動車化軍団にはロンメルの第7装甲師団と、フォン・ハートリーブの第5装甲師団がいた。ロンメルは戦闘でも勇敢に戦ったが、架橋器材を分捕ったり、先に渡河した第5装甲師団の一部を一時的に配下にしたり、身内の交渉でも剛腕を発揮した。マース川を渡りやすい場所を放置したフランス軍の失策もあり、第5装甲師団ははっきりと後れを取ってしまった。


 そしてロンメルは16日夜、謎の「無線途絶」を起こして軍団命令の制止を振り切り、フランス・ベルギー国境陣地に奇襲をかけ、わずかな戦車と自動車化歩兵で後方に暴れこんでパニックを起こし、「戦争は終わった」と敵兵に堂々と降伏を迫るパフォーマンスも交えて、フランス軍の数個師団を麻痺させてしまった。ストンヌが第10装甲師団に確保されたのと同じ16日である。この16日はモンコルネでケンプとグデーリアンが出会った日でもあり、ベルギーの英仏軍が退却に移った日でもあった。だが正面のドイツB軍集団と戦闘を交えながら退却する英仏軍は、ロンメルやグデーリアンの速度と比べる意味もないほど遅かった。


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 イギリス軍首脳はベルギー方面の部隊が包囲を突破するために、南への反撃をフランス軍にせっついた。だがバタイ・コンデュイの戦争イメージしか持ってこなかったフランス軍は、状況の急転にどうしてもついて行けなかった。18日にガムランが罷免され、20日にダラディエが国防大臣を追われてレイノー首相が自ら兼ねても、日ごろの訓練で(つちか)われたものが変わるわけではなかった。


 イギリス軍のフランクリン少将が2個歩兵師団、1個戦車旅団を中心とする反撃部隊の指揮を執ることでようやく話がまとまり、アラスの街へ押し出した。フランス軍の共同攻撃は彼ら自身が兵力の引き抜き、いったん配属された部隊の召し上げ、再結集といった事務手続の渦を処理しきれず、遅れたり一部しか届かなかったりした。だがロンメルもまた、わずかな先頭集団とともに無理すぎる位置まで進出しており、第7装甲師団のうち戦車の後ろを進む自動車化歩兵が、イギリス戦車の攻撃を食らうことになった。後に言うアラスの戦いである。


 ドイツ戦車部隊が優勢な敵戦車部隊に出会ったとき、対戦車砲部隊のいる陣地に向けて退却し、敵をおびき寄せて叩く戦術を取ることは、ずっと後になってもアメリカ軍の資料に残っている。対戦車砲部隊のほうの通信機材事情はそれほど良くないのだが、なんとかそれを現場でカバーして、戦車が砲の位置を把握しつつ戦っていたのである。最先頭から慌てて戻ったロンメルは陣頭に立ちながら、同時に砲をかき集め、歩兵たちを叱咤しながら待ち伏せ計画を現実のものにしていった。空軍の88mm砲部隊によって、イギリス軍は高い授業料を払うことになった。急降下爆撃機が集まってくるには半日かかってしまったから、最後の決め手といったところだった。


 個々にはドイツ戦車を蹴散らしたイギリス戦車もいたが、歩兵とも砲兵とも連携を欠いており、連携する通信手段もなかった。互いに大きな損害を出したが、戦車を修理してくれる後方からイギリス軍は孤立しているのに対し、ドイツ軍は幾分かを回復できた。ヒトラーのダンケルク停止命令を誘ったに違いない……とイギリス軍にとってのプラス面を評価する史家もいるが、歩兵と砲兵と戦車兵がそれぞれ自分の戦争をするようなイギリスの悪癖への反省がプラス評価でごまかされたとしたら、それはイギリスにとって大きな損であったろう。


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 フォン・ロスバーク中佐はロスバーク大将(第1話に登場)の息子である。OKWでL課(国土防衛課)の首席参謀に任じられている。簡単に言うと、OKWで作戦に関してはカイテル、ヨードル、ヴァーリモントの次に偉い。ダンケルクを目前にした装甲部隊への停止命令について、OKHで同じ立場(作戦課首席参謀)のホイジンガー中佐にこっそり事情説明に来ていた。このころヒトラーはドイツ西部に秘密司令部を構え、OKHの首脳部は専用列車をその近くに止めて、それを中心に執務していた。


「ヨードル将軍も異を唱えられたとは聞いていないぞ」


「いや……反対なのだ。反対なのだが総統が耳を貸されないのだ」


 すでに5月24日も深更であった。この日の午後、ルントシュテットのA軍集団司令部を訪ねたヒトラーは、「装備修理のため装甲部隊を1日休めたい」というルントシュテットの意向をその場で聞いた。自分の司令部に戻ったヒトラーはブラウヒッチュ陸軍総司令官を呼びつけ、A軍集団の装甲部隊全体への「無期限」停止命令を申し渡した。OKWもOKHも大騒ぎになったが、OKWでは嵐の予兆を感じ取っていた。23日にあった、ゲーリングからヒトラーへの電話である。イギリス軍を掃討する仕事は陸軍ではなく空軍に振れというのが電話の要点であった。たしかにこのときは、ヨードルは「(ゲーリングは)かみ砕けない大きさのものを食いちぎった」と安請け合いに腹を立てていた。空軍部隊も装甲部隊同様、連日の出動で疲れ果てていたのである。


 だが一方、このところの陸軍のお祭り騒ぎは、ヒトラーをいらだたせていた。自分をしのぐヒーローがいては困るのである。ゲーリングの電話は「ヒトラーに忠実な海空軍、なにかと言うことを聞かない陸軍」という前年11月からの流れを受けて、陸軍に手柄を立てさせる政治的リスクをヒトラーに気づかせた。この日の停止命令は、ヒトラーの視点からは「陸軍に手柄をやらない」「陸軍に言うことを聞かせ、大事なことはヒトラーが決めると念押しする」というふたつの意味を持った。近代国家を「国家のために」運営していく為政者ならおよそ出さない命令だが、「戦時代用皇帝」として振る舞うヒトラーが、目前の戦争より国内での権勢維持を優先させたと考えれば、わからなくもない。


 フランス全土を攻略するこのあとの戦いに備え、装甲部隊を温存するのだとヒトラーは言った。「海岸の沼沢地帯は装甲部隊に適さない」というウソの理由を流せとも言った。だがイギリス野戦軍撃滅の巨大なチャンスを逃してしまう不合理と釣り合うほどの理由ではなかった。


「ヨードルは停止命令に反対」というのは、ロスバークのウソだった。少なくとも、ヨードルはヒトラーの説得をあきらめていて、ヴァーリモントやロスバークの談じ込みを相手にしなかった。


 ロスバークは目をぎらつかせて、声を落とした。


「いいか……ドイツは今、シュタインメッツかフォン・フランソワを見つけねばならんのだ。命令を命令と思わない者を」


 ふたつの人名が意味することは、このころのエリート士官ならすぐわかった。シュタインメッツは普仏戦争、フォン・フランソワは第1次大戦で有名な命令違反をやってのけたドイツ(プロイセン)陸軍の将軍たちだった。どちらも短期的には手柄となったが、上司との関係を悪化させて最終的には免職につながった。ホイジンガーが返答する言葉を選ぶのに、少し時間がかかった。


「……命令に書いてないことを独断するのと、命令に違反することは違う」


 軍法会議のリスクを自分たちが(おか)すわけではない。人に押し付けるのである。それも先輩の誰かに。中佐ふたりの指揮権でどうにかなるレベルの話ではない。ホイジンガーは続けた。


「こういう身の捧げ方は、軍人に求められるものではない。違うか」


 ロスバークは静かに立ち上がった。怒りはなかった。無理なものは無理なのだ。


「ヨードルとカイテルにもう一度だけ話してみる」


 ホイジンガーは無言でうなずいた。ロスバークが成功する予感はなかったが、それがロスバークの仕事だった。


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 すこし時間はさかのぼる。第4DCRを中心として残り少ないフランス装甲部隊を与えられ、ドイツ歩兵の抵抗を排除してド・ゴールがモンコルネの街に入ったのは19日だった。すでにドイツ装甲部隊はダンケルク近くに集結し、ベルギーを経由した補給路が確立していた。街にはフランスビールの空き瓶が転がっているだけだった。軍人たちよりも街の民間人がフランスの敗北を冷徹に受け入れていた。目の前にフランス軍がいるが、ここにいればすぐ孤立することになるので退いてしまう……と見切っているのだった。


「ソンム川に向かう。ドイツの橋頭堡をひとつでもふたつでも、そぎ落とすのだ」


 ド・ゴールは考えることを避けるように言った。ダンケルクの装甲部隊と、その空を埋めるスツーカがこちらを向けば、ド・ゴールが得たものはすぐに奪われるに違いなかった。一時的な空しい勝利であっても、いまはそれがフランスが得られるもののすべてだった。


 ド・ゴールは戦車を知っていたが、他のフランス士官同様、実戦的な訓練の蓄積を欠いていた。特に、戦車とそれ以外を協力させる能力について、他の士官と比べて特別なところはなかった。個々のフランス戦車とフランス戦車兵の組み合わせには、優れたものがいて、ドイツ戦車を打ち破った。だがそれを大きな勝利へつないでいくことはできなかった。


 いろいろな理由で戦車が失われ、減っていった。戦車と戦って失われる戦車はほとんどなかった。移動そのものが戦車にとってリスクでありダメージ源だった。軍が壊乱し、味方が埋めた地雷のありかすらわからなかった。


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 そしてイギリスは民間船をかき集め、イギリス自体の防衛にどうしても必要な海軍は温存したまま、相当数の将兵をダンケルクの砂浜から取り戻した。ドイツ軍は補給を受けて前線に並び直した。まだフランスのほとんどはフランスのものだった。もう6月になっていた。


 6月6日、数少ない勝利を喧伝できるド・ゴールを、レイノー首相は国防大臣たる自分の代行に任じ、閣僚に列した。軍首脳の中で孤立して、長らく蚊帳の外であったがために失点もないペタン元帥が副首相になっていて、気まずいことになったが、レイノーはド・ゴールを必要としていた。その主な仕事は国内ではなく、ちょうど5月10日に首相になったチャーチルとの対話だった。


 だが、もうフランスは地滑りのような敗勢にあった。


 Munitionsausstattungという、訳しにくいドイツ語がある。直訳すると「弾薬規定量」であろうか。戦時に部隊が移動するとき、部隊固有のトラック、馬車、あるいは兵士のベルト上で一緒に運ぶ標準弾薬量が武器ごとに決まっている。細かく言うと、歩兵分隊の軽機関銃より砲兵隊が自衛用に持っている軽機関銃はこの数字が少なめだし、逆に支援用の重機関銃はずっと多い。これは一種の「理想状態」であって、戦争が始まっても弾薬をこんなに「持てるだけ持っている」状態にはならないのだが……。この「弾薬規定量」を部隊ごとに集計して重量に直し、実際に持っている(と報告された)弾薬量をそれで割ると、部隊の補給状態を知る目安になる。ドイツ軍の全部隊は毎日(前日の)弾薬消費量を報告し、輸送中の喪失などを加味するために、10日に1回弾薬現有量を報告する決まりだった。


 ポーランド戦が始まった1939年9月1日にも、オランダ・ベルギーへ攻め入った1940年5月10日にも、この「目安」は1に達しなかったし、それで直ちに支障は出なかった。ところが6月に入り、ドイツ軍がフランス南西部に攻め込んでいくと、105mm榴弾砲など多くの大口径砲で、この「目安」が1を越えた。それは師団に割り当てられた段列(トラック隊)が砲弾を受け取り(だから師団には「届いて」いる)、フランスを何百kmも追いかけて行っていることと、前線ではあまり大口径砲弾が消費されていないことの結果だった。そのくせフランス戦が終わってみると、戦役参加部隊の平均で小銃弾の「目安」は0.25であった。まったく弾丸を使わなかったのではなく、小銃と機関銃でフランス軍を追い立てることはずっと続いていたのである。


 フランスの閣議はすでに、3月にイギリスと結んだ約束を破り、単独講和の交渉に入ることに傾いていた。ちょうどそのころ、英仏の実業家や外交官が「英仏の政府と軍を統合する」構想を相次いでチャーチルに提案していた。ド・ゴールはイギリスに行き、チャーチルからそれを聞かされて、受諾をレイノーに持ち掛けた。レイノーは北アフリカのフランス植民地にこもって抗戦することを考えていたから、実質的にフランスをイギリスに差し出す結果になるとしても、リソースの最後の一滴まで使って戦うという提案に乗った。チャーチルは、その一環としてフランス艦隊がイギリスに脱出してくれるなら、イギリスのメンツなどどうでもよかった。


 だがフランスの閣議はそれを峻拒した。フランスが敗れるほどであればイギリスもまた和を乞うであろう……という、プライドと意地が一緒になった感覚があった。そうしたぎりぎりの心情でかろうじて立っている内閣でもあった。レイノーは何度も申し出ていた辞職をようやく認められ、いまやパリを追われボルドーにあったフランス政府はドイツに和を乞うた。後任の首相は例のペタンであり、ガムランの後任として陸軍を握り、新たに国防大臣となったウェイガンも、ド・ゴールの独自すぎる行動を評価していなかった。休戦協定が調印された6月21日から発効した6月25日までの間に、ペタンの政府はド・ゴールを軍から追放した。ド・ゴールもまた、講和に踏み切ったボルドー政府を「正当な政府ではなくなった」とラジオで明言した。


 そして6月28日、チャーチルは閣議から首相官邸に戻った。ド・ゴールが待たせてあった。


「決まったよ。我が政府は君を自由フランスの指導者と認める」


「確かに私は自由フランスの第一人者になりそうです」


 ド・ゴールは不機嫌に言った。イギリスにいるフランスの有力者がみんな、ド・ゴールの亡命政権にかかわることを避けて、可能ならばアメリカなどに亡命していた。


「運命の人とはそういうものだ。私はガリポリ(第1次大戦でチャーチル海軍大臣が引責辞職した敗戦の地)で死んだ。帝国特恵関税(日本で言うブロック経済。チャーチルは大蔵大臣として反対し、次の内閣でポストがなかった)で死んだ。トロンヘイム(4月にイギリス軍が近くに上陸してすぐ敗走したノルウェーの都市。ナルヴィクも膠着してチェンバレンが引責退陣したがチャーチル海軍大臣の立場も危うくなった)で死んだ。金の問題でもう1、2回は死んでおるが、私はここにおるよ」


 チャーチルは息が続かなくなったので、前国王エドワード8世の貴賤結婚を擁護して現国王ジョージ6世から忌避されてきた話は省略した。あえて言えば、金の問題はずっと抱えているので回数で勘定するのは不適切であろう。


「偉大なるフランスの中で、私に従う者はあまりにわずかです、首相」


「わずかな差だ。ほんのわずかな差だが、それは上に立つ者が作り出さねばならんのだ。南アフリカ共和国は我々の戦争に中立を保とうとした。ドイツへの宣戦は賛成80に、反対67だったそうだぞ」


 チャーチルは、頭の中をもっと不愉快な言葉や数字が去来しているが、それを見たくもないし口にしたくもないという顔をした。そして続けた。


「ミスタ・ダラディエも、ミスタ・レイノーも、フランスが負けたらイギリスも負けるのだと思い込んでおった。だがそれは違う。フランスが負けても、ドーバー海峡がある……それに」


 ド・ゴールににらみつけられて、チャーチルはそこで話を終えてはいけないことに気づいた。チャーチルは手をド・ゴールの肩に乗せ、ぱんぱんと音を立てて2回たたいた。


「いまフランスは、ここにある。負けてはおらん……後で話そう」


 笑顔のままチャーチルは官邸の応接室を出た。もうここに居続ける意味はないようだった。ド・ゴールは肩についた葉巻の灰を手で落とした。そして小さな声で言った。


「あなたがフランスをここに乗せたがっているのは、分かっている」


 これが英雄というものなのだと、ようやくド・ゴールはわかった気がしていた。フランスから認められることと、フランスの栄光を輝かせることはひとつのことだとずっと思ってきたが、そうではなかった。英雄とは、英雄を作りたい人々によって生み出されるのだ。


 チャーチルの英雄からフランスの英雄に変わるため、ド・ゴールは部屋を後にした。


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 ソサボフスキはポーランド人の部下たちとともにかろうじて船でイギリスに脱出した。イギリス空軍も徐々に基地を大西洋岸に移し、飛行機に乗せられないスタッフは船で脱出したが、引き揚げに使っていた客船ランカストリア号が6月17日にドイツ空軍の爆撃で轟沈した際、800人が犠牲になったと推定されている。


 シュポネックやシュトゥデントは救出されたが、運悪く序盤戦で捕虜になった降下猟兵の多くはイギリスに送られていた。だが後知恵で言えば、連合軍はすべての重要捕虜をイギリスに送ってはいなかったので、フランスの降伏で解放されたケースもあった。ヨゼフ・カムフーバー大佐が重要人物になるとは、本人も思っていなかったに違いないのだが。


第23話へのヒストリカルノート


 ソサボフスキの視察旅行は架空のものです。実際には部下の士官がマジノ線を見学に行って、接近を許されずにすごすご帰ってきました。



 12月18日の空戦でドイツの警戒レーダーはすでに機能していましたが、空軍のレーダーと海軍のレーダーが食い違う結果を出し、目視されるまで警報が出ないという戦記コミックのような経過をたどりました。



 この時期、第3航空艦隊司令部はフランクフルト・アム・マインの少し東にあるバート・オルブ(Bad Orb)にありました。ここは基本的には平べったい陸軍演習場です。その一部が飛行場として整備されていました。航空部隊も設営・管理部隊も「ここで作戦した」ことがはっきりした部隊がないので、場所を取っただけで航空基地としての利用はされていなかったのではないかと思います。航空機の回収・修理機能は基地管理活動の一環として航空管区司令部以下が担っていたので、航空機の残骸は飛行場として機能している基地に運び込まれたはずで、この点でこの小説の描写はウソです。



 ウソが続きます。クライストは5月13日のうちに攻撃を始めたほうが良いという意見を伝えたようですが、スダンの対岸にまでは到着していなかったでしょう。さすがに現場にいるのに「独断でやれ」はドイツ軍でも通らないと思います。指揮を放棄したクライストのほうが処罰されるでしょう。でも絵的にこのほうがかっこいいじゃないですか。



 ハートリーブは5月27日に第5装甲師団長を罷免されてしまいます。前線で戦う他の師団長を引き抜いて後任に充てていますから、相当に高いレベルの判断があったはずです。アラスの東60kmほどのル・ケノワ(Le Quesnoy)にはルイ14世時代に築城家ヴォーバンが手掛けた古い城塞(城塞跡というべきでしょうか)があり、フランス第1北アフリカ歩兵師団第27アルジェリア歩兵連隊の1個大隊を中心とする寡兵がここに逃げ延びました。ハートリーブは立てこもるフランス軍を包囲して5月18日から21日まで足止めを食いました。これが原因だとWikipediaをはじめいろいろなところに書かれていますが、それのどこがまずかったのか、そもそも最初にどこに書いてあったのか、はっきりしません。ちょうどロンメルは16日夜から17日にかけてアヴァーヌでフランス国境陣地帯の一部を破り、深く侵入して数個師団を壊乱に陥れました。軍団として戦果を拡大すべきところ、「その翌日から」4日間重要でもない敵のために足を止め、ロンメルの手柄を軍団(両師団)の手柄として拡大できず、ハートリーブが第7装甲師団の右(北)側面をがら空きにしたせいで、21日には孤立した第7装甲師団がアラスで危機に陥りました。ホートは自分の首の心配をもしつつ、「いま一番大事なことの判断がつかない」ハートリーブに怒ったのではないでしょうか。軍団としての突破力を失わないためにル・ケノワは放置するのが妥当だったでしょう。



 5月16日にモンコルネでグデーリアンはケンプと会いましたが会話は創作です。ロスバークとホイジンガーの会話は、戦後にホイジンガーが出版した記録をもとにしています。ド・ゴールとチャーチルの会話は完全に創作です。


 ド・ゴールがペタン政権と敵対したことは、自分もフランス艦隊を砲撃したチャーチルにとっては大きな問題ではありませんでしたが、アメリカの目からすると、戦後のことも考えてペタン政権につながる自由フランス軍指導者が望ましいという見方がありました。このためアメリカは、ドイツから脱出してペタン政権の保護を受けたジロー将軍に接近していき、しばらく主導権争いが起きることになります。



 じつはチェンバレンが舞台裏の交渉を終えてさあ辞表を書こうとしたところで、ドイツ軍の攻勢開始という特大のニュースが飛び込みました。さすが冷静なチェンバレンも、すべての協議をチャラにして留任しようとしたのを、ウッド王璽尚書(実質的な無任所大臣)がなだめて合意通りに辞職させたといいます。チャーチルから見ると有難いことでした。そのせいと言うわけでもないのでしょうが、チェンバレンの盟友であるサイモン財務大臣(マクドナルド内閣の外務大臣だった人)を貴族院議長に任じて棚上げしたとき、チャーチルはその要職をウッドに与えました。激務のウッドは、1943年に急死してしまいました。


 戦後のインタビューで、労働党首のアトリーは「5月11日に」チェンバレンが辞職しチャーチルが国王の組閣大命を受諾したことを電話で知らされ、チャーチルがすぐ会いたがっていると聞いて海軍省に向かったと述べているのですが、おそらく5月10日の間違いでしょう。そこから労働党系の閣僚ポストについて、短い交渉と決定があったと考えられます。



 弾薬の現有量や消費量を「弾薬規定量」で割り算して小数や分数で表すことはよくありましたが、その数値に決まった名前はついていなかったようです。



 イスメイは1940年6月11日に(レイノーが戦線から呼び戻し、英仏交渉に投じたばかりの)ド・ゴールと初めて会いましたが、その第一印象を「冷たく、ユーモアがなく、とげとげしい」と回想に記しています。


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