第22話 冬来たりなば
10月のドイツ西部国境はベルリンなどと比べれば寒くはなかったが、空気に冬の気配があった。だが今日は、周囲に人があふれ、気温が上がったように感じられた。
テスケ大尉は第5歩兵師団の補給主任参謀をしていた。一般的な用心として、師団長と作戦主任参謀がいる指揮所と、補給主任参謀の指揮所は別のところに置いて、全滅を避ける。テスケの指揮所はオーバーキルヒという小さな村にあった。アルザスの中心都市ストラスブールはドイツとフランスの国境にあるが、そのストラスブールとライン川を隔ててにらみ合う位置が、オッフェンブルク市を中心とする第5歩兵師団の担当戦区だった。ポーランドで戦った第208歩兵師団がやってきて、この戦区を引き継ぐのだ。第208歩兵師団は郷土防衛師団をもとにした第3波歩兵師団のひとつで、年配で軍歴のほとんどない兵士が多い。だがポーランドで死者不明者を200人近く出して死線をくぐり、実戦のなかった第5歩兵師団より戦士らしく見えるところもあった。
荷物はすっかり自動車に積み込んであった。テスケのチームは10人いるかいないかの小さなものである。これはテスケの仕事が、大雑把に言えば調整だからである。補給となると地元の自治体、戦闘部隊、上級司令部の指示や言い分を聞き取り、矛盾を処理し、解決を提案し、実行を監視する無数の仕事があった。テスケの下にディナヒュー(師団補給指揮官)が30人くらいのチームを率いて、民間商人からの物資調達やトラックの手配、積み下ろしの差配といった実務をやっている。ディナヒューには年配で世間を知った士官があてられ、軍と学校しか知らない参謀士官にできない仕事を引き受けていた。そのうえでテスケのような若く優秀なリーダーが、優先順位を決めて押し通すのだった。
玄関がざわつき、士官が入ってきて敬礼したので、襟の階級章を確認しながらテスケもゆっくり答礼した。もう5年も大尉をやっているから、相手の大尉の方が先任と言うことはないはずである。
「指揮所を引き継がせていただきます。部隊は順次、森の中で野営させております」
「ご配慮に感謝します」
戦前からの地図に載っている道は、フランスの航空機や砲兵にとっていい標的だし、フランス側から丸見えな道もある。空から見えないように交差点を覆ったり、戦前には狭かった道を広げたりしたのを、大規模な移動で敵に発見されては元も子もない。夜になってから一斉に移動し、守備を交代する手はずだった。
「良いところですね」
「すぐ慣れますよ。涼しくなりましたから、もう蚊も出ないでしょう」
第208歩兵師団はベルリンの第3軍管区で編成されている。この付近の兵士を集めた第5歩兵師団とは違って、慣れない土地での暮らしになるはずだった。テスケもその程度の気遣いはできるようになっていた。
大都市に陣取った軍司令部などは知らないが、師団だの連隊だのの指揮官周りはどこも人数の足りない鉄火場である。若い大尉の表情には、やっと静かな戦線に来たと言うゆるみが感じられた。兵士たちはそうかもしれないが、テスケの指揮所を引き継ぐと言うことは、建設隊の労働者だの空軍部隊だのを含めて5万人近い人間の胃袋を預かると言うことである。マニュアルにないことが起きたら全部対処すると言うことである。まあそれを指摘してやるのも酷なことかと、テスケは黙っていた。
「北のほう(ベルギー国境など)に行かれるのですか」
「まだ聞かされておりません」
これは本当だった。だが第1波歩兵師団が戦線を離れるのだから、何か攻撃任務があると考えるのが自然だった。もっともそれはずっと先のことになったのだが。
もうひとつ、テスケも知らない未来の出来事があった。1940年2月になると第557歩兵師団(数か月だけ存在したので、どの波にも属さない扱い)がこの地で編成され、もっと年長で徴兵が後回しになった人々で、ともかく歩兵と砲兵の定数だけが埋められた。そして第208歩兵師団などは、そんな「書き割り」師団に比べれば戦闘力絶大だからこの地を離れ、ブリュッセル攻略戦などに参加することになった。じつはこの経過は、ドイツが英仏を打ち破ったメカニズムの縮図とも言えたのだが、それはいずれ語るとしよう。
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陸軍にはフランスに対する防衛計画はあっても、攻撃計画はなかった。ヒトラー自身もフランスと必ず戦うとは思っていなかったものの、開戦と決まれば陸軍はすぐにもフランス攻撃にかかるものと思っていたから、ハルダーの反応にいら立った。
このころのハルダーの立場を理解するためには、1944年のアルデンヌで何が起きたか思い出せばいい。ドイツ軍はアルデンヌで攻撃作戦を仕掛け、相当に深くいったん進出したが、天候が回復すると航空優勢のあるアメリカ軍が反撃し、もともと数的優勢がなかったから、突出した部隊がかえって集中攻撃を浴びて壊滅した。
アルデンヌの防御が弱いことは、ドイツにもフランスにもよくわかっていた。もちろんそこを攻めると決まったわけではないが、ドイツに欠けているのは天才的な作戦でも、不退転の決意ですらなくて、一時的にでも確保できる数的優勢だった。相手が対応し集まってくれば数的優勢は薄れる。だから数的優勢に、スピードを加える必要があった。9月中旬に早くも第5波歩兵師団が編成され、その後に続く者たちとして、全国の職場から引き抜いた徴兵未経験のオジサンたちが兵営を埋めていた。ハルダーはそうしたオジサン師団に第1波・第2波の精兵から平穏な国境を引き継がせ、10個に増えた装甲師団群と合わせて、ドイツの精兵すべてをフランスに叩きつけられる状況を、まず作ろうとしていたのだった。
ポック上級大将は、北方軍集団からB軍集団へと名前が変わった大兵団を率いて西部戦線へ移ってくるところだった。その愛弟子とも言うべきクルーゲ上級大将は、ポックの下で第4軍司令官をつとめていた。そしてライヒェナウ上級大将は長年ヒトラーの政治的なお気に入りであったが、英仏と正面から撃ち合う日が眼前に迫ると、今までほど無条件にヒトラーの意見を信奉しなくなっていた。当面はヒトラーと関係破たんまでは行かず、指揮下の第6軍とともにポックの軍集団に移るところだった。フランス侵攻の主要兵団と目されるポックの軍集団から3人の上級大将がヒトラーとの協議に呼び出されたのは、下からハルダーをせっつかせようと言うことであった。もちろん軍官僚組織はこうした面ではそつがない。10月25日の会合に先立って、ハルダーの下で作戦担当参謀次長(OQu I)をしているシュツルプナーゲルが23日にポックを訪れて、下相談を済ませていた。
将軍たちを迎えたヒトラーは、地図の上で侵攻路を示せば、それで作戦計画は成ると思っているようだった。
「我が軍はアルデンヌの森林地帯を抜け、フランスのスダンに達する。これによってマジノ線をう回することが可能である」
「我が総統」
ポックの敬意は、その最初の一言で終わった。
「我々は平時から、周辺諸国の地形について机上演習を重ねております。その侵攻路については道路渋滞が障害となり、我が砲兵の展開を待っているうちに敵の予備軍が森からの出口を押さえてしまうものと考えられております。従って攻勢は失敗いたします」
森を抜けて主要都市スダン(セダン)に達する前に、ドイツ軍はマース川(ミューズ川、ムース川)を渡らねばならない。すでに述べたように、もしフランス軍がマース川の南側にたどり着き、先に守りを固めてしまったら、ドイツ軍は「どこにも通じていない、森の中の道」を手に入れただけで終わり、むしろそれはドイツの弱点になってしまうのである。
「うむむ……」
ヒトラーは救いを求めるようにライヒェナウを見たが、きょろきょろと視線をさまよわせたライヒェナウはうつむいてしまった。クルーゲは、ポックが発言しているときに口を挟むことなどあり得ない……という態度だった。ポックは無表情のハルダーにちらりと「働かせおって、貸しだぞ」という視線を送ると、続けた。
「加えて、すでに悪天候の時期に入っております。陸軍の移動が妨げられるだけでなく、空軍による優勢も望めなくなります。ハルダー将軍のご指導の下、東方から順次攻撃部隊が集結中であり、11月半ばを待たず一定の集積を見るものと思いますが、春の天候回復を待たなければ大規模な攻勢は困難と考えます」
兵を配分するのはハルダー、使うのはポックやルントシュテットという分担であった。ポーランドから再編を終えた部隊が順々に送り込まれ、そういう意味では攻撃準備は着々と進んでいた。だが軍人たちは一致して、この季節に攻勢は無理だと考えていた。優勢を確保できるだけの師団を用意するのはハルダーの仕事だから、軍集団司令官ですらそこに首を突っ込まなかったが、どっちにしても悪天候で空軍の助けなしにはすぐ行き詰まる……と老将たちですら考えるようになっていたのが、この時代だった。
成否はふたつのことにかかっていた。ひとつは、迅速にマース川を突破する方法。もうひとつは、フランス軍やその同盟軍が、マース川あるいはスダン市に何日で展開できるか。これは競争だった。速いか速くないかではなく、敵より速いことが重要だった。
ドイツ軍首脳部は、そのことにいま結論を出そうとしなかった。どっちみち天候が侵攻作戦を妨げるからである。とりあえず第1次大戦同様に、海岸線に近いところを破ってベルギー、さらにフランスを目指す作戦計画が練られたが、それは出発点でしかなかった。そしてあれこれとアイディアが検討される間、年が変わってもそれが不動の基本計画のように、参謀たちの机の上にあり続けたのである。
総統会議は結論なく終わった。
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増派する兵員を載せて中東とインドに向かう最初のイギリス輸送船団WS.1は、開戦を待たず1939年6月28日にイギリスを発った。イギリスからの駆逐艦群が帰ってしまうと、南大西洋に常駐していた重巡洋艦カンバーランドが単独で8万トン級客船クイーンメリー号など3隻の大型船を先導し、南アフリカ近くまで送り届けた。同様のコースを取る一般貨客船は開戦直後から船団を組み、数日たってイギリスを十分離れると散開した。
大西洋の真ん中で作戦出来る中型以上のUボートは、まだ少なかった。ドイツ海軍は戦前から空軍と話をつけて、海軍の指示で作戦してもらえる空軍部隊を確保していて、真っ先にやったことはイギリス商船を狙った機雷敷設だった。遠くへ行けない小型潜水艦もこの作業に加わった。
装甲艦ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーは開戦前に相次いでドイツを発ち、大西洋に伏せ隠れ、開戦と同時にイギリス商船を狙って活動した。まだこのころはイギリスも手すきの軍艦が少なく、航行する軍艦を航空機が沈めることは装備や訓練の面でまだまだ困難だったから、ドイッチュラントは無事にドイツまで帰りつくことができた。シュペーはイギリスの巡洋艦3隻に見つかり、主砲の口径では勝っていることもあり砲撃戦に応じたが、大きな損害を受けて中立国の港に逃げ込み、12月に自沈する結果となった。
ドイツから見て、わずかな商船と引き換えにシュペーを失ったのは割りの悪い取引だったし、イギリスはいい宣伝材料を得た。しかしこのころイギリスが対策に苦慮したのは、触れなくても鉄製艦船に反応する磁気機雷だった。今は互いに、当面持っているものを投げ合っているにすぎず、いわゆる大西洋の戦いが本格化するのは1940年以降になった。
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「海軍はノルウェーを取られる前に取れと言ってくるし、空軍はそのためにデンマークを占領しろと言う。何も言ってこないのは陸軍だけだ」
ベルリンにいたり、ベルグホーフ山荘にいたりするときは民間人のゲストも食卓にお相伴したが、総統専用列車となるとそういうわけにはいかない。11月8日、翌日にミュンヘン一揆(第4話参照)の犠牲者を悼む記念式典をやるので、ヒトラーの特別列車はミュンヘンに向かっていた。隣で食事をしているのはヨードルである。ヨードルはポーランド戦以来ヒトラーに気に入られ、他のゲストがいても食卓の両隣はたいてい、ヨードルと宣伝省新聞局長のディートリヒだった。カイテルはOKWに残って、たまりがちな書類を決裁していた。
「デンマークはともかく、ノルウェーとなりますとドイツ軍が戦ったことがありませんので、地図を手に入れることすら困難です」
「観光地図で戦うしかあるまい」
食卓にアルコールはなかった。ヒトラーは国民の手前、質素に見える生活を心がけていた。ヒトラー用にアルコール度数の低いビールも作られていた。大戦後半になるとこれが崩れて、普通のビールが出てくるようになったのだが、まだまだヒトラーは心が折れてなどいなかった。
海軍が心配しているのは、スウェーデンで産する良質の鉄鉱石のことだった。冬になるとバルト海の北半分は凍ってしまうから、西のノルウェー側へ鉄道で運び、少なくとも不凍港ナルヴィクまで持ってきて船積みする必要があった。ノルウェー政府がイギリスと手を結んでこの物流を止めるか、イギリスがノルウェーの意向にかまわずナルヴィクを武力で押さえるかすると、ドイツ海軍の艦船建造は止まってしまうのである。もちろんドイツによる占領が成れば、ノルウェーは細長いUボート基地ともなるのであった。
そして空軍は、ノルウェーを取るのであれば、侵攻の足掛かりとしてデンマークが必要であると主張した。南端に近いオスロですら、ドイツからは遠く、戦闘機の護衛がつけづらかったのである。
「クヴィスリングという男を知っているか」
「いえ、我が総統」
「ノルウェーの政治家だ。政治家になりたかった男と言うべきかな。もうすぐ私に会いに来る」
ヴィドクン・クヴィスリングはもともと士官だったが、曲折があって軍を退き、政治活動を始めたものの、主宰する団体から一度も国会議員を出すことができないまま先細りを続けていた。この難しい国際情勢の中、クヴィスリングはヒトラーの後ろ盾を求めたのだった。
「決めなければならん」
そうつぶやいたヒトラーは、返答がないのを満足そうに確かめた。給仕が紅茶を捧げ持って現れた。
ヨードルは無口な男だが、陸軍大学校の教員をしていたころは良い評判を得ていた。弱い立場の学生にも意見を言わせ、公正に対処した。医師が患者を瀬踏みするように、ヨードルはヒトラーが助言を必要としているか慎重に見定めて、滅多に助言をしなかった。富貴の生まれでもないから、ヒトラーにその種の圧をかけることもなかった。
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じつは、この1939年11月8日は第2次大戦における重要な分岐点のひとつだった。この夜、ヒトラーが毎年演説しているビアホールに、ドイツのためにヒトラーを除くべきだと信じる若い市民が爆弾を仕掛けていたが、例年より早く演説を切り上げたヒトラーは無事だったのである。
そしてツォッセン市のOKHでも、ふたりの悪漢が暖炉を使って悪事の証拠を隠滅し終わったところだった。
「この書類束で全部か」
「はい、将軍」
作戦担当参謀次長のフォン・シュツルプナーゲル(第9話に登場した若い方、カール=ハインリヒ)がハルダーに答えた。数日前、ブラウヒッチュがヒトラーと怒鳴り合いをやり、ヒトラーが興奮して「ツォッセンの悪者たちを根こそぎにする」とか何とか口走ったのである。このところ手段を模索していた総統暗殺計画が漏れた……と聞こえるような気もする。そこでハルダーはきっぱり計画を諦めることにしたのだった。
ドイツが軍容を整えたのは何と言ってもここ5、6年のことである。イギリスはフランスほど軍備拡張に優柔不断ではないから、あっという間にイギリス大陸派遣軍は強化される。だからすぐ攻めろ今攻めろ……とヒトラーはせっつくのだが、英仏軍をドイツ軍が圧倒できる戦力差などないし、奇襲で補える程度とも思えないのだった。
「日常を片付けてゆくしかないのか」
「A軍集団の件、どういたしましょう」
「あと1個軍あれば勝てるというものでもあるまい」
ふたりは苦笑し合った。
10月19日にハルダーが出した最初の提案は、「国境のドイツ軍は前進して勝て」とでもいうような、重点のないものだった。何より、戦線を突破したところにつぎ込める戦略予備がなかった。29日に出した計画は、オランダを中立のままにすることで戦線を短くし、オランダ正面にいた第2軍を召し上げてOKH予備にしようと言うものだった。これにより、ベルギーを狭く深く切り取ろうと言うのである。
19日の案を見てから大急ぎでマンシュタイン参謀長が立案し、10月31日にA軍集団のフォン・ルントシュテット総司令官が上申してきたのが、最初のマンシュタイン計画である。南を担当するA軍集団(2個軍)のうち第12軍を、B軍集団南端を担当する第4軍とほとんど並走させ、第1次大戦でドイツが成功したルートをたどって北フランスに突入すべきだというものであった。11月にグデーリアンが指揮下の軍団ごと「転勤」してきてマンシュタインの相談に乗り、その月末に「アルデンヌルートを通ってベルギーの英仏軍を包囲」という、我々の知っているマンシュタイン計画になったのである。
「心配をかけるな。フォン・ルントシュテットのところには、あと誰がいる」
「ブルーメントリットと……フォン・トレスコウがおります」
「ふむ……」
ベックやハルダーは軍人社会ではローカルな存在でしかない。士官同士でこっそり何かやろうと言うとき、何代にもわたる交流をもとに、戦友愛を期待できるのは有力な親戚の多い名家出身者だった。その典型がシュツルプナーゲルであり、トレスコウだった。
退出しながら、シュツルプナーゲルはつぶやいた。
「あのひとには、人を殺せないな。総統となるとなおさらだ。トレスコウに相談しよう」
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12月になっても、OKHと総統の関係はますます悪化した。11月にルントシュテットから東方総軍司令部を引き継いだブラスコヴィッツは、ポーランド戦中にユダヤ人やポーランド人を殺害して回った親衛隊系警察部隊、いわゆるアインザッツトルッペンの残虐行為について報告書を上げた。陸軍首脳部はこれを問題視して、ブラウヒッチュ陸軍総司令官が辞める辞めないの話になった。もう戦争などしている場合ではないが、委細構わずマンシュタインは少しずつ計画を手直しして、上申を続けていた。いっぽう第6軍司令官のライヒェナウは、ヒトラーの尻尾扱いされる軍内の悪評は今さらどうにもならなかったが、たびたびヒトラーにアポイントメントを取っては、英仏への攻撃計画を引っ込めるよう説得していた。「天候のため」小刻みな延期が繰り返されているだけで、攻撃命令自体はずっと出ているのだった。
そして今日、ハルダーは重要な客人を迎えていた。予備軍総司令官、フロム大将である。第17話に出てきたように、「予備軍」は昔の国防省、今のOKWの仕事を一部だけ切り離した性格のもので、主な下部組織は軍管区司令部だった。つまり兵員の徴募・訓練のほか、全国に散らばる軍倉庫の総管理人として、軍需品の発注、兵器局所管の兵器・部品とあわせて軍需品の保管といった仕事もある。フロムは軍需品管理業務の親玉、日本風に言うと「本省の実力派課長」として、ライヒスヴェーアのころから君臨してきた人物だった。
「1月末に42万人、4月までの累計で77万人が訓練を終えます」
「100万人は欲しいところだがな」
歩兵94個師団、装甲師団と軽機械化師団を合わせて10個師団、山岳3個師団。合計107個師団で大戦が始まってから、年末までに25個師団が編成されるか、最終準備中だった。今回の数字はこれに加わる。
「何個師団できる」
「3月までに20個師団と言うところでしょうか。捕獲火砲による軍直轄砲兵部隊を多数編成しますので、そちらの兵員も要ります」
「それは楽しみだ」
ポーランドから分捕ったフランス製やロシア製の砲、さらにさかのぼってチェコスロバキアが持っていた砲が、マニュアルを作りクルーを訓練して、順次戦力化していた。とはいえ射程に難があったり、馬で引く前提の砲架で自動車で引っ張ると危険だったりいろいろ問題があるので、マジノ線正面などで張子の虎をつとめてもらうしかなかった。それでもそれらと引き換えに、「本物の」大砲をそこから引き抜き、ベルギーかオランダに叩き込めるのは大きかった。
「今後の新設師団ですが、架橋段列への要求がきわめて強い事情がありまして、工兵なしで歩兵連隊と砲兵連隊のみにせざるを得ません」
「了承した。ブーレ大佐(組織課長)と話してくれ」
以前触れたように、予備士官と言うのは(戦間期にこっそり民間組織の指導者をしていた人々もいたが、主に)、士官不足の国防軍がライヒスヴェーアで長い軍歴を得た人などを目当てに、追加講習を受ければ少尉にしてやるよと誘ったものである。最近の入隊だが追加講習を何度も受けた、「少尉にとてもなりたい人」も含まれていて、演習を視察したポックなどは「新米士官の判断が遅い」とぼやいていた。命令書に書いてないことへの対処や、新しい状況での独断専行の加減がわからないまま、出世したさに士官になった人が交じっていたのである。
となればオジサン師団は小銃と軽機関銃で周辺警備ができる程度のものにしておいて、貴重な対戦車砲や、養成に時間のかかる工兵は優良師団に優先配備するか、司令部直轄部隊として戦況に応じ臨時に増援しようというのであった。少し先、1940年2月に編成されたそれらオジサン師団のひとつが、テスケの第5歩兵師団と交代した第208歩兵師団……の持ち場をさらに交代した第557歩兵師団だったのである。
「これで、優良師団のほとんどを国境から切り離すことができますか」
「そうだね。ご努力には感謝している」
第1波・第2波58個師団に山岳師団と装甲師団を入れて71個師団。この優良ストックは、数年の戦争期間くらいでは補充できない。これを使って英仏軍やオランダ・ベルギー軍を効率よく無力化するための舞台づくりが必要だった。
「1個軍を9個師団として、すでに8個軍の編成が可能になった。第3波以降の師団を限定的に投入すれば、さらに戦略予備をふくらませることもできる。ふむ……」
「将軍、よろしければ、私はこの辺で」
「ああ、すまないね。気を遣わせた」
ハルダーが考え込む顔になり、それは予備軍が関わらない作戦のことだろうと察したので、フロムは退室を申し出たのである。
ハルダーが気づいたのは、軍容と進撃路の関係だった。戦力は分散しないほうがいいが、戦場の近くで合流するまでは、道路事情に見合った規模で分散行軍させた方がいい。「分進合撃」などと呼ばれる古来の原則である。いまや西部戦線のドイツ軍はマジノ線と向き合う部分(C軍集団)を除いても、ポーランド戦終了直後の5個軍から8個軍相当に膨れ上がりそうである。とすれば、もっと進撃路を分けないといけないのであった。
ハルダーは電話を取ると、交換手にシュツルプナーゲルのデスクにつながせた。人をやって呼んでくるようなことにこだわらない程度には、ハルダーは若かった。
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1939年12月27日。
「アルデンヌを警備するベルギー軍は、ブリュッセルが事態を把握したのち、初めて道路障害物を展開する命令を与えられる。我が空軍による通信網の寸断によりそれは遅らされる。ベルギー軍が道路封鎖に取り掛かるまで24時間と見れば、我が自動車化部隊はその先鋒を、マース川まで2日のところまで進出させられる。加えてベルギー軍はフランス国境よりも我が国境を警戒しているであろうから、そのときベルギー軍の多くは我が部隊と接触に入り、行動の自由を失っている。ゆえに先鋒はほぼ遅滞なく、開戦第4日のうちにマース川北岸に進出する」
机上演習を統裁するシュツルプナーゲルの言葉が、音楽のように士官たちの間をよどみなく流れていた。フランス軍側を担当する3人の若手士官は、陸軍情報部の対英仏チーム、「Fremde West」から選ばれていた。
「フランス軍がドイツ・ベルギー国境まで殺到してくる場合も、ブリュッセルとアントワープを中心としたベルギー西部を確実に固めてくる場合でも、我が軍がアルデンヌを突破してスダンに迫ることは妨害しきれない」
会議室はざわついていた。誰もが口を開かずにいられないようだった。
「だが諸君、喜ぶのはまだ早いのではないか。12月4日に出たFremde Westの敵情報告によれば、フランス第4軍、フランス第7軍の両司令部と30ないし40個師団の所在が不明である。その大半は、我々の予備師団と同様の問題を抱えていると期待したいところだ」
失笑が複雑な波紋を作った。予備師団と言うのは、今次大戦の第3波歩兵師団以降のようなオジサン師団を第1次大戦のころに指した名前である。シュツルプナーゲルは統裁官として結びの言葉を述べた。
「我々がどの程度の期間、スダンの手前で行動の自由を与えられるかは、敵情如何にかかっている。従ってこれ以上、根拠の薄弱な情勢判断に基づいた検討をすることを今日は控えたい」
この机上演習結果は、翌日シュツルプナーゲルからハルダーに報告され、ハルダーがアルデンヌ突破作戦に傾いていく分岐点となった。だがこの時点では、アルデンヌルートは「3つ目の侵攻ルート」に過ぎなかったし、3つのルートのどれを重点として絞り込んでもいなかった。ポックはこの机上演習のことを漏れ聞き、自分の戦区から戦いの焦点が遠ざかる可能性が出てきたのでいらだっていたが、表立ってハルダーから何か言われたわけでもなかった。
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ところが1月になると、ノルウェーとデンマークを攻略することが決まり、1月中旬から作戦計画が練られ始めた。相変わらず小刻みに「天候上の理由で」ベルギー侵攻は延期され続けていたが、少なくともノルウェーの南半分で空軍が仕事を終えるまで、フランス攻略を伸ばす言い訳が増えそうだった。
12月末から1月の初めにかけて、ポーランドでのアインザッツトルッペンの行動を巡るブラウヒッチュとヒトラーの口論はひとつのピークを迎えていたが、逆にハルダーはそこから距離を置くようになっていた。2月から3月にかけての師団増設で、ドイツの戦力はぐんと伸び、その後しばらく伸びない。ちょうど天候も好転してくるころである。この春ならば……少なくとも英仏と拮抗した戦力に術策を加えて、一気に有利な情勢を作れるかもしれなかった。あれほど英仏との戦争そのものに反対していたハルダーに、勝利への欲が生まれていた。いったん勝利の見込みのなさに絶望し、総統暗殺も考えたハルダーである。賭博的な作戦でなければ勝てない……くらいに思っていた。だがもともと賭博的な性格ではないハルダーは、マンシュタインが持ちかけてきた計画から「装甲部隊だけによる前進」という賭博的要素を抜き取るつもりでいた。マンシュタインが提案したアルデンヌルートを、装甲部隊を先頭に立てるとしても、歩兵と砲兵にしっかり追随させて進むのである。
春に生じると期待される大きな変化に比べれば、一見ドイツの運命を終わらせかねなかった重大事件も影響は小さかったと言えるかもしれない。「メヘレン事件」として知られる航空機事故である。
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1月10日、濃霧で航法を誤ったドイツ空軍の連絡機がベルギーに不時着した。便乗者はこの時点での攻撃計画をカバンに入れていた。中立国だから搭乗者たちはドイツに帰してもらえたが、焼却しそこなった2枚の断片はベルギー軍の手に渡り、英仏軍にもこっそり伝えられた。
そして1月14日。
「これは何よりだ。うれしい驚きと言ってはいかんのだろうがな」
ポックはケッセルリングに右手を差し出した。メヘレン事件の報を聞くと、ヒトラーは第2航空艦隊の司令長官と参謀長を更迭した。後年まで続く、ヒトラーの「悪いニュースが来るたびに犯人探しをする」行動の始まりとも言える。そして第1航空艦隊司令長官から横滑りしたのがケッセルリングであった。ポックにとっては、ポーランド戦で気心の知れているケッセルリングのほうがありがたかった。
「総統は秘密が漏れていないと言う判断で落ち着かれたようですが、陸軍では何か聞いておられますか」
「ベルギーでもオランダでも動員の動きがある。まあ、漏れたな。少し考えればわかる程度のことしか書いてないと思うが」
ケッセルリングは曖昧に笑った。ベルギー軍の手に渡ったのは空軍の降下計画(焼け残りの2ページ)だから、当時その対象として考えられていたベルギーの都市ナミュールの周辺情報だけが書かれ、降下の予定がないアルデンヌ方向のことは含まれていなかった。なにより、「どこを重点目標にするのか」はドイツ軍自身がまだ決めていないから、漏れようがない。だからヒトラーが狼狽するほど、将軍たちは動揺していなかった。
「まだ総統は降下作戦を諦めておられないのか」
「場所は変更になると思われます。おそらく、計画されていた場所よりもっと西になります」
「フォン・シュポネック(空軍の降下猟兵とともに輸送機で突入する、第22歩兵師団長)が会いに来たが、ひどい形相をしていたな。まあ、それも戦争だ」
ポーランド戦はドイツにとって、死者・不明者2万人を出しただけで済んでいた。師団単位の壊滅は前大戦ならよくあったが、今次大戦ではまだ実感のわかない事態だった。だが敵の都市に舞い降りるとなれば、こちらが壊滅するリスクはあるだろう。
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まだポックは侵攻の主役を務めるつもりだった。だがメヘレン事件は英仏軍に怪しい化学反応を起こしていて、それは最後にはポックとB軍集団の運命をも変えることになった。
1月下旬にかけてフランス軍の配置換えがドイツ陸軍情報部に察知された。今までベルギー国境の大西洋岸に一番近い戦区にはイギリス大陸派遣軍がいたのだが、それが少し内陸に移動し、代わりに「フランス第7軍」が入ってきたのである。配下の師団群はいずれも今まで所在の知れなかったもので、少なくとも2個の自動車化師団も含まれていた。まあ実は1939年11月からそこにいたのだが、メヘレン事件で「ドイツの侵攻近し」ということで無線連絡や部隊の移動準備をしたので、第7軍に限らず国境周辺の部隊がすっかり配置をつかまれてしまったのである。
フランスの予備軍から、おそらくもっとも実戦向きな部隊群がここに配置され、ドイツが動き出したら一目散にベルギーに入って来るものと思われた。ドイツから見れば、スダン周辺にいては一番困る部隊が、真っ先に罠に飛び込んでくる位置に動いてくれた。
このころの英仏軍ベルギー防衛プランは、ブリュッセルの東を半円形に流れるダイレ川のDをとって「D計画」、あるいはダイレ計画と呼ばれるもので、ベルギーの東半分はひとまず捨て、西半分にあるブリュッセルやアントワープをしっかり防衛しようと言うものだった。フランス第7軍の担う「ブレダオプション」はその防衛ラインを北へ膨らませるもので、南オランダのブレダ市まで進出して、要港アントワープから大西洋に至る北岸の付け根(現在は埋め立てられて半島、当時は橋でつながった島々)を防衛しようというものだった。これが実現しないと、北岸にドイツ軍が展開してアントワープ港の利用を妨害する(1944年にドイツはこれをやって、11月まで港を連合軍に使わせなかった)可能性が出てくる。たしかに大事な地点ではあるのだが、いったんこの方針を決めた後、フランス軍を束ねるガムラン将軍は、誰が何と言ってもこの方針を変えず、ドイツ軍が南に部隊を集結させているという情報をすべて無視することになったのである。
ヒトラーは秘密保持の重要性について長々と話したが、1月20日の総統と陸軍首脳の会談での決定事項は多くなかった。まずこれまで考えてきたやり方を超える、準備時間の短い奇襲を仕掛けることである。ベルギー軍の手に渡った計画を信じている英仏から、その優位を奪わねばならなかった。それ以上の具体的なことは、この時点では決まらなかった。そしていちど捨ててかかったオランダ占領だが、あらためて推進することになった。実行部隊として第18軍がOKH予備から吐き出されることになったが、いまのところ第3波以下の歩兵師団、新編の第1騎兵師団、戦闘親衛隊のLAH連隊やSS-VT師団(後のダスライヒ師団)といった雑多な戦力しか用意できそうになかった。少し先走って言えば、結果的にはエース部隊をごっそり南方に使ったため、そうした微妙兵団でオランダやベルギーに押し入る羽目になったのである。
その前日である19日、ハルダーはマンシュタインの新設軍団長への転出を含む、多くの人事異動計画をまとめた。この日の戦時日誌に書いてある人事案は、土壇場で変更になったものも多かった。この時点ではA軍集団を攻勢の重点にすることは、ハルダーの心中にのみあり、まだ公になっていなかった。
ハルダーは戦後に書いた短い回想で、いわゆるマンシュタイン計画の中身を「参謀本部の」発案だと書いたことがあった。それはまあ言い過ぎであるとしても、マンシュタインの提案には「ドイツ参謀士官なら思いつきそうな発想」が含まれているのも確かで、「彼抜きでもやれる」とハルダーは思っていた。もちろん先に述べたように、ハルダーの頭にある計画はマンシュタインの計画とは似て非なるもので、結果的にはそれをグデーリアンの現場での独断専行が打ち壊してしまったのだが。
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1月25日、OKHの新しい攻撃命令を説明するためブラウヒッチュとハルダーがB軍集団司令部にやってきたので、指揮下の軍司令部からも司令官と参謀長が集まった。
「まだハルダーは腹が決まらんのか」
聞こえないように言いながら、ポックは意地悪な視線をハルダーに向けた。第18軍をもってオランダを攻めることは明記されたし、噂のアルデンヌ方面への進出、いくらかの装甲師団のA軍集団への配備が盛り込まれていた。だが第6軍、第4軍、A軍集団という3つの攻勢軸が10個装甲師団をほぼ等分したかたちで、どこを重点にするかは運任せ……といったものだった。前進がはかどった方面に増援して、押すのだ。つまりこの計画は、メヘレン事件後の爆発的な敵情報増加を織り込まずに編まれた、最後の作戦計画だった。
ポックはポーランド戦のとき、北からワルシャワに近づいたところで、思い切ってそれをう回してボーランド軍総司令部が移ったブレスト=リトフスクを突きたいと具申して、計画通りにやれとハルダーにはねつけられていた。大先輩に指図するのが参謀総長の宿命とはいえ、相互に飛ばし合う火花が危険な漂い方をしていた。
秋からは見違える強化だが、全体としてドイツ軍は英仏軍を圧倒できる戦力ではない。ハルダーはありったけのチップを1か所に賭けて、サイコロを振るつもりだった。それをどこにするか、まだ決まっていなかった。
ポックがむっつりとハルダーの説明を聞いているころ、先にハルダーらが訪れ、すでに辞去したA軍集団司令部では、作戦主任参謀のブルーメントリット大佐と、参謀士官のひとりだったトレスコウ少佐がひそひそと話していた。2月1日付で新設軍団の軍団長となるマンシュタインは、すでに引き継ぎに忙しかった。勝手に自分の作戦案を実行しかねないマンシュタインが飛ばされた……と本人や、好意的な同僚たちは思っていた。公式には一斉異動の一環だったが、気に入らない部下を飛ばすのは、そんなときにさりげなく行うものである。
「あんな中途半端なアルデンヌの取り扱いでは、フランス軍の手当てが間に合ってしまうだろう」
「近々、シュムント大佐(第18話で言及、ヒトラーに対する陸軍副官としてホスバッハの後任)が司令部においでですよね。同じ大隊で、彼が大隊副官の時に私が小隊長だったことがあるんです」
「さすがだなあ」
ブルーメントリットは思わず言った。ブルーメントリットは「第71歩兵連隊、チューリンゲン第3」の出身だから、近衛第1歩兵連隊出身のトレスコウから見えている世界など、想像するしかない。まあライヒスヴェーアで歩兵連隊が減ったために、第35歩兵連隊出身のシュムントとトレスコウの接点ができたのだったが。
「彼に頼んで、総統に参謀長殿を直接会わせてもらいましょうか」
「効くかな」
「効きますよ、きっと。従兄殿はきっと怒りますけど」
ブルーメントリットは声を立てず、しかし顔いっぱいに笑った。ファルケンハイン家から妻をめとったせいで、トレスコウの妻はポック上級大将のいとこにあたるのである。
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じつはマンシュタインの異動に合わせて、シュツルプナーゲル参謀次長も第9軍団長に異動する案があった。マンシュタインのように新設軍団ではないが、ずっと独仏国境を守っていた軍団で、軍団長は一度政治問題でヒトラーに嫌われて失職し、再招集されていた人物だった。これをシュツルプナーゲルに代えて、攻勢作戦に投じようというのであった。マンシュタインの第39軍団も、3個師団のうちひとつだけ第1波……という点は同じで、「自分でアルデンヌ突破作戦の指揮をとれないこと以外は」左遷と断定しづらい人事だった。その場合、C軍集団参謀長をしていたゾーデンシュテルン中将がシュツルプナーゲルに代わって作戦担当参謀次長になるはずだった。マンシュタインの後任は、軍参謀長から昇任するフェルバー(昇任と同時に中将昇進)が予定されていた。
1月19日にハルダーが自分の戦時日誌に書いていたのがこの案である。ところが実際に2月1日から順次発令された人事は、これと違っていた。シュツルプナーゲルは留任。第9軍団長も留任。フェルバーはC軍集団参謀長に。マンシュタインは予定通り軍団長に。そしてゾーデンシュテルンがA軍集団参謀長に。もっとも過労気味のシュツルプナーゲルは、3月に別の人物と参謀次長を代わることになった。
わざわざA軍集団に、右腕となる予定だった人物を送り込んだことになる。この1月下旬のわずかな期間に、ハルダーはフランス軍の動向を踏まえ、A軍集団に攻勢の主軸を担わせる決意を固めていた。そのうえでA軍集団や、そのもとで軍団長として働くグデーリアンを交えた2月7日の図上演習に臨んだのであるが……
「青軍としては第19軍団の提案を却下する。A+8日に十分な砲兵支援をもって渡河作戦を決行する」
A軍集団を代表して指揮するブルーメントリットの口調は、ほかならぬマンシュタインの構想を否定する行動選択としては平静だった。第19軍団とは、つまり、グデーリアン軍団である。グデーリアンは作戦開始から4日目に、すでにマース川に到達した装甲部隊だけでもスダンを攻めたいと言った。ハルダーが渡し、ゾーデンシュテルンが命じた作戦計画に従い、ブルーメントリットはそれを作戦開始から8日目になるまで待つように言った。
これはマンシュタイン計画のようで、マンシュタイン計画ではなかった。ドイツ軍40個師団があとからあとからアルデンヌの森を越え、有力とはいえその1/4もいないであろうフランス軍を打ち破ってスダン市に入る。ドイツ第12軍はその後、何日かかけてベルギーの南へ進み、英仏軍をせん滅できるはずであった。前大戦のような移動ペースで、前大戦と東西が逆になった包囲作戦をやるのである。砲兵の傘から出ようと思っていない点で、ハルダーはフランス軍的であった。
それからしばらく、参謀士官たちはこまごまとした移動、砲兵の配置と支援割り当てなどを相談した。赤軍(この場合は英仏軍)を受け持つ士官たちは、戦車部隊を先頭に立てたマース川逆渡河作戦をやると宣言した。それに対抗する分だけ、分厚いドイツ軍の陣立てから戦力が分散された。つまりこのときドイツ軍が想定していた近隣のフランス軍は、実際に1940年5月に駆けつけてきた戦力より大きかった。だから「派手に勝てる」と思うどころか、3月に「やはりこの攻勢は失敗するのではないか」とゾーデンシュテルンも迷ったし、ポックも4月になって「装甲部隊を先頭に立てた攻撃など失敗する(ので攻勢軸を俺のところに戻せ)」とハルダーに迫ることになったのだが、それらはだいぶ後の話である。
演習結果から導かれる細かい修正点はいろいろあった。だがそれは全体として、歴史の集大成とも呼ぶべきやり取りだった。かつてマジノ線計画の検討をしていたフランス軍人たちは、ドイツ軍がマース川に達するまで9日と踏んでいた。それはハルダーが考えていた速度とほぼ一致していた。いっぽう、グデーリアンは装甲部隊だけ先行させてもらえば3日のうちにマース川に達すると考えていたが、じつは近年になって一部のフランス士官が同様の所要時間を机上演習ではじき出し、「人心を惑わす結果」だとしてガムランに叱責される事件を起こしていた。オーストリア進駐以来、何度か試されてきた現代の自動車部隊が、断固たる抵抗命令が出ないうちに先行すれば、そんな速度が出てもおかしくなかった。
カリカリとハルダーをにらみつけるグデーリアンに、トレスコウは声をかけられずにいた。すでにシュムントに話は通っていて、マンシュタインによる最後の反撃……総統への直訴機会は与えられるはずだった。
ハルダーにも浮かれた様子はなかった。午前中はこの演習で、午後からB軍集団司令部へ回る。翌日も強行軍で、第18軍の図上演習に付き合う。「君たちはおとり役になった」と言えるだけの、全戦線でつじつまの合ったOKH作戦計画はまだできていないから、どこが主軸かまだ決まっていないふりで、何とかごまかし切らないといけないのだ。
「これが参謀総長の仕事だよ、ヘル・マンシュタイン(マンシュタインさん)」
ハルダーのつぶやきは、誰にも聞こえなかった。
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ド・ゴール大佐はレイノー財務大臣を笑顔と握手で迎えた。実際、1938年から財務大臣になったレイノーは、遅くはあったがドイツに対抗し始めたフランスの軍拡を主導してきた人物だった。ドイツに対する警戒と軍備拡張を説き、1938年のミュンヘン危機まで冷や飯を食った点で、レイノーとチャーチルは似ているともいえる。チャーチルの場合、冷や飯を食った理由はそれだけではなかろうが……それはともかく、軍事面での論客を目指していたころのド・ゴールは、レイノーの同志ということになり、面識があった。
いまド・ゴールは、マジノ線を守る第5軍の軍直轄戦車部隊を指揮していた。増強戦車連隊長といったところである。
「どうだね、部隊の様子は」
「訓練を重ねますと貴重な部品が損耗します。どうしても新しい戦車は新設部隊が受け取りますので」
「それは確かにそうだな」
レイノーの机に乗っている大小の課題は、レイノーから笑顔を奪い去っていたが、眼光はむしろ鋭かった。ドイツの脅威が顕在化したせいで、レイノーは政争の焦点となり、優勢を拡大しつつあった。
ただ、1939年11月にソヴィエトがフィンランドに攻め込んだことは、今日では想像も難しいほど英仏の政局を難しくしていた。「共産主義者が、ついに国境を越えて攻めてきた」からである。「ドイツを全力でたたく」レイノーの姿勢は、「むしろフィンランドを助けてソヴィエトと戦え。なんならドイツとは講和しろ」という反共的な政治勢力からはうとましいもので、そうするとソヴィエトに近い政治勢力はレイノーを支持したほうが得だということになり、優勢拡大といってもその実情は本人を戸惑わせるものではあった。
「君は、中央で働く気はあるか」
「はい、機会がありましたら」
ふたりの会話は、少し声を落としたものになった。兵士たちの隊列や、あちこちの歩哨がさざ波のように、近づくふたりに敬礼し、元の作業に戻った。
1938年以降の軍拡は、ド・ゴールのキャリアにとっても追い風だった。戦車部隊の拡大をうたう出版物があったせいで、大佐昇進の上、戦車連隊長のポストが回ってきた。ただそれはド・ゴールにも油断を生んだ。新しい出版話が舞い込み、手持ち原稿のなかったド・ゴールは、ずっと以前にペタンと共著で出す話があった原稿を引っ張り出し、流用したのである。ペタン元帥は「共著者ともいうべき自分に謝辞もつけないのか」と怒った。その事件のせいで、長年の保護者だったペタンとの関係は壊れてしまっていた。
ド・ゴールには、戦場で英雄になることにこだわりはなかった。英雄になれるなら、どこでもよかった。
「ドイツは、来るのか。君の意見を聞きたい」
「航空支援が得られない季節に、戦車を先頭に立てた攻撃を仕掛けることは適切ではありません」
ド・ゴールは若いころの縁でエスティエンヌと交流もあり、戦車部隊の外で育ったにしては戦車のことを知っている軍人だった。しかしそれでも、「誰も見たことがない戦車の用法」を編み出せるほど戦車に入れ込んではいなかったから、「カンブレーの固定観念」を持ってはいた。むしろそうなると、好天を利して一斉に国境を超えてくるドイツ軍のほうが、イメージしやすいのである。
「あちらにも焦りと争いがあるのだろうな」
レイノーの一言は、彼が考えているより実相に近かったが、そのことをド・ゴールが知ったのはずっと後のことだった。
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イヴァン・テヴォシアンという人物は、日本においては戦後初のソヴィエト駐日大使として知られている。だがもともと鉄鋼や造船の専門家として出世した人物であり、独ソ不可侵条約が結ばれてから2回目の訪独技術視察団がソヴィエトから送られたとき、テヴォシアンは団長をつとめた。1940年3月のことであった。
ホテルの部屋は広かったが、いろいろな煙草の煙で満ちていた。代表団の主だったメンバーが打ち合わせのために、テヴォシアンの部屋に集まっていたからである。
テヴォシアン自身もまだ40才になっていなかったし、国家の代表団としては全体の顔ぶれが若かった。本来ここにいるはずの人々が大粛清を乗り越えられなかったせいだった。
ソヴィエト国民から見て、スターリンの大粛清が終わるサインはあったが、公式な終わりは告げられなかった。要人たちを粛正しすぎて生じた国家運営のきしみは1938年にははっきりしていて、大粛清を指揮したエジョフ内務人民委員はスターリンの不興を感じざるを得ず、次第に酒におぼれた。1938年11月に批判され辞職したが、その後に逮捕され処刑されたことは公にされなかった。
そしてそのまま、大粛清は第2段階に入った。後継者のベリヤ内務人民委員はエジョフ派を一掃したかったし、粛清で空いたポストは「狩る側」である素人の政治委員たちがしばしば占めており、そうした新たなリーダーたちは成果が上がらない責任を問われることになった。だから一般市民が殺されることは減っても、責任ある立場の人々はまだまだ安心できなかったし、逮捕されて消えていく人々もいた。
「戦時に偽工場を稼働させて我々に見せるのは、さすがに高くつきすぎるだろう。戦場で飛んでいる機体との整合性もおおむね取れているようだ」
テヴォシアンの言葉に、明らかに不満な顔もあった。ドイツが本当に最新鋭機と最新工場を見せているのか、疑いを持ち続けている代表団員も少なくなかった。実際、戦場では使われていないHe100戦闘機も展示機体に含まれていたし、ドイツ側にもソヴィエト代表団に何を見せるか、様々な意見があるのかもしれなかった。
「では次の議題に移る。我々が技術的サンプルとして購入する機体の選定だが、ここでの判断は避けることを提案したい」
「同志イヴァン・フョードロヴィチ」
声をかけたのは、テヴォシアンよりまだ少し若い男だった。戦闘機設計者として知られるアレクサンドル・セルゲーエヴィチ・ヤコヴレフ。ヤコヴレフ設計局という名前を彼のチームが名乗るようになるのはずっと後のことだが、すでに彼の率いる工場は丸ごと人民委員会直轄となり、スターリンその人に直属したようなものであった。そして1月から、航空産業人民委員代理(次官相当)として新技術を担当していた。
「その件について、同志スターリンから指示が届いております」
部屋がざわついた。ヤコヴレフが差し出す電報を、ゆっくりとした動作でテヴォシアンは手に取った。「現地判断で選定して差し支えなし。モスクワ、イヴァノフ」とあった。
テヴォシアンは無言で電報を回覧した。なぜヤコヴレフがこれを持っているのか。「モスクワ、イヴァノフ」とは本当にスターリンなのか。誰も問わなかった。テヴォシアンの上申した代表団リストに名前がなかったヤコヴレフが(本人にも出発2日前にスターリンから言い渡されたのだが)ここにいる。その背景に首を突っ込んで、死神に残業をさせたい人物はここにはいなかった。
彼らは改めて話し合い、He100戦闘機、Bf109戦闘機、Do215爆撃機、Ju88爆撃機を選んだ。それらは要求通り、6月にすべてソヴィエトへ引き渡された。
独裁者の目となり耳となる下僚を多く持ち、それらを「独裁者の目と耳を独占したい」と願うベリヤのような人物から守ること。功績には報いるとしても、力を持ちすぎれば交代させること。そのためには孤独な管理業務と限りない応対の手間が必要だった。スターリンという傑出した個人をパーツとして組み込んだ国家システムが最終的に、ものぐさな皇帝であるヒトラーを追い詰めてゆくのだが、そのシステムはもちろん開戦前から働いていた。そしてソヴィエトに暮らす人々は、そのシステムに自分を合わせることを強いられたのである。
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A軍集団にすべてを賭ける……という作戦計画がルントシュテットとポックに示されたのは、2月24日の会議だった。ブラウヒッチュ陸軍総司令官が同席しただけでなく、「説明」の口火を切った。質疑応答の時間すら設けられていなかった。第4軍は丸ごとA軍集団に移され、それまでの予定より少し南のルートで、アルデンヌの本命ルートの北側をカバーして進むようになっていた。
重点がない従来のものより合理的な計画だとポックにもわかっていたが、自分の手から主導権が奪われたことに無関心ではいられなかった。攻勢の主軸でないということは、OKHから追加の予備部隊が送られてこないということだった。むしろB軍集団は英仏軍をベルギーの奥深く釣り出す餌なのだから、英仏軍を蹴散らせるほど強くてもいけないのである。それはわかっているが、ポックは悔しかった。「勝つ役」を人に渡したくなかった。
降下部隊はすべてB軍集団につけられた。耳目を引く降下作戦を初日に集中させ、空軍はわざと南を手薄にする。そしてアルデンヌを陸軍が抜けたころ、急に重点を移すという計画だった。
見たところ、2月17日にマンシュタインのヒトラーへの直訴が成功し、ハルダーが折れたようにも見えたが、一致しているのは攻勢の方向だけだった。大雑把な最高レベルの命令書では、違いに気づくことは困難だった。装甲部隊がまとまって先頭を進むのか、歩兵部隊に交じって共に進むのかは、もっと下のレベルで命令されたが、もちろんハルダーとゾーデンシュテルンが調子を合わせていた。
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独ソ不可侵条約を受けて、当面ドイツがフィンランドを助けることはないと見たソヴィエトは、そっと兵を国境に集め、1939年末にフィンランドに攻めかかった。そして大粛清下でごっそりと士官が抜けた陸軍首脳部は、弾薬補給の手配りなど基礎的なことも滞らせ、情報の収集・更新もできなかった。フィンランド軍の薄い前線は何度も突破されたが、地雷と鉄条網が歩兵を痛めつけ、孤立したソヴィエト戦車に火炎瓶が投げられた。
レニングラード軍管区の部隊だけでフィンランドを屈服させる計画を、スターリンは捨てた。北西方面軍が創設され、幸い大粛清を生き延びていたティモシェンコ(第5話に登場)が司令官となった。ティモシェンコは定石通り、フィンランド軍の要塞地帯マンネルハイム線に対して、前年末をはるかに上回る砲兵を集中させた。極寒の戦場に対応できなかった装備品や不足した装備品についても対応が進んだ。フィンランド軍の短機関銃が有効だという報告も受け止められて、ソヴィエト軍はフョードロフ自動小銃を倉庫から引っ張り出し、警察系部隊が使っていたPPD-38短機関銃を軍に回した。
2月1日、再び攻勢に出たソヴィエト軍に対し、フィンランド軍はもう弾薬不足が表面化していた。3月、フィンランドはソヴィエトと講和し、多くの地を割譲した。
「共産主義者たちを成功させた」と憤る人々は、フランスのダラディエ政権を追い詰め、退陣させてしまった。もっともここ20年のフランス政治でよく見られたように、次のレイノー政権を安定させるため、ダラディエは他ならぬ国防大臣としてレイノー政権に入閣することになった。だからレイノーは軍事については、ダラディエが選んできた方針と、ダラディエが選んできたリーダーたちを受け継ぐしかなかった。
フィンランドも敗戦を受けて、すぐにドイツと組もうとしたわけでもない。スウェーデンがソヴィエトに対して共同戦線を張ってくれるなら、それでもよかった。だがフィンランドがソヴィエトと接する国境はあまりに長く、それを共同で守ってくれる相手となると、よほどきな臭いことを考えている相手に限られた。フィンランドはドイツ軍を領内通過させ、士官を送って作戦を知らせあい、しかしソヴィエトに対してはそれぞれ別個に立ち向かっていくことで、建前と本音の折り合いをつけた。
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イギリス陸軍のイスメイ少将(第16話以来の登場)は新聞を読んでいる暇などなかったが、新聞を読むのも仕事のうちではあった。
ハンキーは1938年に引退し、兼任していた3つの要職を全部イスメイにひっかぶせようとしたのだが、イスメイが悲鳴を上げたので内閣官房長・国家防衛委員会事務局長・枢密院事務長のそれぞれに後任がひとりずつ当てられ、イスメイは望み通り国家防衛委員会だけを引き受けた。大戦が始まり内閣官房と国家防衛委員会が統合されると、イスメイはそのナンバーツーとなり、文官の経歴が長いサー・ブリッジス内閣官房長のもとで「軍人チームの長」という役どころになった。
「入れ」
ドアのノックに続いて入ってきたのは、陸軍情報局の士官だった。
「おはようございます、将軍。ああ、ちょうど読んでおられましたか」
イスメイが広げている新聞の下のほうを士官は指した。3月19日、デンマーク国境に近いドイツのジルト島へイギリスが夜間爆撃をかけ、記事では「ドイツに思い知らせてやった」ことになっていた。3月16日、いつものようにスカパ・フロー軍港の艦船を爆撃にやってきたドイツ機が隣接する村を誤爆して、初めてドイツの爆撃による民間人死者が出たのである。その報復であった。
「ドイツ側の新聞によれば、ジルト島の水上機基地にほとんど被害は出ていないようです、将軍」
「たぶんそっちが正しいのだろうな」
夜間爆撃が目標を直撃する確率の低さは、もう要人ならだれでも知っていることだった。チャーチルが特に命じた爆撃だったが、メンツの問題でしかない。
「せめて飛行場を叩くべきでしたか」
「私は編み物はやらないが、他人の編み物に気を付けはしないよ」
「申し訳ありません、将軍」
ジルト島のヴェスターラント飛行場は、1939年のうちからスカパ・フローなどへの爆撃基地として使われていて、Ju88爆撃機も珍しくはなかった。それを爆撃するとなると、周囲への被害もかまわず陸上に爆弾をまいたことになるから、軍人の判断を越えた戦時内閣レベルの問題であった。
スウェーデンからドイツに向かう鉄鉱石を遮断するため、イギリス軍が先手を打ってノルウェーに上陸する作戦は、1940年初めから浮かんだり消えたりしていて、3月12日にフィンランドがソヴィエトに降伏したせいで、ひとつのシナリオが放棄されたばかりだった。
「こんなことをしている場合ではないのだが、向こうもそう思っているだろう」
「我々の遅れていた準備が、整ってきましたね」
「余裕が持てるのは、助かる」
戦時生産への切り替えはゆっくりと進んでいた。ドイツ国民同様、イギリス国民も前大戦のような総力戦に移行することに気が進まなかった。だがイスメイはチェンバレンとともに、「準備のできていない、最も危険な時期を乗り切った」と現状を見ていた。イスメイは戦後になって、「時間を有効に使っていたのはドイツだった」と苦々しく回想したが、すでに触れたように、イギリスはすでに自分が「負けない」だけのリソースを海空で確保していた。ただフランスに賭けたチップは少なすぎ、やはりすぐには軍需生産が伸びないドイツの大博打を成功させることになった。
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「若さゆえに過ちを犯すという年齢ではないが、いささかこの職務をなめておったよ」
チャーチル海軍大臣は旧知のイスメイをオフィスに訪ねて、ぼやいた。ケースから取り出した葉巻は半分になっていたが、チャーチルは構わず火をつけた。葉巻をちょっと吸いつけて放置し、残りは目下の者の着服に任せるのがジェントルマンの喫煙と言うものだったが、貧乏たらしく全部吸ってコートを灰だらけにするチャーチルの吸い方はよく知られていた。
防衛統括大臣は1939年にインスキップからチャトフィールドに代わっていたが、そのチャトフィールドが4月3日にチェンバレンの内意を受けて辞職し(厳密に言うと、辞職することになって)、後任は置かれなかった。戦時内閣に内閣官房の各委員会(もともと国家防衛委員会の小委員会だったもの)が答申を上げるさい、三軍担当大臣と軍需大臣で最終調整する場が「軍事調整常設閣僚委員会」であったが、軍事に疎いことを陸軍高官から批判されてホー=ベリシャ陸軍大臣は1月に辞職したばかりだったし、ウッド航空大臣は「健康上の理由で」……実際には航空機生産が伸びないことを追及されて、チャトフィールドの辞職に合わせた内閣改造で交代していたから、「三軍担当大臣のうち最先任の者」であるチャーチルが軍事調整委員会の議長になったのである。
チャーチルに議長役は与えるが、制度的な権限はなにも与えない。潜在的な政敵であるチェンバレンとチャーチルの火花が散った妥協だった。
「チャトフィールドも嘆いておったのか」
「いえ、紳士的に我慢しておられました」
「私は紳士ではないからな。ネヴィルに文句を言おうと思っておる。首相にしかできない裁量があるなら、ネヴィル本人こそああいう委員会に出るべきだ」
イスメイは黙って紅茶をすすった。自分もその胃が痛くなる軍事調整委員会を傍聴していたところだった。
「わかっておるよ。ネヴィルは知っておった。だが誰も指揮しなければ、戦争にならんのだ」
それでもイスメイが何も言わないので、チェンバレンはその提案を蹴るか、うやむやにごまかすだろう……というイスメイの見方をチャーチルは薄々察した。
「すっかり古だぬきになりおって。まあ今日明日と言う話ではない。明日も頼むぞ」
チャーチルは1/4ほどになった葉巻をケースにしまうと、立ち上がった。
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ドイツはいよいよ、4月9日にノルウェーとデンマークを攻めた。デンマークに進出した空軍部隊は、翌日にはそこを起点にノルウェーへ向かった。それにより少し短くなったとはいえ、南端近くですらノルウェーは遠い。双発のBf110戦闘機が、胴体下に増加燃料タンクを後付けして、爆撃機を守った。そのタンクは中途半端に燃料が残った状態だと、機体の傾斜によってちゃぽんちゃぽんと燃料が揺れて偏り、機体を不安定にするので危険だった。だが増槽位置まで翼内に燃料パイプが通った新型は少し時間がかかったから、当面は改装機でしのぐしかなかった。ドイツ空軍もつい最近まで、デンマークやノルウェーで戦う予定はなかったのである。
ドイツがノルウェーに攻め込んだことがあるとしたら、ゲルマン民族大移動の前であったに違いない。ひょっとしたら有史以来なかったかもしれない。だからスカンジナビア半島に土地勘のある指揮官がいるとしたら、ノルウェーでなくてもそれで上等とするしかなかった。じつはあまり知られていないが、ロシア革命後にフィンランドの共産主義勢力が台頭したとき、ドイツは小部隊を送ってフィンランド政府軍を援助した。その作戦主任参謀だったファルケンホルストは大尉に過ぎなかったが、今は大将であり、第21軍団長だった。大将になったばかりで軍司令官としては戦歴が浅すぎたから、この第21軍団司令部が「第21グルッペ(集団)」というあいまいな名称に代わり、ノルウェー攻略の総司令部となった。
だが、内実はそういうわけにいかなかった。フランス戦を控えているのである。どの部隊を引き抜かれ、どう使われるかについて空軍も海軍も全力で自分の立場を守り、少しでも負担を小さくしようとした。OKWが取りまとめていったん出された総統命令が、海軍と空軍の激しい抗議にあって実質的に出し直される……などという珍事も起きた。調整のための会議にレーダーとゲーリングが出てきて、貫目の違いすぎるファルケンホルストが呼ばれもしないこともあった。だから事実上、ファルケンホルストは陸軍部隊だけの司令官だった。
ファルケンホルストは第1波歩兵師団をひとつも与えられなかった。第2波歩兵師団がひとつ南ノルウェーへの侵攻に参加したほかは、1939年11月以降に編成された歩兵師団ばかりだった。ナルヴィクなどノルウェーの北半分を攻める2個山岳師団のほうが、むしろ戦前からある師団で兵質優良と言えた。ドイツ東部で国境警備にあたっていた地域司令部が、62才の指揮官ごと呼び寄せられて、軍団司令部格としてデンマーク侵攻の指揮を執った。
重巡洋艦ブリュッヒャーが陸上からの攻撃で撃沈されるなど、海での戦いは激しく、ドイツの出血も少なくなかった。イギリス潜水艦はドイツを批判する関係もあっていわゆる無制限潜水艦戦(商船への無警告攻撃)を政府から禁じられていたが、ドイツ軍艦とあれば遠慮することもなかった。イギリスとドイツは互いに現地へ航空基地を進出させたが、対空砲火や飛行場爆撃を含めた総合的な航空戦で、ドイツは勝てるだけのものをつぎ込んでいた。トロンヘイム付近に英仏陸軍が上陸したものの、南方でドイツが航空優勢を確立するにつれ、部隊と補給物資を空襲から守れなくなった。こうして4月末にかけて、トロンヘイム以南のノルウェーはドイツの手に落ちていった。デンマークの抵抗はもっと短かった。
問題は、誰が見ても、ナルヴィクだった。ドイツの「駆逐艦」は、諸外国の軽巡洋艦並みの15センチ砲を持ち、排水量も2000トンを超える虎の子だった。これを10隻投入し、山岳師団の将兵が運ばれた。だがドイツ海軍の戦力でこの同時侵攻作戦は荷が重く、ナルヴィクへの燃料・弾薬補給は届かなかった。なにより、艦船用の重油が届かなかった。このため、撃沈と自沈を合わせて10隻のドイツ駆逐艦がナルヴィクで失われる結果となった。
ドイツは南から懸命に航空基地を整備していったが、空の支援がないここではドイツ陸軍は危機続きだった。フィヨルドにしがみつくような港町では逃げ場もなかった。フランス戦で得た自信を、ヒトラーはまだ持っていなかったから、憂慮のあまり撤退命令を出されることをOKWの士官たちはひたすら危惧した。かといって英仏軍もこの地のドイツ軍を圧倒できるほどの戦力はなく、決着はフランスでつくこととなった。つまり最終的には、フランスで負けた英仏軍が退くことで、この地の戦闘はようやく終結したのである。
そしてノルウェーは「OKW戦域」の始まりとなった。第21集団にはもっぱらOKWが直接命令を出し、OKHは作戦に口が出せなかったのである。
第22話へのヒストリカルノート
陸海空軍で共通に使うものは、一番使う軍がまとめて調達して、分けてあげるのがドイツ軍のルールでした。航空機搭乗者しかもらえない増加食などは別として、空軍は食糧全般を近隣の陸軍部隊からもらっていました。これはもらう側が一方的に楽をするように見えますが、足りなくなれば配分でもめるわけです。陸軍が海空軍に分けていた自動車は、さすがに「陸軍に任せろ」では空軍も海軍も収まらず、大戦の途中で特別な調整委員会が作られました。
第6軍はポーランド戦のころライヒェナウが率いた第10軍が改称されたもので、第10軍は1943年まで欠番となりました。また、クルーゲの第4軍はフランス戦が近づくと、ルントシュテットのA軍集団に所属替えとなりました。
実際には10月25日の会議で、ポックはもっぱら台詞の後半、つまり「もう悪天候で攻勢に適した季節ではない」ことを強調しました。アルデンヌに関する思いつきをヒトラーが口にしたのですが、反論したのはブラウヒッチュとハルダーで、ヒトラーはこの場ではそれをすぐ引っ込めてしまいました。
ヒトラーは実際にミュンヘンに行きましたが、車内での会話は架空です。大戦中のヒトラーの旅程はすべて記録が残っており、身辺警護に当たるRSDのメンバーは全員の名簿があるので、小説にするにはつらいところもあります。
ポーランド戦を経て、装甲師団が有力な駒であることはすべての将星が理解していました。だからマンシュタインも「我が軍集団にそれを余計にくれ」とはっきり書けなかった可能性はありますが、10月31日付のルントシュテット名義の書簡(『失われた勝利』に載っている計画とは少し違います)を見ると、Motorisiertという言葉が2か所だけ使われ、Panzerに至ってはどこにも出てきません。たぶんグデーリアンが『電撃戦』に書いたように、11月になってマンシュタインはグデーリアンを初めて呼んでじっくり話し合ったのです。
テヴォシアンとヤコヴレフのやり取りはヤコヴレフの回想に基づいて書いていますが、実際にはヤコヴレフはテヴォシアンの了承を得たあと「モスクワ、イヴァノフ」への問い合わせ電報を打ち、返事をもらっています。いきなり会議に持ち出したわけではありません。
武装親衛隊の師団は107個師団に含めていません。史実でのA軍集団・B軍集団は、後でOKH予備から追加されたものも含め、7個軍とクライスト装甲集団(8個師団)を使いましたからピッタリ8個軍相当です。軍団以下の単位でキープされていた軍集団予備も含め、その中にはいくらか第3波以降の師団も交じっていました。もちろん後のダスライヒであるSS-VT師団、トーテンコープ師団、まだ増強連隊だったアドルフ=ヒトラー(LAH)連隊、グロスドイッチュラント連隊といった様々な部隊が、将来の可能性を賭けて戦いに加わっていました。
ハルダーがゾーデンシュテルンととくに親しかったという記録はありません。しかし自分の参謀次長として考えていた人物ですから、言うことを聞いてくれるという見込みがあってそうしたはずです。ゾーデンシュテルンをA軍集団に回したのは、「フランス第7軍の配置がばれたので」という仮説のほかに、「シュムントを通じた工作がハルダーの耳に入り、親マンシュタインの幕僚が多いと知れたので、軍参謀長級から格上げ直後のフェルバーでは抑えられないと見た」可能性も考えられます。
大戦中、イギリス陸軍情報局(DMI)はMI5などと併存していました。なお3月16日のスカパ・フロー爆撃には、第26爆撃航空団(KG26)のHe111爆撃機と、KG30のJu88爆撃機が合計十数機で当たりました。英語による情報は「十数機のJu88が飛来」でそろっていますが、急降下して低空に降りてくるJu88のほうが印象は強いでしょう。
チェンバレン首相は4月4日に保守党の集会に出席し、イギリスの準備が整っていない危険な時期に、ヒトラーは何もせずに過ごしたことを強調して「ヒトラーはバスを逃したのです」と演説しました。これは後になって、チャーチルをはじめ多くの人々にイジられる発言となりました。
カウビッシュ中将の第31高級司令部が2個師団と1個旅団を率いて、数日で終わったデンマーク占領作戦を指揮し、そのまま軍政長官をしばらく務めました。そのあとカウビッシュは軍政長官職を後任に譲り、部隊を入れ替え3個師団となった「軍団」はフランスへと転戦していきました。1942年まで「高級司令部」の名のまま変則的な軍団としてフランス占領に参加したあと、現地で第80軍団に改組されました。
Zの通し番号がついた駆逐艦で、大戦中に着工し就役したものは13隻、大戦前の着工で開戦後に就役したものは5隻でした。10隻同時喪失の重みが分かります。レーダーの回想録によると、喪失の主因はナルヴィクへ燃料を運ぶタンカーが撃沈されたことでした。




