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第21話 誰も見たことのない戦争


 いくつかの国は、ヴェルサイユ条約やそれに関連する条約で国土を削られた。その国土を受け取った国もあった。民族自決の原則は、戦勝国が弱くしたい国々から領土を削る方向へ偏りもしたし、もともと集住・混住の事情によって、国境をその原則だけで引くことなどできなかった。だからポーランドやルーマニアは広い国土を認められることによって、国力も増したが、国内に少数民族という政治不和の種を抱えることにもなった。強い軍を持ち、愛国心をあおり立てることは、国民へのアピールとして大切だった。


 新生ポーランド軍は、ドイツ・オーストリア・ロシアの武器を持ち寄って編成され、建国直後にはドイツやソヴィエトと国境を巡って戦火を交えた。ソヴィエトとの戦いで危機を救ったピウツスキが政治的にも有力者となって、軍への予算は少なくはなかったが、農業国からの脱皮は簡単ではなく、軍の人数に見合う最新重装備を買うことができなかった。日本が1905年採用の三八式野砲を改造しながら使い続けたように、ポーランドも第1次大戦からのフランス製野砲とロシア帝国製野砲を主力とするしかなかった。伝令が馬から自転車に乗りかえるのがせいぜいで、ドイツは歩兵中隊まで大隊との無線か野戦電話がつながるのに、ポーランド軍では大隊本部までだった。無線妨害や電話線切断への問題意識も弱かった。もともと独立運動家で近代兵器事情に明るくないピウツスキが1935年に死んで、軍内の近代化推進派はむしろ声が上げやすくなっただろうが、それでポーランドに経済力がついて装備が整うわけでもなかった。


 晩年のピウスツキは1934年にドイツと不可侵条約を結び、ソヴィエト国境にいくらか陣地帯を構築させたが、後から見るとどちらも無駄になった。ドイツ同様、ポーランドもまた国力を超えた二正面作戦の可能性に悩まされていた。ソヴィエトと戦う可能性を考えれば、国力の割に有力な騎兵部隊を維持しないわけにはいかなかった。


 ポーランドの軽機関銃は、アメリカ陸軍が当時使っていたM1918(B.A.R.)の弾薬をポーランド規格にしたものだった。ドイツのMG34に比べると発射速度でも負けていたが、それよりも弾薬補給も含めたシステム全体が大量に弾をばらまくことを想定していなかった。ポーランドの軽機関銃手は20発入りの弾倉をベルトに4個持ち、さらに専用のカバンに5個入れて肩や腰に下げていた。短時間にあまり多く撃とうとすれば銃身が焼けて膨張し、保たなかっただろう。


 逆にドイツは弾数で押す戦いをした。ドイツの軽機関銃チームは3人組で、弾帯を使って給弾するために250~300発入りの弾薬箱を3つ下げ、さらに50発入り円形弾倉を4つ持っていた。予備銃身も持っていて、銃口が熱膨張して狙いが定まらなくなる前に交換し、交互に冷やした。


 陸海空軍の兵員数で比べると、ポーランドはフランスの1/3ほどの規模でしかなかった。だが1940年5月~6月にフランス・オランダなどで消費されたドイツの105mm榴弾砲弾は146万発であったのに対し、ポーランド戦では145万発だった。105mm榴弾砲は代表的な師団砲兵の兵器だが、歩兵連隊が持つ迫撃砲弾や歩兵砲弾の消費はフランス戦よりポーランド戦の方がずっと多かった。フランスとの戦いを電撃戦と呼ぶなら、ポーランド戦は電撃戦ではなく、火力で押し切る射撃戦だった。


 だが、ドイツ装甲部隊はあちこちで戦線を破り、ポーランド軍がチームとして働くことを妨げた。空軍の働きも、陸軍への移動妨害などは第1次大戦で広く見られた活動ではあったが、今回の戦いでは広範で徹底的だった。ポーランドは誰も経験したことがない負け方をした。


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 よく知られているように、ソヴィエトは英仏に加担する交渉を1939年8月に打ち切り、ドイツにつくことにした。


 独ソ不可侵条約は8月23日に調印され、モスクワで24日の新聞に内容が載った。すでに8月14日、その成否を待たず、ヒトラーはイプシロン・ターク(Y日、ポーランド侵攻予定日に割り振られた暗号名)を8月25日と定めていた。ところが23日、スターリンがリッベントロップ外務大臣をモスクワに迎えた日、イプシロン・タークは26日に繰り延べられた。早朝の攻撃開始に備え、侵攻部隊は25日に夜間行軍を行った。新任のOKW作戦部長であるヨードル中将は23日にベルリンへ着いて、カイテルの幕僚たちから現状について集中的なレクチャーを受けた。


 この時点では、いわゆる第1波歩兵師団以外のドイツ歩兵師団は(原則として)存在しなかった。第2波~第4波の歩兵師団への動員命令はイプシロン・タークに発せられ、軍集団や軍の予備として、また平穏な国境や後方を固める部隊として順次配属されていく計画だった。


 25日の新聞はすでにモスクワでの報道を受け、あちこちの兵営の動きから戦争の足音をはっきりと伝えていた。だが、ソヴィエトとの交渉を打ち切ったイギリスは覚悟を固め、ポーランドとフランスの古い攻守同盟に加わることを発表した。もうドイツの動員体制は隠しようもない段階だった。それでもヒトラーは25日の夜になって、なお交渉のために攻撃中止を命じた。ベルリンの陸軍参謀本部5課(輸送)からは、その一部が巨大な通信施設のあるツォッセン市の基地に進出し、OKH輸送総監を併任したゲルケ課長の下で業務を始めていたが、急な命令に応じて軍需列車の衝突を避けるため大急ぎで指示が飛んだ。


 ヒムラーの下で、ポーランド側からの挑発行為を偽装して開戦の口実にする計画が数十種類用意されていて、これも9月1日に合わせて延期された。OKW情報部の部隊に8月25日夜の攻撃中止命令が届かず、ポーランドの鉄道トンネルを爆破阻止のため確保しようと襲撃し、失敗して国境に逃げ延びた事件があったが、ドイツ軍は個人の行為だと切り捨てて謝罪までしてみせた。


 ヒトラーは英仏と戦いたくなかった。もっと正確に言うと、ドイツがポーランドを侵略する間、いつものように口だけで抗議して、何もせずにいてほしかった。だが、今度はそうならなかった。ヒトラーは攻撃は控えたが、26日に予定されていた部隊の動員はすべて予定通り行われた。開戦の間に合わないはずの部隊と物資が次々とポーランド国境に向かった。戦前の計画で国境に送ることが決まっていた鉄道輸送物資は、実際の開戦日となった9月1日には3/4がもう国境まで来ていた。ポーランド攻撃計画は進めるがイギリスとの交渉窓口は開けておく……というのでは交渉にならず、さすがのチェンバレンももう譲らなかった。9月を待たず、イギリスも陸軍4個師団と相当数の航空機部隊をフランスに送り込んだ。


 もっともドイツが9月1日まで攻撃を始めなかったのは、イタリアを同時参戦させようと説得していたせいでもあった。イタリアの参戦により、英仏が宣戦せず黙り込んでくれることを期待してのことであった。逆にイギリスは夏のうちに、イタリア軍の戦争準備(のなさ)から、すぐにイタリアが参戦することはないと踏んでいた。


 ドイツのポーランド侵攻が報じられた後ではあったが、イギリスとフランスはドイツに宣戦した。ようやくレクチャーをこなしたヨードルがヒトラーに挨拶したのも、9月2日だった。


 1938年のオーストリア併合ではフィーバーンの暴走があり、ミュンヘン危機ではクーデター計画があった。先の話になるが、1940年5月にオランダやベルギーに攻め込む直前には、ドイツ軍情報部幹部が戦火拡大を恐れ、オランダ軍駐在士官に攻撃計画をわざと漏らした。それを思えば、ボーランド侵攻時にそれを止めようとする動きがなかったことは不思議である。ヒトラーはポーランドと戦争をする気でいたが、ポーランドが8月15日までに外交的に屈服して、飛び地となっていたダンチヒ(現ポーランド領グダニスク)をドイツ領とし、ポーランドが海へのアクセスを確保する(東プロイセンとドイツ本土を分かつ)地域の帰属を住民投票にかけるなら、今回は戦争を取りやめるよう計画していた。このところヒトラーの恫喝外交が成功するので、将軍たちは今回もせいぜいポーランドとの局地戦争で済むのではないかと、期待してしまっていたのかもしれない。


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「貴様のせいで戦争になった」


 ゲーリングは第1航空艦隊司令官・ケッセルリング大将の目の前でリッベントロップ外務大臣に電凸した。近年の恫喝外交を指導してきたのがリッベントロップだった。隣国を脅すことができ、短期・小規模な戦争なら負けない空軍を育ててきたゲーリングの目算が狂った瞬間だった。


 それは、英仏を相手とする大戦争に対してゲーリングが積極的でなく、ヒトラーが戦争リスクの高い恫喝(どうかつ)外交についてゲーリングに相談しなくなってきたことの結果でもあった。ホスバッハ覚書の残された1937年の会議(第17話に登場)は、空軍にとっては気楽なものだとゲーリングはとらえたが、開戦が決まった今になって見ると、あれは空軍にとって危機の始まりでもあった。


「早く済ませて、西を固めましょう」


 ケッセルリングの部隊はまさにポーランド方面の主力だった。


「戦力は足りそうか」


「戦闘機部隊は侮れませんが、爆撃機では圧倒できます」


 ケッセルリングは1938年1月まで空軍参謀総長だった。初代のヴェーファーが事故死したためである。ヴェーファーもケッセルリングも飛行機の操縦ができたが、ゲーリングは1930年代に入ると一度も操縦桿を握っていなかった。最新技術のことはミルヒ空軍次官に任せていたが、なにしろゲーリングは権力者だから、有能過ぎるミルヒが空軍の実権を狙っていると疑い出せばきりがなく、1938年になって急速に不仲になった。その板挟みでケッセルリングは転出したのであった。後任者も1年で逃げ出し、そのまた後任のイェションネック参謀総長は、先月少将になったばかりの怜悧な若手だった。


 ポーランド空軍は何とかなる。だが英仏空軍はどうなのか。それはまだ、誰にも答えられなかった。


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 開戦と同時に、ドイツ軍は道を急ぎ、自動車化された部隊はあちこちに残ったポーランド軍を放置してひたすら東に進んだ。当時最新鋭の通信車型装甲兵員輸送車に乗って、グデーリアン軍団長は部隊とともに進み、急き立てた。


 ただ戦場の実相はフラーの思い描いていたものではなかった。ポーランド軍は満を持したドイツ軍に比べて動員そのものが遅れていたので、()くべき後方の司令部と言ったものはまだなく、あるとすれば平時からの都市防衛体制に守られていて、装甲部隊の前哨だけでは叩けなかった。


 ポーランド軍は道路を守ることができず、バラバラにされて組織的な抵抗が難しくなった。装甲部隊がマヒさせたポーランド軍を、歩兵師団群が盛んに弾薬を消費しながら追い立て、追いつめるような展開になった。


 グデーリアンとしてはやや不本意な流れであったかもしれない。だが年来の主張である「装甲部隊の集中使用」をしても、それによって打ち破る価値のある柔らかい目標や、ポーランド側の機動兵団があるわけではなかった。むしろ「道路」そのものが最も価値ある目標であり、それを広く薄く確保したことは、砲兵と空の優勢を勘定に入れれば、極端な装甲部隊の濃淡を作るより効果的であったかもしれない。


 実際、グデーリアンの第19軍団に属する第3装甲師団の一部は開戦初日、守りの薄い森林を抜け、わずかな抵抗を蹴散らしてヴィスワ川の支流にかかる重要な橋を確保してしまった。森林地帯は「戦車が通れない」のではない。通れるところが限られ、幅広い同時攻撃に適さないだけなのである。だがポーランド軍は森林地帯に装甲部隊は来ないと踏んでいた。ドイツ装甲軍団は幅広い同時攻撃のチャンスを狙う……という前提で考えると、そうなるのである。グデーリアンは世界で一番早く、「カンブレーの固定観念」を抜けた先にあるものを見たともいえるが、本人がそれを自覚したかどうかは定かでない。


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 5日から順次、西部国境で戦うポーランド軍の各集団は、ポーランド中央を南北に貫くヴィスワ川まで退却するよう指示を受けた。すでに触れたように、フランスが行動を起こしてくれるまで、ポーランドは南東でひたすら耐える計画だったのである。ヴィスワ川はワルシャワそのものを通ってもいた。戦線最南端に近いクラクフ方面では、ヴィスワ川支流のドゥナイエツ川がヴィスワ防衛線の一翼を担うはずだったが、その東岸にあるタルヌフ(タルノウ)には7日にドイツ第4軽機械化師団などが達していた。この部隊を先頭に、ドイツ装甲部隊は戦線から8kmほど深入りしたのだが、これでポーランド軍のクラクフ集団全体が退却を急かされる結果になった。


 7日夕刻、ポーランド軍総司令官のリッツ=シミグウィ元帥は、司令部をブレスト=リトフスク(現ベラルーシ領ブレスト)に移した。通信能力に問題を抱えるポーランド軍において、これはワルシャワとブレストから矛盾する命令が出たり、どちらの指示も届かなかったりする混乱のもとになった。


 グデーリアンの第19軍団が本土と東プロイセンに挟まったポーランド領を確保した後の作戦は、開戦時には聞かされていなかった。グデーリアンは軍団を追い立てて、東プロイセンから南下しようとしていたドイツ軍部隊の、さらに東端に陣取った。猛進してポーランド軍の背後を衝ける位置だった。


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 ヒトラーの耳にも砲声は届いているはずだったが、歩みを止めようとはしなかった。カイテル幕僚総監も、もうヒトラーを止めるのをやめた。護衛責任者のロンメル大佐は戦場の香りですっかり活性化して、護衛についている歩兵たちと一緒に行動していた。


 さいわい、あふれる人々そのものが目印になって、目的地はすぐにはっきりした。第30歩兵師団司令部のテント村は、なるべく木の影を利用するようにはしていたが、テントが多いために空からすぐわかるだろうとカイテルは感じた。聞き慣れたドイツ機のエンジン音が遠くから聞こえていた。


 師団長のフォン・ブリーセン中将は左手を布で釣って着座していた。ヒトラーは立ち上がろうとするブリーセンを止め、握手しながら言った。


「君と君の兵士たちの勇戦を無駄にはしない。すでに援軍が君の戦線を助けようと向かっている」


 もちろんそれはヒトラーの来訪に先駆けて、正式な連絡が届いていたから、ブリーセンは曖昧な微笑で応じた。カメラのフラッシュがちかちかと煩わしかった。カイテルは、「済んだか? もう用は済んだか?」と言いたげに、周囲の人々と腕時計を交互に見た。


「我が総統。空軍の支援もありまして、すでに我々の主防衛線は小康を得ております。その前面に展開する斥候もすでに出し直しました。どうか砲弾の降ってくる戦闘地域でのことは、私たちにお任せください」


 ブリーセンの言葉に、カイテルが精いっぱいの微笑を送った。ヒトラーは振り向き、ウザそうな顔を見せたが、また政治家スマイルに戻り、ブリーセンに出立を告げて敬礼を受けた。遠巻きにしていた師団幕僚たちがそれにならった。


 ドイツ軍が各地のポーランド軍を放置してワルシャワに迫る方針が、極端すぎたのであった。放置されたポズナニ集団は薄いドイツ軍側面を見て反撃の誘惑に勝てず、その先鋒3個師団と2個騎兵旅団が9月9日から、薄い側面を守るドイツ第30歩兵師団に殺到した。ヒトラーに急かされなくても事態の深刻さは軍司令官たちを動かしていて、いったん通り過ぎた部隊が集まってきた。


 だが、まっすぐ東を目指さず、南への攻撃に数日を使ったことは、ポズナニ集団が包囲を免れるチャンスを減らした。小さな場所に追い詰められれば、ポーランドの砲はすぐ位置をさらし、追い立てられた。「ブズラの戦い」と呼ばれるこの包囲戦で、重火器を捨てて川を渡った一部の兵士は森を抜けてワルシャワ防衛戦に加わり、残りは降伏した。この包囲戦は21日まで続き、ポーランド軍は9個師団の損失と引き換えにいくつかの局地的な勝利を得て、ワルシャワ防備の時間を稼いだかたちになった。だが時間を稼いでも、ポーランド軍がワルシャワで勝つ手立てが見つかるというものでもなかった。


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 第1航空艦隊を率いるケッセルリングは能吏タイプだから前線視察に熱心な方ではないが、航空部隊を率いて戦争をするのは初めてだから、今日は国境近くの基地に来ていた。ポーランド領内に整備した基地も稼働を始めていたが、燃料・弾薬・爆弾を必要なだけ送り込むのはやはり困難があった。


 滑走路周辺では人が盛んに動いていたが、すでに午後も遅く、まとまった数の飛行機が飛んでゆく刻限ではなかった。当時の夜間着陸は危険で、日のあるうちに降りるのが航空作戦の原則だからである。


 短期の局地戦争しかやらない前提の空軍だったから、外征用の補給組織がなかった。4つの航空艦隊に対応する防衛分担地域は、それぞれいくつかの航空管区に分かれていた。航空管区司令部が航空基地を維持する補給組織……倉庫や検品係やトラック部隊を管理していたのである。ケッセルリングの第1航空艦隊には4つの航空管区があったが、そのうちふたつから補給のための派遣隊がやってきて、航空機部隊が急に増えた航空基地や、戦地の対空砲部隊を引き受けていた。


 日本陸軍航空隊は空地分離と言って、基地の管理部隊や整備部隊と航空機部隊を切り離して移動しやすくする方針を取り、大戦後半に日本海軍も真似をしたが、これはもともとドイツ空軍のやり方だった。だからケッセルリングと基地司令官の会話は短く終わった。作戦上のことは責任範囲でもないし、知らされてもいないからである。


 高緯度地域とはいえまだ9月だが、ケッセルリングはほこり除けにコートを着ていた。ふだんは使わない未舗装の土地にまで荷物とテントと自動車がはみ出していた。背の高い施設が少ないから、呼び出した相手を乗せた乗用車が近づいてくるのが遠くから見えた。この基地を中心に作戦している、爆撃航空団の司令であった。


 航空団司令は校長先生に例えられることがある。全体の責任者だが、個々の搭乗員が直接会話することはほとんどないからである。とくに搭乗員の多い爆撃航空団の司令となると、「階級章の星の数より操縦の腕」などとは言っておれず、大組織を管理する気配りが求められた。


「上からの指示が多くて迷惑をかけているのではないか」


「いえ、そんなことは」


「総統から元帥が航空支援の指示を受けるのだそうだ。参謀総長にもどうすることもできない」


 このころ空軍元帥はゲーリングしかいないから、これで通じた。航空団司令は返答を避けた。


「偵察との連携はどうだ」


「陸軍に預けた偵察機が飛ぶコースでは、我々の欲しい情報が取れないことがありますが、空軍側に残った偵察隊がよくやってくれております」


 ドイツ軍では「指揮官の役職名」が「その指揮官が指揮する部隊」を意味することがあり、コルフトはそのひとつである。これは陸軍の軍司令部に配属される航空指揮官を指し、対空砲部隊と偵察機部隊をいくらかずつ指揮下に持っていた。それらへの命令は、コルフトが手伝って命令の細部を整えながら、軍司令部が出した。対空砲は陸軍の指示するところを守り(もちろん攻撃任務もある)、偵察機は陸軍に言われたコースを飛んで、探れと言われたものを探って報告すると言うことである。これとは別に、装甲師団長と一部の軍団長にも、偵察コースなどを指示していい偵察機枠がいくらかあった。だが爆撃機や戦闘機については、必ず空軍がいったん陸軍の希望を聞き、できる範囲で空軍が出撃命令を出した。


 ただでさえ陸軍部隊から上がってくる注文の取捨選択をしなければならないのに、総統が地図を見てあれこれ指示を出して来るのである。ケッセルリングは現場にあるに違いない理不尽感をガス抜きしようと考えて、ここに来ていた。


「我々の指示と、偵察結果に矛盾はないか」


「優勢でありますので、求められる戦果は上がっております」


 司令は直接的な答えを避けた。どうしても対空砲のいる陣地への攻撃は空軍に出血を強いるし、陸軍の作戦を聞いてからヒトラーがゲーリングに出す指示は、そうした陣地攻撃の比率が高くなる。そこを懸念していたケッセルリングだったが、現場が耐えられないほどではないようだった。


「陸軍が敵を追い立てておりますので、敵陣地が存在するとされた地点に、有力な敵が見られないこともありまして」


「ああ」


 ケッセルリングは安心した。ヒトラーがゲーリングに口出しをすると言っても、前日の戦況報告をヨードルから聞いて、そのあと電話をするのである。対空砲が移動を強いられていてとっさに射撃できなかったり、空から丸見えの位置にいたりするなら、脅威度は低い。まあ爆撃としては目標化前日の位置におらず空振りになって、安全に着陸するためどこかに爆弾を投棄することもあるのだろうが。



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 ポーランドが単独でドイツに立ち向かえるとはフランスも思っていなかった。だがフランス自身が「召集して鍛えて勝つ」という長期戦の方針だったから、オーストリアやチェコスロバキアの情勢急変についてゆけなかったのがここ数年の流れだった。ポーランドとしては、同盟者フランスが立ち上がってくれるまで国境の軍で動員の時間を稼ぎつつ、ドイツから遠い東部地域に逃げ延び持久すると言うのが精いっぱいの戦策だった。だからリッツ=シミグウィ元帥はワルシャワから南西へ退いたのである。


 ポーランド軍はドイツ軍部隊の国境への移動状況を概ね正確につかんで、第1波師団など開戦時に存在するドイツ師団がどれくらい攻めて来るか正しく予測していた。だからフランスから予備役を動員しないよう強い圧力がかかっていたが、目立たないように一部の動員が進み、8月初めに50万人ほどだったポーランド軍は開戦時には70万人になっていた。その後のドイツ軍のこととなると、「ドイツはどのくらい西部国境をがら空きにするか」という不確実性が加わるため、指導者や組織によって予測に幅があった。もちろんそれが正確に分かったところで、取れる対応策が増えるわけではなかった。


 ポーランドの基本的な方針は、ソヴィエトとの戦争をイメージして形成され、1930年代に急変した事態に合わせる時間がなかった。圧倒的に広大な土地、希少な自動車、貧弱な道路と言う条件下では、西ヨーロッパの軍隊よりも騎兵の役割に期待をするのは自然なことだった。ポーランド騎兵がドイツ戦車に攻めかかって壊滅した話はドイツのプロパガンダ報道が誇張したものだと今日ではわかっているが、相手の兵種が何であれ、騎兵部隊が担当させられる戦線が広く存在したのは確かであった。そしてすでに述べた「火力の差」に遭えば、歩兵だろうと騎兵だろうと後退するしかなかったのである。


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 フランスは9月15日になって重い腰を上げ、ドイツ国境で部隊を前進させた。ドイツ国境の一部はライン川そのものだが、北へ行くとライン川の西側にドイツ領がある。ここへ攻め込んだのである。だがドイツが懸命に構築し、すでに完成しているように宣伝していた国境陣地群であるジークフリート線とは、距離を保った。


「現代の戦争は防御有利」であり、それを覆すには「砲兵の優越が決定的」であるとするフランスの考えは、すでに述べたように、前大戦末期の勝ちパターンの踏襲であった。それに沿えば、「動員からわずかな日数で、ドイツの要塞地帯に攻めかかるのは愚の骨頂」であり、同盟者ポーランドのピンチにあって、言い訳のように押し出した部隊であった。そして後の話になるが、ソヴィエトが参戦し、ポーランドの運命が定まったとみると、この部隊はするすると元の国境に戻ってしまったのであった。


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 第1次大戦ですでに、ドイツのツェッペリン飛行船、次いでゴータ爆撃機はロンドン周辺を爆撃していたし、イギリス戦闘機はそれを夜間にも迎撃していた。日曜の教会に爆弾が落ち、民衆が死傷したこともあった。天候や機械故障を乗り越えて目標まで行きつくこと自体が困難であり、戦果はわずかだったが、戦略爆撃とはどんなものか、すでに人々は知っていた。


 従って英仏独すべてが、都市爆撃を自分たちから始めて、報復合戦となることを懸念した。これは人間性と言うより打算の産物であって、ワルシャワでは民衆「を」狙った恐怖爆撃こそなかったものの、重要施設や陣地化された建物の近くに民家があっても、お構いなしに爆弾と砲弾が降っていた。焼夷弾も使われた。


 ドイツ空軍は海軍の要求もあって、航空機雷敷設を盛んにやったし、イギリス側はウィルヘルムスハーフェン軍港にいるドイツ海軍艦艇を狙った。都市爆撃以外にできることを探したのである。戦闘機が急速に高速化しているものの、爆撃機が編隊を組んで機銃の死角をカバーし合えば、戦闘機を接近させずに生還できるのではないかとイギリスでは期待されていた。そのような攻撃の主役と期待される重爆撃機の開発はゆっくりと進んでいた。


 だが、空の上で大規模な会戦はしばらく起きなかった。爆撃とは総合技術である。敵を見つけ、編隊を組んで到達し、正確に爆撃し、帰還する。そのサイクルを確立するには幾多の故障や手違いや連係ミスを乗り越えなければならない。イギリス空軍はすぐにはそれらを満たせなかった。


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 9月9日、南西からまっすぐワルシャワを目指し突進してきた第4装甲師団の第35装甲連隊は、首都外郭防衛線に達し、堅固な陣地に攻撃をかけた。攻撃が失敗した後、連隊は懸命に損傷車両を戦場から回収した。その日の戦闘を終えたとき、120両の戦車のうち、撃破されたか回収不能なところにいる戦車が30両あった。戦闘可能な戦車は57両にまで減っていた。グデーリアンの長男、ハインツ・ギュンター・グデーリアン中尉も対戦車砲で乗車を失ったひとりだった。だが連隊の戦死者は8名、負傷者は15名に過ぎなかった。人は無事でも戦車はどこかしら傷んでしまうのが当時の戦争だった。


 この部隊はブズラ川方面に引き返して行き、15日にはワルシャワの東から新たなドイツ軍がやって来た。東プロイセンから南下したポック上級大将の部隊であった。グデーリアンの軍団もその中にいた。


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 金属板が割れる耳障りな音がした。ドイツのI号戦車が森を出たところで、ポーランド軍のボフォース社製37mm対戦車砲に直撃を食らったのである。止まりきれなかった2両目も木立ちの保護を失って、キャタピラに被弾した。1両目からベレー帽の車長が転がり出てきたが、双眼鏡でいくら目を凝らしても2人目は出てこなかった。2両目からは2人出てきたようだったが、森の奥だったので見えにくかった。


 ポーランド第8歩兵師団第21歩兵連隊長のソサボフスキ大佐は、塹壕の中から、配属された対戦車砲の手柄をにこりともせずに見ていた。


 ポーランド軍には優秀な対戦車銃があったし、ボフォース社製の37mm対戦車砲はドイツ軍のものより高性能だった。ソサボフスキの位置からは、地面を掘り下げて37mm砲の砲身を地面ぎりぎりにしている、古典的な砲座がよく見えた。新しい盛り土を見せて警戒されないよう、ちゃんと遠くに捨てに行ったようだ。


 ソサボフスキの隣にいる中隊長が命令を出し、伝令が走るところを、背中から言い添えた。


「出てゆくところは気をつけろ。ここの位置をさらさないようにな」


 伝令は連隊長直々の指示にびくりとしたが、うなずいて中隊本部の塹壕を去った。ドイツ戦車のすぐ後ろには歩兵がいる。サイドカーを降りた連中が森のへりからこちらを見ているはずだ。指揮所の位置が知れれば迫撃砲弾が来る。


 前大戦のときソサボフスキはオーストリア兵だった。ある程度の年配のポーランド軍人は、昔はオーストリア兵かロシア兵かドイツ兵だった。軍歴がないのは先年亡くなったピウスツキ大統領のように、皇帝暗殺計画に関わってロシアで強制労働刑を食らい込んだような活動家だけだ。


 さっきの伝令を連れた若い士官が対戦車砲のところに現れた。短い口論の後、対戦車砲員たちは砲を離れた。その陣地を遠巻きに囲む位置に、20人ほどのポーランド兵が現れた。東プロイセンのドイツ国境から戦い続けて、最近の1個小隊はあんな規模だ。ドイツ歩兵が砲の捕獲を試みたら、罠にかけるのだ。


 短い小さな風切音にソサボフスキは身を伏せた。ドイツの50mm迫撃砲だ。着弾は砲の位置からかなりずれているが、狙っているつもりのようだ。ソサボフスキは腕時計を見た。15時。これからスツーカが飛んできたら夜間着陸のリスクがあるから来ないだろう。中隊長がソサボフスキにささやいた。


「中隊に割り当てられた迫撃砲で、日が暮れたら戦車を撃たせます。回収班が寄ってきているでしょう」


「夜襲への阻塞射撃に使ったほうが確実だろう。弾薬はますます厳しくなる。奴らの通りそうな場所を、日のあるうちに標定(砲から目標への距離や方向を測ること)しておけ」


 中隊長は無表情にうなずいた。ワルシャワは首都だから、弾薬庫がその真ん中にあるわけがない。弾薬庫との行き来はますます困難になっていた。


「日が暮れるまで無事だったら、対戦車砲は位置を移させろ。新しい位置は後方で構わん」


 今はワルシャワ郊外で戦っているが、郊外で戦うぜいたくはそう長く続かないとソサボフスキは見ていた。弾薬事情の差を見せつけるように、50mm迫撃砲はもう20発は降っていた。



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 ポーランド戦当時、指揮戦車を除けば2682両の戦車がドイツ軍の実戦部隊にいたが、その81%が攻撃力も防御力も限られたI号戦車とII号戦車だった。ポーランド軍がまばらに散開しておれば、例えば75mm砲を持つIV号戦車を無線で呼ぶなどして突破できたが、複数の砲と障害物を組み合わせた陣地にたまたま当たってしまうと大きな損害が出た。


 17日にはソヴィエト軍が国境を越えて、ドイツと密約した線まで進出した。すでにブレスト要塞はドイツの手に落ちていた。捕虜となることを避けるため、18日にはリッツ=シミグウィ元帥がルーマニアに入った。


 ワルシャワへの本格的な攻撃はブズラの戦いが終わってからだった。塹壕戦が市街戦になっただけで、ノーマンズ・ランド(互いの戦線の中間にできた、誰もおらず、見つかれば撃たれる領域)も作り出された。


 25日の攻撃は特に空軍と砲兵の働きで激しいものになった。兵力の劣勢を補うため、ポーランド軍は夜襲の訓練に熱心で、市街地で果敢な襲撃がかけられたが、火力の差はもうどうにもならなかった。ワルシャワの降伏は27日だった。ソサボフスキら前線の将兵にとっては、全体状況が見えないまま、ある日突然言い渡された敗北だった。だが物資の不足を始めとして、悪い兆候は兵士たちにもはっきりしていた。


 総司令部は降伏せずルーマニアに脱出したため、ポーランドが敗北した日付を特定することは難しい。ワルシャワより後まで抵抗した部隊もあり、10月6日に最後のポーランド軍部隊が武器を置いた。


 ドイツ軍はいくらか補充戦車を受け取り、修理できる戦車は回収修理した。ポーランド戦を終えて「戦闘により」全損とされた戦車は231両(初期保有数の8.6%)だった。「戦闘により」と強調するのは、第1軽機械化師団の稀有な例があるためである。この師団はドイツの実戦部隊に配備された(8両の指揮戦車を含めて)120両の35(t)軽戦車すべてを持っていたが、ポーランド戦で戦闘により7両、機械的故障など戦闘以外の理由で70両の35(t)を全損してしまった。37mm砲を持つ35(t)戦車を捨てるほどの余裕はドイツ軍になく、生産も継続され、この師団は第6装甲師団に改編されてからも、対ソ戦の初期まで主に35(t)戦車で戦い続けた。そしてよりにもよって、この師団が「街道上の怪物」KV-II戦車と対決することになったのだが、それは2年後のことである。

第21話へのヒストリカルノート


 ドイツ軍のMG34は、50発入る弾帯を複数つないで使えるようになっています。つないだ状態では弾薬箱に250発(5連)しか入りませんが、1連ごとに弾の前後を互い違いにすれば300発(6連)まで詰め込めます。


 MG34機関銃は当時の小銃と同じ弾を使います。15発入りの紙箱がまず20箱、たばこのカートンのような細長い紙箱に詰められます。紙箱は布製のストラップでぐるりと補強され、持ち紐にもなっています。この300発箱が5個きっちり詰まる1500発入りの木箱(900発タイプもある)で長距離輸送されるようになっています。この弾薬箱が師団交付所で小分けされます。



「第2波以降の歩兵師団は開戦当日の攻撃に参加しなかった」ことにはいくつか例外があります。例えば開戦直前にこっそり東プロイセンに労働者などを装って補充要員が送り込まれ、同地にあった3つの第1波歩兵師団から基幹要員を出して、8月26日の正式動員を待たずに編成作業を始めていた第61歩兵師団は、第2波師団ですが初日から攻撃に参加しました。第3波の第239歩兵師団も、編成場所が国境近くであったため開戦初日から戦闘に加わり、他の部隊がそろってくると後方警備任務に移って行きました。もちろん開戦が8月26日だったら、そうはいかなかったでしょうが。



 1980年代に出版されたドイツ語の書籍に、「フォン・ブリーセンは前大戦で左手を失っていたが、今回右手にも負傷した」と書いてあるものがあります。1940年のフランス戦で写真に写ったブリーセン中将は両手で地図を持っているので、これは当時のプロパガンダ記事をそのまま孫引きした本でしょう。実際は左前腕部の銃創だったようです。



 撃墜数の少ない飛行隊長が戦闘機隊でパイロットから軽侮され、本人もそのことに悩む話はあちこちにあったようです。まあその上の航空団司令となると年齢も階級も上なので、開戦時にすでに年長だった人はそうでもなかったでしょうが。



 9月1日の夕暮れ、退却を上申しても許されず孤立していたポーランド軍騎兵連隊が、第3装甲師団のいた場所の少し北で、第20自動車化歩兵師団と戦っていました。あちこちに森があり、こちらに気づいていないドイツ歩兵大隊を見つけた連隊長は、残った人数で抜剣突撃を敢行しました。ところが近くにドイツ装甲車がおり、20mm砲などで応射したため、連隊長は戦死して突撃は失敗しました。この事件が針小棒大に「ドイツ戦車にポーランド騎兵が突撃した」プロパガンダ記事のもとになったと言われています。また、少し後で出てくるブズラの戦いで、包囲を突破してワルシャワにたどりついた部隊には騎兵もいましたし、そうしたときは相手が何でも駆けてゆくしかありませんから、そうしたエピソードが混入したかもしれません。

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