第20話 ヒトラーのサイコロ
ヒトラーのチェコスロバキアへの強引な要求に、「今度こそは」と戦争の危機を憂慮したのはドイツの軍人たちも同様だった。たしかにドイツは再軍備に踏み切ったし、ライヒスヴェーアに比べれば画期的な数の師団を立ち上げて見せた。しかしそれらは1938年においては様々な装備不足があり、現役兵は良いとしても予備役軍人の厚みがないので、人口の割に動員可能兵力は少なかった。陸軍が西方防壁を20年計画で作っているのを知ったヒトラーは怒って、トート機関に西方防壁を任せてしまったのだが、軍人の常識から言えば、予備役軍人のプールが第1次大戦以前並みに充実するまで、英仏に戦争を吹っ掛けるなど論外のことだった。
「とうとうここの主になられたのですね。おめでとうございます、総長どの」
「まだ実感がわかないよ」
ハルダーは旧知のヨードルを、参謀総長室に迎えていた。
ベックがここを去った経緯を簡単に説明しておこう。当時は軍管区司令官を兼ねる軍団長のほか、平時から置かれている軍団があと3つあった。その上に立つ軍司令官は戦時にだけ置かれるものだったが、国防省の軍政機関と言う建前で、5つの集団司令部(Gruppenkommando)があった。
チェンバレンがチェコスロバキア問題の仲介を始める前の1938年8月、ブラウヒッチュはベックと示し合わせ、集団司令官と軍団長を集めて、英仏との戦争に反対する無記名のメモ(じつはベックがヒトラーに提出するため用意していたもの)を読み上げ、意見を求めた。ベックは全員の辞表を取りまとめる相談をすべきだとも言ったのだが、ブラウヒッチュはそこまではしなかった。何人かの将軍が賛成意見を述べ、残りは押し黙った。ところがその中に第4集団司令官のライヒェナウがいて、あっさりヒトラーにこれを注進してしまったのである。ベックは辞職しなければならないことになった。
ベックの後任はハルダーだった。マンシュタインが転出したときから、ハルダーは順当な後継候補第一位になっていた。
「共に総統をお支えできることは光栄であります」
「うん? ああ」
ハルダーは生返事になった。久しぶりに会ったヨードルはヒトラーに心惹かれているようだったし、そんなヨードルには言えないことをハルダーは抱えていた。様子のおかしいハルダーを猜疑しない程度の「普通さ」は、まだヨードルにあった。ハルダーはそれをうれしく感じた。陰謀は士官のまっとうな仕事ではない。
「じつは近々離任してウィーンに行きます。家内の故郷で、私にとっても祖先の地です」
「ああ、それはよかったな」
ハルダーは必要以上の喜色を言葉に込めてしまったので、今度こそヨードルはけげんな顔をした。旧知のヨードルが流れ弾に当たらないのはハルダーにとって良いニュースだった。
「ウィーンは、そ、そう、よい季節じゃないか」
「ようやく士官として、普通の仕事ができます」
「うらやましいよ」
ハルダーは心から言った。
ベックが離任するのを待っていたように、ヨードルはOKWを離れ、オーストリア軍の砲兵部隊をドイツ軍の一部として再編する仕事に就いた。それが終わったら新設される第4山岳師団か第5山岳師団の師団長にしてもらう予定だった。国土防衛課長の後任にはヴァーリモント大佐が就いた。
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ベックとハルダーには地縁もなく、特にベックが引き立てた関係でもなかったが、ハルダーが9月のクーデター計画に消極的な賛同を示すほどには、ふたりの関係は悪くなかった。すでに述べたようにミュンヘン会談に先立ち、チェコスロバキア侵攻計画が立てられ、10月1日を開戦予定日として部隊配置が進んでいた。ベックはハルダーや、勝ち目のない戦争を危惧する将軍たちと共謀して、ヒトラーを逮捕ないし射殺する計画を立てた。官邸への突入部隊はOKW諜報部の士官が指揮することになっていた。
だが英仏の妥協によって、戦争は回避されることになった。となるとヒトラーを戦争の元凶として糾弾する名分もなくなり、クーデター計画はとん挫してしまったのである。
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グデーリアンがかつて仕えていたルッツ大将の肩書は在任中に何度も変わったが、代表的なものを挙げれば自動車部隊総監(Inspekteur der Kraftfahrtruppen)だった。そして1938年11月、グデーリアン大将が任じられたのは、快速兵総監(Chef der schnellen Truppen )であった。問題は「快速兵」で、これには騎兵が含まれてしまうのである。このときできた、ドイツ軍にとって新しい名称だった。
グデーリアンの回想録『電撃戦』には、このポストを引き受けたものの、軍官僚組織が言うことを聞かないので改革が全然進まなかったことが強調されている。しかしグデーリアンは、ベック時代に他兵科に割り当てられたリソースを戦車兵のためにごっそり取り返した。4つの軽機械化師団は(大戦を待たず)装甲師団への転換が決まったし、1939年までに48個になる戦車大隊のうち36個は軍団直轄の装甲旅団にまとめられ、もっぱら歩兵師団の支援にあてられるはずだったところ、まず軽機械化師団の装甲師団化、次いで装甲師団増設に使われることになった。
グデーリアンは自分の本の中で、装甲兵種投入の三条件を「適当な地形」「奇襲」「集結使用」とまとめた。このコンセプトはフラーが唱えた戦車戦のイメージに似ている。機動力を持つ戦車部隊が敵味方の両方にいるとなれば、有利な条件で決戦の時期をうかがう、海軍のような戦いになるはずである。フラーは海軍の戦い方からの類推を進めるあまり、「移動しながら射撃すべきだ」という戦車向きでないドクトリンを主張し、イギリス戦車部隊に十字架を背負わせる結果になった。
だがフラーの「Plan 1919」と違って、グデーリアンの言う奇襲はドイツ陸軍にとっては「攻撃の原則」のひとつである。奇襲要素がなければどんな攻撃も成功し難い。そして「集結使用」していれば、使える車両と残った物資を集めて、奇襲成功を次の奇襲にすぐつなげることができる。
ドイツ軍がプロイセン王国から受け継いだ「委任戦術」のコンセプトの下では、指揮官は自分の部下である指揮官に(もともとは士官までしか考えていなかったようだが、第1次大戦から下士官にもある程度認めざるを得なくなった)自分の「意図」を理解させることを求められる。その「意図」をかなえるための方法は、なるべく命令には細かく書かず、現場の工夫を期待する。だから新たな敵が見つかったら、上官の「意図」によっては勝手に攻めかかって良いと言うことになる。これがフランスのような軍隊だと、上級指揮官が報告を受けて判断するまで、勝手なことはしてはいけないし、しないことが期待される。だから整然とバタイ・コンデュイを遂行して行けるわけである。
実際には戦線を突破した部隊の向かう先はまるっきり「何でもアリ」ではなく、おおよそパターンがある。典型的にはそれは橋であったり、主要道路の交差点であったりする。時には敵の鉄道に達して、その路線を使えなくすることも価値がある。強い抵抗が予想される場所へ軽快な先鋒が突っ込んでいくことは、ドイツ軍でも期待されない。
だからグデーリアンが主張するように戦車を中心とする快速部隊が大集団を作ったとして、それが突破を重ねて何ができるかは「時と場合による」のであり、グデーリアンはそこを決めつけて論じなかったし、「こんな不明確なコンセプトで仕事ができるか」とはドイツ士官は言わなかった。
グデーリアンのイメージする戦車機動戦は、「ドイツ軍2.0」であり、今までの戦争でやって来たことを戦車混じりでやるだけ……という面があった。だから軍団長になって初めて戦車部隊を指揮したホートや、装甲師団長になる前の前線指揮と言うと歩兵大隊長だったロンメルが、戦車を使って戦果を挙げていくこともできたのだった。
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「まったく平和というのは素晴らしい」
殺風景な金属のマグカップでコーヒーを飲みながら、テスケはつぶやいた。地元の学校を司令部にしたので、3番目に偉いテスケは校長室や会議室をもらえず、理科準備室の低い机で執務していた。
ラディボー(現ポーランド領ラチブシュ)は当時はドイツの南東端であり、チェコスロバキアとの国境に近かった。テスケ大尉は「ベルリン国土防衛司令部」というあいまいな名称の組織に属し、その組織ごとここに来ていた。これは予備役と呼ぶには年を取りすぎた、40才プラスマイナス5才の男性に時々軍事教練をやらせ、有事に呼集して2線級の歩兵師団を作るという司令部で、戦時動員が完結すれば第1郷土防衛師団と呼ばれるはずのものだった。テスケはその補給主任参謀をおおせつかった。
また外から下士官の怒号が聞こえてきた。応召したアラフォーの男たちが、とりあえず旧オーストリア共和国軍の軍服を着せられ、銃がないので射撃訓練もできず、兵士用スコップもないので陣地構築訓練もできず、とりあえず体力づくりをさせられていた。それらが揃って、さあチェコスロバキアに攻め込めと言われても、手伝いすらできそうになかった。
外の怒鳴り声が2人分、さらに3人分になった。士官も下士官も多くが応召組であり、訓練の仕方など忘れているか、最初から知らなかった。そして彼ら下級指揮官を訓練する責任は、師団長と参謀3人で回す師団司令部では、テスケ補給主任参謀にあった。テスケは腰を上げて、何が起きているのか見に行くことにした。
いずれにせよ、彼らが戦場で死なずに済むことになったのは喜ばしかった。
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国が圧迫されれば指導者の責任問題になり、そんな弱り目には配ってなだめる政治的な飴もないから、小さくなったチェコスロバキアが政情不安の度合いを増したのはむしろ当然であった。ヒトラーはスロバキア独立運動の指導者たちにドイツへの保護要求を出させ、さらにその東にあるカルパチア・ルテニアはハンガリーの一部だった時期が長かったから、1939年3月になるとヒトラーと呼吸を合わせたハンガリーが武力占領してしまった。そしてヒトラーは支配地域がチェコだけになった政府を脅して、ドイツへの併合を呑ませたのだった。
これは「ドイツ人の民族自決」という大義名分を捨てた行動だった。他民族の住む土地を支配下に入れ、植民地化したわけである。もちろんその政体と住民は、ヒトラーの意に沿うよう選ばれ、意に沿わなければ追い立てられた。チェコはとくに有力な兵器産業を持っていて、ZB26機関銃とシュコダ社の戦車群はドイツの助けになった。
前年のミュンヘン会談ではチェンバレンにねぎらいの電報を打ったアメリカのルーズベルト大統領も、英仏と共にいよいよ武力衝突のことを真剣に考えねばならなくなった。だがチェコスロバキアとオーストリアが地図から消えたことで、フランスからの陸路が閉ざされ、誰の目にもポーランドは窮地にあった。
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ヨードルの後任はヴァーリモント大佐だった。人事局長は相変わらずボーデヴィン・カイテルだから、カイテル幕僚総監が誰かから押し付けられたわけではない。第1次大戦では若手砲兵士官として目立った勲功はなかったが、スペイン内乱では中佐としてフランコへの顧問団に加わった。アメリカとイギリスで数か月研修した経験もある国際派だった。だがヒトラー皇帝の侍臣としては、そうした環境で育った自意識は邪魔だった。
ヴァーリモントはせっかくこんなポストに就いたからには、世界戦略を論じ、大規模な図上演習をやって検討したかった。だがカイテルは、そうしたことはヒトラーに意見をしているように聞こえてしまい、ヒトラーの反発を招くと憂慮した。結局カイテルは大戦が迫ると、せっかく希望の山岳部隊で一国一城の主になるはずだったヨードルを呼び戻し、長らく空席だった作戦部長の任につけることになるのだった。
先の話になるが、ヴァーリモントは戦局を悲観しているのを隠しきれなくなって1944年秋に罷免され、ヨードルとカイテルは戦後に絞首刑となった。ヒトラーの側近としてうまく立ち回れなかったことは、個人的には必ずしも不幸なことではなかった。だがヒトラーの宮廷においてヒトラーに魅了されずに過ごすことは、重要な決定から締め出されることでもあった。
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「同志将軍、第1独立赤旗軍の司令官をしておりますポポフです」
「ジューコフ。ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ。ご協力に感謝します。部隊を無事にお返しできなかったことは遺憾に思っております」
今日の祝勝会は、チタ(ザバイカル軍管区司令部所在地)で何度目のものかわからないが、時の人であるジューコフと知己を得たい人々はまだまだ多かった。ポポフはそそくさと環を抜けた。覚えてもらえそうにないから、自分の父称は告げなかった。
日本でノモンハン事件と呼ばれている、モンゴルと関東軍の軍事衝突で、最も近い上級司令部であるザバイカル軍管区は対応が鈍かった。ジューコフは特命を受けて現地に入り、現地部隊や増援部隊をまとめ上げて、いったん日本軍に渡した土地の奪還作戦をやった。攻撃部隊の損害がずっと過少に発表されてきたことが最近分かっているが、スターリンと意を通じた迅速な増援投入は日本軍を圧倒した。
「お飲み物を取ってきましょうか」
一緒に呼ばれていた参謀長が気を遣って声をかけてくれた。ポポフはあいまいに笑って断った。帝政ロシアで私立学校の教員になったころ革命があった。ロシアの私立学校と言えば有産階級の子弟しかいない。そういう文弱な世界で生きていくはずが、その世界が壊れた。思い切って労農赤軍(ソヴィエト軍)に志願して見たら、訓練部隊の指揮官や軍学校の教員として仕事もあり、評価もされ、参謀士官として出世するようになった。
初めて軍参謀長として赴任したウスリーツクの第1赤旗軍に、大粛清時代最後の大波がやってきた。大粛清を指導したエジョフ内務人民委員は国政を混乱させてスターリンの不興を買い、若いベリヤが取って代わりつつあった。そうなるとベリヤの先輩内務官僚たちは、自分の首筋がうすら寒くなってくる。国境近くに任地があれば、逃げるという選択もある。
極東でNKVD(警察の上位機関)の責任者をしていたリュシコフは、その選択をした。持ち出せる限りの書類を持って、日本に身を投じたのである。ちょうど1938年7月に日ソが軍事衝突する張鼓峰事件があって、越境攻撃をためらって日本軍を有利にした不始末もあり、極東でリュシコフの一味だと疑われた軍人たちが逮捕された。ポポフが仕えたポドラス司令官もそのひとりだったので、ポポフが司令官に繰り上がってしまったのである。実戦部隊を指揮した経験は、ほとんどなかった。
「君もジューコフがまぶしいのか、マルキアン・ミハイロヴィッチ」
振り向いたポポフは直立不動の姿勢を取った。楽に楽に……とレメゾフは笑顔と手振りでそれを抑えた。前任者がジューコフの報告でクビになり、ザバイカル軍管区に新たにやってきた司令官だった。上司と言うわけではない。第1赤旗軍はウラジオストックの太平洋艦隊に属し、ユマシェフ艦隊司令官が上司だった。
「たいした男だよ。だが真似をするとけがをする。前線でも寝ておらんかったろうが、ここに帰ってきてからもほとんど寝ておらん」
どこかぎらぎらとした笑顔を振りまきながら、ジューコフは数十秒おきに乾杯していた。そして乾杯相手の分も含めて飲み物の盆を持ったボーイがさっきから常駐し、ときどき新しい盆の補充を受けていた。
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ちょっと意地悪な言い方をすると、ドイツには「ポーランドと戦うための動員計画」はなかった。あるのは「戦争になったときの動員計画」であり、毎年毎年戦争になったら予備役兵や、短期訓練しか受けたことのない国民の一部を動員する計画を立てていた。集めすぎると軍需生産に障るから、何とかこの規模で軍事危機を抑え込もうと言う規模の動員をかけるのだが、昔からそういう思惑通りにいかない戦争の方が多いのは、ドイツに限ったことではない。
「1939年3月1日版の動員計画」が実際にドイツが実施した、最後に改訂された動員計画だったが、陸軍参謀本部5課(鉄道課)は毎年改訂される動員計画にいちいち対応しないと腹をくくり、1937年版動員計画を前提として基本計画を保持し、随時改訂することにしていた。これは各路線の最大輸送能力や、現行の時刻表データを集積したもので、作戦課から漏れてくる軍事的テーマとシュタムプランを突き合わせて、もっと地域と想定状況を限定した具体的な計画である輸送計画課題が作られた。
すでに触れたように、「チェコスロバキアの残り」の占領は、1939年3月に行われた。5課は1月16日付で指示を出し、大急ぎで輸送計画課題5号と8号を最新の状況に対応させ、仕上げるよう指示した。8号はチェコスロバキアと戦争になったとき、そちらに部隊を進めつつ、ポーランド国境を固めるための具体的な輸送計画であり、5号は同様に西部国境に部隊を送り込んで、フランスに対して防御する計画だった。そして6月15日、5課は輸送計画課題8号を破棄して、10号を組むように命じた。いわゆる「白の場合」と呼ばれる作戦準備命令が発せられたのがこの日であり、もっと非公式な指示によって、5月には作戦準備はすでに始まっていた。
6月26日から最初の4個師団。7月15日から次の5個師団。8月3日から12日までに13個師団。自動車化された部隊は300kmまでの移動なら自分で走る原則で、キャタピラ車両だけが鉄道輸送してもらうこともあったが、ライヒスバーン(ドイツ国有鉄道)は能力の限界を試され、ふだんのダイヤとは全く違った特別列車が増えて、地域住民には「何かが起こっていること」を隠しようがなかった。ポーランド軍はこの動きをおおむね正しくつかんでいた。
しかもこれらすべては、ポーランド政府が想定以上の弱腰を示した場合には何食わぬ顔で「演習」「国境陣地造成の手伝い」「式典参加」といった言い訳を総動員してごまかし、元の位置に戻ることが前提だった。
8月15日、残りの師団群と軍団司令部が動き出した。もう後戻りはなかった。第1波39個歩兵師団のうち12個だけが西部国境を固め、残りの第1波歩兵師団と、装甲師団・軽機械化師団のすべてがポーランド国境に投じられた。すでにこの時点で、開戦予定日は8月25日と置かれていた。9月2日から始まる、そして隠れ蓑になる予定の党大会が中止され、そのためにキープされていた列車も軍需輸送に使われた。
第20話へのヒストリカルノート
1938年8月時点で、第16軍団長はグデーリアンです。8月にベックと話したことは『電撃戦』のどこにも書いてありませんし、出席したグデーリアンの反応について触れたものも見つかりません。11月にはグデーリアンはヒトラーのたっての指名で、快速兵総監に任じられました。おそらく8月の会合には呼ばれなかったのでしょう。
ラントヴェーア(郷土防衛部隊)として応召した兵たちを中心に編成された部隊は、大戦が始まるとランデスシュッツェン部隊と呼ばれました。1940年ごろに弾薬工場で働く捕虜たちを監視するために配置されたランデスシュッツェンが、オーストリア軍の軍服(帝国軍のデッドストックか、戦間期に調達された共和国軍のものかはわかりません)を着ている写真が残っています。訓練中の部隊なら同じようなことをしていてもおかしくないと思い、このようにしてみました。もちろんテスケの回想にはそんなことは書いてありません。創作です。
ヴァーリモントの下で参謀をしていたロスバーク(第1話に登場したロスバーク大将の息子)が戦後に書いた回想録でも、ヨードルからヴァーリモントへの指示は非常識に短く、情報が少なかったとされています。ヨードルにしてみれば「お前がするはずの我慢を俺がする羽目になってるんだぞこの野郎」ということだったのでしょうか。
カイテルの回想録によると、呼び戻したヨードルは最新事情についてのレクチャーを受け、そのあと大戦直前にヒトラーに会いました。これが初対面……のように読めなくもありませんし、たぶんこの箇所を根拠に初対面のように書いてある本もあるのですが、国土防衛課長として、また作戦部長代理として状況説明をする機会は1938年までに「あった」と考える方が自然です。ただヨードルの下でヴァーリモントのヒトラー個人への接触が少なかったように、「名前までは覚えていない相手」くらいではあったかもしれません。
マルキアン・ポポフはこのあと称えられたりけなされたり、流転の運命をたどることになります。大粛清のせいで出世しすぎてしまった士官たちの代表としてポポフを描くことにしました。もちろん状況がポポフを鍛え、「面構えが違う」野戦司令官に変えて行ったのも確かなのですが。ポポフというソヴィエト軍人は多いので、ググるときはマルキアンかどうかお確かめを。
さて、大戦前夜を迎えて一言注釈をつけておきます。「ドイツの財政は破綻の危機に瀕していて、戦争で略奪を続けなければ破滅しかなかった」という見方についてです。たしかにシャハトが主導するメフォ手形(第17話にちらっと出てきます)は通貨を膨張させ、もともと受け取ってくれる国は東欧など限られていますからそのうちカネの膨張にモノの生産が追い付かず、インフレが起きるはずでした。1935年に比べてすら1939年のドイツ軍事費は3倍を超え、戦争が起きないまま放置しているとカネの膨張とモノ(とくにメフォ手形を受け取ってくれない国からの輸入資源)の不足に拍車がかかったでしょう。おそらく最初は公定価格の設定と闇市場の繁栄、その取り締まりと言うお決まりのコースを進んだでしょう。
「遠からず」ドイツはそのように破たんしたでしょうが、それが1939年に来るのか? 1940年は年越しできないのか? とまで限定すると、もう今からでは断言できる人はいないのではないでしょうか。ドイツが貪欲な略奪を繰り返したことは、破たんが特定の時期に起きる証拠にも、それをヒトラーまたは有力指導者が予期していた証拠にもなりません。国民の生存が脅かされるレベルで経済的苦境に立ち「もう駄目だ」と思われた政権が何年も、時に何十年も存続することは現代世界にも時々ありますよね。




