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第19話 チェコ危機とミュンヘン会議


 オーストリア進駐は、イタリアの不介入を取り付けた電話会談がクライマックスと言ってもよかった。グデーリアンが著書『電撃戦』で回想したように、道中の協力的なガソリンスタンドから燃料を徴発するなど、補給の不備を四苦八苦して現場で対処する羽目になった程度で済んだ。大戦勃発時の装甲師団は、標準的には300トン分の段列を配属されていた。全部3トントラックだったら100両と言うことで、手に入るトラックの種類によって数を調整するのだが、これは戦時になってから大急ぎで編成され、師団などに割り振られる。だからオーストリア進駐に参加した第2装甲師団はこれを欠いていたというわけである。


 ヒトラーに随行したカイテルがOKWに戻ってくると、事件が起きていた。


--------


 ボーデヴィン・カイテル少将は自動車を降りて、もともと国防省だった建物の正面階段を上った。ヴィルヘルム・カイテル幕僚総監のOKWは国防省のすべてを引き継ぎ、そのオフィスもそこにあったのである。中は人が激しく行き交っていたが、外との行き来は険しい顔の歩哨が呪術で抑え込んでいるように、ほとんどなかった。


「憲兵も呼んでいないのか」


 ボーデヴィンはひとりごとを言うと、歩哨に官姓名を名乗って、ヴィルヘルムへの取り次ぎを頼んだ。歩哨の後ろで聞いていた士官がすぐに反応した。


「幕僚総監がお待ちです。こちらへ」


 連れて行かれた先は、いつもの執務室だった。重大事件過ぎて、連絡のつく場所を離れられないのだろうとボーデヴィンは思った。招じ入れられると、取り次いだ士官はすぐドアの外に消えた。ヴィルヘルムは手振りで着席を勧めた。


「フィーバーン中将は拘束した。全部OKWの手の者でやらせた」


「背後関係は……」


 ヴィルヘルムは首を横に振った。


「あってもなくても、総統に対して、ことを公にはしない」


 ボーデヴィンはじっと兄の顔を見た。すこし間隔を置いて、ヴィルヘルムは一気に言った。


「ブラウヒッチュと医師には俺から話す。とりあえず病院だ。精神科がいい」


「細かいことは尋ねないようにさせます」


 ヴィルヘルムはうなずいた。穏便に病気休養をさせるのだ。オーストリア進駐が世界大戦を引き起こすと決めつけて、フィーバーン作戦部長は拳銃を構えて部屋にこもってしまったのである。何事もなく進駐が済んだことを知って、フィーバーンは投降するしかなかった。だが、彼のやったことは、ヒトラーに対する陸軍有力士官の反乱だから、なんとしてももみ消すしかなかった。


「後任は」


「置かない。ヨードル課長に、現職のまま代行させればいいだろう」


 この事件は、後年まで続くOKWと陸軍の絶え間ない争いの原型だった。国会と政府から全権を与えられたヒトラーをErsatzkaiser(戦時代用皇帝)と呼ぶ人がいるが、そのような存在が陸軍の言うことを聞く姿勢を示さないとしたら軍人が異を唱える方法はない。穏便に全士官が口をそろえて反対意見を述べても、それは皇帝に「抗命」と決めつけられれば反乱同然だし、ヒトラーはそのような皇帝なのである。


 だからカイテルとしては、そのような陸軍の空気をヒトラーから遮断しなければ、国の姿を保てないのだった。例えばヒトラーはにこやかに将軍たちを自宅に帰しておいて、親衛隊に襲わせるかもしれなかった。全権委任法とはそれを可能にする法律であり、1934年にいちどそのように使われていた。それは国際的緊張下では、ドイツ崩壊の先触れでしかなかった。


 そしてカイテルたちがドイツの姿を保つことに成功したことが、そのままヨーロッパにとっての不幸となったのである。


--------


 1938年2月、ヒトラーが三軍統合指揮を誰にも任せない決定をしたころ、イギリスでも政変があった。ぴちぴちの若手大臣として人気があったイーデン外務大臣が辞任したのである。ヒトラー対策でムッソリーニと結ぼうとしていたチェンバレンが、エチオピア侵攻以来の数々の違約を不問にすることに反対してのことであった。


 自分への反対者を見下すように扱うチェンバレンに対して野党・労働党の感情は最悪だったし、金本位制問題からあと干されたままのチャーチルなど、党内の連携先もあったはずだが、イーデンを中心とした反チェンバレンの政治的運動は形にならなかった。妥協によって当面の戦争を避けるチェンバレンの政策は、一般論としては支持されていたということであった。


 自分たちが強制した条約の無視であったのに、英仏はドイツ・オーストリア合邦について、何の軍事行動もとらず、受け入れてしまった。ヒトラーは次の準備を始めた。


--------


 ルーマニアとハンガリーがトランシルバニアを巡って長いこと争ったのは、ルーマニア人の中にハンガリー人の集住地域が点在する構造になっていて、どう国境線を引いても民族別の国家にならないからであった。チェコも同様で、ドイツ国境に近いズデーテン地方にはドイツ語を話す住民が多く住んでいたが、ドイツ系とチェコ系のコミュニティがそれぞれ散在していて、国境線を引き直せばぴったりドイツ系住民だけドイツが受け取れるかと言うと、そうでもなかった。


 そこへ強引に、ヒトラーは(チェコ系住民の犠牲なしには実現しない)ドイツ系住民の自決権を声高に言い立てたのであった。すでにヒトラーは成功者であり、英雄だったから、チェコ国内で騒乱を起こすドイツ系の協力者はすぐ見つかった。4月にカイテルはまた呼び出されて、チェコスロバキアに攻め入る計画の策定を命じられた。


 5月下旬、ドイツ軍の国境への集結が噂され、英仏の外交官たちはなんとか口先で事態の進行を止めようと、約束として残らない程度の参戦可能性をちらつかせた。ところがじつは、ヒトラーはまだ攻撃準備完了の目標期日を定めておらず、部隊の移動はブラフ交じりであったとしても攻撃位置につくようなものではなく、英仏も矛を収めた。ヒトラーはむしろ「ドイツが圧力に屈して遠慮した」印象を世界にまいたことを気にして、10月1日までに攻撃準備を終えるよう指示を追加した。英仏はと言えば、ドイツに妥協するようチェコスロバキアへの説得を強めた。


--------


「残念です、子爵」


「すまんな。予定があっただろう、ウィル」


 スウィントン子爵はにこやかに、大臣室の椅子をフリーマンにすすめた。1938年5月13日の午後だった。


「私も眠い。手短に済ませよう」


 5月12日の下院審議は23時過ぎまで続いた。そのあとのチェンバレンとの協議もあったに違いなかった。


 この日の審議は、形式的にはつまらないものだった。イギリスは日本同様に4月から会計年度が始まるが、春のうちに予算案の半分弱まで執行することを認める決議をしておいて、その年度途中で予算審議をするのが常だった。その早い段階で、航空省予算を審議する委員会から「149万ポンドの航空省予算から100ポンドを削る」動議が出され、下院本会議に回された。もちろんこれは、航空省の問題について本会議で問題提起したいという趣旨の動議であった。


 問題になったのは、空軍拡張計画がいろいろと目標未達、つまり予算枠をつけたのに現物がそろわない状態であることだった。最初に出来上がった2基の試作エンジンをハリケーンとスピットファイアに1基ずつ振って試作1号機を飛ばし、1936年に量産契約を結んだのはいいが、マーリンエンジンの量産が1937年秋にずれ込むなど準備が遅れた。1937年12月にやっとハリケーンの量産機が空軍に届き、スピットファイアは一向に姿を現さなかった。実は量産1号機がこの数日後に飛んだのだが、量産2号機は7月完成というペースだったからあまり慰めにならない。ちなみに310機の納期だった1939年3月31日には、量産131号機がやっと納入された。


 5月12日の下院議事録には「America」が18回登場する。イギリスが近代的な戦闘機を生産できないなら、早くアメリカから輸入する話をつけろ……などと航空省を責め立てる審議が16時から23時まで続いたのであった。


 子爵であるスウィントンは下院に出席できないので、無任所大臣のウィンタートン伯爵が航空関係の質疑では航空省を代表することになっていた。ウィンタートンはアイルランド貴族だから、貴族院に議席はなくて下院で答弁できたのである。ウィンタートンは懸命に現在の計画の正しさと、戦闘機配備が計画通りに間に合うことを論じたが、チャーチルを含む議員たちから「ウソだっ」といった非難の雨を浴びた。チェンバレンは、「航空大臣はやはり自分で下院答弁ができないといけないから」という名目で、スウィントンを交代させることにした。ウェア航空委員も同時に退任することになった。


「ウィル、君は辞めるな」


 スウィントンは静かに言った。


「こんなことになったのは、我が空軍には最新鋭戦闘機が必要だからだ。数だけそろっている時代遅れの戦闘機ではない。我々のやったことは正しい。だから君が守るのだ」


 フリーマンは何も言わず、スウィントンを見つめた。呼吸を整えているのが、肩の上下から見て取れた。


「ある意味で、これは敵の謀略だ。奴らが我が国の議員や軍人を奴らの工場だの、演習だのに呼んで、いま奴らが優勢なのだと宣伝した。それで皆が気付いて、私たちは辞める。これは奴らの成功だ。だがこれでまた予算が増える。これは奴らの失敗だ」


 スウィントンは、フリーマンが落ち着くようにゆっくりと言った。そして、付け加えた。


「ウッド(後任の航空大臣)の了承は取った。補給・組織主任官の権限を一部、研究・開発主任官に移して、研究・生産主任官とする。君がそれをやるのだ」


「子爵、しかし」


「議会が本気になったのは、良いことだ。政府と産業は、新しい契約を結ばねばならん。それは君もわかるだろう」


 スウィントンたちがつるし上げを食ったのは、ヒトラーのオーストリア進駐を見てイギリスの危機感が跳ね上がったからだった。今までは軍備拡張と言っても、せいぜい納入航空機の代金を工程の進んだところまで出来高払いしてやったり、原材料購入費の分だけ先払いしてやったりといった優遇策にとどまり、設備投資はメーカーの自前だった。政府が設備投資にも資金を出し、戦時生産能力の拡張に本腰を入れる機運が高まっていたが、そうなると「産業の自主性を尊重する」方針でやってきたスウィントンやウェアは交代すべきなのかもしれなかった。


「ふたつから選べ。イエス・オア・アグリード(同意します)」


 スウィントンも全く笑わず、見つめ返していた。


「種はまかれている。後は待って、刈るだけだ。待てない連中にも、もうオプションなどないのだ」


 フリーマンはようやく、うなずきで応じた。



--------


 チェコスロバキア侵攻計画を練る陸軍参謀本部には、年齢がひとつしか違わないふたりの士官がいた。


 1902年生まれのヘルマン・テスケ大尉は、大戦が終わってから、陸軍が10万人に縮む前のフライコーア(志願者部隊)に参加した。士官候補生として採用され、3年半かかって少尉になった。厳しく士官数を制限されたライヒスヴェーアでは、当時は普通のことだった。1934年にやっと大尉になった。1936年になって陸軍大学校に進んだのは、この世代ゆえの遅さだった。その昔、プロイセン王国に陸軍大学校ができたときは少尉でも受験できたものが、出世街道と見なされて受験者が殺到し、軍務経験の要件が厳しくなって事実上中尉でないと受けられなくなったのである。第2次大戦で将軍だった世代は、陸軍大学校を出る頃に大尉になった人が多い。もうすぐ大学校を卒業し、初任地を与えられるはずだった。


 1901年生まれのヘニング・フォン・トレスコウ大尉は、中等学校から1917年に戦時ゆえの繰り上げ卒業を認められ、士官候補生になった。少尉として大戦を終え、第1話と第7話で語られたように、しばらく民間人になったあと軍に戻った。1934年、テスケと同じ年にやっと大尉になったのは、軍歴が途中で抜けているせいだったろう。だがトレスコウはすぐ陸軍大学校に進み、1936年には卒業してしまった。そしてすぐ参謀本部第1課(作戦課)に配属されたのは優秀さを認められてのことだろう。


「ベック将軍のお考えも極端だとは思うが……」


 書類ケースを運んでいたテスケは、並んでいる机のひとつからそんな言葉が聞こえて、ついぎょっとして足を止めてしまった。無造作な参謀総長批判が参謀本部の中で飛び交うと言うのは、駆け出し参謀には刺激が強い。


 言葉の主と目が合った瞬間しまったと思ったが、それに続いたのは周囲の爆笑だった。見知らぬ壮年の参謀士官がテスケの肩を叩いた。


「すまんな。一部の若手参謀がここを士官集会所と勘違いしておるのだ。しかも飲まずに酔っておる。ヘニング、一言ごあいさつしろ」


 発言の主が笑って右手を差し出してきた。


「ヘニング・フォン・トレスコウだ。先ほどの失言は忘れてくれるか」


「ヘルマン・テスケであります。自分は何も聞いておりません、大尉」


 聞いていないテスケも、見てはいた。机の上に広げられていたのはドイツ西部国境の地図だった。ベックが見積もるフランス軍の戦力は大きすぎる……という話だったのだろう。


 数日後、テスケはベルリンの第1郷土防衛師団(のちの第218歩兵師団)に補給主任参謀として配属された。短期訓練を受けただけの徴兵歴がない民間人や、前大戦では士官だった民間人を集めて、チェコスロバキアとの国境に連れて行き、常設師団が侵攻している間、国境線を守れるようにするのである。うまくいかなかったし、大学校で習っていないことを山ほど処理する必要があったが、少なくともフランス国境のことは心配しないで済んだ。


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 国会がごく形式的な存在になってしまったドイツでは、9月のNSDAP党大会が政治的アピールの節目だった。そこではチェコスロバキアのドイツ系住民の権利を高らかに主張するヒトラーの演説があり、ドイツの支援を受けたチェコスロバキア住民の志願者が9月中旬にはサボタージュ活動に入った。オーストリア併合によってチェコスロバキアはドイツに半分囲まれたかたちになっており、フランスの援助で構築した国境要塞のない部分を含めて、北からも南からも広範な同時侵入が可能だった。


 大雑把に言って西がチェコ、東がスロバキアである。工業集積はもっぱらチェコにあった。だからドイツの作戦計画は、「チェコスロバキア軍を東に脱出させず、落花生の殻をちぎるように南北から侵入して、英仏が何もできないうちに迅速に西側で包囲する」というものになった。東のスロバキアには独立運動もあったし、利用できるかもしれなかった。


 なにより、この時期の宿命として、ハンガリーやポーランドとも多かれ少なかれ領土紛争があったから、英仏がチェコスロバキアを守る支援部隊を出そうにもルートがなかった。


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 少し時間をさかのぼると、隣国ドイツですっかり共産党が弾圧されてしまったのを横目に、フランス共産党は中道左派の政権に閣外協力をすることにして、1936年に社会党などを集めたブルム内閣ができた。だがうまく行かずに1年ほどで退陣し、結局内閣を作る顔ぶれはそれほど変わらないものの、政党間の不和が表面化して短期間での首相交代が繰り返された。1938年の夏には、首相はダラディエだった。1932年にジュネーブやローザンヌで苦心したエリオと同じ政党である。


 すでにこのころ、英仏間では電話会談が可能で、盛んに行われていた。


「何を交渉材料に使われるつもりです」


「チェコの国境地帯……口にしたくもないことだが」


 ダラディエは問い、チェンバレンは答えた。


「用意のできたヒトラーが、用意のできていない我々から、容赦なく奪っていきますな」


「奴らも用意はできていない。できているふりをしているだけだ。だがそれを国民に示す方法がない」


「防げますかな。彼らの爆撃機が」


 イギリスには距離の利があり、フランスにはない。ドイツの都市爆撃を食らうのはまずフランスであり、イギリスではない。チェンバレンは余計な同情も言い訳も口にしなかった。


「我が国は閣下の試みを支持します」といった答えをチェンバレンは期待したが、ダラディエは沈黙したままだった。「我が国を見捨てるのですか」と激高しないだけ上々とも言えた。チェンバレンはそれを冷静に受け止め、そして言った。


「それでは、閣下の貴重なお時間をこれ以上頂くわけには……」


 ダラディエは、会話を引き延ばす口実を思いつくことができなかった。


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 フラーが唱えた機動戦車戦は、後を継いだホバートのもとで変質を見せていた。ホバートは航空兵器の発達を見て、戦車部隊の機動は早々に航空機に抑え込まれ、こう着的なものになるのではないか……と思い始めたのである。そこへ、フラー型機動戦車戦の要である高速中戦車の開発が停滞した。戦車兵たちは速度の要求を犠牲にして、歩兵と共に戦う戦車の開発に踏み切った。これが歩兵戦車と呼ばれるようになった。


 いっぽう、騎兵系の機械化部隊(第13話参照)は機械化総監部(royal armoured corps、RAC)を作っていたが、こちらは機動性の代わりに武装や防御力を犠牲にして、巡航戦車の開発に乗り出した。豆戦車構想の推進者であったマーテルが開発をリードしていた。こうしてイギリス戦車は、2種類の使い手による2系統の戦車開発が行われ、戦車全体としての運用方針が統一できなくなってしまった。そして不幸なことにどちらの総監部も、歩兵との共同作戦より戦車が単独で動くことを中心に考えていた。歩兵が小型の対戦車兵器を手に入れた世界では、その代価は非常に高くついたのだが、それを予想しろと言う方が無理かもしれない。


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 チェンバレン老首相が直接ドイツへ飛んで、戦争を回避する最後の努力をする。そのニュースはイギリスでは肯定的に受け止められたが、ヒトラーの要求が知れ渡るにつれて、妥協を不可とする意見も聞こえてくるようになっていた。


 チェンバレンの宥和政策は後年批判され、「ダメ宰相」のイメージが画一化してしまったのだが、1938年のチェンバレンは強力な政治家であり、どんな決定をしても反対者と賛成者の両方がいた。


 伝統的なドイツの友好国ハンガリーに加え、ポーランドの領土要求すらチェコスロバキアに対して積み上げ、掛け金を()ね上げるだけ跳ね上げたヒトラーとの交渉を、イギリス国民ははらはらと見守った。そして9月28日、イギリス大使からの懇請を受けたムッソリーニが仲介に乗り出し、ドイツの友好国として英仏と4か国会談に臨む枠組みをヒトラーに呑ませた。


 9月28日のイギリス下院議事録によると、チェンバレン首相は14時54分に演説を始めた。じつは7月30日から9月27日まで、夏季休会で下院本会議は全く開かれていなかったから、まずチェンバレンはその間の経緯説明から入った。


 陰気な説明は延々と続いた。演説の終わりが記録されたのは16時22分だったが、その直前になってチェンバレンは「これで終わりではありません。まだ下院で申し上げることがあります」とヒトラーから招待を受けたことを切り出した。すでにヒトラーの最後通牒期限はムッソリーニの仲介で24時間延ばされていたが、会談への招待が届いたのは演説が始まった後……という薄氷のタイミングだった。


 下院議事録は、ある議員が「Thank God for the Prime Minister!」と叫んだことを記録しているだけである。実際には議場は騒然となり、歓呼に包まれた。だがいつの世も、歓呼と言うものは、そこで冷めた沈黙を守った人数を数えられなくしてしまうのである。新聞報道はこのニュースを喜ばしいものとしてとらえ、これもまたヒトラーへの譲歩を支持しないイギリス国民の声を、後世の印象から消し去ってしまった。もっとも下院でもチェンバレンの演説の後、イギリス共産党(The Communist Party of Great Britain)唯一の議員だったウィリアム・ガラシャーが「こんなことになったのも現政権の責任で」と言いかけたところ、保守党の国会対策委員長がすかさず閉会に持って行ってしまったことはちゃんと記録されているのだが。


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 後の世に言うミュンヘン会談は、翌日の29日から30日にかけてのものを指す。会談を終えたチェンバレンは大あくびをしたが、老体が午前1時半まで言い合いをしていたら、そうもなろう。


 睡眠をとった後、「市内観光」の名目で、首脳たちは自動車でパレードのようにミュンヘン市民に姿を見せた。車の中で、チェンバレンもダラディエも重苦しく無言だった。ミュンヘンでの会談が終わり、チェコスロバキアの国境地帯は、重要な国境要塞と共にドイツに引き渡されることになった。それはチェコスロバキアの頭越しに、しかし英仏も加わって決められた。


 それは軍備で追いつく時間稼ぎであると同時に、ここでドイツの要求はおしまいだと言われ、信じている人々もいた。ドイツ国境の外にいるドイツ人をドイツに集める「民族自決」の原則を振りかざした国境変更は、ここまでだからである。


 英仏の指導者だとわかっていて、市民たちは明らかに感謝していた。車内ではダラディエが、次いでチェンバレンが口を開いた。


「我々は歓迎されておりますな。主に戦争を先送りしたことについて」


「我々の母国での扱いもあんなものだとしたら、まあ上々のうちか」


 ダラディエはチェンバレンほどの達成感を持って結果を受け止められなかったが、ふたりとも他国の犠牲で平和を買ったことについて、故国での酷評を覚悟していた。実際には、どちらの国民も少なくとも直後には、ミュンヘン市民と変わらない歓迎を見せたのだったが。


 チェンバレンがミュンヘン会談で果たした役回りから、チェンバレンが「根回しの人」「我慢の人」であったようなイメージをつい抱いてしまう。しかし実際には、チェンバレンは有能だが人の気持ちがわからない人であり、人の意見も聞かずに的確な指示を、しばしば部下の頭越しに出してしまうタイプのリーダーだった(第17話参照)。そして1930年代の世界では、都市爆撃(の応酬)は毒ガスなどの使用を含めてどの国も懸念していたことであり、イギリスでそれを上申していたと思われる専門家たちも、とくに偏った見方をしていたわけではない。そしてイギリスの近代的な航空機、とくに戦闘機配備が遅れに遅れていたことは、すでに述べてきた。


 この宥和策に我慢がならず、イギリスのクーパー海軍大臣は辞職した。空軍のフリーマンなどは、下僚にチェンバレンの妥協成立を伝えた後、「これで数か月稼げる」と付け加えた。もはや平和への希望は淡いものになったが、それでも国は指導されねばならなかった。


第19話へのヒストリカルノート


 フィーバーンは半年後に退院を許され、重要でない職を歴任して1942年に大将で退役しました。



 5月12日に下院審議があり、スウィントンとウェアは5月16日に辞職しました。ここでは5月13日午前中までに辞職と後任について内々の話がまとまり、連絡を受けたフリーマンが午後に飛んできたと仮定して会話を創作しています。まあチェンバレンも、いまドイツと事を起こすわけにはいかなかったのです。


 イギリス空軍の拡張が始まった時期を1934年とするなら、そのとき旧式化が進んでいた複葉戦闘機はブリストル・ブルドッグでした。つまりその時点で一番実績があった戦闘機用エンジンは、ブリストル社のものだったのです。そしてすでに1933年に量産契約が済んでいたのが、ブリストル社のエンジンを使うグロスター・ゴーントレット複葉戦闘機でした。第2次大戦が始まる頃には、中東の部隊にわずかに残っているだけでした。そして1934年9月に初飛行した後継の複葉戦闘機がグロスター・グラディエーターで、これは大戦序盤にドイツ機と戦わざるを得ませんでした。イギリス空軍はグラディエーターの次に、1941年以降にもエンジンをパワーアップして通用しそうな機体へ一気に近代化しようとして、苦しんでいたわけです。その未来志向のエンジンをロールスロイス社が引き受け、旧来のエンジンによる既存機種増産をブリストル社のエンジンが支えていました。


 国会でアメリカから買えと言われたからでもないでしょうが、イギリスは戦前に限っても、アメリカからテキサン練習機をハーバードという名称で、また旅客機改造機(もとの旅客機は立川ロ式輸送機として日本陸軍も採用)のロッキード・ハドソンを海上哨戒機として購入しました。ハドソンの R-1820エンジンはDC-3旅客機、その軍用型のC47輸送機、さらにはB-17爆撃機にも使われたもので、1931年から量産実績を積んでいました。アメリカでは郵便(輸送)機や旅客機の民間需要が大きな市場を作り、そこで「経済性」も合わせて競争にもまれた技術が軍用機にフィードバックされていました。全金属単葉戦闘機ボーイングP-26が初飛行したのは1932年のことで、イギリス航空業界はいろいろな面でアメリカを追う立場となっていました。


 有名な失敗例を挙げましょう。1931年から配備されたホーカー・デモンは単発複座複葉戦闘機で、前向き機銃はパイロットが撃ちますが、後方機銃手は1丁の機関銃を横や斜め上に撃つようになっていました。第1次大戦で英独両軍が爆撃機護衛や地上攻撃に重宝していたタイプの戦闘機です。そのわずか4年後の1935年4月、航空省はボールトン・ボール社が開発した7.7mm4連装銃塔をつけた迎撃戦闘機(当時、戦闘機に積める20mm機関砲の開発は難航していました)の仕様を出して競作にかけ、ボールトン・ボール社自身のデファイアント戦闘機が採用されました。しかし配備されたころには軍用機のスピードが全般に上がっていて、電動銃塔を回して弾を当てることは極めて難しくなっていたのです。


 考えてみると、ハドソンは背中に銃塔を背負い、デファイアントより大きくて双発で航続距離が長くて、しかし(旅客機ですから)それほど早くはない機体でした。イギリスはこれを対潜哨戒機、脱出したパイロットにゴムボートを落とす救難機として大量に採用し、こちらは立派に成功したのです。


 20mm機関砲が積めないのは敵も同じだとすれば、7.7mm機銃をたくさん積めばワンチャンスに多くの弾を浴びせて勝てる! という考え方にも支持者が多く、ハリケーン戦闘機の初期型は7.7mm機銃8丁を備えることになりました。いっぽう、「強力なエンジンを備えた双発機なら」重い20mm機関砲だって機首に複数積めるぞ! という考え方から、ホワールウィンド戦闘機が開発されました。ドイツのBf110と同じような立ち位置を狙ったのですが、20mm機関砲をもっと普通の戦闘機に積めるようになってしまったので、これも生産を打ち切られました。このように、ドイツもイギリスも何度も先を読み違えながら、私たちの知っているそれぞれの空軍を育てていったのでした。




 スウィントンは第1次大戦で海軍大臣をやめさせられたチャーチルがしばらく陸軍の前線に戻ったとき、チャーチルの戦友になっていました。5月12日に政府を罵倒した面々の中にはチャーチルもいたのですが、大戦後半になると、チャーチルは民間航空担当大臣としてスウィントンを登用しました。



 第3クールの途中で、テスケの回想を1943年まで読み進めたところ、「トレスコウとは同じ連隊で勤務したことがあって、ファーストネームで呼び合う仲」だと書いてありました。あっちゃあ。



 以前触れたことがありますが、ドイツの軍拡は国を傾けるもので、対外的な資源への支払が滞るなど破たんが起きるのは目に見えていて、戦争がなければそちらが顕在化したはずだという主張はよく目にします。イギリスも1938年秋のミュンヘン危機以降、航空機を中心として、国を傾ける規模の軍拡に舵を切りました。だからその成果はすぐには現れず、出そろうのは1941年になってしまったのです。



 ホローチャージ弾の様々な応用(対戦車吸着地雷、パンツァーファウスト、バズーカ砲とパンツァーシュレック)は、モンローやノイマンと言った日本語の資料本によく出てくる人々以外にも、多くの人間が貢献して少しずつ実用化が進みました。ハイスピードカメラやX線撮影技術など、一瞬の爆発で起きていることを詳しく知るために、多くの技術が組み合わされて、初めて実用化にこぎつけたものでした。空軍の研究所スタッフも大きな役割を果たし、初の実戦投入は空軍によるオランダのエバン・エマール要塞攻撃でした。降下猟兵が要塞の砲塔などを攻撃するために使われたのです。


 ですから結果的に見れば、戦車戦に関わる全ての軍人たちの計画、構想、戦訓といったものと全く関わりなく、ホローチャージ弾と言う画期的な対戦車攻撃兵器が現れ、横からぐいっと戦車戦の様相をねじ曲げたのでした。



 Documents on British Policy Overseas (DBPO)というイギリスの外交記録群が公開されており、その一部であるDocuments on British Foreign Policy 1919-1939(DBFP)にチェンバレン-ダラディエ間を含め、英仏の首脳や外交官が交わした電話が記録されているのだそうです。現物を読んではおりませんが。この小説の中の電話は架空のもので、実際には最後通牒を巡る様々なメッセージが飛び交いました。



 9月28日は夏休み休会明け初日でしたから、持ち出される議題も少なく、保守党のマーゲッソン国会対策委員長がさりげなく翌日までの質疑中断動議を出しました。それに応じたコメントとしてチェンバレンが1時間半近い演説をやったのでした。ガラシャーが食いついてきたのを見たマーゲッソンは「質疑中断動議の取り下げ」を申し出て議長に認められました。そうすると、もう時間も経ったので、やはり質疑は翌日まで中断ということになったのです。紛糾してもおかしくない話題ですから、与党側からいつでも話を打ち切れるよう、そのような形で持ち出したのでしょう。



 都市爆撃の脅威を強調していた代表的な論者は、第12話とそのヒストリカルノートで触れたようにドゥーエであり、1920年代からこうした議論はありました。チェンバレンに対して、ドイツの爆撃により予想される都市被害の甚大さを専門家がレクチャーしていたと思われる防空関係の会議があるのですが、その報告書などハードな証拠は見つかりません。



 ひとつの事件には様々な側面があります。ミュンヘン会議を頂点とするチェンバレンの戦争回避努力に対して、世界大恐慌で倒れたラムゼイ・マクドナルド内閣以来ずっと野党のイギリス労働党も、再軍備支持の方向で批判を始めました。だいたい労働党は1920年代に盛り上がった反戦運動の空気をそのまま保っていたのですが、党利党略と言う面もあるものの、ここで大きな方針転換をしたわけです。このことがなければ、1940年に「戦時大連立内閣を組めそうな男」としてチャーチルが政治的に復活することはできなかったでしょう。だってチャーチルは、自由党が労働党と組みそうなのが嫌さに自由党を抜けて、保守党に戻った人物ですから。先に労働党が「チャーチルとも組める労働党」に変質を始めたのです。そのリーダーとなったのが、チャーチル内閣に参加し重用され、終戦直後の選挙で勝って、ヤルタ会談の真っ最中に首相を交代したアトリーでした。


 大転換した労働党は1939年春、フランスの人民戦線内閣のように「左翼勢力大連立内閣」を組織しようと動いていた、いわば親ソヴィエト派議員のクリップスを除名してしまいました。ところがチャーチルも共産主義嫌いで通った人物であり、首相になってみると対ソ外交を任せられる人物がおらず、クリップスが駐モスクワ大使に任じられました。その話はいずれ。



 イスメイも戦争が回避されて大喜びしてしまったひとりでした。夫人から小国に強いた犠牲や先行きの暗さを指摘されて言い合いになり、その日のことが恥ずかしく、思い出したくもない……と回想に記しています。

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