あの日
「うあああああっ! 」
背中に襲いかかる魔弾が皮膚を焼き、肉を食い破るその衝撃に絶叫を上げながら、遠のき出した意識の中で、なぜかあの日のことを思い出した。
吹き抜ける風と車の喧騒。
38階建てのビルの屋上で、フェンスに背中を預け眼下を行き交う車のヘッドライトの流れを見つめていると、バサバサと髪の毛が風に煽られて視界を何度も遮り、思わず目を細めた。
目から次々と涙が溢れ止まらない。
涙で視界がボヤけ、片手をフェンスから離して目を擦れば、風に煽られて足場の少ない不安定な身体の重心はグラリと揺れて、慌てて再びフェンスを掴み直した。
生きる意味を見失いここまで来て、いざとなった時、生にしがみつくようなら甘んじてこの人生を往生しようと思っていた。
俺の身体を支える幅25センチほどしかないコンクリートの足場と、風が吹く度にたわむ背中越しのフェンス。
そのふたつだけを頼りにした今でさえ、恐怖を感じることは出来ないでいた。
顔を上げれば排ガスで曇った夜空と、星の瞬きを打ち消す人工のネオンが視線の先に連なって見える。
身体の正面を遮る物は何ひとつない。
フェンスから手を離せば、後は真っ逆さまに落下して、見るも無惨な死体となって人生の幕を閉じるのだろう。
どんな形で死のうが、死ぬことに変わりなどないと、そんなことを思いながらフェンスに絡めた指先を離そうとしたその時だった。
「ねぇ」
突如、後ろから聞こえた声に驚いて、反射的に再びフェンスを掴む指に力を入れてしまった。
「え……? 」
後ろを振り向けば、金髪に近い茶髪を丁寧に巻き、派手な化粧をした若い女の子がそこに立っていた。
露出の多い服装をして、ブランド物のバックを手にし、所々に派手めのアクセサリーを付けて、綺麗に塗られたマニキュアが目を引く細い指に煙草を挟み、ふうっと煙を吐きながら俺を見ている。
「あなた、何をしているの? このビルで自殺とかされると迷惑なんだけど」
「め、迷惑……? 」
「そうよ。このビルにはわたしの勤め先が入っているの。自殺なんかされたら、警察は来るし、客足が遠のくでしょ、やるなら他の場所でやってくれないかしら」
心底迷惑そうにその綺麗な眉を顰めて、向かいのビルに視線を移す。
「あっちのビルならいいわよ。あっちは支店が入ってるけどライバル店なの。最近あっちの売り上げが良くて邪魔なのよね。ねえ、あのビルで死んでくれない」
自殺すると分かっている人間に、自分の利益だけを考えて場所の指定までして来たこの女の子に、俺は言葉を失い呆然とした。
「悪いけど、君の都合に合わせてられないよ」
死ぬ間際に知らない人と死ぬ場所について口論するなんて、俺は一体何をしてるんだ?
自分の間の悪さに呆れながら、思わず返答をしてしまった自分にうんざりした。
「こっちだってあなたの都合に合わせてられないのよ。とにかくこっちに来なさいよ。話してる最中に風に煽られて落ちるなんて、間抜けなことしたくなければね」
「悪いけど君と話したって何も変わらない。君に迷惑はかかるかもしれないけど、もう心は決まってるんだ」
「あなたまだ、わたしと同い年くらいよね。借金でもしたの? それならわたしが貸してあげるから、とりあえず戻りなさいよ」
彼女としては、ここで飛び降り自殺なんかされたらたまったもんじゃないという気持ちだけだった。
先にも言った通り営業に差し障るし、数百万程度の金なら貯金はあるし、無くなった分は金持ちの男に泣きつけばなんとでもなる。
「お金なんかじゃない」
俺は首を振って彼女の申し出を断った。
だから、こうやって会話するなんて馬鹿じゃないのか。
思わず否定してしまった自分に心の底から呆れて、内心ため息をついた。
「じゃあ、女? 」
「……」
「はっ……」
顔を背けて無言で答えた俺を見て、彼女は呆れたように短く笑ったと思ったら、咥えていた煙草を取りこぼし、お腹を抱えて本格的に笑いだした。
「あははっ、あなたそれ本気なの? 」
「……本気だよ」
笑いたいなら笑えばいい。
俺の気持ちは俺にしか分からない。
突然現れた女の子になんか、分かるはずがない。
彼女から意識を隔て、再び眼下を行き交う車の流れを見つめる俺の耳に、鈴の音のように軽やかな響きに嘲りを乗せた声が届く。
「愛に惑わされて死ぬなんて本当にバカな男。だってそもそも愛は、男を殺すためにあるんだもの。それに命まで捧げるなんて」
そう言って彼女は実に残念そうな物を見る目つきで俺を見ると、ひらひらと手を振ってその場から立ち去って行った。
派手な格好をした彼女がいなくなり、再び車の喧騒しか耳に入らなくなったその場所で、俺は彼女の言葉に凍り付いていた。
__愛は男を殺すためにある?
それがどういう意味なのか、分からなかった。
愛をまるで武器のように考えた彼女の言葉。
あなたもその愛に殺されるのねと、聞こえぬ声が聞こえてきそうで。
死を覚悟した時でさえ感じることのなかった恐怖を、俺はその時感じ取っていた。
そして同時にその言葉の意味を知りたいと、そう、思ってしまったんだ。
彼女は俺が飛び降り自殺を図ろうとしたビル内にある、テナントのキャバクラ嬢だった。
朝から晩まで男を取っかえ引っ替え傍に置いて、笑顔を振りまいては愛を囁き、様々な物を買わせていた。
それが彼女が言った男を殺すという意味なのかと思った時は、はらわたが煮えくり返るほど彼女を憎んだ。
だけど朝から晩まで振りまく彼女の笑顔は、屋上で俺に見せたあの笑顔とはまるで別物で、人形のように綺麗な作り笑いに見えた。
俺をバカにした時の嘲り笑いの方がまだ、人間らしい感情を感じることが出来たように思える。
いつも彼女はその作り笑いを様々な男に向けて、キスを交わすその時でさえも冷静で、彼女の行動全てが嘘で塗り固められた物なのだと気付くのに、大して時間はかからなかった。
本気で怒ったり笑ったり、彼女はいつしているのだろう。
彼女のように本心を隠しながら生き続けるということを想像してみた時、俺には耐えられないと思った。
同時にそれが出来る彼女を強い人間だと思ったし、悲しい人間だとも思った。
強い彼女は常に男達の前にいる。
じゃあ、悲しい彼女の身の置き場はどこにあるのだろうか。
それが知りたくて俺は彼女の店に赴き、彼女を指名した。
あの時の男だとすぐ気付かれると思ったけど、彼女は俺のことなど覚えておらず、顔色ひとつ変えずに「初めましてレーナです」と偽物の笑顔を貼り付けて挨拶をすると、ふわりとした甘い香りを漂わせながら隣に腰を降ろした。
至近距離で彼女の偽物の笑顔が向けられた時、胸が締め付けられるように苦しくなったのを覚えている。
その日、俺は日曜日の同伴の約束と彼女と一晩を過ごす権利をもぎ取り、朝まで彼女を愛し続けた。
今まで遠くに見ていた彼女の身体をこの手に抱いて、心いくまで愛せたことに、信じられないほどの幸福感が俺の心を満たしていた。
俺の隣に横たわりながら微睡む彼女の顔があまりにも無防備に見えて、弱い君を俺に見せて欲しいのだと、誰も知らないそんな君を護りたいのだと、護らせて欲しいと、そう心の底から願ってしまった。
「レーナ、俺が君を護ってみせる。だからもう他の男とあんなことをするのは、やめてくれないか」
彼女の髪を撫でながらそう言葉に出すと、睫毛を伏せていた彼女のまぶたがぴくりと小さく動いた。
そっとその瞳を開き、俺に向けた彼女の顔はいつもの笑顔だった。
「ええ、もちろんよ。あなただけを頼りにしているわ」
うっとりとしたように、甘い香りを漂わせながらそう答えた彼女の声が、光を失った海の底よりも冷たく感じられた__




