誘いの罠
魔界と人間界の境界線にあるバーランド国。
境界線に位置するため、実に多くの優秀な魔導士が集う強固な護りを固めたその国は、現在バンガイム帝国からの要請により通常の半数は駆り出されている状態にあり、手薄と言えば手薄であったが、その危機感と言えば普段と変わらないように見えた。
なぜなら、力と力の衝突ともなれば魔族の方が明らかに上であり、仮に人間側に勇者が出現したとしても、魔族が大軍で攻め入ることは今まで起きなかった。
それは、あくまでも人間を卑下する魔族の余裕の現れであり、人間もまた、互いに甚大な被害を出さぬように、魔界へ攻め込むことはせずにその均衡を保ち、奇襲作戦の失敗を受け、魔族側に甚大な被害が出なかったことを確認していたバーランド国は、被害が出なかったのならば報復もないと安堵し、そう思い込んだ。
だからその晩も、定時の見回りや警備には特に変わった所もなく、普段と変わらぬ穏やかな夜がバーランド国の城内に訪れていた。
国王居室前。
1時間に1度の周期でその周辺を見回る警備兵と扉を護る護衛が、夜の静けさに誘われるように、その居室の前で心地よい寝息を立て、壁や床にその身を委ねていたことに、他の誰も気付かない。
取り立てて目を引くような豪華な家具もなく、簡素な造りのその部屋には、すーすーと静かな寝息と、ひたひたと床に吸い付くような足音だけが音を創り出していた。
◇
「バーランド国王を狙えですって? 」
足元には銀狼に変化したロンザがわたしとジャスパーを隔てるように横たわり、常に警戒するようにぎらつく鋭い視線を眼下に向けていた。
「そうだ。奇襲作戦が失敗して、帝国は正攻法に切り替えた。その拠点となるのは国境のバーランドだ。なら先にバーランド国王を殺してしまえば、帝国の要請を受けることはままならないし、直ぐには魔界へ進軍して来れなくなる」
眼下でひとり佇み、わたしを見上げながらそう提案したジャスパーに目を細める。
ミナトの裏切りを教えてやれば、アリアの復讐を望んだジャスパーが憤り、ミナトを恨むのは容易に想像出来た。
だけど、わたしに協力するというのは、また次元の違う話のはず。
「そんなめんどくせぇことしなくても、直接帝国を攻めりゃ良いだろうが。なんで先がバーランドなんだよ」
わたしの隣に佇むガイアが、腕を組みながら訝しげな視線をジャスパーに向けて問いかけた。
「既に進軍が始まっているからだ」
「なんだと? 」
ぴくりと神経質に眉を動かし、逆サイドを固めるサシャールも警戒心は緩めない。
「いいか。帝国には思念伝達に特化した魔導士が沢山いるんだ。バーランド国を拠点とするなら、足並み揃えて帝国から進軍する必要もないし、バラけた魔導士にバーランド国に集まるように伝達すればそれで済む。だから一見招集されてないように見えても既に進軍は始まっていると言えるんだ」
「そう。それならば、まずは帝国の動きがなくてはおかしいわよね……サシャール」
ジャスパーを見据えたまま声をかけると、即座に意図を汲んだサシャールは、小さく頷くと空を切って姿を消した。
それから間もなくして__
「帝国に集結していた魔導士どもの姿が一切見当たりません。何よりも勇者の気配を感じませんでしたので、帝国になんらかの動きがあったのは確かかと」
帝国の様子を伺って来たサシャールの報告に小さく頷く。
魔導士の姿と勇者の姿がない。
バラけていたとは言え、それなりの数の魔導士はまだ帝国に残っていたはずだった。
ジャスパーに疑いの目を向けながらも、その事実が何を示すのか、考える。
ジャスパーの思惑は理解出来ないけれど、バーランド国は魔界との国境でもあるし、未だ完璧な力を持たないわたしにとって、勇者が出現した今、再び大軍で攻め入られては、面倒なことになる。
時間稼ぎにしかならないけれど、念のために国王を潰しておくのも手かもしれないわね。
睫毛を伏せながらそこまで考えを纏め、眼下に佇むジャスパーに視線を移す。
「では決まりね。バーランド国王を頂くことにしましょう」
ただし、念には念を入れておかなければ。
「ジャスパー、こちらにいらっしゃい」
「魔王様? 」
「おい……」
あの娼館での出来事を知るふたりが避難めいた色を宿して声を上げる。
だけど腹心の三人がわたしの身を固めるこの場所で仕掛けてくるほど、ジャスパーは愚かな男ではないはず。
ジャスパーは警戒するように軽くわたしを睨みつけ、黙りこくった。
その様子が可笑しくて、思わず薄い笑みが浮かぶ。
「殺しはしないわ。わたしの元へ下るというなら……ご褒美を上げようと思っただけよ」
「褒美? 」
「そうよ。さあ、いらっしゃい。何も怖がることないわ。あなた達も手出しは無用よ」
小さく顎を動かすと、ふたりは数歩離れて距離を取り、足元にいるロンザの腹をつま先で小突けば、のそりと身を起こし、鋭い視線をジャスパーに向けたまま、その場からガイアの隣へと移動して、すっと腰を下ろした。
わたしの周囲がガラ空きになり、変わらずに眉を顰めて訝しげな表情を貼り付けたまま、ジャスパーは警戒するように顔を強ばらせ、ゆっくりと足を踏み出した。
コツリコツリと床を踏み鳴らし、一歩一歩階段を登り始めると、壇上にいる三人から肌を軽く刺激するような空気が発せられ、小さな笑みが溢れた。
ジャスパーもその緊張感を感じ取り、強ばらせた表情を崩さない。
コツン……
最後に小さな音を立てて、目前に辿り着いたジャスパーの警戒心を解くように笑いかけ、春の土のような柔らかな茶目を捉える。
そっと椅子から立ち上がって歩み寄り、茶色の髪を指に掠めながら、ゆっくりと首筋に手を差し伸ばすと、ごくり、と喉が鳴る音が聞こえた。
身を強ばらせたジャスパーの視線が、鋭くわたしの瞳を射抜き、紅い瞳と茶色の瞳が交差する。
その視線の先で、茶色の瞳の奥にまるで一滴の鮮血がポチャンと音を立てて落ちたように、紅い色が小さな波紋を描き、徐々に全体に染み渡っていくのを、わたしは薄い笑みを貼り付けたまま、はっきりと捉えることが出来た。
「ん……っ? 」
一瞬、ジャスパーの身体が揺れてふらつき、目頭を押さえて頭を振り、瞬きを繰り返す。
その様子を薄く笑みを浮かべて見つめ、手を差し出して招き寄せる。
「ほら、いらっしゃい」
艶めかしいその声色は脳の奥底へ波紋のように広がって届き、木霊してジャスパーの頭に響き渡った。
「あ……」
身体が揺れながら勝手に魔王へと吸い寄せられるように動き、先程までの警戒心など霧のように霞んで、ぼやけた思考が麻痺したように時を止める。
向けた視線の先には魔王以外入らず、その周囲は霞んで見えて、ただ、ただ、彼女が愛おしい。
「ま、おう、さ、ま」
壊れた機械のように、途切れ途切れに言葉を切って、彼女の名を呼び求める。
「ふふ……良い子ね」
ふらふらと歩み寄るジャスパーを優しく抱き締め、そっと顔を離してその瞳を覗き込めば、全体に広かった紅みが先程までの柔らかな茶色を呑み込み、わたしの瞳と同じ色をした瞳がそこにはあった。
__誘いの罠
魅了よりも効果が高く、サキュバスとしての性質を持ち合わせる魔王だからこそ行使出来る、魅了の最高位魔術。
それは、術者に陶酔するだけでなく、己の意思で術者のために身を挺することすら厭ない、そんな行動を取らせてしまうもの。
「では、行きましょうか」
夢心地のように瞳を潤ませてわたしを見つめるジャスパーの耳朶に、唇が触れるほど近寄せて囁き、満足げな笑みを浮かべて、わたし達は一斉に空を切り、魔王城を後にした。




