壊れゆく者たち
「泣くな」
どれほどの時間、ふたりはそうしていたのか。
シエラは止めどなく涙を流し続け、地面に付いた手の甲を濡らし、その周りの土はシエラの涙を吸って湿り、手のひらを汚した。
「確かめに行く。おまえも行くか」
普段の快活な印象を打ち消し、顔を強ばらせるジャスパーの声にシエラは小さく首を横に振った。
「これ以上は無理よ」
魔王の言葉のひとつひとつが、鋭い刃物のように、耐え難い痛みを伴って心を切り裂き、バラバラに崩れた心はもう何も受け止めることが出来なかった。
「そうかよ。悪いけどな、事と次第によっちゃ俺はミナトを殺すぜ」
魔王の言葉が真実なら。
ミナトはアリアを見殺しにしたことになる。
それだけじゃない。
勇者として周囲の希望となっているミナトが、人間の最大の敵である魔王に愛情を向けているなんて、人間に対する裏切りだ。
血が吹き出るような怒りがジャスパーを呑み込み、例えそれがシエラの想い人であろうと、許そうとは思えなかった。
何も言わずにその場に崩れて泣き続けるシエラを一瞥し、ジャスパーは大股でその場を後にした。
コンコンコン
深夜の城内を周囲に気を遣い足音を殺すわけでもなく、勢いを付けて歩みを進め、ジャスパーはミナトの部屋の前へと辿り着くと、躊躇うことなくドアをノックした。
「はい」
「俺」
何度も行った短いやり取り。
すぐにドアは開かれた。
「何しに来たのさ。もうそろそろ寝ようと思ってたところだったんだけど」
「話がある」
呆れたようにため息をついたミナトが、普段と違った真剣な表情を映すジャスパーを見て、少し眉を顰めた。
ジャスパーはそんなミナトには視線も向けず、構わずに部屋の中へと入り込み、ミナトは訝しげにそんなジャスパーを見やり、ドアを閉めた。
「話って? 」
「おまえ、転生する前に惚れてた女がいたのかよ」
ミナトに背を向けたまま、そう言ったジャスパーの口調は、どこか責めるような強い印象を持つものだった。
「いたよ」
迷いすらない、受け答え。
だけどそれは、魔王が言ったことを否定するものではなかった。
「その女のこと、今でも愛してるのか? 」
なぜ急にそんなことをジャスパーが訊ねるのか、普通ならば疑問に思うところだ。
だけどミナトにとっては、そんな疑問よりも今でも愛しているのか、その問に答える方が重要だった。
「ああ。今でも愛してる」
魔王の言葉のひとつひとつを肯定して行くミナトが腹立たしい。
どこでもいいから、違うと言えよ。
ミナトに隠したその顔を酷く歪めながら、ジャスパーは毒づいた。
「ジャスパー? 」
ゆっくりとジャスパーに近付くミナトの気配を背中に感じ、その動きを遮るように声を上げる。
「それって、魔王のことかよっ! 」
ぴたりとミナトの動きが止まったのが分かった。
近付くな、近付くんじゃねぇ。
頼むから、違うと言ってくれ!
拳を固く握りしめ、祈るような気持ちで絞るように目をつぶる。
「どうして、それを知ってるんだい」
抑揚のない静かな声だった。
それなのに巨大な大岩でも堕ちたように心は鈍痛を帯びて、潰されたかと思った。
あまりの苦痛に呼吸すらままならず、震える拳を爪が食い込むほど握りしめて、頬を震わせジャスパーは俯いた。
「否定……しねぇのかよ」
ここに来るまで、様々な可能性を考えた。
俺たちの結束を崩すため、あんな嘘をついたんじゃないのか、動揺を誘い士気を下げるために言ったんじゃないのか。
ミナトに疑惑を向けて裏切り者のレッテルを貼り、勇者を追放させるためにデマを吐いたんじゃないのか。
どれもこれも、有り得る話で、最悪な可能性だけはないと思いたかった。
それなのに__
「否定、出来ないからね」
柔らかな口調でそう言いながら、鋭い刃と化したミナトの言葉に心は悲鳴を上げて、血が滲み出すような痛みを感じた。
それでも、ジャスパーは最後まで信じていたかった。
この先の質問だけは、否定してくれると信じて。
「魔王城で、魔王がアリアを殺した時、アリアより魔王が大事だったから動かなかったってのは、嘘だよな? 」
締め付けるような不安が胸を押し潰し、どくんどくんと大きな音を立てて、心臓の音が身体の真ん中を打ち鳴らす。
答えを聞くのが怖かった。
今まで全てを肯定したミナト。
だけど、生前に好きだった女が魔王になったなんて、ミナトの責任じゃないし、どうにもならなかったことだ。
そう考えれば、なんとか納得することも出来る。
だけど、もしこの質問に……
「ごめん」
それは、肯定とは違う謝罪の言葉だった。
その言葉の意味を理解してしまったジャスパーの瞳に涙が滲む。
押さえつけていた不安や怒りが、堰を切って噴き出し、爆発させた感情を乗せてミナトを振り返った。
「ごめんってなんだよっ! どういう意味だっ! おまえは、アリアを見殺しにしたのかよっ!? 」
喉から血が出そうなほどに、顔を真っ赤にして叫んだジャスパーをミナトは悲しげに見つめた。
この先のふたりの未来を予想して。
隠し通すことなど、いくらでも出来た。
だけど玲奈に対する気持ちに嘘を言うなんて、ミナトには出来なかった。
それがどれほど周りに影響を与えようと、どれほど憎まれようと、関係ない。
「俺は何よりも一番、彼女が大事なんだ」
「アリアよりもっ!? 」
「そうだ」
「俺よりも! 」
「そうだ」
「人間全部敵に回してもかよっ! 」
「そうだ」
肩で大きく息をして荒い呼吸を繰り返しながら、涙の溜まった瞳でずたずたに引き裂かれた心の痛みに顔を歪め、ジャスパーはあまりに冷静に受け答えるミナトを憎み、睨み付けた。
「おまえにとって、俺たちはその程度の仲間だったってことかよ」
「最初から、玲奈に勝るものなんて、何もないんだ」
ひたむきなミナトの想い。
決して揺るがす、不動たるその精神を以って何者も寄せ付けず、払い退ける。
「そうかよ……」
仮にも勇者の仲間として苦楽を共にし、泣き笑った幾つもの想い出も、ミナトの内に不動に在る頑なな意思を砕くことは叶わないのだと、痛いほど思い知る。
「俺はもう、おまえとは一緒にいれねぇ」
その虚さが心に大きく暗い穴を開けて、その穴の中に沈むように、ジャスパーの声が紡がれた。
「分かってる」
様々な感情が全て暗い穴の中に墜ちて行くのを感じながら、ジャスパーはミナトの横を掠めながら過ぎ去る。
ミナトは振り返らずに黙ってただそこに佇んでいた。
ドアを一歩潜っておもむろにその足を止め、互いの背中を向かい合わせたまま、ジャスパーは最後の言葉を投げかけた。
「さよならだ」
その返事は、返って来なかった。




