第6話 ―帝都の日常・その6(悠と朱音、出発前)―
「――という訳デ、ユウ様のご了承をいただいて来ましたからネ! あとはアカネからお願いするだけデス!」
「できる訳ないでしょうがぁぁぁぁぁぁ!」
早朝、第三位階の寝泊りする第1宿舎の一室。
朱音に与えられた個室の風呂場にて、悲鳴じみた声が反響した。
朝の鍛錬を終え、朝風呂の最中である。
朱音は、その豊満な、されど適度に引き締まった早熟の裸身をバスタブに浸していた。
湯船に浮いた、たわわな双丘。それを枕にするように金髪を乗せて、もう一人の少女が朱音に裸身を預けている。
朱音の親友である森人の少女、ティオだ。
彼女と洗いっこしてお風呂に入るのは、朱音の日課となっていた。
地球にいた頃、朱音が夢描いていた友達とのスキンシップである。
「……駄目ですカ?」
朱音の胸の間に顔を挟めるようにして見上げてくるティオ。彼女のお気に入りの体勢だ。
つぶらな目をぱちくりとさせる彼女に、朱音はうわずった声で返す。
「そ、そそ、その……ティオが、悠と……するのは、事情や気持ちも分かるし、いいけど! ルルよりはまだ!」
悠の事情は、理解している。
あの大剣を出したら、アレでアレなことになり、アレしなければならないことも。
そしてティオの気持ちも聞いていた。
彼女と離れ離れになるなど考えたくもないことだが、親友の切なる訴えを聞いて無碍にできる朱音ではない。
それに、ルルにそういう立場を独占されるよりはマシではないのか。あの肉食系エロ狼に悠が染められるよりは。
いつも漂わせているしっとりした気品と色気はどうすれば身に付くのだ。ずるい。
だから、悠とティオがそういうことになるのも、モヤっとするものが無いでもないが我慢できた。
だが、しかし。
「だいたい、どうしてあたしが参加できる流れになるのよ!? 悠にどう言えっていうの!?」
ティオは、ぐっと親指を立てた。
そこはかとないドヤ顔で、
「アカネがエッチ好きだってアピールしましタ!」
「はっ?」
「アカネがユウ様に言ったことですヨ、思い出してみてくだサイ」
「…………」
記憶を辿る。
生まれて初めての体験をした、あの夜のことを。
疼く身体、初恋を自覚した高揚感、ティオを救えたという喜び、第三位階の力を得たという自信、その他もろもろがない混ぜとなり、色々とおかしなテンションになっていたあの夜。
悠に想いを告げる千載一遇のチャンスを不意にした、痛恨の思い出。
『……好きよ、こういうの……き、気持ちいいし……? は……はは……ははは……あはははははは』
そしてその言葉の後の、自分の姿。
朱音の顔が、火を噴いた。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁ! 忘れてたのにぃぃぃぃぃぃ!」
頭を掻き毟ってのけ反りながら悶える朱音。
上げていた髪が乱れ舞い、濡れた肌にぴたりと張り付く。
「何てこと思い出させるのよ! あれは違うわよ! 身体がおかしくなって、あんなの初めてで、それで……!」
「分かってマス! それは分かってますけどォ!」
取り乱した朱音は、ティオを肩を掴んで思いっきり揺さぶる。
ティオは頭をがっくんがっくん揺らしながら、目を回していた。
「でもでも、アカネはどうなんですカ? ユウ様とまた……とか、思わないんデスカ?」
「うぅぅ~~……それは、その……」
思う。すごく思う。
まるで自分がいやらしい人間になったようで口にするのは憚られるが、またしたいと思っている。
幸せだったのだ。
気持ちいいとかそういうこと以前に、想い人に自分の特別の姿を見せている、相手の特別な姿を見ているという幸福感が忘れられない。
「でも、やっぱり無理よ……悠から言ってくれるなら、頑張れそうだけど……自分からはやっぱ無理……」
想像しただけで頭が湯だつような心地である。
悠との心の距離が思った以上に近かかったと知った今であっても、言えば悠が拒絶しないと分かっていても、それは朱音にはあまりに高いハードルであった
朱音は深く息を吐き、かぶりを振って気を取り直した。
「それに……いいのよ!」
ざばぁ、と水音が立つ。
一気に立ち上がった、朱音の肢体から流れ落ちる湯の音である。
瑞々しい肌も露わに、腕を組んで堂々と仁王立ち。
鼻息荒く宣言した。
「次は、そういう“仕方ない”は無しよ! “したい”からするの! そういう仲になるのよ!」
そんな朱音の雄々しい姿に、ティオは困り笑顔を浮かべる。
「もう……ユウ様とのお食事で一歩リードとか思ってるかもしれないですケド、ユウ様のまわりの女の子って信じられないぐらいレベル高いんですからネ。油断しちゃ駄目ですヨ」
「う……わ、分かってるわよ」
ティオの言う通り、周囲には異様なほどに美少女、美女が多い。
しかもかなりの高確率で悠に好感以上の感情を抱いている。
まあ、あれだけ身体を張って頑張っていればそりゃあ人気も出るだろうとは思うし、交友関係が広がることを無邪気に喜ぶ悠の姿は微笑ましいが、当事者の一人としては複雑な気分ではあった。
そしてティオは、神妙な表情で顔を近付けてくる。
「それに……もしかしたら、またユウ様と関係もっちゃう女の子が出てくるかもデス……!」
ルル、ティオ、朱音、美虎。
4人である。
この世界に来てからまだ1月を経過しようという段階で、4人。
その全てに理由があってのことではあると分かってはいても、眩暈を覚える事実ではある。
……これ以上増えるとでも?
「……まっさかあ、漫画や小説じゃあるまいし」
「……ですよネ。言ってみたけど、さすがに無いですよネー」
『あっはっはっは……』
風呂場に響く、乾いた笑い声。
二人の少女の笑顔は、どこか引きつっていた――
「――くちゅんっ!」
一方その頃、悠の自室。
突然のくしゃみは、まるで少女のように可愛らしい響きであった。
悠は気恥ずかしげに鼻をすする。
お茶を淹れていた狼人の娘が、苦笑まじりに語りかけた。
「どなたか噂話でもされているのかもしれませんね」
「こっちの世界でもそういうのあるんだね……」
「起源がどちらの世界なのか、もう定かではないような概念もありますので……はい、どうぞユウ様」
「ん、ありがとうルルさん」
余計な音を立てない流麗な手つきで、ルルが茶器を並べていく。
カップに注がれる緑がかった茶。
漂うすっきりと爽やかな香りに、集中力が研ぎ澄まされるような気分であった。
ひと口味わって思考を引き締めながら、悠はくしゃみで中断された作業を続けた。
まあ、続けるも何も、始めた時からまったく進んでなどいないのだが。
今、悠は椅子に座り、テーブルに向かい合っている。
テーブルの上には数冊の書物が置かれていた。
カミラから託された、“紅”の原本。
そして、帝城の図書館にあった古い言語についての資料や辞書である。
“紅”の原本は、フォーゼ言語とは違う言語によって書かれていた。
その解読作業の最中であった。そして一歩も進んでいない。あの事件から帝都に戻ってから毎日のように手を付けているのに、一歩も。
原本に用いられていると思しき言語と一致する言語が何なのか、皆目見当もつかないのだ。
ルルも隣に腰掛けて、悠の作業を手伝う。
しばらく、静かな部屋にぱらぱらとページをめくる音が立つ。未読の本の山が小さくなっていくにつれ、二人の表情は険しいものへと変わっていった。
ルルは、うなるように言う。
「もしかすると……帝都の資料に残らないほど古い言語によって書かれているのかもしれないですね」
“紅の賢者”。
世界最古の魔道師であり、魔道という技術体系の父、ないし母と呼べる存在。
だが正確にどれぐらい前の人物か、正確な資料は残っていない。
すでに滅び去り、遺失した文明の出身者であれば、使っていた文字が失われている可能性もあるのだ。
「そうだったらお手上げだよぅ……」
悠は、情けない声を出してテーブルに突っ伏した。
「そもそも、これが本当にその原本なのかという問題があるのですが……とてつもなく高度な魔道による保護処置が行われているのは間違いないですが」
「ブラドさんが本物だって保管してたんだし、それは間違いないと思うんだけど」
それに、カミラが最期に渡してくれたものである。
本物だと信じたい。
「……マダラさんだったら、読めるのかな」
“偽天”マダラ。
彼は、“紅”と同じ時代を生きた人間であるようだ。
ならば当時の言語も知っていて然るべきだろう。ましてや、直接の知己だったのだから。
「ルルさん、あの人の弟子なんだよね。連絡付けたりとか出来ないの?」
風来坊な彼であるが、時折、興が乗った相手を見つけた時は弟子として己の知識や技術を授けることもある。ルルはその一人である。
彼女は申し訳なさそうに目を伏せて、かぶりと振った。
「あの御方は、いつも自分の好きなように世界中に現れ、立ち去りますので……今はどこにいるかも存じませんので、連絡は難しいかと」
「……そうなんだ」
「それに、あまり“紅の賢者”のことを語ろうとはしないのです。お喋り好きなあの御方としては、とても珍しいことですが」
「うーん……」
だが、現状で望みはあるとすれば彼ぐらいか。
あるいはラウロ・レッジオでも何か分かるのかもしれないが、国宝にも匹敵、あるいは凌駕する価値があるという、この原本の存在を知ればほぼ確実に没収されるだろう。
必要な情報が、果たして自分に渡るだろうか。
そのために、この原本の存在は帝国側には秘密であった。
難しい状況だが、解読を諦める訳にはいかない。
これは、自信の余命を打ち破る、手がかりになるかもしれないのだから。
ルルは、そんな事情を問うことなく手伝ってくれている。
原本の文字をじっと見ていた彼女は、どこか言いづらそうに、
「その……もう一つ思っていたことがあります。偉大な先人を貶めるような物言いになるようで恐縮なのですが」
「うん?」
「もしかしたら、この字は相当な悪筆の類ではないかと……」
原本には、意味不明の文字の羅列が綴られている。
ミミズがのたうつような、書き写すのも一苦労の文字が。
「実は、僕もそう思ってた……」
悠は、肩を落として嘆息した。
「まるで朱音みたいだよ」
彼女も、良いとこのお嬢様のはずなのに相当に字が汚い。
畏まった状況ではともかく、私用のメモなどはちょっとした解読作業が必要なレベルである。
「単純に字が汚いせいで、未知の言語に見えている可能性もありますね……もう一度、資料を最初から調べてみる手もあるかもしれません。ですが、」
言葉を切り、ルルは時計をちらりと見る。
「ユウ様、そろそろお時間が」
「あ、うん……そうだね。残念だけどここまでにしよう」
朱音たちとの、待ち合わせの時間が近い。
悠は原本を閉じ、巧妙に工夫した場所に隠した。
すでにいつでも出られるよう身支度は終えていたので、ルルと連れ立ってドアを開ける。
そして、
『……あ』
呆けた声が、ハモった。
相手と揃って、硬直していた。
鉄美虎と、鉢合わせしたからだ。
「よ、よう……おはよう」
「お、おはようございます先輩」
「ミコ様、おはようございます」
気まずげに挨拶を交わす悠と美虎。
あの夢幻城の夜から、二人はずっとこの調子である。
どうにも顔を合わせると意識してしまって、ぎくしゃくしてしまうのだ。
あられもない姿を見せあった気恥ずかしさや、あんな事になった申し訳なさ、それに身を呈してくれた感謝の念。
それらの感情がない交ぜとなって悠の心をかき乱す。
美虎の方は、どうなのだろうか。
「……っ」
彼女は、その傷持つ美貌を赤らめて、口元をもごもごとさせていた。
そわそわと目を逸らし、髪の毛を指先でくるくると弄っている。長身で凛々しい容姿の彼女が見せるそんな女の子らしい姿のギャップは、いつ見ても魅力的である。
もっとも、そんな姿を見せることは滅多にない。現状、悠と会った時ぐらいだった。
「じゃ、じゃあ先輩……僕、これから用事あるんで……」
「ん、そうか……」
その表情が残念そうに翳ったのは、気のせいだろうか。
……もしかしたら、彼女は自分の部屋の前で待っていたのでは?
そう考えてしまうのは、はたして思い上がりか。
「街に出るんで、何か買ってきますか? 百花さん達のでもいいですけど」
「あー……いや、特に足りないのもねえし、いいよ」
「分かりました。そ、それじゃあ、また」
「あ、ああ……またな」
ぎこちない笑みを交わし、美虎と別れた。
彼女の気配が完全に無くなったことを確認して、隣のルルに問いかける。
「あの、さ……ルルさん」
「何でしょう?」
「もしかして、部屋の前に美虎先輩ずっといた?」
嗅覚と聴覚に優れた狼人であるルルならば、気付いていたはずである。
ルルは、その美貌に微笑ましげな笑みを浮かべながら、
「さあ……? 私には分かりませんでしたが」
そんなルルの尻尾は、楽しげにぱたぱたと躍っていた。
あんまり進みませんでしたが、ここまで。
書籍2巻の準備など他にも色々とやることがありますが、最低でも週1ペースは守りたいと思います。




