第33話 ―ジフォール―
悠は、夢を見ていた。
……否、正しくは記憶。
自分ではない誰かの、追憶の夢だ。
「呵呵呵っ、おうおう、ようやく目覚めおったか“人馬”よ」
その誰かの目を通して、男の顔を見ていた。
薄く開いただけの視界には、その顔の下半分しか映らない。
無精髭、口にくわえた紫煙を燻らせる煙管、悪童めいた危うげな笑み。
視界の端で、斑模様の着物が揺れている。
「体の具合はどうじゃ? まあ、慣れんじゃろうなあ、だがこの世界で生きるにはそれが合理的よ。生まれて初めての地べたの感触、ありがたく味わっておくことじゃな、呵呵っ」
その声は若々しく覇気に満ちているが、言葉遣いはまるで年経た翁である。
彼の語る幾つもの言葉が、誰かの記憶の情景から流れ込んでくる。
「さて、何を考えとるか当ててやろうかの? 人間を殺さなければ、犯さなければ、呪わなければ、滅ぼさなければ、与えられた存在意義を果たさねば……と、まあそんなところじゃろ?」
「じゃがのう……儂はな、他人に与えられた道に縛られた連中が気に食わん、道をぶち壊してやりたくなるのよ。ま、お主らに存在理由を与えたのは、儂のいっとう嫌いな相手でな、単純に嫌がらせをしたかったということもあるがのう、呵呵呵呵!」
「……なあ、“人馬”よ。まずは世に出てみい。儂が与えてやったその五感で世界を知り、自分の頭で考えて……善玉でも悪玉でもそれ以外だろうが何でも構わん、そこに己の道を――」
「――ん、うぅ……ん」
悠が目覚めたのは、その日の夜であった。
救出された地点の最寄に位置する帝国の都市の一つ、ジフォール。
その軍施設の一室、簡素な石造りの小部屋で身を起こす悠に、しっとりとした心地よい声がかけられる。
「お目覚めですか、ユウ様」
「ルルさん……」
ルルが、いつものメイド服で悠を看病していた。彼女はすぐにナイフを手に取り、水気の多い果物を剥きはじめる。
ちょうど喉が渇いていたので、とてもありがたい。
「ええ、と……」
自分と美虎が帝国に救出されたのだということは、すぐに理解ができた。
理解は、できたのだが。
「……どうされましたかユウ様? なにやらお顔を赤くされてますが」
「え、いや、あの、その……」
言いよどむ悠に、ルルは悪戯っぽく微笑みながら、
「ミコ様とはずいぶんと激しくされたようですね? ユウ様より先にお目覚めになっていますが、まだ足腰が立たないようですよ」
「ああああああああああ! やっぱり! やっぱりバレてる!」
頭を抱えて叫ぶ。
当然と言えば、当然である。
あの悍ましい衝動が消えるまで散々に、そしてようやく衝動が消えてからも、「1回ぐらい普通にして欲しい」という美虎の希望もあり、ベッドに移動して、結局は1回で済まず身体が動くかぎり及んでしまったのだ。
疲れ果てた後は、お互いに裸で語らいながら、いずれ意識を失ってしまった。
ここで目覚めた以上は、そんな二人を運んだ人物がいるということである。
ルルは、果物をナイフで器用に切り分けながら、お澄まし顔で話を続けた。
「ご事情の方は、ミコ様から聞き及んでおります。ミコ様のお身体には特に異常はありませんので、ご安心を」
「……そう、良かった」
心から安堵する。
あの凌辱衝動の正体について悠の得た可能性を思えば、何かしらの異変が起こる可能性も否定はできなかった。
美虎は、それすら承知の上で受け止めてくれたようだが。
「ちなみに……他には、誰が知ってるの?」
「他に目撃したのは、アカネ様、イオリ様、ティオですね」
「ひぅぅ……思ったより多いよぅ……」
……朱音。
会いたいな、とその名を聞いて思った。
悠にとって最も近しい友人。家族を知らない悠にとって、限りなくそれに近い少女。
アリエスに拉致されてから、まだ顔も見ていないのだ。
「朱音も、ここにいるの?」
「いらっしゃいますが……まだお会いにならない方が良いと思いますよ?」
「え……どうして?」
ルルが、妙な顔をする。
哀れんでいるような、面白がっているような、何ともいえない表情。
「その……まだ傷も完治していないので、ティオが休ませております」
「そうなんだ……残念だなあ。伊織先輩は?」
「『これなんてエロゲばい』と叫びながら、泣いて走り去っていかれましたが……今は部屋に閉じこもっておられるはずです。『えろげ』というものが何なのかは存じませんが、どうやらイオリ様には刺激の強い光景だったようで」
「あ、ああ、そう……」
そして、悠たちの救出に来てくれた他の仲間たちの様子も教えてもらう。
省吾がまだ起き上がれないことを除けば、みんな無事だそうだ。
アリエスも、あのまま自力で脱出し、いつの間にか姿を消したのだという。ルルが言うには、命に別状があるようには見えなかったとのことである。
カミラのことを思うとまだ胸がひどく痛むが、彼女が守ろうとしたレミルもまた、無事に夢幻城を脱出していた。
ただし、レミルは貴重な夢人であり、帝国外の勢力“夢幻”ただ一人の生存者である。
その立場は、非常に危うい。そんな彼女を守るために、カミラから託されたものがあった。
「あの……カミラさんからもらった、紙束と、あと本は……」
「ご心配なく」
ルルが、誇らしげに胸をそらした。
ふさふさの尻尾が、ぱたぱたと揺れている。
「しっかりと私が持ち出して保管しておきました……と、いうよりですね。すでに、おおむねの状況が終了しております」
「……え?」
語るルルの狼耳が、ぴくぴくと動いていた。
何らかの音を拾っているのだろうか。
耳を澄ませば、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる足音があった。
こちらに近づき、止まり、そしてドアがノックも無く勢いよく開く。
「ユウ!」
褐色の少女。
銀の髪と金色の瞳、あどけない愛顔は、八重歯の覗くきらきらした笑顔を浮かべていた。
「レミル! 良かっ……わふっ!?」
レミルが思いっきり飛びついてきた。
ぎゅっと抱き締められ、幼顔をお腹にぐりぐりと埋めてくる。
「ユウ! ユウ! 良かったのだ! お前もミコも無事だったのだー!」
「……うん、レミルのおかげだよ。あの部屋のおかげで助かった」
「そっかー、うん、本当に良かったのだ……本当、に……ぐすっ」
レミルがぐずる声。
その頭をぽんぽんと優しく撫でながら、悠は問いかけた。
「でも、君が出歩いて大丈夫なの? その、“夢幻”のこととか――」
「――私が一晩でやっちゃいましたー!」
テンションが高く、それでいて知性的な声。
何事かと声のした方へと顔を向ければ、一人の少女が自慢げに片手を上げて立っていた。
大和撫子然とした、怜悧な美貌。艶やかな黒髪を、腰まで伸ばしている。
雨宮玲子。彼女もまた、しばらくぶりに会う仲間だった。
「玲子先輩! 来てたんですか!」
玲子はにんまりと得意気に微笑みながら、歩み寄ってくる。
「ま、こんなこともあろうかと、ってやつよねー。戦闘じゃ足手まといになるから行かなかったけど」
曰く、ブリス商会やその他の帝都の情報筋から、悠たちが“夢幻”の生き残りを保護する可能性を考慮していたのだという。その誰かの立場を保全するために、自分のコネや交渉術が役に立つのでは、と考えていたそうだ。
夢幻城が出現するおおむねの場所を絞り込み、朱音たちが急行できたのにも、玲子のもたらした情報の一助があったようである。
そして、悠が瓦礫に埋もれている間に、カミラから託された他勢力の重要情報を交渉材料として、ラウロと話を付けてくれたのだ。
レミルが正式に軟禁状態から解放されたのは、身体の検査を一通り終えた今しがただった。
「レミル様は、来賓として遇されるそうですよ」
つまりは丁重に扱われる、ということだ。
“夢幻”は多くの勢力を敵対したことがあるが、同時に彼らに救われ、義理や感謝の念を抱く国家や集団も少なくない。
その中には、多国連合軍である“覇軍”に組み込まれた小国や民族もあるようで、そういった部分にかかわる駆け引きも絡んだ政治的配慮のようだ。
夢幻城なき今となっては、せめてブラド・ルシオルの遺児たるレミルの存在を対外的にも明らかにし、政治的に最大限に利用するために厚遇しようということなのだろう。
皮肉なことだが、もし夢幻城が健在であったならば、その計り知れない軍事的有用性を優先し、利用するため、レミルは人質のような扱いを受けていたのかもしれない。丁重に扱う必要が無いということであれば、希少亜人種である彼女は何らかの実験の対象にもなっていたかもしれない。
少なくとも、帝国幹部の一人であるラウロはそのような判断を躊躇なく行う男であろう。
「んふふ、下手したら奴隷同然の待遇だってあり得たんだからね、私のおかげよー? じゃあ、レミルちゃん、お姉さんにご褒美を……」
「ぎゃー!」
手をわきわきさせながらにじり寄る玲子に、レミルが悲鳴を上げた。
「来んな! 礼は言うけど来るなへんたいー!」
「何したんですか玲子先輩……」
「いや、さっき起き上がれないアイアンタイガーちゃんのむちむちボディを堪能したから、レミルちゃんのろりろりボディで口直しを」
「何してるんですか玲子先輩!」
「悠君のぷにぷにボディでもいいのよ?」
「やめてください。ていうかぷにぷにって言わないでください……」
気にしているのに。
鍛えても鍛えてもこの再生能力は、身体を筋肉に負荷がかかる前の状態に戻してしまう。いつまでもその身体は、丸く柔らかなボディラインを保ち続けてしまうのだ。
悠が顔立ちだけでなく、身体付きまで女の子っぽいと言われる理由の一つであった。
なりたい、いつかなりたい。省吾のような、筋骨隆々の逞しいむきむきの身体に。
一度でいいから、力こぶを作ってみたいのだ。
「……むきむきしたいです」
「気持ち悪いんじゃないかなー」
「気持ち悪いのだ」
「気持ち悪いことになるかと……」
「揃って酷くないですかねぇぇぇ……」
何はともあれ、おおむね事態は良い方向に進みそうである。
自分や皆が頑張り……そして、カミラが命を落とした意義も、あったように思えた。
あらためて安堵の吐息を吐く悠の顔を、レミルが真っ直ぐ見上げてくる。
金色の瞳にやどる屈託のない覇気は、ずいぶんとその強さを増しているように見えた。
「あのな、ユウ……動けるなら、ちょっと外に付き合って欲しいのだ」
言いながら、一抱えほどの小包をかかげて見せる。
カミラの作った、お菓子の包みだった。
巨大な満月が、ジフォールの街を見下ろしてる。
そこは、悠たちがいた宿舎から少し離れた、人気のない林の中だった。
悠とレミルだけで行くことは望ましくないようだが、ルルと玲子が上手いことやってくれたようだ。
「……レミル、お願いした通り僕の寿命のことは」
「分かってる、我とユウの秘密なのだ」
レミルは、いーっと口にチャックをかけるような仕草をする。
だがすぐに、その表情が気まずげに曇る。
「でも、我が言えることじゃないかもだけど、ミコやイオリ達に秘密にするのは良くないと思うのだ」
「うん……もうちょっとだけ、ね。もう少し勇気が出たら、言えそうなんだ」
感情のままにレミルに寿命のこと打ち明けたおかげで、ある程度のふんぎりは付いている。
だが、それを告げれば今の自分を取り巻く環境が変わってしまうかもしれない。
今の人間関係が心地よかった。
もう少しだけ、そこに浸らせて欲しかったのだ。
「んーと……ここがいいかな」
点在している切り株の一つに並んで腰かけ、レミルが小包を開いた。
中身は大きめのクッキーといった感じである。
冷めても食べられる、日持ちのするレシピを考えたのだだろう。
……自分の最後を知りながらカミラが作った、最後の料理だ。
「先輩たちには?」
「ミコとイオリには、もうあげたのだ」
「そっか、じゃあ……」
いただきます、と手を合わせ、1枚を手に取る。
しっとりした手触り、見た目は素晴らしく美味しそうだ。
まずひと口。良く噛み、味わう。
その感想は。
「……何というか」
「不味いのだ。何も成長していないのだ」
「うん……」
どうにも舌が受け入れがたい奇妙な甘さが舌を蹂躙する。
荒野のような後味が、脂のように舌と喉にへばりつく。
何が悪かったのか良く分からないその味を、しかし悠は噛み締めるようにして味わう。
瞬間記憶の及ばないその舌が、ずっと覚えているように。
その味を、忘れないように。
「うぅぅ……めっちゃ不味いのだ……」
文句を言いながらも、レミルはすでに2枚目に手を伸ばしていた。
小さな口いっぱいに頬張って、よく味わいながら飲み込む。
「あのな、カミラの料理って、さっさと手抜きして済ませた時はちょっと不味いぐらいなのだ。気合を入れて作るほど、不味くなるのだぞ」
「……そうなんだ」
ようやく1枚目を食べ終わったクッキーは、非常に不味い。
迷いなく、2枚目に手を伸ばす。
「ほんとに、不味いの、だ……不味過ぎる、のだっ……」
「……そうだね、涙が出るよね」
嗚咽混じりの声を漏らしはじめるレミルの頭を撫でながら、悠は2枚目を食べ終わった。
クッキーはあと3枚。
さて、と手を伸ばした、その時。
「えっ?」
悠の取ろうとした1枚が、ほっそりとした白い指に持って行かれた。
誰かが後ろに立っている。
帝国側の誰かなら、あまりよろしくない状況である。
若干の焦燥とともに振り返ると、
「ボクももらってもいいよね?」
クッキーをくわえた、一人の少女が立っていた。
闇夜の中にあってすら、まったく色褪せない蒼がなびく。
まるで、そこにだけ青空が具現化しているような錯覚を覚えた。
悠を見下ろすその顔立ちは、幻想的なまでに美しい。
「……アリエス」
「やっ」
蒼穹の少女が、無邪気な笑みを浮かべていた。
すみません、思ったより話が進まなかったのでここで切ります。
3章はあと2話続きます。
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