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第6話 -藤堂 朱音-

 悠は、夢を見ていた。

 それは悠が藤堂家の世話になる初日のこと。悠と朱音の出会いの出来事である。


 春の終わりが近い、やけに暑い日であった。

 本来、悠は藤堂正人と共に藤堂家に行くはずだったのだが、正人に急に重要な仕事が入ってしまったのだ。それでも彼は何とか時間の都合をつけるつもりであったようだが、その頃には悠も正人のしている仕事が多くの人々にとって大事な内容であることを知っていた。だから自分一人でも大丈夫だと辞したのだが、彼は娘である朱音に連絡し、迎えに来てくれるように頼んだのだ。


 悠にとって、初めての一人での長距離移動であり、悠は内心では興奮と期待で胸を高鳴らせていたものだ。

 そして、都内の駅で人混みに目を回していた悠の前に、一人の少女が現れる。


 綺麗な少女だった。

 悠と同い年のはずだったが、その発育の良さもあるのだろう、15歳とは思えない美貌を備え、軽装であるがお洒落な服装がその容貌を見事に引き立てていた。


「あたしが藤堂朱音よ。よろしくね。 ……悠、でいいかな?」


 彼女――朱音は、そう優しげに微笑みかけてくれたものだ。むっつりとした不機嫌な様子など、微塵も無い。

 緊張していた悠は、その態度にどれほど救われたことだろうか。

 悠も満面の笑みで応え、


「僕は神護悠、悠でいいよ! 僕も、朱音って呼んでいいかな?」


「もちろんっ。じゃあ行きましょうか、悠」


 藤堂家に向かう途中も、朱音は悠と仲良くなりたいのだと気さくに話しかけていた。

 悠も同年代の相手と外に出てからきちんと話すのは生まれて初めてのことで、すっかり舞い上がった。悠も仲を深めようと頑張り、時折変な事を言ってしまうこともあったが、朱音はそれも個性的と好意的に受け取り、朗らかな笑顔を見せていた。


 藤堂家に到着する頃には、悠と朱音の仲はかなり深まっていたと思う。

 藤堂家は武家に列なる血筋の家で、先祖から代々受け継がれた土地に建てられたその家は、“屋敷”と呼べるほど立派なものだった。


「凄い! 凄いね朱音! まるで時代劇みたいだ!」


「まあ、元々お侍の家だから。……でも掃除が大変なのよね」


 朱音は苦笑しながら敷居を跨ぐ。

 その日は記録的な猛暑で、藤堂家の玄関に辿り着く頃には二人はすっかり汗だくになっていた。

 朱音は胸元を無防備に開けて涼みながら、


「今日はほんと暑いわねー……汗びっしょり。悠、まず一緒にお風呂入ろっか? 家のお風呂、凄く広いのよ」


 と、屈託の無い笑顔で悠を風呂に誘う。

 一刻も早く汗を流したいのは悠も同じで、一も二も無く頷いた。


 ……現在の悠は、当時の己の無知と察しの悪さをひたすらに悔いている。


 藤堂家の敷地内には道場があり、浴場は道場に隣接していた。昔は、多くの門下生がそこで汗を流すこともあったそうだ。

 和風の脱衣所に入り、朱音は手早く服を脱ぐが、悠はあまり着慣れない服なのでもたついていた。


「悠、先に入ってるからね」


 四苦八苦していた悠が振り向くと、一糸纏わない瑞々しい裸身があった。

 若々しく張りのある玉の肌、適度に引き締まった健康的な肢体、豊かな胸の双丘と丸いお尻の肉付きは、15歳という年齢にあるまじき蠱惑のラインを主張していた。既に女性としての色香を備えた早熟の曲線美を惜しげも無く晒し、朱音が立っている。

 綺麗だと、悠は心からそう思った。いつまでも見ていたいと思える美しさだ。特に卑しい意味は無く、その時の悠は、純粋な意味で朱音の裸身に見惚れていた。


「ど、どうしたの、じっと見て……」


「その……綺麗な身体だね、朱音」


「な、何言ってるのよ、もうっ」


 朱音は照れ笑いを浮かべ、風呂場へと消えて行く。

 そして、悠も数分を要して遅れて風呂場へと入った。


 10人以上が同時に入れそうな広々とした和風の浴場で、朱音は鼻歌をうたいながら、髪を洗っていた。

 悠は、シャンプーが入らないよう目を瞑っている朱音の隣に腰掛け、同じように身体を洗って髪を洗う。

 身体にこびり付いた汗が流れる感触が気持ち良く、悠はしばしその感覚に浸っていると、


「えいっ」


「わわっ!?」


 突然、朱音が後ろから抱き付いて来た。

 濡れた肌と肌が触れ合い、背中に密着した彼女のたわわで柔らかな胸がぐにぐに形を変える感触に、悠は未知の感覚と幸福感を覚える。



「悠の身体だって、凄く綺麗じゃない。肌なんて雪にみたいに真っ白。うわ、すべすべしてる、羨ましいなあ」


「ちょ、ちょっと朱音! くすぐったい、くすぐったいよぉ!」


 彼女なりのスキンシップなのだろう、朱音の手が慌てる悠の身体を弄っていく。その大胆な、それでいて優しく解すような感触は、これまた未知の感覚であり、悠はすっかり硬直してしまっていた。

 朱音は、悠の薄い胸に手を這わせながら、


「胸だってまだこれから大きくなるわよ、きっと。まだ成長期なんだし」


 ――えっ?

 と、当時の悠はそこで何かが致命的に食い違っていることに気付く。


「朱音、僕はお――ひぁっ!?」


 男だよ。

 そう言う前に、朱音の手が悠の下腹部に伸び――悠の股間に触れていた。


 掴まれた。

 握られた。

 その手の力は、思いの外強い。


 全身を鷲掴みにされたような、本能的な恐怖が背筋を凍らせた。

 悠は身体をぴくんと跳ねさせて、そのまま硬直する。


「……へ?」


 朱音の間の抜けた声。

 その感触の正体を探ろうと、身を乗り出して悠の股間を見て、


「――――」


 絶句。

 しばし、風呂場の時間が凍り付いた。


 朱音はその裸身を悠の背中に密着させ、悠の股間に手を伸ばしたまま、固まっていた。

 悠は朱音に色々な意味で致命的な部分を握られたまま、固まっていた。


 やがて、時間が動き出し、


「ひっ――――きゃああああああああああ!?」


 理解が追いついた朱音の、引き攣った声が漏れ――少女の絹を裂くような悲鳴が、藤堂家の広い敷地に響き渡った。


 ……悠は、研究所にいた間は服を着ることも出来ずに1日を過ごすことも多かった。

 そしてそれは、男女問わず他の子供達も同様であったし、異性に裸を見られて羞恥することも、異性の裸を見て興奮することも無かった。

 それ故に、当時の悠にとっては、異性に裸を見られることがとても恥ずかしいことである、という認識が無かったのだ。


 そして父から写真と名前の連絡を受けていた朱音は、その容姿と名前から、悠を同い年の少女と勘違いしていた。正人から朱音に送られたメールはかなり慌てていた内容で、誤解の予知を残すものだった。彼も疲れていたのかもしれない。

 悠の境遇と、中性的な名と容姿が生んだ悲劇である。


 朱音の悠に対する態度はすっかり刺々しくなり、あの日の気さくな彼女はそれ以来、一度も見ていない。

 それは1月が経過した現在も続いている――






「……んんっ」


 麗らかな陽射しに抱かれる暖かな心地良さがある。

 頬を撫でるそよ風が、気持ち良かった。

 どこからか、鳥の囀りが聞こえてくる。


 朝だ。

 藤堂家の朝は早い。

 今は何時だろうか、早く起きなければ。

 眠りが浅く、朝に弱い悠にとって、なかなかの難事である。


 藤堂親子が朝の鍛錬中なら、今日こそ朝食の用意を買って出てみようか。レシピは暗記している。きっと、美味しい料理が作れるはずだ。


 悠は、この1月で染みついた習慣に従い、むくりと身を起こした。

 寝惚けた眼を擦りながら目を開き、


「……あれ?」


 視界に映る光景に、間の抜けた声を漏らす。


 そこは、藤堂家に用意された悠の私室ではなかった。


 時代がかった建物である。

 壁は石造りで、そこに開いた窓から陽射しとそよ風が入ってきていた。

 机や箪笥などといった一通りの木製の家具が配置されており、悠はベッドに寝かされていたようだ。


 ここは、一体――


「ん……ゆう……」


 困惑する悠の耳に、下から囁くような声が届く。

 悠は視線を落としながら、自分の太腿のあたりに重みを感じることに気付いた。


「朱音……?」


 朱音が、悠の太腿を枕にして眠っていた。

 悠の寝かされているベッドの傍らの椅子に座り、悠の太腿に突っ伏すようにしながら、悠に寝顔を見せている。

 その寝顔は、安らいだような微笑みを浮かべていた。

 それはあの夢の中、二人の出会いの時に浮かべていた表情に似ている。


「う……」


 つい、夢のその先まで思い出し、悠の脳裏に彼女の瑞々しい裸身が浮かんでしまった。

 赤面する悠の前で、朱音が悠に太腿に頬擦りをするように身動ぎしながら、


「う……ん……」


 と、心地良さげな寝息を漏らしていた。

 あまりにも無邪気で幸せそうな姿で、悠は微笑ましさから、つい彼女の頭に手を乗せ、そのさらさらとした黒髪を梳かすように撫でる。


「あっ……」


 しまった、女の子の頭に、髪に軽々しく触れてしまった――すぐにそう思い至り、手を除けようとするが、


「んにゃあ……ゆ……」


 朱音は、猫のような甘い声を漏らしながら、その表情を一層緩める。

 喜んでいるのだろうか……?

 そう思い、悠は行為を継続する。

 なでなでとされる度に朱音は気持ち良さそうに身動ぎし、自分から求めるように頭を動かす。より撫でやすい位置に頭が来たため、悠はなでなでなでなでと、


「ふゅ……んぁ……」


 朱音が、蕩けた声を漏らしながら、目を開けた。

 半開きの瞼から見えるとろんとした眼が、少しずつ焦点を結んでいく。


「んー……?」


 まず、その眼は悠へと向けられる。

 そして悠の腕へ、その腕がどこに伸び、その手がどこに乗せられているか、自分の頭の上を見るようにしながら、ぼんやりと考えているようで、


 その頬が、火を吹いた。

 跳ねるように、椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。


「なっ……何やってるのよぉっ!?」


「ご、ごめんなさいぃっ!」


 朱音の突然の行動に悠もびくりと肩を震わせ、謝罪の言葉を吐く。


 朱音は、顔を真っ赤にして口元を震わせながら、悠を半眼で睨んでいた。

 その動きにはいつもの活力が満ち、その両足はしっかりと床を踏み締めており、怪我をしている様子はどこにも無かった。


 良かった――心のどこかがそんな思考を浮かべ、


 今までの出来事の記憶が、洪水のように脳裏を満たしていく。

 漆黒の空間、異形の森、蜘蛛のような怪物、

 魔族との戦い――


「朱音さんっ!」


「は、はいっ!?」


 悠の色めき立った様子に、今度は朱音がたじたじの体を見せる。

 そのまま悠は朱音に駆け寄ろうとして、


「あ……わわっ!?」


 ベッドの縁からうっかり手を滑らせ転がり落ちた。間の抜けた体勢のまま、床に腰を打ち付ける。


「いったぁ……」


「ちょっと、何してんのよ鈍臭いわね……!」


 腰を抑えて呻く悠に、朱音が慌てた様子で駆け寄ってくる。

 悠の顔を下から覗き込むようにするその表情は、とても心配そうであった。

 眉根を寄せ、朱音が問うてくる。


「大丈夫……?」


「う、うん……何ともないよ」


 仮に怪我をしていたとしても、どうせすぐに超再生で回復するのだけど。

 悠の平気そうな顔を見て、朱音は小さく安堵の息を漏らした。


「そう……とにかく、まだ無理しないの。あんた、あの森で倒れてから今までずっと気を失っていたのよ?

 ……まあ、あたしも似たようなものなんだけど」


 そう言いながら、悠を起き上がらせてベッドに戻す。

 まだ身体に怠さがあったのも確かで、悠は彼女に勧められるがままにベッドの上に座る。

 朱音も椅子を起こして、腰を下ろした。


 開け放たれた窓から入り込むそよ風が、二人を爽やかに撫でていく。


「……朱音さん、背中は大丈夫なの?」


 聞きたいことは色々とあるが、一番気がかりなのはそれだ。

 あの森で朱音は、背中を強かに打ち付けていた。その後は何とか動いていたようだが、何らかの異常が残らないとも限らない。


 悠の問いに、朱音はどこか釈然としない様子で、


「……今は元気よ。あの時は、実はかなりズキズキしてたし、結構腫れてたんだけど」


 そう言いながら自分の背をさすっている。

 少し気味悪がるような調子で、言葉を続ける。


「凄いわね、ファンタジー世界の医療技術って。今は痣一つないわよ」


 ――ファンタジー世界。

 そういえば、朱音の着ている服は、どこか牧歌的な雰囲気すらある簡素な服装であった。

 悠自身も見慣れないゆったりとした衣装である。


「ここはやっぱり……異世界なんだ?」


 朱音は、悠の言葉に不満げに鼻を鳴らしながらすぐ近くの窓をしゃくった。


「見てみなさいよ」


 朱音の言葉に従い、まだ血が不足し気怠さのある身体を起こして悠は窓から顔を出し、外の景色を視界に入れた。

 この建物は高台にあるのか、窓から外の広々とした景気が見えた。


「これ、は……」


 剣と魔法のファンタジー世界。


 その言葉を多くの15歳の少年少女に告げれば、かなりの確率で類似した情景が思い起こされるのではないだろうか。

 つまり、一般的な中世ヨーロッパをイメージする石造りの城や、日本ではあまり見られないような古めかしい石やレンガ、木造の街並みに、牧歌的な服装の一般人や鎧と剣や槍で武装した兵士がいるような、そんな景色である。


 悠の目の前の広がる景色とは、まさしくそれだ。

 まるで、ゲームや映画の世界に入ってしまったかのような錯覚を覚える光景である。


 異世界セレスフィア。

 そして、ここは――


「フォーゼルハウト帝国の街の一つらしいわよ。メドレアっていう街の城だって」


 朱音が、ため息混じりの投げやりな口振りで言う。


 あれだけ異常な経験をしたのだ。覚悟はしていた。

 だが、いざこうして突き付けられて見ると、途方も無い脱力感が身体と心を襲う。

 しばし呆けていると、朱音の思い出したような言葉がかかる。


「……ところで、あんたあの力は使える?」


「あの力……ああ」


 悠の障壁や剣、朱音の脅威的な身体能力、この世界でいうところの魔道とやらのことだろう。

 どうして今そんなことを、と思いながらも悠は“壁”を生成しようとして、


「……あれ?」


 出ない。

 あの感覚を忘れた訳ではない。だが、何か歯車が噛み合わないというか、道が見えないというか……とにかく、魔道の発現に至ることができない。


「やっぱりね」


 朱音が忌々しげなため息を吐く。

 その反応は、どう見ても悠の魔道の不発を予測したものだ。


「ど、どういうこと……?」


「この街の中だと、あたし達はあの力を使えないみたいよ。

 たぶん、逆らえないようにするためでしょうね」


 恐らく、それは正鵠を射ている。

 あの力は、常人を遥かに超えた戦闘力を実現している。特に朱音の身体能力は武装した兵士程度では相手にもならないはずだ。


「……あれから、どうなったの?」


 あの森で力尽きるように気を失ってから、ここで目覚めるまでの記憶が無い。

 フォーゼルハウト帝国の都市の一つに搬送されたということは理解できるが、帝国は悠達にとって今の事態の元凶のような存在だ。

 その懐とも言える帝都にいるという今の状況は、あの異形の跋扈する森とは別種の危地と言えるだろう。


「クラスの、皆は……」


 それに、クラスメートの皆はどうなったのだろうか。

 ルルと名乗った獣耳の女性からまたこの世界にはいない、という主旨の言葉は聞かされていたが、では彼等はどこにいるというのか。


「あたしも良く知らないわ」


 朱音は、むすっとした顔で腕と脚を組んでおり、不機嫌そうな様子である。

 あの森でのクラスの皆を巡る遣り取りを思い出し、悠は少しばかり委縮する。

 そんな悠の様子を見ながら朱音は小さく嘆息し、


「あたしもあの後、気を失って目を覚ましたのは少し前なのよ。

 だから大した話は聞いてないし、詳しく聞かれても分からないわ。あんたが起きたら話を――」


 コン、コンと部屋のドアを丁寧にノックする音が聞こえた。


「ユウ様、よろしいでしょうか?」


 女性の声がする。どこかで聞いた覚えのある声だ。

 しかしクラスメートの声ではない。


「帝国の人間だわ。迂闊に気を許すんじゃないわよ」


 朱音の小さく、だが鋭い声。


「……どうぞ」


 悠は頷き、声に緊張を含ませながらも部屋に招いた。


「失礼します」


 入って来たのは、一人の若い娘である。

 見覚えのある女性であった。


「あなたは……」


 犬のような耳と尻尾を備えた、薄桃色の髪の綺麗な女性。 

 その均整の取れた肢体に、いわゆるメイド服のような服装を纏っている。

 細い首には、まるで囚人や奴隷を思わせる首輪が付けられていた。


 あの森で、5体の魔族を一瞬にして屠った弓使いの娘――ルルだ。

 彼女は悠達に目を伏せて笑みを作り優雅な動作で一礼しながら、


「ユウ様、アカネ様、改めてご挨拶させていただきます。

 わたくしはルル。本日よりしばらく、ユウ様のお付きの奴隷としてお世話をさせていただく者です。どうか、何なりとお申し付けください」


「……はぁっ? 奴隷!?」


 朱音の素っ頓狂な声が部屋に響く。


 悠もまた、ルルの言葉に呆気に取られていた。

 昨日の魔界でもそうだが、奴隷などという重い言葉が当たり前に出てくることに面食らってしまう。

 奴隷? 自分に? 何故?


「い、いきなり奴隷とか言われても困るんですけど……」


 そんな悠の様子にルルは、にこりと安心感のある笑みを浮かべる。


「あまり深く考えず、ユウ様のお好きなように便利にお使いくださいませ。ただ、その――」


 ふっと、彼女の表情が翳った。

 その感情を表すように、獣の耳がぺたんと寝る。尻尾もしゅんと垂れ下がっていた。


わたくし共のことを、恨んでらっしゃると思いますが……そのご不満も私がお受けしますので、お静まりいただけると幸いです」


 悠達を召喚したフォーゼルハウト帝国――その構成員は、悠達にとっては怨敵と言ってよい相手だ。

 その奴隷であるルルも、広義にはその一人と言えるかもしれない。

 では、ルルのことも敵視しているのかと言われれば――


「……いえ、あの時は助けてくれてありがとうございました」


 悠は、微笑み返した。

 彼女も帝国側の人間ということに変わりは無いかもしれないが、あの森で窮地を救ってくれたことには違いない。

 それに、彼女の物腰穏やかな振る舞いからは、内面の誠実さが滲み出ているような気がした。

 個人的には、彼女はそう悪い人間ではないと思うのだ。


「……ふんっ」


 朱音は、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 ルルへの警戒心も露わに彼女を鋭く睨んでいる。

 だが明確な拒絶の言葉は無く、ルルが行動を共にすることについては異論は無いようだ。

 

「ユウ様、アカネ様……ご寛恕かんじょ、痛み入ります」


 深々と恭しく頭を下げるルル。

 そして頭を上げた時、その表情は真剣に引き締まっていた。


「帝国魔道省のラウロ様より、此度の召喚についての説明を行いたいそうです。

 ……ユウ様のお身体のお加減は如何でしょうか?」


 悠と朱音の表情が、苦み走ったものに変わる。


 魔道省……ラウロ・レッジオ。

 あの爬虫類じみた陰湿な雰囲気の男を思い出し、悠は固唾を飲んだ。

 悠達を巻き込んだ元凶ともいえる人物が、悠に会おうとしている。


「……大丈夫です」


「了解しました」


 ルルは頷き、「少々お待ちくださいませ」と恭しく礼をして部屋を去って行った。

 小首を傾げる悠と朱音が待つこと数分。


 彼女は、何やら奇妙な器具を運びながら戻ってきた。

 人ひとりが立てそうな鏡のような台座、ポールに取り付けられた輪が台座を囲むように配置されている。天井部分も鏡のような材質に覆われていた。

 ルルがてきぱきと何やら操作をして、


「……では、接続します」


 台座と天井から光が伸びる。

 それは、周囲を囲む輪から漏れることなく収束し、やがて一つの形を成していった。


 台座の上に立つのは、半透明の男である。

 軍服らしき黒い衣装に身を包む、金髪をオールバックにした男。能面のような、うすら寒い笑みが印象的だ。


「ラウロ……!」


 朱音が、唸るような声を漏らす。

 今にも噛みつきそうな表情で、歯を剥いていた。


『やあ、おはよう二人とも、元気そうで何よりだよ』


 ラウロ・レッジオ。

 あの黒い空間で現れた男が、亀裂のような笑みを浮かべながら立っていた――

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