第32話 ―凌辱の衝動―
エロ注意。1章、2章よりはあっさり描写かと思いますが。
夢幻城が崩れ落ちる中、悠と美琴は何とかレミルの寝室へとたどり着いた。
このような万が一の事態を想定していたのだろう。配置されている家具は、激しい揺れの中にあってもビクともしていない。小物が飛び散らかっているが、致命的な重量物に衝突されるような心配はないようだった。
「うぅっ……!」
「くっ……!」
悠と美虎は、何度も寝起きをしたベッドの脚に必死にしがみ付き、暴力的な震動に耐え続ける。
ときおり、何か小さなものがぶつかってくるが、我慢した。
目をつぶり、口を閉ざし、上下左右に揺さぶられ、いったいどれほどの時間が経過しただろうか。
一際大きな震動が部屋を襲った後、室内はしんと静まり返っていた。
悠が、おずおずと目を開きながら、周囲を見渡す。
「……終わった、のかな?」
「たぶんな……」
美虎が、呻きながら立ち上がった。
よろよろと千鳥足で、ドアへと歩く。
ノブに手をかけ、押し開けようとして、
「……駄目だ、ビクともしねえ。瓦礫に埋もれちまったのかな」
舌打ちして、諦めた。
そのままドアに背を預け、ずるずると座り込む。
その口調や態度とは裏腹に、その座り方はとても女の子らしい。
「あー……空気とか大丈夫なんだろーな、くそっ」
「こういうことが想定されてるなら、たぶん大丈夫なようになってるとは思うんですけど……」
今のところは、息苦しさは感じなかった。
部屋の照明も、うっすらとだが機能している。
内部電源のような魔道装置の補助が、室内に組み込まれているのではないだろうか。
何があっても、レミルの身は守ろうとしたのだろう。
「みんなは、無事に脱出できたかな……」
「できたって、信じるしかねえだろ。運動神経のいい奴ばっかりだし、オレは大丈夫だと思ってるよ」
「でも……アリエスが」
「……ああ」
美虎を庇い、悠の凶刃を受けたアリエス。
常人ならば、即死するほどの致命的な傷であった。
いかに彼女が“蒼穹の翼”と称された、“天”と渡り合ったことのある猛者といえど、人間であれば弱点は変わらないはずだ。
それこそ、自分のように異常な体でない限りは。
瓦礫の向こうから聞こえてきたアリエスの声は、存外に元気であった。
だがそれが、最後の強がりだったという可能性は否定できないのだ。
「……っ」
自分が、あの娘を殺したかもしれない。
その可能性に、悠は身を震わせていた。
「気持ちは分かるけどよ……今そうやって悩んでても仕方ねえぞ。それに、だ……ほら、思い出してみろよ、あの傾奇ジジイのこと」
悠の脳裏に、斑模様の着物を羽織った痩躯の男が想起される。
「……マダラさんですか?」
「ああ、あいつなんて、脳天から真っ二つにしてもカカっとか言いながら生きてそうじゃねえか。ああいう連中とやり合える女なんだから、アリエスだって何とかなっててもおかしくないと思わなねえか?」
「そう、ですね」
自分に都合の良い、逃避めいた考え方だが、それでも救われたような心地であった。
さすがに人生経験が違うのか、グループのリーダーを務めていた故か、美虎は悠の懊悩を、確実に軽くしてくれていた。
「ありがとうございます、美虎先輩……それと」
悠は、美虎に向かって頭を深々と下げて床にこすり付けた。
土下座の姿勢。
今の自分にできる、精一杯の謝罪の意思表示だった。
「ごめんなさい……! 僕、先輩をもうちょっとで……アリエスがいなかったら、僕は……!」
美虎の首を、刎ねていただろう。
当然、自分の意思では無かった。
だがそんな言い訳じみたことを口にして、何の意味があるだろうか。
「あんなことしておいて、許して欲しいなんて都合のいいこと言いません! ただ、僕のできることなら何でもしますから。どんなことをしても、美虎先輩はぜったいに外に戻しますから! その後だって、ずっと言うこと聞きますから!」
命を奪いかけた償いとしては、それでも軽すぎるぐらいだろう。
許しを求めるという行為自体がおこがましい。
美虎は、そんな悠をまんじりと見つめていた。
「あの時……レミルと同じ状態になったって、ことか?」
「たぶん……」
神殻武装の暴走。
レミルよりは適応があるらしい悠は、完全に意思を失っていた彼女よりはマシな状態ではあったのだろう。
しかしあの瞬間、紛れもなく悠は、殺人機械として動こうとしていたのだ。
「そういうリスクのある武器だっていうのは、聞いていたんです。確かに出してる時はどうしようもなく暴れたくなって、でも、ユギルの時は耐えられてたはずなんですけど」
暴力衝動――否、殺人衝動。
起動した神殻武装からは、常にその波動が流れ込んでくる。
ブラドは、悠ならばと信じて託してくれたのだが、現実はこの様であった。まったく、情けない。
「今は、どうなんだよ?」
悠は、自分の胸をぎゅっと抑える。
その中には、粘つく熱い衝動がこびりついていた。
「まだ……違和感はあります。でも、殺したいとかそういうのは、もう無くなってます。このまま治まってくれればいいんですけど」
美虎は、深々と嘆息して天井を仰いだ。
「……あんまり多用できる武器じゃねぇってことか。そうそう都合よくはいかねーな」
「そうですね……あんまり頼っちゃいけないと思います」
まさに切り札。
やむを得ないような窮地にのみ使うべきものだろう。
しかし、この衝動は何なのだろうか。
破壊でも暴力でもない。ただ人を害することを欲する衝動。
衝き動かされた肉体が意思を凌駕するほどの、耐え難い悪意の奔流。
あたかも、自分が人間を殺すための存在になったような。
これではまるで、あの異形の怪物たちのようでは――
「あのっ……美虎先輩!」
悍ましい思考を振り払うように、悠は声を上げた。
美虎は、きょとんと目を丸くして続きを待つ。
「僕を、縛ってくれませんか?」
「は?」
素っ頓狂な声。
美虎の眼差しが、胡乱げなものに変わっていく。
「その、また暴れるかもしれないし、そうした方が、先輩も安心できるんじゃないかなって思うんです……僕も、その方が安心なんで」
「あー……あのな」
理解の及んだ美虎は、頭をぽりぽり掻きながら面倒くさそうに息を吐く。
傷持つ美貌が、微苦笑を浮かべていた。
「別にな、怒ってはいねえからな? そりゃ、まあ、なんだ……驚いたし、その、怖かったけどな。でも、お前があの剣使ってなきゃ、全員とっくに死んでたんだからよ。オレがぎゃーぎゃー文句言うのも、筋が通らねえだろ」
「で、でも……」
「分かってる、分かってるよ。気持ちは分かるし、オレだってお前の立場だったら似たようなこと言うよ、きっとな」
言いながら、美虎は疲労を滲ませた動きで立ち上がった。
「まあ……縛るもんが都合良くあればいいんだけどな……」
二人して、きょろきょろと周囲を見回す。
室内には小物が散乱しているが、悠が期待しているような用途を果たしそうなものは、パッと見では見当たらなかった。
最悪、シーツを代わりにすることも考えながら、二人で部屋を物色しはじめる。
壁と一体化した引き出しを覗き込みながら、美虎が言った。
「たぶん上手に縛れねーけど、文句言うなよ?」
「いや、それは期待してないですけど……」
「クロなら上手いんだけどなあ」
来栖ざくろ。いつもぼんやりと眠そうな顔をしている、美虎の取り巻きだ。
かなり天然気味の、マイペースな少女である。
「あの娘、そんな濃ゆい特技あったんですか……」
「今の彼氏がそういう趣味なんだとよ。縛られて痛めつけられるのが好きなんだと」
「へ、へえ……」
まあ、趣味はそれぞれだろう。
朱音も、ティオも、ルルも、同じこともしても反応が違ったりするし――
「ひ、ヒモとか無いかなあ!」
危うい方向に逸れかけた思考を、無理矢理に修正した。
しかし、美虎の話は終わっていなかったようだ。
「あいつまだ15歳なのになあ……そーいうのってやっぱよ、きちんと付き合って結婚してからするもんだと思うんだけどなあ」
「いいんじゃないですか? 僕もそう思いますよ」
「でも、モモやクロ達に話したら、古い女だって言われるんだよ。そんなんじゃ、惚れた相手ができてもモノにできねーぞって……男として、どう思うよ?」
「うーん……僕は、いいと思いますけどねー……」
眩しいほどに地に足の付いた貞操観念。
その考えには、まったく同意だった。
例え真剣に付き合っていたとしても、そういうふしだらな関係は控えるのが望ましい。
結婚して、お互いに色々な責任を取る立場と覚悟をしてからするべきである。
ましてや、女性に対して責任も取れないような未熟な男が、付き合ってもいない複数の女性と関係を持つことなど、言語道断だ。
……言語道断なのだ。
そんな男は、最低である。
男として、クズだと思う。
「う、あ、あぁぁぁ……! 僕は、僕って奴はぁ……! 美虎先輩、僕を罵ってくださいぃ……!」
「面倒くせぇなお前!」
自己嫌悪のあまり、悠はその場にくずおれた。
いきなり欝を発症した悠に、美虎は面食らいながらもフォローの言葉を紡いでいく。
「ああ、いや……悪かったな、お前を責めてたつもりはねーんだけど……事情があったことは知ってるって。朱音だって納得済みだろ?」
「へっ?」
美虎は、当然のように悠と朱音の関係を口にした。
ルルとの関係は、すでに周知の事実になっている。ティオとの関係も、まあ察している人がいてもおかしくない。
だが朱音との関係は、誰かは知らない彼女の想い人とやらにも気を使って、秘密にしていたのだ。
「何で知ってるんですカ!?」
思わずティオみたいな口調になった。
美虎は、「あ」と口元を押さえている。どうやら彼女にとって失言だったようだ。
やがて、気まずそうに頬を掻きながら、言葉を続けた。
「……前にな、まあ女子会的な集まりがあってよ。雨宮が酒を持ってきたんだよ」
この世界では、未成年の飲酒は合法である。
まあ、幼い子供には推奨されていなかったりもするのだが。
「それでまあ、眠りこける奴やら、べろんべろんになる奴やら出始めた頃に、だんだん空気がおかしくなってきて、その……そういう方向の話になった訳だ。オレは滅茶苦茶肩身が狭かったけどな!」
美虎の肩がプルプル震えている。
経験はおろか、男と付き合ったことも無いらしい彼女にとっては、とても居心地の悪い空気だったのかもしれない。
「そのまま酔った勢いで、だんだんと話題が際どい方向になってな……んで、話を振られた朱音が、雨宮の挑発に乗って言った訳だ、『あたし、処女じゃないですから。けーけんありますから!』ってな。ありゃびっくりした」
「何言ってるの!? 何言ってるの朱音!」
頭を抱えて叫ぶ悠に、美虎が愉快げに笑みを漏らした。
「まあ……そこから先は、お前は聞かない方がいいかもな。ああ、ちなみに朱音は覚えてねーから、あいつには言わない方がいいぞ、知ったら窓から飛び降りるかも」
「朱音、妙なところで打たれ弱いですからね……」
何にせよ、皆に会うのが気まずい。特に女子グループ。
どんな顔をして話せばいいというのか。
男衆に知られた日には、吊し上げられて裁判にかけられそうである。魔女裁判なみに理不尽なやつだ。
そのまま取り留めもない会話を続けていると、美虎が弾んだ声を上げた。
「……おっ」
何か見つけたのかもしれない。
その期待から、悠は振り向いて、
「何か、あったんで――……」
どくん、と湧き立つ衝動を感じていた。
「うん、これなら……ちょっと待ってろよ……けっこう奥まであんな……」
美虎の無防備な後ろ姿。
改めてみると、あられもない格好であった。
帝国の戦闘服の上着部分は失っており、今は身体のラインを際立たせるアンダースーツのみになっている。むっちりとした曲線美が、惜し気もなく晒されていた。
そのゴム状のアンダースーツも、ところどころが破損しており、素肌がかなり際どく露出している。
たっぷりと丸い柔らかなお尻が、ふりふりと揺れていた。
殺人衝動は、すでに収まっている。
だが別の衝動が、悠を内側から侵そうとしていた。
「な……に……」
女が、いる。
子を産み、人間を増やす存在が、そこにいる。
「や、め……」
汚せ、穢せ、犯せ。
その身に、その心に、拭いきれない傷を刻め。
その胎を、呪い尽くせ。
生まれてくる子を、汚染しろ。
「み……せん、ぱ……」
馬鹿な、馬鹿な。
なんだそれは、ふざけるな。
そんなこと、死んでもやるもんか。
「い、やだ……」
悠の身体は、内なる衝動に操られ、意に反して美虎へと足を進めている。
衝動というより、もはや命令に近い。
それほどの強制力だった。
超越者の意思が、悠の身体を支配しているような気すらしてくる。
最初は操り人形のようにぎこちなかった悠の動きは、次第に肉食獣のような獰猛さを帯びていく。
ようやく声を絞り出せたのは、彼女に飛びかかる寸前であった。
「先輩! 逃げてぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「……え? きゃうっ!」
眼を瞬かせて振り向く美虎を、悠は押し倒した。
あの廊下での暴走と同じ、とてもつもない膂力。
悠より身長も体重もある美虎が、あっさりと組み伏せられる。
「いっつぅ……」
しばらく普通に話していたおかげで、気が緩んでいたのだろう。
美虎は背中の痛みに呻きながら、事態の理解に表情をこわばらせた。
「ゆ、悠……」
青ざめた表情で、悠を見上げる。
悠は、鬼気迫る表情で美虎を見下ろしていた。
「せん、ぱい……に、げ……」
美虎は懸命に抵抗しているようだが、悠の手は両手をまとめて掴んでビクともしなかった。
せめぎ合うように震えるもう片方の手が、美虎の首元へと伸ばされる。
「ひっ」
美虎が、小さな悲鳴を漏らした。
首を絞められた恐怖が蘇ったのだろう。
しかし、その手は違うものを掴んでいた。
あるいは、それは首よりも遥かに悪辣な対象である。
それは、美虎のアンダースーツ。
「えっ――」
そのまま、胸元まで引き裂いた。
たわわな二つの膨らみが、弾けるように外気に晒される。
その一切を隠すことを許されずに、悠の目の前でふるふると揺れていた。
「――きゃあああああああああああああ!」
悲鳴は、か弱い乙女のように悲痛な声色だった。
痛ましい叫びも意に介さずに、スーツを引き裂く手は止まらない。
下へ、下へと――美虎の気丈な言葉遣いが、次第に幼い少女のように弱々しいものへと変じていく。
「おい、やめろっ……いやぁ、やだ、やぁっ、いやぁぁぁっ!」
「や、めろ……止めろよぉ……僕の体だろ、言うこと聞けよぉぉぉぉ!」
二つの叫びの中、びちびちとゴム状のスーツが破ける音が残酷に響く。
美虎の悶える裸身が、次々に露わになっていく。
最後の切れ端が投げ捨てられる頃には、美虎の悲鳴は嗚咽へと変わっていた。
「ひぐっ……えぐっ……」
一糸纏わぬ美虎の肢体が、自分の下にある。
朱音より二回りは大きな双丘、豊かで柔らかな肉付きをした腰回りや太もも、女性的な柔らかさを激しく主張する媚体が、その一切を隠すことが出来ずに震えていた。
悠の膝のせいで、足を閉じることもできない。
その肌は羞恥のあまり、熟れた果実のように赤みがかっている。
「ひぁっ……ぐすっ、見ないで……」
そして、何よりも目を引くのが、その腹部。
その大半を覆う、凄惨な傷痕であった。
涙ぐむ美虎は、何よりそこを見られることを恥じている。
あの姉御肌の少女は、どこにもいなかった。
ここにいるのは、自らのコンプレックスとトラウマに苦しみ、怯えるただの女の子である。
豊満な膨らみの一つを押し潰すように鷲掴みにされ、ぽろぽろと涙をこぼして痛ましく身体を震わせていた。
助ける求める幼子のような潤んだ瞳で、悠を見上げている。
「やめてよ、悠ぅ……」
「あ……あ、ぁぁ」
その間、悠はずっと抵抗していた。
致命的な一線を超える前に、何としても己を止めるべく、魂がねじ曲がりそうなほどの気力を振り絞って、身体のコントロールを取り戻そうとしていたのだ。
その努力が、ようやく実を結ぶ。
「う、ごけぇぇぇぇぇぇぇ!」
左手が、自由を取り戻す。
即座に疾らせた。
目的は、先ほどから床に転がっていた、ペンである。
万年筆を思わせる、鋭利な先端部。
悠は、迷わずそれを、
「があっ……!」
自らの胸元に、突き刺した。
抉りこむように、深々と。やがて心臓に達し、悠の身体がビクンと跳ねる。
美虎を拘束していた手が、緩んだ。逃げるチャンス。
だが彼女は、呆然と目の前の惨状を眺めていた。
「悠っ……!?」
悠の喉を、大量の血液が逆流する。
おびただしい吐血が、美虎の裸身を赤く濡らしていた。
悠は、心臓にペンを突き刺したまま、転がるように美虎から離れた。
「がっ、ああぁぁぁあぁ……! ぎ、ぐぅ……!」
血にまみれた叫びを上げながら、悠はさらにペンをかき回す。
悠はのけ反り、痙攣するように身を震わせた。
「悠、何やって……!」
「ごないでっ、ぜんぱい……!」
悍ましく醜悪な衝動は、いまだに悠の中で暴れまわっていた。
どうすれば止まるのかは、おおむね予想は付いている。
要は、ルルの時の発作に近いのだ。
“吐き出せ”ば、緩和されるはずである。煌星剣の砲撃を放った直後に殺人衝動が弱まったように。
だが、ルルやティオならまだしも。
「こう、してればっ……とりあえずは、大丈夫だからっ……!」
「大丈夫って、そんな……!」
ここにいるのは、まだ男も知らない乙女である。
自分の身体の傷を見られて我を失う、心の傷に苦しむ女の子なのだ。
冗談じゃない。
このまま心臓を抉り続け、狂おしい痛みと苦しさに悶絶している方が、遥かにマシだ。
あるいはこのまま失血で倒れれば、美虎に害を及ぼさずに済むかもしれない。
悠はその覚悟をもって、再生しつつある心臓を、さらに引き裂いていった――
「――あ、ぐぅ、ぎぁぁぁぁぁぁっ……ごふっ! がぁっ!」
室内に、苦悶に満ちた叫びが上がる。
悠が、己の心臓を抉りながら、血溜まりを作って悶えていた。
美虎は、それを全裸のまま唖然として見つめている。
「ゆ、悠っ……」
のたうつ悠に、思わず手を伸ばそうとして、
「来ないでっ……!」
引きつるような声に、びくりと身を竦ませた。
地獄のような苦痛なのだろう、その顔は、涙と鼻水でくしゃくしゃである。
その下の血だまりは、確実に面積を広げていた。
常人であれば、すでに失血死してるであろう大量の血液が、悠から失われている。
美虎を守るために、そうしているのだ。
血反吐を吐きながら、今も心臓にペンを押し込んでいる。
思わず目を背けたくなる、痛ましい姿だった。
同時に、目を離すことができない。
逃げていけないのだと、弓月が言っているような気がした。
悠をどうすれば救えるのか、何となく予想はしていた。
(わたし、は……)
服を剥かれ、身体を嬲られ、犯されそうになった恐怖。
女としてのコンプレックス、トラウマの源である傷痕を直視された、他者には決して理解できないであろう恐怖。
目の前で、悠が血に塗れている恐怖。
それらがない混ぜとなって、美虎の身体を硬直させていた。
鉄美虎は、臆病な少女である。
怖いものは、たくさんある。
ホラー映画は一人じゃ見られないし、夜は眠れなくなる。
男性相手に強い態度に出る時、実は内心ビクビクしてた。
虫が苦手だ。ゴキブリを見ただけで、気を失いそうになる。
他にも、枚挙にいとまがない。
それら全てを、虚勢で覆い隠していただけなのだ。
弓月を目指して作った、雄々しく、頼りになる女の姿。
無理して人前で演じ続けたその仮面は、いつしか自然体の自分となっていた。
おかげで人殺しの化け物にだって、狂った殺人鬼にだって、立ち向かうことができていた。
だが、女としての弱みをさらけ出され、仮面を剥がされてしまえば、こんなものである。
(怖い、怖い、怖いよ……! でも、だから!)
そしてそれ故に、美虎は逃げる訳にはいかなかった。
悠は、なりたい自分になるために戦った。
美虎もまた、なりたい自分になるためには、退く訳にはいかないのだ。
あの姿を虚勢ではなく、本当の自分にしなければならない。
(そうだよね、弓月)
立ち上がろうとしたが、腰が抜けていた。
犬ように四つん這いになりながら、悶え苦しむ悠へと近寄っていく。
悠が、睨むような眼差しを向けてきた。怖かったが、我慢する。
「ぜんぱいっ……だめっ……!」
構わず、近寄る。
悠が、這うように逃げていく。
自分の方が、早い。掴まえた。
「……悠」
「なんでっ……!?」
悠の表情は、心臓を抉っていた時よりもずっと辛そうだった。
絶望的、と表現してもいい。
「もういいっ、もういいからっ……!」
そんな彼を、抱き締めた。
涙と鼻水と汗と血反吐でぐちゃぐちゃの顔を、胸元に埋める。
「……せん、ぱい」
胸に深々と突き刺さったペンを、一気に引き抜いた。
悠の小柄な身体がビクッと反応し、傷口から溢れた血液が、美虎の肢体をさらに濡らしていく。
そんなことは構わずに、美虎は脱力する冷えた身体を、思いっきり抱き締めた。
自分の温もりを与えるように、肌を重ね合わせる。
「ごめんっ……ごめんね、悠……! もういいよ、耐えなくても、苦しまなくてもいいのっ……! そんなに苦しむぐらいなら、わたしがぜんぶ受け止めてあげるから!」
悠の胸の傷は、すぐに塞がった。
心臓も修復しつつあるのか、その華奢な体には、次第に力が戻りつつある。
その手が、美虎の肢体に指を埋めていく。
腹の傷痕に触れた。思わず泣き叫びそうになるが、唇を噛み締めて耐えた。
「だめ、だめっ……先輩、美虎先輩……離れて……!」
悠が、泣いていた。
これから自分が行うであろう行為に、怯えているのだ。
美虎の身体に永遠の傷を残すという取り返しの付かない行為に、懸命に抗っている。
「……んっ!」
その細腕からは信じられない力強さ。
乱暴に押し倒される。
悠の顔からぽろぽろと落ちる涙が、美虎の顔を濡らしていた。
美虎の胸の中に、じんわりと温かい感情が満ちていった。
母性的な慈愛の熱が、美虎の緊張と恐怖を溶かしていく。
(ああ……悠なら、いいかな)
そう、思えた。
だから美虎は、無防備に五体を投げ出した。
……本当はもっと大事にとっておいて、お嫁さんになってから、もっとロマンチックなシチュエーションでと思っていたのだけど。
(可愛い弟分ぐらいに思ってたんだけどなあ……)
何も隠すことなく、自らすべてを見せつける。
その、大きな傷痕も。
心のどこか凍りつくような悪寒。
噛み砕くように、歯を見せて笑った。
「はっ……舐めんなよ、悠。オレがこれぐらいで参るわけねーだろ?」
それは、いつもの笑みだった。
美しい獣のような、悠のよく知る鉄美虎の顔を浮かべることができていた。
弓月が死んでからかぶり続けたこの仮面を、自らの一部として表現している。
「ほら、来いよ。オレが全部受け止めてやるから――」
悠が、美虎を貪りはじめた。
何かに衝き動かされるようなそれは、乱暴で、強引で、荒々しい。美虎が抱いていた理想とはかけ離れた、凌辱めいた行為。
自己嫌悪で嗚咽を漏らし続ける悠の唇を、美虎は自らの唇で、そっと塞いであげた。
そして二つの影が、絡み合う――
――そして、日が昇る。
夢幻城を舞台とした長い夜は、ようやく終わりを告げたのだ。
時刻は昼過ぎ、陽光の降り注ぐ快晴。
朱音はのっしのっしと大股で歩いている。
(悠、悠、悠……!)
朱音は、わずか一日ほどで復活した。
いまだ完治には至っていないが、後続の帝国軍が運搬してきた医療用装置で、ほとんどの傷は塞がっている。それでも朱音のタフネスには、医者も目を剥いていたが。
幸いにして、傷痕が残る心配も無いようだ。
つくづく魔道文明による医療技術は大したものである。
もっとも、昔から残り、それが自然体となっているような傷跡は消せないという不便さもあるのだが。
「アカネ様っ、足早いデス!」
「朱音……そう心配しないでも、二人の反応はきちんと出ているようだぞ?」
「分かってます……分かってますけど!」
朱音は、昼の林道を歩いていた。
その隣には、ティオと伊織の姿がある。
ティオは衆目があるので、朱音に様付けだ。
林道には、多くの人々が行きかっていた。
皆、帝国の関係者である。
軍人や、魔道省のスタッフ、また帝国に雇われた人足など。
崩壊した夢幻城の、回収作業を行っているのだ。
悠と美虎の探索は、そのついでといった感じであった。
二人が生存していることは、確かなようである。崩壊を免れた部屋、あるいは瓦礫の隙間かどこかでじっとしているのだろうということだった。
「うん、まあ……自分も気持ちは分かるぞ」
あの戦いにおける犠牲者は、あのカミラという女性一人であった。
彼女の知己であるレミルは、今は帝国に軟禁されている。
アリエスは、いつの間にやら姿を消していた。
ルルは、今は現場に同行しているようだ。
省吾もまた、内臓をかなり痛めていたらしく、まだベッドの上の住民である。
クラスメートや美虎の取り巻きも、まだ疲れ果てて動く気力が無いようであった。
ラウロは、いつの間にやら帰還していた。カーレルとの戦いの時の礼は言っていない。言うつもりもない。
魔法を破壊されたショックから復帰したティオも、まだ元気があまり無い。
ベッドで休んでいるように言ったのだが、朱音が心配だと付いてきたのだ。
「まだ血が足りてないんですかラ、無理しちゃダメですよゥ……」
「それも分かってる……気を付けるわよ」
事実として、しんどい。
ベッドに潜りこみ、横になってしまいたい欲求は非常に大きいのだ。
だが、いてもたってもいられないではないか。
何日、悠と話していないと思うのだ。
何日、悠と触れあっていないと思うのだ。
何日、悠と同じ空気を吸っていないと思うのだ。
飢えている、乾いている。
思わず、心の声が口にしていた。
「悠成分が、足りない……!」
伊織がドン引きした。
「い、今とてつもなく気持ち悪い言葉が聞こえたような……」
「くんくん用にユウ様の下着でも持ってきた方が良かったですかネ」
「何くんくん用って超気持ち悪か! 二人揃ってそんなことしとると!?」
「そ、そんな変態的なことしてないですよ! ティオも変なこと言わないでよ!?」
「えへへー、ごめんなさいデス」
ぺろっと舌を出すティオ。
そんなことを思い付くあたり、少なくともティオには変態の素質があるかもしれない。
「せ、成分のくだりは否定しないと……?」
「それも気のせい! 気のせいです!」
とにかく、悠に会えないせいで欲求不満なのだ。
中途半端に顔を見たせいで、おあずけを食らったような状態なのが、余計にまずかった。
ついこの前に自覚した“好き”がどんどん膨れ上がってしまって、自分でも抑えられない。
顔を見た瞬間、「好きよ悠、結婚して!」と言って抱き付いてしまいそうだ。
「はー……ライバルは強敵ばい」
ぽそりと、伊織が呟いた。
よく聞こえなかったが、妙に聞き捨てならなかった気かする。
「伊織さん、何か言いましたか?」
「ん、んー? いや、何でもなかとよ?」
やや慌てた様子で取り繕う伊織。
あの戦いを終えてから、彼女の様子も少しおかしい。
何故か、悠の話をすることが異様に増えてる。
とても嬉しそうに、どこか自慢げに、目をきらきらさせて語るのだ。
「悠はおいが育てた!」と言わんばかりである。
夢幻城では、相当に濃密な時間を二人で過ごしたようだった。
ちなみに藤堂流には、刀を用いた術理も伝わっている。
……習っておけば良かった。そうしたら、悠に剣の稽古を付けるのは自分の役目だったのに。
そうこうしているうちに、目的地が見えてくる。
朱音からはまだおぼろげであるが、森人のティオにははっきり見えているようだ。
ぴょんぴょんと跳ねながら弾んだ声を出す。
「あっ……もう大分片付いているみたいデスっ」
だんだんと見えてきた夢幻城の残骸は、確かにあの威容に比べて随分と小さい。
現場に到着してみれば、半分以上は終わっているように見えた。
「これなら案外もう……ん?」
「…………」
伊織が、瓦礫に向けて手を合わせていた。
カミラという女性の冥福を祈っているのだろう。
朱音は彼女とほとんど言葉を交わしたことがなく、剣呑なやり取りばかりであったが、伊織にならって手を合わせ、瞑目した。
ティオも、この世界なりのやり方で祈りを捧げている。
「……レミルは、ぜったいに守ってやるばい。安心して眠るとよ」
ぽつりと、真剣な声。
人造の知性であるというカミラの魂の存在を信じ、伊織は呼びかけていた。
10秒ほどの黙祷の後、三人は半分ほどまで小さくなった瓦礫の山へと歩み寄っていく。
地球ならば工事用の作業機械が重苦しい音を立てながら動いているところであるが、こちらの世界ではまだ人力に頼る部分が大きいようである。
もっとも、中には魔道師と思しき人物が、一度にとんでもない量の瓦礫を動かしたりもしているのだが。
そんな中に、とても目立つ人影を発見する。
薄桃色の髪を伸ばし、頭に上にはぴょこんと突き立った狼の耳。
ルルが、瓦礫の撤去回収作業を手伝っているようだ。
人のことは言えないが、たいがい頑丈な娘である。
身分や地位の高そうなフォーゼ人からはやや胡乱げな眼差しを向けられているのは、彼女が亜人である故か。自分たちより有能であることが、余計に癪なのかもしれない。
しかしルルは、居心地の悪そうな素振りなど微塵も見せず、毅然とした振る舞いで働いていた。
悠の専属奴隷という立場ゆえもあるのだろうが。
「おや、アカネ様、イオリ様、ティオも。おはようございます」
こちらに気付くと、ルルは涼やかな微笑を浮かべて歩いてきた。
お姫様のように優雅な所作による一礼は、思わずこちらが恐縮してしまいそうになるほどだ。
「……おはよ」
「うん、おはよう、ルル」
「おはようございますデス!」
ルルの、尻尾はぱたぱたと緩やかに躍っていた。
何か良いことがあったのだろうか、まさか――
「丁度良いところに来られましたね。もうすぐ、ユウ様とミコト様をお助けできそうですよ」
「えっ!?」
「ほんとか!?」
「良かったですネ、アカネ様!」
色めき立つ朱音と伊織とティオ。
ルルは微笑ましげな苦笑をにじませながら、言葉をつづけた。
「あの崩落の中でも原型を保っていた部屋が幾つかありまして……その一つから、お二人の反応が出ています。ほら……もう、見えますよ」
ルルが指し示す先には、瓦礫から顔を出す、球体上の半透明の物体があった。
その中には、ちょうど一つの部屋ほどの大きさの正方形の物体。
あの球体で衝撃を吸収しつつ、部屋を傾かせないようにしたのだろうか。
人足たちが、球体を剥がしている。
その下には、ドアが見えた。
「悠っ……!」
「あっ、待つばい!」
「無理しちゃ駄目デス、アカネ様!」
思わず駆けだす朱音。そん後を、慌てて伊織とティオが追いかけた。ルルは、くすりと笑みを漏らしながら一歩後に続く。
「待って! お願い! あたしに開けさせて!」
人足たちを押しのけて、朱音はドアの前に立つ。
伊織が鼻息も荒く、それを見守っていた。
「……これは?」
くん、とルルが鼻を鳴らして、漂う匂いに眉をひそめる。
すぐに得心がいったのか、困り笑顔を浮かべながら、人足たちに恭しく頭を下げて、下がってもらうようにお願いしていた。
人足たちは、釈然としない様子で部屋の中が見えないところまで下がっていく。
朱音がドアノブに手をかけ、回したのは次の瞬間。
「悠っ! あと美虎さん!」
「ユウ様っ! それとミコ様!」
「悠っ! ついでに鉄!」
「ちょっと酷くないでしょうか……」
開けて、踏み込む。
まず、薄暗い部屋にたちこめる臭気に、顔をしかめた。
床に残った多量の血痕に、青ざめる。
だがベッドの上から聞こえてくる二つの健やかな寝息に、すぐに安堵した。
ベッドに駆け寄り、
「ゆ――――」
見知った少年と少女が、ベッドの上で眠っていた。
少年の柔らかな容貌のおかげで、女同士にも見える。
別に、それはいい。そこまではいい。
「……へ?」
だが、二人とも裸なのはどういうことか。
悠が、美虎のむっちりした肢体に抱き付いて、美虎も抱き締め返しているのはどういうことか。
満ち足りた母性的な笑みを浮かべる美虎の胸のなかで、悠は子供のように安心した表情を浮かべている。
美虎は、とても色っぽかった。何というか、メスっぽい表情。満ち足りた女の顔。
「ん……せんぱぁい」
「むにゃ、ゆう……」
二人の身体には、明らかな、そして大量で濃厚な“行為”の名残がある。
睦まじい、事後の姿。
「……これは、また」
ルルが、小さく噴き出していた。
「あ、あばばばばばば……」
伊織が、壊れたラジオのような声を鳴らし続けている。
「ア、アカネ……?」
ティオは、驚きはしたが大して動じてはいなかった。
だが悪寒を感じて、おそるおそる朱音を見上げる。
「…………」
朱音は、真顔であった。
時間が止まったように、微動だにしていない。
世界から切り離されたような、あるいは、自ら世界を認識することを拒絶しているような。
直立不動のまま、その身がぐらりと傾いで、
「……はぅっ」
「アカネー!」
朱音は、その場にぶっ倒れた。
美虎は、色々とめんどくさいキャラになってしまいましたが、読者様から見てどうでしょうか。感想などいただけると嬉しいです。ログインしてなくても書けるので、ご遠慮なくどうぞ。




