第27話 ―慟哭―
虚構の世界に、幼き少女の慟哭が響き渡る。
その声を涙に濡らしながら、レミルは哀切の言葉で訴えた。
「もういいのだ! もうやめて、戻るのだユウ! 父様も、もうユウを傷付けないで! もう、ユウの魂はボロボロなのだ……! ユウが、死んじゃうのだぁ……!」
「……レミル」
3000回に迫る“死”と、そこからの復活。
レミルの言葉の通り、悠の魂には限界が近付いている。意志や精神力でどうにかなる段階は、とうに超えていた。
次に“死”ねば、果たしてあの奈落の入口から這い上がれるだろうか。
次が大丈夫だとしても、その次は――
「我はもう諦めてたのに! 死ぬことは、とっくに分かってたのに! 受け入れてたのに、どうして……アリエス! どうしてユウを巻き込んだのだ! イオリも、ミコも!」
レミルの震える声は、確かな怒気を孕んでいる。
漂うアリエスの気配から、澄み切った声が漏れた。
「――――、レミ、ル、ボクは……」
叱られた子供のような、途方に暮れた途切れ途切れの声音。
この領域の維持のために注力しており、思うように言葉を発せないようだ。
困り果てている様子のアリエスに、ブラドが助け舟を出した。
「レミル。君がそう自分で考え決めていたように、アリエスもまた自分で考え、決めたのだよ。君がアリエスの決意を責めるというのなら、君の決意もまた責められるべきだ。ゆえに言おう」
いつも飄々(ひょうひょう)と薄い笑みを浮かべていたブラドの美貌が、わずかに鋭さを見せる。
それは紛れも無く、子を叱る親の顔であった。
この場に立つ美丈夫はブラド・ルシオルの残滓に過ぎないが、その言葉は確かな魂の重みをもって声を響かせる。
「僕や、皆は、何のために君とカミラを逃がした? 本当の“僕”の最期の思考をこの僕は知らないが……だが断言しよう。君の生存を願ったはずだ。成長し、僕やセリルのように己の道を見つけ、歩むことを願ったに決まっている」
「で、でも……我のせいで、皆は……!」
「それは、僕が背負う咎だ。……まあ、君が自分を責める理屈と感情も分からないでもないけどね。だが、大元の原因は僕だよ。君から神殻武装を安全に引き剥がす手立てを見つけるのが遅すぎた。理論を構築するのも、そのための機能を夢幻城とカミラに組み込むのも、ね……もう少し、自分は有能だと思っていたのだけど」
その声に滲むのは自嘲の色。
ブラドは深い苦笑を刻みながら言葉を続ける。
「思い上がるなレミル。いったい君に何が出来たというんだ……子である君に咎はない、すべては親である僕の咎だ。君をそうさせてしまったことを、すまないと思っている」
「とう、さま……」
口ごもるレミル。
だが彼女がまだ納得できていないことは、嗚咽まじりの震える吐息から容易に察することができた。
だから悠は、意を決して口を開く。
「ねえ、レミル」
「……ユウ」
レミルの今までの記憶と想いの奔流が、悠の中に流れ込んで来ている。
どれほどレミルが己を責めて、苦しんで来たか、手に取るように理解できた。
彼女自身ではどうにもならない状況であり、直接の元凶は、あの禿頭の巨漢や“覇軍”であるが、そんな理由が何の慰めにもならないことも分かる。
悠だからこそ、よく分かるのだ。
「あのね」
言いたいことは、たくさんあった。
だが何から言えばいいのか、どう伝えればいいのか、まったくまとまっていない。
整理のつかぬ思考のまま、悠は言葉を繋げていく。
「別にさ、僕はアリエスやカミラさんに強制された訳じゃないよ。きちんとぜんぶ説明されて、自分で決めて、こうしてるんだ」
「でもっ! お前の友達だって巻き込まれてるんだぞっ! “夢幻”のみんなを殺したあの男が、そこまで来てる! お前の友達が戦ってるのだ! 殺されてしまうかもしれないのだ!」
「…………うん」
レミルを介して、おおむねの現実の世界の状況は伝わっている。
美虎や伊織、カミラだけでなく、朱音たちまでもが戦っていた。
命懸けで、血を流して。
誰かが命を落とすかもしれない。敵の凶悪さを思えば、その可能性の方が高い。あるいは、今この時にも、誰かが――
「恐いよ、すごく」
悠の声は、震えていた。
また、失ってしまうかもしれない。
魂が軋み、悲鳴を上げていた。
刻まれた古傷から、血が滲んでいる。
「だったら、さっさと目覚めて助け行くのだ! 我なんか放って、友達を助けに行けば――」
「――ここにだっているだろっ!」
「……っ」
思わず、叫んでいた。
沸々(ふつふつ)と、血潮からあふれる熱が、悠の感情を昂ぶらせている。
焦燥と、いまだ制御に慣れぬ感情になかば振り回されながら、悠はまくし立てた。
「今すぐ助けに行きたいよ! 大切な人を失うのはもう嫌だ! 怖くてたまらないよ! さっきから何回も何回も斬られたり潰されたりしてすごい痛いし! 滅茶苦茶怖いし! 死にそうだよ! 死にたくないよ! 死なせたくないよ!」
「なら、」
「君だって友達なんだよ! 大切なんだよ! 助けたいんだよ! 分かれよそれくらい!」
「……あ、う」
レミルはたじろぐような呻きを漏らす。
だが、すぐに涙声を荒げて反論した。
「でも、でも! 我はもう嫌なのだ! 自分のせいで誰かが傷つくのも苦しむのも! どうせ長く生きられないんだから、潔く死のうと思ってたのに! そうしようって、それでいいって、我は決めたのだ!」
「いい訳ないだろ! 自分一人で決めるな馬鹿!」
ぶつけるように、言葉を返す。
荒ぶる感情が、口を衝いて夢想の世界に響いていく。
勝手な物言いである、とは自覚していた。
当時のレミルの状況と幼さを思えば、そういう思考にいたるのも無理はないことである。そうは分かっているが、悠の言葉は、レミルの絶望を理不尽に切り捨てた。
「死ぬなって、ブラドさんだって言ってたじゃないか! それに僕たちの気持ちだって考えてよ! 死んじゃった人ばっか見てないで、生きてる人も見てよ! 僕たちは、レミルに生きて欲しいんだよ!」
「わ、我の気持ちなんて分からない癖に――」
「――分かるよ!」
言い切った。
何故なら――
「僕がこうしてここで生きてるのは、大勢の罪もない子供たちのおかげなんだよ! 何千人も子供たちを苦しめて、殺して、材料にしたから僕が生き残ったんだ! 僕がいなければ、生きられた子だっていたかもしれない! 僕がいたから、殺されたようなものなんだよ!」
最高の素体である悠を活かすために、大勢の子供たちが死を前提とした実験に捧げられた。
神護悠とは、その成果の末に生き延びた咎人である。
悠自身ではどうにもならなかったことは分かっている。みんなを直接害したのは自分ではないことも分かっている。
だがそれでも、悠の心は己を責めて止まないのだ。
それに、
「僕だって、僕だって……」
溢れ出る想いが、喉を震わせて声になろうとしている。
いいのか、という自問の声があった。
本当に言ってしまって、いいのかと。
お前は耐えられるのか、と。
その保身の思考を、堰を切ったように迸る感情が振り切った。
「僕だって、もう長く生きられないかもしれないんだよ……!」
言った。言ってしまった。
あれほど恐れていた余命の告白。
「うっ……!」
魂が凍るような恐怖。
胸からこみ上げる不快感があった。
夢の世界の中なのに、吐きそうになる。
毒を飲み込むような心地で、それを堪えた。
だが、ぽろぽろと、情けなくも涙が出てくる。喉を、嗚咽が震わせていた。
「ユ、ユウ……?」
レミルの戸惑いの声。
何を言っているのか分からないといった様子である。
悠は涙を拭いながら、濡れた声で語る。
幸か不幸か、少しだけ感情が落ち着いていた。
「僕の身体が普通じゃないのは知ってるよね。そのせいで、僕は1年ぐらいしか生きられないって言われてるんだ……言われたのが2か月ちょっと前だから、あと10ヵ月ぐらいかな」
告げられた余命のおよそ1/6が、すでに経過していた。
まだ内臓の機能低下は明確に自覚できるレベルには至っていないが、それでも昔に比べれば、少し違和感は生じている。
悠の身体は、緩慢にではあるが、今も死に蝕まれていた。
「だから、レミルの気持ちは分かるよ……死んでも仕方ないって思ってた時期もあったもん。死んだみんなのために、自分を犠牲にしても人を救う英雄みたいに頑張らないとって思い上がってたこともあったよ」
藤堂正人らの活躍によって自由を得た後も、悠の心は救われてなどいなかった。
多くの同胞の犠牲の末に生きているという罪悪感に、いつも苛まれていたのだ。
だが、その暗黒の汚泥から掬い上げてくれた人たちがいた。
それは、朱音であったり、冬馬であったり、ルルであったり、ティオであったり――彼女たちのおかげで、悠はこうして前を向いている。
未来へ向かうために、生きているのだ。
今度は自分が、誰かを掬い上げてやりたかった。
前へ向かうために、手を引いてあげたい。
「でもね、僕はそんなに強い人間なんかじゃなかったんだ。やっぱり僕は、死にたくないよ。死ぬのが怖い。生きたい。これからも、1年後も、ずっと……みんなと一緒に、歳を取りたいよ。だから、1年の寿命なんて受け入れない、諦めてなんて、やるもんか……!」
そして悠は、ふっと頬をゆるめた。
浮かぶのは、罰の悪そうな苦笑である。
「……なーんて、君を助けたいだなんて偉そうに言ったけどさ。僕はここでこうしてるのは、僕のためでもあるんだよ。僕がなりたい自分になるためには、ここで逃げちゃ駄目なんだ。だから、レミルが何を言っても、ぜったい退かないからね」
「ユ、ユウ……」
「それに、他にもいっぱい理由はあるよ。そうだね、例えば……」
悠は、人差し指をピッと立てて、
「僕が男で、君が女の子だから」
悠は、“格好いい男”に憧れている。
涙に濡れる少女を捨て置いて、何が男か。
古臭い、埃を被った価値観かもしれないが、それでも悠はそう在りたい。
「君に、僕の友達を紹介したいから」
朱音やティオ、ルルや冬馬たち……自分の友達に、会わせたい。
朱音は、まあ顔見知りするかもしれないが、何だかんだで世話を焼いてあげるのではないだろうか。
ルルも、あの包容力で受け入れてくれるだろう。
ティオは、境遇的に似た部分もある。きっと通じ合えるはずである。
他のみんなだって、きっとレミルと仲良くなれるはずだ。
「僕の方が、年上だから」
たかが15歳の自分が大人であるとは思ってはいないが、それでもレミルがまだ10歳の幼い子供であることには変わりない。
小難しい理屈など抜きにしても、手を差し伸べてやりたいではないか。
ああ、それともう一つ、言いたいことがあった。
「あと、僕はね、ハッピーエンドが好きなんだ」
「……え?」
悠は、物語が好きである。
小説も、漫画も、アニメも、映画も、ドラマも、劇も、絵本も……色々なものに手を出した。
その趣味は手広いが、ただ一つ願うことがある。
それは、幸せな結末。
善良な者が、努力した者が、勇気を振り絞った者たちが、報われる終わりであること。
どんな苦難や理不尽、悲劇があろうとも、それを覆すハッピーエンドが、悠は好きだった。
「綺麗にまとまったバッドエンドなんて嫌いだ。見苦しくても、強引でも、滑稽でも……僕はハッピーエンドの方が嬉しいよ」
そして、神護悠の物語も、ハッピーエンドであって欲しい。
笑って終われるような人生が好きなのだ。
「不幸な人が不幸なまま終わる物語なんて、詰まらないよ。覆してやりたくなる」
目の前にある、レミルの物語も。
そのためならば、泥も啜ろう、血にも塗れよう。
それだけの価値が、絶対にあるのだから。
「ぁ、ぅ……っ」
レミルは、何かを言おうとして、言いよどんだ。
悠は、穏やかな声で語りかける。
「ねえ、レミル」
そして最後に、どうしても聞かねばならない問いを口にする。
静水のような声。
レミルの悲壮な決意の殻の、その内側に届くように。
「君は、どうなりたい? 僕に……僕たちに、どうして欲しいの?」
「あ……われは……」
レミルは、
息を飲み、
黙り込み、
震える吐息を吐いて、
苦しげに呻いて、
嗚咽を漏らし、
「わ、れは……」
そして、涙に濡れた声で、絞り出すように、叫ぶように――
「いき、たい……生きたい……怖い……死にたくない……死にたくないよぅ! もっとカミラと、アリエスと、ユウたちと一緒にいたい! もっと勉強して、父様みたいな学者になりたい! 大人になって、母様みたいに好きな人の子供が欲しい! 強くなって、父様の、“夢幻”の皆の夢を叶えたい……! やだ、やだ、死ぬのはやだ……! やだぁぁぁぁぁ!」」
――その本心を、さらけ出した。
レミルの号泣が、玉座の間に響く。
たった10歳の子供の、生を渇望する魂の叫びだった。
切れ切れに聞こえるのは、縋るような切なる言葉。
「われもっ……我も、ハッピーエンドがいい! たす、けて……! 誰か、たすけて! 父様! カミラ! 助けて! ユウ……!」
「…………」
悠は、レミルの慟哭を瞑目して受け止めた。
己が死を決意し、潔く在ろうとした少女は、もういない。
自分が、消し去ったのだ。
もし自分が敗れれば、彼女は絶望と悲嘆に沈んだまま息絶えるのだろう。
――させるものか。
死なせるものか、死ぬものか……!
身体に、力が漲っているのが分かる。
魂から流れる熱が、血潮のように全身を駆け巡ってくる。
すっと開いた眼は、静かに、だが熱く、透明な焔を宿す。
「うん」
頷き、双刃を構える。
周りに侍る八の刃が、唸るように鳴動していた。
主よ、疾く我らに命を――と、まるでそう訴えているように。
「今すぐ助けるよ、レミル」
心が、熱く燃えている。
思考は、澄み切っていた。
剣を握る手の、地を踏みしめる足の感覚は、未だかつてないほどに鮮明だ。
世界が停止し、透過していくような感覚。
「……ふっ」
対するブラドは、満足げに微笑んでいる。
何ら気取った様子のない、無垢ですらある表情。
父親の笑みであった。
「残念だ。もっと早く出会えていれば、同士として迎え入れたものを。“夢幻”の皆にも、会わせてあげたかったよ」
ゆらりと、大剣を構える。
「…………」
「…………」
無言での対峙。
そして――
「はあああああああぁっ!」
悠が、疾る。
「……来い!」
ブラドが、迎え撃つ。
それは二人が響かせる、最後の剣戟であった――
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次話は、土曜の18時です。
第3章もあと少しで終わります。




