第5話 -覚醒-
頭部を破壊された魔族の巨体が勢い余って樹木へと激突し、力無く地面に転がる。
明らかに生命を失ったその異形は、次第にひび割れ、紫色の煙を上げながら消滅していった。
数秒の後には、あの異形の巨体は跡形も無くなっていた。
朱音の浴びた紫色の返り血も、紫の蒸気となって消えていく。
彼女は、悠に振り向くと、その顏を悲壮に歪めて駆け寄って来た。
「悠っ!」
朱音は、血塗れで地面に倒れ伏す悠の前で、呆然と膝をつく。
俯せになった悠の身体を揺すろうとして止め、助けを求めるように当たりを見回し、そしてまた触れようとして止め――おろおろと、混乱した様子を見せていた。
その瞳から滂沱の涙を流し、途方に暮れた顏と口調で嗚咽しながら、
「悠ぅ……起きてよぉ……」
「うん」
「……えっ?」
あっさりと返って来た悠の返事に、朱音はきょとんとした顔を見せた。
悠は、そんな彼女の顏を見ながら、確かな生命の光が灯る眼差しで、彼女の顏を見上げていた。
「でも……もう、少し……つぁっ……待って、ね」
「あ……えっ? 良かっ……た、けど。でも、何で……?」
朱音が、安堵と困惑の入り混じった表情を浮かべている。
泣き笑いのようなその顔は、恐らくは滅多に見られない貴重な顔だ。
「だって、お腹刺されて……」
確かに、魔族のあの尖脚は悠の腹部を刺し貫いていた。
常人なら間違いなく致命傷である。助かる道理は無いだろう。
先程まで、悠は死体同然の無残な有様を晒していた。
だが、悠の身体には瞬間記憶能力、超動体視力の他に、その大本とも言える能力が備わっている。本来、人体が耐えらない負荷を伴う2つの能力も、この能力の副産物のようなものなのだ。
それが今、悠の肉体で起こっていた。
現在、悠の体内では引き裂かれ、潰され、砕かれた内臓や骨の再生が行われている。
あと1、2分ほどもあれば、血をかなり失ってしまったことを除けば身体はほぼ完全に元に戻るだろう。
超再生――如何なる損傷でも即座に回復する異常体質。
さすがに脳が消滅するなどの即死を免れない怪我であれば無理だろうが、基本的に常人ならば間違いなく死に至る損傷を受けても、悠の肉体は再生する。
また、悠の肉体は血液の生成能力が桁外れに優れており、常人より少ない血液でも活動することが可能であった。
これが、悠が寿命の殆ど失うことと引き換えに押し付けられた最たる能力である。
何やら全身の細胞が変質して云々という話を聞いたことがあるが、悠には良く理解ができなかった。
……同時に、この能力は悠の死の運命を決定付けている最大の要因でもあった。
如何なる医学的対処も、この能力が“再生”し、無効化してしまうのだ。
そして、もう一つの問題が――
「っ……あ……ぎぃっ……!」
再生の際に傷を負った時の数倍から十数倍の激痛が神経を侵すことだ。
悠は現在、腹を貫かれた時など比較にもならない、“痛み”という概念すら超越した感覚に耐えていた。
脳に溶けた鉄を流し込まれているような錯覚を覚える。
「悠っ!? ほ、本当に大丈夫なの……!?」
悠の苦しげな様子に、朱音が不安を表して表情をゆがませる。
悠は、彼女に心配をかけないように微笑んで見せる。
「うん、お腹に穴開くぐらいは慣れて――いや、し、心配しないでよ……確かに凄く痛いけど、傷は治っているからさ……」
だが、もうしばしの間は激痛に苛まれるだろう。
悠は深呼吸と共に、痛覚を全身に分散させるイメージを作る。感じる痛みが和らぐ訳ではないが、多少は心持ちは変わってくるものである。
「……良かった」
小さく、本当に小さく呟く声。
悠の容体を確認した朱音の、ホッとしたような安堵の顔である。
しかしすぐにその顔は怪訝な色を浮かべた。腑に落ちないといった表情で、
「でも、あんたお腹に大穴空いてたでしょ。どうして塞がってるの?
あたしが、どれだけ……」
来ると予想していた問いであった。
そして、真実を朱音に語る訳にはいかない。
なので悠は、咄嗟に思い付いた嘘を口にする。
「うん、朱音さんはさっき不思議な力を使えたでしょ? 僕にも、自分の傷を治す力が宿ったみたい」
魔道――身体能力の劇的な強化や、障壁の生成といった超常的な事象を引き起こす異能。
身体能力の強化が可能なら、治癒能力の強化も有り得るのではないか、悠はそう考えた。
「そう……なんだ……そっか……」
朱音の表情が、理解に綻んだ。
悠の嘘を、信じてくれたらしい。
(……ごめんね、朱音)
胸に突き刺さった罪悪感が、毒のように痛みを滲ませる。
だが、悠の能力については例え朱音であっても絶対に明かしてはならないと言われている。
そして、今の状況は悠の秘密を明かさずに己の能力を説明するのには打って付けの状況でもあった。この能力は悠の意思に関係なく勝手に発動するため、いつかバレるのではないかと戦々恐々していたのだが、悠の大きな心配事が一つ減ったことになる。
「うぅぅ……」
「……朱音さん?」
気付けば朱音は、今はどこか拗ねたような、気まずげな顔をしていた。
何かを思い出したように、頬を朱に染めて目を泳がせ、口元をわなわなと震わせている。とても居辛らそうに、体をもじもじとさせていた。
その唇は、「あー、うー」と何やら呻きながら、ようやく意味ある言葉を紡ぎ出す。
「その……びっくりして、何か色々と取り乱したけど……忘れなさいよ」
「えっ……あぁ、う、うん……」
それは、魔族を目にしてからの一連の流れを言っているのだろう。確かに日頃の凛とした朱音らしからぬ姿ではあった。
しかし異常すぎる状況を鑑みれば仕方ないことではないかと思うのだが、朱音の有無を言わさぬ鋭い眼差しに気圧され頷く。
朱音は耳まで真っ赤にしながら半眼で悠を睨むように見下ろし、そして更に顔を俯かせる。
「……庇って……ありが……」
その声は小さく、また震えており、上手く聞き取れなかった。
「え……? ごめん、もう1回いいかな」
「なっ……何でもないわよっ!」
ついとそっぽを向く朱音。
その反応が可愛らしくて、苦痛に強張っていた悠の頬が緩む。
わずかに弛緩した空気が、その場に流れていた。
そしてその空気は、長くは続かなかった。
見上げる悠の視界に、蠢く影が見えた。
悠はただでさえ青ざめた顔から血の気を引かせる。
「朱音、う、上……!」
「え、なっ……!?」
切迫した悠の声に従った朱音は、上方を見上げて引き攣った呻きを漏らす。
新たなる異形の姿がそこにあった。
樹上に、さきほど倒した魔族と同様の姿をした蜘蛛のような怪物が陣取っている。
その数、5体。
一体、いつの間に近付いていたのか完全に囲まれていた。
仲間を倒されたことを警戒しているのだろうか、その姿はどこか様子を見て機を窺っているようにも見える。
絶望、という言葉が悠の脳裏に鎌首をもたげる。
「朱音、逃げて……」
朱音は、呻く悠に視線を向ける。
その美貌は強張り青ざめていた。明らかな恐怖の表情である。
だが、朱音はその震える唇を無理矢理に吊り上げ、笑みを作って見せた。
「……黙って傷を治しなさい。余裕があったらあの力で援護して」
朱音は、その目と言葉に闘志を宿らせながら立ち上がる。
そんな彼女を嘲るようにその両の膝が笑っていたが、朱音は鼓舞するようにそれを両手で叩き、雄々しく五体の異形に相対した。
悠を背後に、絶対に通さないとでも言いたげな立ち姿であった。
止めたかったが、まだ悠の腹は空洞だらけでまともに動ける状態では無い。
悠は悔しさと不安を滲ませ、朱音の背中を見守った。
五体の魔族の数多の目が、朱音を見ていた。怪物達が、朱音を獲物と定めたのは明らかだ。
五つの殺意が、たった一人の少女に向けられている。
「来なさいよ……!」
朱音は体を半身に、僅かに腰を落とした。
左手は前に突き出し、右手は腹部を覆うように構えられ、指は脱力するように開かれている。
道場で幾度も見かけた、藤堂流の受けの構えだ。
朱音は、異形の殺意を真っ向から受け止め吼える。
そこには、先程までの恐れ震えていた少女の面影は無い。覚悟を決めた戦士の猛りがそこに在った。
「全員、相手してやるわ! 藤堂家の娘を舐めるんじゃないわよ!」
次の瞬間、五つの異形が殺到する。
最も突出して前に出ていた一体の尖脚が、槍の如き勢いで突き出される。
朱音はそれを、前に突き出した左手を添えるように触れ――撫でる様な動きで受け流した。
魔族の巨躯が、バランスを崩してたたらを踏む。
そのまま朱音はゆらりと魔族に接近し、丸まるように身を縮め、
硬く、そして湿った破砕音が、森に響く。
真下から槍のように突き出された朱音の反撃の蹴り上げによって頭部を破壊された魔族の先鋒が、力無く崩れ落ちた。
しかし次の瞬間には、更に二体の魔族が蹴りを放ったばかりの朱音へと襲い掛かる。
朱音はほぼ真上に振り上げた脚を、そのまま踵落としの要領で斧のように振り下ろし、迫り来る魔族の頭部を蹴り潰す。
もう一体は、その隙を狙おうとするが、悠の生み出した“壁”に阻まれていた。
そこに生じた隙に、朱音が掌打を顔面に打ち込む。
しかし、蹴りほどの威力が無い故か、魔族は吹き飛び顔面を窪ませながらも着地して距離を取った。
そこで、残る二体は急制止する。
朱音の強さが予想外だったのか、警戒するように距離を取りながら、取り囲むように移動していく。
朱音は、再び構えを取りながらその様子を注意深く睨んでいた。
真正面、そして左右に魔族が陣取り、
四つ目の音が、朱音の背後――悠のすぐ傍から聞こえてきる。
いつの間にか、悠を見下ろすように新たな魔族が現れていた。
「がっ……!」
魔族の尖脚が、身動きの出来ない悠の胸を刺し貫いた。
心臓を貫かれ、悠の口から大量の血液が溢れ出す。全身の血流が停止し、意識が急速に闇に落ちつつあった。
「悠っ!」
再生の激痛に苛まれ、朱音の戦いに残った注意も奪われていた悠は、不覚にもその接近に気付けなかった。
朱音は、狼狽した声を上げながら後ろを向き、
それを好機と見たか、朱音を取り囲んでいた三体の魔族が一斉に襲い掛かる。
「ちっ……!」
朱音は迎え撃とうとすぐに振り向くが、体勢は不十分、心は乱された状態で放った迎撃の蹴りは、魔族の尖脚の一本を砕く程度に留まり、そのまま崩れた体勢を魔族の巨躯によって吹き飛ばされる。
「きゃっ!」
朱音は樹木に背を強かに打ち、よろめきながらも立ち上がろうとしたところを、更に魔族の尖脚の直撃を受けた。
その腹部に、丸太のような脚がめり込む。
「ぁぐっ……!」
その肉体が強化されている故か、突き刺されるようなことは無かったが、地面を跳ねるように転がり、そのまま力無い様子で地面に伏した。
「ゆ……う……」
尚も立ち上がろうとしているようだが呼吸が上手く出来ないのか、か細い呻きを漏らしながら、右腕を悔しげに動かすのみである。
三体の魔族が、倒れる朱音へと群がっていく。
突然現れた魔族も、悠の胸を貫き地面に縫い止めたまま、虚ろな殺意を宿した無数の眼で見下ろしていた。
再び“壁”を展開しようとしても、心臓を抉られる激痛と血流の阻害によって意識が朦朧として集中力が掻き乱れ、形を成すことが出来ない。
「あ……かね……」
絶体絶命。
まさにこの状況のために用意された言葉だろう。
倒れる朱音に魔族が飛び掛かるその光景を、悠はその超知覚でスローモーションのように認識していた。
絶体絶命。絵に描いたような絶望の光景。
悠の胸中に、先ほどより鮮明に浮かび上がる想いがある。
――また、失ってしまう。
「――ッ!」
その想いは、悠の魂の奥底をひどく揺さぶった。
古傷を毒の刃で抉られるような、耐え難いほどの想念の奔流が血液のように溢れ出す。
脳裏を駆け巡る幾つもの顔と、その死。あの研究所で犠牲になった、数千人。
時の流れによって失われていった、数多の命。
「あ――あああぁぁぁああああぁ!」
叫ぶ。腹を刺し貫かれても耐えていた悠が、痛みに絶叫していた。
魂が裂けた傷、滂沱の血液が溢れ出る傷口に、悠は自ら手を突っ込んだ。
そこから、“何か”を抜き放つ――!
「其は悠久に――過ぎ――」
どこからか、声が聞こえる気がした。
誰の声だろうか? 自分の声なような気もするが、良く分からない。
心臓を破壊されて血流は止まり、肺も半ばの機能を停止し呼吸も困難。
意識は消え去る寸前であった。
なのに――
自分は立ち上がっている。
その右手は、何かを握っていた。
ごとりと足元に転がるのは、魔族の首だろうか?
朱に染め上がる視界の中、朱音に襲いかかる魔族の姿が見える。
朱音は、悠を驚愕の表情で見つめていた。
信じられないものを見るような、理解できないといった様子である。
そして魔族は、
動いていない。
完全なる静止。
写真の中の光景のごとく、異形は微動だにしていなかった。
まるで、時間でも止まったかのように。
悠の超動体視力が、極限まで高まったから――ではない。
朱音は、普通に動いているのだ。
訳が分からない――だが好都合。
悠は、手に持つ“何か”、異様に手に馴染むそれを握り締め、朱音を襲う魔族へと駆けた。
振り下ろす。
薙ぎ払う。
斬り上げる。
紫の塵となる、3体の異形。
右手に在るのは、一振りの白刃。
まるで豆腐でも切るような心地で魔族を屠った時、ようやく手に持つそれの正体に気付く。
「ゆ……悠……?」
朱音の困惑の声を聞きながら――悠は意識を失った。
「悠……悠! ちょっと、しっかりしてよ……目を覚まして!」
遠く、朱音が聞こえてくる。
とても取り乱した様子で、その声は数多の感情の入り混じった複雑な震えを帯びていた。
「ん……」
悠が呻き、薄く目を開けた時、表情を輝かせる朱音の顔が映った。
「悠っ! 分かる!? 生きてる!?」
彼女の顔を確認し、悠はかろうじて頷いた。
「朱音さん……うん、生きてるよ……」
茫洋とした意識が、次第に輪郭を得て明瞭化されていく。
現状を理解するのに、わずかな時間を要した。
つい先ほどまで、自分達は絶体絶命の窮地にいたはずだが……
胸と腹に手をやる。
どちらも血に塗れてはいたが、すでに塞がっているようだ。痛みも完全に消えており、再生は完全に終わっていた。
朱音も無事なようだ。
「良かった……無事だったんだね……でもどうやって……?」
悠の言葉に、朱音は怪訝に眉をひそめた。
「……あんたが助けてくれたんじゃないの」
「え……?」
そういえば、あの4体の魔族はどうしたのだろうか。
その場にあるのは、悠、朱音の二人だけである。
魔族の姿は消えていた。
朱音が魔族に襲われ、命を落とす瞬間――そこで、悠の記憶は途絶えていた。
「僕が……?」
「本当に覚えてないの?
死にそうだったあんたが起き上がって、何故か魔族が写真みたいに止まって、いつの間にか持っていた剣で魔族を全部ぶった切ったのよ。剣は消えちゃったけど」
「え……えぇぇ……?」
目撃した朱音がそう言うのなら、恐らく事実なのだろう。
瞬間記憶能力といえど、その時の意識が不確かではまともに機能しないのだ。
記憶が途絶え、目覚めるまでの空白の時間。そこに、断片的でも手掛かりが残っていないだろうか。
悠は時系列的に脳裏の光景を整理する。
「……あぁ」
淡くおぼろげな記憶の断片が、確かにあった。
いつの間にか剣を握っていた自分。4体の魔族を斬り伏せた自分。
そして、その時に得た奇妙な感覚。
思い起こし、手に意識を集中させ、
喪失感が、悠の身を襲った。
「……!」
己の魂の1部が削れるような感覚に眩暈を覚え、意識が一瞬遠くなる。
そして、再び意識が戻った時には、
「これは……」
悠の手には、一振りの剣が握られていた。
両隣から覗き込む朱音が、感嘆の声を漏らしている。
「……綺麗」
これといった装飾の無い、柄と刃だけの簡素な剣だ。
だが、曇り一つなく煌めくその白刃は、普通の刀剣では持ち得ない静謐な美しさを備えている。
「何なんだろ、これ……」
悠は、自分が生み出したと思しき剣を見下ろしながら首を捻った。
朱音が、刀身を指で突いたり撫でたりしながら、
「材質は何かしら、家にある日本刀とは手触りが全然違う……でも、まあ……強い力が使えるなら、それでいいんじゃないの?」
「うん……そうだね」
正直釈然としないものがあるが、今考えても無駄だろう。
難しいことを考えるのは得意ではない。
悠は気持ちを切り替え、状況の確認に努めた。
頭上には、いまだに異形の空が広がっている。
早くここから脱出しなければ、またあの異形の怪物に襲われてしまうのではないか。
と、そう考えた直後であった。
「また……!」
朱音が忌々しげに唸った。
また、何かが近付いてくる音が聞こえたからだ。
先ほどよりは余裕のある状況だった故か、今度は気付くことが出来た。
「何体かな……?」
「かなり多そうよ……!」
音の密度が濃い。
切れ間が殆ど無く、闇の向こうに何体もの異形が蠢いている光景が容易に想像できた。
悠と朱音は、戦闘に備えて身構える。
だが朱音は先ほどのダメージが残っているのか、その動きにどこか引き攣るようなぎこちなさがある。
自分が頑張らなければならない。いざとなれば、自分が盾になろう。
悠は覚悟を決め、“剣”を素人なりに構えながら、朱音を庇うように前に出る。
それを見て、朱音がわずかに顔をしかめた。
直後、異形の増援が現れる。
総勢10体の、異形の群。
「朱音は下がって!」
悠は剣を手に、魔族の群れに切り込んだ。
足を踏み出し、剣を振りかぶり――そこで気付く。
(これは……!)
身体が軽く、そして剛い。
疾風のように駆ける身体、剣を持つ手には豪然たる力が宿っている。
そのまま、白刃が煌めいて――3体の魔族が、一太刀で斬り捨てられた。
まるで豆腐でも斬ったような手応えに、悠自身すら面食らう。
「――っ!」
しかし動きを止める時間は無い。
返す刃で2体が紙切れのように容易く両断される。
(すごい、行ける……!)
この剣のおかげだろうか、悠の身体能力は驚くほど向上していた。
今の自分の身体能力は、あるいは朱音すら上回っているかもしれない。
沸き起こる昂揚感。何十体でも相手にできるという万能感。
そのまま悠は、気勢を上げて剣を振り被り、
「えっ――」
突如として、体から力が抜けた。
身体を動かす歯車が欠けたかのような喪失感。身体に漲っていた何かが雲散霧消していく。
剣が、いつの間にか消えていた。
「悠っ!?」
背には朱音の悲痛な声。
悠は膝からくずおれそうになる身体を何とか持ち堪え、迫る5体の異形の迫力に血の気を引かせ、
「……!」
両手を広げて、地を踏み締める。
後ろには決して行かせない、この身で全て受け止めんと歯を食いしばり、起こり得る全てに覚悟を決めた。
背後の朱音が息を飲む。
「やめてっ――」
朱音の悲鳴じみた声が、
――疾風が駆け抜ける。
魔族の頭部が悉く砕け散った。
「……えっ?」
「……あれ?」
風に髪を靡かせた悠と朱音が、呆然とした声を漏らす。
朱音は何が起こったのか分からないといった様子である。
しかし悠には、何が起こったのかはっきりと見えていた。
(風の、矢……)
駆け抜けた疾風の数は5。
それは、嵐のように渦巻く風を纏った、5本の矢だ。
5本の矢は、その全てが魔族の頭部に突き刺さると同時に、まるで炸裂弾のように纏う風を弾けさせ、魔族の頭部を破壊したのだ。
5体の魔族はそのまま倒れながら紫の塵と帰していく。
それは、魔族の死を意味する現象なのだろう。
その場の魔族は、全滅した。
静寂を取り戻した森に、一人の女性の声が響く。
「ご無事ですか?」
涼やかな、心地良い響きの声だった。
声のした方へと顔を向ける。
そこに立つのは、一人の娘だ。
綺麗な女性だった。
年齢は悠達よりも少し上――17、8歳程度に見えた。
薄桃色の髪を伸ばし、どこか気品のある、しっとりとした魅力を備えた整った目鼻立ちをしている。
その均整の取れた肢体にフィットした、黒いゴム製のスーツのような衣装に身を包み、その上に黒を基調とした軍服めいたジャケット状の衣装を着ている。その首には囚人を思わせる首輪が付けられていた。
その手には、飾り気の無い質実剛健とした趣の弓矢が握られている。
そして何よりも目を引くのは、彼女の頭頂部と臀部である。
朱音が、愕然とした声を漏らす。
「え……耳……? 尻尾……!?」
犬を思わせる、耳と尻尾。
それが、彼女の薄桃色の髪とくびれた腰の後ろから生えている。
とてもアクセサリーの類には見えない、生の質感を感じさせた。
まるで漫画の登場人物のような、獣の耳と尻尾を持つ娘。
日本人どころか、地球人には見えなかった。
「お初にお目にかかります」
獣の娘は、悠達に駆け寄ると丁寧な一礼を見せる。
とても堂に入った、ため息が出そうになるほどの気品と優雅さに満ち溢れた流麗な動作であった。
それだけで、彼女が育ちの良い教養ある人物であることが窺える。
「あ……あの、ありがとうございます」
「どうかお気にならず」
悠達に見せるその笑みは、おっとりとした柔らかなものだ。
見る者を安心させ、心を和らげるような柔和な笑顔であった。
その唇が、自身の身の上を明かす。
「私のことはルルとお呼びください。フォーゼルハウト帝国魔道省の戦奴として使われている者で御座います。以後、お見知りおき下さいませ」
戦奴。戦うための奴隷。
その所属は魔道省。それはラウロが語っていた自身の身分と同様で、
「なっ……あいつ等の仲間って訳!?」
朱音が、唸るようにして身構える。
ルルは目と耳を伏せながら、神妙な様子でもう一度頭を下げた。
「私の立場で言える義理ではありませんが……此度の危難、ご心中お察し申し上げます」
誠実そのものといった雰囲気の、謝罪の言葉。
ラウロの傲慢で陰湿なそれとは真逆の印象に、悠達は面食らう。
彼女は、そのまま言葉を続ける。
「ご学友の皆様をお探しでしょうが、皆様はまだこちらの世界には来られていません」
「……えっ?」
それは一体、どういうことなのか。
悠は問いを発しようとして、
(あれ……?)
口が上手く動かなかった。
それどころか、指の一本も動かせない。急速に眠気が襲ってきた。
疲労の限界か、あるいは血を失い過ぎたか。
遂に悠はくずおれた。
「えっ、悠!?」
「如何されましたか!」
二人の娘が、駆け寄って来る。
それを悠は、どこか他人事のように見えていた。
(とりあえず、終わったのかな……)
ぼやけていく視界の中、あの異形の空が次々と剥がれ落ち、隙間から煌めく星空が見える。
地球に比べ妙に大きい月が、印象的だった。
ああ、やっぱりここは異世界なんだなと薄れる意識で呑気に思う。
そしてそれが、最後の思考だった。
「悠……? ちょっと悠!?」
朱音の取り乱した声を聞きながら、悠の意識は闇に落ちて行く――




