第14話 -傷痕-
夢幻城は脱衣所までも上品な装いである。乳白色の落ち着きある色合いの室内に、過不足なく機能的に種々の調度品が配置されていた。
しかし、今この部屋で繰り広げられている光景は上品とは程遠い。
全裸の少女を押し倒す、全裸の少年。
全裸の童女を抱えたまま、全裸でそれを見下ろすもう一人の少女。
「う……あ……」
時間が凍りついたかのように、誰も彼もが硬直していた。
全裸の美虎を押し倒したまま、悠は呆然と呻きを漏らす。
自分に押さえつけられた体勢で倒れる美虎の肢体に、目が釘付けになっていた。
見た目で誤解されがちであるが、美虎は、朱音のような日頃から積極的に運動するような少女ではない。そのため美虎の肌と肉の感触は朱音に比べ、よりむっちりとした柔らかさが強く感じられた。
悠にのしかかられ、美虎が小さく身動ぎする。
「んっ……」
自分の手は、美虎のたわわな乳房を鷲掴み――には、できていなかった。
美虎の瑞々しくも熟れた二つの果実は、悠の掌では掴み切れないほどに豊満だ。美虎の柔肉は悠の指を誘うように飲み込み、押し潰されて形を妖しく歪ませていた。指の隙間からは、綺麗な桃色の突起が覗いている。
だが、別に悠は美虎の胸を見ていた訳ではない。
……目を奪われたのは事実であるが、いま悠の視線は彼女の腹部に注がれていた。
それに驚いて、固まっていたのだ。
豊かな双丘の麓、肋骨の下端のあたりに――
(きず、あと……?)
深く、そして大きな傷痕が、美虎の右脇腹の大半を覆っていた。
すでに完治し盛り上がった皮膚に覆われていたが、美々しい彼女の肢体にあって、その部分は大きな違和感を放っている。
まるで、その肢体が醜悪な怪物の手に掴まれているかのような、無残で生々しい痕だ。
恐らくは、その傷痕の部分を原型を留めないほどに破壊されている。命を得たこと自体が僥倖と言える重篤な怪我の痕跡だ。美虎の身体を、かつて凄惨な危難が襲ったことを容易に想像させるものだった。
悠の記憶に、一人の少年の姿が想起される。あの研究所の狂気の実験で、脇腹を潰されて奇跡的に生き延びた少年。美虎の今の姿に、彼の傷痕がデジャブしていた。
「う……うぅぅぅ……!」
悠が美虎を押し倒し、そして今に至るまで数秒のこと。
彼女の唸るように漏らす声で、悠は我に返った。
「ごっ……ごめんなさい美虎先輩!」
慌てて手を離し、身体を退けた。
後ろで呆然としていた伊織の足に、背が当たった。見上げれば、伊織はレミルを抱えたまま唖然と二人を見下ろしていた。
美虎はむくりを身を起こし、感情の見えない瞳で悠を見る。
怒っているのだろうか。
きっと、男の自分が風呂に入っているとは思っていなかったのだろう。
殴られるなり蹴られるなり、美虎の望むままにされようと、悠は土下座の体勢で頭を下げた。
「本当にすみません! 煮るなり焼くなり好きにしてください! ただ、わざとじゃないことだけは信じて――」
「――ひぅっ……えぐっ」
漏れる嗚咽。
悠はつい謝罪を止め、伊織を見上げていた。
レミルか伊織が泣いたのでは、と思ったのだ。
「え……」
伊織はぐったりしたレミルを抱いたまま、上気した裸身を晒しながら口をぽかんと開けていた。
泣いている様子はなく、ただただ信じられないようなものを見たような表情。自分の今の姿が気にならないほどに驚愕していた。
その視線は、悠の背後に向けられている。
「うぁっ……あぅぅ……」
再びの嗚咽。悠の背後から聞こえてくる。
正直、分かってはいた。
だが、信じられなかったのだ。
恐る恐る、背後を振り返る。
そこには泣きじゃくる一人の少女の姿がある。
この期に及んでも、まだ信じられなかった。
「ぐすっ……」
……あの鉄美虎が泣いているなど、どうして信じられるだろうか。
今ここにいない皆に話しても、誰もが冗談だと思うだろう。少なくとも自分は思う。
大人っぽく何人ものクラスの女子から慕われる姉御肌の彼女が、悠にとっても頼れる姉貴分だった彼女が、魔族に一歩も引くことなく歯を食いしばり仲間の痛みを引き受け続けてきた彼女が、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら唇を歪め、子供みたいにしゃくり上げていた。
「――――」
その姿があまりにも衝撃的で、悠は目を逸らすのも忘れていた。
「見る、なぁ……」
美虎は悠の視線から逃れるように、大きな身体を縮こませ、その腕で体を隠す。
だが、しかし、
「み、美虎先輩……?」
たゆんと震える豊かな乳房も、艶めかしい肉付きの太ももの間に覗く女性の証も、その手は全く隠していなかった。
彼女の両手は、その腹部に伸びている。
腹をかき抱くようにして隠しているのは、先ほど悠が目を奪われた傷痕だった。
まるで自分の女性の部分より、その傷痕を見られるのが耐え難いというように、美虎は羞恥、あるいは恐怖に表情を歪めていた。
悠を責めるではなく、ひたすら恐れ恥じ入るような姿は、憐れみすら誘うものだ。
悠の知らない鉄美虎が、そこにいた。
「見ないでよぉ……」
懇願するような、弱々しい声。
美虎の口から聞いたこともない、女性らしい言葉遣い。
それは明らかに悠に向けられたもので、その願いのままに悠は顔を背けた。だが美虎の嗚咽は止むことは無い。
伊織が、呆然と声を漏らす。
「ど、どうしたと鉄……?」
レミルの異常を感知したカミラが脱衣所に到着するまで、悠と伊織は泣きじゃくる美虎の嗚咽を聞き続けながら、呆然としていた。
……そして、夕食の頃には、美虎はいつもの調子を取り戻していた。
戸惑う悠と伊織に対して何事もなかったように、あの蓮っ葉な口調と雄々しさすら感じさせる振る舞いは二人のよく知る美虎のものである。
だが同時に、確かな違和感が存在していた。
夕食を終え、気まずさを拭いきれない悠と伊織の前に美虎が立ち、口を開く。
「……ちょっと、付き合えよ」
その様子には、隠しきれないぎこちなさが滲み出ていた。
悠、伊織、美虎の3人は夢幻城の大広間に来ていた。
如何なる原理なのか、窓のない半球状の天井から月明かりのような光が広間に降り注ぎ、広々とした空間を淡い薄光で満たしている。
閉鎖空間にも関わらず、空気は驚くほど澄み切っていた。
昨日の夜、蒼穹の少女、アリエスと語り合ったことを思い出す。
彼女は今日のところは夢幻城に現れないようだ。彼女が日頃何をやっているのか、友人とされるレミルやカミラも知らないらしい。
大広間に足音を響かせる3人は、今はメイド服を着ている。
悠はスカートの風通しの良さに未だに慣れることが出来ず、もじもじとした歩みで伊織と美虎の背を追っていた。
大広間の中央、前を歩く美虎が歩みを止め、天井を仰ぐ。
「あー……その、なんだ」
ぽりぽりと頭を掻きながら、気恥ずかしげな声を漏らす。
ちらりとこちらに振り向く頬は、朱に染まっている。その瞳を揺らすのは、羞恥の情だろうか。
「悪かったな……見苦しいところ見せちまって」
「そ、そんなっ……!」
思わぬ謝罪に、悠は慌てて声を張り上げた。
「悪いのは僕なのに、謝らないでくださいよ! 本当に、ごめんなさい……!」
元々は、悠の不注意と鈍さが原因であろう。
悠は本日何度目になるか分からない謝罪を口にする。
だが美虎はこちらに向き直り、はにかむような苦笑を浮かべた。
「いいって。まあ、事情も聞いたし、慌ててたのも仕方ねぇよ。オレだって同じ状況なら冷静だったか分からねーしな」
「で、でも……」
傷持つ美貌が、にぃっと意地悪い笑みを浮かべた。
美虎はつかつかと足音を響かせて歩み寄り、両手を腰に当てて悠を見下ろす。
メイド服を大きく押し上げる胸の膨らみが、目の前にあった。
「なんだよ、オレの裸見て乳揉んだこと気にしてんのか?」
「うっ……」
その手には、いまだにあの柔らかな肌と肉の感触が残っているようだ。
脳裏には、生涯消えないであろう彼女の裸身が焼き付いている。目の前のメイド服の下の素肌が
用意に想像できるほどに。
つい意識してしまい、悠は顔を赤らめて俯いた。
頭上に、小さな嘆息の気配。
「……オレも気にしてるし滅茶苦茶恥ずかしいんだから、グダグダ引っ張るなっつーの、馬鹿」
こつん、と頭を小突かれる。
見上げれば、美虎も頬を染めながらじとっとした半眼を向けていた。
唐突に、もう一人の少女の声も上がる。
「自分も見られたがな……思いっきり全部……全部!」
「あう゛っ……!」
それまで黙して様子を見ていた伊織の第一声がそれだった。
顔を向ければ、やはり頬を染め、美虎と似たような恨めしそうな表情を向けてきている。
あの時、呆然としていた悠と伊織が互いのあられもない状態を正しく認識した切っ掛けは、レミルを介抱するカミラの、「そこで親しい間柄だとは思っていませんでした、肉体関係もお持ちで?」という言葉である。
悠はパニックになった伊織から全裸のまま脱衣所から叩き出され、いそいそと廊下で服を着るという惨めな目に遭ったのだ。
「ご、ごめんなさいぃぃ……」
悠はしゅんと身を縮こませた。
穴があるなら入ってしまいたい。忘れたくても忘れられない記憶力が恨めしかった。
そんな悠を見つめる美虎と伊織は顔を見合わせ、やがて小さく噴き出した。
「ぷっ……くくくっ!」
「あはっ……はははっ!」
からからと笑う二人の少女。
きょとんと顔を上げる悠に、美虎は目元の涙を拭いながら口を開く。
何の遺恨もない、晴れやかな表情であった。
悠の髪をくしゃくしゃと撫で回しながら、
「……だからいいって言っただろ? オレもお前の裸見ちまったしなぁ……その、ぶっちゃけ男の……見たの初めてだし。ま、お互い様ってことで、水に流そうぜ」
伊織も、悠の顔を下から覗き込んで、ゆるりと穏やかな笑みを見せていた。
「からかって悪かったな、悠。お前が思ってるほど、自分も気にしてないぞ。その、何だ……気を悪くするかもしれないが、お前が男だということを忘れがちでな……あんまり男に裸を見られたという実感が……」
「ああ、それはオレもあるなー……ついつい後輩の女子相手のリアクションやっちまうもんなあ」
「腰のくびれとか正直色っぽくてなあ……羨ましくなるぐらいだ」
「あ、あうぅぅ……」
ひどい、気にしてるのに。
コンプレックスである容姿を揶揄され、悠は小動物の鳴き声のような呻きを漏らす。
とはいえ寛大な処置を下してくれた二人の先輩には頭が上がらず、これもひょっとしたら悠が変に気を使わないための冗談なのかもしれない。
そう思えば、悠の口元も自然と綻んでくる。
ふと軽口が、口を突いて出た。
「……二人とも、すごく綺麗な身体でしたよ。見惚れちゃいました」
「ひぅっ!?」
伊織が、変な声を出してびくりと跳ねた。
鳩が豆鉄砲を食らったような表情、とはまさにことのことだろう。
目を見開き頬を上気させ、ぷるぷる震えている。
(……お、おお?)
いい反応だった。
バットの真芯でボールを捉えた時のような爽快感。
朱音だったら「ばーか」と頬を赤くして小突かれたり、ティオなら「えへへー」と頬に手を当てて喜んだり、ルルだと「あらあら」と余裕たっぷりに微笑む程度なのだが。
……ちょっと面白いな、と悪戯心がむくむく湧いてくる。
伊織はよく玲子にからかわれる一人であるが、玲子の気持ちが少し分かった。
自分の言葉で可愛らしく反応する伊織を、もっと見てみたくなる。
悠は人差し指をぴんと立てて、
「伊織先輩のお尻、綺麗な形してるって男子のみんなからもすっごく評判ですよ?」
伊織ががばっとお尻を押さえるように両手を後ろに回し、唇をわななかせた。
「ななな、なっ……お、大きくて気にしとるのにぃぃ……」
「僕も伊織先輩のお尻いいと思いますよ?」
伊織の顔が、火を吹いた。
「セ、セクハラ! セクハラばい! もー、もー!」
「ぷっ……す、みませ……あはは!」
伊織の反応があまりに微笑ましくて、悠もつい噴き出してしまった
彼女は腹を押さえてころころ笑いを上げる悠をじとっと睨んでいたが、やがて自分のお尻を見下ろしな、どこか満更でもなさそうな表情を浮かべる。ぽんぽんと、その形を確かめるように触れながら、
「そか……悠も……おいの……前向きに……なら……」
ぶつぶつと呟く言葉は、よく聞き取れなかった。
会話が途切れ、しんと大広間が静まる。
そこで悠は、一人の少女がずっと黙りこみ、俯いていたことに気付く。
美虎が、強張った表情で唇と噤んでいた。
その呟きが、静寂にぽつりと響く。
苦笑交じりの、自虐的な声色だった。
「綺麗な身体とか……世辞言うなよ」
そう言いながら、彼女はお腹をさすっている。
そこはあの大きな傷痕がある場所だ。美虎が、何よりも悠の目から隠そうとした場所であった。
「あ……」
そこで悠は、自らの失言に気が付いた。
綺麗な身体――自分の傷痕を気にしていると思しき美虎には、どう聞こえたのだろうか。
「す、すみません……別に悪気は……」
「……いいよ、それは分かってる」
弱々しくかぶりを振る美虎。
伊織が小首を傾げて、怪訝な様子で問いかける。
「……帝都で共同風呂に入っている時は普通に見せていた気がするが?」
「女に見られるのは平気なんだよ。でも男に見られると、な……どうしても、冷静じゃいられなくなっちまうんだ」
訥々と、美虎は語り始めた。
自分の頬の傷痕を撫でながら、
「この傷痕は、3年ぐらい前に子供を助けてトラックに轢かれた時の怪我でさ……入院やらリハビリやらのおかげで高校入学が伸びて2年ダブった訳なんだが……まあ、それは別に後悔してねーよ。死人が出なかった。それだけでも十分だ」
彼女は玲子や省吾と同じ17歳であるが、悠や朱音と同じ高校1年生である。
交通事故で2年遅れている、というのは有名な話であったが、子供を助けたためというのは初耳だった。
痛ましい話だが、他者の痛みを引き受けようとする美虎らしい話かもしれない。
語る美虎の苦笑が、よりいっそう苦々しく深まった。
「醜い傷痕だったろ? オレもそれなりに女らしいことも考えてるからさ、やっぱ男から見てどうなのかなっていうのはずっと考えてたんだよ。 ……そしたら、まあ不本意な経緯ではあるんだが、下着姿を……この傷痕を、男に見られたことがあって」
そこで美虎は言葉を切った。
美貌に浮かぶのは、古傷を掻き毟られているような、痛みに耐える表情だ。
絞り出すような言葉で、
「……気持ち悪いって、さ」
「――――」
悠と伊織は、息を飲んだ。
軽々しく言葉を発せないほどに、美虎の声色には悲しみと恐怖の色が色濃く滲んでいたからだ。
「好きでもなんでもない、どうでもいい男だったんだよ。なのに、妙に心が折れちまってさ……もし好きな男が出来て、付き合って……この身体のことを気持ち悪いって言われたら、なんて考えちまって……それ以来、男にこの傷痕を見られるのが、怖くてたまらなくなっちまったんだ」
そして美虎は、にっと唇を釣り上げる。
いつもの雄々しき強気な――ぎこちない笑顔。泣きそうな少女の顔が、垣間見える。
自分の弱さを押し隠す、強がりの笑みだった。
見上げねば顔が見えない長身が、やけに小さく見えた。
「……情けないだろ? モモやクロ達には言うんじゃねーぞ? 恰好つかなくなるからよ」
安達百夏、来栖ざくろ――美虎のクラスメートである、高校1年の女子達だ。いつもべったりと美虎に懐き、美虎も彼女達をとても可愛がっている。
つまり今の話は、美虎を姉のように慕う彼女たちにすら話していないということだ。
いや、むしろ彼女たちには絶対に聞かせたくないということだろうか。
「むぅ……」
伊織は神妙な様子で考え込んでいる。
彼女もまた、程度や事情に差はあれ自分の身体でコンプレックスを抱えている一人だ。同じ女性として美虎に共感できる部分もあるのかもしれない。あるいは、彼女も自分の身体が原因で傷付いたことがあるのだろうか。
彼女は、ちらりと悠を一瞥してきた。
その眼差しは何を語る訳でもないが、悠にはその意味が何となく察せられた。
きっと伊織は、男である悠が言葉を返すべきではないかと、そう思っているのだ。
だが同時に、悠を案ずるような心配げな表情を浮かべていた。
悠は伊織に頷き、美虎に向き直って口を開く。
「僕が綺麗だって言ったのは、本心ですよ。その……見ちゃったのは申し訳ないですけど、すごく魅力的でした。本当です」
美虎の目を真っ直ぐに見ながら、はっきりとした声で告げる。
その言葉に、嘘偽りはない。
彼女は、力なく微笑んだ。
「……うん」
あの脱衣所で見た、悠の知らなかった美虎の顔だった。
癒えない傷を抱えた少女が、そこにいる。
それを見て、色々と考えていた次の言葉が全て吹き飛んでしまった。
「あの……」
……思えば、悠も彼女の傷痕に驚愕したことは事実である。
彼女の右脇腹を覆う凄惨な傷痕を見て、目を見開き硬直していた。
そしてこう思ったのだ。
――醜悪な怪物の手に掴まれているようだ、と。
美虎はそれを目の前で見ていた。
自分はどんな表情をしていたのだろう。
あの時の悠の姿を見て、美虎は何を思ったのだろう。
もしかすると悠はあの時、口には出さなかっただけで、美虎を侮辱した男と同じことを思ったのではないか。少なくとも、悠はあの傷跡を見て負の感情を抱いたのは事実である。
きっと美虎は、そんな悠の姿に心の傷を抉られてしまったのだ。
「そ、の……」
そんなつもりは無い。彼女を貶めるつもりなどない。
美虎は綺麗だと、心から思っている。
だが1度あの時の自分を疑ってしまうと、何を言っても空虚な言い訳になってしまう気がして、悠はそれ以上の言葉を口にできなかった。
「……っ」
思わず、目を逸らして俯いてしまう。
美虎の心を癒してあげるどころか、無意識とはいえ自らが加害者になってしまった。その事実に、ひどくいたたまれない気持ちになっていた。
悔しさと自己嫌悪で唇を噛み締める悠に、つかつかと足音が近付いて、
「なーに泣きそうな顔してるんだよ。だいたい、お前の過去に比べりゃオレなんて生温いもんだろ?」
ぴん、と額を軽く指で弾かれた。
良く通る快活で強気な声色は、良く知る常の美虎のものだった。
顔を上げれば、傷持つ美貌が意地の悪い笑みを浮かべている。
彼女は、難しい表情で黙り込んでいた伊織にも顔を向け、
「島津も、そんな深刻にしてんなよ、おい。そんなに眉間に皺作ってたら、胸まで萎むかもしれねーぞ?」
「んなっ……!?」
色めき立つ伊織を尻目に、
「まだ1年も経ってない事だからよ。心配してくれなくても、どうせ時間が癒してくれるって……それに」
言葉を切り、美虎は背を反らして自分の豊満な胸を強調するポーズを取る。
ゆさっ、と重たげに揺れる双丘。
伊織が、ごくりと唾を飲み込んだ。
「この胸に釣られる男もいるかもしれねーし? いやー、ぶっちゃけ邪魔なんだけどなー。結構重たいんだぜ、これ。肩凝るし、満員電車とか座れねーとこっちが痴女みたいになるし、制服の前は閉まらねーし、テーブルとかに乗せてたらやたらと見られるしなー」
「ぐぬ、ぬ……!」
伊織は、目の前に実るたわわな果実を、満天の星空でも見上げているような表情で凝視している。
その食い入るような眼差しには、嫉妬や畏敬、羨望の感情が渦巻いていた。
悠にはきっと理解できない、女の情念なのだろう。
唸る伊織の頭をぽんぽんと叩きながら、爽やかさすら感じる笑顔で、
「ああ、お前ぐらいの頭の位置だと胸置くのに丁度いいかもな! どうだ島津、乳置きとしてオレ達のグループに入らねーか?」
ぷちん、と何かが切れる音が聞こえた気がした。
伊織が、美虎の手を跳ね除けながら吠える。
「うがああああああ! これだから巨乳は! これだから乳セレブは! 心配して損したばい! せいぜい満員電車で痴漢に揉みしだかれてしまえばいいとよ! どうせそのうち垂れて――」
興奮した子犬のようにきゃんきゃんと噛み付くような勢いで喚き続ける伊織。美虎は長い腕で伊織の頭を押さえながら、にやにやと伊織を見下ろしていた。
やがて伊織は罵倒の語彙が尽きたのか、荒く息を吐きながら、美虎の顔を見上げようとして、
たわわな胸に隠れて美虎の顔が見えずに絶望し、
自分の薄い胸を見下ろして世の不条理に歯軋りし、
「この乳牛めぇぇぇっ……覚えとるばいぃぃっ……!」
と、捨て台詞を残しながら、出口へと走り去って行った。
そんな伊織を見送りながら、美虎は小さく嘆息する。
「ったく……島津にそんな顔されたらこっちの調子が狂うっつうの……なあ、悠?」
どこか罰の悪そうな声である。
悠に振り向くその顔には、罪悪感めいたものを感じさせる薄い苦笑が浮かんでいた。
伊織と美虎は、悠が来る前、まだ異界兵のグループ間の不信が強かった頃にトラブルを起こしたことがあるらしい。礼儀正しい伊織が、年上の美虎にタメ口を利くのもそれが原因だそうだ。
険悪というレベルではないし、二人とも分別と責任感のある性格なので大事になるようなことは無いが、二人の関係には微妙に尖ったものが含まれ、それは今も継続している。
だが美虎の口振りからすれば、それも満更でもないのかもしれない。
「美虎先輩……」
悠は、いまだに沈んだ表情を浮かべていた。
美虎は困り顔を見せながら、しょんぼりとしている悠の頭を優しく撫でる。
「だからそんなに気にすんなって……気持ちは嬉しいよ、ありがとうな」
浮かべる笑みは、いつもの頼れる姉貴分の表情だ。
あの弱々しい雰囲気は、微塵も残っていなかった。
……だが悠は、悔しかった。
自分が美虎を傷つけてしまったことに。美虎の傷を癒してあげられなかったことに。
悠と美虎、どっちの過去が重いとか、そんなことは些事である。どうでもいい。
重要なのは、目の前の美虎が癒えぬ傷に苦しんでいる。そのことだけだ。
加害者として、仲間として、友人として、後輩として、男として、何とかしてあげたかった。
それはきっと、伊織や美虎の取り巻きのような女性では無理なのだろうと思う。美虎の抱えるトラウマを知る男性は、もしかすると悠だけなのかもしれない。
「……ほら、戻ろうぜ」
「はい……」
どうすれば、美虎の心の傷を癒してあげられるだろうか。
どんな言葉なら、どんな行動なら、美虎の心に――彼女の内に在る、あの泣き虫な少女に届くだろうか。
そんなことを考えながら、悠は美虎の後を追う。
……その日、何故かレミルは部屋に戻らなかった。
夢幻城の一角、そこは悠達には知らせていない極秘の部屋だった。
薄暗い部屋の中、何かの装置を忙しなく操作する乾いた音が絶え間なく続いている。
そして二つの声が交わっていた。
「……なー、カミラ」
「何で御座いましょう、レミル様」
「ユウもミコもイオリも、いい奴らだな」
「そうですね」
「死んじゃった皆と同じぐらい、いい奴らだ。我は大好きだぞ」
「おやおや、たった2日で、ずいぶんと気に入られたことで」
「ふふん、我は王だからな。人を見る目はあるのだぞ、えっへん」
「左様で御座いますか。さすがはブラド様のご息女です」
「そうだなー……皆も、父様が集めてきたんだよなー……」
「ユウ殿達を連れてきたのはアリエスですが」
「むぅー……細かいことはいいのだ! ……カミラ、どんな感じであるか?」
そこで、装置を動かす音が止まる。
しかしそれも一瞬のこと、カミラの淡々とした声と共に、小気味良さすら感じられるリズミカルな操作音が部屋に満ちる。
「……芳しくありません。想定よりも進行が早いようです」
「そう、か……」
そこで会話は途切れ、カミラが装置を動かす音が室内を支配する。
本来ならば熟練した数人の技師が行う作業を、カミラは一人で、より精密にこなしていた。
それほどの人間離れした技量でなければ扱えない装置であった。
そして真っ当な感性を持つ人間であれば、正気を保てない部屋であった。
室内には、濃厚な血の臭気が立ち込めている。
蠢く、無数のモノがあった。
耳を澄ませば、何かを潰し引き千切るような濡れた音と、レミルの小さな苦悶の吐息が装置の音に混じっている。
もし悠達がその部屋の状況を目撃したならば――今のレミルの惨状を見たならば、まず冷静ではいられまい。
「なー、カミラ」
「何で御座いましょう、レミル様」
「ユウは、どんなことでも絶対に忘れないんだってな」
「そのようですね。確かに見事な記憶力でございました。偽りはないでしょう」
「嬉しいなあ……ユウは我のこと、ずっと覚えててくれるのだ」
その声は、本心からの喜びに満ちていた。
死の間際の人間が、ささやかな幸運を大切に噛み締めるような、そんな声。
暗がりの中、その表情を見ることができるのはカミラだけであった。主を見下ろすカミラの表情は微塵も揺るがない。自らの表情を変える方法を、この人造知性体は知らなかった。
あるいはレミル本人すらも自覚していない表情を浮かべながら、“夢幻”の幼き王は――
「我が、死んでも……」
――遠からず訪れる己の死を、予見していた。
読んでいただきありがとうございました。ダメ出しでも結構ですので、感想いただけると大変嬉しいです。




