第4話 -魔族-
異形の空を背に、異形の怪物が蠢く。
魔族は、狩りの成果を誇るように悠の身体を吊るしながら、朱音を見下ろしていた。
「ゆ、悠……う、そ……!?」
朱音の悲痛な呻きが、闇夜の森に溶けていく。
ラウロは、確か悠達にこれを全滅させろと言ってはいなかっただろうか。
とんでもない話だ。無茶振りも甚だしい。
その巨躯に六本の丸太のような尖脚、人間の身体を容易に貫通する膂力。そして見る者の正気を揺るがす、その醜悪な異形。
まさしく“魔族”の名に相応しい怪物だった。熊どころの話ではない。
これ一匹で、クラスの全員を皆殺しに出来るのではないだろうか。
悠は、死体同然の凄惨な姿を晒しながら、眼下の朱音に言葉を漏らす。
声と共に溢れる血が、地面に血溜まりを作っていく。
「はや……にげ……」
「な……何言ってるのよ……そんなこと……!」
朱音は、震える足で立ち上がりながら、悠の言葉に頭を振った。
嫌だ嫌だと、まるで駄々をこねる幼子のように。
「おね、が――」
悠が言い終わる前に、魔族が動く。
悠を貫いたものとは別の尖脚が揺れるように動き――無数の視線が一点に集中した。
その無数の視線は、殺意を孕んで先ほど取り逃した獲物を見据えている。
直後、尖脚が、狙い澄ますように疾る。
「くっ……!」
朱音が呻きながらも、身を翻す。
さすがと言うべきか、朱音は取り乱しながらも、見事な反応でその尖脚を避けてみせた。
だが、そのまま足をもつれさせ体勢を崩し、地面に転んでしまう。
「あぅっ……!」
いつもの朱音なら、即座に受け身を取って立ち上がるはずである。
しかし今の彼女はまるで素人のようにそのまま地面を転がり、身を横たえてしまっていた。
動揺ゆえか、いつもの惚れ惚れとする身のこなしが出来ていない。
自分の攻撃を避けられたのが予想外だったのか、異形の怪物はその無数の眼を泳がせながらも、生理的嫌悪を催す動きで朱音へと歩み寄っていく。
朱音は立ち上がり、悔しげに瞳を潤ませて異形を、そして吊るされた悠を見上げていた。
その表情は蒼白であり、色濃い恐怖と絶望に染められている。いつもは力強く地を踏み締めていた足は、今は頼りなさげに震えていた。
「に、げ……!」
自分の血で溺れそうだった。
血の塊を吐き出し、僅かに自由になった喉から声を絞り出す。
「僕のこと嫌いなんだろ朱音さん! だったら見捨ててよ! お願いだから逃げてっ! 生きてよ……!」
生きて欲しい。
朱音は未来の無い自分とは違う。
彼女には、まだ未来が続いているのだから。
ああ、これが恩返しになるのかな、と口元に場違いな笑みが浮かんでいた。
その笑みを、朱音に向けて、
「朱音……お願い……」
「……ッ」
朱音は、悠の言葉を受け、
覚悟を決めたように一瞬、瞑目して――
「う……あぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫び、朱音のとった行動は、悠には予想外のものだった。
踏み出された脚は、前へと向かっていた。
「ぇ……?」
朱音が、魔族に向かっていく。
その瞳から涙を零しながらも、彼女は猛き雄叫びを上げながら駆け出し、魔族との間合いを詰めていた。
まるで、悠を助けようとしているかのように。
その瞳は、確かな意志を宿して悠と、彼を捉える異形を映していた。
「や、め……」
やめてくれと、悠は痛みに混濁した思考で叫ぶ。
自分なんかのために、命を投げ打つなんて馬鹿げてる。そんなことをしてもらう資格は、自分には無いのに。
このままでは、朱音を道連れにしてしまう。
「はなせぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
その身が翻り、鮮やかな上段回し蹴りが放たれる。
その先には、魔族の胴体があった。
それは、相手が常人であったなら十分に効果的な打撃であっただろう。
直撃すれば、大の男でも意識を絶てるかもしれない。
しかし、朱音の目の前の怪物は、熊をも凌駕する巨躯である。人間の打撃など通用する道理がない――
――はずだった。
涙を溜めた朱音の瞳に、不可思議な光彩が宿るのを、悠は確かに見た。
それはまるで、この世界ではないどこかの光を映したような――
蹴りが、悠然と朱音を見下ろしていた魔族の胴体に直撃する。
「……えっ?」
魔族の身体が、傾いだ。
朱音の蹴りを受け、魔族の胴体がくの字に折れる。
乾いて濡れた音――生物の身体が破壊される音が、生々しく溢れた。
そのまま魔族の巨躯は吹き飛ばされ、悠を地面に落としながら、近くの樹木に激突、樹木はそのままへし折れ、魔族は地面に崩れるように落下した。
体重差を考えれば、有り得ない現象であった。
悠は、腹に大きな風穴を開けて地面に血とズタボロの内臓を溢して地面に伏しながら、たった今、魔族の巨躯を蹴り飛ばした少女を見上げる。
血で濁った視界の中、朱音は崩れるように倒れた魔族を見やりながら、
「あ……なんっ……で……?」
戸惑いを多分に含んだ表情を見せていた。
当の本人が、今起こったことが信じられないといった風だった。
魔族に目を戻すと、魔族が立ち上がるのが見える。
ダメージはあるようだが、それでもその動きには、まだ十分過ぎるほどの剣呑さが感じられた。
相貌の多眼が、まるで激怒するように見開かれる。
「あ……かねっ……!」
「ゆ、う……あっ」
魔族の身体が、弾丸のような勢いで駆け出す。
悠が絞り出した警告の声も空しく、朱音の体勢は迎撃にも回避にも不十分なものだった。
間に合わない。
悠には、魔族の尖脚が朱音の胸を貫こうとするのが、スローモーションのように知覚できた。
それが、悠のもう一つの能力であるからだ。
超動体視力――高速で動く物体を停滞した状態で認識できる異常視力。
調子が良ければ、音速を超える弾丸すら視認することが可能である。
瞬間記憶能力と同様に、悠の身体に備わる特異な能力であった。
だが、見えるだけだ。
朱音の身体が貫かれ、吊り下げられる光景が幻視され、それが現実となるまで、もう1秒の暇すら無い。
朱音が死んでしまう。
目の前から、見知った人がいなくなる。
また、失ってしまう……!
悠の脳裏に、数多の死が駆け巡る。
あの研究所の子供達、その喪失の痛みが未だに乾かない傷を抉るように広げていく。
開いた傷口から血液のように溢れ出るのは、狂的なまでの思念の奔流だった。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……! もう失うのは嫌だ……!)
悠は、常人ならとうに狂している激痛に掻き回される思考の中、ただそれだけを思い、願い、渇望した。
それは、魂からの切なる叫びだ。
その時だった。
“道”が見える。
それは、捻じって歪んで、前後左右上下のどちらに向かっているかも定かでない、重力に従っては到底進めないであろうものであったが、確かに道だと、そう認識できた。
自分は今、その道の前に立っている。
――魔道。
悠達には、その素養が眠っているとラウロは言っていた。
悠は、動かないはずの身体で、確かにその一歩を踏み出した。
総身が、沸き立つ。
何かが、自分の身体に流れ出てくる。
悠の全身に、その何かが満ちる感覚があった。
全身の細胞から魂の一片まで、その全てが漲り励起していくような感覚と共に、悠の感覚は現実へと引き戻される。
朱音の胸に迫る尖脚は、既に彼女の胸に届き、刺し貫く直前であった。
断じて許容できない光景が、目の前で現実のものになろうとしている。
――駄目だ、許さない。
悠は、その一念を纏め上げ、形と成しながら、朱音と魔族の間の空間に意識を集中させる。
――止まれ……!
激突。
空間が悲鳴を上げるような、甲高い音が森に響く。
「……えっ?」
朱音は、傷一つない状態でそこに立っていた。
彼女の目の前に、半透明な“壁”があった。
まるでそれは、空間を凍らせたように空中で固定されている。
それは魔族との激突でひび割れており、反動で魔族を吹き飛ばすと己の役目は終えたと言わんばかりに溶け消えて行く。
再度吹き飛ばされた魔族は、受け身を取って即座に立ち上がる。
異形は跳躍し、手近な樹上へと飛び移った。
逃げるつもりかと期待したが、その無数の眼は相変わらずの剣呑な気を宿して朱音達を見下ろしていた。
その身が、再び朱音の方に向けられる。
次も同じように防げるか、悠には自信が無い。
朱音を庇いたくても、まだ悠の身体は一歩も動かなかった。
「朱音っ!」
悠は、確信していた。
朱音もまた悠と同じ力――恐らくは魔道という能力に目覚めていると。
そして、その骨子も何となく理解していた。
「さっき、あいつを蹴り飛ばした時の感覚を思い出して!
“道”……“道”を進むイメージ!」
そう言われてすぐに出来れば苦労はしないかもしれない。
だが、朱音の身体には、悠を満たしているものと同じ“力”が満ち満ちているのが悠には視えた。
今の朱音の魂と身体は、悠と同じく“魔道”と繋がっている。
ならば、悠の言葉も直感的に理解ができると、そう信じた。
樹上の魔族が飛来する。
重力を味方に付けたその突撃は、先程の突撃を上回る破壊力があることは想像に難くない。
悠は先程と同じく“壁”を展開しようとしたが、脳を焼く激痛の中で行ったそれは不十分で、魔族の巨体に容易く粉砕された。
朱音は視線を一瞬、悠に向け――魔族へとその鋭い視線を向ける。
その瞳には、確かな覚悟と闘志が宿っていた。
「はぁぁぁぁぁぁぁ!」
裂帛の気合いと共に、その身が翻る。
放たれるのは、先程と同じ廻し蹴りだ。
その動作は先程より遥かに迅速であり、人間離れした速さと言っても良い。彼女の身体能力に何らかの強化が働いているのは明らかであった。
朱音の蹴りと魔族の尖脚が、真正面から激突する。
朱音の脚は、巨大な魔族の尖脚に比べるとあまりにも華奢で、その光景だけを常識に当てはめて見れば、朱音の脚がへし折られ、その身が肉塊と化す未来は想像に難くない。
だが、しかし――
「くっ、だけろぉぉぉぉぉぉぉ!」
朱音が吼え、蹴りが疾る。
魔族の怪脚が、砕けていく。
潰れ、へし折れ、紫の血をまき散らしながら、朱音の蹴りは魔族の脚を破壊していく。
それだけに留まらず、その蹴りは魔族の顔面を捉え――
――その頭部を、粉々に粉砕していた。




