第22話 ―軍勢―
世界の揺れが、止まる。
空間そのものが砕け散るかと錯覚するほどの衝撃を感じるが、第三位階に達した影響故か、今の悠はさほど影響を受けずにその場に立っていた。
だが周囲の変化は一目瞭然である。
廃都が、脈動している。
諸々の家屋、石畳の床、朽ちかけた街路樹、打ち捨てられていた家具や器材――それら全てに“血管”が走り、生物が如く脈打っていた。
第二界層。
魔界の深部に落ちてしまったことを改めて確認した。
それも、妙に空気が“濃い”感覚がある。以前、悠達が落ちたあの森よりも更に深部なのではないか、そんな予感があった。
恐らくは、高濃度の魔素が満ちている。
「あっ……!」
背筋に悪寒が走った。
悠は蒼ざめた顔でクラスメートの方を見遣る。
「おい、しっかりしろよ、おい!」
「またかよくそぉっ!」
「ええと、どうすれば良かったんだっけ、ねえ……!?」
第二位階の皆が、倒れる第一位階のメンバーの姿に狼狽えていた。
魔素中毒による臓器不全。
それが悠の仲間達を苛んでいる。その惨状は周囲の至る個所で発生していた。
決闘をしている場合ではない。
急いで中位魔族を倒して、魔界を解除しなければ皆の命に係わる。
悠はまずはクラスメートの下に駆け寄ろうとして、
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
迫り来る“機甲蟷螂”の巨躯に目を疑った。
粕谷は、そんな悠の姿をむしろ絶好の好機として受け取ったのだろうか、目を血走らせ、口の端を吊り上げて嗤っていた。
「……っ!」
悠は何とか大鎌を回避して、地面を転がるように間合いを取って、鋼の蟷螂へと向き直った。
たまらず、叫ぶ。
「何やってるんだよ、粕谷君! そんなことしてる場合じゃないだろ!?
見てよ、魔界が落ちた! 中位魔族が出る!」
そうなれば、第三位階である悠達の出番であり、その責任は重い。
ベアトリスから習っただろう、中位魔族は一体とは限らないと。
一人でも多くの第三位階が必要なのだ。
だが粕谷は、そんな悠の叫びなど知らぬといった様子で声を荒げた。
「うるせぇなぁ! 知るかそんな事! クズ共が死んだからってどうでもいいんだよ!」
悠は眩暈がした。
この場には、斉藤達、粕谷の取り巻きだっているだろう。
彼等は、粕谷の友達ではないのか。特に斉藤は、粕谷から理不尽な仕打ちを受けても今まで付いて来てくれている相手だろうに。
悠の頭に、血が上る感覚があった。
しかし今度は怒りに振り回されることはなく、感情を御し粕谷を睨む。
朱音や省吾から教えてもらった、藤堂流の心構えの一つを思い出す。
怒は炎に非ず、怒りとは刃なり。
振り撒かれるものではなく、胸に秘め然るべき時に抜き放たれるものである。
振り回されるな、御して己の力と成せ――
悠はその言葉の通り、居合の如く胸中の激情を御しながら、十の刃を構えた。
迂闊に背を向けられない。まずは粕谷を何とかしなければ、皆の下に駆け付けることもままらなないだろう。
二人は、睨み合いならが再び相対する。
そんな二人の様子に、ベアトリスが焦燥も露わな声を上げる。
「何をしている貴公ら! そんなことをしている場合では――」
「良い、やらせい」
ベアトリスの制止の声を、マダラが切る。
マダラは珍しく、その細面から笑みを消していた。忌々しげに煙管を咥える口元を歪め、何処かを睨んでいるようだ。
ベアトリスは、そんなマダラに非難の声をぶつける。
「どういうことですマダラ殿! “落ちる”心配は無いと言ったはずだ!」
そう、マダラは請け負ったのだ。
場を整えると。余計な危険の及ばない安全な場所を作り上げると。
なのに何だこの様は。最強の魔道使いの一角ともあろう者が、何たる醜態か。
周囲には、魔素中毒で倒れる少年少女や、それを見た者の悲鳴、怒号が上がっている。玲子などは冷静に対処を行っているようだが、場は混沌としていた。
部下の中にも第一位階の者はおり、中毒症状に喘いでいた。
既に処置をして第二位階の部下を混乱を収めるべく向かわせているが、効果が表れているとは言い難い。
何割かは薬の投与で動ける程度には回復するだろうが、戦力としてはおろか、魔族から逃げることすらままならないだろう。
ベアトリスは、焦燥と失望から声を荒げていた。
マダラはそんなベアトリスの怒りの視線を受け止めながら、
「茶々がなけりゃあ言ったじゃろうが、つまりそういうことよ。
“落ちた”のではなく、“落とされた”のよ」
そう、言った。
そして、ベアトリスはその意味を理解し、眩暈を覚えた。
「馬鹿な……」
人の力を以て魔界の界層を深化させる。
それはつまり、一つの世界を破壊する行為に等しい。
理論上は、可能である。
しかし、そのためには途方もない魔力と技術が必要となるのだ。
それは巨大で高度な魔道機械装置であったり、数千人規模の魔道の行使であったり、あるいは、
それを単身で可能とする、神域の力。
それは――
絶望的な結論を出そうとしていたベアトリスの思考を、マダラの言葉が中断する。
「何にしてもお主はここで問答しとる場合じゃなかろう。
ここの頭じゃろうが、とっとと差配を始めんかい」
「マダラ殿は……」
「見ての通り喧嘩は続行中じゃ。ならば儂の役目はこの場を守ることよ。
見届け人も必要じゃからのぅ」
「この場を収めてはいただけないのですか!」
“偽天”の力ならば、第二界層の中位魔族であろうと物の数ではあるまい。
彼が本気を出せば、この状況を解決することは容易であろう。
しかしマダラは、元の悪童めいた笑みを浮かべながら、
「ついでじゃ、この茶々を入れた悪餓鬼を請け負ってやろうかい。
この意味、分からんお主じゃなかろうが?」
そう言い放つ。
そして、ベアトリスはその意味を理解し、一礼して即座に踵を返した。
時間が無い。
彼女は、すぐに行動不能の異界兵を守り、そしてそう遠くないうちに現れるであろう中位魔族を迎え撃つ指示を出すべく、混乱する少年少女達へ向かう。
少しでも戦力が必要だ、決闘の行方は気になるだろうが、高い戦闘力を持つ彼女達にも協力して貰わなければなるまい。
そう考え、ベアトリスは近くに立っていた決闘の“景品”である二人へと顔を向ける。
「アカネ・トウドウ。
ルル――っ!?」
ベアトリスは、ルルの顔を見て絶句していた。
「ルル……!?」
朱音も、言葉を失い狼人の少女の顔を見ていた。
「ふっ…………ふふっ」
ルルは、嗤っている。
あのいつもの気品のある柔らかな笑みではない。
狂した笑みである。ドス黒く、爛れた感情が漏れ出た負の笑顔であった。
それは餓狼の笑みだ。
飢餓した獣が追い求めた極上の獲物に出会った時、このような笑みを浮かべるのではないか。
このような彼女は知らない。
こんな顔をする女では、断じてなかったはずだ。
ベアトリスは悪寒と共に、古い知己の変わり果てた狂笑に絶句していた。
頭上のマダラのいつもは忌々しい声が、救いにすら聞こえた。
「狼のお嬢、落ち着けい。まだじゃ、ここには奴はおらん。
大人しくベアトのお嬢の差配に従っとれ」
「あ…………っ」
マダラの言葉に、ルルの凶相が解れていく。
解れた下に見えるのは、悔いるような表情だ。
彼女は元の優雅な姿を取り戻し、ベアトリスと朱音に頭を下げた。
酷く恥じているのだろう、その表情は沈み、狼の耳はその感情を表し伏せている。
「……御見苦しい姿をお見せして申し訳ありません。少々、取り乱しました」
「あ、ああ……。
二人とも、決闘は気になるだろうが付いて来てくれ。
皆を守り、中位魔族を迎え撃つ必要がある」
「見届けは森人のお嬢一人でもええじゃろう、儂がついでに守ってやるから安心しとけ」
ティオは、マダラの足元で不安げな眼差しを向けていた。
朱音は微笑み、ティオの頭を撫でながら、
「行ってくるわね、ティオ。
ちゃんと悠が勝つところ見ておいてよ」
「分かりましタ、アカネ。ルルさん、ベアトリス様もご武運ヲ……!」
三人はティオに頷き返し、混乱する少年少女達の下へと駆けて行く。
「……ま、そもそもけしかけたんは儂なんじゃがな。
悪いのぅ、小僧共よ」
三人の娘を見送ったマダラは、足元のティオには聞こえない声でぽつりと呟いた。
「やれやれ、早すぎるわい。しかもえらい深い層まで落としよって……儂が止めなんだら第三界層まで落ちるところじゃったろうが。
まっこと読み易いが、御し辛い男よなぁ」
魔界化した領域の界層を人の力で強制的に落とす。
機材、人材、費用、どの面においても国家が傾く覚悟が必要な作業であるが、理論上では可能なことではあった。
つまり、必要な膨大な魔力を用意できるか否か、そして、その膨大な魔力を御するための技量があるか否か、この2点を解決すれば良いのである。
そして、それを単身で可能とする者達がいる。
彼等は、この世界において“天”と称されている。
「……のう、“獣天”」
マダラの声に応え、嘲笑う気配があった。
人の域を超えた邪悪が、そこに在る――
魔素中毒で動けなくなった第一異界のメンバーは、悠と粕谷の決闘が行われているのとは別の広場に集められ、少しでも症状を緩和するべく処置が行われていた。
可能なのはあくまでも緩和である。
彼等が刻々と死に近付いている事実は全く変わらない。
島津伊織は、その危機感を胸に抱きながら廃都の一角に立ち、建物の上から周囲を警戒している。
いつ現れてもおかしくない中位魔族を迎え撃つべく、彼女はベアトリスの指示によりそこにいた。
その他にも2名の少年と少女、瓜二つの容貌を持つ双子がいる。
雪城彼方。
雪城遥。
共に伊織と同じ第三位階であり、伊織と共にその場に配されていた。
基本的に、お互いにしか興味の無い極めて排他的な兄妹である。協調性があるとは言い難い。
今も伊織を無視してお互いに抱き合いながら、何やら囁き合っている。互いに男女として愛し合い、肉体関係すら持っている専らの噂である。
伊織は噂話だけで他者を断じるような真似をするつもりは無いが、その姿を見れば只の噂とも思えない雰囲気があった。
伊織の属するグループとも友好的とは言えないが、今は危急の事態故に、全員が立場上は上司であるベアトリスの指示に従い、動いていた。
「む……」
視界の中に、異変が起こった。
何やら蠢く影が見える。遠目からでも分かるほどの異形であった。
「来たか……」
伊織は、島津家に伝わる刀を抜き放ち、魔族を迎え撃つべく魔法を具象する。
島津伊織の詠唱が始まる。
「我奉ずるは、御剣の巫舞――」
島津家は、代々神社を守る家系である。
伊織も、普段は巫女として家を手伝っていたし、将来は神社を継ぐ予定であった。
「玻璃の神座にて、八百万に捧げん――」
伊織自身、さほど信仰心に篤い訳ではないが、それでも島津家に代々伝わる神楽舞を踊る時は、何か厳かな畏怖を感じていたものだ。
もし伊織の神楽が、神に届くのならば、
「荒魂よ、魅せられるなら鎮め給え――」
禍を払って欲しい。
「和魂よ、魅せられるなら護り給え――」
幸を護って欲しい。
「我が神楽、御照覧あれ――」
故に、我が舞にて魅せよう。
玻璃の神座にて、この身の一切を晒さん。
八百万の神々よ、島津の剣巫女の神楽、代々紡がれしその美しさに魅入られ給え――
「――魔法具象――」
それが島津伊織の魔法、神に捧げる巫女神楽である。
「玻璃殿・剣神神楽!」
魔法の具象が始まる。
異変は、伊織の衣服に起こった。
彼女の衣服が分解されながら、同時に新たなる衣服が魔素によって構成されていく。
一糸纏わぬその肌に纏っていくのは、薄手の巫女衣装である。
その意匠は、伊織の小柄であるが美しい肢体を魅せるが如く、しかし神に捧げるべき品格を失わせず。至高の芸術によって構成されている。
美と艶と麗を備えた剣の巫女が、そこに在る。
「さて……」
雪城兄妹も魔法の具象を終えているようだ。
伊織は、伏せていた目を上げ、己の魔法の能力の発動条件たる剣舞の準備をするべく構えをとり、
「何だと……!?」
呆然と、目を見開いた。
伊織は、目の前に広がる光景に思考停止し、立ち尽くしていた。
その光景が、現実であると伊織の理性は阻もうとしている。
現実だとは思いたくなかった。
最初に見つけた魔族の姿は、まだ遠い。
だがその気配の剣呑さは伝わっており、下位魔族とは別格の力を有していることが容易に察することが出来た。
魔族は、こちらに向かっている。
正面からも、右からも、左からも、その間からも、
幾つも、幾つも、幾つも――
伊織の視界に、魔族の姿が映らない場所など存在しない。
「なんや、これ……!」
伊織の前に広がるのは、異形に染められた廃都の姿。
中位魔族の軍勢である――




