第17話 ―乱入者―
斑の男は、部屋を見渡して笑っている。
「何じゃ、ベアトのお嬢もおるのか。
こんな時間まで仕事とは感心じゃ、出世できるとええのう、呵呵呵!」
この斑の男は、いつの間に現れたのだろうか。
悠は、その超動体視力で粕谷の動きをずっと追っていた。その目には、粕谷の動きはスローモーション以下の速度で映っていたのだ。
しかし、この斑の男がどの瞬間に現れたのか、全く分からない。
まるで、粕谷が暴れる前からずっとそこにいたような気すらしてくる。
いずれにしても、男が真っ当な手段で部屋に入った訳ではないのは確かだろう。
恐らくは、何らかの魔道の力であろうと悠は判断した。
粕谷は、まるで縫い止められたかのように微動だにしていなかったが、男が椅子を離すと、バランスを崩し転びそうになりながらも男から距離を取った。
その表情からは完全に凶相が消え失せ、顔色は朱から蒼へと転じている。
他の皆も、唖然としながら斑の男を見ていた。
ベアトリスだけが、驚きよりは辟易とした表情を浮かべている。勘弁してくれ、とでも言いたげに頭を抱えていた。
見知った顔なのかもしれない。そしてそれは、悠も同様であった。
「あなたは……」
斑模様の着物、
咥えた煙管、
無精髭を生やした悪童めいた笑みを浮かべる若々しい容貌。
その翁のような口調。
それは、逃げたティオを追いかけている時に、悠に占いと称して時計塔を示した男である。
男は、悠を見下ろすと、片眉を上げた。
「おう、白スケ。奇遇じゃの」
たまたま街で知り合いとすれ違った――そんな気軽な様子である。
悠は、立ち上がって彼に頭を下げた。
「あの……今日はありがとうございました。おかげで、友達を助けることが出来ました」
正しく、恩人だろう。
彼がいなければティオが落ちる現場に居合わせることは出来なかったはずである。
ティオの命の恩人であるという認識に間違いは無く、斑の男の得体の知れなさに畏れを感じつつも、悠は万感の感謝を彼に伝えた。
「呵呵っ、よいよい。
儂が儂が愉しめるように振る舞うだけよ。別に人助けなんてしようとは思っとらんのでな」
男はそう言い、唇を歪ませながら手を振った。
何事かと朱音とティオが問いかけると、悠は簡単に事情を説明する。
そして二人も、斑の男に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございましタ」
「…………」
そんな二人を、斑の男は無言で見下ろしている。
だが、先ほどまでのふざけた様子が見受けられない。
その細い目は、どこか真剣な眼差しで二人を……否、朱音を見つめていた。
「……どうか、しました?」
朱音も自分が見つめられていることに気付いたのか、戸惑いを浮かべながら斑の男に問いかける。
斑の男は、朱音の視線を受けて元の悪童めいた笑みを浮かべると、顎を撫でながらにやりと笑みを深めた。見ていて不安になるような、不可思議な笑みだ。
「……そうじゃのう、お前さんからは一つ礼でも貰うかの」
何故か自分にだけ要求された礼とやらに、朱音の表情に若干の警戒が浮かぶ。
ティオは不安そうに男を見遣り、悠も固唾を飲んでいた。
「な……何ですか?」
「飛んでみい。真っ直ぐ上に、思い切りのう」
「……?」
朱音は腑に落ちないといった表情であるが、とりあえず男の言う通りにジャンプした。
しなやかな脚から生まれる跳躍力は、とても悠では不可能な高さまでその身を持ち上げる。
斑の男は、そんな朱音の姿を……その一点を注視していた。
その目は、とても真剣だ。
そして朱音は着地し、不安げに問いかけた。
「これでいいんですか……?」
「うむ」
斑の男は満足げに頷き、
「さすがでかいだけあって派手に揺れるのぅ!
まっことけしからん! 眼福、眼福! 呵っ呵っ呵!」
呵呵大笑を響かせる。
朱音はきょとんとして、
「……はああああああ!?」
意味を理解した朱音は顔を真っ赤にして、両手で胸を押えてしゃがみ込んだ。
その表情は、羞恥で涙目になっていた。その唇から、言葉にならない呻きが漏れている。
ティオが彼女を慰めるように傍らにしゃがみ込む。
「何で私の胸はこんな扱いなのよぉ……そこの鉄さんの方が大きいでしょ!?」
「あ、おまっ……ふざけんな、オレに振ってんじゃねーよ!」
ぎょっとして叫ぶ美虎に、斑の男が顔を向ける。
美虎は顔を引き攣らせた。
男は首を傾げ、
「……飛ぶか?」
「死ねっ!」
美虎も自分の胸を隠すように後ずさる。
その腕でも、その豊かで柔らかな双丘は隠しきれていなかった。
まるで男の着物の斑模様の如く、よく分からない空気になりつつあった部屋に、ベアトリスの鋭い声が響く。
「……マダラ殿。戯れはそこまでにして戴きたい。
この場の裁量は私に任されています。部外者の貴公が出る幕ではありせぬ故、退出を」
どうやらベアトリスは彼――マダラを快くは思っていないようだ。
確かに、マダラの自由奔放な言動は、生真面目そうなベアトリスとは酷く折り合いが悪いだろう。
しかもマダラの方が立場が上のようで、ストレスを受けているのかもしれない。
ベアトリスの言葉に、マダラは眉を顰めて口から紫煙を吐き出す。
そして叱られている童のように口をへの字にして、
「つまらん!」
などとヘソを曲げた子供――あるいは老人のようなことを言い出した。
ベアトリスは、明らかな当惑を見せる。
「一体、何を……」
マダラは、煙管でベアトリスを差し、彼女の言葉を制した、
カランカランと下駄の乾いた足音を立てながら、中央の机に座って、胡坐を掻く。
「どうせお主はあれじゃ、法に則った形で出来るだけそこの森人のお嬢に便宜を図れるように沙汰を下すつもりだったじゃろ?」
マダラは唇を意地悪く歪めながら、粕谷を一瞥して、
「……そこの暴れとった小僧を捨て置けば、都合の良い既成事実っちゅうもんが作れたろうしのぅ」
玲子が肩を竦め、ルルが苦笑する気配があった。
そういえば、粕谷が暴れた時に二人は僅かに笑った気配があった。まるで、してやったりと。
それが、二人の狙いだったのだろうか。
粕谷に大きな過失を生じさせ、ティオのために何かしら有利な裁定を引き出そうとしていたのかもしれない。
「ま、お主も森人のお嬢の母親を死なせたっちゅう負い目があるんじゃろうが――」
――今、何といった?
ベアトリスが、ティオの母親を死なせた?
悠は驚愕と共に、ティオとベアトリスを見やる。
それは互いに既知のことだったのか、二人とも特に驚いた様子もなく、ただ複雑な表情を浮かべるだけであった。
見れば、玲子も何か知った風だ。
疑問を口にする間も無く、マダラの口上は続く。
「角が立たんよう、それなりに落としどころで丸く収めて一件落着……全くつまらん! 何の面白みもないわ!
まるで漢らしゅうない、玉ぁ付いとるんか!」
「付いてません」
ベアトリスが、半眼で呻いている。
マダラは、その細い目に悪戯を思いついた童のように爛々とした光を湛えながら、悠と粕谷を交互に見る。
旨そうに紫煙を吸い込みながら、
「じゃからのぅ……お嬢、ここは儂に預けてみい。
そもそもが、そこの白スケと偽金髪の喧嘩じゃろうが。
漢と漢の喧嘩じゃ、決着の形も漢らしくあるべきじゃろう。ほどほどで手打ちなんぞ白けるわ」
「マダラ殿! 貴公はもう帝国の所属ではないのです!
勝手な真似は――」
「――魔鍵を、作っちゃろう」
魔鍵。
聞いたことのない言葉だ。悠の読んだ書物には無かった。
マダラの口にした単語は余程に重要なものだったのだろう、ベアトリスはその一言に押し黙っていた。
彼は、そんな彼女の様子をニヤニヤしながら眺めている。
「じゃからお嬢、ここは儂に遊ばせろや。
それで貸し借り無しじゃ」
マダラの言葉に、ベアトリスは渋面を作る。
悠と粕谷、そしてティオを見て苦悩の表情を見せていた。
彼女を苦悩させているのは、迷いだろうか。
「……私の一存では決めかねます」
マダラの唇が、愉快げに歪んだ。
やたらと笑顔のパターンが多彩な人だと、悠は呑気にも思う。
マダラの表情は殆どが笑っている。まるで、常に楽しくて仕方がないとでもいうように。
「それなら責任者の許可でも取ろうかい。
……のう、出てこいや!」
マダラは、入り口の方を見て声を投げる。
皆が何事から目を向けると、そこから、一人の男が入って来た。
そして皆の顔が、ほぼ同様に不快に顰められる。
知った顔だ。忘れられない顔だった。
その、あまりの悪印象故に。
「やれやれ……随分と勝手に振る舞われますな、翁よ」
金髪をオールバックにした、能面じみた笑みを張り付けた男。
ラウロ・レッジオがそこに立っている。
悠達を巻き込んだ魔道省の実質的な責任者。
宰相派の重臣。
皇帝派の復権を密かに狙う悠達にとって、怨敵にして大敵と言える人物である。
マダラは、皆の表情を見回しながら、呵呵大笑した。
「呵呵呵呵! 小僧共、良い顔しとるわ!
ラウロよ、お主嫌われとるのぅ!」
「実に残念ですな」
ラウロは悪びれる様子もなく、部屋に足を踏み入れる。
相も変わらず、悠達地球人や、ルル達亜人を見る目は底冷えがするほど冷酷な光を湛えている。
ラウロは部屋の中央に立ち、マダラに相対した。
「先ほどの言に二言は御座いませんな?」
マダラは腕を組み、誇らしげに胸を張る。
「応よ、儂は生まれてからこの方、約束を違えたことは1度も無いでな」
ラウロは「ふむ」と頷くと、立ち尽くしていたベアトリスに顔を向ける。
政敵であるラウロに対するベアトリスの視線は、やはり鋭かった。
同じフォーゼ人だからだろうか、ラウロがベアトリスに向ける目には少なくとも侮蔑や侮りは無いように見えた。
「ベアトリス君、異界兵についての最終権限は魔道省の私にある。ここは強権を発動させてもらおう。
……今回の沙汰は、翁に一任する」
「っ……了解した」
ベアトリスは、不承不承という形で頷く。
その表情は、とても悔しそうであった。
ラウロは頷き、背を向けて扉へと歩いていく。
「では、ここは翁に任せて去るとしよう。ベアトリス君、君もだ。
……翁、後程仔細をお聞かせ願いたい」
ベアトリスは、消沈した様子でラウロに続いた。
最後に扉の前で振り返り、皆の顔を見渡す。
その表情は、どこかすまなそうな痛ましい色を浮かべていた。
「失礼する」
最後にそう言い残し、ベアトリスは去って行った。
そしてその場には、悠達地球人と、ルルとティオ、そして机の上に胡坐を掻くマダラが残された。
殆どの者が、事態に取り残された様子で呆然と成り行きを見ていた。
毛色が違うのは玲子とルルの2名である。
玲子は、事態の成り行きに何やら深刻な顔をしていた。嫌な予感がする、そんな様子である。
ルルは、どこか複雑な表情でマダラを見ていた。苦笑めいた表情であり、他の皆ほどの緊張感は感じられない。
困った親戚を見ているような、といった表現が近いだろうか。
二人とも、マダラのことを知っているような素振りに見えた。
「さぁて、小うるさい横槍も無くなったのぅ」
マダラは上機嫌に紫煙を吐き出す。
その表情は、悪戯を考えている悪童のように愉しげであり、そして危うい。
「安心せぃ、このマダラ様が漢らしゅう熱く滾る沙汰を下してやる故」
悠と粕谷を見下ろしながら、マダラはその笑みを深めていた。




