第16話 ―懇願―
「……さて、各々からの聴取も終わった訳だが」
既に時刻は深夜を回っている。
悠、粕谷はそれぞれ別個に事情の説明を求められ、そして今は揃って帝城の一室に呼び出されていた。
その場には、悠と粕谷の他にルル、そして何故か美虎の姿もあった。
悠は椅子に座り、部屋の中央の机を挟む形で粕谷と相対していた。
粕谷はずっと悠のことを憎々しげに睨んでいる。
そんな二人の間にいるのはベアトリス・アルドシュタインだ。
寝不足なのだろうか、その美貌の目元には隈が出来ており、その金色の髪や肌も少し荒れているように見える。いつは凛々しく着こなされている軍服も、どこか着崩れていた。
恐らく、多忙で寝る間も無かったところをこのような雑務に狩り出されたのではないだろうか。
その発端である悠としては、罪悪感を禁じ得ない姿だった。
ベアトリスは、手元の書類に目を落としながら疲れを滲ませた声で言う。
「事の発端はユウ・カミモリがキョウスケ・カスヤに殴りかかったことであり、キョウスケ・カスヤがそれに応戦する形で喧嘩となった……双方の意見に食い違いは無い」
事実である。
冷静さを取り戻した悠は、主観を交えずに事実だけをベアトリスに語っていた。
その原因――ティオに対する粕谷の仕打ちについても述べたが、彼女は渋面を作りながら、
『……気持ちは分かるが、それも奴隷の“用途”として法上で認められている。キョウスケ・カスヤの行動には何ら違法性は無いのだ』
そう、苦々しく語っていた。
納得している訳ではない、だが軍人である自分の立場ではどうにもならない。
そんなことを言いたげな様子に見えた。
ベアトリスは、悠と粕谷の顔を順に見ながら、眉根を寄せる。
「帝国法の上では、ユウ・カミモリが加害者であり、キョウスケ・カスヤは被害者という訳になるのだが……」
ベアトリスの物言いに、粕谷が愉悦に顔を歪めていく。
どう償わせてやろうか、そんなことを考えているのだろうか。
しかし、そんな粕谷の愉悦に水を差す者がいた。
「宜しいでしょうか」
ルルが小さく手を上げ、一歩前に出た。
ベアトリスは、そんなルルをどこか複雑な目で見ている。
「どうした、ルー……いや、ルル」
ルルは、悠と粕谷を交互に見ながら朗々と語る。
「確かにユウ様がカスヤ様に先を手を出したの事実です。しかしカスヤ様は反撃として、倒れたユウ様のお体を、3度も踏み付けました。
捨て置けば大怪我、あるいは命の危険にも繋がったでしょう。奴隷の立場からの具申で僭越ですが、過剰防衛として過失の相殺を主張します」
「何だとこのアマァっ!
奴隷の売女の分際で――」
粕谷が激して立ち上がるが、ベアトリスは手を上げてそれを制した。
伊達に名門貴族の令嬢ではないのだろう。その所作には、それだけで他者に働きかける力があった。
ベアトリスは、腕を組んで壁に寄りかかっていた美虎を見遣り、問いかける。
「ミコ・クロガネよ。間違いはないか?」
彼女は、その長身から二人を見下ろしながら、
「……ああ、確かにそこの金髪は、ブチ切れながら神護を思いっ切り踏んでたよ。
あのまま続けたら間違いなく肋骨の1本や2本は折れてたろうさ」
これが、悠の奴隷であるルルや、仲間として認識されている省吾や伊織ではその客観性を疑われたところであっただろう。
しかし完全に第三者である美虎の意見は、その場においては重要な証言として機能する。
あの時、ルルが助けに入るのが、彼女にしては少し遅かった気がしたのだが、もしかするとこの状況を生み出すためだったのかもしれない。
粕谷の行動にも過失を生じさせ、それを第三者の目に晒す――それによって、悠の法律上の立場を守ろうとしたのではないだろうか。
ルルに顔を向けると、彼女は小さく微笑んでいる。
「この乳牛……適当なことほざんてるんじゃねぇぞ……!」
粕谷が、今にも飛び掛からんばかりの勢いで美虎を睨んでいた。
美虎はその視線を真っ向から受け止め、そして微塵も揺らがぬ表情で粕谷を見返している。
その視線は、まるでゴミを見るように冷ややかだ。
「黙れ。やり過ぎなんだよ、この下種が。
……別に雨宮や神護達の味方をする訳じゃねぇけどな」
美虎は吐き捨てるように言うと、壁からその長身を離し、自分の用は済んだと言わんばかりに出口に向かって歩き出す。
「オレの役目は済んだだろ?
眠いんだ、もう帰らせ――きゃうっ!?」
急に美虎の目の前のドアが開き、
彼女の意外に可愛い悲鳴が漏れた。
美虎の頬がカァッと朱に染まるが、彼女はそれを誤魔化すように咳払いをしている。
「悠っ!」
開いた扉の向こうにいるのは、朱音とティオだった。その後ろには、省吾や伊織、玲子の姿もある。
二人は息を切らせ、どこか悲痛な表情で椅子に座る悠を見ていた。
そして朱音は粕谷を睨み付け、そしてベアトリスを真っ直ぐに見つめて口を開く。
「悠は悪くないんですっ!
元はと言えば、粕谷がティオを――」
「――アカネ・トウドウ。
その件について、他者が口を挟む権利は無い」
にべもなく言葉を切り捨てられた朱音は、悔しそうに顔を歪めるが、ベアトリスもまた一瞬ではあるが、似たような表情を浮かべていた。
粕谷は、ティオの姿を認めると露骨な悪意に顔を歪める。
「……おい! ティオ!
てめぇの御主人様が、てめぇのせいで殴られたんだぞ……分かってんのかこの愚図がぁ!」
「す、すみませんキョウスケ様……!
罰は私が受けますから、ユウ様をどうかお許しくださイ、お願いですカラ……!」
ティオは、表情を悲壮に翳らせながら、粕谷に駆け寄っていく。
悠は、自分をひどく恥じていた。
冷静さを欠いていたとはいえ、ティオを思えば全くの不正解の行動である。
仮に自分がお咎めなしとなってしまえば、粕谷の不満は全てティオにぶつけられるだろう。
なんて様だ、最低だ。
粕谷は、自分の下に駆け寄ってきたティオを、
「きゃっ!?」
殴り飛ばした。
その手の甲で、裏拳の要領で、ティオの頬目がけて振り抜いたのだ。
ティオの小柄な身体が易々と吹き飛び、床に転んだ。
「ティオっ!」
悠はティオに駆け寄り、しかしそれより早く駆けつけた朱音がその身体を助け起こした。
その頬は腫れており、唇から血が滲み、鼻血も出ていた。
何の遠慮も呵責もない暴力の痕跡がそこにある。
悠の頭に再び渦巻くものがあったが、
「粕谷ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
朱音の咆哮により、掻き消された。
まさに怒号と称するに相応しい、嚇怒の雄叫びだ。
朱音がティオを横たえ、粕谷に駆けだす。
その表情には、殺意すら浮かんでいるように見えた。
少なくとも、理性的な判断力は残っていないように思える。
ベアトリスが制止しようと立ち上がりかけているが、どうやら本調子ではないのか、その反応も動きも鈍かった。
「だめ……」
ティオが、小さく呟くのが聞こえた。
理不尽過ぎるが、この粕谷の行動ですら何ら咎められる点は無いのだろう。
恐らく、朱音は粕谷に苛烈な攻撃を加える。さすがに殺すことは無いと思いたいが、骨の一本や二本は平気で折るだろう、それほどの表情と声色だ。
朱音は、罪もない相手に重傷を負わせた犯罪者となってしまう。
しかし、悠が止めるには間に合わない。
誰か、彼女を――
「あっ……?」
――止める者がいた。
一体、如何なる動きでそれを成したのだろう。
彼は、朱音より後ろにいたはずである。
大柄な巌のような少年が、朱音と粕谷の間に立っている。
彼は、朱音の肩を押えてその動きを止めていた。
そして、
「ぐぎっ……!」
もう片方の手で、粕谷の胸倉を掴み、
信じ難いことに、片腕で彼の身体を持ち上げていた。
武田省吾。
朱音の兄弟子である、もう一人の藤堂流礼法の使い手が、あっさりとその場を制圧していた。
「省吾兄ぃ……」
朱音が、呆然と呟く。
省吾は朱音の顔を見下ろし、頷いた。
「止めとけ、お前が牢屋にぶち込まれる価値なんてこいつには無ぇよ」
そして、
「あがっ……!」
粕谷の身体を、更に高く持ち上げる。
粕谷は苦しげに呻きながら暴れるが、省吾の鍛え込まれた腕はびくともしていない。
悠の知る省吾は、いつも大人びて冷静で、暴走しがちな玲子の抑え役でもある、頼れる兄貴分だった。
面倒なことがあっても、やれやれと言いながらも付き合ってくれる面倒見の良い先輩である。
ちょっとやそっとのことでは怒らない、懐の広い人物だ。
その彼が、怒っている。
悠や朱音のように暴発している訳ではないが、彼は間違いなく激怒していた。
だが、粕谷は、
「へへ……いいのかよ」
陰湿な笑みを漏らす。
省吾を嘲笑うように見下ろしながら、
「お前、相当重要なポジションにいるんだろ?
ここにはこのお堅い女騎士様がいるんだぜ?
俺をボコって牢屋にでもぶち込まれたら、お仲間が困るだろうなぁ……?」
省吾が小さく舌打ちして呻くが、伊織が省吾の隣に立ち、粕谷を冷たく見上げている。
その眼差しは、氷の刃のように鋭い。
「省吾殿、問題無い。省吾殿が動けぬ間は自分と悠が負担する。
……それとも、自分がこの外道を痛め付けてもいいぞ?」
その腰に下げている鞘から、カチリと音が鳴っている。
粕谷が小さく悲鳴を漏らし、
「あー、ストップストップ!
ちょっと待って!」
玲子が大きく手を振りながら、二人を止めた。
省吾は嘆息し、玲子の言葉に従い粕谷を下した。伊織も鞘から手を離す。
粕谷は大きく咳き込みながら省吾を睨んだが、省吾、伊織、朱音に一斉に睨み返されて黙り込んだ。
悠は、状況に付いていけずに、頬を押えて身を起こすティオを介抱していた。
玲子は頭痛を抑えるように頭を押えながら、悔しげに言葉を続ける。
「……まさか現代日本の文明社会で育った高校生が、ここまでやると思ってなかったわ。
彼の兄や父はまだまともだったんだけど」
「……あ? なんでてめぇが俺の――」
「雨宮家、知らないの? 君、何も期待されてなかったのね」
玲子の冷たい物言いに、粕谷が獣じみた唸りを漏らす。
どうやら相当に痛いところを突かれたようだった。
朱音は務めて粕谷の方を見ないようにしながら、ティオの所に戻ってきた。
その腫れた頬を見て悲痛な表情を見せるが、ティオは朱音に心配かけまいと、笑みを返している。
とりあえずは本格的に暴力沙汰になることは避けられたようだ。
それはそれで理不尽なことには違いないが、悠の友人達が犯罪者となれば、恐らくティオは自分が傷つく以上の苦しみを受けるだろう。
「……ねえ、粕谷君」
悠は、ぽつりとした声で粕谷に話しかける。
粕谷は声を返さず、じかし怪訝な表情で悠を見た。
「僕のことは殴っても蹴ってもいいからさ、ティオのことは苛めないでよ」
「……あぁん?」
「ティオはいい子なんだよ。沢山辛い目に逢ったのに、彼女のせいじゃないのに、それでも人に優しく出来る子なんだよ……!」
悠は、粕谷を真正面から見た。
しかし涙で視界が滲んでおり、彼の表情はよく見えない。
「ティオを解放してくれとは言わないよ……せめて、ティオに優しくしてあげてよ!
お願い、だから……!」
悠は、床に両手を付いて、粕谷に頭を下げていた。
意図せずして、それは土下座に近い体勢となっている。
だが、もしその言葉が叶うなら土下座だって喜んでやるだろう。
誰も彼もが、黙っていた。
ティオも、朱音も、ルルも、玲子も省吾も伊織も美虎もベアトリスも――悠の切なる懇願の姿に、言葉を失っていた。
悠は、顔を上げるがやはり視界は涙で粕谷の表情は見えない。
彼は――
「くっははははははははははは!」
嗤い、
「知るか、馬ぁ鹿!」
――きっぱり、悠の切なる願いを拒絶した。
「いいか、神護……頭の悪いお前はまだ分かってねぇようだから、もう1度教えてやる。
俺がティオを好きにするのは、俺の権利だ! 俺の自由なんだよ!
何でてめぇのために俺が我慢しなくちゃならないねぇんだ、痴呆かてめぇは!」
粕谷は、そんなことをむしろ愉快げに話していた。
そして粕谷は、ルルを指差して、
「だいたい、てめぇだってこの奴隷に欲情して突っ込んで愉しんだんだろうが、知ってんだよ! てめぇに人のことが――」
「一緒にしないでいただけますか」
ルルが、粕谷の口上を切り捨てた。
まさに刃のように、その声色は鋭い。
先ほどから目立たぬように静かに立っていて気付かなかったが、ルルもまた、その美貌に怒気を孕ませていた。
「貴方とユウ様を一緒にすることだけは、断じて許容できません。即刻の訂正を求めます」
有無を言わせぬ、鉄槌を振り下ろすような強い声色。紛れも無く攻撃的な響きが混じった声であった。
上から下賤の者を見下ろす、冷たい眼差し。
粕谷の人生において、そんな目を向けられたことなど果たしてあっただろうか。
彼は俯き、肩を震わせていた。
そして顔を上げ、
「がああああああああああああ!」
吼える。
遂に彼の感情が理性の許容点を完全に超えたのか、彼は狂したように声を上げていた。
その表情もまた、凶相と呼ぶに相応しいものだ。その顔色は、黄色人種とは思えないほど真っ赤になっていた。
「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがってぇぇぇぇぇ!」
粕谷が、椅子を掴んだ。
「貴公、何を――」
静観していたベアトリスがさすがに彼を止めようとして、
省吾が伊織を制して背に追いやり、
朱音がティオを庇うようにうずくまり、
美虎が舌打ちと共に前に出て、
玲子やルルが、薄い笑みを浮かべ、
悠は、地面に座り込んだまま粕谷の発狂の姿を見上げ、
粕谷は、椅子を振りかぶりながら雄叫びを上げて、
「呵呵っ、何ぞ面白いことになってるのぅ」
嘲笑うような声が、部屋に響く。
突如として、一人の男が粕谷の背後に現れている。
煙管を咥え、斑模様の着物を羽織った傾奇者が、粕谷の振り上げた椅子を掴んでいた。




