第15話 -感情-
斉藤和樹は、粕谷京介の取り巻きの一人であり、最古参と言っても良い少年だ。
何せ、粕谷との付き合いは小学校時代から続く。
斉藤の父親は、粕谷の父の直属の部下であった。
斉藤の父は、粕谷の父に僕同然に扱われ、息子である和樹と粕谷の関係も似たようなものだった。
いわば、粕谷のグループの副リーダーのようなものと言っても良いだろう。
しかし今現在、斉藤は孤立気味であった。
切っ掛けは、あのティオという奴隷の少女についてだった。
あの少女を風俗街で働かせて金銭を得る、という粕谷の決定に異を唱えてしまったからだ。
「なあ、こんなことしなくてもいつも通りに付き合うからよ……やめようぜ、こんなの。いくらなんでも可哀想だろ……?」
斉藤は粕谷に殴られ、蹴られ、部屋から追い出され、クラスの皆がいる第六宿舎にも気まずくて顔を出すことが出来ず、野宿に近い状態で一夜を明かすこととなる。
それ以来、斉藤はグループ内の、最底辺の存在として扱われることとなる。
そもそも、あの2度目の魔界での戦闘で亀裂は生じていた。
粕谷はあの鋼の蟷螂を駆り、すぐに戻ると言い残し、不安な眼を向けるメンバーを置いて遥か先へと消えてしまった。
斉藤は第二位階の魔術を扱えたが、その能力とは「自身の動きを加速する」といったもので、戦闘向きとは言い難い。戦闘に耐えうる能力を持ったメンバーは限られており、粕谷がいなければ自分たちの身を守ることもままならない集団だったのだ。
一緒に転移された集団も、粕谷が早々に拒絶して追い払ってしまったので、とうに姿を消してしまっていた。助けを求めることも出来ない。
斉藤達は必死で魔族達から逃げ、あるいは抵抗して生き延び、粕谷が戻ってくるのを待っていたが、遂に粕谷は最後まで戻ってくることは無かった。
そして、メンバーの一人である高見は、斉藤の目の前で殺された。
極限まで高まった不信感は、斉藤があの玲子を介した悠との取引によって金銭を分け与えることで、ある程度は緩和できている。
しかし命に係わることである、とうてい拭いきれるものではないはずだ。
そして斉藤は、あのグループの中心から外されてしまった。
粕谷が、自分がグループのために行っていた諸々の調整や管理、情報収集などをやれるとは思えない。他のメンバーも無理だ。
斉藤は、そのことが気になって、第一宿舎を訪れていたが――すげなく追い返されてしまった。
今は、肩を落としながら第一宿舎を出ようとしているところである。
玄関ホールに出た斉藤は、向こうから歩いてくる人影を発見した。
白い髪の、女子のような小柄な少年が、近付いてくる。
その傍らには、獣のような耳を生やした女性の姿もあった。
神護悠。
学校では毎日のように苛めに加わっていた相手だ。粕谷に命令されて暴力を振るったこともある。
だが、悠が第三位階の身分を手に入れている現在は、少なくとも斉藤よりは格上の存在である。
粕谷も財閥の力が届かないことを自覚しているのか、学校の時のように直接手を出すようなことはしていなかった。
玲子を介して取引こそしたものの、顔は合わせたくない相手である。
斉藤は、トイレにでも行って逃げようかと思い、
悠の顔を見て、言葉を失った。
悠は、ルルを伴って第一宿舎への帰り道を急いでいた。
城門の内側で待っていたルルは、悠の表情を見て珍しく驚きに目を見開いていたが、敢えて何かを問うようなことはせずに、黙って悠に付き従って彼が戻るための手続きを迅速に済ませてくれた。
第一宿舎は目の前であり、目的地である粕谷の部屋にも、もうすぐ辿り着く。
玄関ホールを見れば、粕谷の取り巻きの斉藤和樹が、こちらを見て呆然と立ち尽くしているのが見えた。
一体、どうしたのだろうか。
「……斉藤君、どうしたの?」
悠が声をかけると、斉藤はびくりと身を震わせる。
何かに怯えているように、その顔からは血の気が引いている。
「えっ……ちょ、ちょっとな……」
彼は、悠に目を合わせようとせずに顔を俯かせていた。
「粕谷君は部屋にいるかな?」
「あ、ああ……」
「そう、ありがとう……あと、ティオのことはありがとう」
そして悠は、斉藤の横を通り、粕谷の部屋の方角へと真っ直ぐ足を向ける。
ルルも斉藤に一礼し、無言で悠の後に続いた。
そして粕谷の部屋の扉の前へと悠は立った。
しばし、その扉を黙って見つめる。
大きく深呼吸をして、その扉をノックした。
数秒の沈黙の後、扉の奥から声が聞こえる。
良く知った少年の声だ。
いつもはティオにやらせていたであろう雑事が面倒なのか、舌打ちする気配があった。
「ちっ……何だよ?」
扉を開け、金髪に染めた顔が出てくる。
粕谷京介は、悠の顔を見て少し驚いたような顔をして、そして剣呑に顔を歪める。
その目と声には、明らかな敵意が込められていた。
「……何だてめぇ、何しにきやがった」
色々と話そうと思うことがあった。
ここに来るまでに、その内容を頭の中でまとめていたはずだ。
しかし、駄目だった。
何故だろう、彼の顔を見た瞬間、整理していた内容が全て吹き飛んでしまった。
何か大きなものが頭の中で渦巻き、思考は千々に乱れている。
悠はようやく、短い言葉を吐き出した。
「……ティオが、街で働いてたよ」
粕谷が、怪訝に眉を顰める。
「……だからどうしたっていうんだよ?」
心底どうでもいい、そんな口調である。
「彼女、泣いてたよ」
悠は、どこか熱に浮かされたような心地のまま言葉を吐く。
何を話すつもりだったのか、全く思い浮かんで来なかった。
粕谷は、今すぐに扉を閉めたいと言わんばかりの面倒臭そうな様子であるが、さりげなく隣に立っているルルが、扉に足をかけていた。
「……あぁん?
てめぇ、まさかあいつが可哀想だから止めてやれとか言うつもりかよ?
いいか、あいつは俺の奴隷なんだよ、この国じゃご主人様は奴隷に何をやってもいいんだ、何をさせようがてめぇに何か言われる筋合いじゃねぇ……!」
興が乗ってきたのか、粕谷の言葉が饒舌になっていく。
その表情には、自分が他者を支配しているという、学校で見せていた時以上の傲慢な笑みが浮かんでいた。
粕谷は、その言葉を本当に嬉しそう吐いた。
「俺があいつを殺したって、罪はならねぇんだよ!」
「あ…………」
ティオの泣き顔が、
朱音とティオの抱き合う姿が、
悠の脳裏にフラッシュバックする。
同時に沸き起こる衝動が、思考を介さずに悠の身体を突き動かしていた。
「あ……あああああああああああ!」
悠は叫んだ。
それは喉から発せられたが、声ではない。
先ほどのティオと同じ、溢れ出す生のままの感情の奔流だ。
悠は、自分が何をしているのか良く分からなかった。
ただ制御できない感情が、悠の身体を突き動かしていく。
右手が伸びる。
伸びて、伸びて――そのまま粕谷の顔へと向かっていく。
粕谷は悠の絶叫に驚いたのか、その目を大きく見開いて固まっていた。
悠の右手は粕谷の顔に触れ――そのまま振り抜く。
「がっ!?」
要するに、
悠は、粕谷を殴っていた。
全力で、持てる限りの力を振り絞って。
悠の右手は密かに骨折していたが、超再生によって人知れず回復していた。
粕谷は完全に予想外だった悠の拳を諸に食らい、吹き飛びはしなかったもののたたらを踏んで後退した。
何が起こったか分からないといった表情で、悠を呆然と見ていた。
「てめぇ……!」
ようやく事態を理解した粕谷が、その顔を歪める。
それは怒りを通り越した、嚇怒の表情だ。
殺意すら疑う目で悠を睨んでいた。
「このグズがぁっ!」
怒声と共に放った粕谷の蹴りが、悠に直撃する。
「あぐっ!」
腹に突き刺さる蹴りに、悠の息が吐き出された。
横隔膜が痙攣し、呼吸が出来ない。
しかし、
「ああああああ!」
悠は蹴られながらも前に進み、再び粕谷の顔面を殴り付ける。
「ぎあっ!?」
片足でバランスを崩していた粕谷は、今度こそ転倒した。
悠は、荒く息を吐きながら、倒れる粕谷を見下ろす。
倒れる粕谷に近付こうと、彼の部屋の中に足を踏み入れ、
置かれていた鏡を見た。
悠の顔が、映っている。
「…………?」
それは、慣れ親しんだ自分の顔だ。
そのはずだった。
だが、悠はそれが自分の顔だとは認識が出来なかった。
その顔は、歪んでいる。
目は潤み吊り上げられ、歯を食いしばっていた。息は荒く、獣のように唸っているように見える。
日頃自分の表情など見る訳ではないが、それでもその顔は、自分の浮かべた記憶の無い表情である自覚はあった。
それは、悠の今の感情を正しく表した表情なのだろう、
この表情が意味する感情とは、一体何だったか。
「……これ、は」
悠は、鏡に映る己の顔に呆然とする。
粕谷に殴りかかるのも忘れ、悠は棒立ちになっていた。
「糞がぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
そして粕谷の雄叫びが聞こえ、
「うぁっ……!」
悠の顔に、粕谷の拳がめり込む。
完全なる不意打ちにして直撃であり、悠の視界に火花が散った。
そのまま悠は吹き飛ばされ、床に転がった。
「神護ぃっ! てめぇ如きがっ! やりやがったなクズがぁぁぁぁ!」
粕谷の、発狂したかと思うほどの怒声と共に、倒れた悠の身体が踏み付けられる。
それは、2度、3度と繰り返された。
何ら手加減のない攻撃であり、踏みつけられるたびに肋骨が軋む感覚がある。もう幾度が繰り返されれば何本か折れるかもしれない。
そして4度目の踏みつけが行われようとした時、
「カスヤ様、そこまでにしていただけますでしょうか」
それまで静観していたルルが、いつの間にか二人の間に割って入っていた。
悠に振り下ろされようとしていた脚の軌道を逸らし、悠の身を護るように立ちはだかる。
粕谷はバランスを崩し、転びそうになりながら後ずさりした。
「ルル、さん……」
「てめぇ……神護の奴隷か……!」
ルルは、優雅に一礼した。
「そういえば、名乗っておりませんでしたね。私はルルと申します。
……別に、貴方様にはその必要も無いかと思っていたのですけど?」
ルルの声色は、驚くほど冷たく、そして険があった。
悠からは、彼女の表情は見えない。
しかし粕谷は、怖気づくようにたたらを踏んでいる。明らかに、ルルに対して怯えの感情を抱いていた。
「……おい、何の騒ぎだ、こりゃ」
低い男の声が聞こえる。
悠が顔を上げると、省吾が部屋の入口に立っていた。
その隣には伊織がちょこんと顔を出しており、その後ろでは美虎が腕を組んで立っているのが見える。他にも幾人かがいるようだ。
騒ぎを聞きつけた第一宿舎のメンバーが、集まってきたらしい。
ルルは、彼らに向き直って深々と頭を下げた。
「皆様、お騒がせしました。
お疲れのところ大変申し訳ございません」
省吾が、悠、粕谷の順に視線を移し、そしてルルへと戻す。
「……ティオのことか?」
「さて……どうでしょうか」
ルルは言葉を濁しながら膝を付き、倒れる悠の頬に優しく触れた。
その顔が、辛そうに歪んでいる。
「……ユウ様、お助けするのが遅れ、申し訳ありません」
「いや、ありがとう、ルルさん……」
悠は苦笑を浮かべながら応える。
廊下から、足音と声が聞こえてくる。
それは大股で走る足音であり、大人の男性の声だった。
「駐在の兵士が来られたようです。喧嘩をしたということも把握済みのようですね」
ルルが、耳をピンと突き立てて言う。
第一宿舎には、見張りと異界兵同士のトラブルに対処するために帝国兵が幾人か駐在している。
彼らが騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。
「神護、てめぇが先に仕掛けてきたんだからな……!」
粕谷が憤懣やるせないといった表情で悠を見下ろしている。
二度も思い切り殴ったのに、鼻血すら出ていない。自分の腕力の無さが情けなかった。
一方の悠は、幾分かの冷静さを取り戻し、しかし何か答える気力も体力も無く仰向けに寝転がった。
恐らくこの後、兵士からの取り調べを受けることになるだろう。
長い夜になりそうだ。
ルルが顔を近付け、何やら呟いてくる。
「……以前、ユウ様は怒ったり憎んだりといったことが出来ないと仰ってましたが」
確かにそんなことを言った気がする。確かベッドの上だったろうか、気が緩んで自分のコンプレックスを語ってしまった記憶があった。
ルルは、優しげな笑みを浮かべ、悠の頭を撫でた。
「できるじゃありませんか……人のために、怒ることが」
「あ……」
悠は、ようやく理解した。
これが、怒りの感情であり、あれは怒った顔だったのだと。
……そういえば、あの森での魔竜での戦いでも似た感情を抱かなかっただろうか。
悠の中の“怒り”の感情は、死んでなどいなかった。
それは上手く機能しない。不完全な欠陥品かもしれないが、確かにあるのだ。
悠は、自分が少しだけまともな人間に近付けた気がした。
「そっか……」
少なくとも、自分は他人のためなら怒ることが出来るのだ。
それが、嬉しかった。
「……うん、そうだね」
悠は微笑みながら、一筋の涙を零した。




