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第14話 -友情-

「あっ……」


 ティオは、自分の身体が中に浮いていることに気付く。

 地面は遥か遠く、落下すれば転落死は免れない高さにティオの身体はあった。


 悲痛な叫びと共にこちらに手を伸ばす朱音の姿が見えるが、既に落下を始めたティオには、到底届かない。


 別に飛び降りるつもりなど無かった。

 ただ、当て所ももなく走っている最中に、楽しい思い出のあった場所が見えて、何となく上っていただけなのだ。

 危ない場所に立っていたことについて、自棄に近い感情が無かった訳ではないが、別に死のうと思っていた訳ではない。

 

 しかし朱音が現れたことに驚いて、思わず後ずさり――気付けば足を踏み外していた。


「ティオぉぉぉぉぉぉ!」


 朱音の絶望的な叫びが聞こえる。


(……ごめんね、アカネ)


 でも、これでいいのかもしれない。

 自分がいなくなれば、あの優しい二人が無茶をすることも無いのではないだろうか。

 もう誰にも迷惑をかけずに済む。


(ユウ様も、ごめんなさい。

 お母さん……わたし、ダメだったよ)


 ティオは心の中でそう呟きながら、目を閉じ――


「……えっ?」


 ――誰かに、抱き締められた。

 白い髪が、視界に入る。





(あ、あれ……?)


 悠は、期待と違う結果に心の中で呻きを漏らす。

 自分はいま、ティオの身体を抱き締めながら、彼女と一緒に落下していた。

 

 本来は、窓から身を乗り出してティオの身体を抱き留め、颯爽と塔の中に引きずり込む算段だったのだ。

 だが、悠には落下する少女の身体を支える体力も、体重も、膂力も無かった。

 無様にもそのまま窓からずり落ち、悠はティオと一緒に地面に吸い寄せられている。


 僅かでも落下速度は軽減できただろうが、悠が落下した高さは依然として致命的な位置である。

 このまま落ちれば、深刻な人体の破壊は免れないだろう。


 墜落という事象に対する本能的な恐怖が、悠の身体を強張らせた。


 腕の中のティオは、呆然と悠の顔を見ていた。

 悠は、彼女に無理矢理に作った笑顔を見せ、自分の身体を下にして――


 衝撃。


 ――自身の頭蓋が砕ける、硬く濡れた音と共に意識を失った。






「悠っ! ティオっ! しっかりしてよ……!」


 朱音の声が聞こえる。それはとても痛々しい涙声だ。

 それは何かのフィルター越しに聞いているような、遠い声である。


「……いっつ……!」


 悠は、再生の激痛と共に意識を取り戻した。

 頭の中で何かが蠢いているような感覚があり、凄まじい不快感に嘔吐しそうになるのを何とか我慢した。


 目を開けているはずだが、まだ脳機能に障害が残っているのか目が見えない。

 身体の感覚も殆どなく、腕が辛うじて動かせる程度だ。

 超再生は脳すらもその対象とするが、やはり他の臓器に比べると損傷時の再生は遅く、そして影響も大きい器官である。


 研究所時代、脳の約3割を頭蓋骨ごと破壊された時には、その後深刻な記憶障害を起こしたことがある。

 恐らく脳の損傷如何では超再生を以てしても悠は死ぬだろうというのが、有力な説であった。


 ともあれ、今回は無事だったようだ。

 落下の瞬間の衝撃は、思い出すだけでも身の毛のよだつような感覚であったが、こうして無事だったのだから結果オーライというやつだろう。

 それに、


「ん……」


 腕の中のティオも、吐息を漏らして身じろぎしている。

 その様子に、特に深刻な怪我は見受けられない。

 早めに検査はするべきなのかもしれないが、この場で転落死するような事態は免れたことに、悠は心底からの安堵を得ていた。


「……朱音」


「悠……頭から血……大丈夫……なの?」


 ようやく回復しはじめた視界の中の朱音は、まるで幼子にように顔を歪めている。

 それは、あの魔界の森で、悠が刺し貫かれた時に見せた、あの表情だ。

 今にも泣き出しそうな朱音に、悠はまだ痛みで引きつった笑みを見せる。


「大丈夫……だよ、僕の能力、知ってるでしょ……?」


 悠の魔道の能力として偽った、超再生能力。

 朱音は、理解と安堵に表情を緩ませて、その場にへたり込んだ。




 ……ふと、妙な胸騒ぎを感じた。

 何かをしくじった。そんな予感がある。

 だが、未だに激痛に苛まれる悠の頭は、それ以上の思考を重ねることが出来なかった。




 それに、今はもっと重要なことがある。


「アカネ……ユウ様……どうしテ……」


 目を覚ましていたティオが、呆然とした表情で二人を見る。


 どうして。

 そこから続くティオの言葉は無い。

 だが、彼女が何を問いたいにしても、恐らくはこの言葉で足りるだろう。


 悠は、胸元にある彼女の頭に手を乗せ、


「だって、友達だもん。当然でしょ?」


 その金髪を撫でながら笑って見せた。

 朱音も、目元を赤く腫らしながらもティオに微笑みかける。


「……ふぃ」


 ティオの表情が、くしゃっと歪んだ。

 その大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れはじめる。

 その口が、大きく大きく開かれた。


「――――――!」

 

 ティオは、泣いた。

 その泣き声は、もはや声と呼べるものではない。

 彼女の瞳と喉から、ただ有りのままの生の感情が、洪水のように溢れ出ていた。


 悠の胸元に顔を埋め、ティオはあらん限りの感情を振り絞って声を上げている。


 悠と朱音は、ティオが泣き止むまでその場でじっと待っていた。





 幸いにして、ティオが落下した瞬間は誰にも見られていないようだった。

 ティオの泣き声を聞いて何事かと近づいてくる人はいたが、騒ぎになるようなことはなかった。


 現在、悠達は塔の下の広場のベンチに並んで腰掛けている。

 ティオは、悠と朱音に挟まれて、赤く腫らした目元のまま、憔悴した顔を見せていた。


「ユウ様、アカネ……ご心配をおかしましタ」


 別に自殺をするつもりでは無かったとティオは言っていた。

 だが、それでもティオの心が相当に追い詰められているのは容易に察しが付く。

 このままでは、本当にそうなってしまうのではないかという不安が悠の胸に満ちていた。


「本当よっ……馬鹿っ!

 そんなに辛いなら、何で相談してくれないのよ……!」


 朱音は、目に涙を溜めながら怒っていた。

 悲しみと怒りが混ざり合ったその感情は、ティオへの篤い友情故に生じているものだろう。

 悠もまた、似たような心境であった。


「本当に、ごめんなさイ……」


 ティオは消沈しきった様子で肩を落としていた。

 が、しばしの沈黙の後、何かを決意したように、悠と朱音の顔を交互に見つめる。


「……お二人に、お願いがありまス」


 その表情は、悲壮な覚悟に彩られているようだった。

 ティオは、とても悲しげで、苦しげな顔をしている。


「もう私には、関わらないでくだサイ。

 ……友達を、辞めてくださイ……!」


 絞り出すような声で、そんなことを言い出した。

 悠と朱音は、同時に驚愕の声を上げる。


「なっ……!」

「どうしてよっ!?」


 朱音が立ち上がり、ティオの肩を掴んだ。

 ティオの言葉がショックだったのは悠も同様だが、朱音は悠以上の衝撃を受けているようだ。

 その表情は、まるで捨てられた子犬のように痛々しい。


 朱音の唇から漏れる声は、驚くほど弱々しかった。

 その声は、涙に濡れている。


「私達、ティオの迷惑……?

 私のこと、嫌いになった……?」


 そんな朱音の切なげな声に、今度はティオが目を見開く。

 頭を思い切り振り、必死で否定の意を示している。


「そんなことはありまセン! お二人のこと大好きでス!

 でも――っ!」


 ティオの言葉は、最後まで言うことは出来なかった。

 朱音が取った行動に驚き、ティオの言葉は途中で止まる。


 朱音が、ティオの身体を抱き締めている。

 それは全身で彼女の身体を包み込むような、まさしく抱擁と言うべきものだ。

 絶対に離したくない、離れたくない。そんな朱音の切なる想いが、見るだけで伝わってくるようだった。


「……私の話、聞いてくれる?」


「アカネ……?」


 戸惑うティオを抱き締めながら、朱音は言葉を続ける。


「私さ……小さい頃に馬鹿やってて、それで皆に怖がられて、ずっと友達いなかったの。

 物心付いてから15歳になるまで、一人もいなかったのよ?

 信じられないでしょ」


 朱音が有名人であったことは、悠も聞き及んでいる。

 狂犬、一匹狼、孤高――概ね、そのような感じの評価だ。

 美人だが、関わり合いにならない方がいい――それが、かつての朱音に対する周囲の認識のようだった。


 父である正人は頭を悩ませていたようだが、あまりに多忙を極める仕事のせいであまり娘を見てやることが出来なかったようだ。

 たぶんその仕事は、悠にとっても関係のある話だったのだろう。正人は、かなり長い間を有志と共にあの“機関”に対して費やしていたようだ。

 大層気に病んでいたことを、悠に零していたことがある。

 ……そして、ようやく朱音と向き合う時間を増やせそうだと、彼は笑っていたのだ。


 今頃、正人はどうしているだろうか。

 彼は妻と長女を亡くし、今や次女の朱音がたった一人の家族だ。

 彼の心情を察すると、非常に落ち着かない気分になる。


 だが、正人の件で朱音が胸中に秘める感情は悠の比ではないはずだ。

 本当に気丈な少女だと、悠は心から敬意を抱いていた。


 朱音の告白は、続く。


「別に、好きでそうなった訳じゃないのよ?

 友達がいないの、ずっと寂しかった。友達と話したり遊んでる皆が、すごく羨ましかった。

 たまにチャンスが来たと思ったら、失敗して余計に避けられて……」


 朱音の口元から、苦笑が漏れる気配があった。


「それでも流行とか追っかけて、お洒落の勉強もして、結局役に立つ機会なんて無くて……。

 友達と遊ぶことなんて無かったから、子供の頃から稽古稽古で、随分強くなったけどね。

 ……ああ、でもそれもいけなかったのかな」


「アカネ……」


 ティオは、意外そうな表情で朱音の顔を見上げていた。


「それに、悠のこと女の子と勘違いして、友達になろうと張り切ってたら大失敗しちゃってさ」


「う……」


 朱音の自嘲めいた呟きに、悠は呻きと共に視線を逸らした。


 あれは、悠の無知に大きな原因があった訳で、朱音の失敗というのは少し違う気がするのだけど。

 思い起こせば、あの時の朱音はどこか必死な様子にも感じられた。

 悠は、そんな彼女の真剣な想いを、舞い上がって台無しにしてしまったということか。


「ごめんなさい……」


 悠は、額に脂汗を浮かべながら謝った。

 朱音は、そんな悠に苦笑めいた声を漏らす。


「いいわよ、今更」


 続く朱音の声は、とても優しげだった。


「悠とも友達だけどさ、ティオが、あたしの初めての女の子の友達なの。

 ……それに、あたしがクラスの皆とちょっとずつ打ち解けられるようになって来たの、ティオのおかげなのよ?」


 そういえば、朱音がクラスの皆に対しても柔らかい表情を見せるようになったのは、六日前からだったろうか。

 風呂上りに何故か朱音に、悠なんて好みじゃないと怒鳴られたことは未だに記憶に新しい。

 その時から、朱音はクラスの皆と名前で呼び合うようになってた気がする。

 あの風呂の中で、何かがあったのだろう。


 朱音は、ティオを抱き締める力を一層強めた。


「あたし、ティオにすごく感謝してるし、ティオのこと大好きよ。

 ……だから、一緒にいてよ。友達辞めるなんて言わないでよ……!」


 お願い、捨てないで――朱音の声からは、そんな切なる響きが込められているようだった。


「…………」


 ティオは、無言だった。

 潤んだ瞳が、朱音の幼子のように心細そうな顔を見上げている。


 ティオの手が、おずおず朱音の背に回される。

 その背中を、ぎゅっと抱き締めた。

 強く、強く――離れたくないと無言の叫びを上げるように。


 夜の明かりの下、二人の少女が抱き合っている。

 友情で結ばれたその姿は、とても美しいと悠は思う。

 絶対に、守らなければならないものだと。


 朱音の胸に顔を埋めたまま、ティオはぽつりと言葉を零す。


「アカネ……ユウ様も、私の話も聞いていただけますカ?」


「……ん」


 朱音が声を漏らし、悠は頷いた。


 ティオは、ぽつぽつと自分の過去を語っていく。


 汚染者になった母。

 顔も名もわからない父。

 母との貧しく飢えながらも幸せがあった10年間。

 自分の義父となった貴族。

 そこで味わった、地獄のような2年間。

 助けてくれた母との逃避行。

 そして、母の処刑。奴隷としての未来。


 それは、悠の想像を絶するものだった。

 朱音もまた、血の気を引かせながらティオの話を聞いている。


 ティオの話は、悠達の知る現在へと移っていく。


「……帝都行きの奴隷に選ばれたって聞いた時、びっくりしたけど少し舞い上がってましタ。またユウ様とアカネに会えるって。主になる御方も、ユウ様のお知り合いなら優しい人かもしれないっテ。馬鹿ですよネ、夢見過ぎでス」


 例えば、省吾の奴隷として宛がわれた奴隷の女性は、邪険に扱われ、それを嘆いてはいるが決して理不尽な仕打ちは受けていないらしい。

 ティオも、せめてそんな主であればと淡い期待を抱いていたようだ。

 だが、現実は――


 粕谷の奴隷とされてからは、心休まる時など一時も無かったそうだ。

 そして、悠と別れた後、ティオは粕谷にあの店へと連れられて――


「あの野郎……!」


 朱音が、嚇怒の唸りを漏らす。

 その表情は、今まで見たこともないほどに剣呑だ。

 目の前に粕谷がいれば、彼女は躊躇いなく彼を殺そうとするかもしれない、そんな予感すら抱かせる鬼気迫る形相だった。


 一方、悠は自分の中の感情を持て余していた。

 自分の中に、良く分からないものが渦巻いている。

 この感情をどう表現すればいいのか、悠には分からなかった。


「……ティオ、私達に任せてよ。絶対に何とかしてあげるから。

 あいつ、絶対に許さないわ……!」


 朱音が、語気も荒くまくし立てる。

 だが、ティオは諦観の表情を浮かべながら、首を横に振った。


「この上、二人に迷惑なんてかけられまセン」


「迷惑だなんて――」


「駄目なんデス!」


 ティオが叫んだ。


 悠も、そして朱音もびくりと肩を震わせた。

 その声には、未だかつてない拒絶の響きがある。

 それだけは絶対に譲らないという明確な意思に、悠も朱音も言葉を失っていた。


「キョウスケ様の私の扱いは、奴隷法上は合法デス。

 それを何とかするということは、帝国の法を侵すことになりかねませン……!

 下手をすれば、お二人は犯罪者になりマス!」


 その時の状況を想像しているのだろうか、ティオの顔色は蒼白で、絶望の色をその顔に浮かべていた。

 悠と朱音は、絶句しながらティオの語気に圧倒されている。


「お母さんは私のために死んだんデス!

 これ以上、大切な人を犠牲にして生きるなんて、絶対にできまセン!

 ……そんなの……絶対に……駄目デス……!」


 そうしてティオは、精も根も尽き果てたように、ぐったりと朱音に身体を預けた。

 その喉から、弱々しい嗚咽が漏れている。

 

「もうやだァ……誰にも、迷惑かけたくない……お母さんを死なせて生き延びて、その先でも迷惑かけて……お母さんに笑顔を忘れないでって言われて、頑張ったきたけど……もう、苦しいよぅ」


 そして、次に呟いたティオの言葉は、遥か昔に聞いたことがある言葉だった。




「わたし、何のために生まれてきたノ……」




 悠が虚ろな覚悟で自己犠牲の英雄ヒーローを目指した原点。

 あの研究所で、非業の死を遂げた少女の最期の言葉。

 その背景となった事情も心情もあの時とは異なるが、ティオは確かにあの少女と同じ言葉を口にしていた。


 ティオの言葉は、悠の心に、未知の――あるいは忘れ去った何かを呼び起こしていた。


 友達に、そんな言葉を吐かせた者がいる。その認識に伴う感情が、悠の理性の檻をがりがりと内側から掻き毟っていた。

 悠は、ゆらりと立ち上がる。


「……悠?

 どうし――っ!?」


 朱音がこちらの顔を見上げ、絶句していた。

 

 信じられないものを見た――そんな表情だ。

 どこか、朱音は怯えているようにも見えた。


 一体、どうしたのだろうか。


「朱音……ティオを、お願い」


 悠はそのまま歩き出す。


「あ――……」


 朱音が止めようとする気配があったが、しかし悠に届くことは無かった。


 悠は、歩く。

 まずは帝城に戻らなければならない。

 自分でも驚くほど冷えた思考で、悠は最短で目的地に辿り着くまでのルートと手続きを計算していた。


 目指すは、第一宿舎。

 粕谷京介の自室である。

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