第1話 -目覚め-
「――ちょっと悠、起きなさいよ!」
耳を突く鋭い声と、身体を揺すられる感触。。
微妙に焦点の合わない視界の中に、一人の少女の顏がある。
良く見知った顔である故に、その視界の中でも彼女の顏はしっかりと判別できた。
いかにも勝気そうな、溌剌とした容貌の少女だ。
彼女は綺麗に整った目と眉を吊り上げ、口をへの字にして悠を見下ろしていた。
高校生離れした豊かなプロポーションが、制服の上からでも良く分かる。
悠の通う学校の制服を着たその姿は、毎日のように見ている姿であった。
「……朱音さん?」
背に地面の感触があり、悠は彼女を見上げている。
どうやら悠は地面に倒れており、彼女はしゃがみ込んで悠の身体を揺すっていたようだった。
朱音は、「ふんっ」と不機嫌そうに鼻を鳴らすと立ち上がり、腰に手を当てながら悠を見下ろす。
「呑気に寝てる場合じゃないわよ」
朱音はいつも刺々しいまでに強気な少女だが、今は珍しいことに、その声に怯えや困惑の色が浮かんでいる。
「あれ……?」
ふと悠は、自分の手が触れているであろう地面の感触に違和感を覚えた。
何も感じられない。
温度も、硬さも、質感も、本来物質に触れれば得られるであろう感覚が何も無いのだ。
しかし確かに触れているという感触は確かにあり、非常に不気味な違和感を覚える。
回復してきた視界が、その正体を映し出した。
「えっ……!?」
異界。
そうとしか思えない空間が広がっていた。
驚きに、意識が一気に覚醒する。
黒い光、と表現すればいいのだろうか。
周囲には完全なる漆黒が満ちており、前後左右上下を見渡しても明かり一つ見当たらない。それなのに、悠の視界にはその空間の中に在るものがはっきりと視認できた。
まるで星一つ無い宇宙空間にいるようで、呼吸は出来ているのに息苦しさを感じるようだ。
その場に在るのは、悠と朱音だけでは無かった。
「くそっ……どこだよここ……ふざけんなよ……!」
「何で、どうしてよぉ……」
「みっちゃん、起きて、起きてよ」
漆黒の中には、見知った顔が幾つもある――と言うよりは、見知った顔しか無い。
それは、悠のクラスメートである少年少女達であった。見渡してみれば、クラスメートの全員がそこにいるようだ。
皆が学校の制服を着ており、困惑や恐怖の表情を浮かべ、あるいは悠と同じように地面に倒れて級友に起こされている。
「えっ、あっ……ど、どうして!?」
「あたしが聞きたいわよ」
悠の困惑の声に、朱音のぶっきらぼうな声が応えた。
朱音は腕組みをしながら、苛立たしげに二の腕を指で叩いている。
「あたし達は、朝のホームルームを受けていたはずよ。あんたはどうなのよ、悠?」
朱音の言葉に、悠は記憶を手繰り寄せる。
今日はいつも通りに起き、家主である藤堂正人、その娘である朱音と共に朝食を食べ、登校して、朝のホームルームを受け――そこで、記憶は途切れていた。
「……うん、確かにそうだよ。僕達はホームルームに出てたよね」
これは一体全体、どうなっているのだろうか。
ホームルームを受けていた生徒達が、気付くと見知らぬ不気味な空間の中に転移していた。まるで漫画や小説の中の出来事のようだ。
まあ、悠のこれまでの15年も大概ではあるのだが。
とにかくここが何処かを知る必要がある。
ポケットからスマートフォンを取り出すと、場所は圏外。
GPSも機能せず、ここが何処なのか皆目見当も付かない。
「ああもう、訳分かんない……何だっていうのよ、もうっ!」
朱音が毒づきながらうろうろ歩き回っている。
悠はそんな彼女にかける言葉が見つからず、とりあえずは無言で立ち上がり、改めて周囲を見渡した。
他の意識を失っていたクラスメートも起きつつあるようで、とりあえずは皆が無事なことに悠は安堵を得る。
その時、一際目立つ喧噪が皆の注目を引いた。
「畜生っ! どうなってんだよっ!? おい、和樹! お前、ちょっと走って様子見てこい!」
大きく粗野な声が漆黒の空間に響く。
目を向けると、周囲のクラスメートの集団の中でも特に大きい塊の中心いた男子生徒が、怒気も露わに叫んでいる。
クラスの殆どのメンバーは、怯えの混じった視線を向けていた。
一方の朱音は、呆れの混じった冷めた眼差しでその喧噪を見ている。
「な、何で俺が……」
「あん? お前、俺に逆らうのかよ!?」
粕谷京介。
彼は、このクラスの実質的なリーダーのような存在だった。実家が政財界に影響力を持つ非常に大きな名家とかで、家の威光を振りかざしていつも王様のように振る舞っている少年だ。
明らかな校則違反の金髪にピアスといった風貌をしているが、実家の力を恐れてか教師すらまともに注意ができないでいる。
粕谷は、いつもの教室と同じように、ここでもその強権を振りかざそうとしているようだ。
いつも粕谷と一緒にいる斉藤和樹が、怯え切った顏で粕谷に胸倉を掴まれていた。
「だってよぉ……」
悠達の立っている空間は、周囲を見渡しても果ては見えず、行こうと思えばどこまでも行けそうな気がする。
しかし、何も見えない一方で、その漆黒の中から何が現れてもおかしくないと思える不気味な危うさがあった。
斉藤も粕谷のように軽薄そうに見える恰好をしているが、彼はその実、非常に臆病な性格をしていることを悠は知っている。こんな訳も分からない状況で行動させるのは酷な話だろう。
だから、
「あの……粕谷君、いいかな」
悠は、おずおずと手を挙げて彼の名を呼んでいた。
皆の注目が、悠に集まる。
傍に立つ朱音は悠を見遣り、あからさまに眉を顰めていた。
粕谷は悠に顏を向けると、その表情を嗜虐的に歪める。
それは笑いのようであり、怒りのようでもあった。
粕谷の浮かべた表情は多分に険呑な気配を含むものであったが、悠は愛想笑いを浮かべつつ、粕谷に歩み寄っていく。
「何だよ、神護。起きてやがったのか」
粕谷も、明らかな侮蔑の色を混ぜた言葉を投げかけながら、悠の方へと歩いてくる。
悠は曖昧に笑いながら、粕谷の前に立ち、
「ああ、うん。つきさっき――あぐっ!?」
悠の腹に、粕谷の蹴りが入っていた。
特段、粕谷の力が強い訳ではないが、女子と大差無いほどに華奢で軽い悠の身体は、簡単に吹っ飛ばされる。
女子の誰かが、小さな悲鳴を上げていた。
地面に転がる悠を見ながら、粕谷は酷薄な笑い声を上げる。
「汚ねぇんだよ、病気が染るだろうが! モヤシ野郎が!」
「悠っ!」
倒れて咳き込む悠に、朱音が駆け寄る。
悠を庇うその様子に、粕谷はあからさまな不愉快の表情を浮かべ、舌打ちする。
朱音は粕谷の方へと振り向き、明らかな軽蔑の視線を彼へと突き刺した。
「……ちょっと、粕谷! あんた、こんな時までいい加減にしなさいよ!」
朱音の激怒の声に、粕谷の顏がみるみるうちに歪んでいく。
明らかな憤怒の表情であり、彼はその表情のままの怒声を吐き出した。
「うるせぇ藤堂! こんなモヤシに惚れてるのかよこのビッチが!」
「なっ――そんな訳ないでしょ! あんたいつも以上に頭おかしいわね!」
朱音が一瞬鼻白み、そして明らかに頬を紅潮させて怒鳴り返す。
朱音もまた、粕谷とは違った意味で皆から恐れられている少女だ。
実家である藤堂家に戦国時代から伝わる“藤堂流礼法”に連なる古流武術を幼い頃から叩き込まれており、その武力は下手をすれば鍛えた大の男でも敵わないレベルである。
数十人の不良生徒を一人で叩きのめしたという噂が実しやかに囁かれており、それが冗談と笑い飛ばせない程の光景を悠は見たことがあった。
平素のぶっきらぼうな言葉や立ち振る舞いもあり、皆からは畏怖され避けられているのが現状だ。
粕谷が暴君なら、朱音はそれを冷笑する一匹狼といったところだろうか、二人の仲は極めて険悪であった。
両者とも、未だかつてない程の険呑な表情を浮かべて睨み合っている。
一触即発。
今までは避けられていた武力衝突が、この異常な状況における苛立ちや鬱憤によって、ついに起ころうとしていた。
クラスの皆が、恐れと共にその光景を見守っている。
「ちょ、ちょっと待ってよ……! こんな時に喧嘩は止めようよ!」
悠は、何とか二人を止めようと立ち上がり、その間に割って入った。
眉を顰める朱音と、表情を歪める粕谷を交互に見ながら、
「斉藤君の代わりに、僕が様子を見に行くからさ……それで、いいでしょ?」
元々、自分が行こうと提案するつもりだったのだ。
粕谷の眼差しに喜悦の色が混じった。その唇が、歪んだ笑みを浮かべる。
「……へえ? まあ、本人が行きたいって言うなら仕方ねえよな。何が起こっても自己責任ってやつだ。なあ、和樹?」
「あ、ああ……そう、だな」
周囲からも、ざわめきが聞こえてきた。戸惑う声も多いが、本人がいいなら行かせていいじゃないか、という主旨の内容も耳に届く。
一方、朱音は狼狽した様子で口を開いた。
「ふざけないでよ、何言って――」
『――さて諸君、目覚めたかね?』
突如として響いた声に、朱音の言葉は止められた。
「……は?」
「えっ、あ……なっ、誰!?」
「お、おい……何時から……!?」
いつの間にか、一人の男が立っていた。
古めかしい黒を基調とした軍服のような服装の、金髪をオールバックに撫で付けた男だ。
年齢は少なくとも悠達よりは年上に見える。20代から30代ぐらいだろうか。
その顏には笑みが貼り付いているが、まるで能面のような温度を感じさせないうすら寒い表情である。
まるで歴史の教科書にでも出てきそうな、悠達とは隔絶した風体の男であった。
「だ、誰だよこいつ……」
誰も彼もが、突然現れた奇妙な男を呆然として見ていた。
男は、そんな皆を見渡すと笑みを深め、芝居がかった大仰な動作で一礼し、
『異世界の諸君、お初にお目にかかる。
私はフォーゼルハウト帝国、魔道省所属、ラウロ・レッジオだ。
……末永い付き合いになることを祈っているよ?』




