第3話 ―学校―
春と夏が溶け合う、初夏の蒼穹。
陽は天高く校舎を照らし、そこかしこから部活に励む活声が聞こえてくる。グラウンドには、元気良く動き回る少年少女の姿があった。
教室の窓から広がるのは、そんな爽やかな青春の情景だ。
その快なる陽気に似合わぬ罵声が、放課後の教室に響く。
「おらっ!」
悠の腹に、粗暴な蹴りが入れられた。
小柄で華奢な身体は容易く吹き飛ばされ、けたたましい音を立てて机と椅子を巻き込みながら床に倒れる。
衝撃と痛みに、悠の息が軽く詰まった。
「いっつ……」
悠は、軽く呻きながらもふらふらと立ち上がった。
そんな彼の小柄な姿を見下ろす、一人の少年がいる。
逆立てた金髪にピアスを付けた、明らかに校則違反の風貌の少年だ。しかし、それを注意する者はこの学校に誰もいない。
粕谷京介。
彼は、悠のクラスメートの少年である。
その三白眼が、こちらを見ていた周囲のクラスメートをぎょろりと睨みつけた。
「何だよ壬生、世良ぁ……俺に文句でもあるかよ、あぁ?」
「い、いや……何でも」
制服姿の少年と少女が目を逸らす。
今、この教室には粕谷達の他にも10人ばかりの生徒が残っていた。
その誰もが、粕谷の暴虐を見て見ぬ振りをしていた。ある者は気まずげに目を逸らし、ある者は初めから無視している。我関せずとそそくさ教室を出ていく者もいた。
通りがかった教師が何事かと教室を覗いたが、粕谷の姿を認めると何も見なかったと言わんばかりに去っていく。粕谷の機嫌を損ねないように、会釈すらしていく始末だ。
教師が一人の生徒の顔色を窺う。一人の生徒の暴虐を知りながら見過ごす。
それが、この学校の日常である。
粕谷はこの学校の出資者であり、政財界にも強い影響力を持つ一族の血筋である。実家の後ろ盾を持つ彼には、生徒はおろか教師ですら口出しが出来ないでいた。
彼の暴虐を諌めたりネットに拡散しようとした教師や生徒が、家族ごと街から姿を消したなどという噂も立っており、粕谷恭介はまさしく暴君としてこの学校に君臨している。
そんな彼に、悠は目を付けられてしまっていた。
「おい神護、今なんて言った?」
粕谷は声に凄みを利かせて悠の胸倉を乱暴に掴み上げる。
悠の華奢な身体がガクガクと揺さぶられた。
「だから、無理だよ……」
悠の頬に平手が振るわれる。皮膚を打つ甲高い音が、教室に響いた。
「逆らえる身分だと思ってるのかよ、おい……!」
入学して間もない頃から、悠は苛められていた。主犯は目の前の粕谷京介、そして彼に従う取り巻き達だ。
事あるごとに理不尽な要求を受け、暴力を振るわれるなど日常茶飯事だ。
そして今もまた、彼は取り巻きである少年達を連れて、衆人環視も憚らず悠を囲んでいた。
「なあ、別に難しいことは言ってねぇだろ……? あの女とちょっと“遊ぶ”のに協力してくれればいいんだからよ。それだけでお前にはもう何もしないって言ってんだろうが、あぁん!?」
己の意に否を突き付けられたことが余程癇に障ったのか、粕谷は目を血走らせながら悠に凄んでいた。
“遊ぶ”。粕谷が彼女に何をするつもりなのか、容易に想像ができる。
それ故に、それは断じて是と言えることではない。
「僕のことは殴ったり蹴ったりしてもいいからさ。だから……朱音さんまで巻き込むのは止めてくれないかな、粕谷君……お願いだよ、ね?」
そう言いながら、悠はせめて粕谷の機嫌を良くしようと愛想笑いを浮かべる。
しかし、それは逆効果だったようだ。
粕谷の顏が、みるみる紅潮していく。
「白髪のモヤシ野郎が、調子こいてんじゃねぇぞぉ!」
怒声を上げながら、悠の身体を踏み付けようとして――
「何やってるのよ」
――少女の鋭い声に、止められた。
正確には、身が竦んで動けなかった。
その少女の声には、恐ろしいほどの険が込められていたからだ。粕谷達は皆、その声に突き刺され、縛りつけられている。
教室に残っていた生徒達も、びくりと肩を震わせていた。
皆の視線が、声のした方へと向けられる。
教室の出入り口に、一人の少女が立っていた。
如何にも気の強そうな目鼻立ちの、凛とした美貌の少女。
15歳という年齢から信じられないスタイルの良さが、制服の上からでも良く分かる。
堂々たる立ち姿で、柳眉を釣り上げながら教室の光景を睨んでいた。
悠が、彼女の名を呟く。
「朱音さん……」
藤堂朱音。
悠が世話になっている藤堂家の次女であり、悠の同居人であり、クラスメートである少女。
粕谷の言っていた“あの女”その人だ。
「悠、帰るわよ」
彼女は、ただそれだけを言うと大股で歩み寄る。粕谷達のかたわらを通り過ぎ、自分の机と悠の机から無造作に鞄を掴んだ。
粕谷達には一瞥すら無い。
彼らなど、眼中にも無いといった様子だ。
「……おい、藤堂てめぇ! 何無視してんだよ!」
朱音は無言。形の良い唇は、むっつりと引き結ばれている。
粕谷の額に青筋が立つ。歪んだ唇が、唸るような声を漏らしていた。
「邪魔してんじゃねぇよ、てめ――」
そして続く言葉は、風切る音と共に止められた。
粕谷の鼻先に、朱音の足。
一瞬で蹴り上げられ、粕谷の顔面で寸止めされた回し蹴りの足先。
顏を襲う風圧に、粕谷は息を飲んだ。
それは、周囲の取り巻きも同様である。
「無視してあげてるんだから、有り難く思いなさいよ、粕谷。行くわよ、悠」
冷淡に言い捨て、悠の手を取って教室を出ていくのだった。
「ごめんね、朱音さん」
藤堂家への帰り道、駅へと向かう途中の商店街。悠は、朱音に手を取られながら謝った。
朱音は悠の手を離すと、呆れたような視線を悠に向ける。
「あんたもあんたよ、悠。ヘラヘラして情けないったら……やられっぱなしで悔しくないの?」
その瞳には、粕谷たちへ向けた視線とは別種ではあったが、紛れも無く怒りの感情が宿っていた。
あの学校で粕谷に正面から逆らえるのは、悠の知る限り彼女ぐらいのものだろう。そんな彼女からすれば、悠の振る舞いは苛立たしいものなのかもしれない。
「……お父さんに頼りたければ、頼ればいいじゃない」
朱音は顔を俯かせながら、不機嫌に呟いた。
「正人さん、すごく忙しいじゃない。あんまり家にも帰れてないし……悪いよ」
悠は、罪悪感の滲んだ声で応える。
藤堂正人は、最愛の娘の通う高校の現状を把握できないほどに多忙であり、その原因の大半は悠に係わるあの事件にあるのだ。朱音はそこまでの事情を知らない。
「でも、あんたのこと可愛がってるし、言えば何とかしてくれるわよ。ああ見えて凄いエリートで、顔広いんだから」
「それは、そうだけどさ……」
しかし、朱音はそれをよしとしていない。
彼女は、それでは家の力を後ろ盾としている粕谷と同類になると思っている。また、尊敬する父の負担をこれ以上増やしたくないとも思っているはずだ。
そんな朱音の気高さと優しさを、悠はとても尊敬していた。だから、彼女のその意思を尊重したいと思っている。悠は、苦笑を浮かべながら頭を振る。
「……しないよ。大丈夫だよ、朱音さん。心配しないで」
「別に心配してないわよ!」
朱音は、ついと顔を背け、足早に歩き出す。
悠は頼りない足取りで、親鳥を追う雛のようにそれを追いかけた。
道中、朱音がぽつりと問う。
「ねえ……あんな状態で学校通って楽しいの?」
「……楽しいよ。学校に通ったりする普通の生活なんて、したこと無かったし」
外に世界に出られたら、学校に通う――それが、悠のずっと抱いていた夢である。
少し前の悠にとって、それは遥か遠い別世界の出来事だった。空の青さすら、悠は知らなかったのだ。
「……そう」
朱音は素っ気なく呟き、あとは無言で歩き出す。
その背は、どこか不満げな気配を漂わせていた。
無理をしている、と思われたのかもしれない。
……正直なところ、学校生活に満足している訳では無かった。
学校に通う本当の目的が――夢が、まだ叶っていなかったから。
だが果たして、自分にはその夢を得る資格があるのだろうか。自分は幸せになってもいいのだろうか、と――
「……遅い!」
朱音の声に、現実へと引き戻された。
遠目に見える朱音が、腕を組んで立ち止まっている。
考え事をしている間に、彼女の健脚にずいぶんと離されてしまったようだ。
「ご、ごめん、いま行く!」
むっつりへの字口で、朱音は悠を待っている。
容姿端麗、運動神経抜群、頭脳は明晰とまではいなくとも、学年上位の成績を誇る朱音。
彼女は、父が突然連れてきたこの居候の少年に、随分と世話を焼いてくれている。粕谷たちとの関係などは、その最たるものだ。出会った日から、悠は朱音に世話をかけ通しであった。
改めて申し訳なくなり、悠はおずおずと感謝の意を述べる。
「本当にありがとうね、朱音さん……色々と迷惑かけちゃって」
「……別に、お父さんにあんたのこと頼まれてるんだから、仕方ないじゃない」
それは彼女のいつもの口癖である。
だが、彼女にとっては父との義理のためであっても、悠にとっては感謝してもしきれないのだ。
いつか、朱音があっと驚くぐらいの恩返しがしたい。悠の目標の一つである。
「帰りに夕飯の材料買ってくけど……あんたはどっか寄る予定あるの?」
「ん、ないよ。そろそろレンタルしてたDVDを見ないと。朱音さんも一緒に見る?」
「また、アニメとかヒーローものでしょ? アクションものは嫌いじゃないけど、どうしていちいち技名叫んだり、技の前に長々と恥ずかしいポエムみたいなの詠むのかしら」
「あれがカッコいいのにぃ……見ないの?」
「……どうせ暇だし、見るわよ。ただし、きちんと今日の分の家事を――」
そんな取りとめのない会話を交わしながら、二人は帰路につく。その時間も、悠にとってはかけがえのないひと時である。
明日は何があるだろうかと、悠は口元を綻ばせた。
そして翌日。それは、二人にとっての運命の日――
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