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第1話 ―朱音の追憶、そして―

 時刻は早朝。

 そこは第一宿舎、第三位階の異界兵に与えられた一室。

 粕谷京介に与えられた部屋の、浴室であった。

 やや広めにスペースが取られ、水道を引き込んだ蛇口から温水を出すことも可能と、この世界の浴室としてはかなり設備が充実している。

 

 そこに、一人の少女の姿があった。

 ごしごしと、泡を擦り付けるように自らの裸身を清めている。


「…………」


 金髪碧眼の、あどけない顔立ちの娘だ。

 ぴん、と突き出た尖った耳は、森人エルフという亜人あじんの特徴である。

 粕谷京介の奴隷となった、ティオであった。

 その愛らしい容貌は、擦り切れたような暗い表情を浮かべている。


「…………っ」


 ごしごしごしと、ティオは執念すら感じさせる執拗しつようさで身体を洗っていた。

 その未成熟な肢体には、いくつかの痛々しい痣ができていた。

 きめ細かな白い肌にまだ汚れが残っていると言わんばかりに一生懸命に身体をこするその姿は、悲壮感すら漂っている。


(早く身体を綺麗にして、掃除しないと……綺麗に、綺麗に、きれい、に……)


 主である粕谷京介は、いまだにベッドの上で寝息を立てている。

 彼が起きる前に、仕事を始めなければいけない。


「ぅ……」


 彼のことを思い出し、

 昨夜のことを思い出し、

 まだ痛みの残る身体を抱き締めて、 


「ひ……ぁ」


 濡れそぼった顔、そのくりっとした大きな瞳が、じわりと滲んだ。

 しかし浮かぶ大粒の涙を、ティオは泡が染みることもいとわずに拭う。


 駄目だ、泣いてはいけない。

 ティオは笑顔が素敵だと、死んだ母は言ってくれた。

 ティオにはいつも笑っていて欲しいと。


 強く生きなさい。

 それが、母の最期の言葉だった。


(ダメ……これぐらい、耐えなきゃダメ……!)


 だから、泣いてはいけない。

 こんなことでへこたれてはいけないのだ。


 これぐらい、覚悟していたことではないか。

 母は、自分なんかよりずっと辛い目に遭いながら自分を産んで、育ててくれたのだから。

 自分のために罪人となり、命を落としたのだから。

  

「う……ぁ……くっ、ぁぁぁ……」


 それでも、漏れる吐息の震えは止められなかった。

 湯の流れる水音に、少女の嗚咽おえつが溶けていく――






 藤堂朱音は、クラスで浮いた存在である。

 嫌われている訳ではないが、避けられ、畏れられている。

 同性・同年代の友人と呼べる相手など学校にはいない。

 所謂“ぼっち”というやつだ。


 では、朱音は望んでそうなったのだろうか。


 否。

 断じて否だ。


 朱音は、友達が欲しい。

 同年代の少女と普通に挨拶をして、一緒に話して、一緒に遊んで、勉強して、将来の夢を語り合ったりするような、そんな友達と過ごす学生生活を切に願い、夢見ている。

 

 寂しいのだ。人恋しいのだ。

 しかし、彼女に近付こうとする同年代の少女は誰もいない。


 それは何故か。

 朱音には、悲しいほどに理解できていた。

 即ち、その多くが朱音の自業自得であり、自らが撒いた種であると。


 元々、朱音は周辺では有名人であり、やたらめったら腕っ節の強い女子として恐れられていた。

 幼少時は特に気が強く、突っかかってくる男子をよく泣かせていた記憶がある。

 父や姉によく叱られたが、朱音はそんな自分を誇っていた。

 男子からも女子からも怖がられている自分を何か特別な存在だと思い込んでいたものだ。

 ……父や姉が、自分以上の天才であったと無意識に自覚していた故の虚勢だったのかもしれないと、今は思っている。


『あたし、てんさいだからこどくでもいいんだもん!』


 朱音の黒歴史である。


 同じ道場に通っていた武田省吾は、年齢の近い相手では唯一、朱音よりも強い男子であり、朱音も一目置いて多少なりとも心を開いていたが、省吾もまた、あまり人付き合いをするタイプでは無かった。

 そして彼は、朱音が中学1年の頃に――姉の死の直後に、道場から姿を消した。




 しかし、朱音がようやく、そんな自分を恥じるようになった中学2年生の頃である。

 彼女は自省しながらも、1度被ってしまった無愛想の仮面を外せないでいた。

 今更、普通の少女っぽく明るく振る舞うには、朱音の立ち振る舞いは、他者の認識にも彼女自身の心と身体にも深く染み付いてしまっていた。


 朱音の容姿は当時から優れており、また身体の発育も中学生とは思えない程である。

 彼女の容姿に惹かれている者は多かったが、同時にかなりの愛想の悪さで知られており、小学校時代の素行の悪さから真っ当に彼女と付き合おうとする者は皆無であった。

 だが、そんな彼女を無理矢理にでも手籠めにしようとする者もいた。不良と呼ばれる類の人間である。


 藤堂流礼法を高いレベルで叩き込まれていた朱音は、既に大人顔負けの格闘能力を有していた。

 ある日、彼女は数名の不良に囲まれ――彼等を一人残らず叩きのめした。

 叩きのめされた不良は、あるグループに所属しており、恨みからそのリーダーに泣き付く。

 彼女の写真を見たリーダーは、彼女のクラスメートを人質として、朱音を人気の無い廃工場へと呼び出すのだった。


 そして彼女は、呼び出し通りに廃工場へと赴く。

 内心では、その娘を助ければそれを切っ掛けに友人を作れるのではないかと期待していたものだ。

 そこには、数十人のグループのメンバーと、クラスメートを人質に取った彼等のリーダーがいた。


 リーダーは、クラスメートを傷付けられたくなければ無抵抗で服を脱げと命令――しようとした。

 出来なかったのだ。

 何故なら、それ言葉にする前に、電光石火の如く駆け出した朱音の飛び膝蹴りを顔面にめり込ませ、意識を失ったから。


 鎧袖一触。

 朱音は呆気に取られた不良達を、次々に叩き伏せて行った。

 たった一人の少女に、既に身体も男としての力強さを備えつつある少年達があっさり倒されていく光景は、冗談じみたものだったろう。

 少年の鼻に肘を落とし、鼻血が飛ぶ。


『ね、ねえ、大丈夫だっ――』


 朱音は返り血の付いた顏で当時精一杯の笑顔を浮かべて振り向き、それを見た人質のクラスメートは逃げ出した。


 表立って事件になることは無かったが、このことは、周辺の少年少女にとっては非常に有名な話となった。

 なってしまったのだ。

 朱音は、「数十人相手に喧嘩を吹っ掛けて勝った暴力女」として、小学校時代の黒歴史を遥かに上回る危険人物として認識されることとなる。

 実は人質であったクラスメートもグループの一味であり、彼女を庇うようなことは無く、藤堂朱音という名は、暴力の化身として校外にまで広まって行った。


 元より避けられていたが、この事件は決定的であった。

 あるいは朱音に、もっと他者に踏み込んでいく勇気があれば違ったのかもしれない。

 しかし、今更この無愛想な態度を捨て、にこやかに他者に話しかけ――もし、拒絶されたら。

 そう考えた時の恐怖は、朱音に決断を踏み止まらせた。


 朱音の中学生活は孤独に終わり、そしてそれは高校に入っても継続されていた。

 実家から通える範囲で可能な限り遠い高校を選んだのだが、藤堂朱音の名はそこまで広まっていたのだ。




 そんなある日、父である藤堂正人から、朱音と同じ年の、知人の子供を1年ほど引き取るという知らせがあった。

 多忙な父から送られてきたメールに添付された画像には、小柄で華奢な、可憐な容姿の白髪の“少女”が映っていた。

 

 少女だと、朱音は思ったのだ。

 だって少女にしか見えないだろうと朱音は今でも思っている。


 ボーイッシュな服装の白髪の少女は、画面の中央で、気恥ずかしそうにしながら上目遣いでこちらを見ていた。おずおずと右手に小さくピースサインを作っているのが可愛らしい。


 恐らく父は相当に慌ただしく仕事に追われていたのだろう、メールの文面ですらもその余裕の無さが表われていた。

 何やら、長年に渡って追い続けていた問題が、ようやく解決しそうなのだという。

 父が寝食を惜しんででも取り組んでいた事柄であったことは朱音も知っていたし、少しでも父の負担を減らしたいと朱音は思っていた。


『この子が神護悠くん

 すまない駅まで迎えに行ってくれ』


 遠くから来た同年代の少女。

 恐らくは朱音に纏わる逸話を知らず、朱音に対して、何の先入観も持っていない少女である。

 チャンスだと思った。

 彼女と仲良くなって、自分のこの忌まわしいぼっち青春からの脱却を図ろうと朱音は強く、そして切に決意した。


 そしてその当日、朱音は気合いを入れてお洒落をして、前日から何度も練習をした人懐っこく明るい笑顔を携えて、駅の構内で所在なさげに立ち尽くす彼女の前に現れる。


『あたしが藤堂朱音よ。よろしくね。

 ……悠、でいいかな?』

 

 彼女――悠は、その心細そうな顏を輝かせて、すぐに朱音に懐いてくれた。

 少し世間知らず気味で変わった子だけど、とてもいい子だと思った。

 彼女は長年、難病を患って入院しており、今まで学校に通ったことが無いのだという。そして友達も出来たことが無いのだと、朱音に打ち明けてくれた。

 途方もない親近感が、朱音の胸を満たす。

 ……悠の事情に帰責性は無く、朱音の事情はかなり自業自得なのは別として、だ。


 そうして、二人はすぐに打ち解けた。朱音は、きっと悠と親友になれると内心舞い上がっていたものだ。

 自分もきっと変われると、そう思った。


『朱音は明るくて優しいし、いい人だね。

 ボク、朱音のこと大好きだよ』


 自分も大好きだと答えたかったが、照れてしまい無理だった。


 そして実家に到着し、家の広さにテンションを上げる悠を、一緒に風呂に誘った。

 我が家自慢の風呂場だ、きっと悠も喜ぶだろう。裸の付き合いを経て、もっと親密になれるだろうと朱音は期待を抱いていた。


『……え、何、これ』


 そして……あの悲劇が発生する。

 神護悠は、男であった。

 自分の目と手で、それを確認してしまった。そして、朱音の裸は一切余すところ無く彼に見られてしまった。

 今でもトラウマである。




 それ以来、朱音と悠の関係はギクシャクし続けた。

 彼の顏を見るたびにあの事件を思い出してトラウマを刺激させるのだから仕方ない。


 だが、それでも悠を突き放すような真似はしなかった。

 仁王立ちする朱音の足元で、捨てられる前の子犬のように震えている彼を見ながら怒りを維持できる程は朱音は執念深くは無い。


 それに、悠に抱いていた友情の熱が完全に消えてしまった訳ではなかったのだ。

 何だかんだと言っても、悠はもっとも近しい同年代であった。

 父から出来るだけ助けてやってくれと頼まれていたし、彼の境遇には同情せずにはいられないものであることは確かである。

 だから、彼が困っている時に助けるのはやぶさかではない。


 しかし、よりにもよって、彼はあの粕谷京介に目を付けられた。


 以前から何かと朱音を目の敵にしていた彼だったが、彼が朱音と一つ屋根の下で暮らしていると知ると、その悪意の矛先を悠に振り向けたのだ。

 粕谷家の汚い影響力は学校全体にまで及んでおり、朱音が悠を助けるのも限度がある。


 そして何よりも気に入らないことは、悠は粕谷の苛めを受け入れているような節があったことだ。


 何をされても彼は怒らない。

 悪質な悪戯をされようが、殴られようが蹴られようが、酷い侮辱を受けようとも、悠は愛想の良い笑いを浮かべていた。

 朱音には、それが媚びているように見えたのだ。


 たまらなく苛々した。

 

 男の癖に情けないと憤慨した。

 

 悠の腕っ節が酷く弱いことは知っている。喧嘩をすれば、下手をすれば女子にも負けるだろう。

 だが、戦うということはそれだけではないだろう。

 弱いなりに戦う手段と言うものはあるはずだし、悠がそれに思考が及ばない愚者であるとは思えなかった。


 悠は、そもそも粕谷の悪意に立ち向かうことを放棄していたのだ。

 あるいは、信じられないことだが何も考えていなかったのかもしれない。

 

 人の自由と言えば自由である。

 目の届く範囲で助け、後は好きにさせようと、割り切ろうとしたこともある。


 しかし、何故か放って置けなかった。

 彼が自分の目の届かない場所にいると落ち着かないのだ。

 気付けば悠の姿を探している自分がいた。

 そして、悠があの愛想笑いを浮かべる度に、抑えられない苛々が胸を突く。


 朱音も年頃の少女であり、人並みに恋愛に興味もある。

 さすがの朱音も、これがいわゆる“恋”と言われる感情なのではないかと疑ったことがあった。

 しかし、即座に否定する。


 朱音の異性の理想像は、心も体も強い男である。

 断じて粕谷の専横に屈し、ましてや愛想笑いを振り撒くような男ではない。

 朱音よりも強く、逞しい腕で抱き寄せてくれるような男性が良いのだ。

 悠は、内面・外面の両方において朱音の好みから、著しく逸脱している。


 恐らくこの感情は、哀れな悠に対する憐憫や慈悲の類であろうと自分を納得させ、そして日々は過ぎ――




 ――気付けば、異世界へと渡っていた。


 そこでの悠は、あの学校とは見違えるようであった。

 あんな状況にも関わらず冷静に行動し、そして勇敢であった。

 ……だが、危うかった。


 そして、


 朱音を庇い、魔族に腹を貫かれて――


 朱音はあの時、この世の終わりのような絶望感と喪失感に襲われた。

 あれほどの感覚は、大切な身内を失った時以来だったように思う。

 

 悠は朱音に逃げろと言った。

 朱音の理性も、悠は手後れだと言っていた。

 しかし朱音の感情は、己の命を賭してでも、在るかどうかも分からない悠を助ける可能性に賭けていたのだ。

 悠を見捨てていくなら、死んだ方がマシだと、あの時の朱音は考えていた。


 もっとも、幸運にも悠の魔術には己の傷を癒す効果があり、朱音の行動は結果的には正解だったのだが。


『悠ぅ……起きてよぉ……』


 さすがにここに至って、朱音が悠に対して特別な感情を抱いていることは否定できなかった。

 好意か悪意かと言われれば、間違いなく好意に振れる感情である。


 だが、違う。

 これは……そうだ、友情とかそっちの方の感情なのだ。

 あの森の事件を経て、朱音は悠を大幅に見直した。やる時にはやる奴だと、素直に敬意を抱いた。

 朱音は今まで友達などいなかったから、そういう感情や心の距離感を持て余しているに違いない。


 そう、悠は友達なのだ。

 同姓ではないが、別に異性とは友達になれない道理も無い。

 初めての友達だ。大事にしよう。


 そう思えば気が楽になった。

 悠とも、大分自然体で付き合えるようになったと思う。


 もう1度言う。

 朱音の理想の男は、強くて逞しい男性である。

 彼女より頭一つ以上は背が高く、逞しい胸元に朱音を抱いてくれるような、そんな男だ。


 だから、朱音が悠に恋をしているなど、絶対に在り得ないのだ。

 それが一晩悶々としながら藤堂朱音の下した結論である。


 従って、悠がルルと同じ部屋で一夜で過ごしたって、仮に何らかの間違いがあったとしても、何ともないのだ。

 何ともないのだ。

 何ともないに決まっているのである。





(あまり寝れなかった……!)


 朱音は、やや充血した目で歩いていた。

 大股な歩きであり、その荒ぶる内面を映す様な乱暴な歩き方である。

 彼女が歩くのは、クラスメート達が寝泊まりする第六宿舎から第一宿舎へと向かうルートであった。


 朝日が昇り、小鳥の囀りが朝の到来を告げている。

 魔道省の多くの職員はまだ勤務時間ではないのか、人通りは疎らであり、見張りや巡回と思しき兵士とすれ違うのが主だ。嘲るような目で見る者、気まずげに目を逸らす者、無視する者など反応は様々である。帝国人の地球人に対する印象は、一枚岩ではないらしい。

 第六宿舎はやや辺鄙な場所に建てられており、他の地球人と出会うことも無かった。


 もうすぐ玲子達と打ち合わせていた朝食の予定の時間であり、朱音は悠を呼びに行く途中である。

 悠は、朝に弱い。

 藤堂家のスケジュールには朝の鍛錬も組み込まれているため、午前6時頃には起床するのが普通であり、今日も起床早々に朱音は顔を洗い、朝の鍛錬をこなしている。

 しかし悠は、頑張ってもそれより1時間遅れで起きるのがやっと、むしろ起こしてやらなければ延々と寝ている場合もある。彼なりに藤堂家の生活に合わせてようと努力はしているようで、試行錯誤はしていたようだが、彼の境遇を思えば無理をするべきではないだろう。

 ルルも、恐らくは悠を無理に起こそうとはしないのではないだろうか。


 しかし、メドレアもそうだったが期待していなかった上下水道が完備されているのは僥倖だった。

 この世界は、思ったよりも文明は進んでいるらしい。

 

 食事も、最悪ゲテモノが出てくることを覚悟していたが、至って普通のパン、そして肉や魚、野菜を使った料理であった。味は贅沢を言えないが、しかし食べるのが苦痛になるようなものでもない。


 今後の待遇如何ではあるが、覚悟していた程には生活面での不便は無いのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、第一宿舎が見える。

 朱音達の寝泊まりしている第六宿舎よりも遥かに立派な、石造りの建物だ。

 幾度か足を踏み入れたが、内部の設備も格段に充実していたように思う。


 第三位階である省吾もここに泊まっているはずである。彼も鍛錬を欠かしてはいないようで、今頃はもう部屋にはいないかもしれない。


 気がかりなのは、粕谷に出くわす可能性であった。ますます増長する彼の顔面に衝動的に蹴りを放たない自信がない。 

 朱音は、人の気配に注意を配りつつ悠の部屋へと向かった。

 そして幸いにも、誰とも出合うことなく彼の自室の前に辿り着く。


 ノックをしようとして――柚木の言葉を思い出した。


 ――一途だねー。ラブだねー。


 頬が熱を持つのが分かる。

 心臓の鼓動が、早く大きくなっている。

 

 ……やはり悠とルルはあのまま一緒の部屋で眠ったのだろうか。

 あの綺麗な人と、二人っきりで。

 ルルは、悠の奴隷と言っていた。命令されれば何でも聞くのだろうか。例えば、服を脱げとか、そのまま四つん這いになれとか、くっくっく、この雌犬めとか――


(――何考えてるのよぉぉぉぉぉ!)


 朱音は頭を振り、その妄想を振り払った。

 まさか、そんなこと、在り得る訳がない。

 悠にそんな野獣じみた真似、出来る訳が無いだろう。

 きっとあの童貞は、悶々としながら夜を過ごしたに違いない。

 そのことでからかってやるのも面白いだろう。きっと顏を真っ赤にして、焦りながら否定するはずだ。


 気持ちを落ち着け、朱音は口元に小さな笑みを浮かべながら、ドアをノックした。


「……悠、起きてる?」


 少しの間があり、僅かな衣擦れと足音と共にドアが開く。


「アカネ様、おはようございます。申し訳ありませんが、ユウ様はつい先程起床されたばかりですので……朝食には少々遅れるかもしれません」


 ルルが、柔らかな笑みを浮かべて顏を出してきた。

 彼女が出てくるのは予想の範疇である。


 が、しかし。


「…………え?」


 ルルは、服を着ていなかった。

 その裸身にシーツだけを纏って胸元を隠し、同性ですらクラっとするような艶やかな色香を放っている。どことなく、その表情は満足げに艶々としている気がした。

 その汗ばんだ肢体からは、嗅いだことの無いような、鼻と脳に妙な痺れを感じる匂いを漂わせていた。


 事後。


 真っ先に浮かんだ言葉は、それである。


「……んぁ、ルルさん?」


 悠の、寝惚けた声が聞こえてきた。

 ドアの隙間から覗くと、ベッドから起き上がる悠の姿が見える。


 乱れたベッドの上の彼もまた、一糸纏わない全裸だ。

 股間が隠れていると、胸の薄い女の子にしか見えない。


「…………朱音?」


 悠がこちらに気付いたようで、蕩けた眼差しで朱音を見て――瞬く間に、顔を青褪めさせた。


「あ、あああ、あの……朱音……さん?」


 悠は何に怯えているのだろうか。

 何やら朱音を見ながら小動物のように震えているように見える。

 失礼な奴だ。


 それはまるで、浮気現場を目撃された男のようだ。

 全くの見当違いの反応だろう、朱音は悠の彼女ではないんだし、そもそも朱音は悠に恋心など抱いていない。

 朱音がこの場に特別な感情を抱くなど、ある訳が無いのだ。


「……あの、アカネ様」


「……なに?」


「そのようなお顏は、あまり婦女子がされるべきではないのではないかと……」


 ルルの顏にも、冷や汗のようなものが浮かんでいるようだった。


 まったく、ルルは何を言っているのだろうか。

 訳が分からない。


 ただ、とりあえず――叫びたかった。


 叫ぶのは、魂からの雄叫びだ。

 何故か目尻に、涙が浮かんだ。


 息を深く、深く、吸い込み、上を向いて――



「ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」



 第一宿舎は、防音にも優れている。例え男女の睦みがあったとしても、その声は外に漏れることはないだろう。

 しかし朱音の涙目の叫びは、第一庁舎全体に響き渡った――


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