第22話 -それぞれの、夜-
それぞれの夜が、更けていく――
藤堂朱音は、女子の共同部屋の中で悶々としながら寝付けないでいた。
その脳裏に浮かぶのは、白髪の少年の顏である。
(ぐぬぬ……)
悠が、ルルと――あの綺麗な女性と二人っきりで過ごしている。一緒の部屋で夜を送っている。
その事実が、妙に胸をざわめかせていた。
無性に落ち着かず、今すぐ彼の部屋に飛んでいきたい衝動にかられていた。
その理由に心当たりが無いでもなかったが、そんな訳はないと否定を繰り返す。
(ね、寝れないよ……)
(うぜぇ……どーせ神護のこと気になってるんだろーけどさあ)
……そんな彼女の放つ気配は周囲の女子にも伝わっており、周囲の女子も寝れないでいる。
悠とルルが睦み合っている宿舎の別の一室では、粕谷京介が、酒を片手に物思いに耽っていた。
斉藤をはじめとする粕谷の取り巻きの姿は、今は一人もいない。
人を待っていた。
第三位階である粕谷に宛がわれる、世話係の奴隷である。
本来であれば正式な教育を終えている帝都の奴隷から選ばれるのであるが、粕谷はあのメドレアという都市で目に付いた一人の少女を指名していたのだ。
必要な手続きと最低限の教育を終え、彼女がメドレアから帝都に到着する予定が今日であり、夜には粕谷の下に現れるはずであった。
「見ていろ……俺は……」
そして今、彼はもう一つのことを考えていた。
それは魔道の力。人間を容易く殺すあの怪物を易々と屠っていくあの鋼の蟷螂。粕谷京介の、選ばれし者の力だ。
この力があれば、自分はあの世界よりももっと果てしない可能性が開けているのではないか。
元の世界での自分の立場が、実家の後ろ盾あってこそであることは自覚していた。
だが、この世界でなら、自分は己の力で富と名声、酒池肉林の栄華を築けるかもしれない。あの何かと自分に逆らう藤堂朱音を、自分の下に這わせることだって可能だろう。
「……くっ」
裸で足元に這いつくばっている朱音の姿を想像し、愉快げな笑みを漏らす。
そのまま下卑た妄想に耽っていると、唐突なノックがそれを中断した。
……来たか。
粕谷は酔いで少々ふらつきながら立ち上がり、ドアを開ける。
「あ、あノ……」
訛りを含んだ、少女の声。
「キョウスケ・カスヤ様で宜しいでしょうカ?」
小柄な少女である。
粕谷より年下の、あどけなさの残る愛らしい顔立ちと金髪から伸びる長い耳が特徴的であった。
森人、と呼ばれる亜人種の特徴の一つである。
その身体を震わせるのは、怯えか緊張か。くりっとした大きな瞳は、不安げに粕谷を見上げていた。
粕谷は、唇を舐めながら少女を見下ろす。
「……ああ、そうだ」
それは、間違い無く粕谷の待ち人であった。
あのメドレアで見かけた少女である。
……神護悠の生還を大喜びしていた少女だ。恐らくは知己なのだろう。
だから、無理を言ってこの少女を選んだのだ。
少女は意を決したように表情を引き締め、ぺこりと頭を下げる。
「は、はじめましテ! わたしは、本日からキョウスケ様の奴隷として使われることになるティオと申します!」
そして彼女は、おずおずと顔を上げて、
「あ、あの……ユウ・カミモリ様のご学友でいらっしゃいますですカ?」
胸中に、ほの暗い熱が宿る。
「ああ、よく知ってるぜ。まあ入れよ、ティオ。あいつの話が聞きたいなら、聞かせてやるからよ」
「は、はいデス、キョウスケ様! わたし、あの人に――」
ティオがぱぁっと顔を輝かせる。緊張に強張っていた表情が、安堵で解れていた。
悠の知り合いであると聞き、粕谷への怯えも消え失せているようだ。
粕谷の口元が、悪辣につり上がり――
月明りの照らすベッドの上、悠とルルは二人で息を荒げて汗だくで寝転んでいた。
悠の身体を襲っていた熱と疼きは、その大半をルルが受け止めてくれたおかげで随分と楽になっている。
ルルは時折、くんくんと鼻を鳴らして悠の汗ばむ肌をちろりと舐めては、ぴくんと困り顔で反応する悠に、甘えるような笑みを見せていた。
親しい相手にしかしない、狼人の愛情表現なのだそうだ。
悠の方からもお返しにとルルの汗で湿った肌を舐めてあげると、彼女は「くぅん」と心地よさそうな鳴き声を漏らす。おねだりするようにすり寄せて来る柔肌に舌を這わせると、彼女はくすぐったそうに身をよじらせていた。
狼の尻尾がゆらゆらと、気持ちよさそうに揺れている。
そんな風にまったりと戯れていると、ふと悠の脳裏に思い浮かぶ疑問があった。
「……ねえ、ルルさん」
「どうしましたか、ユウ様?」
ルルが身を起こす。
何時間にも及ぶ行為の果て、精も根も燃え尽きた悠に対して、ルルは余裕たっぷりである。悠に対して手取り足取り教えながら色々と激しく動いていたはずなのだが……体力の差か、経験の差か、あるいはその両方か。
敗北感めいた悔しさが、胸にふつと湧いてくる。
そんな悠の内心を知ってか知らずか上気した顔で、ルルは悠の質問を待っていた。
「ルルさんの“願い”って……何なの?」
それは、先程聞こうとして、発作じみた発情により中断された質問であった。
忘れないうちに聞いておこうと、そんな軽い気持ちで口にした言葉だった。
だが――
ルルの表情が消えた。
とても底冷えする何かが、その端正の顏から仄見えた。
先程まで心地良い熱で蕩けそうだった悠の身体に、凍るような悪寒が走る。
だがそれは、一瞬のことで、すぐにルルの表情は柔らかい微笑みに戻る。その表情には、どこか罰の悪そうな気配があった。
「る、ルルさん……?」
「……申し訳ありません。
取り乱しました」
ルルが、自嘲の笑みを見せる。
まずいことを聞いてしまっただろうか。
悠が胸に刺さる罪悪感から、謝罪の言葉を口にしようとする前に、ルルが、
「仇討ちです」
口にした一言は、思っていたよりも重い意味を持つ言葉であった。
「シド・ウォールダー。
……私は、あの男を殺すためならば命も惜しみません」
その瞳には、鋼の如く硬く、炎の如く燃える意志が宿っている。
シド・ウォールダー。
彼女にそれほど恨まれる男とは、一体何者だろうか。
一体、どんなことをしたのだろうか。
もしかしたら、彼女が奴隷となっていることに関係しているのかもしれない。
それを聞くべきか、自分にそれを聞く権利があるのだろうかと悠が逡巡していると、ルルがくすりと苦笑を漏らす。
悠の胸元をちろっと舐めて、
「このような心地良いひと時に聞いて面白い話ではございませんよ。もっと楽しいお話をいたしませんか?」
「……うん、そうだね」
そうして他愛無い会話を交わすうち、熱も疼きもほとんど治まった身体が急速に睡魔に襲われた。
とろんとした眼差しの悠を見て、ルルがくすりと微笑ましげに笑う。
しなやかな両腕を悠の頭に回して、
「アカネ様ほど豊満な身体ではありませんのが……」
ルルは悠の身体を優しく抱き寄せ、柔らかな胸元に顔を埋めさせる。
その柔肌の心地良い暖かさに包まれながら、悠はもぞもぞと彼女の背に手を伸ばして、ぎゅっと抱きつきルルの胸元にさらに顔を埋めた。敏感な肌にかかる悠の吐息に、ルルが小さく鳴いて身動ぎする。
自らルルの身体を求めるようなその姿は、常の悠ならば決して見せないであろうものである。
それは幼子が、姉や母に甘えるような姿。
家族を知らない少年の、無意識の姿だった。
「……っ」
ルルもまた、全身で深く抱き締める。
彼女の琥珀の瞳は、どこか切なげな色を帯びていた。もう失ってしまった大切なものを見つめる、寂寥の眼差し。年下の少年を抱き締める身体が小さく震え、嗚咽めいた呼気が喉から漏れ出る。その頬を、一筋の雫が伝う。
その唇が小さく、とても小さくこの場にいない誰かの名を紡いでいた。
そんな自分を誤魔化すように、ルルの唇が悪戯っぽくも愉しげな声色で、
「ふふっ……明日が少し怖いですね、ユウ様?」
その意味を考える意識はすでに無く、悠は身を泥のように緩ませながら、穏やかな寝息を立てはじめた。
“天”と呼ばれる者たちがいる。
それは魔道の第四位階“天”へと至った、神威を振るう人類最強の魔道師たち。
単身で国家の総軍に匹敵、あるいは凌駕すると言われる、人の形をした戦略兵器である。
現在、公式にその存在を確認されている者は4名。
“覇天”、“聖天”、“偽天”、そして――
そこは、異界であった。
草木の一本すら生えない不毛の岩場とその空には、無数の血管のような線が走り、脈動している。
まるで、巨大な生物の体内に取り込まれているかのようなその空間に、一つの奇怪な小山があった。
その山は、紫の蒸気を上げながら次第に小さくなっていっている。
その山には、無数の異形の手足や頭部が生えていた。
それは、無数の魔族の死体が積み上げられた小山であった。
山を構成する死骸の数は、100体を優に超えている。
幾つもの異形の怪物が、今は力無く積み重なりながら、紫の塵となって消えつつあった。
そこに、一人の男がいる。
若い男である。
年齢は20台半ば程、血のように紅い髪を肩まで伸ばす、長身の男だ。
その顏は端正ではあるが、同時に災厄という概念を抽象化したような、険呑な凶気を宿していた。
彼に、一体の魔族が相対していた。
全身に人貌を貼り付けた、異形の竜である。
それは、悠が相対した大魔竜よりも更に巨大だった。
異形の竜の人貌が、一切に謳い出す。
超振動波の魔道が、津波の如き勢いで周囲を薙ぎ払い、男を飲み込んでいった。
「ちっ……雑魚が」
男は、詰まらなさげに吐き捨てながら、その城塞の壁すら砕く超振動波の中を悠々と進んでいく。
その姿に、無数の人貌が恐怖の表情を浮かべ、退がろうとして、
その前に、男が10m近い間合いを一瞬で詰めていた。
同時に、その右手が異形の竜の腹へと深々と突き刺さっている。
異形の竜が、全身から紫の血を吹き出した。全身の人貌が目と鼻、口から夥しい紫の血を溢しながら、凄まじい断末魔の絶叫を上げ、その巨体は倒れ伏す。
血に伏す巨体はしばし痙攣して、そのまま動かなくなった。
紫の塵となっていく巨体が、その怪物の死を証明していた。
男はそれを、完全に萎えきった表情で眺めていた。
その屠殺の光景を魔道の心得がある者が見ていたのなら、己が目を疑っただろう。
その男の身からは、魔力が殆ど放出されていない。
それは、彼が第二位階の魔術すら用いず、第一位階の力のみで戦っていたという事実を示していた。
しかし同時に、彼の名を知れば絶望感と共に納得することとなるだろう。
「――おう、“人獣”の。不景気な顏しとるのぅ」
不意に、紅髪の男に声をかける者がいた。
男は、ただ立っているだけでも常人であれば失神しかねない程の殺気を振り撒いており、そんな彼に声をかけようと思うのは余程の猛者か痴愚だけだろう。
紅髪の男が振り向いた先にいるのは、黒髪の男であった。
枯れ木のように痩せた、痩躯の青年である。
一体、どんな美意識を持っているのか、斑模様の馬鹿馬鹿しい程に派手な着物を肩に羽織り、煙管を咥えて紫煙を燻らせていた。
岩の上に腰掛けながら、その細い目で紅髪の男を見下ろしている。
「……“斑”の爺か」
紅髪の男は、その斑の男の顏を見て、彼が見知った顔であることを認識する。
依然として紅髪の男は大質量の殺気を放ち続けているが、斑の男は、凪の如くこの殺気を受け流している。
「何の用だよ老いぼれ。のらくら逃げ回ってねぇで、ようやく俺とやり合う気になったか?」
まるで獣の如き形相を浮かべながら、紅髪の男が言う。その纏う殺気は、もはや物理的な圧力すら伴い周囲に垂れ流されていた。
だが、斑の男は如何にも面倒そうな調子で手を振りながら、
「阿呆。お前さんみたいな若いもんのバチバチにいちいち付き合えるかい。もっと年寄りを労われや、若造」
「はっ……ほざきやがる」
紅髪の男と斑の男の距離はおよそ5mほどといったところだ。
紅髪の男ならば、瞬きの間すら要さずに詰められる距離である。
そして斑の男もそれは承知しているが、彼は気楽な様子で煙管の灰を落としていた。
「なあ、“人獣”の。“帝国”が、ちっと面白いことになっとるぞ」
「……あぁん? 雑魚の餓鬼を次から次へとひり出しているだけじゃねぇか。興味ねぇぞ」
「呵呵っ、まだヒヨッコには違いないがのぅ。だが、儂は面白いことになると睨んどるわ。儂は占い師じゃぞ?
ま、頭の片隅にでも留めておけや」
その言葉を最後に、斑の男の姿は消えていた。
まるで、最初から存在していなかったかの如く、彼の座っていた場所には体温すら残されていない。
唐突に現れ、身勝手に消えた斑の男の自由に過ぎる振舞に、紅髪の男は小さく舌打ちし――しかし、斑の男の言葉を反覆するように呟く。
「“帝国”……か」
男は、その端正な凶相を更に険呑に歪めながら、その場を去って行った。
既に魔族の死体は完全に消え失せ、そこにはただ、異形の岩場と空だけが遺されていた。
……その男の名は、あまりに有名であった。
シド・ウォールダー。
連続殺人犯、強盗殺人犯、国家転覆、強姦魔、人身売買、人間牧場経営。
その男の名には、およそあらゆる重罪の名が付き纏う。
そして、その男の名を最も険呑なものとしている肩書きが一つ。
世界最悪――あるいは人類史上最悪とも称される武装集団“人獣”の長。
“天”の一人、“獣天”である――
これにて1章は終了となります。
いかがでしたでしょうか、ご批判でもいいので、感想などいただけるととても励みになります。
次章はティオと朱音に焦点のあたった話となっていきます。




