第17話 ―涙―
「糞っ、糞がぁ! 何だよこいつはぁ!?」
粕谷京介の引き攣った声が、森に響く。
その視線の先には、全身の人の顔が浮かんだ異形の竜。
更にその後ろには、無残な姿を晒す三つの骸の姿があった。
皆、突然倒れて苦しんでいたクラスメートである。
うち1人は、斉藤和樹が咄嗟に助け出し、難を逃れている。
「京介っ!」
斉藤はその脇に女子生徒を抱えながら叫ぶ。
「和樹っ……糞っ、助けろ、俺を助けろよぉっ!」
「だってよ……足が……」
斉藤の足は完全に骨折し、あらぬ方向へと折れ曲がっていた。
加えて、顔面は蒼白であり歯はガチガチと鳴っている。恐慌寸前の状態だ。
物理的にも、精神的にもこれ以上の行動は不可能である。
魔竜の無数の眼が、粕谷を舐めつけるように見下ろしている。一歩、また一歩と粕谷を嬲るように、ゆっくりと近づいていた。
無理だ、死んだ――粕谷の脳裏に、絶望の言葉が溢れてくる。
「ふざけんな、ふざけんな、俺が、こんな……」
自分は粕谷京介だ。名門、粕谷家の血に連なる、選ばれた者である。
自分がこんなところ死ぬなど、あっていいはずがない。
奪われる側であってたまるか、自分は奪う側なのだ……!
有り得ない、
認めない、
許さない――
「畜生がぁぁぁぁぁぁ! 俺は、俺は……!」
魔竜の顎が、大きく開き――
「ぁ……ぅぁ……」
悠は、まだ生きていた。
だが身体が動かない、何も見えない。
ただゆっくりとこちらに近付いてくる魔竜の足音が聞こえていた。
魔竜の放った魔道――空間を赤熱化させるほどの、超振動波の咆哮。
それを浴びた悠は、気付けば闇の中にいた。
具体的な自分の状態は分からないが、恐らくはロクな姿ではないだろう。他者から見れば、ひと目で死体と判断するような有様なのではないか。
果たして、手足は残っているのだろうか?
いずれにしても、再生にはかなりの時間がかかる。
その時間を、あの魔竜が許すだろうか。
(ああ、そうか……僕は……)
クラスの皆は逃げ、ルルは生死不明。悠を助ける者はこの場に誰もいない。
つまりは――
(僕は、死ぬんだ)
悠は、自分が詰んだことを悟った。
己の死は、もう避けられない。
ここで、悠の人生は潰えるのだ。
(朱音、ルルさん、みんな……ごめん)
心配してくれたのに生き残れなくてごめん。
命懸けで庇ってくれたのにごめん。
守るって言ったのにごめん。
君達の命に報いることができなくてごめん。
結局僕は、何も出来なかった。
英雄になど、なれなかったのだ。
決まった死ならば、受け入れるしかない。ならば最後は潔くあろうと――
(――え?)
目から頬を伝う、熱を感じた。
泣いている。
何故、涙が流れているのだろうか。極度のダメージを受けた身体の反射的な反応だろうか。
違う、と分かっていた。
だが認めたくなかった。
「は、は……」
血に濡れた声がこぼれる。自らを嘲る苦笑であった。
「まいっ……た、なあ……」
溢れる涙の原因が、分かっていたから。
胸を掻き毟る感情の震えを、自覚してしまった。
その想いは、ただ一言に集約される。血を吐くように絞り出した、一言だった。
「死にたく、ないよ……」
生への未練が、堰を切ったように溢れ出していた。
それはごく当たり前の渇望である。生物であれば当然の、原始的な感情。
自分のせいで犠牲になる子供たちを見続けていた15年。己には見苦しく生を乞う資格などないと言い聞かせて来たはずであった。
精一杯やって、その結果として死ぬのなら潔く受け入れようと。
そうでなければ、“みんな”に顔向けできないと思っていた。夢の中で悠を責める無数の声に、耐えられなかった。
覚悟していたはずなのに――なんだ、この様は。
同時に、目を逸らしてきた数々の想いが、走馬灯のように駆け巡る。
(最後の最後で、これか……英雄どころか、僕は……)
昨夜、朱音に語った罪悪感を理由にした英雄願望は、嘘ではない。
だが、他にも理由はなかっただろうか?
皆を助ければ、格好いいところを見せれば、自分のことを見直してくれるのではないか。
そして、友達になってくれるのではないか、と。
降って湧いたようなこの力で、情けなくもそんなことを考えていなかっただろうか。
「は、は、はは……」
自らを嘲笑う乾いた声が、脳裏に響いていた。
何て身勝手な。死んでいった子供たちには一片の自由すら無かったのに。生きて外に出るという望外の幸を得ながら、これ以上を望むというのか、見苦しくも生に執着するのか、と自らを責める声がある。
斯くあれかし、と己に定めていた生き様は、完膚なきまでに破壊されていた。
いや、初めからそんな生き方など出来てはいなかったのだ。
「みん、な……」
悠の脳裏に、無数の顔が浮かんでいる。
あの研究で死んだ、子供達。
皆が悠を、蔑んだ表情で見つめていた。
嘘つき、情けない、弱虫、恥知らず、臆病者――と、底冷えのする声で責め続けている。
「ごめ、ん……」
死にたくないと叫びつつも、今すぐ消え去りたいという矛盾した想いが悠の胸中を支配する。
そんな中、感覚が僅かに戻って来た。
……そういえば、近付いていた魔竜の足音が遠ざかってはいないだろうか?
甦った視界に移る光景は――
「ぇ……」
誰かに、抱えられている。
悠を抱き上げて走るのは、
(朱音さん……?)
「悠! ねえ、悠! 生きてるなら返事してよ……!」
突然の乱入者に獲物を掻っ攫われた大魔竜は、むしろ愉しげですらあった。その無数の人貌は、げらげらと品の無い笑いを上げている。
新しく活きの良い玩具が現れたことに機嫌を良くしているのだろうか。
数多の眼が自身に向けられていることに、朱音は血色の悪い美貌を更に青くする。
「……ぅ……」
無我夢中で助け出した悠は、ほとんど意識を飛ばしているようだ。ときおり、うわ言ような言葉や笑いが漏れていた。
その姿は悲惨を通り越し死体同然だが、再生能力が働き、次第に傷が塞がっている。
だが、一昨日に朱音を庇った時とは比較にならない重傷である。果たしてこのまま完治するのか、甚だ不安であった。更に、その身体はぞっとするほど軽い。いったい、どれほどの血液が失われたのだろうか。
ともかく、今は悠を連れてあの馬鹿げた巨体の魔竜から逃げるのが先決である。
逃げる朱音の背を、凶悪な気配が掴んでいる。
それがいわゆる殺気という概念であると、朱音は知っていた。
ちらりと後ろを見れば、大魔竜はにたりと唇を釣り上げている。
その前傾した姿勢は、こちらに突進しようとしているようだ。
「……っ!」
さらに血の気が引いた。
左肩は今も灼けるような激痛を訴えているし、打撲に軋む身体が悲鳴を上げている。
自慢の軽やかな動きは見る影もなく、大魔竜の突進を避けられる自信は無い。
その突進が、掠っただけで致命傷になるであろうことは、容易に想像ができた。
「ちくしょうっ! こっち向きやがれ化け物が!」
壬生の悲鳴じみた声。
彼は、悠を抱える朱音から大魔竜の意識を逸らそうと、側面から懸命に攻撃を加えていた。
その手から放たれる砲撃魔術が、異形の横っ腹に直撃し、その無数の貌の表情が不快げに歪む。ダメージを受けた様子は皆無であったが、その注意が壬生へと向けられる。
「ひっ……」
数多の悪意に睨め付けられ、壬生は引き攣った呻きを漏らす。
歯をガチガチ鳴らした恐怖も露わな表情で、しかし悠を抱える朱音に叫ぶ。
「と、藤堂……逃げろ、早く逃げろっ、急げぇっ!」
怯えきった震える声で、それでも再度の砲撃を大魔竜に放った。
全身から唸り声を上げながら、大魔竜が壬生に襲いかかる。
「う、わぁぁぁっ!」
まるで羽虫でも払うかのように振るわれた大爪を、壬生はすんでのところで回避した。
彼は陸上部の期待の星であり、相当な健脚と運動神経の持ち主である。回避に徹すれば、それなりに耐えられるはずではあったし、それが事前に壬生と決めていた役割分担であった。
朱音は後ろ髪を引かれる思いを振り切って、逃げ続ける。
……朱音が目を覚ました時、壬生は散り散りになったクラスメートを集めて何やら言い合いをしていた。
悠を助けに行くと、周囲の制止を振り切って主張していたのだ。
何故そこまで、という問いに、壬生は悲痛な顔で絞り出すように言った。
――もう見捨てるのは、嫌なんだよ……!
彼のその一言に、誰もが押し黙り、それ以上反対する者もいなかった。
世良が、朦朧とした眼差しで、苦しげに呻き掠れる声で言った。
――冬馬、藤堂さん……神護君を助けて……戻って、来てね。
柚木が、たった一人でクラスメートの護衛を請け負い、怯えを押し殺しながら言った。
――ここはウチがばっちり守るから、心配せずに行ってきなよ。で、でも早めに戻ってきてね?
そして今、朱音と壬生はここにいる。
命を賭して、悠を助けようとしていた。
「ねえ、悠……!」
身も心も、すでに限界間近であった。
全身の骨と筋肉が、断末魔めいた悲鳴を上げている。左肩の感覚が消え失せつつあるのは幸か不幸か、もしかしたら引き千切れてしまったのではないか。
ただ感情の迸るままに、朱音は言葉を吐く。
「あんた昨日、ヒーローになるって言ってたわよね! 死ぬことも恐れないカッコいい英雄になりたいって!」
昨夜の屋上での会話が、ずっと朱音の脳裏から離れなかった。
あの時は考えが纏まらず、思っていた以上に重い話であったことへの気後れや、悠への気恥ずかしさもあり、想っていたことの半分も言葉に出来なかったのだ。
痛みと恐怖に壊れたテンションのまま、朱音はあの時に言えなかったことをまくし立てる。
「やっぱり駄目だったんじゃないの、馬鹿! あんた泣いてるじゃない! 怖いんでしょ? 死にたくないのよね!?」
右腕に抱えられた少年の頬には、間違いなく大粒の涙が伝っていた。聞き間違えでなければ、死にたくない、と掠れた声を漏らしていたはずだ。
言わんこっちゃない。まったくしょうがない奴――
「それでいいのよ、この大馬鹿! 中二病! むっつりスケベ! あんたなんてヒーローじゃなくてセクハラ野郎がお似合いだわ! 今朝だって! あたしの胸は枕か! この変態!」
森の悪路をひたすらに駆けながら、内容の吟味も整理も無く、思うままに声を上げる。
「それにねえ! 自分に幸せになる資格がどうのって言ってたわよね! あたしと壬生が、こうして助けに来てるのよ!? 命がけで、死ぬほど怖いのに頑張ってるの! ねえ、分かる? あんたに死んで欲しくないからよ! それじゃ駄目なの!? あたしたちが命懸けで助けるあんたは、幸せになっちゃいけないっていうの!? 死人を背負うのも結構よ! でも、生きてるあたしだって見てよ! あたしじゃ不足!?」
タガが外れた感情が、次から次へと口をついて出る。
全力で走りながら、よくぞこんなにも喋り続けられるものだと、頭の中にわずかに残った冷静な部分が他人事のように感心していた。
同時に、走馬灯のように脳裏を走る光景があった。
それは、悠との出会いの日の記憶。無愛想で乱暴で、悪名高い朱音が友達を作る、千載一遇の好機と息巻いた日の出来事だ。
人にはとても恥ずかして言えたものじゃない、朱音の黒歴史。
もうどうにでもなれと、ヤケクソ気味に口を走らせる。
「覚えてる? あんたと会った日! あたし、前の日から準備してたのよ!? 鏡の前で笑う練習して! 興奮して夜眠れなくて! 気合い入れてお洒落して! 無理して親しみやすいキャラ作って! あんたに友達になって貰おうって! まあ、あんたのこと女子だって勘違いしてたんだけど! お父さんの馬鹿!」
その結果は、無残な大失敗。乙女として最悪のトラウマまで作ってしまった。
「何でそこまでしたか分かる!? あたし、あたしには――」
だがそれでも、あの日から、朱音にとって神護悠という少年は――
「――あんたしか、友達いないのよぉ! 一人にしないでよ、悠!」
叫んだ直後、
背後、木の枝が折れる音が、
「――――ッ!」
大魔竜が、すぐ後ろに接近していた。無数の貌が、嘲笑いながら朱音を見下ろしている。
早い。その巨体を思えば冗談じみた瞬発力である。
壬生が稼いだ時間は、あっという間に無為に帰した。
「藤堂ぉっ! 神護ぃぃぃっ!」
その後方、大魔竜を追うように壬生がこちらに駆けてくるのが見える。
追いつかれる――悠を抱えたまま、全力で横っ飛び。
次の瞬間、空間が抉り取られたと錯覚するほどの衝撃が傍らを通過した。
暴力的な風圧が、朱音と悠の身体を舞い上げる。
「く……あぁぁぁぁぁぁぁっ!」
朱音は地面を転がりながら絶叫する。左肩から、激痛と共に身の毛のよだつ感覚がせり上がり、朱音はそれに伴う吐き気を強引に噛み殺した。ショック死するかと思うほどの全身の激痛のせいで気絶しなかったのが、不幸中の幸いである。
突撃を避けられた大魔竜は、そのまま木々を薙ぎ倒し、巨躯を慣性に傾がせながら停止した。
人貌たちが、歪んだ表情を見せる。
戦う力も無い虫ケラのような獲物に抵抗されたのが不愉快だったのだろうか。
その異形に帯びていた、“遊び”の気配が消えていくのを、朱音はぞくりとした悪寒と共に感じていた。
彼我の距離は、わずか数メートル。
逃げられない――と思ったその時、
「――〈螺旋疾風〉!」
聞き覚えある声。唸りを上げる疾風が、大魔竜へと突き刺さった。
首の付け根あたりに命中した螺旋の風は、魔竜の巨躯を抉り紫の血飛沫を撒き散らした。
無数の貌が、苦痛の悲鳴を上げた。
木々の陰から、一人の娘が姿を現す。
「……ルル」
「止まらずに! 早くお逃げを!」
狼人の娘が、朱音に鋭い声を投げる。
ルルは五体満足で動いているようだが、その戦闘服はボロボロで、身体のあちこちから血が流れていた。息は荒く、危うげな咳を漏らしている。
追いついた壬生も、切迫した声を上げる。
「行け、藤堂! もたもたすんな!」
「ごめん……!」
ただの一言を残し、朱音は悠を抱えて逃げるために立ち上がろうとして、
「いっ……つぅ!」
右足の、弾けるような痛みと共に地面に転んだ。
痛みは鈍痛へと変わり、右足首の焼けるような熱さと共に滲んでいる。
突進を避けた時に足を挫いたのだと、理解と絶望が同時に押し寄せた。
「アカネ様っ!?」
「おい藤堂っ!」
狼狽するルルと壬生、朱音は地面に伏せたまま、悠へと這っていく。
そんな3人を嘲るように、大魔竜の全身から耳障りな笑いの大合唱が響き渡った。
その嘲笑は、狂気の歌声へと変じていく。。
「な、何だ……?」
壬生は、魔竜の行動の意味が理解できていないようだ。
一方の朱音は、その意味に気付き、全身を震わせていた。
「大嵐よ来たれ、其は禍の―――くっ……!」
ルルが、焦りも露わに番える矢に疾風を纏わせるが、途中で言葉を切り、その場に膝を付いた。頭痛に苛まれているのか、頭を押さえ苦しげ呻いている。
彼女に何らかの限界が訪れたのは、明らかであった。
「あなたも……少しでも遠くへ、お逃げを……」
「そ、そんなこと言ったって……」
大魔竜の異形はいよいよ剣呑を通り越し、致命の迫力を帯びつつある。
朱音は、その異形の睨みながら、己の死を確信した。
死にたくない。悠を守れなかった。お父さんを一人ぼっちにしてしまう、他にも、他にも――幾多の感情がない混ぜになって、視界を滲ませる。
「いや……!」
その間にも、狂気の歌は最高潮の高まりを迎えていた。
朱音は、地に伏す悠に手を伸ばそうとして――手ごたえが無い。
悠が、いなくなっている。
何事かと振り返ると、
「えっ、悠……?」
悠が、立ち上がっていた。
いまだ全身から血を流した無残な身体で、
その瞳に、確かな生命の火を灯して――




