第16話 ―魔竜―
魔竜の咆哮が、魔界の大気を震わせる。
無数の人貌の絶叫と共に迸るそれは、聞く者の脳を掻き毟るような狂的な響きを孕んでいた。
猛る魔竜の数多の貌は、憤怒を宿した形相で狼人の娘を見下ろしている。
「…………」
対するルルは、臆した様子も無くその異形を真っ向から見据えて立っていた。
彼女は一切の動揺も無く、手慣れた動作で矢を取り出し、弓に番えた。
その桜色の唇が、謳うような声を紡ぐ。
「風よ疾れ、集いて旋りて力と成せ――」
その鏃に、疾風が踊るように集う。
「皆様! 動けない方を連れて早く退避を! 貴方達の魔術では、あの中位魔族の対処は困難です! 他の魔族の襲撃に備えながらお早くお逃げ下さい! いずれ帝国の救援が来ます!」
ルルが早口で指示を飛ばす。その切迫した声色に、悠は潰れた喉で懸命に声を張り上げてルルを援護した。
「この人は味方だよ! 皆、言う通りに!」
同時、ルルが魔竜に攻撃を仕掛けていた。
魔竜は彼女を脅威と感じたのか、今は彼女に集中しているようだ。
彼女は倒れる生徒達を巻き込まないように気を遣い、魔族との位置関係を器用に維持していた。
壬生は、その戦いを尻目に強張った表情で頷いた。
「あ……ああ! お前ら、さっさと逃げようぜ!」
壬生が世良を担ぎながら皆に叫ぶ。
身が竦んで、あるいは倒れた級友を捨て置けずにその場に留まっていた他のメンバーは、そこでようやく我に返ったように倒れる級友に手を差し伸べた。
魔道で強化された肉体は、人の身体を軽々と持ち上げることを可能にしている、動けるメンバーの半分ほどが逃げ出していたが、残ったメンバーでどうにか倒れる全員を担ぐことが出来ていた。
壬生が、心配そうな顔をして駆け寄ってくる。
「……走れるか神護?」
壬生は、世良を片脇に担ぎながら、倒れる朱音をもう片方の腕で担ぎ上げようとする。
「うん……大丈夫だよ。朱音は僕が――」
「何言ってんだ、お前は主力なんだから手を空けとかないと駄目だろ」
正論だった。朱音は自分の手で守りたいという気持ちがあったが、それなら尚更のこと壬生の言葉は合理性を有している。
悠の返事を待つことなく、壬生は重傷の朱音をゆっくりと担ぎ上げた。
両脇に二人の少女を抱える壬生に、悠は目を伏せて大切な友達を託す。
「ごめんね壬生君……朱音さんを、お願い」
「……ああ」
壬生はしかと頷いて、逃げる皆の後に続いて行く。
悠の身体の再生は、ようやく概ねが完了していた。
大きく深呼吸をして息を整える。肉体に不足していた酸素が行き渡り、細胞が活力を取り戻していく。手足の痺れも、すっかり無くなっていた。
今一度、繰り広げられている戦闘を一瞥する。
彼女は魔竜の攻撃を避け続け、何発もの矢を命中させていた。
優勢にも見えるが、彼女の表情からは一片の余裕も感じられない。薄氷の上を歩むような緊張感を滲ませながら、その身を躍らせている。
「ルルさん……どうか無事で」
とりあえずはルルの言う通りにするしかない。
悠たちに気を使っていては、ルルは戦いに集中もできないだろう。彼女を置いていくのは気が重いが、足手纏いになる訳にはいかない。
奮闘するルルの無事を祈りながら戦闘に背を向け、先を行く皆に追い付こうと駆け出した。
それから数百メートルほど進み、逃げる皆の背が見え始め、
「……は?」
びちゃりと、頬に暖かい液体がかかった。
鼻につく、生臭く酸っぱい臭気。
何かが、飛んできた。
赤の液体を撒き散らしながら、
一瞬見えたそれは、確かに人間の身体の一部で――青ざめた悠が再び駆け出した次の瞬間。
「ぎゃああああああああああ!」
前方から、気が触れたような叫び声。
駆け寄ってみれば、その原因は一目瞭然であった。
皆が逃げた先、闇夜の森に巨大なシルエットが浮かんでいる。見覚えのある影だ。ついさっきまで目にしていた形だった。
……魔竜が、いる。
ルルと戦っているのとは別個体の、巨大な異形。
もう一匹の魔竜が森の奥から現れ、クラスメートの残骸を足蹴にしながら悠たちを睥睨していた。
無数の人貌が、にたりと嗤う。
陰湿で、残虐な笑み。その濃厚な悪意をぶつけられて正気を保てる人間が、どれほどいるだろうか。
「ひっ――」
皆の理性は限界に達していた。
最早こうなっては秩序など存在しない。むしろここまで良く理性を保っていたというべきか。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
誰が発したかも、何人が発したかも分からないほどの、引き攣った絶叫。
蜘蛛の子を散らすように、クラスの皆はバラバラの方向に逃げ出していた。背負い、あるいは担いでいた級友を放り出さなかっただけでも殊勝というものだ。
壬生もその一人で、だがある光景を目にして踏み出した足を止めていた。
二人の仲間を背負う柚木がそれに気付き、彼の肩に担がれる親友の世良を見ながら切迫した声を上げる。
「ちょっと壬生! 何やってんのさ!」
「神護、お前……?」
「えっ?」
悠が、魔竜と対峙していた。
たった一人で地を踏みしめ、異形の巨躯を睨み据えている。
一方の魔竜は、悠をじっと興味深そうに見下ろしていた。無数の人貌からは時折、嘲るような笑みが漏れる。
その兇気を真っ向から受け止めながら、悠は言葉を発する。短く、簡潔に。
「早く、逃げて」
悠の意図に気付いた壬生が、驚愕の声を上げる。
「神護、お前……!?」
「早く! 僕が時間を稼ぐから! 急いで!」
張り詰めた声が、森に響く。
ほとんど怒鳴り声に近い声だ。これほど誰かに強く物を言ったのは初めてかもしれない。
ここは任せて先に行け――まるで、物語に出てくる頼れる味方みたいだ。
そんなことを思い、場違いな苦笑が浮かんで来た。
「朱音さんを、頼むよ」
柚木の息を飲む声と、壬生の歯軋りの音が聞こえた。
僅かな沈黙、逡巡の気配は一瞬のこと。
「くそ、くそっ……分かったよ! 行くぞ柚木……死ぬなよ、神護! やばくなったら逃げろよ! いいな!」
「ま、待ってよ壬生……」
壬生は唸り、悠に背を向けて走り去っていく。柚木が何度もこちらを振り返りながら後を追って行った。
そしてその場には、悠と魔竜が残される。
魔竜は、いまだに動く気配が無かった。壬生と柚木たちを逃がす猶予を得られたのは僥倖であるが、まさか悠と正々堂々と一騎討ちをしようなどという殊勝なことを思っている訳でもないだろう。活きのいい玩具がいた、などと考えているのかもしれない。
その多貌は、ひたすらにおぞましい悪意を撒き散らしていた。
臓腑が凍りつくような悪寒が走る。柄を握る指に、汗が滲んでいた。
「言葉なんて通じないかもしれないけど……」
この剣は、他の魔竜に通用せずに砕け散った。第三位階に達していない悠では、この魔竜の鎧を貫くことは出来ないのだ。勝機は、限りなく薄い。
だが、それがどうした。
せめて意思は負けまいと、悠は魔竜を真っ向から睨む。
「僕が相手だ」
唸る大爪が、それに応え――
「ぐぅっ……!」
朱音は、左肩に弾ける激痛によって目を覚ました。
まだ周囲はぼんやりとしか認識できないが、どうやら複数の人間がいるらしい。
何か、話し合っているようだ。
「ゆ……ぅ……」
悠は、どこだろうか。
考えるより先に身体が動き、魔竜の尻尾に打ち据えられたのが最後の記憶である。
自分が生きているのだ、きっと無事だろう。
元気な姿を見せて、安心させてやらなければなない。
「――危ない――やめ――」
「でも――護も――まだ――」
やけに遠く聞こえる話し声を聞き流しながら、朱音は自分の身体の感覚を確かめていた。
左肩が死ぬほど痛い。左腕も全く動かず、完全に使い物にならない。
だが、それ以外は動く。ひどく痛むが、我慢すれば立ち上がれそうだ。
そのうちに、視覚や聴覚も回復してきた。
「馬鹿! 壬生が死んだら綾花はどうすんのさ! 何でそこまでして……!」
柚木澪が、壬生冬馬を問い詰めていた。
朱音の傍らには世良綾花が寝かされており、苦しげに呻きながらうっすらと目を開けつつある。
周囲にも、幾人かの生徒の姿があった。
壬生はとても苦しげである。何かに押し潰されそうな、悲壮な表情をしていた。
「だってよぉ! 俺は、俺はもう、あいつを――」
吐き出すように叫ぶ声が、闇夜の森に響く。
「――ッ!」
全身全霊の刺突は、銀の破片となって舞い散った。
魔竜の皮膚には、傷一つ付いていない。
無数の人貌が鬱陶しげに唸るが、それだけである。
厳密には、悠の攻撃は全くのノーダメージでは無いはずであった。中位魔族の魔力装甲は、攻撃を受け続ければ減衰、弱体化していくはずなのだ。だが、今のところはそんな気配は微塵も無く、魔竜は暴虐を振り撒いている。
攻撃はまともに通用せず、魔竜の攻撃をひたすら避け続けるだけの不毛で絶望的な戦いが繰り広げられていた。
この魔竜をクラスメートの下に行かせないよう、悠は必死で時間を稼ぐ。
――だが、時間を稼いだところで、果たして活路はあるのか。
ルルの言っていた帝国の救援が現れる気配は無い。
救援は本当に来るのだろうか。当のルルは、果たして無事なのだろうか。彼女も今頃、犠牲になっているのでは。
そんな陰鬱な声が胸中に汚泥のように湧き、思考を濁らせつつあった。
「くっ……!」
振り回される尻尾を僅かに避け損ね、左肩を破壊される。
左腕は千切れかけ、辛うじてぶら下がっているような状態だ。
同時に、全身の神経を錆びた針で引っかかれるような再生の痛みが発生する。
悠は目尻に涙を浮かべ、歯を食いしばりその痛みに耐える。
魔竜の人貌が、にたりと陰湿な笑みを浮かべていた。
悠が追い詰められつつあることを、感じ取っているのだろうか。
「まだ、まだ……!」
悠は自らを奮い立たせるように気を吐く。
諦めるものか。こんなところで倒れては、“みんな”に顔向けができない。
朱音を、クラスの皆を救い、生還させるのだ。
せめてそれまでは、死ぬ訳にはいかない……!
「来いっ!」
悠は新たな剣を生成し、魔竜を迎え撃つ。
避け、斬りつけ、砕かれ、襲われ、避け、掠って――地獄のような時間は、どれほど経過しただろうか。
数時間のような気もするが、数分しか経ってないように思えた。
だが少なくとも、その時間は無意味では無いようだった。
「……ユウ様!」
ルルが、駆けつけて来てくれたから。
あの魔竜を倒したのだろうか、細部は分からないが大事は無い様子で、悠と魔竜を見て愕然とした様子を見せている。
魔竜の注意が、わずかにルルへ逸れた。
その隙に悠は、魔竜の口内へと剣を投擲するが、白刃は空しく砕け散った。魔力の鎧は、身体の内側にも纏っているようだ。
ルルは攻め手のない悠の状況を理解し、矢を弓へと番えた。
「……ユウ様、もうしばしの間だけ、注意を逸らしていただけますでしょうか」
その声は、獰猛な響きを帯びていた。
獲物に喰らいつこうとする、猛々しくも美しい狼の相。
「分かりました!」
頷き、その唇が戦意みなぎる詠唱を紡ぎ出す。
「大嵐よ来たれ、其は禍の颶風――」
その鏃に、先ほどと同じように風が集っていく。
だが、その“風”の質は、先のものより遥かに強靭で剣呑な兇気を宿していた。
それがルルの切り札――魔竜を屠る一矢なのだ。
「はぁぁっ!」
悠は魔竜の注意を引くために、ひたすらに攻撃を仕掛け続けることのみであった。
魔竜がルルへと向いていることを幸いに、悠はその腹部に全力で白刃を叩き付けた。
またもや剣は砕けるが、その無数の貌が不愉快そうに悠を睨む。悠はそれを受け止めながら、真っ直ぐに睨み返した。
「荒れ狂え、吹き荒べ、禍の風よ舞い踊れ――」
ルルが詠唱を重ねるたびに、その鏃に纏う風は、禍々しいまでの剣呑さを放ち渦巻いている。最早それは、風という現象の殻を被った破壊事象だ。
一方の魔竜の攻撃は、精彩を欠いていた。悠とルルの双方に気を取られ、どちらに対しても中途半端な攻撃しか出せていない。
「喰らい、貪り、蹂躙せよ――」
彼女の詠唱は更に重ねられ、禍々しき渦は更に強靭に、強大に成長していく。
番える鏃が纏う風は、まるで一つの生き物のように蠢いていた。
巨獣の咢の如き暴力性を備え、触れるもの全てを喰らい尽さんばかりの兇気を孕んで渦巻いている
それは決してあの魔竜の威容に劣るものでは無い。
だが、しかし、
「しまっ……!」
薙ぎ払われた竜尾が、攻め過ぎた悠の右足を掠めていた。
ただそれだけで、右足首が柘榴のように砕かれた。悠は地面を転がりながら、戦慄する。
(まずい、まずい、まずい……!)
次の攻撃は避けられない。
魔竜の前脚が、悠を踏み潰そうと――する寸前。
「――〈颶嵐獣〉!」
ルルの構えた弓から、颶風を纏う一矢が放たれた。
一匹の狂える餓狼の如く、嵐という概念を凝縮したかのようなその一撃は、ルルの極限の集中力をもって絶叫する魔竜の胴体のど真ん中へと吸い込まれていく。
命中――ぞぐん、と背筋の凍る兇の音が響いた。
魔竜の胴体が、一瞬で消し飛ぶ。
それはまるで、巨大な餓狼に喰い千切られたような冗談じみた光景。
残った四肢と首が宙を舞い、紫の塵を帰しながら消滅していく。
すでに見慣れた、魔族の死を意味する現象。
異形の竜は、跡形も無く消え去っていた。
「やった……?」
ルルが深く息を吐き、小さな微笑みと共に悠を見下ろす。
「はい……この個体は、ですが」
言いながら、ルルは周囲を警戒しているようだった。
異形と化した森を見渡して顔をしかめ、耳をぴくぴくと動かしている。
そして近くに脅威が無いと判断したのが、わずかに表情を緩めて悠を見下ろす。
「ユウ様のおかげですね、よく持ちこたえられました」
その美貌には、確かな賞賛の笑みが浮かんでいた。
「良かったぁ……」
悠は安堵の息を吐きながら、脱力する。
今も全身を暴れまわる再生の痛みに耐えながら、ルルを見上げて微笑み返した。
「すごいですね、今の……あの魔竜が一撃ですよ」
「威力はあるのですが、消耗が激しいので多用はできないのです。あと1回撃てるかどうか、といったところですね。それにしても……」
回復していく悠の身体に、ルルは目を見開いている。その声には、確かな驚愕の響きがあった。あの仮想領域では現実の肉体が傷付くことは無かったので、超再生をルルが目にする機会は無かったのだ。
「聞いてはいましたが……凄まじいものですね」
「別に不死身って訳じゃ、ないんですけどね……」
例えば首を跳ねられて脳が機能を停止すれば、そのまま死亡するだろうと言われている。脳自体も再生しない訳ではないのだが、やはり他の部位に比べると再生は著しく遅い。
また、失血についても常人より遥かに少ない血液でも生命は維持できるものの、やはり生命の維持には必要である。今現在、すでに常人なら立っていられない量の血液を失っており、これ以上の失血は避けたいところであった。
痛みを紛らせるために、ルルに話しかける。
「ありがとうございます。助けてくれて……」
近くで見るルルは、大きな怪我はしていないようだが無傷でもない。その表情にも明らかに疲労が滲んでいた。
あの魔竜との戦いが、決して楽で安全なものでは無かったということだ。
ルルが悠達のため、命懸けの戦いをしてくれた証拠であった。
しかし彼女は、何事も無かったかのように表情を緩める。
「任務ですので。万が一、第二界層に落ちた際には私が先立って救援に向かうことになっていました」
素っ気なさすら感じる内容とは裏腹に、その声色は優しく穏やかな響きであった。
ふと、その美貌に稚気がよぎる。唇に指を当て、悪戯っぽく微笑みながら、
「……ユウ様に死なれてしまうと私が寂しくて悲しい、という理由もありますが」
「あ、うっ……」
心の敏感な部分をちろっと舐められるような、不思議な声色であった。
「ず、ずるいです、そんな言い方……」
「あら、申し訳ありません。私、小さい頃から人を喜ばせるための仕事をしていたもので」
口元に手を当て、とぼけた仕草で微笑むルル。何気ない動作ですら、妙に魅力的であった。
一体、何の仕事をしていたのだろう。彼女の素性について好奇心が湧くが、それは後回しである。
ルルは、悠の再生が終わるまで周囲を警戒するつもりのようだ。
だが悠は、自らの希望をルルに告げる。
「あの……ルルさん。僕を置いて、逃げた皆を今すぐ助けに行ってもらえませんか?」
「……まだユウ様は動くことができないように見えます。魔族に発見されれば一たまりもありません」
「そろそろ、少しは動けるようになるんで……お願いします。朱音が……皆が、危ない……」
「ユウ様……ご自分のお命より、ご学友の命の方を優先されるのですか?」
ルルの表情が翳った。琥珀色の瞳に、切なげな色がよぎる。
悲しんでいるような、哀れんでいるような、自分が何か悪いことをしてしまったような気分になる顔だった。
悠は、いたたまれない気持ちになりながらも、言葉を続ける。
「そうじゃないと、僕が来た意味が無いんです……でないと――」
――死んだみんなに、顔向けができない。
その言葉を、ルルの鋭い声が遮った。
「お待ちください」
彼女の美貌が、深刻な相を帯びる。
その切迫した声に悠は言葉を飲み込み、ルルの様子を見守っていた。
彼女は強張った表情で、ある一方を見つめ、
「――……!?」
顔色を、青ざめさせた。
同時に、悠の身を違和感が襲う。
(……地震?)
それは断続的に響く地面の震動だ。まるで、足音のような。
そして、何かが砕けるような音も遠くから聞こえてくる。
次第に、音は大きくなっていた。
何かが、近付いてくる。
それも、物凄いスピードで――
「――失礼を!」
「がぅっ!?」
腹部に、重い衝撃。
ルルの足先が、悠の腹にめり込んでいた。
彼女に、蹴られた。
何故、と問う暇はない。
魔道で強化されたルルの脚力は凄まじく、華奢な悠の身体はサッカーボールのように蹴飛ばされ、地面を転がる。
回る視界の中に映るのは、
(そんな……!)
魔竜。それも、極めて大型の。
先の2体の倍以上の重量はあろうかという巨大な異形の姿だった。
先ほどまで悠とルルのいた空間を、木々を跳ね砕きながら蹂躙する。
ルルに蹴飛ばされなければ、蹴りがあと一瞬でも遅ければ、悠は確実に肉片と化して散らばっていただろう。
そしてルルは、
「――っ!」
魔竜の突撃を、すんでのところで回避していた。
その身に風を纏い、彼女はそれに乗るようにして人間離れした機動力を発揮している。
超動体視力により引き伸ばされた刹那の景色の中、悠はルルの無事な姿に安堵して、
(……あ)
翻る、魔竜の巨躯。
木々を薙ぎ倒しながら、その尾が鞭のようにしなる。
体勢を崩したルルに、唸る竜尾が迫っていた。
朱音と共に打ち据えられた記憶が、背筋を凍らせる悪寒と共に蘇る。
ルルが悔しげに表情を歪めるのが見えた。
身を丸める彼女に、その何倍もの質量の重尾が――地面を転がる悠は、そこで彼女の姿を見失った。
「ル――」
再び視界を戻せば、全身に悪意を漲らせる魔竜の異形。
ルルの姿は、どこにも無かった。
遥か向こうへと跳ね飛ばされたのか、
原型を留めないほどに粉砕されたのか、
生きているのか死んでいるかも分からない。
間違い無いことは、ルルが悠を庇うような形であの竜尾の直撃を食らったという事実のみ。悠と朱音を戦闘不能に追い込んだ一撃を更に上回る威力であろう一撃を。
……生きているとは、悠には思えなかった。
総身を、途轍もない恐怖と絶望が侵食していく。
大魔竜の人貌が、悠を見下ろす。
その無数の貌は、先の魔竜とは比較にならないほどの醜悪な意思を宿し、けたけたと笑っていた。
人貌の幾つかが不快な引き攣った声で嗤いを上げ、
突如、その口が大きく開く。
「……!?」
いまだ立ち上がれずに地に伏す悠は、身を竦める。
……が、大魔竜は何か攻撃を仕掛けてくる気配は無かった。
代わりに、魔竜の口から、何かが転がり出てくる。
サッカーボール大の、やや歪つな球体。その表面は闇夜に紛れて良く見えなかった。
四つほどの球体は地面を転がり、
そのうちの一つが、悠の目の前に、
「あっ――」
その球体には、目があり、鼻があり、叫ぶように開いた口があり、
濁った眼差しが、悠を見つめていた。その表情は、ありったけの絶望に塗り潰されて硬直している。知っている顔だった。話したことのある顔だった。
「杉浦、君……」
悠は、愕然とその名を呟いた。
見渡せば他に3つ、クラスメートの顔が転がっていた。
いずれも、負の感情に歪みきった無残な表情を晒している。
「なん、でっ……」
悠は戦慄していた。
それは単に級友の無残な死体を見たからということでは無い。それをわざわざ口に入れて運び、悠に見せつけたという魔竜の残虐性と嗜虐性に対する恐怖を多分に含んでいる。
無数の哄笑が森に響く。
大魔竜のその姿は、明らかに悠を嬲り嘲笑っていた。ただ殺すだけであったそれまでの魔族とは次元の異なる悍ましさを、その悪意に宿している。
中位以上の魔族には、高い知能が備わっている個体が存在する。
それは間違いなく、醜悪で高度な知性の存在を窺わせる、悪夢の光景であった。
身を震わせる恐怖がある。
だが、それ以上に胸を焦がす感情があった。
それは先ほどの月島の非業の死の際にも感じた、未知の――あるいは忘れ去ったはずの感情だった。
「こ、の……!」
いまだ右足の再生は完了していない。
だが悠は、歯を食いしばり胸の燃える感情のままに震える膝で立ち上がる。
生み出した剣を杖のようにして魔竜を睨み上げ、
絶句した。
「……!?」
歌声が響く。
無数の人面が、一切に歌い出した。
それは、絶叫じみた狂気を帯びたものであったが、確かに一定の秩序を持った歌である。
竜の身に、見覚えのある気配が生じていた。
その気配は、
「魔道……!?」
それは、魔道の使い手の皆が、魔道の行使の際に纏っていた気配と良く似ていた。
つまり、これから起こることは――
悠の全身が、総毛立った。
(そうだった、中位魔族は魔道を……!)
魔道を扱うことが出来る。
あまりに圧倒的な巨躯と身体能力の衝撃に、それを失念していた。
魔竜の歌が、昂ぶっていく。
その巨躯が、赤く発光しているように見えた。
空間が、震えている――
まるで森全体が、魔竜の放つ剣呑極まりない兇気に恐れているようだ。
「あ……ぐっ……!」
これから何が起こるかは分からないが、悠に向けて何かが放たれるのだろう。
少しでも、一歩でも逃げなければ……!
しかし立ち上がるのが精一杯であった悠の身体は、そこから一歩すら動けなかった。
魔竜の歌が、最高潮の高まりを見せ――
「……!」
縋るような気持ちで、悠は障壁を生成し、
――魔竜の咆哮が、悠を飲み込んだ。




