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第13話 ―壬生 冬馬―

 そこは、闇夜に包まれた森であった。

 雑多に生い茂る樹木や雑草を照らす光はあまりに淡くて頼りなく、10mも先になれば完全な暗闇が広がっている。


「おーい! 誰か! 誰かいないかー!」


 大声を上げるが、反応は無い。 

 壬生冬馬みぶ とうまは、草木を踏み分けながら森を進んでいた。

 頭上には、生物の体内を思わせる異形の空。自らの正気を疑いたくなる悪夢の景観が広がっている。 


 壬生は苦々しく顔をしかめながら、後ろを振り向いた。


「……皆は大丈夫か?」


 そこにいるのは、壬生だけでは無い。

 何人ものクラスメートが後に続いている。

 その数、総勢12人。


「大丈夫だよ、冬馬」


 すぐ後ろを歩く世良綾花せら あやかが答えた。

 小学生の頃からの付き合いの幼馴染は気丈に微笑んではいるが、その顔は蒼白である。

 本好きの文学少女で運動はお世辞にも得意とは言えず、この足場の悪い森の中は相当に堪えることだろう。


「……ウチは疲れた。超だりー、休ませてよ壬生ぅー」


 柚木澪みずき みおが、大袈裟に声を上げる。

 彼女はちらりと綾花を一瞥し、それから壬生を見て小さく頷いた。

 柚木は軽薄そうな外見をしているが、見た目も性格も正反対の綾花と何故か仲が良い。身体の弱い綾花の様子にも、先ほどから良く気を配っていた。柚木の様子は、その言葉ほど疲れ果てたようには見えない。

 壬生は頷き返して、後ろのクラスメートにも聞こえるように声を張り上げる。


「……分かった、ちょっと休もうぜ」


 壬生の号令に、クラスメート達は消沈した様子で思い思いの場所に腰を下す。

 まだそれほど長い距離を歩いた訳ではないが、皆はかなり消耗しているように見えた。精神的なストレスに、肉体の疲労が引きずられているのだ。

 それも、この異常な状況のせいだろう。


(異世界……マジかよ……)


 壬生は、再び異形の空を見上げて胸中で呻く。

 自分一人であったなら夢だと思い込むことも出来たが、クラスメートまでとなると、尋常ならざる事態に巻き込まれたのだと受け入れるしか無かった。


 あのラウロと名乗った妙な男が語る、到底信じられないような話。

 その後、地震のような衝撃に見舞われた壬生は気付けば見知らぬ森の中にいた。周囲には数名のクラスメート。彼等を起こした壬生は、訳も分からず他のクラスメートを探しながら森の中を彷徨っていた。途中、同様の状態にあった幾人かと合流し、今もどこまで広がるかも分からない森を歩き続けている。


 声を出すのを止めてみれば、森は不気味なほどの静寂に包まれていた。

 幾つもの動物や虫が生きている森とは、こんなにも静かなものだったろうか。


「マジなんかね、あの話……」


 柚木が、崩れつつあるメイクに舌打ちしながら呟いた。


「なんかバケモノと戦えって話」


「分かんねぇよ。くそっ、本当に訳分からねぇ……!」


 パニックに陥りかけるクラスメートを宥めて何とかここまで来たが、壬生の心にも限界が近付きつつあった。


「……天罰、なのかな」


 樹木に背を預けて俯いていた綾花が、ぽつりと力無い呟きを漏らした。

 柚木が怪訝に眉を顰めて聞き返す。


「天罰って……どーいうことさ綾花」


「だって、わたし達は、彼に――」


「――待て」


 綾花の言葉を、壬生の強張った声が遮った。

 その強い口調に、綾花と柚木以外のクラスメートも何事かと顔を向ける。


「……何か、来る」


 闇に包まれた森の奥から、雑音が聞こえ来る。

 それは壬生達が草木の中を踏み進む際に立てた音に良く似ていて、しかし遥かに雑多で乱暴な音だ。

 それはだんだんと大きくなっており、“何か”が近付いて来ていることは明らかだ。


 そして、それが人間のものではないであろうことも。


 ――魔族。

 あの得体の知れない男が口にしていた名前を思い出す。


「皆、立て。何かやばいぞ」


 皆も既に異常を察したのだろう、壬生の言葉よりも早く立ち上がり、緊張した顔を向けている。


 音は真っ直ぐこちらに向かって来ているようだった。

 こちらに気付いているのか、あるいは偶然か――その音だけで判別することは壬生には不可能だ。


 どちらにしても、ここにいるのは拙いだろうと判断し、壬生は右方を示して、


「ここから動――」


 衝音。

 巻き上がる土埃。


 “何か”が、落下して来た。


「あ……?」


 壬生が何事かと目を向けると、そこに在るのは一つの球体。

 皆は、呆然と地面にめり込むそれを見ていた。


「……何よ、これ」

「ボールか……?」

「気持ちわるっ……」


 人ひとり分ほどの大きさの球体である。

 石膏像を思わせる無機質な質感の表面には、無数の紫色の線が不規則に走り、脈動していた。

 それはまるで生物の血管のようで――壬生の背筋に、ぞくりと悪寒が走る。


「皆! 離れろ!」


 球体から、腕が生えた。


 肘と手首、五本の指を備えた人間の腕。

 ただし、その大きさは人間の胴体すら掴めそうな、巨人の威容を誇っていた。


 それは一瞬のこと。生物の一部が生まれるに相応しき重々しさなど微塵も無い。

 水面から突き出るようにあっさりと人間の器官が生まれるその様は、あまりに現実味を欠いた光景である。

 多くの者が、思考を現実に追い付かせることが出来ないでいた。


「は……?」

「何?」


 皆が何かの反応をするより早く、

 異形の腕が、

 動き、

 伸び、

 蠢き、

 はしり、


「きゃあぁぁぁぁぁ!」


「綾花っ!?」


 綾花が、その腕に捉えられた。

 傍らにいた柚木が思わず手を伸ばすが、巨腕は綾花の細い体を高々と掲げる。

 まるで、見せつけるように。


「あっ――あぁぁあああああぁぁぁ!」


 悲鳴、そして骨が――人体が軋むゾッとする音が綾花の身体から上がる。

 人の壊れる音。死の階段を上る音だ。

 綾花の声が、次第に断末魔めいた悲壮さを帯びる。


「綾花ぁぁぁぁぁぁぁ!」


 我を失った壬生が、綾花を捉える異形の球体へと無我夢中で手を伸ばして――


(……え?)


 ――“道”が、在る。

 足を踏み出し、力が身体を駆け巡り、突き出した手の先の空間が歪み、そこに確かな存在感が、


「――――っ!」


 壬生の掌から放たれた空間の歪みは、そのまま異形の球体に直撃した。

 異形が吹き飛ぶ。その巨腕から綾花が解放され、地面に衝突する前に壬生が慌てて彼女を抱き止めた。

 驚くほど軽い。だが彼女の身体が軽くなった訳ではなく、自分の腕力が見違えて強くなっていることに壬生は気付く。


「なっ……何だ……?」


 呆然とする壬生、そしてクラスメート達の視線の先、半身を抉られた異形の球体は紫の塵となって消えていった。

 死んだ――のだと思う。

 自失も束の間、壬生は腕の中の綾花に悲痛な表情で呼びかけた。

 口の端から僅かに血が垂れている。内臓を痛めたのかもしれない。


「綾花! しっかりしろ!」


 綾花は薄く目を開ける。涙に滲んだ瞳に、幼馴染の男子が映る。


「……冬馬」


 苦しげだがはっきりとした声で、幼馴染の名を呼んだ。

 その表情は苦痛に顰められてはいるが、死相が見えるほどでは無いようだ。

 彼女は、僅かに壬生に微笑みかけた。「心配しないで」と言っているように見えた。


 壬生は、その様子に安堵の息を吐き、


「――壬生っ! 後ろぉっ!」


 柚木の絶叫じみた声。

 張り詰めた危急の声色に、壬生は即座に振り向いた。

 

「あ……」


 異形の球体が目前に迫り、


 避ける暇は無く、


 腕の中の綾花を庇うように抱き締めて歯を食いしばり、




 ――白い、疾風かぜ。 




「……え?」


 風が吹き抜けた――そう認識した次の瞬間。

 壬生の視界に映るのは、真っ二つとなる異形の球体。地面に転がり、紫の塵と帰す。

 そして、

 

「お前は……」


 少年が立っていた。

 白髪頭の、女の子のように小柄で華奢な少年だ。

 彼を男性と認識できたのも、彼が見知った顔だからである。


「神護、か……?」


 見慣れない黒い衣服に身を包み、その手には芸術品めいた一振りの剣が握られている。

 先ほどの吹き抜けた風は、駆ける彼が起こしたものなのかもしれない。

 だとするならば、いったいどれ程のスピードで走って来たのか。それは果たして人間に出すことが可能なスピードなのだろうか。


 神護悠。

 その容姿と……学校での境遇。

 二重の意味で壬生には忘れられない存在である少年がそこにいた。


「壬生君……」


 猛烈な後ろめたさと恐怖が壬生の胸中を襲った。

 神護の手に握られているのは、あの球体の怪物を一太刀で葬ったと思しき剣である。壬生達の身体も、容易く両断できるだろう。

 果たして彼は、壬生達のことをどう思っているだろうか。

 粕谷達の苛めを見過ごしていた、自分達のことを――


「……皆も、無事で良かったよ」


 振り向く悠は、柔らかな容貌に安堵の笑みを浮かべていた。

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