第12話 ―夜空―
「はぁー……」
メドレアの夜景に、悠の疲労混じりのため息が溶けていく。
そこは、魔道省の施設の屋上である。テニスコート程度の広さを、胸ほどの高さの塀が囲っていた。
悠はその塀に身を預け、メドレアの市街を眺めていた。さして高所という訳でもないが、それでもメドレアの市街を一望することができる。
見下ろせば、夜の帳が落ちた街に種々の人の営みの光が灯り、漆黒に宝石のような煌めきを彩っていた。
悠は夜景を眺めるのが好きだった。多くの人々の営みを感じられるこの光景は、いつも心地良い安心感を与えてくれるものだ。
くたびれた身体に安らぎが染み渡るのを感じた。
朱音は今、風呂場で汗を流しており、悠はルルの許しを得て施設の屋上に上がっている。
「明日、か……」
明日になれば、魔界に赴いてあの異形の怪物達と戦うことになる。
しかも今度は、40人近いクラスメートを守りながら、だ。
戦いの難度は比較にならないだろう。
あの“剣”から得られる圧倒的な力をもってすれば、あの蜘蛛程度の相手は怖れるに足りないはずである。
だが、ルルが語るにはあの魔族は下位魔族でも比較的弱い個体であり、次の魔界化ではもっと強力な個体が現れる可能性も十分にあること。そして、明日発生する予定の魔界化の規模は、想定外の事態であった先日の比ではないだろうということだった。より大量の魔族が出現することになる。
油断は出来ないだろう。
「……クラスの皆は、どう思うかな」
クラスの中で、まともに言葉を交わしたことがあるのは朱音と粕谷ぐらいだ。他のクラスメートとは、会話らしい会話などしたこともない。
悠と関わろうとすれば、あの粕谷に目を付けられる可能性が大なのだから当然ではあるのだけど。
クラスの皆は、悠のことをどう思っているのだろうか。
弱い奴、情けない奴だと思っているかもしれない。
せいぜいが哀れな奴、可愛そうぐらいの印象だろう。
助けに来た悠を見て、どう思うだろうか。
少しは、自分のことを――
「……ほんと夜景好きよね、あんた」
突如として聞こえる、明瞭な少女の声。
振り返ると、むっつりとした顔で立つ一人の少女がいた。
風呂上りの肌は、わずかに上気している。
「朱音さん……」
彼女はそのまま悠の隣に立つと、悠と同じようにメドレアの夜景を見下ろす。
風になびく髪を押さえながら、彼女はぽつりと悠に語りかけた。
「明日ね」
「……うん、明日だね」
あのさ、と朱音は前置いて、
「本当に明日、戦いに出る気なの?」
「え……? だって、そのために今日も訓練したんだし……」
今更の問いである。
既に悠はその意思を表明しており、そのための準備も進んでいる。ルルが諸々の手続きのために忙しなく動いてくれていた。
朱音は当惑する悠を一瞥し、少し躊躇うような口調で、
「クラスの中に……す、好きな娘でもいるの?」
「はっ?」
「だ、だからっ、明日転移してくるクラスメートの中に気になる娘でもいるのかって聞いてるのよっ」
「えっ? あっ、い、いないよ?」
いきなりの突拍子もない内容に動揺し、悠の返事は上擦った。
クラスの女子の中で悠が一番好意を抱いている相手は間違いなく朱音であるが、それを言うと怒られそうなので口にはしない。
「じゃあ、友達は?」
「……朱音さんだって、分かってるじゃないか」
返す悠の言葉は、少しいじけた声だった。
あの粕谷京介に睨まれた自分が、彼に支配されている学校で友達など出来るはずもない。
朱音は、悠の言葉を吟味するように瞑目し、
「それなら、あんたがクラスの連中を、命賭けで助けなきゃいけない理由なんて無いじゃない」
「理由って……だって、助けに行かないと誰か死ぬかもしれないじゃないか」
誰かを助けるのに、理由などいるのだろうか。
善いことをするのだから、それでいいではないかと悠は思う。
それに、“みんな”のためにも自分はそうしなければならないのだ。
「あのね、悠」
いつの間にか朱音は身を起こし、悠を真っ直ぐに見つめていた。
その表情は切なげで、痛ましい。
唇が紡ぐ声は、訴えかけるような切実な響きを帯びていた。
「あんた、あの森で酷い目に遭ったわよね。また、あんなことになるかもしれないのよ?」
「……そうだね」
腹や胸に風穴が空いたのは、いつ以来だったろう。
あの研究所での実験で悠の身体が受けた、およそあらゆる人体の破壊の中ではマシな部類ではあるのだけど。
しかし客観的に見て、「酷い目」なのは間違いない。自分で良かったと心から思う。
「でも、今度はずっと強くなってるし、きっと大丈夫だよ」
「ルルが言ってたじゃない。あんたのその力、きっとまだ不安定だって」
「それは……」
ルルが言うには、悠の魔道の力は不安定なのだという。あの“剣”は強力な武器であるが、それ故に未熟な悠では扱いきれない可能性があると。
故に、くれぐれも過信しないように、とはルルから何度も言われていたことである。
現にあの森でも突如として剣が消失し、身体能力も弱体化して窮地に陥った。ルルの助けがなければ、どうなっていたことか。
「そのへんも、ちゃんと考えてる。心配しなくても大丈夫だよ、朱音さん」
悠は胸元を拳で叩き、男らしく自信をアピールした。
だが、少女のような細腕と薄い胸板で行ったその動作にどれほどの男らしさがあったのか、自身でも怪しいところである。
「……分かった。それはもういいわ」
朱音の嘆息は、いかなる感想によるものだったろうか。彼女はしばらくこちらを黙って見つめ、何かに悩むように眉根を寄せていた。悠がきょとんと見つめ返していると、形の良い唇が躊躇いがちに開く。
「……あのね、悠。話が変わるようだけど、ずっと言いそびれたことがあるの」
「ん、なに?」
「その、ね……」
そこから先の言葉が続かない。
顏を俯け、少し上目遣い気味に悠を見る。そして、意を決したように赤らんだ顔を悠に向け、
「ありがとう――あと、ごめんなさい」
深々と頭を下げた。
「へっ?」
突然のお礼と謝罪。 悠は、間抜けな声を漏らす。
呆然とする悠に、朱音は紅潮した頬のまま、まくし立てるように言葉を続けた。
「あの森でのことよ。庇ってくれて、ありがとう。あたしはあの時、怖くて動けなかったもの。あんたがいなかったら、絶対に死んでた。それに、悠があんな目に遭ったのも、あたしのせいだし……本当に、ごめん」
「あ、朱音さん……」
思わぬ殊勝な態度に、悠は面食らった。
顔を上げた朱音は、気恥ずかしそうに目を逸らしながら自嘲気味に、
「本当はもっと早く言うべきだったんだけど……あたし、こんな性格だから……」
もじもじと、歯切れの悪い言葉を紡ぐ朱音の姿は新鮮であった。
やがて朱音は、子猫みたいな呻きを漏らして黙り込んでしまう。
とても女の子らしく可愛い姿であったが、日頃の朱音を知る悠には戸惑いの方が大きかった。
何か気の利いた言葉を返したいと思ったが、対人関係に乏しい悠では都合良く浮かぶ訳がない。あれこれ悩んでいると、それより先に朱音が口を開いた。
「あの、訓練の時のことだけど」
「ん?」
「本当にあんな戦い方するつもりなの?」
「あんなって……?」
首を傾げる悠を見て、朱音の美貌に険が宿る。語気が荒れ始めた。
「何回“死んだ”と思ってるのよ……!」
「……っ」
「あたしやクラスの連中のこと、何回庇って“死んだ”のよ!」
そこでようやく、悠は朱音の言いたいことに思い至った。
模擬戦闘では、悠たちは何体もの魔族と戦わせられた。慣れてくれば、今度は護衛対象も交えての戦闘となった。悠と朱音は幾度も不覚を取り致命傷を負ったとルルに判定され“死亡”しながらも、あの異形の怪物との戦い方を覚えていったのだ。
悠の“死亡”回数は、朱音を大きく上回っていた。何回かは、攻撃を受けた場所を考えれば超再生でも死亡を免れなかった可能性が高い。
その主な原因は、事あるごとに朱音や護衛対象の窮地を身を挺して庇ったからである。悠の瞬間記憶能力をもってすら、すぐには回数が出てこないほどにだ。
ルルからも、険しい顔で注意を受けていた部分であった。
「悠が筋金入りのお人好しなのは分かったけど、いくら何でも度が過ぎてるわ。あんたの好きな漫画やアニメのヒーローなら奇跡が起きて助かるでしょうけどね。あんたは違うの分かってるでしょ? あんたのやり方、まるで……その、」
朱音は言葉を切り、どこか苦しげな声で、
「死んでもいいって、思ってるみたいで……」
「――――」
言葉に詰まった。
朱音の言葉は、正確とは言い難い。だが、それでも悠の死生観に確かに触れていた。
心臓を鷲掴みにされたような心地だった。自分がいま呼吸をしているかどうかすら分からなくなる。
無数の死者の顔が、脳裏をよぎる。
その沈黙を、朱音は返事と受け取ったようだった。
「…………そう」
朱音が大きく深く息を吐いた。
震える吐息。胸中の感情ごと吐き出すようなそれは、朱音が大きく感情を揺らした時、それを抑えるためにしている行為である。
彼女の父である正人も、似たような仕草を見せることがあった。
「クラスの連中を助けに行くって言った時、あんたどんな顔してたか覚えてる?」
「……どんな?」
「……笑ってたわよ、あんた。嬉しそうに。あの時、何を考えていたの?」
「それ、は……」
言われてみれば、そんな気がした。確かにあの時、悠の胸は高鳴っていた。気分が昂揚していた。
何故、と問われればその理由に心当たりもある。
何と答えようかと逡巡しながら、悠は頭に浮かんだ別の問いを口にしていた。
「その、質問で返すようで悪いんだけどさ、どうして……そんなに心配してくれるの?」
彼女は、悠の身を案じてくれている。悠が戦いに行ったら、死んでしまうのではないかと真剣に心配しているのだ。それ自体はとても嬉しい。胸に染み渡る、心地よい温かさがあった。
朱音がそこまで親身でいてくれるとは思わなかった。
彼女がいつも語る父との義理で、ここまでしてくれるものだろうか。
「……あんたのことを、お父さんから――」
そこまで言って、朱音は言葉を切った。
そして、噛み噛みの震え声で、
「とと、ともらっ……友達、だからよ」
「え……?」
悠の内心でいえば、朱音のことを友達だと思っている。
だがそれは悠の一方的な認識であり、朱音の方から、「友達」という言葉が出てくるとは考えもしていなかった。
「な、何よ……その顔」
当惑の視線を向ける悠に、朱音は明らかに照れた様子で狼狽する。
「あ、い、いや……朱音さんって、あんまりそういうのいらない人なのかなって思ってたから……その、学校でも……」
悠の知る限りでは、朱音が友達と会ったり遊んだりしたことは無いはずである。中学生時代には、有名な不良グループを一人で叩き潰したという噂も立っている彼女に近付こうという者も、あまりいなかったのではないだろうか。
「確かにあたしは友達いな――す、少ないけど!」
朱音は、悠の言葉に心外だと言わんばかりに不満げに鼻を鳴らした。
「別に、あたしだって友達ほしくない訳じゃないのよ。ただ、色々巡り合わせが悪かったというか……まあ、あたしの自業自得もあるんだけど……本当は、ずっと…………あぁー、もうっ!」
朱音は、びしっと悠の鼻先に人差し指を突き付けて、上擦った声を上げる。
「あんたは、あたしのことどう思ってるのよ!」
悠は気圧されながらも、率直に本心を告げた。
「好きだよ?」
「ふぇっ!?」
朱音が素っ頓狂な声を上げ、ぴくんと身を震わせた。
「僕も、友達だと思ってるよ。最初に会った日から、ずっと。朱音さんがいなかったら、すごく寂しかったと思う」
「え……ああ……そう」
悠の言葉と共に、朱音の顔には理解と安堵、そして落胆めいた感情が浮かぶ。
複雑な表情を浮かべながら、朱音はそれらの感情を吐き出すように深々とため息を吐いた。
そして照れ臭そうに左手で口元を隠し、顔を背けながら、
「……ん」
と、右手を差し出してきた。
改めてこれからよろしく、とそんなところだろうか。
悠は微笑み、その手を握り返して握手する。
その手には、朱音が幼い頃から研鑽を続けて来た武術の成果が刻まれている。ところどころ固くなっているその手は、一般的な女の子の手としてイメージされている柔らかなものとは違うのだろう。だけど、悠はそんな朱音の手が好きだった。そのひたむきな努力の手が。
「……っ」
朱音が、ぎゅっと悠の手を握り締めた。彼女の手の暖かさが、悠の掌に伝わる。
(友達、か)
悠の朱音への友情は、ずっと一方通行であると思っていた。
だが、朱音も悠に情を寄せてくれていた。
本当の意味で友達になれた。
そんな想いが胸中に湧き――
「ちょっ……!?」
朱音が狼狽えた。
一体どうしたのだろうか、と朱音が目を向けている自分の顔に手を伸ばすと、
頬に、濡れた感触があった。
「あれ……?」
目元が熱い、朱音の姿がぼやける。
その熱は目から頬を伝い、顎から雫となって床に落ちる。
そこでようやく、悠は自分が涙を流していることに気付いた。
「なっ……何よ!? やっぱり、その……嫌だったの!?」
「ち、違うよっ……これは、その……」
どうして、自分は泣いているのだろうか。
困った。15歳にもなって人前で、それも女の子の前で泣くだなんて男らしくない、格好悪いことこの上無い。
気持ち悪いと思われるかもしれない。駄目だ、止めなきゃ。
とは思っていても、それはまるで胸のうちから溢れる洪水のようで、もともと涙もろい悠にはどうにもならなかった。
溢れ出る、この感情は――
「嬉しくて、さ」
そう、嬉しかった。
友達ができたことが嬉しかったのだ。
悠は、嗚咽混じりの声で、朱音に胸中を明かす。
「僕……“病院”で知ってた子は、みんな死んじゃって……」
あの研究所で、悠は特別な存在であった。
悠が特別であると広まるにつれ、次第に実験体の子供達の中で悠は孤立していった。
最後の5年ほどは、悠は多くの子供達にとって研究者達と同じ憎悪の対象ですらあった。お前のせいで友達が死んだのだと言われたこともある。お前なんて生まれて来なければ良かったと言われたこともある。
ある研究者の女性が優しくしてくれなければ、果たして孤独に耐えられただろうか。
「その……ずっと夢だったんだ。“病院”の外に出て、友達を作るのが」
――友達が、欲しい。
それが、あの地獄のような日々で悠の抱いた夢だった。
そして学校とは、悠が抱いていた友達と過ごす日々の象徴のような場所である。
その夢が今、叶ったのだ。
「でも、いいのかな……」
「何がよ」
「僕なんかに、こんな資格があるのかなって」
「資格って……どんだけ大袈裟なのよ……」
「はは……ごめん、気持ち悪いよね」
「そ、そこまで言ってないけどっ」
感極まって涙をぽろぽろこぼす悠に、朱音は照れながら困っていた。もじもじと身をよじらせ、やがて大きなため息をつく。
「まったく……ほら、じっとして」
朱音がハンカチを取り出して、悠の涙を拭っていく。優しく繊細な指使いに、悠は身を任せながらぽつりと呟いた。
「……ごめんね」
「いいわよ、これぐらい別に……ん、はい、終わり」
「うん……ありがと」
「どーいたしまして……はぁ、何かどっと疲れたわ」
朱音は手すりに身を預けてぺたんと座り込み、ぺしぺしと傍らの床を叩く。
誘われるままに悠も腰を下ろし、二人並んで空を見上げた。
巨大な満月が少年と少女を見下ろしている。
その空の下、悠は友達へと語りかけた。
「あのさ、朱音さん。さっきの話――僕が、クラスの皆を助けに行く話とか、僕が笑ってたって話とか、僕が……死んでもいいと思ってるように見えるって話だけど」
朱音の表情が変わる。すっと細まる目は、真剣そのものだ。
「何よ、理由を話す気になったの?」
「うん……正人さんから話しちゃダメって言われてる部分もあるから、全部は話せないんだけどさ。僕が難病で、生まれた時からずっと政府の病院で暮らしてたことは知ってるよね?」
朱音は、こくりと頷いた。
それは悠の素性を説明する上で、朱音の父である正人が考えてくれた「設定」である。
神護悠は、正人の知人夫婦の息子であり、両親は共に亡くなっている。悠は生まれた時から難病を患っており入院させられていた。外に出ることは一切許されず15年を過ごし、最近になって奇跡的に病気が完治し、正人が悠を引き取った。
対外的には、悠の身の上はそう説明されていた。
「結局、あの“病院”で生き残ったのは僕だけだったんだ。他の子供は、みんな死んじゃった」
異界の風が、二人を撫でる。地球のそれと何ら変わらぬ、解放感を伴う爽やかな涼しさ。
“みんな”が、生涯味わうことが出来なかった心地良さだ。
「僕が生き残れたのは、一緒の“病院”に入院してたみんなのおかげでもあるんだ。僕を生かすために、ほかのみんなは実験体にされたんだよ」
――人間を改造し、神を作る。
そんな狂的な思想と共に、あの研究所ははじまった。
その研究の副産物として期待された不老不死を期待した富裕層や権力者の出資や協力もあり、あの研究所は20年もの間、狂った人体実験を繰り返した。その対象は、すべて子供である。
あの機関の狂気の実験に晒された子供たちは、国内外から非合法に集められた。その数、合計で4751人。生き残りは悠一人だけであり、4750人の命が妄執のために犠牲になった。その多くが、地獄のような日々の中で命を落としたのだ。
そして、彼らを犠牲にした研究のデータを用いた成果として、悠がここにいる。
仲が良かった子もいる。顔も知らない子もいる。悠を嫌っていた子もいた。誰一人として、空の青さすら知らずにその短い生涯を終えていった。
みんなの命は、理想の素体であった悠を完成させるための礎にされたのだ。
「僕がいなければ、もっとたくさんの子が生きられたかもしれない。そんな僕が、友達を作ったりして幸せになっていいのかな、そんな資格あるのかな、なんて思うところがあってさ。まあ、未練がましく学校通ったりなんてしてたんだけど」
神護悠の存在がなければ、あの狂人たちの実験はもっと滞っていたはずだ。
悠の足元には彼らの、4750人の屍が埋まっている。その上に、自分は立っているのだ。自分の命は、彼らに生かされた命であると、悠は思っている。
「別に朱音さんが言ってたように、死んでも構わないとか思ってる訳じゃないんだ」
それは、多くの犠牲を無為に帰す愚行だ。
「だけど僕の命は――人生は、僕一人のものじゃない。僕は、みんなの命に向き合って、報いる義務があると思う。そうしないと、僕は自分を許せないんだ」
サバイバーズ・ギルト――大事故や大災害の数少ない生存者などが抱くことがある生き残ってしまったことへの罪悪感が、悠の胸に渦巻く感情に最も近い概念であった。
加えて「自分がいなければみんなは死ななかったかもしれない」という想いが、悠のそれを更に複雑で深刻なものへと変質させている。
「今まではどうしたらいいか分からなかったけど、この世界に来て、あの力に目覚めて思ったんだ。自分に力があって、誰かを守れるなら……それのために僕の命を使いたい。そうしたら、みんなの命も無駄じゃなかったんじゃないかって思えるんだ。朱音さんが、さっきヒーローって言ったけど……そうだね、僕は英雄になりたいんだと思う。それぐらいじゃないと、みんなの命に報いることができない気がするよ」
同じ実験体だった、名も無き少女が口にした言葉が忘れられなかった。
――わたし達、何のために生まれてきたのかな?
彼女と再会したのはその数日後。彼女は人の形をしていなかった。
そんな数々の犠牲の結果である自身の人生に、悠は少しでも価値と意味を持たせたかった。
誰かを救うことが出来たのだと。誰かを幸せに出来たのだと。
……君達の命に、かけがえのない意味があったのだと言ってあげたかった。
自由を得てから、漠然とした思いはずっと胸のうちにあったのだ。
悠は、創作物が好きである。小説や漫画、映画やドラマにアニメ、ゲームも――紙や画面の向こうで、誰か護るために戦う英雄達の姿があったから。
時には己の命の危険すら厭わずに他者を守る彼らに、悠は憧れていた。
あんな力があれば、あんな風に生きられれば、きっと自分の抱くこの想いを果たすことができると思っていた。
今、悠には力がある。
あの怪物と戦い、誰かを護る力。英雄に、なれるかもしれない力が。
「危ないのは分かってるけどさ……でも、死ぬのを怖がって誰かを見捨てたら、僕はみんなに二度と顔向けができなくなる気がするんだ」
死をも覚悟する自己犠牲の英雄が、悠の理想に最も近い姿だった。
善人ぶるつもりは無い。悠の胸を突き動かすのは、正義や善の心ではなく、犠牲になった子供たちへの罪悪感や義務感を背景としたエゴである。
だが、そうしなければ、悠は自分を肯定できない。自分は幸福になっていいのだと、胸を張ることができないのだ。
「だから、ごめんね朱音さん。僕は、行くよ」
言葉にすることで、決意はよりいっそう強固になった。
その意志を宿した瞳を、悠は朱音に真っ直ぐ向ける。
朱音は、何かに耐えているような表情で、悠を見つめていた。
やがて朱音は、深く、深く、震える吐息を吐いて――いつものむっつりとした顔に戻る。
「馬っ鹿みたい……粕谷達の苛めにはヘラヘラ情けない癖して偉そうに」
「そ……それはまた別問題というか……」
目を逸らし、汗を頬に一筋たらす悠。
「あたしは……悠は思い上がってると思う。あんたがやろうとしていることは無茶よ、絶対に荷が重いわ」
「朱音さん。でも、それでも僕は、」
朱音は悠の言葉を手で制して言葉を続けた。
「あんたの意思が固いっていうのは分かったわよ。そんな重い話されたら、あたしだって軽々しく止めろなんて言えない……顔に似合わず頑固で……面倒臭くて、しょうがない奴ね、あんた」
返す言葉も無い。肩を落として黙り込む悠に朱音は、
「しょうがないから……」
ふっと、その表情が緩む。
「……あたしも一緒に行ってあげるわよ」
優しい表情だった。あの出会いの日を思い出す、柔らかな微笑。
悠は、僅かな自失の後、彼女の言葉の意味を理解して、
「だ、駄目だよっ! 危ないからぜったい駄目! それに急に言い出したってルルさんたちの方の準備が――」
「うっさい!」
取り乱す悠の鼻先に、朱音の指が突き付けられた。
悠はその迫力に言葉を飲み込み、続く朱音の言葉を聞く。
「あんたと一緒にするんじゃないわよ、あたしはあんたみたいに命を張るつもりも無いし、ヤバいと思ったら無理なんてしないわ!」
「で、でもぉ……」
呻く悠の胸倉を掴みあげ、顔を寄せて、
「ぐだぐだ言わない! あんたのことはお父さんから頼まれてるのよ! 何かあったらとんだ恥さらしだわ! だいたいねぇ、あの訓練で何度も死んだ癖に調子乗ってるんじゃ――」
「あ、朱音さん近い! 顔近い!」
「――あ」
朱音の美貌が、目の前にあった。
唇が触れ合いそうな至近距離。朱音の吐息が、悠の鼻先をくすぐっていく。
ごくり、と唾を飲み込んだのは、どちらだろうか。
朱音の瞳が、妙な揺らぎを見せている。
「う……あ……」
二人して、頬を赤くして押し黙った。
……何か、空気がおかしい気がする。妙に甘酸っぱく蕩けた空気。これは、友達同士で流れる空気なのだろうか?
下手なことを言ってはいけない気がする。身動きが取れない。
誰か、助けて欲しい――
「――ユウ様、アカネ様」
「ひゃぁぁぁっ!?」
心地良い夜に似合う、涼やかな女性の声。
朱音が素っ頓狂な悲鳴を上げて、悠の胸倉から手を離した。
声のした方へと振り向けば、見知った女性が立っている。
「ルルさん」
獣耳の娘は優雅に一礼し、しっとりと微笑んだ。
「お話し中のところ、申し訳ありません。そろそろ夜も更けてまいりました。明日のことを考えればそろそろお休みになった方が宜しいかと思います」
「あ、もうそんな時間ですか……行こうか、朱音さん」
「……そうね」
立ち上がりながら携帯電話の時刻を見れば、日付が変わりそうになっている。
明日に備えて十分な睡眠を取るためにも、いい加減にベッドに入った方がいいだろう。
ルルが朱音を見て、柔和な笑みに悪戯っぽい稚気をよぎらせた。
「アカネ様も、明日の戦いに赴くことを言い出せたようで良かったですね。準備は予定通り完了しておりますよ」
「えっ?」
準備? 予定通り?
朱音が戦いに行くことは今決めたのではなかったのだろうか。
そう思い悠が朱音に振り返ると、
「ちょ、ちょっと……!」
朱音は、あからさまに取り乱していた。
狼狽する彼女に、ルルがにっこりと微笑みながら、
「当日に突然アカネ様が同行するとなったら、ユウ様が驚かれてしまいますものね」
「何で言うのよぉ!?」
悲鳴じみた朱音の声に、ルルは笑みを崩さずぱたぱたと尻尾を振っている。そこはかとなく機嫌が良さそうだ。
「あら、これは申し訳ありません。私は先にお部屋に戻っておりますね」
空々しい謝罪と共に一礼し、ルルは颯爽と屋上を去って行った。
流れるような一連の動作は澱みなく、朱音は止めようと伸ばした手を虚空に彷徨わせたまま、その場に呻きながら固まっていた。
夜風が、慰めるように撫でていく。
「朱音さん、もしかして……」
「~~……!」
朱音は、ぷるぷると肩を震わせながら気まずそうに唸っていた。
つまり、メドレアに運ばれて目覚めたあの日には、既に魔界での戦いに参加すると言い出していたということだろうか。
確か悠が行くと言った時、彼女は知らないと突っぱねたはずだが……その後、やはり自分も行くと悠の知らない間に言い出した、ということになる。
そしてそれを、なかなか言い出せなかったということか。強気に拒否した手前、恥ずかしかったのかもしれない。
朱音が戦いに行くのは不本意であるが――悠の口元が、思わず緩む。
「か……勘違いするんじゃないわよ! 生き残るために、この魔道をもっと上手く使えるように経験積もうとしただけなんだから! ……何にやにやしてんのよぉ!」
「い、いやっ……してないよ? うん、してないしてない」
「思いっきりしてるわよ! まったく、もう……この世界に来てから調子狂いっぱなし……! ああ、そうそうついでに!」
朱音は両手を腰に当てて仁王立ち。
その真剣な眼差しに、悠はたじろぎながらも固唾を呑んで言葉を待った。
「いいこと、悠。あたしとあんたは、明日の戦いではパートナーよ。クラスの連中みたいにあんたが護る対象じゃないわ。上から目線で舐めた真似したら許さないわよ」
舐めた真似――というのは、悠が朱音を幾度も身を挺して庇ったことを言っているのだろう。
「で、でも――」
「――い・い・わ・ね?」
「……はい」
有無を言わさぬ物言いに、悠はしゅんと頷いた。
「よろしい。じゃあ、さっさと寝るわよ」
朱音は、ぷいと顔を背けて、ルルの後を追って足早に歩いていく。
その背から見える彼女の耳は、茹で上がったように真っ赤だった。




