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第16話 ―人獣・その9―

前話のあらすじ


ルルが復讐のために姿を消し、帝国にひそむ“人獣”に備える日々を送る悠たち。

そんな中、懸念していた粕谷京介とその取り巻きだった斉藤の関係を修復するため、悠は雨宮玲人に連れられて、エスタの働く娼館へと足を踏み入れる。

だが、それはエスタが“人獣”の一員であると疑う玲人の仕掛けた罠であった。

成功し、エスタを確保したか思われたが、乱入してきた何者かによってエスタはどこかに消えてしまうのだった。

 粕谷の奴隷エスタは、“人獣フェンリル”だった。

 それを玲人によって暴かれ、彼女は仲間と思しき何者かの手によって姿を消してしまった。

 あまりにも突然だった一連の事態に付いていなかった悠は、当然ながら玲人に説明を求める。


「……どういうこと?」


 その声は、少し険しい。怒っているのだ。珍しいことだった。

 玲人はそんな悠の様子に苦笑し、滔々と語る。


「ごめんね、悠。これが本命の目的だったんだよ。騙したことは悪かったと思ってる。言い訳になるけど、彼女に気取られる可能性を少しでも低くしたかったんだ」


 玲人が悠を娼館に誘ったのは、エスタの注意を引くためだった。

 人懐っこいようでその実はひどく警戒心の強かった彼女を油断させるため、いかにももっともらしいシチュエーションを用意したのだという。


「もちろん、有事に対応できる戦力は城内の方が充実してる。でも、だからこそ彼女は密かに気を張っていた。今回みたいに十郎さんの魔法ゼノスフィアで奇襲しても即座に対応されていただろうね。帝国の魔道封じも、対象の設定から発動までにはタイムラグがあるし、対象を絞って機能を使うのは結構なコストがかかるから、前もって気軽に使わせるだけの権限は俺には無い。彼女の能力次第では短時間で甚大な被害を引き起こす可能性もあったから。むしろ娼館ここの方が成功率は高いと踏んだんだ」


 玲人の背後で、朽木十郎が忌々しげに鼻を鳴らしている。

 彼の腕には、金属質の光沢をみせる腕輪が付けられていた。

 同じものが、玲人や悠の腕にも取り付けられている。


「俺たちには“これ”があるからね。異界兵が魔道を封じられていることは周知の事実だけど、“これ”の存在を知っているのは関係者だけ。だからエスタも、まさか異界兵だけで奇襲をかけてくるとは思っていなかったんじゃないかな」

  

 これは、レミルの協力で開発された魔道装置だ。異界兵にかけられている魔道封じを限定的・一時的にキャンセルし、魔道の行使を可能にする効果がある。

 帝都内で暴れるかもしれない“人獣”に対応するため、特級戦力と認められた異界兵に配られていたものだった。

 もっとも、神殻武装テスタメントを介して魔道と繋がることのできる悠にはさほど必要なものでもないのだが。


「正直、エスタが“人獣”だって100%の確信があったわけじゃなかったよ。でも、彼女には怪しい部分も多かったからね。だいたいおかしいと思わないかい? どうしてこんな時期に新しい奴隷を城のなかに入れることになったのかって。もしかして――ああ、これは今はどうでもいいことだよね。とにかく、そういうこと。エスタが悠に興味があったみたいだから、彼女の警戒を少しでも逸らすために君に同行をお願いしたんだ」


 そして玲人は、罰が悪そうに肩をすくめた。


「……けっきょく、俺があちらの戦力を甘く見積もってたせいで失敗という情けない結果に終わっちゃったけどね。失敗だよ、本当に情けない」


 それが、悠に語る事情のすべてだったようだ。

 何かを思考するより先に、ぽつりと一言が漏れる。


「……何だよそれ」


 悠の胸中を言い表すなら、その一言に尽きる。

 理解はした。だが納得はいかない。

 事情を知ったことで、胃液が煮えるような不快感があった。

 仲良くしていた相手に騙されていた。そのショックもある。

 だがそれ以上に――


娼館ここのことは考えなかったの!? 働いてる娼婦の人とか、お客さんとか、いっぱいいたんだよ!?」


 もし、エスタを捕まえ損ねて暴れられでもしたら、何も知らない娼婦や客が犠牲になっていたかもしれない。

 玲人の合理的な思考からは、彼らの存在への考慮はみじんも感じられなかった。

 無関係の人間を平気で巻き込むその行為こそが、悠をもっとも怒らせていた。


「これが、一番取り返しのつかない損害が出るリスクが小さいと判断したからね。こういう施設のおかげで、パニックが起きる可能性も抑えられそうだったし」


 幸いというべきか、娼館のなかではあまり騒ぎにはなってないようだ。

 部屋のなかで行われると想定していることがことなので、各部屋の防音性がとても高いこともあるのだろう。

 エスタの叫び声も、部屋の外には聞こえてはいなかったらしい。


「……なるほどね」


 だが、誰もこの異常を把握していなかったかといえば、そんなはずはない。こういう施設ゆえに、トラブルも起きやすいのだ。

 密室だからこそ、それを把握しなければならない責任ある立場の者がいる。


「そうかい、そういう訳かい」


「……マリーさん」


 いつから聞いていたのか、ドアを開け、入り口に背を預け腕組みしている女性がいた。

 この娼館の看板嬢であり店主を任されているマリー・カレットが、厳しい眼差しを向けてきている。

 カツカツと気の強そうな足音を立て、玲人の目の前に立つ。鬼気迫る形相で彼を睨みつけて、そして、次の瞬間――


「……っ」


 パァンと、音が響く。

 マリーが、玲人を頬を全力で張った音だ。

 彼は身じろぎせず、それを受け入れていた。予想し、覚悟していたようだ。


「ふざけんじゃないよ! しょせん娼婦だとでも思っていたかい!? この店で働いている子たちがどんな想いで身体を売っているのか知りもしない癖に!」


「……たまたまここが娼館だっただけで、職業を差別するような意図はなかったよ。あなたたちに手酷い無礼を働いたことは承知している。申し訳なかった」


 誠実な口調、真面目な顔で、深々と頭を下げる玲人。


「……!」

 

 だがマリーは、その表情をさらに険しくさせる。悔しげに、二の句がつげずにいた。

 彼女の気持ちは、悠にも理解できる。


 こうやって謝罪することすら、おそらくは玲人の予定通りなのだ。

 悪かったとは思っている。だが反省はしていない。

 同じ状況が揃えば、彼はまた同じことをして、そして同じように申し訳ないと思い謝罪するのだろう。

 そんな確信が、玲人の態度からは容易に感じられた。


 ――雨宮玲人は、怪物である。


 省吾の言葉の本当の意味を、この時になってようやく実感できた。

 物事の善悪や人の情を知りながら、合理的な結果のためなら仕方ないと躊躇いなく悪を為すその精神性。

 それは策士としては一種の理想形なのかもしれないが、悠には受け入れがたい在り方であった。


 彼を責め、言い募っても無駄である。この感情をぶつけても何も意味あるものは返ってこない。それを理解したマリーは、その後の玲人の賠償などについての話を不承不承の様子で聞いている。


「……玲人のことが理解できないか、神護」


 その最中、ぼそぼそとした声が、頭上から聞こえてくる。


「朽木先輩……」


 ひょろりとした痩躯。頬のこけた不健康そうな顔が、こちらを見下ろしている。 


「俺も理解はできん」


 玲人グループの主力である彼は、そんなことを言う。


「だが、俺はあいつを選んだ。雨宮玲子ではなく、玲人をな。そういう連中は、他にもいる。なかには命も平気で投げ出すような狂信者じみた奴もだ」


 その枯れた声からすれば意外なほどの饒舌。

 リーダーである玲人のことを語るゆえのことだろうか、声色にも熱のようなものが感じられた。


「玲人を否定するなとは言わん。だが口にする相手は選んだ方がいい。特に同じ第三位階の玖珂くがゆかりには気を付けておけ。あいつは玲人に完全にイカれてる」


 玖珂ゆかり。中学3年生の、おどおどとした気の弱そうな少女だ。

 人間不信をひどくこじらせた臆病さで知られ、悠も幾度かコンタクトを試みたがすべて失敗している。

 友人がいないというわけでもないようだが。


「……忠告、してくれてるんですか?」


 朽木は、陰気で人付き合いの悪い男として知られている。

 失礼なようだが、そんな先輩っぽいことをしてくれる人だとは思っていなかった。


「何故かは知らんが、あいつがお前のことを気に入っているからな。余計な諍いはこちらも望まん」


「……ありがとうございます」


 彼が、悠のことを気にっている。

 それは玲人の口ぶりや態度からも伝わってくることだった。

 だが、彼のような人間が、自分みたいな人間にどうして。

 姉である玲子が、悠のことをとても可愛がっているからだろうか。それとも、別の理由があるのだろうか。

 裏表のない純粋な好意である可能性を疑ってしまうことが、とても悲しかった。

 陰鬱とした気分のまま悶々としながら、悠は所在なさげに立ち尽くしていたのだった。






 その後、悠は当事者の一人としてマリーに深々と謝罪した。

 彼女は、悠は悪くないと言ってくれたが、そんなことで悠の気分はまったく晴れることはなかった。

 玲人には言いたいことがたくさんあったはずなのに、まともに言葉を交わす気分にもなれなかった。悠はその場で彼と別れ、ひとり帰路につく。

 鬱々とした悠の様子に心配そうにする朱音やティオ、伊織らに気遣われながら、悠の一日は無気力に終わることとなる。


 一方、エスタの主であった粕谷恭介は、散々な目に遭っていた。

 まさか自分の奴隷の正体が最悪の犯罪組織の一員などとは知らなかった粕谷は、“人獣”への関与を疑われ、帝国の治安部により取り調べを受ける羽目になっていたのだ。

 場合によっては拷問すらも行う、暗部に片足を突っ込んでいる集団である。その追及は厳しく、粕谷は忌々しげに舌打ちしながらも、知る限りをぶちまけた。

 ……ただ一点、彼女から受け取った妙な薬品を飲んだことを除いて、だが。


 そのたった一つの隠し事の存在を、プロである彼らは見抜いていたのだろうか。

 粕谷への疑いは晴れず、あわや牢屋に入れられることが決定するかに思われた、その時のこと。

 一人の男が、取り調べ室に現れ、飄々とした態度でこのように言った。


「申し訳ないが、彼は魔道省にとって重要な人材だ。機密の実験に付き合って貰っているので、解放してもらえないと困るのだがね。魔道省での身体検査結果でも異常は無かった。疑いも、そこまで濃いわけではないのだろう?」


 ラウロ・レッジオの強権により、彼の監察下という条件付きであるが、解放されることとなった。


「借りとは思わねえぞ」


「けっこう。もとより恩を売るつもりはないさ。ゆっくり休息を取って、明日に備えてくれたまえ」


 尊大に言い放つ粕谷に、ラウロは薄ら笑いで応える。

 悠々としたその態度は、まるで今回の事態を予想していたような不気味さがあった。

 粕谷はそのまま、自室へと戻る。鬱憤を晴らすべく、すぐさま部屋の家具に八つ当たりをはじめた。


「あの女、俺を騙しやがって……! くそっ、くそっ……!」


 そんな呪詛めいた言葉を呟く。

 あの愛らしく媚びた態度も、囁きかけた忠誠の言葉も、すべては嘘だったということか。

 粕谷京介の人生において、ここまで手酷く裏切られ、そしてその報復すらできなかったことなど生まれて初めてのことである。

 神護悠や藤堂朱音らに抱いている敵意、憎悪とは似て非なるドス黒い憤怒の念が、彼の形相を歪ませていた。


「“人獣フェンリル”ってことは、また出くわすかもしれねえってことだよなぁ……!」


 帝国で何かを起こそうとしているらしいという話は聞いている。

 そしてエスタは、その企みに加担していた可能性が高い。ならば、また現れることもあるだろう。


「あの女、ぶっ殺してやる……! 俺の、この力で……!」


 魔道を封じられているはずの彼の身から、剣呑な魔道の気配が滲み出る。

 それは、かつての彼とは比較にならないほどに禍々しく強靭な邪念によって形作られた、彼の魂。

 もう一人の、怪物であった。

たいへん、とてもたいへんお待たせしてしまいました。

諸々の用事がようやくひと段落し、その後に崩した体調も回復し、やっと執筆を再開することができました。

次話より5章後半です。少々の日常パートの後に、バトル展開に入っていきます。

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