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第15話 ―人獣・その8―

 娼館――女性が己の身体を売り物にする、大人の施設。

 悠には、ほとんど縁のない施設であった。


 せいぜいがティオを探しに来た時に近くを走り回ったぐらいだろうか。

 夜の歓楽街は、日中とは違った趣の活気にあふれている。

 雨宮玲人に連れられて、悠は建ち並ぶ娼館の一つに足を踏み入れていた。


「わー……ここが、そうなんだ……」


 興味がまったく無かったかと言われれば嘘になる。

 利用するつもりはなかったが、中はどうなっているんだろう程度の純粋な好奇心は持っていたのだ。

 観光などしている場合ではない。だが沸き立つ興味のままにキョロキョロと落ち着きのない悠であった。完全におのぼりさんである。


「うわ、あの人、ほとんど下着みたいな恰好だよ……」


「娼館だから」


 やはり、普通の店とはまるで違う雰囲気が漂っていた。

 カウンターとロビー、廊下の向こうには個室に繋がってると思しきたくさんのドア。

 しっとりとした音楽が奏でられ、淡く甘い香が焚かれている。

 入っただけで一つ大人になってしまったような、そんな気分である。


 ここはブリス商会の管理している娼館であり、やや割高ではあるが値段以上の信頼感を客に提供することで評判らしい。

 娼婦たちに対する健康管理や退職後のフォローも充実しており、彼女たちも高いモチベーションをもって仕事に臨んでいるのだという。


 店内には10人ばかりの娼婦の姿が見える。

 帝国人と思しき女性もいたが、森人エルフ牛人ミノタウルスといった亜人の姿が半分ほどを占めていた。

 こちらに気付くと、彼女たちは愛想のいい営業スマイルを向けて来ている。

 悠はそのたびにぺこぺこと会釈していた。


「……亜人の人が多いんだね」


「子供ができ辛い体質っていうのは、こういう仕事の場合は都合がいいだろうからね。皮肉な話だとは思うけど」


 玲人はといえば、特に気負った様子もない。

 湖のように穏やかな、しかし不思議な存在感のある佇まいのまま、小動物めいた悠の姿を微笑んで見つめていた。

 彼はカウンターを指さして、口を開く。


「そろそろ俺は行くよ。あっちのカウンターで、君の名前を出して予約を取っていることを言ってくれれば大丈夫だから」


「う、うん……」 

 

 ここからは、玲人とはしばらくは別行動である。

 悠も玲人も、別に性欲を満たすために女性を買いに来た訳では無い。

 ここで働いているとある人物と悠に話をさせるためであると、道すがら聞かされていたのだ。

 玲人は玲人で、別件の用事があるらしい。


「じゃあ、頑張って」


「うん、頑張る」


 ぎゅっとこぶしを握り締める悠。

 玲人は微笑を浮かべたまま、軽く手を振って店を後にしていった。

 ぱたぱた手を降って玲人を見送っていた悠。その背中にエネルギッシュな女性の声がかかる。


「ユウ!」


 振り返ると、見知った顔がいた。


「マリーさん!」


 赤い髪の、愛嬌のある顔立ちの女性が駆け寄ってくる。

 マリー・カレット。

 聖女ファースティ来訪の祭りの時、一緒の店で働いた娼婦の女性だ。

 あの時は愛らしさ重視のウェイトレス姿であったが、今は露出の強いドレス姿であった。

 マリーは悪戯っぽい笑みを悠に向けてくる。


「どうしたのさ、あたしを買いに来たの?」


「ち、違いますよ……!」


 顔を赤くして首を振る悠に、マリーはころころと楽しげに笑う。

 女性としては色々と辛い仕事をしているはずだが、そんな陰を感じさせない強かさのある姿であった。


「どの道、今日は無理なんだけどね。お得意様の予約が入ってるから……っていうか、ユウのお目当てもほんとは知ってるよ」


 そこで、マリーは複雑な表情を浮かべる。

 祭りの時、“彼女”の話を悠に振ってきたのは他ならぬマリーだ。

 何か、思うところがあるのだろうか。

 そう考えていると、


「ユウ様、見ーけっ!」


 元気のよい、甘ったるい声。

 振り向けば、ピンク色の髪の小柄な少女が、ぴょんぴょんと自らの存在をアピールしていた。

 身長の割に豊満な身体のラインがうっすらと透けて見える、薄手のドレスを着ている。

 頭のてっぺんでは、兎の耳が嬉しそうにぴこぴこ動いていた。


「……エスタ」


「はーい、エスタですよー!」


 粕谷京介の奴隷である、兎人ワーラビットの少女だ。

 彼の命令で、娼婦として働いて金を稼がされている。

 そんな非人道的な仕打ちを受けているとはとても思えない、明るく楽しげな姿だった。


 価値観は人それぞれだ。エスタにとっては、別に何ということもないことなのかもしれない。だが、そうではなかった娘もいる。

 とても嫌な出来事を思い出し、わずかな渋面が浮かぶ。


「何かご気分が優れませんか、ユウ様?」


「ああ、いや……何でもないよ」


 もう終わったことだ。今の彼女は、未来に向けて進んでいる。

 悠はかぶりを振り、エスタに向けて微笑みかけた。


「こんばんわ、エスタ」


「はい、こんわばんわです、ユウ様! こうして二人でお話しするのってはじめてですよねー」


「うん、そうだね」


「えへへー、今日はよろしくお願いしますね!」


 玲人が悠と合わせようとしたのは、エスタである。

 確かに、悠と粕谷の関係を思えば、落ち着いて彼女と話す場所などここしかないのだろう。


「う、うん……よろしく」


 粕谷の顔がちらつく。

 緊張感のようなものがどうしても拭えず、会話がぎこちなくなってしまっていた。

 二人きりでゆっくり世間話でもして、解さなければならないかもしれない。


「まだ受け付けしてないから、ちょっと待っててね」


「はーい」


 可愛らしい返事するエスタに背を向け、カウンターへと向かう。


「ね、ユウ」


「マリーさん?」


 その肩を、マリーがぽんと叩いた。

 耳元に艶めいた唇を近付けて、


「何だか事情がよく分からないけど……あの娘の話、よく聞いてあげてね。もし分かったことがあったら、あたしにも教えてくれると嬉しい。話せたらでいいからさ」


「……分かりました」


 マリーは、どうもエスタのことを気にかけているようだ。

 それも、あまりいい意味ではないように思える。

 自分よりよっぽど人生経験豊富な彼女だから分かる違和感のようなものがあるのだろうか。 

 何だかさらに緊張してきた。

 こわばった表情になった悠に向け、マリーはにかっと唇を吊り上げて、


「逆に骨抜きにされないように気を付けなよー? あの娘、プロのあたしから見てもとんでもないスキルあるよ?」


「だからしませんってば!」


 顔を真っ赤にして言い返す悠。

 マリーは朗らかに笑い、悠の背中のバンバンと叩いて去っていく。

 少しだけ、緊張がほぐれた気がした。






 どうして、このようなことになったのか。

 それは、玲人が持ちかけられたある話に端を発するようだった。


「斉藤和樹、知ってるよね?」


「斉藤君? うん、クラスメートだよ」


 娼館へと向かう道すがら、玲人が真意を明かしてくれた。


「彼、粕谷京介を何とか真っ当な道に戻そうと頑張っててね、でも本人に言っても聞いてもらえないから、奴隷のエスタに説得を頼もうと考えたんだ」


「……なるほど」

 

 いい手だと思う。

 現状、粕谷が一番心を開いているのは、あの兎人の少女だろう。

 彼女の言葉ならば、耳を傾けるかもしれない。

 それにエスタは人当たりが良く、玲子グループのメンバーにも攻撃的どころか友好的ですらある。

 同じ第一宿舎で業務にあたっているティオ、そして伊織からの印象も好意的であった。


「でも、駄目だったみたいでね。俺が和樹と話したのはその後。彼があんまりしょげ返ってたから、気になってさ。相談に乗って、俺からもエスタに話しかけてみたんだ……自慢じゃないけど、女の子を説得するのは得意な方だと自負してるから」


「たぶん自慢じゃないかなぁ、それ」


 そうかな、と玲人は苦笑して話を続ける。


「けっきょく、説得するまでは無理だったんだけどね。ただ、彼女は君にとても興味を持ってるみたいなんだ」


「……僕に?」


「うん、もちろんいい意味でね」


 知らなかった。

 とはいえ、エスタとまともに話したことなんて無かったんだから仕方ない。

 主である粕谷の意向を思えば、ゆっくり話をすることなど不可能なのだ。


「だからさ、君の方から話してみて欲しいんだ。ひょっとしたら、チャンスぐらいはあるかもしれないし。娼館の個室だったら、粕谷の目も気にしないで話せるからね」


 なるほど、事情は分かった。

 だが、しかし――悠は、玲人に少しだけ恨めし気な視線を送る。


「……じゃあ、はじめからそう言ってくれれば良かったのに。朱音とか伊織先輩たちに秘密にして来たんだよ?」


「ごめんね。ギリギリまで秘密にしておきたかったから」


「それも分かるけどさぁ……」


「……正直に言うと、君が娼館に行くってなったら彼女たちがどんな反応するか、興味あったんだけど」


 実にいい笑顔で、玲人はそんなことを言ってのけた。


「何て言うか……やっぱり、玲子先輩の弟だよね」


「弟としては複雑な物言いだなぁ」


 その苦笑には、どこか温かみを感じた。

 家族を想う情が、そこに確かに見えた気がした。

 罪悪感を抱いた悠は、ぺこりと頭を下げた。


「ごめん……僕も、玲子先輩はすごい人だと思ってるよ、尊敬してる。ちょっと……いや、かなり困ったところがある人だけど」


「うん、俺も姉さんは尊敬してるよ。家族として愛してる」


 でも、と玲人は言葉を切り、


「……姉さんは、もう俺のことを愛してはいないだろうけどね」


 寂しげに、そう言ったのだった。






 と、まあ気になることは色々とあるが、今はエスタのことだ。

 “人獣”との戦いがいつ起こってもおかしくない今、異界兵たちは一致団結して立ち向かうべきだと思っている。

 そして優秀な第三位階の一人である粕谷京介の存在は、悩ましい課題の一つであった。

 解決するチャンスだというならば、俄然やる気の湧いてくるというものだ。

 以前に話した斉藤の姿を思えば、彼に報われて欲しいと思う。

 二重の意味でモチベーションを得ていた悠は、気合い十分でエスタとの対話に臨むのだった。


「今さらだけど、良かったのかな。その、粕谷君的に……」


「いいんじゃないですか? 結果的にキョウスケ様の利益になればオッケーだと思ってます」


「そう言ってくれると助かるけど」


 大きいベッドが一つ、机と一対の椅子。

 娼館の個室へと、悠は案内されていた。

 木製に見えるが、防音はしっかりしているようだ。隣の部屋から気まずい声や音が聞こえてくるようなこともない。


「あのね、エスタ」


「じゃあ、はじめましょっかっ」


 止める暇もなく、うきうきした様子のエスタが、ぺろりとドレスを脱ぎ去った。

 下着は付けていない。履いてない。

 ほっそりした肢体、なのにたわわな胸、ぷりっとしたお尻。ちょこんと生えた兎のしっぽが可愛らしい。

 奴隷首輪だけを残したあられもない裸身が、悠に目にさらされる。慌てて目を逸らした。


「ち、違うんだよエスタ! 僕は、君とそういうことをしに来たんじゃなくて、お話をしたくて来たんだ! だから、服を着てよ!」


「えー……」


 エスタのがっかりしたような声。

 いじけた気配が、視界の外から漂ってくる。


「ユウ様がどんなふうにエスタを抱いてくれるのか、楽しみにしてたんですよぅ? ここ娼館ですよ? お金をいただいてる以上、エスタはプロ意識を持ってお客様にご奉仕するお仕事してますのに……」


「で、でも、好きでもない人とそういうことしなくて済むんなら、それでいいんじゃない?」


 ぴと、とエスタが身を寄せてくる。

 その大きな胸を押し付けるように腕に絡みつき、甘えた声で、


「エスタはユウ様のこと気になってましたよ? それに兎人ワーラビットの里じゃ何となくー、とか気が向いたらー、でそういうことするのも普通でしたし。お互い気持ち良くなれるなら、別に好きな人同士じゃなくてもいいんじゃないですかね」


 うわあ、と悠は内心で呻いた。

 性への価値観、育ってきた環境が違い過ぎる。

 まあ、悠の価値観だって15年を地獄のような場所で過ごし、それから日本の一般常識を後付で上乗せしていったようなものなので、人のことはとやかく言えたものではないのだけど。


 エスタの全裸を視界に入れないように天井を仰いでいると、彼女が爪先立ちで顔を近付けてくるのが分かった。


「それとも、エスタはあの方たちに比べたら不足ですか? けっこう顔とか身体には自信あるんですけど、傷付いちゃいますよぅ」


「あ、あの方たちって……」


「ルルさん、ティオ、アカネ様、ミコ様、イオリ様……合ってますよね?」


「どうして知ってるのさあ! 誰か言ったの!?」


 涙目の悠のリアクションに、エスタはくすくす楽しげに身を揺らしている。


「特技なんです。この人とこの人は関係持ってるなーって、そういうの当てるのが。異界兵の皆様の状況は、だいたい把握してると自負してます。バラしちゃったら、とっても面白いことになりそうなカオスな関係の人もいますよ? 聞きます?」


「い、いらないよ!」


 正直、ちょっと気にはなった。

 だが自分は隠し事があまり得意ではない性格だからして、聞かない方がいいのだ。


「ルルさんは“何故か”今いらっしゃないですけど……他の皆様も、ユウ様が求められればいつでもお相手してくれるでしょうからね、こういうお店に来る必要なんて無いのは分かってました」


「……そんなことないと思うな、いやお店も使うつもりないけど」


 悠への好意をはっきりと表明しているティオ、伊織についてともかく、あくまでも仕方ない事情があって関係を持っただけの朱音と美虎は違うだろう。

 二人とも、貞淑な価値観をもった少女である。恋人でもない相手にみだりに身体を許すようなことはないはずだ。


 そんなことを考える悠を、エスタは妖しい笑みで見上げていた。


「そうですかねぇ」


「そうだよ、きっと」


「じゃ、そうしておきましょうか」


 エスタが、悠から身を離す。

 やっと諦めてくれたのかと安心した。

 だが、エスタはぐいと悠の身体を引っ張ってきた。

 意外と力が強い――というか今の悠が弱いだけか。


「えいっ」 


「わっ」


 悠は、ベッドの上に座らされていた。

 間髪入れず、エスタがその上に座ってくる。

 悠の太ももの上に、その可愛らしいお尻を乗っけて来たのだ。

 丸く柔らかな弾力が伝わってきて、悠は身をこわばらせた。


 悠は、まだ目をきつく閉じている。

 囁くように、エスタが言う。


「ユウ様……目を開けて?」


「き、君が服を着たら開ける!」


「今開けてくれないと、お話ししてあげませんよ? このまま無言で、ユウ様のこと襲っちゃいますよ?」


 観念した。

 おそるおそる、目を開ける。


「ぅ」


 全裸のエスタが、悠の胸板に背を預けるようにして見上げていた。

 彼女は足を大きく開くようにして悠の腰のあたりにお尻を寄せ、その一切を隠すことなく悠にさらしている。ほとんど丸見えであった。

 

「どうですか?」


「き、綺麗だと、思うよ」


「えへへ」


 嬉しそうに、にっこりと微笑む。

 吐息のかかりそうな至近距離だ。鼻腔をくすぐる不思議な香りは、彼女の肌から漂ってくるのだろうか。


「このままお話ししましょ? エスタを見てくれながらじゃないと、お話し続けてあげませんよ? あと、我慢できなくなったら、いつでもお好きなようにしてくださっていいですから」


「僕は、真面目な話をしに来たんだけど……」


 ぷくっと、エスタが頬を膨らませる。

 おねだりする子供のような口調で、足をばたばたさせた。


「お願しますよぅ、チャンスぐらいくださいよぅ! ねー、ねー、いいでしょう? 兎人的には、ユウ様の態度は割とプライド傷つくんですよぅ! 一つ屋根の下で暮らしてるよしみで、ね?」


「その言い方誤解あるよね! ……分かった、分かったから! 腰揺らさないで! 座ってるのはいいからぁ!」


「わーいっ、ユウ様のカラダ、とってもすべすべして柔らかいですねぇ」


 悠は深々と嘆息する。

 これではいけない。ペースを握られっぱなしだ。

 落ち着いて話を進め、主導権を握らなければ。


 ……会話の主導権を握るのって、どうすればいいんだろう?


「難しい顔してどうしました、ユウ様?」


「いや、うん……あのね」


 正直に、誠実に話をしてみるしかないだろう。

 

 悠は、自分がエスタに望んでいることを滔々と語っていく。

 粕谷を上手い事説得し、他の異界兵と協力してくれるようにして欲しい。

 斉藤との関係も修復できるように、二人の仲を取り持ってあげて欲しい。

 目には毒過ぎる光景が広がっていたが、エスタがきちんと耳を傾けてくれていることは分かった。


「なるほど、ユウ様のお気持ちは分かりました。エスタはちゃーんと受け止めましたよー」


 悠の言葉を噛み砕くようにして吟味し、エスタは返答する。


「あのですね、キョウスケ様は今、ユウ様に追いつこうととても頑張ってらっしゃいます」


「訓練場では、姿を見ないけど?」


「もっとハードな感じのですね。もしかしたら、お命が危ないかもしれないぐらいの」


「……えっ」


「魔道省の技術で、そういう人体改造みたいなことができるらしいです」


 何だそれは。知らなかった。

 そのような自らにリスクを課すような真似を、彼はとても厭っていたように思っていたのだが。

 何が彼をそこまで衝き動かしているのだろう。


「ユウ様に負けない力を手に入れる……今のキョウスケ様には、それしか見えていません。きっと、ユウ様と決闘して敗れたことのあるキョウスケ様は、そうしないとプライドを取り戻せないんだと思います」


 傲慢な考え方だが、粕谷の鼻っ柱が折れることで改心してくれることを期待もしていたのだが。

 それは、彼の気質からすると無理な期待だったのかもしれない。


「……つまり、それが終わるまではどうにもならないってこと?」


「そういうことですね。せっかく頼っていただいて恐縮ですけど、当面は、お力にはなれないと思いますよぅ」


「でも、死んじゃうかもしれないんだよね?」


 そうなってしまっては、斉藤があまりに気の毒だ。

 眉根を伏せる悠を見上げながら、エスタは気負わぬ笑みを浮かべていた。


「エスタは、あのお方ならきっと大丈夫だと信じてますけどね。もう始まっちゃったし、キョウスケ様の御意志も固いですから、どの道もう、出てくる結果を待つしかないんですけど」


 では、彼が無事に力を手に入れたとして、その後、どのようなことが起こるだろうか。

 これまでのことを思えば、不安しか無かった。

 そんな悠の内心を察したのだろうか、エスタは自らの瑞々しい肌に指を這わせ、嫣然と微笑む。


「キョウスケ様の欲望は、エスタがぜーんぶ受け止めてあげるつもりですよぅ」


「う、うん……」


 引き気味の笑みで返す悠を、エスタは覗き込むように見つめていた。


「でも、キョウスケ様がユウ様に対して抱いている思いだけは、エスタじゃどーしようもないです。きっと、何かアクションを起こすでしょう。その時にユウ様がどう行動するか……カズキ様の願いも、それ次第で左右されるかもしれないですね」


「責任重大だなぁ……」


 正直、自分は中心からは外れたポジションにいると思っていた。

 思わぬ責任を突き付けられ、悠は弱々しい苦笑を浮かべる。


「……“人獣”のことだけでも大変なのに」


 そこで、エスタの声の調子が変わった。

 ぷんぷんと、可愛らしくも怒りを滲ませた声色で、


「ですよねー! ほんといい迷惑ですよぅ! ほら、エスタって最近来たじゃないですか? お前も“人獣”なんじゃないかって、すっごいねちっこく取り調べさせられたんですよ! 大勢の前でハダカにされて色々されたし! まあそれはいいですけど!」


「いいんだ……?」


「むしろ気持ちよかったっていうか?」


「この話もうやめよう?」


「ぶー、ユウ様ってノリ悪ーい。せっかく思春期のお年頃同士なんですから、こういうお話で盛り上がってくれてもいいですのに」


「じゃあもっと健全なのにしようよぉ……僕、そういうの苦手なんだよ」


 普通は、エスタのように経験を積むほどに慣れていくものなのかもしれない。

 だが悠は、経験を積むほどに苦手になっていくのだ。

 

「ねえ、エスタ……そろそろさ、離れない?」


 全裸のエスタは小さく嘆息した。

 拗ねるように唇を尖らせて、じとっとした半眼を向けてくる。


「……まさか本当に指一本触れてもらえないとは思ってませんでしたよぅ。ユウ様の性癖じゃ、エスタのカラダで興奮してくれないんですか?」


「それどう答えても僕にダメージあるよね?」


「ちぇー」


 最後に、こちらに思いっきりお尻を押し付けるようにして反動を付け、エスタはぴょこんと立ち上がる。

 いちいち男心をくすぐるあざとい動作で、くるりと振り向いてきた。

 にっこりと、無垢で屈託のない笑みを浮かべながら言ってくる。


「でも、ユウ様はいい人ですねぇ。キョウスケ様のようなタイプも好きですけど、ユウ様みたいな御方も好きですよ、エスタは」


悠は、頬を掻きながら照れ笑いを返す。


「そうかな、そう言ってもらえると嬉しいけど」


「キョウスケ様とどう向き合うのか、とっても楽しみに――」


 ――違和感は、唐突に湧いてきた。


(……え?)


 魔道の反応。

 それも、極めて濃厚な。

 魔法ゼノスフィアの、具象の気配だ。


 そしてもう一つの違和感。


「……!」


 それは、エスタの表情。


 魔道師ではないはずの彼女が、自分と同じくその気配に反応している。

 見たことのないような鋭く剣呑な表情を浮かべ、露骨な警戒を見せていた。


 その刹那に得られたのは、その二つだけ。

 次の瞬間には、事態はさらなる変化を迎えていく。


「――<枯渇樹界デュアスト・ヴァルト>」


 ぼそぼそと幽鬼めいた、しかし妙な存在感のある声。

 その魔法の銘とともに、舌打ちするエスタの足元が、


「なっ……!?」


 芽生えた。

 そう表現するほかない現象。

 萌芽し、生育し、つたのようなものが伸びていく。

 エスタの肢体へと伸びていく。


(植物……!?)


 超動体視力でゆっくりと流れていく光景の中、悠はとっさにエスタを助けようとしていた。

 が、しかし。


『落ち着きなよ、悠。そのまま見てて』


 知った声が、脳裏に響く。

 落ち着いた少年の声だった。 


(玲人……?)


 困惑しながら、悠は動きを止めていた。

 今にも謎の植物に襲われようとしているエスタは、


「くっ……!」


 呻きながら、跳躍した。一瞬で蔦から逃れる。

 とんでもない脚力だ。魔道による強化がなければ有り得ない。

 それはつまり、エスタもまた魔道師であるということの証拠であった。


(えっ、え……?)


 悠は、困惑しながらも<斯戒の十刃>の具象をはじめようとしていた。

 だがそれは、不要に終わりそうだった。


 床だけではなかった。

 天井からも、壁からも、次々と蔦が生えてくる。

 植物なのに瑞々しさは一切なく、ひたすらに渇き朽ちた枯れ枝のような蔦だった。

 天井を蹴って方向転換しようとしていたエスタは、自らが足を付こうとしていた場所から伸びた蔦に絡め取られる。

 床や壁からも次々と蔦がまとわりつき、彼女の身体を拘束していた。

 ぎりぎりと、締め付けている。


「あ、ぐぅっ……!」


 エスタは苦々しげに、その愛らしい顔を歪めている。

 悠は、その光景を呆気に取られて見つめていた。


「いやぁ、上手くいって良かった」


「玲人……」


 気が付けば、彼が部屋の入り口に立っている。

 そして彼の後ろには、ひょろりと痩躯の大男が控えていた。


 痩躯なのに大男というと妙な表現だが、そう言うしかない。

 省吾にも劣らぬ長身なのに、不健康なまでにその身体は痩せているのだ。

 頬はこけ、目は落ちくぼんでいる。

 その特徴的な人物は、悠も何度か顔を見たことがあった。


「朽木先輩……」


 朽木十郎くちき じゅうろう

 18歳、第三位階の一人であり、武田省吾と並んで異界兵最強と目されていた少年。

 かつて、粕谷京介を散々に痛めつけたことがあったとも聞いている。


「あの1年の奴隷とはな……妙に縁がある」


 ぼそぼそ渇いた声で、彼が呟く。

 彼の登場で、悠はこの状況の疑問の一つに答えを得た。


(そうか、これは朽木先輩の魔法だ……話だけは聞いてたけど)


 <枯渇樹界デュアスト・ヴァルト>。

 周囲の物質から、彼の意のままに操ることのできる森林を創造する、変性型の魔法。

 単体戦闘に特化した省吾の<獅子吼レオンハルト>と双璧をなす強力な魔法であると畏れられていた。


「お疲れさま、十郎さん、悠」


 そう言い、悠たちを労ってくる玲人。

 悠は戸惑いのままに、残っていた疑問を投げかける。


「玲人……どういうことなの?」


「とても単純なことだよ」


 薄く微笑み、玲人はエスタへと視線を移す。

 エスタは苦しそうに、憐れをさそうほどに潤んだ瞳を、こちらに向けていた。


「痛いですよぅ、苦しいですよぅ……エスタが何したって言うんですかぁ」


「さあ? 君が何をしたかは俺も知らないよ。それを聞かせて欲しいんだ」


 玲人は肩を竦めて、その余裕たっぷりの微笑を崩さぬまま、


「ねえ、“人獣フェンリル”?」


 そんなことを、口にした。

 悠はぽかんと呆け、玲人とエスタを交互に見比べていた。


「……は? え?」


「何ですかそれぇ!」


 エスタは、涙をぽろぽろとこぼしながら切々と訴える。


「違いますよぅ! エスタの経歴だって、帝国の人たちがきちんと調査したじゃないですかぁ!」


「それなら魔道使って逃げようとするべきじゃなかったんじゃないかな」


「だって、使えるってバレたら疑われるって思ってたんです! 怖かったんですよぅ……」


 なるほど、と玲人は頷く。

 そして、悠をちらりと見つめ、


「せっかくだから、悠にも分かるように説明するよ」


 涼やかな仕草で髪をかきあげ、何気ない足取りでエスタへと近づいて行った。

 顔を近付け、彼女を瞳をじっと覗き込むように見つめている。

 時々、姉の玲子がやっている行為であった。


兎人ワーラビットは、森人エルフみたいに世界中に散らばり、それぞれの集落を作って暮らしている亜人種なんだ。狼人ワーウルフのように大部分が集まって一つの国家を形成していた訳じゃないから、それぞれの集落で文化・慣習の違いが出てくる。そこで、だよ」


 玲人の表情は、いつもの柔和な微笑である。

 なのに怖いと、悠は思った。


「ねえ、エスタ。君はオルディアン王国の集落の出身者だって話だよね」


「そうですよぅ、色々と質問されて、きちんとぜんぶ答えましたよぅ……」


「そうだね、奴隷省の担当者は、その集落の歴史や文化、帝国占領時代より前に使われていた言語まで資料を作って、それに基づいて厳密な調査を行った。でもさ、同じ言語を使ってても、なまりって出るものだよね。悠との会話を聞かせてもらって確信したけど、君のフォーゼ言語……ちょっとだけ訛りがあるよ。それってさ、兎人の集落だけで絞り込むと、プラズダ連邦にある集落の訛りに近いんだよね」


 仮に玲人の言う通りにエスタが出身地方を偽っていたとして、それがどうして“人獣”であることに繋がるのだろうか。

 悠がそんな疑問を抱いていると、玲人が答えるように言葉を続けた。


「プラズダ連邦にある兎人の集落はね、もう無いんだ。“人獣”に襲われて“人間牧場”に連れていかれたからね。生まれ育った兎人は一人残らず連れて行かれたそうだよ」


「ち、違いますよぅ、エスタは正真正銘のオルディアン生まれです! だいたい、あなた異世界人じゃないですか! そんなこと分かる訳ないじゃないですかぁ!」


「分かるよ」


 あっさりと、玲人は返答する。

 トントン、と自分の頭を指指しながら。


「この世界の言語は全てマスター済み。地方ごとの訛りまでね」


 大したことじゃないとでも言いたげに、当然のように玲人は言う。

 エスタが、喘ぐように言い返そうとした。


「そ、そんなこと出来るはずが……」


「そうかい? あのシド・ウォールダーはこの世界の全言語はおろか、俺たちの世界の言語にまで通じているって聞いてるけど? 実力は足元にも及ばなくても、頭脳ぐらいは同等の人間がいてもおかしくないと思わない?」


「でもっ、でもっ! たったそれだけで“人獣”扱いだなんて、横暴ですよぅ! 帝国の人まで信じたらどうするんですか!? “人獣”の協力者は拷問されて、問答無用で死刑なんですよ!? あなた責任取れるんですかぁ!? ……ユウ様からも、何とか言ってあげてくださいよぅ……うぇぇぇぇぇぇん……!」


 ひたすらわめき、悠に乞い、そして遂には泣きじゃくりはじめてしまったエスタ。

 悠はいきなりの事態の連続にどうしたらいいか分からない。


 エスタが、“人獣”の一員である。

 寝耳に水の情報であるが、確かに疑わしい点はある。


「……遅いね。帝国へはとっくに連絡してるのに」


「やだぁ、やだよぉぉぉぉ……助けてよぅ」


 だが彼女の言う通り、帝国側がエスタが“人獣”である可能性があると判断すれば、情報を引き出すためにエスタはひどい拷問を受け、そして見せしめとして処刑される。

 疑わしいというだけで、無実の可能性がある人間をそんな目に遭わせることが許されるのだろうか。

 そんなふうに迷っていると、


「おい、玲人……!」


 それまでじっと事態を見守っていた朽木が、珍しく切迫した声を出す。

 悠も、そして玲人も、その理由をおぼろげながら感じ取っていた。


 それは、理屈ではない。

 死線の飛び交う濃密な戦闘を経験してきた者たちの、本能的な直感だ。

 それ故に、感じ取ったものに対してどう行動するべきかの指針は見えないまま。

 だがそれでも判断をしなければならない。


 悠と玲人はその場から飛びずさり、朽木は<枯渇樹界>をさらに展開していた。

 その次の瞬間、


「ちっ……!」


 朽木の魔法たる無数の枯れ蔦が、突如として消失する。

 それは、ちょうど一抱えほどの球体状の範囲だった。

 より精密な目があれば、大気中の埃ですらも消え去っていたことが分かっただろう。


 まるで、空間が抉り取られたかのような現象。

 エスタのすぐそばに、虚無の球体が出現している。

 その穴から、細く白い女性と思わしき手が伸び――エスタの腕を掴んだ。

 彼女の表情が、豹変する。


「あはぁっ」


 嗤う。

 喜悦に満ちた、邪な笑み。

 あたかも、人の皮をかぶった獣のような。

 “人獣”の名に相応しい表情だった。


「エスタ……!」


「ユウ様ぁ、また会いましょうね。キョウスケ様にもよろしく言っておいてください」


「待ってよ!」


 悠が、具象済みだった<斯戒の十刃>を射出した。

 エスタと、そして彼女を掴む白い腕の時間を縫い止めようと、十の白刃が迫る。

 だが――


「……あっ」


 ――エスタの姿は、次の瞬間には消え失せていた。

 魔法の十刃は、虚しく壁に突き刺さる。


「ちっ……」


 朽木が舌打ちし、枯れた蔦を元に戻していく。


「残念、一本取られた。空間創造系の魔法の使い手がいる可能性は予想してたけど……あの魔法ゼノスフィアの精度と速度は予想外だったな」


 玲人は小さくため息をつき、肩を竦めていた。


「なんで、こんな……」


 事態に置いていかれっぱなしだった悠だけが、呆然と呻いていた。

すみません、なかなか執筆時間確保できないのと、途中で大幅に書き直したりしたのでまた間が空いてしまいました。

思ったより長くなってしまったため、ここで区切ります。

次話で本章の前半部終了ですが、そんなに長くならないと思います。

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