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第10話 ―人獣・その3―

 結局、その日の用事がすべて終わったのは、深夜前であった。

 帝国軍人たちとの顔合わせや、“人獣”がいかに危険な組織であるか、現段階でも注意しておくべきこと、有事の際のマニュアルなどの説明を、悠は緊迫した空気のなか聞き続けた。

 クタクタになりながら、悠は第一宿舎の自室へと戻っていく。


「ただいまー……」


「おかえり、悠」


「大変だったよー、聞いてよルルさ――」


 部屋に戻った悠を迎えたのは、当然ながら慣れ親しんだ薄桃髪の狼人ワーウルフではない。

 大振りな黒髪をポニーテールにした小柄な少女、島津伊織だ。

 昨日は無かった返事が返ったきたから、悠はついルルの名を口にしてしまったのだ。


「残念だけど、おいはルルじゃなかとよ?」


 寂しそうな苦笑を浮かべる伊織。

 悠は、慌てて恥ずかしさと気まずさに上ずった声で弁明する。


「す、すみません伊織先輩。いつもの癖で……」


「よかよか、ルルの代わりできるように、頑張るばい」


 伊織は、にっと歯を見せて笑う。

 ルルやティオと同じメイド衣装であるが、彼女たちとは趣の異なる、溌剌とした魅力に溢れていた。

 動くたびに大ぶりなポニーテールがふりふりと揺れる様は、その小柄な身体とあいまって小動物めいた愛らしさ感じさせ、見ている者を微笑ましい気持ちにさせてくれる。

 彼女は、クローゼットに自分の衣服を収納しているところだったようだ。

 その手には、シンプルなデザインの白い布地の下着が、


「あ、ご、ごめんなさい」


 慌てて顔を逸らす悠。


「……え? あ……」


 そこで伊織も、自分がちょうどショーツを手に取っていたことに気付いたようだ。

 頬を赤らめてしゃがみ込み、いそいそと収納スペースに仕舞い込んでいく。

 やや気まずい沈黙のなか、彼女は照れ臭そうに言ってきた。


「よ……よく考えたら今さらとね。こげなこつ、あの日に比べれば大したことなか」


「そ、その話題に触れますか……」


 じっとりと額に汗を浮かべて呻く悠。

 脳裏に、あの夜の伊織の姿が次から次へと浮かんでくる。瞬間記憶に焼き付いたそれは、まるで録画した動画の再生だ。

 

 悠は、頬に熱がこもるのを感じながら、誤魔化すように頬をかく。

 伊織も自爆したことを悟ったのか、「ひやぁぁ」と可愛らしい呻きを漏らしながらもじもじと俯いた。

 気まずさ5割増しだ。


「…………」

「…………」


 お互いに次の話題に困り、黙り込んでしまう。

 グダグダの空気が、その場にじっとり漂っていた。

 やがてクローゼットを閉じた伊織は勢いよく立ち上がり、ちょっとテンションのおかしい声で聞いてきた。


「お夕飯は食べてきたと!?」


「は、はい。あっちで省吾先輩たちと御馳走になりました」


「じゃ、じゃあ、えっと……そ、そうばい! お風呂に入らん!? おいもまだ入っとらんけん!」


「そ、そうですね!」


 確かに、このクタクタの身体を湯に浸して癒されたい気分であった。

 悠の返事に表情を輝かせ、伊織は浴室へとぱたぱた駆けて行く。


「い、入れて来るけん、ちょっと待っとって!」


 バタン、と伊織の小柄な身体が扉の向こうに消えたことを確認し、悠は深々とため息を吐く。


「まあ、初日だしね……そのうち慣れるかな」


 何ともやり辛い雰囲気だ。

 日中、他の誰かがいる時はそこまで気にはならなかったが、夜に二人っきりになってしまうと、あの祭りの夜のことを思い出して意識してしまう。

 あの衝撃的な夜から、まださほど時間は経っていないのだ。


 これが、恋人として付き合い、ようやく結ばれた間柄であったのならば、甘酸っぱくも心地良い空気が醸造されていたのかもしれない。ちょうど今の冬馬と綾花のような感じに。

 しかし悠は、情けないことに自らに向けられた好意への返答を保留している。自分の明確な恋心を自覚できていないからだ。

 それ故に、気まずさとか申し訳なさの占める割合が大きくなってしまうのだった。


 もっとも、この微妙な空気に関しては時間が和らげてくれるだろうとは思う。

 ギクシャクしていた美虎とも、今では以前と変わらぬように接することができていた。

 まあ、依然として何かの間違いで意識してしまうような状況になると、あの長身をプルプルさせて、真っ赤な顔をして涙目で黙り込んでしまうのだが。

 

「時間が解決してくれる――って甘えてる訳にもいかないよねえ」


 根本的な問題が解決する訳ではない。

 結局は、悠自身が自分の気持ちをはっきりさせ、それを表意することが大切なのだ。


「悠っ、終わったとよー!」


「はーい!」


 そのようなことをまんじりと考えていると、お風呂の準備が終わったようだ。

 とりあえず、まったりと湯に浸って心身をリフレッシュすることにしよう。

 お風呂好きの悠は、鼻歌を歌いながら伊織と入れ替わりで脱衣所へと向かう。

 伊織が何やら悩ましげに悠と浴室をちらちらを見ていることには、まったく気付かなかった。






「~~♪」


 服を脱ぎ、丁寧に畳んで籠へ。

 布を片手に綺麗に磨かれた石造りの浴室へと足を踏み入れた。

 伊織の入れてくれた湯船から淡い湯気が立ち、室内をほんのり白く染めている。

 瑞々しい温もりが、肌にじわりと溶け込んでいくような心地良さ。


 いきなり湯船に飛び込んでしまいたい気分であったが、この湯船は伊織も使うのだ。まずは身体を洗わなければならない。

 悠は風呂椅子に尻をぺたりと下ろし、湯をひとかぶりした後に石鹸を泡立だせはじめた。地球の石鹸ほど質は良くないので、満足な量の泡が出るまでしばしの時間がかかる。悠は玉のような肌に湯を滴らせながら、無心に濡れた石鹸を布にあててゴシゴシしていた。


「ゆ、悠っ。背中はおいが流してあげるとっ」


「あ、はい。お願いします」


 背後からかけられた声に、悠はいつものように――ルルにしていたように、つるりと滑らかな肌をした華奢な背中を向ける。


 ……誰に?


「うわあああああああ!? 伊織先輩!?」


 振り返れば、裸身にバスタオルのような布を巻いただけの伊織が立っていた。

 いつも大きなポニーテールにしていた長い黒髪はお風呂用のまとめ方をされており、いつもとは違う魅力を匂わせる。

 彼女は緊張した面持ちで、悠を真剣な眼差しで見下ろしていた。 


「な、なんでっ……!?」


「これも、世話係りの仕事ばいっ」


「何もそこまでしなくてもいいですよぉ!」


 伊織はふんすと気合い混じりの鼻息を荒げ、頭の上にピンと指を立てた両手を当てる。狼耳のつもりだろうか。


「ルルとは一緒だったと!」


「ルルさんとは、ですよ!」


「おいはルルの代わりけん、あの人がしてたことはしてあげたいとよ!」


「伊織先輩は伊織先輩です! 伊織先輩はルルさんにはなれず、ルルさんは伊織先輩にはなれないんです!」


「そんな深そうなセリフ使う場面じゃなかよ!?」


 お互い、頬を真っ赤に染めて言い合っていた。

 グダグダの空気、ふたたび。

 思えば、あの祭りの夜の日もすっごくグダグダなことになってたなあとつい思い出してしまい、悠はさらにほっぺを朱に染めていく。


「お、思い出したと!? このグダグダ感であの夜を思い出したとね!? 実はおいもばい! 気が合うけん! だから気にせず背中を流されとくたい!」


「余計に一緒はまずいんじゃないですかねぇ! あ、あのっ、あのですね……?」


 押しに弱い悠は、たじたじになりながら言葉を探す。

 語彙は豊富なつもりであるが、伊織を傷つけずに、というとなかなか難しい。

 悩ましく黙り込んでいた悠を見て、伊織が捨てられた子犬のようにしゅんと肩を落とした。


「悠はおいと一緒のお風呂、嫌と……?」


「そ、それは、嫌では、ないですけど……」


「別にあの日みたいに襲ったりせんたい。いやらしいことなんてするつもりはなかよ? ただ、疲れた悠の背中を洗ってあげたりしたいだけ……お仕事ばい」


「……家族でもない異性が一緒のお風呂に入る時点でいやらしいような気がするんですけど」


「ルルとはいつも一緒に入ってたけん!」


「うわあループした!」


 その勢いのまま、伊織がテンパった声で言ってくる。

 

「や、やっぱり、ルルみたいに舌とか身体とか使えないと駄目と!?」


「……ふぇ?」


 予想と覚悟の遥か斜め上をいく発言に、間抜け面を晒しながら間抜けな声を漏らす悠。

 目を点にした悠に向けて、伊織がつぶらな瞳をグルングルン泳がせながら震えた言葉を続ける。


「ルルが自分の仕事の引き継ぎ用に残してた書置きに、お風呂で悠に何をしてあげてたか、ぜんぶ書いてあったばい!」


「……ぜんぶ?」


「ぜんぶ!」


 脳裏に、お風呂場でルルにされた諸々の恥ずかしい悪戯が浮かんでくる。

 彼女は時おり、悠の身体をもの凄いやり方で洗うことがあった。口に出すのも躊躇われるような、すごい洗い方だ。された悠の慌てふためいた反応が、面白かったらしい。

 確かに心地良さのようなものもあって、でも、それを認めると自分がとんでもない変態のような気がして――


「あああああああああああ!? 違いますよ! 違いますからね!? 僕の方からお願いしたことなんて一度もないですからね!?」


 悠は思わず立ち上がって伊織に詰め寄って、その肩を揺すっていた。

 ぱさり、と大きな布の落ちる音。

 隠していた伊織の裸身が露わになるが、前後不覚に陥った悠の涙目には、彼女の顔しか入っていなかった。


「ふゃっ!? ゆ、悠っ、ちょっと……」


 我を失った悠の反応に、今度は伊織が気圧される番であった。


「駄目ですよ! 分別ある女の子があんなことしちゃ駄目なんですよ! 変態になっちゃいますからね!」


「なんか微妙にルルのことディスってなかと!? そ、それに悠の言いたいことは分かっとるばい、落ち着い、へっ……くちんっ」


 可愛らしいくしゃみ。

 そこでようやく、悠は彼女のあられもない状態に気付く。

 悠は慌てて床に落ちた布を拾い上げ、胸元と股間を隠していた伊織に渡す。


「あ、う……ごめんなさい」


「よ、よかよ、これぐらい……今さらだけん」


 伊織は、ぶるりと身を震わせる。

 いくら湯気の漂う浴室とはいえ、立ちっぱなしで素肌を晒していては体温も下がるというものだ。

 それに、伊織の言うとおりに“今さら”かもしれない。ここで拒絶するというのも、何とも間の抜けた不合理な話な気がした。

 悠は諦観まじりのため息を吐き、ちょこんと風呂椅子に腰を下ろして背を向けた。


「……お願いします、伊織先輩」


「ん、頑張るとっ」


 にぱっと微笑む伊織は、とてとてと悠の背後に膝をつき、自分も頭の上から湯をかぶる。そして悠から受け取った泡立つ布を悠の背中に当てた。マッサージするような力加減で、泡が肌を撫ででいく。


「悠、かゆいところはなかと?」


「大丈夫ですよぉー……」


 一生懸命に、気遣いながら奉仕してくれる伊織。

 ルルにしていたように悠も彼女の背中を流してあげ、お互いの裸を見ないように背中をぴったりくっ付けながら一緒の湯船に入り、ぎこちない談笑を交わしていく。


 ドキドキしっぱなしで、しかし決して不快ではない、不思議なひと時であった。






 一方その頃、同じ第一宿舎にある朱音の部屋。


「もー、ほんとにどうするんデスカ?」


「ど、どうしようかしら……ん、うぅんっ……そこ、もうちょっと……」


 ティオのじとっとした声に、朱音が弱々しい返事をする。

 同時に、その唇からは心地よさそうなうっとりとした吐息が漏れていた。


 朱音は、全裸であった。

 うつ伏せの姿勢で、ベッドに寝そべっている。

 カモシカのようなすらりとした足、綺麗に形の整った丸いお尻、わずかに筋肉のラインの浮いた引き締まった背中、ほのかに赤らんだうなじ――健康的な朱音の裸身の上に、肌着のティオがまたがって、太ももからお尻のラインを解すように揉みしだいていた。

 ティオが最近覚えたマッサージを堪能している最中の、彼女からのお説教であった。

 

「イオリ様、ぐいぐい来てますヨ! 宣戦布告されてからすっごく積極的になりましたケド、まさかルルさんの後釜に入ってくるなんテ……! コーメーでも読めないデス!」


「こ、孔明知ってるのね……?」


 ティオが、得意げにえっへんを胸を張る。


「アカネとユウ様の故郷のことですから、お勉強しましタ! バショクって生き物を斬るお仕事の偉人さんですよネ! 心を痛めて泣いてしまうなんて、優しい人デス」


「馬謖が家畜みたいになってるんだけど!? なんで馬謖成分が孔明の人生のメインみたいになってるのよ! 違うわよ!」


「どう違うのデス?」


「え、えぇっと、それは……」


 と言っても、朱音はさほど三国志に詳しい訳ではない。戦国大名や武将ならば、実家にゆかりのある著名人もいるので、それなりに知識はあるのだけど。

 知らないといえばそれで終わる話であるが、小首をこてんを傾げながら朱音を無邪気に見下ろすティオは、思わず力になってあげたくなるような、妹的なオーラをキラキラと放っていた。

 朱音はおぼろげな記憶を辿り、何とか諸葛孔明の有名なエピソードを思い起こす。


「劉備は、孔明を配下に迎えるために3度も直接会いにいったそうよ。関羽や張飛みたいな豪傑を抱えた劉備が、それでもなお孔明という人材を物凄く評価していたっていう逸話ね」


「そんなにバショクを斬らせたいのですカ!」


「だから馬謖はどうでもいいって言ってるでしょぉ!? っていうか、あたし的にも馬謖はどうでもいいけど……はぁー」


 朱音は深々とため息を吐き、全身を脱力させる。

 ティオの手は朱音のお尻を持ち上げるように解しながら、腰へと回る。その繊細な指で、ぐいぐいと指圧を始めた。

 

「どうすればいいのよぉ……」


 朱音がいまだ悠への思慕を口に出せずにヘタレている間に、悠への恋心を表明した伊織は遠慮のないアピールを次々と繰り出していた。

 彼女の魔法ゼノスフィアのごとき一気呵成の攻めに、朱音はすっかり後手後手だ。


「だいたいねえ! この前、悠に料理作ってあげて、なんか家族みたいに思ってくれてるって聞いて、それならしばらくこのままでもいいかなって思ってたところなのよ!? 普通あれじゃない? しばらくは平穏が続くのがお約束じゃないの?」


「だってイオリ様、お二人の間にそんなことあったなんて知らないじゃないですカ」


「どっちの味方なのよぅぅぅ……」


 朱音は、ティオを恨めしげな半眼で見上げる。

 ティオはつーんとお澄まし顔で、突き放すように言葉を返した。


「アカネが悪いですヨ。一番有利なポジションにいましたノニ! ユウ様にライバル多いの知ってるじゃないですカ。恋は戦争なんデス! わたしが本気でユウ様独占しようと思ってたラ、こんなものじゃなかったですヨ!」


「だって、だって、だってぇぇぇぇ……」


 シーツに顔を埋めて足をバタバタさせる朱音。

 悠のことは好きだ。愛している。

 だけど、悠の朱音への好意はそこまで及んでいないかもしれないじゃないか。

 いざ告白して断られたら、自分は悠にどう接していけばいいのだろう、そもそも接することができるのだろうか。

 今の距離感から、彼が遠くなってしまうのでは。

 初恋ゆえに失恋の経験もない朱音は、その想像に心底震え上がっていた。


 しかし同時に、最近は朱音が勇気を出す前に悠が誰かと付き合ってしまうのではないかという可能性が現実性を帯びているように思う。

 特に悠に対して明確かつ積極的に好意を示す伊織の参戦はそれをぐっと近付けるものだ。

 

 それで別に、伊織を恨んだり嫌ったりとか、そういう気持ちは無かった。

 伊織は何も間違っていない。怒るのは筋違いだ。

 忸怩じくじたる思いは否めないものの、悪感情よりは組手で不意を打たれた時のような悔しさに近い気がした。


 胸中で入り混じる様々な感情を持て余してむっつりとしていると、ティオがぽつりと寂しげな声で言ってくる。


「……近頃は、ルルさんも動きはじめるかナ、なんて思ってたんですけどネ」


「ルルも……?」


「そうデスっ」


 ティオは朱音の肩や背中をぐりぐりと刺激しながら、訳知り顔で言う。


「アカネは、イオリ様のことでいっぱいいっぱいで気付かなかったかもデスケド……ルルさんのユウ様を見る目、最初は弟を見るみたいだったのに最近はすごく、なんて言うか……メスの目でしタ!」


メス……!」


「雌デス! ぜったい、ユウ様に惚れちゃってましたヨ! なんかだんだん可愛くなってましたシ! ……なのに、いなくなっちゃうなんテ」


 ルルから多くの仕事を教わり、先輩として慕っていたティオも、悠ほどではないにしろ精神的にダメージを受けている一人であった。

 ちなみにこのマッサージも、ルルから教わったものだそうだ。


「……そうね、あのエロ狼、今ごろどこにいるのやら」


「戻って来てくれるんでしょうカ……」


「分かんないわよ、そんなこと」


 朱音は素っ気なく言いながら唇を尖らせる。

 思い出すのは、ルルがいなくなったと目元を赤く腫らしながら涙をぽろぽろ零して取り乱す迷子のような悠の姿。

 彼にそんな顔をさせたのは、勝手に消えたルルだ。

 地球にいた頃は自分の立ち位置だった悠の保護者的なポジションを奪った癖に、あっさりと消えて、悠をあんなに悲しませて。

 伊織に先を越されたことより、こっちの方がよっぽど腹が立つ。


(あのバカ狼……! あんたの目的って、悠にあんな顔させてまでしたかったことなの!?)


 誰かに復讐しようとしているということは知っている。

 日中の悠の話にも出た“人獣フェンリル”に関係があるらしいということも。

 もしかしたら、朱音たちも第三位階の魔道師として何かを頼まれることもあるだろうか。それならば、ルルと再会する可能性もあるいは。


(今度会ったら、一発ぶん殴ってやるわよ……! そして悠の前まで引きずって謝らせてやるわ!)


 朱音は窓から見える夜空を見上げながら、そう心に誓うのだった。






 同時刻、帝都からは馬車を飛ばし続けて3日ほどの距離にある帝国領南西部シャーデン領。

 貧しい弱小領ゆえに領内全域の治安維持はままならず、近々潜伏している可能性のある“人獣”対策のために帝都から中央軍が派遣される予定の領地である。


 “人獣フェンリル”の第三位階ゼノスフィアが一人、ぜルベン・ドーンとその配下はその領内のとある集落に潜伏していた。

 無論、ただ息を潜めていた訳では無い。

 彼が根城としている集落は今、怨嗟と悲憤の声に満ち満ちていた。


 ゼルベンの何よりの趣味は、誰かに大切にされている女が、その者の目の前で汚されることを観賞することだ。

 父に想われる娘を、夫に想われる妻を、幼馴染に想われる乙女を――彼とその配下たちによって、集落では阿鼻叫喚の宴が開かれていた。抵抗すれば、お互いの大切な相手を殺す。その悪辣な条件によって抑圧された村人たちは、抵抗することもできず、ただ気が狂いような悔しさと無力感を味わっていた。


「ほら、男ども! 目を背けるんじゃありません! 彼女たちの肌に無残な傷跡が残りますよ! それとも、また子供の首でも斬り飛ばしてあげた方が良いでしょうかねぇ!」


 今宵もゼルベンは、シドからの本格的な命令が下るまでの余興として、村人たちの絆と矜持が蹂躙される様をうっとりと観賞しているところである。

 しかし、今日は事情が変わった。


「……誰です?」


 卓越した戦士でもあるゼルベンは、この集落に近付くただならぬ気配に気付いていた。

 振り返れば、女が立っている。


 外套を被っているが、そのほっそりと丸みを帯びた身体のラインは間違いなく女性のものだ。

 辛うじて見える口元はとても端正で、かなりの美女であることを期待させた。

 外套の下に身に付けているボディースーツは、帝国の最新鋭の魔道戦闘服として知られているものだ。


「帝国の兵士ですかな? やれやれ、まずい相手に見られてしまいました」


 まあ、逃がさねばいい話である。

 彼女のスーツ越しに浮き出たボディラインは、極上の曲線美を描いていた。

 恋人同士の仲間でもいれば最高であったが、趣味抜きにしても是非とも味わってみたい。


「そろそろ飽きが来ていたところです。この集落で最後の虐殺たのしみをする前の、よい刺激になるでしょう」


 舌なめずりをしながら、ゼルベンはゆらりと立ち上がる。

 並の腕ではないことは一目で分かるが、この第三位階のゼルベンがそう簡単に負ける道理も無し。

 主であるシド・ウォールダーら“アルス・マグナ”や、“人獣”の最精鋭たる“爪牙”、あの傭兵組織が誇る決戦戦力“九傑ナイン・スペリオル”であれば別だろうが。


「――魔法具象ゼノスフィア――」


 ゼルベンは、己の魔法ゼノスフィアを具象して、


「……ふ、ふふっ」


 女が、身の毛もよだつような禍々しい微笑を浮かべたのは次の瞬間。

 その琥珀の目が、狂なる眼光でゼルベンを貫いていた。


「ひっ……!?」


 ほの見える異形の魂に、ゼルベンは凍りつく。

 女の姿が消失したのは、次の瞬間だった。


「ぎゃあああああああああ!?」


 女だけではない。自分の右腕も、根本から消え去っていた。痛みは、遅れてやってきた。思い出したように、無残な傷口から血が噴き出す。

 振り返れば、引き千切ったゼルベンの右腕を放り投げる女の姿。


「馬鹿なっ……馬鹿な馬鹿な馬鹿な! なんだこれは!? なんだこの速さは!? これでは、これではまるで――」


 続くのは、戦闘ではなく一方的な殺戮。

 それらが終わった後には、ゼルベンの苦悶と後悔と絶望に満ちた、悲鳴じみた声が響き続けていた。

 ……その時にはもう、ゼルベンは人の形を失っていた。はた目には、いびつな芋虫にでも見えたかもしれない。


「がああああああっ!? 目っ、目がぁぁぁ……! 知らないっ……シド様がどこにいるかなど、知らない……! 私はただ、合図があるまで帝国領内に潜んでいろと……ひっ、やめっ、これいじょ……ぎゃあああああああああああ! ひぃっ、ひぃぃぃぃぃ……! 頼むっ、頼む……本当に知らないんだ……知らない、知らない知らない知らないぃぃぃぃぃぃ! 助けて、お願いだから助けてください……! もう二度とこんなことはやらない! 帝国に投降する! 罪を償う! だから、だから命だけは……いやだ、やめろっ……やめろやめろやめろやめてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」






 翌朝、蹂躙された集落に“人獣”と思われる魔道戦闘の反応を感知した魔道省本局の命を受けた騎士団が駆けつけた。

 逃げ出した村人たちは全員保護されたが、とても衰弱し、そして恐慌していた。

 無理もない。村は地獄そのものの様相を呈していたのだから。

 “人獣”の男たちは、かつては人間であったかも定かではない肉と骨の残骸として、村のいたるところに転がり、あるいは張り付いている。顔が残っている者は、残らずに極まった苦悶と絶望の歪みをそこに刻んでいた。

 特にリーダーと思しき男の死体には凄惨な拷問の痕跡が残されており、この男がこの世の地獄を見ながら息絶えたことを容易く想像させるものであった。


 そして、その家屋の壁の一つには、彼らの血で何らかの紋様が描かれていた。

 見る者が見れば分かっただろう。

 その紋様は、“人獣”によって数年前に滅ぼされた、とある小国の紋章であると。


 村人たちの証言に出てきた女戦士は、それからたびたび帝国領内で確認されるようになる。

 凄惨なる虐殺と、怨念めいた呪詛を滲ませる血文字を残して。

明日も更新予定ですが明日の分でストックが切れるので、毎日更新は止まってしまいます、申し訳ありません。

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