第10話 ―空中庭園―
悠達は、引き続きルルの説明を受けながら帝国の施設を案内されていた。
明日、戦闘に赴くことを思えばこんな観光めいたことをしている場合ではないのだが、悠達が準備をするための諸々が、魔道省の方でまだ整っていないのだという。
もっとも、歩きながらルルからは有意義な話をいくつも聞かせてもらっているのだが。
悠達を勝手に巻き込んだ組織の真っただ中ということもあり落ち着かない気持ちもあるが、それはそれとしても、地球では存在しなかった異世界の文化というのは非常に興味深いものだった。
電気も火も使わずに灯りを生み出す照明装置。
熱源を用いずに水を温め湯にする水道設備。
立体映像を投影し、遠隔地と連絡を取る通信設備。
全て、魔道科学という学問によって実現している技術であった。
悠や朱音の有している魔道という力は、単に個人の異能や技術という枠に留まらず、機械を用いて行うことも可能となっており、これが地球での電化製品やその他の技術の代わりとして発展しているようだ。
そして、機械的に魔道を発現させるためには、その材料及び燃料に“魔石”という物資を必要とし、その主要な採掘源があの魔界であり、悠達に回収してほしい希少物質なのだという。
悠達のような能力を持つ人間が行使する魔道を“生体魔道”
機械的に発現のプロセスが行われる魔道を“機械魔道”
と称するそうだ。
「凄いですね、これ……こんなことも出来るんですね……」
「フォーゼルハウト帝国は、世界でも最先端の魔道技術を誇ることで有名ですから」
悠達は今、メドレア城の敷地内にある観光名所、俗に「空中庭園」と呼ばれる施設に来ていた。
そこから見える光景は、地球では決して見られないものだろう。
悠と朱音は、ただただ圧倒され、間の抜けた顔で口を開いていた。
「地球にも空中庭園とか言われてるのはあるけど、これは……」
周囲には、木々や花々に彩られた色彩豊かな美々しい庭園がある。
そして庭園の端、手すりから見下ろすことが出来るのはメドレアの街、その全貌である。都市でも最も高層の建築物である城すらも例外ではない。視線を前に戻せば、果てしない蒼穹が広がっていた。
壮観、という表現ですら足りないかもしれない。
「本当に、飛んでるなんてね……」
その名の通り、庭園が空に浮いているのだ。
元々は、メドレアに攻め込んだ敵を空中から一方的に迎え撃つための軍事装置だったそうだ。
しかし現在は、その機能も想定されつつも庭園としての整備がなされ、観光名所としてメドレアの重要な収入源の一つとなっているらしい。
無論、四六時中浮かんでいるという訳ではなく、1日に2時間程度と決められており、天候によっては落雷などの危険性から中止となることもあるそうだが。
(……ん、誰だろ)
景色に圧倒されていると、一人の制服を来た女性が歩み寄って来た。
魔道省の施設で見かけた女性であり、ルルに用があったようで、何やら語りかけている。
ルルは、「畏まりました」と頷き、
「……申し訳ありませんユウ様。私は少し席を外させていただきます」
「あ、はい。分かりました」
そしてルルは魔道省の人間と思しき女性に続いて、何処かに向かっていった。
訓練の準備に関わる情報のやり取りでもしているのかもしれない。
朱音は離れた場所で、地球では見たこともないような植物を食い入るように眺めていた。
彼女は藤堂家の広々とした庭の手入れもしているので、異世界の観葉植物は興味深いのだろうか。
つい先ほどまで警戒心を振り撒いていた彼女も、この空中庭園には感じ入るものがあるようだ。
悠は、再び眼下に広がる光景へと目を戻した。
「ほんと、すごいなぁ……」
そうして、悠が空中庭園からの景観に心を奪われている時だった。
「あ、あノっ!」
声が、背後からかかる。鈴を転がすような、可愛らしい声だ。
たどたどしい、語尾に訛りを感じる口調であった。
「……僕ですか?」
振り向くと、一人の少女が立っていた。
金髪碧眼の、愛らしい顔立ちの少女だ。
小柄で華奢な身体で、悠達より少し年下に見えた。
その肌は白く、黄色人種のそれとは明らかに異なるもので、その髪と目の色彩と相まって、どう見ても日本人ではない。
そして、彼女の容貌に何より違和感を覚える点が一つ。
(耳が、長い……)
その金髪の髪から突き出た、長く尖った耳。
ファンタジー作品でよく見かける耳長の人種を思わせる風貌である。
その服はルルと同じ拵えのメイド服であり、首輪までもが同様だった。
ルルと同じ奴隷なのだろう。
車輪のついた大きな箱を押してきたようだ。
「僕に、何か用かな?」
少女は、くりっとした大きな瞳に悠を映し、おずおずと口を開いた。
「その、喉は渇いていないでしょうカ? もし宜しければ、お飲物がありマス」
言いながら、箱を開けて見せた。
蓋の隙間から、ひんやりとした空気が漏れ出てくる。
その中には、容器に入れられた色々な液体が、何本も収められていた。
この世界の冷蔵庫のようなものなのだろうか。その内部は、ぼんやりと発光しているように見えた。
少女は緊張しているのか、上擦った声とぎこちない仕草で 箱の中身を指し示す。
「ただのお水も、果実水もありますデス。お酒は種類が少ないですガ……お値段も、お手頃デス」
つまり、この娘はこの空中庭園の売り子なのだ。
こんな可愛らしい女の子に勧められたら、ついつい買いたくなる人も多いかもしれない。
だが、悠はぽりぽりと気まずげに頭を掻きながら、
「ああー……その、喉はちょっと渇いてるんだけどさ……僕は案内されてここに来ただけで、お金がないんだよ。ごめんね、他の人に当たってくれるかな」
ルルがいれば良かったのだろうが、タイミングの悪いことに彼女は席を外している。
少女はがっかりするだろうと思っていた悠だが、少女の顔に浮かんだのは落胆ではなく、驚きであった。
「も、もしかして、ですケド……お客様は、異世界から呼び出された英雄様なのですカ?」
「……うん、そういうことになるね。無理矢理連れてこられただけだし、来たのは昨日だけど」
「そう、ですカ……」
少女は俯き、どこか思い悩むような表情を見せた。
逡巡と思しき沈黙はわずかな間で、彼女はすぐに顔を上げる。
おもむろに箱の中に手を突っ込んで、その一本を取り出した。
オレンジ色の液体の入った、透明な容器である。
ガラスとも、プラスチックとも違う材質のようだ。
悠に向けて、その容器を差し出した。
「これ、どうゾ」
「えっ……」
つい反射的に受け取ると、容器は心地良く冷えていた。
この陽光の照りつける空中庭園で飲むのは、さぞかし美味しいことだろう。
悠は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「で、でもお金ないよ?」
「いいのデス! お金はわたしの――な、何でもありませン! お客様は大変な身の上なのですかラ、これぐらいさせてくださイ!」
途中まで口走りかけた言葉を飲み込む少女。
つまりは、自分の奢りだからどうぞと、そういうことだろうか。
しかし彼女は奴隷である。お金を持っているにしても、ごく僅かなのではないだろうか?
いい子だなと思いながら、悠は苦笑まじりの微笑みを、少女へと向けた。
「あの……さ、もし時間が大丈夫だったら、僕と少しお話しない? 一緒に来てる人が戻って来たら、何とかしてくれるかもしれないから」
「それハ……」
少女は、きょろきょろと辺りを見回し、そして目を伏せ思案して、
「はい、分かりましたデス」
にこりと、笑ってくれたのだ。
向日葵のような、太陽の下によく映える笑顔であった。
「僕は、神護悠っていうんだ。君は?」
「こ、これは失礼しましタ、わたしはティオといいマス。見ての通りの森人で、この帝国の奴隷として使われていますデス」
「ん、そっか。ティオ……可愛い名前だね」
はにかみながらも喜んでくれるティオ。
「ありがとうございマス、ユウ様。ユウ様も優しい響きで、女の子らしいいい名前だと思いますデス」
「男です……」
「うそ、こんなに可愛らしいのに……あああ、ごめんなさい! ごめんなさいデス!」
そうこうして、ティオと談笑しながら数分ほどが経過した頃だろうか、
「この無礼者がぁ!」
悠の背後に、荒ぶる男の声が聞こえてきた。
振り向くと、かなり離れた場所に人だかりができている。
騒ぎはその中心のようだが、悠には何が起こっているか、見えなかった。
「いけなイ……!」
だがティオには見えていたらしい。
森人は目が良いのだと、つい先ほど聞かされていた。
人だかりに向けて駆けていくティオを、悠も追いかける。
(喧嘩……? いや、これは)
辿り着いてみると、一人の若い男が立っている。
年齢は二十歳頃だろうか、仕立ての良いきらびやかな服に身を包み、金色の頭髪はいわゆるマッシュルームカットの形で丸く纏められていた。
如何にも貴族のお坊ちゃんといった風情の男である。
額に青筋を立て、激怒しているのが手に取るようにわかる。
そしてその後ろには、年老いた皺だらけの女性がへたり込んでいる。
相当な高齢のようだ。頭が惚けてしまっているのだろうか、事態があまり理解できていないようだが、しかし怯えて涙を浮かべている。
ティオが意を決したように
「ユウ様は、ここで待っていてくださイ、危ないのデ! わたしちょっと行ってきマス!」
「えっ、ちょっ、ティオ……!」
ティオは人だかりの中を飛び出し、老婆を庇うような形で男の前に立った。
くりっとした瞳で、男を見上げる。
「お、お止めくださイ、ギメール卿!」
それが彼の名なのだろうか、ギメールと呼ばれた男は、ティオの姿に目を見開き、そして唇を歪ませる。
大袈裟な仕草で両手を広げ、嫌味ったらしい笑みで、
「森人の奴隷……これはこれは、噂の貴族殺しの淫売の娘かな?」
ぎりっ、とティオの歯ぎしりの音が聞こえた気がした。
彼女は何かを押し殺すような震える声を出す。
「ティオと、申しますデス。何があったのかは分かりませんガ、こんなお婆さんにひどい事をするのは、どうかお止めくださイ……!」
ギメールが、露骨に不愉快そうな表情で舌打した。
「これだから田舎者の森人は。フォーゼの言葉もまともに使えんのか……薄汚い亜人の奴隷風情が、帝国貴族である吾輩に意見を挟むと?」
「そ、それハ……」
ティオは、痛ましいほどに震えながらも、口を開く。
その顔はこの世の終わりのように青ざめていた。
奴隷の身で貴族を名乗る彼に相対するにはどれほどの勇気を要するのか、異世界人である悠には推し量ることは出来なかった。
ギメールの語気が荒くなっていく。
「その異民の婆が吾輩の服を汚したのだ! 仕置きをして何が悪い!」
ギメールの指差す先には、ほんと少し土に汚れたズボンの裾。歩いて普通に汚れたと言われても、まず分からないであろう些細なものだった。そもそもその程度の汚れが気になるなら、こんな場所に足を踏み入れなければいいのに。
どうしてそんなに怒っているのか、悠にはまったく理解できない。
「でも、でも、こんなお婆さんに……どうか、ご容赦を。お願いしまス、ギメール卿……!」
ティオは見るも哀れな様子で訴えかける。
当事者の一人である老婆は、現在の状況を理解していないようだ。呆けた声を漏らしながら、きょろきょろと辺りを見回している。
ティオが自分を庇っていることなど一切認識していない様子なのが痛ましかった。
だがティオは、それでもその場を退こうとはしなかった。
「ふんっ、こんな穀潰しの老婆、生きているだけで資源の無駄だろうよ。フォーゼ人たる同胞ならまだしも……さっさと処分した方が帝国の利益に適うというものだ」
「そんな……!」
「だから口ごたえするなと――」
「――あ、あの、すみません」
悠が、ティオを背に二人の間に立った。
ティオが、唖然と声を漏らす。
「ゆ、ユウ様……?」
「そ、その……まずは落ち着きましょう、ね?」
ティオは待っていろと言ったが、これ以上は見ていられない。
悠はとりあえず、暴発しそうなギメールをこれ以上刺激しないように、愛想笑いを浮かべながら相対した。
ギメールの眉が、不愉快そうにぴくりと動く。
そして、吐き捨てるように一言、
「――異界の戦奴か、去ね下郎」
無造作に、拳を振るった。
裏拳の要領で振るわれたその拳は、悠の頬を強かに打ち、振り抜かれる。
見えてはいたが、悠の運動神経で避けるのは不可能である。出来るのは、そのまま覚悟を決めることぐらいだ。
殴られた悠は、大きくよろめき尻もちを突く。
「大丈夫ですカっ!?」
ティオが悲痛な声と共に、気遣わしげな様子で顔を覗き込んでくる。
ギメールが手加減をした訳でもないだろうが、それでも大した力では無かった。ひ弱な悠でなければ転ぶことすらなかったであろう程度ものだ。
口内を切ったが、即座に超再生が始まる。殴られた痛みより、口の中に酸を塗りこまれるような再生の痛みの方が厄介であった。
悠は、再生の痛みに伴う苦悶を努めて表に出さないように、微笑んだ。
「だ、大じょ――ぐっ」
大丈夫だよ――そう言おうとしたが、頬に硬い感触が押し付けられる。
靴だ。ギメールが、悠の顔面に靴を乗せ、ぐりぐりと踏んでいた。
悠の脆弱さに気分を良くしたのか、嗜虐的な愉悦に顔を歪ませながら、上機嫌そうに言う。
「こんな薄汚い森人を見て喜ぶとは、異界の者の品位も知れたものよな。我々に使われることを光栄に――」
胸を、何かが焦がしていた。
「――取り消してください」
「なに?」
ギメールは、不愉快そうに唸る。
気分よく垂れ流していた口上を止められたことに、再び気分を害したようだ。
「この娘は、薄汚くなんて無い……! こんなにいい娘が、薄汚い訳ないじゃないですか……!」
悠は、顔を踏みつけられたままギメールを真っ直ぐ見上げていた。
自分に向けられた暴力はどうでもいい。
ただ、この優しく勇敢な少女を侮辱されたままにしておくことが、我慢ならなかった。
靴を押し付けてくる足を掴み、立ち上がろうとする。
「貴様、下郎の分際で吾輩の脚に触れ――」
ギメールは、あからさまな嫌悪と怒りに顔を歪め、
次の瞬間、
「ぎゃぶっ!?」
その顔面に、拳が突き刺さった。
潰れた蛙のような悲鳴を漏らし、ギメールは倒れていく。
何事かと頭を上げると、目の前に朱音が立っていた。
その表情は鋭く、まるで牙を剥く猟犬のような剣呑さを滲ませている。
彼女の右腕は握り抜かれて、ギメールの顔面を直撃していた。
悠は、内心青ざめた。
朱音の身を案じて。
「ぐぇっ!」
ギメールはそのまま、無様に地面に転がる。
痛みに悶絶しているのか、地面にうずくまったまま甲高い声で唸っていた。
「朱音さん……」
ギメールは、恐らくは身分の高い貴族か何かなのだろう。
ならば、帝国内において何がしかの力を有している可能性が高い。そんな彼を殴り飛ばしてしまえばどんな事態を引き起こすか――とても楽観的な想像は浮かんでこなかった。
だが、恐らく朱音は、悠が殴られたことに怒ってくれたのだろうと思う。
いつも通りに。あの学校に通っていた頃のように。ごく当然のように。
そう思えばとても責める気になれない。むしろ、情けなさで胸がいっぱいになる。
「……ごめん」
「別に……あんたのためじゃないわよ、勘違いしないで。その……このキノコ頭の形が何かムカついただけ」
朱音自身も、ギメールを殴った危険性については思い至っているはずである。
冷静さの戻ってきたその表情には、明らかに「しまった」と言わんばかりの焦りが見てとれた。
「あ、あぁ……」
ティオは、両手で口元を押さえて愕然としていた。
まるで、自分が罪を犯してしまったかのような絶望的な表情。
悪いのは全て自分だと言いたげな悲壮な姿だ。
「きぃさぁまぁ……!」
一体、どうすれば朱音の安全を確保できるだろうか――そんなことを考えているうちに、ギメールがふらふらと起き上がった。
頬は腫れ、鼻から血を垂らしている。その目元は真っ赤であり、充血した瞳は濡れていた。
膝ががくがくを震えるその様は、まるで生まれたての小鹿である。
大の男が少女に殴られた姿としては、いささか以上に情けないものだ。
騒ぎを聞きつけ集まってきた人々から、失笑らしきものが漏れる気配があった。
「ぐぎ……!」
それが更にプライドを傷つけたのだろうか、ギメールの顔色は真っ赤を通り越して紫にも見え、発狂寸前の形相を浮かべる。
「下賎の分際で、この帝国貴族たる吾輩にぃぃぃぃぃぃ!」
吼えるギメールは、腰に下げていた長剣を抜き放っていた。
滑稽なほどに装飾華美な一品だが、その陽光に照らされる刀身は、十分な殺傷能力を窺わせる銀色の輝きを放っている。
「なっ……!?」
こんな公衆の場で、まさか剣を持ちだすとは思わなかった。
ギメールが腰に剣を下げていることは知っていた以上、それは想像力の欠如だったのかもしれない。
だが今は、そんなことを悔やんでいる場合ではない。
「――ッ」
朱音が小さく息を飲み、
「だめェっ!」
ティオが悲痛な声を上げる。
悠は反射的に、朱音を押しのけて前に出ていた。。
その身を、血走った目で剣を振り上げるギメールの前に晒した。
両手を広げ、ここから先へは行かせないとギメールを真っ直ぐに睨む。
「悠っ!?」
朱音の悲鳴じみた声。
彼女が悠の肩に手を伸ばすが、もう遅きに失していた。
ギメールの振り下ろされた長剣は、1秒も後には悠の胴体を肩口から斜めに切り裂くだろう。
その程度では、悠の身体は死ぬことはない。
そのままギメールが勢いづいて悠の首を刎ねようとすれば危険であるが、そうならないことを祈るしか無いだろう。
とにかく、朱音とティオの身を護ることが最優先。自分の身の安否についてはその後である。
悠は当然のように、そう判断していた。
最悪の事態も覚悟して、悠は歯を食いしばり――
「――え?」
突然、ギメールが宙を回転していた。
腹を軸にして、絵を360度回転させたかのようにくるりと一回転していた。
滑稽以外の何者でもない、非現実的ですらある光景。
だがそれは現実で、悠の超動体視力には、それを成した者の姿がはっきりと映っていた。
「なっ……あ!?」
ギメールはそのままふわりと着地し、たたらを踏むようによろめきながらも踏み止まる。
何が起こったか分からないといった様子で目を白黒させており、やがて自分の手が空になっていることに気付いて驚愕の声を上げた。
そして、傍らに立つ女性を呆然と見遣る。
悠も、朱音も、ティオも似たような視線を彼女に投げかけていた。
「ルル、さん……?」
桃色の髪の狼人の女性が立っている。
その手には、先ほどギメールが持っていた長剣が握られていた。
先ほどのギメールの身に起きたのは、疾風のごとき勢いで駆けてきたルルが、ギメールの頭に手を当て、足を引っ掛け、そのまま良く分からない体術か何かを仕掛けた結果である。朱音の用いる藤堂流とはまったく異なる術理に見えた。
ルルは、一瞬のうちに宙を回るギメールから剣を奪い、あっさりと彼を無力化していたのだ。
ギメールは、間の抜けた顔で口を戦慄かせている。
「き、貴様は……」
予想外の事態に、周囲は揃って固まっている。
ルルは、その唖然とした反応を意に介する風でもなく、何事も無かったかのように背筋を伸ばしてギメールを見据える。
空を撫でる風に、桃色の髪とスカートが靡いている。
メイド服を着ているのに、彼女の佇まいには武器である長剣が妙に似合って見えた。
「桃色の髪の狼人……貴様は、帝都の……魔道省本局の亜人奴隷か……」
ギメールは、怖気付いたように後ずさりした。
「お初にお目にかかります、ギメール卿。せっかくの御見事な意匠の芸術品です。どうか血で汚すような真似はお止めくださいませ」
ルルは、そんな彼に剣を返して恭しく一礼する。
両手でスカートを摘まむ、優美な動作。
気品溢れるその流麗な作法は、まるでどこかの王族かと見紛うほどだ。
周囲から、感嘆のため息が上がっていた。
頭を上げたルルは、怜悧な表情で言葉を続ける。
「私はルルと申す者でございます。帝国魔道省、本局所属の奴隷です。この度はこのお二人の保護のため、帝都より使わされた次第」
明瞭でよく通る声。
単に声質や声量の問題だけではなく、心にまで浸透するような不思議な響きのある声だった。
ギメールは、先ほどまでの猛り狂った様子から一変し、やや青ざめた顔に苦み走った表情を浮かべていた。
ルルはそんな彼の様子を気にした風も無い。
貴族と奴隷、身分の差は比べることも愚かしいはずであるが、ギメールの方が遥かに小さく見える光景である。
「ギメール卿。奴隷の身分で差し出がましい口を挟む無礼をご容赦ください。
帝国法の改正により、地球より召喚された異界兵には最低でも兵士以上の階級が与えられます。加えて、このお二人は第二位階の魔術を行使しており、帝国法上、準騎士階級に位置することとなります。戦奴、という表現は適切ではないかと――当然、深く広い教養をお持ちのギメール卿はご存じでございますね?」
ルルの言葉を受けたギメールが、悔しげに唸った。
「……当然だ、知っておる。だが、所詮は我々帝国の制御下にあるのだ、奴隷と変わりあるまい。だいたい、野蛮な狼人風情が、このギメールに意見するなど――」
「お言葉ながら、私は奴隷という卑賤の身分ではありますが、現在は特例として本局の派遣省員に準じた権限を与えられております。これも聡明なギメール卿ならば既にご承知かとは思いますが」
ギメールの、歯ぎしりの音が聞こえてくるようだ。
「それも、聞いている……」
ルルは頷き、ギメールが渋々と鞘に納めた剣を見下ろしながら、
「故に、私には本局の正規省員に代わり、お二人の立場を保全する義務があります。ユウ様とアカネ様について申し入れがございましたら、どうかメドレア支局を介して魔道省の本局に連絡をお取りください。こちらも、今回の件を子細に纏めて報告致しますので」
「ぬっ……ぎぃ……!」
ギメールは、明らかに動揺していた。
どうやら、魔道省の本局の所属という身分は、相当に影響力があるようだ。
そしてルルは、震えて事態を見守っていた少女にちらりと目を向ける。
次にルルは周囲を……空中庭園に来ていた人が集まりつつある現状を見渡して、
「――これ以上は、ギメール卿の風聞にも良からぬ差し響きがあるのではないかと。例え貴族といえど、独断で民を裁く権利はないはずですが」
「……っ!」
それが決定打だった。
ギメールは何かを喚こうと口を開き――しかし飲み込むように口を閉ざして、鬼のような形相を浮かべて踵を返した。
「何を見ている! 退けい!」などと苛立たしげに野次馬に叫びながら、足早に去って行った。
老婆は終始、何が起こったかあまり理解していないようであった。
相当な高齢のようで、かなり痴呆が進行してしまっているようだ。
「――か、母さん!」
老婆の息子と思しき中年男性が、顔面蒼白でこちらに駆けてくる。
ルルが恭しく対応して、こちらにぺこぺこ下げる男性と老婆を見送った。
「…………」
それまでの一連の流れを、悠、朱音、ティオの3人は何も出来ず、口も挟めずに見届けていた。
ギメールから解放されたルルは天を仰ぎ、肩の力を抜いたようにため息を一つ。
振り返り、申し訳なさそうな表情を悠に向ける。
「ユウ様、肝心な時にそばにおれずに申し訳ありません。今お顔をお拭きしますので」
ルルは表情を翳らせながらハンカチを取り出し、悠の顔の泥を落とす。
「あ、ありがとうございます……」
どこか気恥ずかしさを覚えながら、悠はなすがままにされる。
ルルの手の温もりが心地よかった。
そんな中、朱音の険のある声が上がる。
「……ちょっと、悠」
「ん?」
何事かと顔を向けると、朱音は険しい表情で悠を睨んでいた。
怒っている――あるいは、泣きそうな表情にも見える。
その声は、わずかに震えていた。
「どうして、あんな真似したのよ……!」
「……あんな真似って?」
「あたしを庇おうとしたことよ! あたしだったら防げたかもしれないのに、あんたなんか前に出てどうするつもりよ! 斬られたらどうするの!?」
「それなら――」
死にさえしなければどうせ再生するから、と言いかけて悠は口を噤んだ。
悠の再生能力は、魔道の能力であると説明している。
あの時は咄嗟のことでそこまで考えている余裕など無かったが、魔道を封印されている今の状況であれを見せるのは拙い。
どう答えたものか悩んでいる悠に、朱音は更に言葉を重ねる。
「もっと、身の程知りなさいよ……この、馬鹿」
朱音の瞳は潤んでいる。その声にはわずかに嗚咽が混じっていた。
仮に先ほど言おうとしたことを伝えたとしても、その表情は変わらないのではないか――そんな根拠のない確信を、悠は朱音の眼差しから感じていた。
何と言っていいか分からずに、ただ一言を口にする。
「……ごめん」
続ける言葉が見つからずに、黙り込んでしまう。
「あ、あノっ!」
沈黙の中、思い詰めたようなティオの声が響く。
多少なりとも落ち着いたのだろうか、悲壮な表情を見せていたティオが、胸元に両手を合わせて悠を見上げている。
泣きそうな顔をする少女に、悠は微笑みかけた。
「良かったね、ティオ」
「その、すみませんでしタ……! お連れの方も、本局の人も……」
ティオは悄然とした様子で肩を落とし、今にも消え去りそうなほど落ち込んでいるようだ。
深々と頭を下げるティオに、悠は照れ臭くてぱたぱたを手を振る。
「い、いいよぉ別に……僕がやりたくてやったんだし……」
「結果論ですが、あのまま捨て置くよりは良い結果になるでしょう」
「だいたい何なのよ、あの男……!」
朱音は吐き捨てるようにギメールの聞こえた方向を睨んでいた。
既にギメールの姿は無く、野次馬も関わり合いになるのを避けるためか既に立ち去っている。
「ギメール家は、古くから在る帝国貴族の家門の一つです。その……帝国の祖であるフォーゼ人の、中でも純血で身分の高い方々の中には、私やティオのような亜人を蔑視している方も少なくなりませんので……ギメール卿は、特にその傾向が強い方なのです」
「へえ……何か、ルルさんに怯えてたような感じでしたね」
「私に、ではなくその背後の魔道省にですね。魔道大国である帝国において、魔道省はある意味では皇帝陛下よりも影響力の大きい機関なのです。ましてやその本局相手ともなれば、帝国貴族であっても厄介事の種は抱えたくないと思うのは普通です」
ですが、とルルは苦笑を浮かべた。
「権限を与えられているとはいえ、私は所詮は奴隷です。本当に本局に対して訴えられていれば、面倒なことになる可能性が高いことは確かですね。
……あの様子なら、まず大丈夫だとは思いますが」
「今度は、気を付けるわよ。その……」
朱音は躊躇うように口を開き、そして閉ざして、それを何度か繰り返し、
「……ごめん」
ぽつりと、小さく口にする。
ルルのことは信用し切れないが、それでも尻拭いをさせた礼は言わなければならない。
そんな朱音の葛藤が見え隠れする謝罪であった。
「どうかお気になさらずに。私は務めを果たしただけですので」
受けたルルは、優しくにこりと微笑んだ。
ルルの機転がなければ不味いことになっていたのは確かだったようだ。
しかし、朱音に手を出させてしまったことについては、自分にも原因の一端があると、悠は思っていた。
あの時、ギメールの殴打を避けるなり防ぐなりしていればあそこまで問題は大きくならなかったのではないだろうか。
自分の弱さが情けなかった。
朱音やルルのように、誰かを守れる強さが欲しかった。
ずっと、欲しかったのだ。
魔道の使い手としての自分なら、朱音達を守れるような人間になれるだろうか。
あの剣なら、自分は英雄のように――
物思いにふける悠の足元から、鈍い震動が伝わってくる。
空中庭園の降下が始まった。




