第9話 ―人獣・その2―
「はあああああああああああああああ!?」
晴れ渡った青空の下、朱音の素っ頓狂な声が響き渡る。
ここは異界兵の居住エリアの一画だ。緑の絨毯の生い茂る広々とした空間には、幾人もの人々が行き交っていた。
何事かと振り向く彼らの視線を浴びながら、彼女は金魚のように口をぱくぱくとさせ、震える手で一人の少女を指さしていた。
悠のかたわらに侍る、メイド風の衣装をまとう少女を。
「ど、どどど、どういうこと……?」
風にたなびく大きなポニーテールが特徴的な、黒髪の少女。
愛らしくもエネルギッシュな容姿、いかにもスポーツ少女然といった雰囲気であるが、女の子らしい服装も良く似合っている。
ちんまりと小柄で、その胸は平坦であった。
朱音の震える唇が、その名を口にする。
「どうして、伊織さんが……!」
「アルバイトだ!」
島津伊織が、腰に両手を当てて仁王立ちしていた。
ドヤっとでも言いたげな、どこか挑戦的な笑みを浮かべながら溌剌とした声を上げる。
「ゆえあって散財していたから、懐具合が寒くなっていてな! 困っていたところだったんだが、ルルがいなくなってしまっただろう? 悠が困っているのではとダメ元で申し出たのだが、自分には奴隷がいないし同じ第一宿舎暮らしだし悠さえよければという話になったんだ!」
「そ、そういうことみたいでさ……」
苦笑しながら頬をかく悠。
別に世話係がいなくても生活はできるし、彼女とはあの祭りの最終日にあんなことがあったため気まずさもあったのだが、「おいじゃ嫌と……?」なんて上目遣い気味に切なげに問われると断りづらく、強く否定できないまま、今に至ってしまった。
趣味が近く話の合う伊織と一緒に行動するということ自体は、とても楽しいとは思うのだけど。
ティオと朱音が不意打ちを受けたようにたじろいで、頬に一筋の汗を伝わせながら戦慄の言葉を漏らしている。
「で、電光石火デス……!」
「くっ……昨日の夜から姿を見ないと思ったら……!」
その場には、冬馬たち、そして美虎らも一緒にいた。
それぞれに呆れたような、感心したような、何とも複雑な表情を見せている。
地球からの伊織の友人たちは、「やったねー、イオっち」などと素直に祝福しているようだった。
「ちっこいだけあって小回り利かせてんなあ島津……」
「乙女の燃える恋心っスね!」
「……ほんとうに乙女?」
昨日は、伊織も一緒になってしょげかえった悠を慰めていた。
悠はそのまま冬馬らクラスメートたちの暮らす宿舎でお泊りということになったのだが、伊織は美虎らのように第一宿舎に戻ったと思われていた。
しかし、まさかこんな思い切った行動に出ていたとは。
「どうだ? 似合っているだろー?」
当の伊織は、ふふんと鼻を鳴らして悠に肩を寄せている。
活き活きとハイテンション。先ほどベアトリスの執務室で姿を見せた時には、かなり緊張して小動物のようにビクビクしていたのだが、悠が断らなかったのでずっとこんな調子だ。
うきうきと心から楽しそうな伊織と一緒だったおかげで 悠も多少なりとも元気を貰えたことも事実であった。
「うー、うー、うー! わたしがユウ様のお世話しようと思っていましたノ二……!」
ティオが、両こぶしをぶんぶん振りながら、心から悔しそうに頬を膨らませて唸っていた。
伊織は、悠に明確な異性としての好意を抱き、それをオープンにしている。
そのアピールの一環でもあるだろうとはさすがの悠とて想像はついた。
同じく悠への好意を開けっ広げにしているティオとしては、忸怩たる気持ちがあるのかもしれない。
「ぐぬぬ……!」
でもどうして、朱音まで喉元に刃を突き付けられたような危機感たっぷりの顔をしているのだろうか。
内心で小首を傾げている悠に、ティオは物欲しそうな上目遣いで指を咥えながら言ってくる。
「ユウ様ぁ……だったらユウ様係は日替わりにしませんカ? いっぱいサービスしますから、ネ?」
「駄目たい! お金を貰う以上は適当なことはできなかと! 悠係はおいが責任をもって務めるけん!」
「僕はクラスで飼ってるペットか何かかな……?」
悠は半眼で呻きながら、視線を泳がせる。
こちらをぶすっとした表情で見つめている朱音と目が合った。
「ど、どうかした……?」
「……別に、何でもないわよ。元気出て良かったじゃないの」
唇を尖らせながら、ぷいと顔を背ける朱音。
腕組みをして二の腕を指でトントンとする癖は、彼女が苛々している時にたまに見るものだ。
それも悠や伊織のような他者に対するものではなく、自らに対して向けられたものであることが多い。
こうなったら、とりあえず放っておくしかないことを、悠は学習している。
「もう、イオリ様のいぢわる! でもわたしの後輩さんなんですカラ、分からないことあったら何でも聞いてくださいネ!」
「ん、お願いするけん、ティオ」
ぷりぷりと怒りながら握手を求めるティオ。いい子であった。
騒然とした雰囲気は次第におさまり、ふたたび穏やかな空気が流れつつある。
話すならば、今だろう。
ベアトリスとの話し合いから、ずっと話さねばと思っていたことだ。伊織の申し出に素直に頷けていないのも、そのことを思い悩み続けていたからだった。
悠は意を決して表情を引き締め、口を開く。
「あのね、皆! 聞いてくれるかな?」
突然の真剣な声色に、皆は目を丸くする。
「ん? どうしたんだよ、悠」
この場には、悠の仲間たちの中でも特に親しいメンバーが多く集っていた。
彼らの注目が悠に集まったことにわずかな緊張があったが、それを振り払って言葉を続ける。
「この国に、すごく危険な組織が入り込んでるかもしれないって話は、聞いてるよね」
「“人獣”だったよな、リーダーが第四位階の犯罪組織つーか、テロ組織つーか……とにかくやべえ連中だって話は前々からあったな」
冬馬の言葉に、他の皆も頷く。
説明の手間がいらないことを確認し、話を続けた。
「そのリーダーにね、もしかしたら僕が狙われてるかもしれないんだ。魔道の素質が高い人の前に現れることが多いらしくて……過去にも、それで酷いことをされた人がいてさ。大切な仲間を皆殺しにされた人とか……」
『……っ』
空気が張り詰める。皆が、こわばった顔で悠を見つめていた。
悠はそれを、真っ向から受け止める。
「このまま帝都にいるのが一番安全だってことなんだけど、でも、もし僕に何かあった時に巻き添えになるかもしれないからさ。しばらく、あんまり僕と一緒にいない方がいいんじゃないかなって……せっかくお世話してくれるっていう伊織先輩には、申し訳ないけど――」
悠の思い詰めた言葉は、
「――何言っとるばい。だったら尚更一緒におらんといかんとよ。一人になんて絶対できんけん」
伊織の当然のような、力強い物言いによって遮られた。
「え……と」
思わず続く言葉を飲み込んだ悠に向けて、有無を言わさずにぐいっと腕が伸びてくる。
朱音だ。への字口の不機嫌顔で、悠の頭を右腕で抱え込む。頬に、彼女の豊かな胸の張りのある柔らかさ。そして白髪頭に左こぶしが添えられて、
「いたたたたた! す、隙間っ! 頭蓋骨に隙間開いちゃう! 痛い、痛いよ、朱音ぇ!」
「ほんっっっっっと、このバカ! 記憶力いい癖に学習しないわね!」
ぐりぐりぐりと抉り込むようにこぶしを頭に押し付けながら、朱音が耳元でわめき立てる。
「あんた、あたしでもティオでも壬生でも他の誰でもいいけど、同じこと言われたらどうするのよ! 危ないから距離置いたりするっていうの!? どうなのよ!」
「そ……それは……」
「えいッ」
「あいたっ」
デコピンを放ったティオが、「しょうがないなあ」とでも言いたげな困り笑顔を浮かべていた。
「前もありましたよネ、こんな流れ」
「えーと……ああ、うん」
自分の身体、そして過去について明かした時のことを言っているのだろう。
あの時は朱音をずいぶんと傷つけ、怒らせ、そして悲しませてしまったものだ。それはティオも同様である。
「ユウ様の悪い癖デス。ご自分がどれだけ好かれてるか、もっとご自覚してくださイ。ルルさんだって、同じこと言うと思いますヨ?」
「だいたいなぁ、こういう時はじゃあどうしようかって相談するもんじゃねえのか? 何一人で勝手に決めてんだよ、友達だろ?」
「ひんっ」
冬馬が、苦笑いをしながらティオに続く。
「えっと、じゃあ私も……」
「ならウチもー」
「俺もやるわ」
何となく作られた流れで、他のクラスメイトたちまでが悠の額を指で弾いていった。
「いつっ……ちょ、ちょっと……あうっ……ね、ねえ、さすがに多くないか……なっ」
美虎が指をぐっと溜めながら、涙目の悠を見下ろしてにやりと笑う。
「ま、オレ達を薄情者だと舐めてた罰だ、甘んじて受けとけ」
一つ一つ、痛みが弾けるたびに、胸のなかに温かな雫が落ちていくような気がした。
次第に溢れはじめたその熱は、悠の瞳を潤ませていく。
「いたっ……痛いなあ、あはは……痛くて、涙でちゃう……」
熱い感情がぽろぽろと頬を伝っていくのを感じながら、悠は嗚咽を漏らしながら笑っていた。
自分は本当に、いい仲間に恵まれた。
ずっとずっと、こんな日々が続けばいいのに。
いつかルルも連れ戻して、 皆一緒に笑い合いたい。
そんなことを、切に考えながら。
そして4時間ほど後、悠は一人で別行動を取っていた。
用事があったのだ。
悠が望んだ、しかし先ほどの暖かな気持ちが凍てつくほどの不安をともなう、気の重い用事であった。
「君とこうして1対1で顔を合わせるのは、はじめてになるね」
「……そうですね」
夕方前。ここは魔道省施設内の応接室だ。
高級感あふれるソファに勧められるままに腰掛け、悠は緊張を滲ませた声で答えた。
対面に座る金髪をオールバックに撫でつけた男が、能面めいた薄ら笑いを張り付けたまま悠を見下ろしている。
「ありがとうございました、ラウロさん」
「構わんよ。君は異界兵でも特別な功労者であることだしね」
魔道省幹部ラウロ・レッジオ。この帝国でもっとも苦手意識を持つ相手に、悠はベアトリスを通して約束を取り付けていた。
多忙と聞いていたが、意外にも彼はすぐに時間を作ってくれたのだ。
「さて、私に聞きたいことがあるそうだが?」
「はい」
悠は頷き、礼儀として目を合わせる。
爬虫類の舌を思わせる、冷たくも粘着質な視線。
悠の身体を弄り回し、大勢の子供たちを犠牲にした研究者たちと同類の眼差しだ。この目が、悠はどうしようもなく嫌だった。
だけど、彼にしか聞けないことがある。
何故なら、彼は、
「あなたは、ウォールダー家に仕えていたことがあったんですよね? シドが自分の家を滅ぼした事件の、唯一の生き残りだって聞きました」
「…………」
いつもペラペラと言葉の滑り出るラウロの口が、わずかな間だが珍しくも閉ざされた。
肩を竦める仕草はいつも通りだが、その声色は常とは異なる感情が滲んでいるように聞こえる。
「……ああ、そうだよ。私はシド・ウォールダーの従者だった。当然だが、あの事件では関与を疑われてね。まったく、潔白を証明するまで酷い目に遭ったよ」
ラウロは帝国の重要人物の一人であり、第三位階の魔道師だ。その経歴も、大まかなところは調べればすぐに分かる。
年齢34歳、貧民街の孤児であるが、シドの両親であるウォールダー夫妻に才覚を見出され、侍従として仕えることとなる。ウォールダー家滅亡後は、ファーレンハイト家に仕え魔道省の官吏として辣腕を発揮、今では貴族位を得ており、成り上がりの体現者としても知られていた。
そして、彼はルルの直接の上司でもあった男だ。
悠と出会う前の彼女は、魔道省所属の戦奴としてラウロの命により様々な任務を帯びて動いていたらしい。
「ルルさんが、どうしていなくなったかも……」
淡い湯気を立てる茶に口を付けながら、ラウロは頷く。
「当然、知っているとも。“獣天”への復讐……できるとは思えんが、存在しない可能性に身を投じるような愚かな女でもない。死んだ可能性が高いと思われていた彼女が突然現れ、このようなことを言ってきたのだよ。しばらく役に立つ代わりに、召喚される異界兵のうち彼女が選んだ者の奴隷にさせて欲しいと。そして彼女が選んだのが、君だった訳だ。君に、シドが興味を持つだけの魔道の才能があると彼女は考えた」
そこでラウロは、冷たいメスのような視線を送ってくる。受けた悠は、その鋭い眼差しで腑分けされて内臓を覗かれているような心地だった。だからこの人は嫌なのだ。
「妙な話だ。こうも思えんかね? 彼女は、君が現れることを知っていた、と」
「…………」
悠は、むっつりと黙り込む。
それは、自身でも疑問に思っていたことだった。
ルルの残した書置きには、彼女の色々な思いの丈が切々と綴られていた。
当初は、悠を自分の美貌と身体、そして技で溺れさせ、籠絡してしまおうと思っていたことも、その中にあった。
シドに期待を抱かせるほどの魔道の才覚の持ち主を、その餌として探していたというのなら、魔道の才覚に優れた者が多い地球人の中から待つというのは理に適っているようには思う。
だがその才覚を見抜くだけの“眼”は、果たしてルルには備わっていたのか?
そして、ルルの自身の身体をも利用するそのスタンスは、その相手が男性であるという前提ではないのか?
「あるいは、師であるマダラ殿か。そちらの可能性の方が高いだろうが、君の方は何か心当たりはないのかね?」
「……いえ、何も」
“偽天”マダラがルルに入れ知恵をした可能性は高いように思える。
つまり、彼はそれだけの魔道の才を有する者が――悠が現れることを、前もって知っていたのだろうか。
あくまでその可能性に賭けて行動していただけかもしれない。だがルルは、何らかの確信をもって行動していたように思えてならないのだ。その違和感は、悠よりもルルと付き合いが長いラウロも感じていたのだろう。
そもそも、本当に自分にそんな魔道の才能があるかどうか、極めて疑わしく思っているのだけど。
答えの出ない話題を打ち切って、ラウロは当初の話に戻してくる。
「彼女との契約でね。“人獣”が帝国に現れたら、いつでも奴隷首輪を解除して、奴隷身分から解放することになっていた。欠陥人種である亜人とはいえ、契約は契約だ。一昨日の明け方に施設を訪れ、首輪の鍵を受けとりに来たそうだよ」
「だったら、ルルさんがどこにいったかは知らないんですか……!?」
ベアトリスよりもより中枢に近いラウロならば、何かを知っている可能性は高い。
そして魔道省にとっても重要性を増しつつある悠ならば、ラウロから聞き出す余地があるのではないか。
それが、ベアトリスが悠とラウロを合わせてくれた理由であった。
「ああ、知っているとも」
返事は、あっさりと返ってきた。
悠は目を剥いて、テーブルを叩くように身を乗り出した。
「教えてください! お願いです! 心配なんです! あの人をこのまま放ってなんておけないんです!」
だがラウロは、首を横に振って拒絶を表した。
切実に訴える悠に、哀れみの片鱗すら見せていない。
「それも契約だ。言う訳にはいかない」
しかし悠も諦めない。必死の形相で食い下がる。
「どうすれば教えてくれるんですか!? 僕にできることならしますから! 研究でもっと危ない実験にも付き合いますから!」
「それは魅力的だが、それとこれとは別なのだよ。知っていると伝えたことが、君に対する最大限の誠意だと思って欲しいのだがね」
口調は穏やかであるが、そこに込められた確かな意思を、悠は感じていた。
しばらく潤んだ瞳で睨みつけ、やがて深々とため息をついてソファに座り直す。
膨らんだ期待から突き落とされて落胆する悠に向け、ラウロは優雅に茶を堪能しながらこのように言った。
「少なくとも、彼女がシドと遭遇し何かを仕掛けたという情報はない。ならば、まだ無事であると考えるのが妥当だろうさ。あの男がどこにいるか、今は帝国のみならず全世界の諜報機関が見失っている状態だ。この領内に潜んでいる可能性が高いことは確かなので、血眼になって探っている最中だがね」
「ルルさん……」
ラウロは、無理だった。
こうなれば、頼れる人伝はあと二人。
忙しくて姿を見せていない玲子と、ルルの臣下であったガウラス・ガレスだ。
ガウラスもまた、帝都から姿を消していた。
だがルルと一緒に行動している訳ではないようなのだ。彼女はガウラスにすら手紙だけを残していなくなってしまったらしい。
昨日、慌てて彼の寝泊まりしていた宿屋に向かうと、訪れた悠のための手紙が託されていた。そこにはこう書かれていた。
消えてしまった姫様を探す。何か分かったら悠に知らせる、そちらも何か分かったら教えて欲しい、と。
彼は今、最後の同胞たる彼女を探して広い帝国領内を走り回っているのかもしれない。
ここであまり愉快ではないラウロとの対話を終えても良かったのだが、気になったことがあったので話を続ける。
それは、ラウロにしか聞けないであろうことだ。
「シド・ウォールダーって、どんな人間だったんですか?」
「……っ」
その問いに、ラウロの能面のような表情に亀裂が入った――ような気がした。
少なくとも、頬がわずかに震えたのは確かである。
やはり、彼にとっても特別な意味を持つ名前であるようだ。
彼は天井を仰ぎ、当時を思い出すようにぽつりぽつりと語っていく。
「才能の怪物だ。魔道だけではない。およそあらゆる分野において、彼は天才とされる者達を歯牙にもかけぬ才覚を発揮していたよ。信じられるかね? 数十年もの年月をかけて研鑽した達人の技を、シドは一目見ただけで完璧に模倣し、二度目には改良して駆使してみせたのだ。一つの言語を一晩で会得し、難解な書物を流すように目を通しただけで理解する。あの男にウォールダー夫妻の清廉な人格まで遺伝されていれば、帝国の運命も大きく変わっていたかもしれないな。ルヴィリスの事件の際、あの男が顕天を行使したと聞かされても私は驚かなかったよ。当然だ、奴が“天”に至れなければ、いったい誰が至れるというのだ……!」
語る口調は、次第に滔々と滑らかに、そして力強くなっていく。
その声は、ほの暗い熱を孕んでいた。
どこや危ういものを悠は感じていたが、その正体までは見当も付かなかった。
気後れしながらも、おずおずと問いを重ねる。
「あの、ウォールダー家が滅びたっていう事件の時には、ラウロさんも……」
「知らんよ。私は惨劇が起きた時、ウォールダー家を離れていた。ウォールダー夫妻から使いを頼まれ、アルドシュタイン家に赴いていたのだ。戻った時には、すでに何もかもが終わっていた」
「……そ、そうですか。すみません、嫌なこと聞いて」
ラウロの様子が何やら妙で、悠は質問を引っ込めた。
シドについての話題に触れてからだ。いつものすべてを冷笑するような余裕は消え、溶岩を思わせる粘着質な情念の熱が感じられた。
どうも彼は、あの“獣天”にただならぬ感情を抱いているらしい。
才能云々よりも、もっと人格的な部分について聞きたかったのだが、これ以上の質問をするのが躊躇われるほどの不気味な危機感が、彼から漂っているような気がした。
「あ……ありがとうございました。僕はこれで失礼します」
「……ああ」
ラウロに向けてぺこりと頭を下げ、悠はそそくさと応接室を後にするのだった。
「うぅぅ……やっぱりあの人、苦手だよぉ」
胃のあたりを押さえて情けないことを言いながら、悠は魔道省の施設を抜け、帝城の中へと足を踏み入れていた。
この後は、帝国の軍部に顔を出さなければならないことになっていた。
異界兵の中でも特級戦力の一人である悠と、他の“人獣”対策のための要員で早いうちに顔合わせをしておきたいということだ。悠以外にも上位の実力を誇る異界兵は呼ばれている。省吾あたりは、間違いないだろう。
帝都の裏側では、粛々と“人獣”を迎え撃つ準備が進められているようだった。
「でもこっちはこっちで気が重いなぁ……」
悠個人としては、自分がそんなに大した戦力だという自覚がいまいち薄い。
そんな実力者たちの中に入って大丈夫なのだろうか、そんな不安を胸にとぼとぼと鈍い足取りで目的地へと向かっていた。まだ少し時間はあるので、急ぐ必要もない。
その途中、親しげに声をかけてくる者がいた。
「やあ、神護悠君」
「はい……?」
振り返ると、知らない人物であった。
少年だ。自分と同い年ぐらいだろうか。
中肉中背の、濡れ鴉のような黒髪の少年だ。
綺麗な顔立ちは耽美で中性的な魅力を帯びているが、自分のように少女と間違われることはないであろう芯の強い存在感を放っていた。
来ている制服から、彼も異界兵の一人であることが察せられる。
気安い態度に、悠は戸惑いながらも返事した。
「ええと……はじめまして、ですよね?」
「そうだね、こうして顔を合わせるのは初めてだ。もっとも、僕は君のことをずっと前から知っていたし、会いたかったけどね」
気さくで親しみやすい口調で、やんわりと微笑みかけてくる黒髪の少年。
自分の胸を手をあてて、自己紹介をしてくる。
「姉さんが世話になっているね。俺は雨宮玲人、君と同学年だし、敬語はいらないよ」
「あ……」
そうだ、彼の容姿はどこか玲子を思わせるものだ。
随分前に、彼女の弟がいることは聞かされていた。時おり、彼にことを口にすることもある。
その時、彼女はいつも複雑な表情を浮かべていたものだ。
雨宮玲人、第三位階の一人であり、玲子グループとは別の集団のリーダーであると聞いていた。
実力者として知られ、他の幾人かの第三位階のメンバーと一緒に物騒な国境付近に出向いていたようだ。
玲子と同じく、そして別の人脈と情報網を帝国内に形成しているらしい。さすが姉弟といったところか。
「よろしく、玲人でいいよ。こっちも悠って呼んでいいかな?」
「……うん、いいよ。玲人君」
「君もいらないよ」
絶対に気を許してはならないと、彼女や省吾からは念入りに言われていた。
だから、悠は気を引き締めたが――
「――だと思う。あの人ならきっとそうだよ」
「えー、ほんとかなー? だったらちょっとアレだよねえ」
「いやいや、俺は間違いないと思うなあ」
いつの間にか、明るい笑い声を玲人と交わし合っていた。
柔和な玲人の態度にころころ笑い、ふにゃりと相好を崩している。
根っから人懐っこい悠にとって、こうも親しげに接してくる相手を無下にするなどどだい無理な話だ。
玲子をして、「異世界もののヒロインに生まれてたら、奴隷にされそうなところを主人公に助けられたのに、何故か主人公汚の奴隷にしてくださいって言ってその日のうちに股を開いてそう」と称されたチョロさの本領発揮であった。
一応、彼女の忠告も胸の片隅に留めてはいるのだが、彼女の言っていたような危険さなど、今のところは微塵も感じられない。
「夢幻城ではありがとうね、玲人。朱音たちが助けに来てくれたの、君が出してくれた情報のおかげもあったんでしょ?」
「最後の絞り込みには役立ったみたいだけどね。でもどの道時間の問題だったんじゃないかな」
「そんなことないよぉ、来てくれるの遅れていたら危なかったかもしれないもん」
「そう? まあ最小限の犠牲で済んだらしいし、良かったよ」
「……うん」
最小限の犠牲――寿命と負荷で命を終えたカミラのことだろう。
悠個人としては、レミルを思えば「良かった」とは言い難い苦い結果であった。
本当に何もできなかったのか、今でも悩むことがある。
レミルは勿論、伊織や美虎も同じ痛みを抱えているようだ。
しかしその辺りの機微は、実際に現場にいなかった玲人には分からないことだろうなとも思う。
「玲人も、軍の人に呼ばれてるんだ?」
「うん、朽木さんと、ゆかりもね。戦争を経験してきたからかな。ただ、僕は外せない用事があって、さっき挨拶だけして戻る途中なんだけど」
朽木十郎、久我ゆかり。
ともに第三位階の異界兵だ。玲人とともに、国境付近に出向いていた。
実戦経験――この場合は、軍に加わって戦争に、人と人の殺し合いに参加してきたということ。
しかも自らの判断でだ。事件に巻き込まれた悠たちとは違う。
彼らは、その手を血に汚してきたのだろうか。
しかし人を殺してきたのかどうかなど、気安く問えることではない。迷った悠が少し黙り込んでいると、
「雨宮弟、何やってんだよ」
無骨な響きの声が、警戒を滲ませながら降ってきた。
背後へ振り返れば、逞しい体躯をした長身の少年が、胡乱げな表情で立っている。
「省吾先輩……」
武田省吾が、珍しく威圧的な眼差しを送っていた。
その相手は悠ではなく、隣に立つ玲人だ。
いつもは落ち着いている省吾であるが、そんな彼がいざ凄むとかなり怖い。
しかし玲人は、凪のようにその視線を受け流しながら、肩を竦めていた。
「怖い顔するなあ、省吾さん。俺は、姉さんに許可を得たから会いにきたんだけど……まあいいや。わざわざ空気を悪くしてまで話を続けるつもりはないよ。じゃあまたね、悠」
「あ、うん……またね」
ひらひらと手を振って、颯爽とした足取りで去っていく玲人。
悠は戸惑いながらも手を降り返し、彼を見送った。
おずおずと省吾に向き直る。彼の厳つい容貌に刻まれていた険はすでに消え去っていたが、気まずいものを感じながら問いかけた。
「悪い人じゃ、なさそうでしたけど……」
「そうだな、悪人ではねえよ。むしろ正義感は強いぐらいかもしれねえ。だけど、あいつはな……」
省吾は言葉を切り、しばし難しい顔をして黙り込み、ぼりぼりと頭を掻きながら唸るように口を開く。
去っていく彼の背中を睨みながら、雨宮玲人をこう称した。
「怪物、なんだよ」




