第8話 ―人獣・その1―
ルルは奴隷身分から解放され、帝城を去った。
その寝耳の水の知らせは、彼女が姿を消した朝のうちに悠へと届く。
悠が納得できるか否かに関係なく、その現実は悠が寝ている間に進行し、そして完了してしまった後であった。
彼女がいなくなってから2日後の朝、異界兵の少年少女がごったがえす食堂の喧騒に、陰鬱としたため息が溶けていく。
「はぁー……」
椅子に座り、朝食のサラダをいじいじとフォークで突いていた悠に、隣に座る朱音が顔をしかめながら声をかけた。
「悠、行儀悪い。気持ちは分かるけど、いつまでもそんな不景気な顔してても仕方ないでしょ」
「うん……でもさあ……はぁ」
悠は、凹みに凹んでいた。
この異世界に来てから、誰と一番多くの時間を共有したかと言われれば間違いなくルルだ。
姉のように懐いていた。ルルも弟のように可愛がってくれていたと思う。
彼女はもはや悠の日常の一部ともいえる存在であり、少なくとも当分はそれが続くものと思っていた。
それに最近は、色々と知らなかった顔を知ることもできた。
意外にも重度のオタクだったり、切羽詰まると亀みたいに丸まったり、他にも色々と、親しみやすい隙のようなものを見せてくれ、もっともっと仲良くなれるものだと期待していたのだ。
さらには、悠に明かしてくれた自らの本名と過去。ルヴィリス滅亡の真相。
それを知り、悠は彼女には幸せになって欲しいと思った。
あんな目に遭った彼女には、もっと優しい未来があって然るべきだと。
彼女がシド・ウォールダーへの復讐を果たさなければ前に進めないというのなら、一緒に戦おう。そう強く決意した。
その意思も告げたのに、彼女は悠を置いて去ってしまったのだ。
1日が経過して、悠はルルのいない寂しさを改めて実感することとなっていた。
「はぁ~~~……」
「重症だなぁ」
「でも、仕方ないと思うよ」
対面に座る冬馬と綾花が、しょんぼり肩を落とす悠に同情してくれる。
ぴっとりと肩を寄せ合い、初々しいカップルっぷりと見せつけていた。
「ほれ、悠。この魚のフライ半分やるから、少しは元気出せよ」
「……ありがと、冬馬。でも僕、尻尾じゃなくて頭の方がいいな」
「お前、落ち込んでると面の皮厚くなるよな……」
呻くように言いながら半分に切った白身魚のフライの頭側を皿に乗せてくれる冬馬。
悠はもう一度ありがととお礼を言って、かじかじと骨を噛み締める。味がしみ出すが、固い。
顎の強いルルは、こういう骨もポリポリと食べていたものだ。
食欲旺盛な彼女は、悠の残した骨をあげると遠慮しながらもぱたぱたしっぽを振っていたことを思い出す。
「はぁぁぁぁぁ……」
深々と嘆息する悠に、朱音もまた悩ましげな吐息をついた。
苛立たしげにテーブルを指先で叩きながら、唸るような声色で言う。
「あー、もう、まったく……どこで何してるのよ、あのエロ狼! いなくなるならなるで、もっと前もって通す筋があるじゃない!」
朱音は、ルルに対してかなり怒っているようだった。
落胆しきった悠の姿に、それはますます強くなっているように見える。
その握力で歪みつつあるスプーンにドン引きしながら、澪がどうどうと抑えようとしていた。
「ずっと前から、決めてはいたみたいだけどねー……」
「あんだけ手紙残すぐらいだもんなぁ。俺たちのクラスなんて全員分だろ?」
ルルは、他の皆にも書置きを残していた。
朱音やティオ、冬馬らクラスメートに、玲子や省吾、美虎や伊織といった異界兵の中心人物たちに当てた内容を、一人一人個別に書いていたのだ。
一晩で用意できる内容ではない。前もって計画していたことは確実である。
たった一人で、ルルは復讐に、“人獣”との戦いのために行ってしまった。
単に寂しいというだけではない。今頃は無事でいてくれるだろうかという心配は悠の気を病ませ続けている。
ルルが悠に残した書置きには、どうか心配しないでくださいと記されていたが、そんなの無理に決まっているのだ。
相手は“獣天”シド・ウォールダー。世界最強と目される一人。
勝ち目が薄いなどというレベルではない。いくらルルが“偽天”マダラの直弟子であり、悠も知らない切り札があったとしても、彼我の実力差は圧倒的なはずだ。
彼女が無事に復讐に果たせるかどうか、はっきり言ってその可能性は非常に低いのではないか。
そんなことを、昨日はずっと考えていた。
以前であれば、怜悧なルルなら何か現実的な策があってのことではと思えたが、彼女の過去とシドへの復讐に込められた狂的な想いを知ってしまえば、本当に現実を踏まえ冷静に判断した上の行動であったか、疑わしくなってくる。
おかげで昨日はぜんぜん眠れなかった。
いくら特殊な身体をしている悠とて、睡眠不足が過ぎれば余計に気が滅入るというものだ。
寝不足による物理的な消耗もあり、悠は雨にぬかるんだ泥のようにグダグダと沈み込み続けていた次第であった。
本人には自覚がないことであるが、悠にはムードメーカーとしての素養がある。
温厚で人懐っこく前向きな気質は、自然とその場の雰囲気を明るく柔らかなものにするのだ。
そんな悠がこんな風なので、場の空気もどんよりと曇っていた。
「皆、おはよう」
ちょうど会話が途切れたタイミングで、刀剣めいた女性の声が、湿った空気を切り払うようにかけられた。
「あ……おはようございます」
「おはよーっす」
振り返った冬馬たちが次々と挨拶を返し、会釈している。
悠がもっさりした動きで最後に顔を上げると、すっかり馴染み深い知己の女性が立っていた。
金髪碧眼、長身の女騎士だ。
「ベアトリスさん……」
「ひどい落ち込みようだな、ユウ」
「ユウ様ぁ!」
苦笑を浮かべるベアトリスの後ろから、ひょっこりと顔を出す少女がいた。
愛らしい顔立ちをした、金髪の森人。
くりっとしたつぶらな瞳が、こちらを心配そうに見つめていた。
「ちょうど、そこで会ってな」
「ティオ……」
ルルがいなくなったことによる第一宿舎の業務の穴を埋めるためのあれこれで、会議に出ていたらしい。
ルルはあの宿舎で働く奴隷たちの中でも中心的な立場にあり、急な業務の引き継ぎにティオたちもあたふたしているようだ。
彼女らしからぬ、配慮にかけた行動といえた。
それだけ心に余裕が無かったということではないのかと、悠は思えてならない。
先輩としてルルを慕っていたティオは、それだけの理由があったのだろうと彼女を責める気は無いようだった。
ぱたぱたとこちらに駆けて、ぎゅっとこちらの手を握ってくる。
「うぅー……やっぱり、立ち直られてないのですネ。わたしでルルさんの代わりになるか分からないですケド、ユウ様のお部屋の面倒は、わたしが責任をもってしっかりやらせていただきますかラ!」
「ああ、なんだ……それについては後任になりそうな者がいてな」
ティオが目を丸くして、がばっと振り返った。
「えっ……えー! 聞いてないデス! わたしなら大丈夫デス! 二部屋が負担に見えるというなら、アカネ様と一緒にユウ様のお部屋にお引越ししてもいいんですかラ!」
がたん、と朱音が真っ赤な顔で立ち上がる。
澪を筆頭に周囲のクラスメイトがニヤニヤと愉悦の表情を浮かべていた。
「ティオ!? あんた勝手に何言い出してんのよ!?」
対するティオは、ぷくっと頬を膨らませて狼狽える朱音をビシッと指さした。
「もうッ! そこでいちいちそんな反応するから出遅れるんですヨ! このままじゃイオリ様に――」
「あー! あー! あー!」
恥も外聞もなく大声でティオの言葉をかき消そうとする朱音。
混沌じみてきた状況は、ベアトリスの大きな咳払いによって一刀両断される。
「場を弁えろ」
静まり返った食堂の注目が、何事かと朱音に集まっていた。
気まずげな朱音が身を縮こませてしゅんと腰を下ろし、申し訳なさそうなティオがその隣にちょこんと座る。
場が収まったことを確認し、ベアトリスは悠へと向き直る。
「そのこともあって、ユウに話がある。朝食が終わったら私の執務室に来てくれるか? ルルの――ルヴィア様のことも、話したいからな」
最後は、耳元に口を寄せての小さな声で。
悠は、一も二も無く頷いた。
「ベアトリスさんは、ルルさんの友達だったんですよね?」
異界兵の管理官であるベアトリスの執務室は、彼女の生真面目な性格を反映したような整理整頓の行き届いた一室だ。
快く迎えられた悠は、彼女の対面の椅子に腰かけながら、身を乗り出して尋ねた。
彼女は初老の部下が淹れてくれたお茶の香りを堪能しながら、懐かしむような顔で答える。
「アルドシュタイン家がルヴィリスとの外交を任された縁があってな。同じ武人ということもあってか、気が合ったよ」
「いなくなる前に、ベアトリスさんには一言無かったんですか?」
「いや、書置きはあったのだけどな」
寂しげな苦笑を浮かべるベアトリス。
「彼女と再会したのは、もう三月ほど前になるかな。突然現れて驚いたよ。川辺で発見された少女と思われる身体の一部が彼女なのではないか、良くても“人間牧場”に連れて行かれたのではないかと言われていてな。もう二度と会えないものと覚悟していた。髪の色や雰囲気は、やはり随分と変わってしまっていたが……それでも最近は、かつてのルヴィア様に近付いていた気がした。良い変化だと思っていたが、こんな形でいなくなってしまうとは……」
彼女も、ルルの失踪に思うところがあるようだった。
だが彼女の立場ならば、悠よりも多くの情報が得ることができるのではないか。
こういう時に頼りになる玲子は、ここ数日はとても忙しそうにしていて顔を合わせることができないでいた。
悠は縋るような眼差しを向けながら問いかけた。
「ルルさんがどこにいるかは……」
「残念だが、今の私にそこまでの影響力は無い。情報を集める努力はしてるのだが……すまないな、力になれなくて」
「いえ、そんな……」
悔しそうに唇を噛み締めるベアトリスを見れば、文句などいえようはずもない。
しかし大いに期待していたことは事実であり、落胆を隠しきることは難しかった。
「シドがルヴィリスを狙ったそもそも理由については、知っているか?」
「ルルさんの魔道の才能を見極めたくて、ですよね」
「ああ、そうだ。シドはどうも、“天”へと至れる者を探しているらしい。他にも幾人か、類稀な魔道の才覚を知られた者があの男の犠牲になっている。無軌道な惨劇を起こすことも多いあの男の、数少ない明確な目的を持った行動だ」
ベアトリスは言葉を切り、悠を真剣な眼差しで見つめる。
青い瞳が、辛そうな、憐れむような、そんな優しく苦しげな感情に揺れていた。
「彼女の書置きには、シドはお前に興味を抱いている可能性が高いとあった」
「はい。僕の方にも、そう書かれてました。でも、僕に第四位階だなんて、そんな……」
「お前は神殻武装の所有者でもあるからな。第三位階でも特別な立ち位置にいることは確かだが……この場合に重要なのは、シド・ウォールダーの主観だ。“人獣”の主力が、このフォーゼルハウト領内に入り込んだという情報もあるからな。あの男も潜んでいる可能性もある」
シドが、この帝国に来ているかもしれない。
最近、どうもピリピリしている軍人や役人が多いと思ったら、それか。
そして、ルルが自らの過去を打ち明けて姿を消したのも、もしかすると。
ルルから聞かされた凄惨なるルヴィリスの終焉を思い出し、悠は青ざめた顔で声を荒げた。
「じゃあ、僕が帝都にいたらまずいんじゃないですか!? どこか、人気のない場所に……そうだ、僕が囮になればシドが出て来て、ルルさんも……っ」
言いかけた言葉は、ベアトリスの叱るような眼差しを受けて飲み込んだ。
「それを厭ったからこそ、彼女は帝都を去ったのかもしれないぞ。どうもルルは、お前がシドに狙われる可能性を初めから知っていたようだが……当初はお前をそれこそ餌にでもしようとしていたのかもしれん。だが私の書置きにはな、お前のことをどうか守ってあげて欲しいと、そう念入りに書かれていたよ。お前が一人で行動したところで、今の実力ではシドに芥のように屠られるだけだ。あるいは、お前を誘き寄せるために別の場所で悲劇が起きるかもしれない」
「ぅ……」
しょんぼりと黙り込む悠を悲しげに見下ろして、ベアトリスは励ますように言葉を続ける。
「この帝都には、魔道封じの結界装置があることは知っているだろう?」
魔封結界。
異界戦奴召喚機構と並び、マダラが生み出した最高峰の機械魔道装置。
現在のフォーゼルハウト帝国の領土とは、すなわちこの結界のおかげで他国の反撃から防衛することができた範囲でもある。
つまりその射程距離は、この帝国領土全域だ。
「その機能を最大限にかつ最高精度で発揮できるのが、この帝都だ。理論上は、第四位階にすら効果が期待できるとされている。実際に試したことは無いが、まったく効果が無いと言うことは有り得ないだろう。弱体化した“獣天”ならば、帝都の全戦力をもってすればまず勝てる――とは言い切れないのが情けないところだが、あの男もわざわざそのような真似はするまい」
あらゆるリスクを考慮すれば、このまま帝都に留まるのが最良ということだ。
ルルの話を考えれば、ただ単に襲いかかるのではなく、何かしら悪趣味極まりない趣向を凝らそうとしてくるかもしれない。
そういった状況に対応するためにも、帝国全体の情報が集まる帝都にいるべきなのだろう。
それでも、災禍の中心になるかもしれない自分が大切な友人も含んだ大勢の人々の中にいるというのは、非常に落ち着かないものがあった。
付け加えるように、ベアトリスが言ってくる。
「それにな、ユウ。今となっては、お前は帝都でも指折りの実力者だ。もし“鋼翼”に所属でもすれば、序列者上位は確実だろう。万が一、シドが帝都に災いを為そうとした場合、お前は非常に重要な戦力として軍では考えられている。勝手な都合で呼び出しておいて、魔族はおろか人間同士の争いにまで巻き込むのは恥ずべき話ではあるが……」
「いえ、それは気にしないでください。それに今さらですよ、粕谷君とか、ユギルとかと戦ってるし……」
「だが、人を殺したことは無いだろう? できると、思っているか?」
「…………それは」
自分は、殺す以外に手段が無いときに人を殺せるのだろうか。
夢幻城での戦いから、ずっと考えていたことだ。
あの時に悠が叩き斬ったのは、いずれもユギルに操られた遺体だった。人の命を自らの手で断ち切った経験は、いまだにない。
生きるために必要ならばまだしも、殺生という行為については人一倍強い忌避感がある。虫だって自発的に殺したことなど一度もないのだ。部屋に虫が入ってきた時は、何とか無事に窓の外へ逃がそうといつもバタバタしている。朱音が無情にも殺虫剤で虐殺してしまった時など、涙ぐんでしまったほどだ。藤堂家の庭には、悠の作った「むし」の墓がぽつんと置いてある。
ああそうか、自分はその経験もなく、覚悟も定まっていないのに、ルルに対して復讐を――殺人を手伝うなどと言っていたのか。
あるいは、それもルルが悠から離れていった一因なのかもしれない。
「分かりません……」
だから、そう答えるしか無かった。
悠は悄然と肩を落としながら、しかし弱々しくもはっきりと言葉を続ける。
「でも、誰かが危ないのに安全な場所から見ているだけなんて絶対に嫌です」
「ユウ……」
ベアトリスはこめかみに指を当てながら、複雑な表情を浮かべていた。
その勇気を褒めればいいのか、その無謀を叱ればいいのか、大人としてこの少年にどう接するべきか惑い悩む顔。ここにはいない狼人の知己であればどう答えただろうかと思いを馳せ、答えは出せずにかぶりを振って、自分なりの言葉を絞り出す。
「私個人はな、お前がこういうことに係わるのは反対だ。武門の誉れたるアルドシュタイン家の次期当主ともあろう者が、その意見を通せる立場にないというのは歯痒いものがあるが……だが現場の責任者は、おそらく私になるだろう。動いてもらうにしても、お前たちには極力そういうリスクの発生しない差配を行うつもりだ」
それは悠だけはなく、朱音やティオ、伊織や美虎たちをも気遣ってのことだろう。
自分と似たような懊悩は、これまでの経験を経て彼女たちも大なり小なり抱えている。
「……お願いします」
悠はぺこりと頭を下げる。
そして会話は途切れた。
沈黙が、執務室を支配していた。
「あー、その、だな……」
いつもは積極的に話題を出す悠はルルの一件を引きずったままでローテンション、基本的には武辺の人間であるベアトリスはこういう沈んだ空気を変えることがとても苦手で困り果てている。
ちょうど、そのタイミングだった。
コン、コンというノックの音。
静まり返った部屋に、妙に大きく聞こえてくる。
ベアトリスは救われたような表情で、そちらに顔を向けて声をかけた。
「おお、ようやく来たか……! ユウも来ているぞ、入ってくれ!」
「はい!」
短くも溌剌とした、気持ちの良い返事。
女性の声だ。ドアの向こうから聞こえるそれが知っている人の声だったような気がして、悠は小首を傾げた。
ガチャリとドアノブが回り、おずおずといった感じでドアが開く。
やや緊張した、しかし気合いの入った声が、部屋に響いた。
「し、失礼します!」
入ってきたのは、ルルやティオと同じくメイド風の衣装に身を包んだ少女であった。
つまりは、彼女たちと同じような業務に従事する者ということ。
ベアトリスは、微妙な表情をしながら彼女を紹介してくる。
「彼女が、ルルの代わりにお前の新しい世話係になる新人なのだが……どうだろうか?」
「……へ?」
その人物を目にした瞬間、悠はぽかんとしたアホ面を晒していた。
そろそろ2巻の発売日が近付いて参りましたね。早いところだと明日には書店に並んでいるでしょうか。
書籍2巻は、1巻を読んでなくてもウェブ版1章を読んでいれば話の繋がりに大きな違和感は無いかと思うので、1巻を買っていない方も気が向いたら手に取っていだけると嬉しいです。ついでに2巻の感想なんかも聞かせていただけると更に嬉しいです。




