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第7話 ―紅狼姫・その7―

 ルヴィリスの滅亡は、“獣天”シド・ウォールダーの台頭とともに世界を震撼させることとなった。

 アルドシュタイン家はすぐに駆けつけようとしたものの未曾有の反応の解析のため数日の待機を命じられる。その後の調査で、生存者はゼロと報告された。

 “人獣フェンリル”の行ったその悪鬼のごとき所業に、人々は憤り、戦慄し、恐怖することとなる。


 それから半年ほど後。

 ルヴィリスから遠く離れたある国で店を構える奴隷商は、一人の奴隷の存在に頭を悩ませていた。


 赤から色素が抜けたような薄桃色の髪をした、狼人の娘だ。

 年齢は、16,7歳ほど。

 気品を漂わせる清楚な美貌。

 適度に引き締まりながらも艶やかな肉付きを失わない、男の劣情を誘う抜群のスタイル。

 

 数か月ほど前、人里離れた森の中を裸同然の格好で歩いていたところを発見され、奴隷商に売られてきたのだ。

 ルヴィリスが失われたことで狼人は貴重な亜人種とされていたこともあり、彼女は極上の商品となり得るはずであった。


 しかし、彼女は大きな問題を抱え、奴隷としては著しい欠陥商品として扱われていた。


 彼女の心は死んでいた。

 何をされようが、何が起ころうが、徹底した無気力、無口、無表情、無反応――その有様は、まるで生きているだけの人形。

 生きるための最低限の動きだけをする彼女を、多くの者は不気味に思っていた。

 素性もまったく不明――恐らくはルヴィリスの生存者であると察せられる程度であり、その動作にわずかにほの見える上品さは、彼女の育ちの良さを匂わせるものだった。

 自分の名前も分からない彼女は、そこでは便宜的に“名無し”と呼ばれていた。


 それでも、その美貌と肢体である。興味を持つ者は少なくはなかったのだ。

 だが、“名無し”の琥珀の瞳――絶望のうろのごとき、虚無の眼差しを受けながら長い時間を共有できる者は、誰もいなかった。

 いったい、どのような目に遭えば、人はそんな目をすることができるのか。

 彼女と一緒にいると、その悪夢の一端に触れているような気になって、どうしようもなく不安になるのだという。奴隷商も、まったくの同感であった。


 そうして、“名無し”がいつものように店の一室で、椅子があるにも関わらず床に座り込み、焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた、ある日のこと。

 奴隷商と、そして一人の見慣れぬ男が部屋へと入ってきた。


「この女子おなごが“名無し”かい」


「へい、旦那」


 もみ手をしながら愛想笑いを浮かべる奴隷商の横を通り過ぎ、一人の男が無遠慮に“名無し”へと近づいていく。

 斑模様の着物を羽織った、黒髪の青年であった。

 痩躯であるが、その黒瞳は悪童めいた爛々とした眼光を放っている。

 煙管を咥えた口元をにやりと吊り上げながら、男は“名無し”の虚無の瞳を覗き込んだ。

 誰もが逸らした絶望の眼差しを、真っ直ぐに見つめている。如何なる絶望の闇にあっても翳らぬ覇気が、その双眸に宿っていた。


「おうおう、別嬪じゃの。呵呵っ、それにひどいまなこじゃ。死人かと思うたわい。ああ、小僧。わしはこの女子おなごと二人だけで話したいでの、ちっと席を外しておれ」


 男は、すでに初老に差し掛かった奴隷商を小僧よばわりして追い払い、“名無し”と二人っきりになった。

 床の上に胡坐をかき、目線を合わせる。

 “名無し”の額に指先をあて、しばしそのまま黙り込み、そして口を開いた。


「さて、随分と酷い目にあったようじゃのう、狼のお嬢――ルヴィア・ルヴィリスよ」


「……!」


 “名無し”が――ルヴィアが、びくりと反応した。

 彼女を知る店の者であったなら、心底驚いたであろう。 

 ルヴィアの虚ろな瞳に、みるみるうちに光が宿っていく。


「あ……わたくし、は……」


 そうだ、自分はルヴィア。ルヴィア・ルヴィリス。

 “紅狼姫”、ルヴィリスの姫、戦士として同胞たちを護る者。

 

 ……同胞たち?

 母は、シャーレは、シェルシィは、彼らはどうなった?


 そして脳裏に、悪夢のような記憶の奔流が溢れだした。

 母の胸を刺し貫いたこと、シェルシィの心臓を穿ったこと、同胞たちをこの手で虐殺したこと。

 川辺で力尽きていたシャーレ。その傍で泣きじゃくる自分。

 現れたシド・ウォールダー。

 その顕天の神威にさらされ、自分は吹き飛ばされて――


「う、あ、ああああああぁぁぁああああぁ!?」


 絶望、怒り、恐怖、悲しみ――そのすべてが、ルヴィアの許容量を超えていた。

 頭を抱えて絶叫し、床に額を打ちつけるルヴィア、そのまま狂ったようにのたうち回る。

 男は彼女を見下ろしながら嘆息し、先までの“遊び”の気配の薄い、落ち着いた声色で言った。


「シド・ウォールダーが憎いか?」


「憎い……憎い! 憎い憎い憎い憎い!」


 憎いに決まっている。

 今すぐ殺してやりたい。その前にこの上なく残酷な方法で苦しめて、死んだ方がマシだと思うほどの絶望と恐怖を味あわせてやりたい。

 だが、あの男は第四位階アルス・マグナ。ルヴィアとは、実力の次元が違う。


「でも、でも……私には、もう……!」


 しかも、今のルヴィアは第三位階ゼノスフィアですらない。

 正気を取り戻したと同時に、理解してしまった。

 同胞たちを護るという強い意思を根源として具象していた<颶嵐煌弓>は失われ、今となっては魔道の位階すらも落ちた状態だ。自らの魂を道標として進むべき第三位階の魔道――見えざる“道”が、今のルヴィアにはまったく認識できなかった。

 

 ルヴィアにはもう、この手で一矢を報いる可能性すら存在していない。

 改めて認識した事実に、亀のようにうずくまって涙をこぼす。

 どうにもならない悔しさを、床を殴りつける拳に乗せながら泣き喚いた。


「う、ぁぁぁぁぁぁっ……! あぁぁぁぁぁぁぁっ!」


「やれやれ、こうなった女は面倒じゃのう。さすがは狼人じゃて、声のでかいことよ」


 悲痛な少女の姿に男は小さなため息をつき、他人事のように煙管の葉を交換する。

 燻る紫煙を一息吸って堪能し、ルヴィアの泣き声が少し枯れ始めたタイミングを見計らい、


「のう、狼のお嬢。あの小僧を倒す力が欲しいならくれてやると言ったら、どうするよ?」


「…………え?」


 呆然と見上げるルヴィアに向けて、男は煙管を咥えたまま胸を張って自己紹介をする。


「挨拶が遅れたの、儂はマダラ。この男前な面貌めんぼうは見たこと無いかもしれんが、名前ぐらいは、聞いたことがあるじゃろう?」


「マダラ……」


 ……“偽天”!

 魔道という概念を世界にもたらした最古の魔道師、最古の“アルス・マグナ”。

 その技巧においては、他の“天”の追随を許さないと聞いている。


 疑う気には、何故かならなかった。

 だが、このような大物がどうしてここに、という疑問が沸き起こる。

 マダラはそれには答えることなく、自分のペースで話を続けていく。


「儂は、教える方も天才での。魔法ゼノスフィアを失ったお嬢にもってこいの技を知っておる。ただし、修行は極めて厳しい内容になるがのう。死ぬかもしれんし、死んだ方がマシなことになるかもしれん。モノにできるかはお嬢次第じゃが――」


「――やります。やらせてください、“偽天”マダラ様」


 ルヴィアのキッパリとした返事に、マダラは片眉を上げる。

 どこか人の悪い笑みを浮かべながら、値踏みするような視線がルヴィアを見下ろしていた。


「さて、どうかな。口だけじゃあ、何とでも言えるからのう。例えば……」


 マダラが指を鳴らした次の瞬間。


「あ……ぐっ、ぁぁっ……!?」


 ルヴィアの身を猛毒のような激痛と灼熱が襲いはじめる。

 それは半年前、ルヴィアの身を蝕んだあの鮮血の魔道を思い出させるものだった。


「な、ぜっ……これを……!?」


疑似魔法フォウルスフィアといっての。魔法も魔術も、極限まで細分化すれば同じ魔素と魔力の集積よ。ならば魔術の技巧によって魔法を具象できない道理はないとは思わんか? 儂ぐらいになれば、一度見たことのある魔法をこうして再現することも容易いことよ。ま、あの小僧も儂の限定具象を一度見ただけで盗みおったがのう」


 疑似魔法。これがあれば、第三位階へ至れずとも<颶嵐煌弓>を再現することができるということか。

 ルヴィアの脳裏に光明が差し込む。

 だが、今のルヴィアにできることは、全身を溶けた鉛が流れているような地獄の苦しみに翻弄され、床に倒れ込み、指一本動かすこともできずに痙攣することだけだった。

 マダラはニヤニヤと見下ろしながら、言葉を続ける。


「呵呵ッ、どうよ動けんじゃろう? 身体を動かすほど“暴れる”ように打ち込んだからの。今の苦痛なんぞ、まだ序の口よ。ひとたび動こうとすれば、お嬢は狂い死にするかもしれん。身体か精神のどこかに、一生涯の後遺症が残るかものう。このまま奴隷としての生き方を受け入れておけば、どこぞの富豪にでも買われて大事にしてもらえるかもしれんがの」


 指一本を動かすだけで、全身の血管を針金が流れるような鋭い痛みが足の先から脳天までを駆け抜けた。

 悶絶するルヴィアに向けて、底意地の悪い声が投げかけられる。


「さて、“紅狼姫”よ。人にものを頼むのに、そんな陸に上がった魚のような姿勢は無礼だとは思わんか? この“偽天”に教えを乞うのじゃ。居住まいを正し、深々と頭を下げるぐらいはしてもらわんとな?」


「…………!」


 マダラの術を受けているルヴィアからすれば、「教える気などない、死ね」と言われているに等しかった。

 何と性格の悪い男なのだろう。 

 “天”とは、こんなにも人格に問題を抱えた者ばかりなのか。

 だがそれでも、マダラが自分とは隔絶した力の持ち主であることは疑いようも無かった。シドと並ぶというのも頷ける話だ。

 ルヴィアが掴むべきわらは、これしかない。


「ぎ、ぁ、あぁぁぁぁぁぁぁ……!」


「ほう……?」


 絞り出すような唸りを上げながら、手足を折り畳んでいく。

 全身の細胞が破裂していくような激痛。

 全身の体液が沸騰するような灼熱。

 脳裏で弾けるのは、真紅の閃光。染め上げられれば二度と戻れなくであろう狂気の色に、意識が何度も飲み込まれかける。

 

「げほっ! ぐぁぅっ……! ぜぇー……、ぜぇー……!」


 吐いた。吐瀉物のなかには、血も混じっていた。

 視界も赤い。涙に血が滲んできている。

 それでもルヴィアは、止まらなかった。

 少しずつ、少しずつ、ナメクジが這うよりも遅く、だが確実にルヴィアはマダラの要求に応えつつあった。


 暴れ狂う痛苦のなか、ルヴィアはついに一つの理解を得る。

 この身を蝕む、マダラの魔術。彼の言うところの魔力と魔素の集積のその構造が、おぼろげだか見えて来ていた。

 ルヴィアが動こうとするたびに激しく活性化するその忌まわしき術式の一端に触れるイメージ。

 脳裏に浮かぶのは、数多の糸を編み込むことで完成する一枚の絵図。

 その糸の一本を、引き抜いた。

 

「あっ……!」


 一瞬、全身を苛む激痛と灼熱が、解れるように和らいだ。

 ガクガクと全身を小鹿のように震わせながら、一気に姿勢を正す。

 続いて半ば倒れ込むようにして頭を下げた次の瞬間には、地獄のような苦悶がふたたびルヴィアを襲った。

 頭蓋骨を万力で潰され続けているような鈍痛に意識を失いかけながらも、ルヴィアは悲鳴じみた声を張り上げる。


「お願します……もう私には、復讐これしか残されていないのです! 記憶を失いながら浅ましく今日まで生き延びてきたのも、きっと胸に渦巻き続けていた本懐ふくしゅうを遂げるため! 私の、母の、友の、臣下の、兵の、民の無念を果たすことだけが、この身の最後の存在理由です! どんなご命令でも聞きましょう! 私の身体に興味がおありでしたら、お好きにお使いくださいませ! ですから、どうか、どうか、私に――」


 そこが、ルヴィアの限界であった。

 コトリと、糸の切れた人形のようにくずおれ、動かなくなる。

 その一部始終を見下ろしていたマダラは、煙管の紫煙を一気に吸い、吐いて、やがて快なりと口の端を吊り上げて呵呵大笑を響かせた。


「呵呵ッ……呵呵呵呵呵呵呵呵ッ! よい根性をしとるわ! まさか紐解きまでやってみせるとはのう! 宜しい、よくぞ言った! 今日からはお嬢は儂の弟子じゃ! 直弟子を取るなぞ久々じゃて、腕が鳴るわい! おう小僧! そこで聞いておるんじゃろうが! 儂がこの娘を買ってやるわ、値を言えい!」


 そうして、ルヴィアは“偽天”マダラに買われ、弟子となった。 

 “獣天”シド・ウォールダーに復讐するためだけに生きる、鬼となるために。

 自分の美貌も、身体も、技術も、知識も、感情も、人生の何かもをその目的のために捧げようと決心した。


 殺すための、憎むための人生。

 それは、かつて“紅狼姫”ルヴィア・ルヴィリスが志した、守護者としての誇り高き生き様ではない。

 そんな女は、とうに死んだのだ。愛する同胞たちをその手にかけた、あの日に。

 ゆえに、名を捨てた。


 自分は、ルヴィア・ルヴィリスの残滓――ルルである。






「……お師様の修行を終えた私は、助言に従ってフォーゼルハウト帝国へと赴きました。その頃にはすでに皇帝派は政争に敗れ、亜人差別を是とする宰相派が実権を握っていたために、私は奴隷として帝国に与することになったのです」


「そして、僕たちと出会った」


「はい、それから先は、ユウ様もご存じの通りです」


 ルヴィア――ルルの意識は、追想から現実へと完全に帰還していた。


 ぎしっ……っとベッドが小刻みに軋む音。

 薄闇に包まれた部屋の中、二つの甘い吐息と汗ばんだ肌が絡み合っている。

 裸で睦み合う、男女の姿。


「ガウラスさんとは、連絡を取ろうとはしなかったんだ?」


「情けない話ですが……合わせる顔が、無かったもので。それに、変わり果てた自分を、彼に見られたくはありませんでしたから……ふぅ」


 一通りを語り終えたルルは、脱力して悠の胸元にしだれかかる。

 ピンと張ってふるふると揺れていたしっぽが、くたりと彼の太ももに寝そべった。

 男に甘える女という構図であるが、悠はルルよりも背が低く、ほっそりと華奢な身体つきをしていることもあって、まるで女同士が睦み合うような耽美さを演出している。

 悠の性別を知らない者が見れば、十中八九、二人を同性愛者だと勘違いするだろう。


「申し訳ありませんユウ様……突然、このようなはしたない真似を」


「それはいいけど……もう、大丈夫?」


 愛らしい顔立ちを曇らせて問いかけてくる悠に、ルルははにかんだ笑みを浮かべながら答える。


「はい、何とか。本当にありがとうございました」


「そっか……うん、良かった」


 ルルが、悠を求めた結果であった。

 告白と追憶にともない胸を襲った途方もない喪失感と罪悪感に、ルルは途中で耐えられなくなってしまったのだ。何か優しいものに、幸せなものに溺れさせて欲しかった。

 胸を抑えて息を荒げるルルを心配そうに見つめてくる悠をベッドに押し倒し、大粒の涙をこぼしながら恥も外聞も無く悠に懇願した。

 ルルのそんな姿を初めて見た悠は、心底驚いたような顔をしながらも覚悟を決め、優しく抱き締めて、愛でて、慰めてくれた。

 

 悠が与えてくれる心地良い熱と疼きがお腹のあたりからじわりと広がり、ルルの胸を軋ませる痛みを和らげてくれる。

 彼に甘えることで、ルルはようやく自らの過去を、語り終えることができていた。


 かつての――悠たちと出会う前の自分ならば、このような真似はしなくても大丈夫だったろう。

 自分は、弱くなっている。

 そのことを、ルルは改めて認識していた。


「その……思ってたよりずっと凄い話で、まだ何て言ったらいいかちょっと整理できないけど」


 悠が、青ざめた顔で言葉を探していた。

 彼の過去も自分に劣らずに壮絶なものであると思うが、彼は自分のそういった感情を低く見積もり、他者の感情を高く見積もる傾向にある。

 しばらく悩ましげに黙り込み、躊躇いがちに言葉を続けた。


「ルルさんが復讐のために生きてる、そのためなら死んでもいいって聞いて、本当は僕、嫌だなって思ってたんだ。ルルさんのお話聞き終わったら、何とか止められないかなと思ってたんだけど……」


 ルルを見つめる切なげな瞳は、やがて強い意志を宿していく。


「無理だって分かったよ。止めることなんてできない。それに、ルルさんの復讐とは無関係に、シド・ウォールダーを放ってなんておけないよ。絶対に止めなきゃいけない。だからさ、僕も手伝うよ。一緒に戦う」


「……ありがとうございます、ユウ様」


 思えば、自らの復讐という目的を明かしたのも、ベッドの上だったか。

 あの時はルルの肌におっかなびっくりといった様子で触れ、初々しくもじもじとしていた彼が、随分と成長したものだ。

 そもそもの基礎を仕込んだのが自分であることを思えば、そこに多少の優越感もあった。

 今では異界兵最強クラス、帝国においても指折りの実力を誇るであろう彼の戦闘技能についても、基礎部分ではルルが教えた割合が大きい。


 ルルにとっての、二人目の弟子。

 シャーレが生きていれば、悠と同じ年頃だった。

 髪の色も顔立ちも違うが、その心優しい人懐っこくも芯の強い気質は、よく似ていた。


 彼は本来、シドを誘き寄せるための餌。いずれ現れる白髪の少年に、シドは必ずや興味を引かれるだろうというマダラによって出会うことを予言された少年だった。

 目的のために利用しようと考えていた。どうせルルの美しさに我慢できず、その身体を欲望のまま求めてくるだろう、そうなれば自分の手管で溺れさせて籠絡し、コントロールしてやるまでのこと。

 そんな冷徹な意思を持って、ルルは魔道省の戦奴として任務に従事していたのだ。


 だが、いざ顔を合わせ言葉を交わしてみると、一度たりともその気にはならなかった。

 悠がそれをしてこようとしなかったこともあるが、彼の性格にシャーレの面影を感じていたこともあったかもしれない。 

 彼らと一緒に過ごしていると、ルヴィリスで過ごしていた温もりを思い出した。

 胸のうちで、ルヴィアが――誇りを重んじ、誰かを護るために戦い、初恋というものに淡い憧れを抱いていた乙女であった自分が、少しずつ蘇っていく実感があった。

 そして自分のなかのルヴィアが無視できないほど大きくなった時、ルルは己の初恋を自覚した。


「ユウ様……強く、私を抱き締めていただけますか?」


「えっ……うん、いいよ」


 悠が背中と腰に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくる。

 彼なりに強くしているつもりだろうが、どこか気遣うような遠慮があった。

 それでは、物足りないのだ。

 もっと強く、悠を感じさせてほしい。自分を感じて欲しい。


「もっと……壊れそうなほど強く、お願いします」


「わ、分かった……いくよっ」


 ぎゅーっと、ルルの柔らかな双丘が悠の薄い胸に潰されんばかりに抱き寄せられ、汗ばんだ肌がピッタリと密着する。

 ルルも、悠を強く抱き締める。痛くはないだろうかと心配したが、彼は黙って受け入れてくれた。

 頬をすり寄せ合い、足を腰や太ももに、しっぽまで彼の手に絡ませて、肌という肌を触れ合せる。

 無骨な首輪の存在だけが、残念であった。


「ルルさんの身体、あったかいね。ぽかぽかして気持ちいいよ」


「ユウ様も、とても抱き心地がようございます」


 悠の身体の熱が、ルルに伝わってくる。ルルの身体の熱も、悠へと伝わっていく。

 二つの心臓の鼓動が、混じっていくような心地。

 身体の内と外に悠を感じ、ルルは至福に身を震わせていた。


「ずっと、ずっと、ユウ様とこうしていたいぐらいです……」


「……今日のルルさん、大袈裟だなあ」


 彼とこうしていることがルルにとってどれだけの幸せだったか、きっと言葉だけでは理解してもらえないだろう。下品になり過ぎて引かれない程度には積極的に誘惑していたつもりであったが、ついぞ彼が自分から能動的にルルを抱いてくれたことは無かった。毎日のように下着や肌着だけでベッドを共にしてもそんな素振りすら見せてくれないのだから、それまで相当な自負のあった自分の魅力について密かに悩んだこともあったほどだ。 

 今日のように迫れば良かったのかもしれないが、こんな人生を送り、そういう行為に一種の割り切りを得ているルルにだって、一定の恥じらいとプライドはある。悠に対しては、なおさらその一線を超えたくはなかった。


 ……そんなふうに思える相手だからこそ、悠と、そして彼らとこれ以上一緒にいることはできない。


 この命の火は、シド・ウォールダーへの復讐のために長らえ、そして燃え尽きるために在る。

 彼らがくれた日々は、死にゆく自分にはあまりにも温かで、幸せすぎるから。

 だから、ルルは――




「さようなら、ユウ様」




 ――いつの間にか眠っていた悠は、言いしれない寂しさを感じながら目覚めた。

 早朝であることが、カーテンの隙間から差し込む白い日差しや小鳥の囀り、挨拶を交わす人の声から察せられる。


「ルルさん、おはよ……あれ?」


 ルルの姿が、ベッドの上に無いことに気付く。

 お風呂でも先に入っているのだろうかと部屋を見渡す悠。

 浴室の方からは、水音は聞こえなかった。

 代わりに、テーブルの上に置かれていたものがある。


「え……? 何、これ」


 丁寧に書かれた幾つかの書置きの紙と、無骨な首輪。

 ルルが身に付けていた、奴隷の首輪だった。

 大本の所有権が帝国魔道省にあるルルのならば、彼らの管理している専用の鍵が無ければ外せず、合法的に外した場合には奴隷身分からの解放を意味する。


 悠が戸惑いながら手にした書置きの最後は、こう締めくくられていた。


 ――今まで、ありがとうございました。あなたの人生が幸いに満ちることを、祈っております。


 それは、ルルの別れの言葉。それも、二度と合わないという決意の滲んだ今生こんじょうの。


「ルルさん……だって、僕、手伝うって……嘘でしょ……?」


 悠はたった一人、静まり返った部屋の中で愕然と呻く。

 姉のように慕っていた薄桃髪の狼人が応えてくれることはなかった。


 ……その日、ルルは悠たちの前から姿を消した。

 それは、“白天”と“獣天”の決戦として歴史に名を刻む死闘の前触れでもあった。

書籍2巻も発売日が近付いてきましたね。

今回も特典を書かせていただきました。とらのあな様で購入していただくと、特典SS「お風呂と、ルルと、泡と」が付いてきます。お色気要素重視のSSになります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ルルさんが主人公の子供を妊娠して復讐を諦めてほしかった。
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