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第5話 ―紅狼姫・その5―

予約投稿し忘れていたようです、申し訳ない。

「ハッハァー!」


「くっ……!」


 物理的圧力を感じるほどの殺気に、ルヴィアは包まれていた。

 その暴威の具現たるシド・ウォールダーの紅の魔道が、あぎとのごときの軌道を描き、襲いくる。


「<颶嵐煌弓ストームブリンガー>!」


 後ずさると同時に、圧縮空気を噴射。

 強力な推力を得たルヴィアの身体が、羽のように空を舞う。

 刹那の前まで立っていた空間が血の凍るような兇気に蹂躙されたのが、背中ごしに伝わってくる。

 空中で姿勢を制御しながら、ルヴィアはその正体を確認するべく顔を向ける。


(線……糸、それとも、極薄の刃……?)


 無数の紅の線がシドの手から伸び、空間をはしっている。

 それは、彼の腕を伝うように纏わり付いており、そのまま“人狼フェンリル”の長の身体を覆っているように見えた。

 わずかに、嗅ぎ慣れた匂い。

 鉄錆てつさびのようなものの混じった、熱を孕んだ鼻をつく臭気がその魔道から漂っている。


(……血液!)


 あれは恐らく、シド・ウォールダーの血だ。

 血液を操作する能力?

 彼によって赤く膨張させられた男の末路を思えば、妥当な推察だと思える。

 そうであるとするならば、オッゾと同じ変性型である可能性が高い。


 では、あの鮮血の魔道に触れればどうなるのか。

 とても試そうとは思えない。防御が許されるのかどうかも不明だ。避け続けるしかない。

 あるいは、攻め続けてあの男を守勢に縛り付けるか。


螺旋疾風ワールウィンド!」


 空中から、螺旋の矢を放つ。

 その名のごとく疾風のように迫る魔道の矢。狙うはシドの心臓。

 シドは、それを――


「ハハハァッ!」


 ――楽しげに笑いながら、拳で易々と薙ぎ払った。


 はやく、そして強い。

 その腕にもまた、いばらのごとく鮮血の魔道が絡みついている。

 颶嵐獣ヴォルテックスを防いだのもそれか。どうやら凄まじく強固な防御力があるらしい。

 そうなると、ルヴィアの火力ではシドの防御を抜けないことになる。

 では、勝ち目がない?

 いや、まだだ。試すべきことは、まだある――が、しかし。


「おら、どうしたよぉ! 安全地帯にでも逃げたつもりかぁ!」


「……!?」


 シドが、ひとっ跳びでルヴィアへと肉薄していた。

 とんでもない身体能力。体捌きもまた、芸術的な域に達していた。体術のセンスも相当なもののようだ。


「クハハハハハハァ!」


 はしる紅線。

 まるで獣の咢のごとく、ルヴィアを挟み込むように襲う鮮血の牙。

 ルヴィアは驚いたが、しかし思考は冷静な処理を続けている。


「<颶嵐煌弓>!」


 噴射、跳躍。さらに上へ。

 シドの頭上を追い越すような軌道でもって、背後を取った。

 即座に一射。


散華ブラスト!」


 果たして、その魔道の防御は全身をカバーできるほどのものだろうか。

 それを確かめるために、広範囲に及ぶ攻撃を仕掛ける。

 華の花弁のごとく、風の刃が散ろうとして、


「そりゃ安直ってもんだろうがよぉ!」


 寸前、シドの手に握り潰された。

 何という反応速度だ。

 ルヴィアは悔しさに唸りながらも、さらに跳躍して距離を取った。


 互いに着地。やや離れた間合いで睨み合う。

 初手から、3秒も経過していなかった。

 わずかな時の、高密度な攻防。

 互いに無傷であるが、シドの魔道の性質、その肉体・知覚のスペックなど、次なる駆け引きのための有意義な情報として、ルヴィアが得られたものは少なくない。


「貴様っ……!」


 しかしそれでも、ルヴィアは顔を歪めた。

 屈辱の表情。その感情を抑えられないだけの事実に、気付いてしまったから。


魔法ゼノスフィアを使わずに私と死合うつもりですか!」


 そう、シド・ウォールダーは魔法を具象していなかった。

 彼のまとう濃密な魔道の気配から、とっくに具象しているのではと思ったが、こうして直に矛を交えておいて理解できないルヴィアではない。

 この男は、第三位階の魔法ゼノスフィアで戦う自分に対して、第二位階の魔術ゼノグラシアのみで戦っているのだ。


 シドは薄く笑い、小さく肩を竦めながら応じる。


「自分が全力なんだから、相手も全力じゃねえと腹が立つってか? だがな、ルヴィア。俺が全力を出すかどうかは、俺が決めることだぜ。全力を出すたけの価値ちからを見せられない方が悪ぃのさ。そんな弱者が戦士の礼儀だなんだ口にするなんざ、100年早ぇと思わねえか?」


「……っ」


 弱者、弱者か。

 ルヴィリスの戦士たちに鍛えられ、日々研鑽を積んできたこの“紅狼姫”ルヴィア・ルヴィリスを弱者と呼ぶか。

 矜持にぐさりと突き刺さった侮辱の刃に、ルヴィアは剣呑な唸りを漏らす。

 自分だけではない。自分が今の強さを得るために関わったすべての人々を蔑まれたような気分であった。


 だが同時に、認めなければならないことがある。

 シド・ウォールダーは、自分より強い。

 ガウラスより、ベアトリスより、ルヴィアが直に知るどんな魔道師よりも。

 魔道、体術の技巧、肉体の頑強さ、反応速度、その他諸々――先の攻防で得られた印象は、それを実感するに十二分な内容であった。

 格上かもしれないとは思っていた。が、その実力差は想像を遥かに超えている。


「今の言葉……必ず撤回してもらいましょう」


 ……だからどうした!

 勝ち目が薄いなら引き当てるまで。

 勝ち目が無いなら作るまで。

 ルヴィリスの戦士は、自らが不利だからといって勝利を諦めたりはしないのだ。

 退くことはできない。ルヴィアの背には、かえがえのない同胞たちがいるのだから。


 琥珀の瞳は、力強い眼光を宿してシドを見据える。

 シドはその様子に片眉を上げ、感心したように言った。


「ハッ……上等。どうやら戦意は萎えちゃいねえみたいだな?」


 そしてニィっと口の端を吊り上げて、


「だがよ……本当に避けきれたと思っていたのか?」


 その言葉に、ルヴィアはぞくりとした悪寒を感じて、


「……!? がっ、あぁぁ、ぁっ……!?」


 突如、ルヴィアの全身に激痛と熱が弾けた。

 自分の身体が破裂し、飛び散ってしまったかと錯覚するほどの未知の苦悶。

 続いて、灼け溶けた鉛を飲まされたような粘つく灼痛が全身を犯す。

 ルヴィアはその身を抱き締め、引きつるような呻きを漏らした。


 悶え苦しむルヴィアを愉しげに観賞しながら、シドが言った。


「よく耐えるじゃねえか“紅狼姫”。掠った程度とはいえ、それで狂い死にする奴も珍しくはねえんだが」


 気付かなかったが、よく見れば足にわずかな傷がある。

 痛みと熱も、そこを根源として沸き立っているような気がした。

 本当に小さなかすり傷だ。それでこの地獄のような痛苦だというのか。


 背の凍るような戦慄が、ルヴィアを襲った。

 それは単に、シドの駆使した魔道が恐るべき殺傷能力を誇るというだけではない。

 傷から侵入し、毒のように敵手を蝕む鮮血の牙。

 この剣呑極まりない能力が、魔術ゼノグラシアで為されているということである。


「ああそうだ、一つ誤解があるみてえだから教えてやるがよ」


「……?」


 琥珀の瞳を涙に潤ませ、息を荒げながらもシドを睨みつけるルヴィア。

 彼女を愛でるように見つめながら、“人獣”の長は得意気に口を開く。


「これは純粋な魔術じゃねえよ。限定具象――俺の魔法ゼノスフィアの一部を、魔術の応用で詠唱無しで使ってんだよ。どうだ? 勉強になったか?」


 知らない技法であった。

 魔道の第二位階、魔術はとても深遠な概念だ。

 そのすべてをそらんじている可能性がある者など、“偽天”マダラぐらいではないだろうか。

 理論的な面においても、この男はルヴィアの遥か先を行っているようであった。


「く、ぅっ……」


 ルヴィアは呻く。屈辱に震える吐息が、噛み締めた歯から漏れていた。

 今の彼女は、隙だらけだ。体内を暴れる激痛と灼熱を抑え込むことで精一杯である。

 シドがその気になれば、次の瞬間にはルヴィアは無残な骸と化しているだろう。

 そんな彼女を悠々と見下ろしての、余裕綽々の講義。

 “紅狼姫”の矜持は、ズタズタに踏みにじられていた。


「この、程度っ、でぇっ……!」


 それでもルヴィアは<颶嵐煌弓>を構えようとしたが、まるで身体が内側から鉄の棒で固定されているかのように、言うことを聞いてくれなかった。

 シドの魔道は、神経にまで影響を及ぼすのか。

 ルヴィアは全身が引き千切れそうなほどに力み、何とか四肢に力を取り戻そうとして、


「……!?」


 背後から迫る風切り音に、硬直した。


 それは、高速で飛来する矢じりが大気を切り裂く音。

 誰かが、矢を放った音だ。

 それは、ルヴィアの背を射抜くような軌道――シドからの死角をはしり、


「なにっ……!」


 軌道が、変化。

 ルヴィアのわずかに開いていた脇を抜ける絶妙極まる狙いでもって、シドの顔面を強襲した。

 突如として視界に現れた殺意の矢に、“人狼”の長はわずかに目を見開く。

 彼の端正な顔までは、紅の魔道は及んでいなかった。


 シドから見れば、突如として目の前に矢が出現したようなものだろう。

 芸術的な奇襲だ。

 魔性の弓技で放たれた一矢は、シドの顔面に吸い込まれるように飛来。接触。

 矢が、その美貌へと突き刺さる。

 シドの頭部が、わずかに仰け反って、


「……ハッ」


 ニィっと、不敵に唇を吊り上げるのだった。

 顔面に突き立ったように見えた矢は、彼の並びの良い歯によって文字通り食い止められている。

 つくづく、呆れた反応速度だ。

 彼は吐き捨てるように矢を放ると、顎を撫でつけながら興味深そうに笑みを深める。


「今のは驚いた。魔道の気配もねえから気付くのが遅れちまったよ。面白えな、弓ってのは技量だけでこんな真似もできるのか――」


 彼が言い終わるより早く、ルヴィアの後方から無数の矢が雨のごとく飛来した。

 しかし、それらは羽虫を払うがごとく、シドの腕の一振りで薙ぎ払われる。

 ルヴィアが振り返ると、同胞の戦士たちの姿が幾人も。

 将を務める男の指示の下、家屋の屋根などに陣取った弓兵の支援を受けながら、幾人もの戦士がこちらに駆け寄ってきていた。


「姫様っ! ご命令に背くことをお許しください!」

「今お助けしますぞっ!」


「み、なっ……!」


 こちらの様子を窺っている仲間がいることは、風に乗る匂いから察知はしていた。

 彼らが、ルヴィアの窮地を見かねて助けに来たのか。

 シドが、彼らの姿を楽しげに見つめている。

 自らを狙って放たれる矢を払い、あるいは紅の魔道で受け止めながら、にやついた声で言った。


「いい仲間を持ったじゃねえか、なあ“紅狼姫”?」


 彼らでは、相手になるまい。

 殺される。今もそこで骸を晒すラーケス達のように。

 このシドという男は、それを一切躊躇せずにやるだろうという確信もある。


「……だ、め」


 だが静止の声は、あまりにか細く小さい。

 いまだルヴィアの震える身体は、まともに動くことができないのだ。

 シドはそんな彼女を見下ろしながら、勝負ともいえないような蹂躙劇の観客となっていた部下たちに声をかける。


「やれやれ、サシを向こうから破るっつうなら仕方ねえよなあ! お前ら、好きに暴れてこい!」


 歓声、激動。

 血の気の多い者ばかりなのだろう、“人獣”の構成員たちは、ルヴィアを助けに来た同胞たちに向けて襲いかかっていった。たちまちに、乱戦となっていく。

 狼人の戦士たちは精強であるが、“人獣”もまた素人の集団という訳でもない。魔道師も相当数含まれており、苦戦は免れない状況であった。

 シドが直接動くよりはマシかもしれないが、このままでは犠牲者が出ることは避けられない状況だ。

 いったい、どうすればいい。彼らを守るには、自分に何ができる。

 ルヴィアが今にも焼き切れそうな意識を繋ぎ止め、必死に考えている時であった。


「……あん?」


 シドが、怪訝に上空を見上げる。

 そして、わずかに驚いたような顔を見せた。


「これは――」


 次の瞬間、互いの姿が見えなくなった。


 矢の、豪雨。

 視界を埋め尽くさんばかりの無数の矢が、放物線の軌道を描き、シドとルヴィアの間へと降り注いだのだ。

 知っている現象であった。

 自らが放った無数の矢の上空到達点、そこからの落下速度やタイミングなどを計算し、数十回にも及ぶ射撃を一度の豪射のように降り注がせる妙技。


「シェ、ル……シィ」


 ルヴィリス随一の弓手、シェルシィ・ガレスの得意とする技であった。

 姿の見えないほどの遠距離から、身重の体を押してルヴィア救助に参加しているのか。

 そのことに何らかの感情を抱く暇もなく、事態はめまぐるしく動いていく。


 降り注いだ矢からは、油の臭いがした。

 火矢が、後に続く。

 発火、炎上。炎の壁が、ルヴィアとシドの間に立ち昇る。

 第三位階の魔道師を殺傷することはとうてい叶わないが、お互いの姿が揺らぐ赤炎で完全に隠される。

 即座に、同胞たちの中で群を抜いた速度でこちらに駆けてくる者がいた。


「ルヴィア様! 今のうちに!」


「……シャー、レ」


 よく知る少女が、こわばった表情で見つめて来ていた。

 シェルシィが視界を塞ぐわずかな間に、ルヴィアを運び出すつもりなのだろう。すでに第二位階に達し高い身体能力を有するシャーレは、適任といえた。

 彼女は、小鹿のように震え固まるルヴィアの身体を抱き締めて、


「おいおい、せっかくいい女と愉しんでるんだぜ? 邪魔してくれるなよ、ガキ」


「きゃっ……!?」


 その細い足に、紐のように鮮血の魔道が絡みついた。 

 軽々と持ち上げられ、逆さまに吊るされる。


「シャーレ……!?」


 炎の壁の中に、人影。

 シドが散歩でもするように炎の中を悠々と歩き、ニヤニヤと癇に障る笑いを浮かべながら立っていた。

 

「シャーレ! 失敗か、くそっ……!」

「まだだ、諦めるな!」


 仲間たちの焦燥の声。

 動揺の気配が、同胞たちの間で広がっていくのが分かる。

 咄嗟の状況で、苦しいながらも何とかひねり出した、ルヴィアを救うための一手だったのだろう。

 

「このっ、放せ悪党……!」


 果敢にも、シャーレが弓を構えて矢を番えた。

 躊躇なく発射、しかし指先であっさりと摘ままれてしまう。

 逆さ吊りでシドに捕らわれたシャーレ。ルヴィアの脳裏に、あの赤く膨張させられた男の凄惨な姿がよぎった。


「シャ……レ……!」


 次の瞬間に何が起こるか。身体の熱さとは裏腹に、胸中は恐怖と焦りに冷え切っていく。

 シドは自分を睨みつける幼い少女を、むしろ感心したように見やっていた。


「ガキの癖に、いい目をするじゃねえか。良かったな、ルヴィア。ルヴィリスの将来が明るくてよ」


 彼から垂れ流される殺気に、シャーレは顔を青ざめさせていた。

 常人ならば、たちまち失禁をしながら命乞いをはじめてもおかしくは無い。

 だがシャーレは、確かな恐怖を感じながらも毅然とした態度を崩さなかった。


「黙れ! お前なんかに褒められても嬉しくない!」


「ハッ、威勢のいいガキだ。嫌いじゃねえよ。さて、お痛をしたガキを躾けるのも、大人の役割な訳だが……」

 

「や……め、そ、のこ、ぐぁ、うっ………!」


 やめろ、その子を離しなさい――叫びたかったが、意味ある言葉を吐くことはできなかった。

 睨みつけることしかできないルヴィアに向け、シドは苦しむシャーレを見せつけてくる。

 残る手足も鮮血の帯に絡みつかれ、シャーレは完全に拘束されてしまった。


「くぅっ……申し訳ありません、ルヴィア様……」


「ぢ、がぁ……ぅ」


 涙を滲ませてそんなことを言ってくるシャーレ。

 違う、あなたは悪くない。自分に力が足りなかったからだ。

 その言葉を、震える喉は告げることを許してくれなかった。


「どうやら、このガキはお前にとっては特別らしいな?」


 シドがそんなことを口にした次の瞬間、シャーレの身を撫でるように紅線が走る。

 斬、血、死――最悪の想像が脳裏をよぎった。

 声ならぬ悲鳴を上げたルヴィアであったが、それは杞憂に終わる。

 ただし、


「……え?」


 はらりと舞い落ちる、布と皮の破片。

 シャーレの衣服の、切れ端だった。

 一糸纏わぬシャーレが、何が起こったか分からないといった表情で吊るされている。


「ひっ……やぁっ……!?」


 遅れて事態を把握したのか、シャーレが頬を染めて顔を歪める。

 手足を拘束されているシャーレには、その未成熟な肢体の一切を隠すことができなかった。

 恥ずかしさと悔しさに呻きながら、彼女はぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。


 彼女を、その手で辱めるつもりなのか。

 しかし、シドはそんなシャーレの屈辱的な姿には一瞥もくれず、ただルヴィアを見下ろしていた。

 続けて戦闘が繰り広げられている辺り一帯を見渡して、息を吸い、


静聴せいちょう!」


 戦場と化した王都の一角に響き渡るシドの声。

 “人獣”のみならず、ルヴィリスの戦士までもが動きを止めていた。それほどまでの覇気に漲った声であった。

 同胞たちにとっては、シャーレを人質に取られたように見えたこともあるのだろう。

 仲間意識の極めて強いルヴィリスの狼人にとって、このような手段は忌々しいほどに効く。


 そこにいた者すべての注目が、シドに集まった。

 そして、いまだ悶え苦しんでいるルヴィア、そして裸で晒し者にされているシャーレにも。

 男の同胞たちは目を逸らそうとしていたが、事態の変化を見逃すわけにもいかず、気まずそうな眼差しを向けてきていた。


「シャーレ……!」


 そんな時、絞り出すような悲痛な声が聞こえる。

 よく知っている声である。その心当たりに、ルヴィアはゾッとした。

 振り返れば、予想通りの人物が家屋の壁に寄りかかり、青ざめた顔で息を荒げている。


「シェ、ルシィ……!」

「……お母さん」


 シェルシィが、大きなお腹を支えるようにして、シドを睨み付けている。

 娘を見かねて、妊婦の身体でここまで来たというのか。同胞たちにも、動揺が広がった。


「おい、シェルシィ! 来るなって言っただろ!」

「戻ってください。シャーレはわたし達に任せて」


「しかし、シャーレが……!」


「お母さん、来ちゃ駄目だよぉ……!」


「私は母親です! 娘を見捨てられる訳ないでしょう!?」


 叫び、咳き込んでくずおれるシェルシィ。駆け寄る同胞。

 仲間を想う同胞、子を想う母、母を想う子。

 そんな痛ましい姿を見せられて、楽しげに笑う者がいた。

 シドだ。まるで劇の観客のように、拍手を送っている。


「なるほど、このガキの母親か! いいねえ、孕んだ身体で子供のためにここまで来たか、大した根性じゃねえか! 親ってのは、こうでなくちゃいけねえ。いや、見事見事。尊敬するよ」


「……?」


 ルヴィアは困惑する。

 シドの声色には、本気の賞賛の響きがあった。その眼差しには、宝石を愛でるような輝きがある。

 この男は、人の美徳に対して理解を示している。それに対して敬意を表しているようにも見えた。

 思えば、ルヴィアと相対している時にもそのような物言いはあった。


 なのに、どうしてこのような外道を行える?

 人の愛情を愛でながら、何故こうも自然体で殺意を振り撒けるというのだ。吐き気をもよおすような邪悪な行為を、楽しげに為すことができる。

 シド・ウォールダーが、理解できない。

 人の姿をしているはずなのに、未知の怪物を目にしているような気がしていた。


「ロルゴ」


「へ、へいっ」


 シドは、動きを止めていた部下の一人に声をかける。

 びくりと肩を震わせた固太りの男は、緊張で引き攣った声で返事をした。

 ロルゴと呼ばれた男に向けて、シドはシャーレの身体を放り投げる。

 受け止められたシャーレは、意識はあるようだがぐったりとしていた。あの紅の魔道によって、何かをされたのかもしれない。

 シドが浮かべるのは、口の端を吊り上げた悪辣な笑みだ。


「お前、さっきからのこのガキに興奮してただろ? いいぜ、好きにしな。そのガキも、お前に相手して欲しいってよ」


「へ……? お、おぉ……!?」


 目を疑う光景であった。

 動き出したシャーレが、自らロルゴに絡みはじめたのだ。

 まるで娼婦のような男に媚びたような仕草を見せながら、奉仕をはじめる。


「ひっ……い、やぁっ……!」


 だがその顔は、嫌悪と羞恥に歪んでいた。

 明らかに嫌がっている。悲しんでいる。怖がっている。

 身体を、操られているのか?

 それに気付いた同胞の一人が怒号とともに阻止しようとするが、


「シャーレ……! 貴様っ、この鬼畜がぁぁぁ!」

「まて、姫様が!」

「くっ、くそぉっ……!」


 ルヴィアの首元に突き付けられた紅の針に、狂おしげに唸りながら身を引いた。

 シェルシィは声を上げる余力も使い果たしたのか、この世の終わりのような表情で娘の恥辱の姿を見つめていた。


「……ぅ」


 シャーレは、そんなルヴィアと母の姿を見て、諦めたように唇を噛み締めた。

 これから起きることのすべてに耐えるように、せめて記憶には残すまいと目を閉じる。


 “人獣”たちは、ごくりと唾を飲み込んで喜悦に満ちた眼差しを送っていた。次は自分の番が来るかもしれない、この外道たちであれば、そんなことを考えているのではないか。


「へ、へへっ……綺麗な身体だなぁ……」


「ひぃ、んっ……」


 ロルゴも興が乗ったのか、自ら服を脱ぎ、自らに奉仕する未発達な身体に手や舌を伸ばし始める。

 その小ぶりな尻に脂ぎった指が食い込んで、シャーレが怯えるような声を漏らした。

 それなのに、その小柄で華奢な身体はロルゴの行為を受け入れるような動きをみせているのだ。

 いったいどれほどの恥辱をシャーレが味わっているのか、想像することすら難しい。


「あっ、ぎ……だっ……め、ぇっ……!」 


 駄目だ、駄目だ、駄目だ――そんなこと許しておけるものか!

 ルヴィアは、いまだ暴れ回る放流のような痛みと熱に弄ばれていた。

 自分が発狂していないのが不思議に思えるほどの地獄の苦しみ。

 耐え続けるだけで、精一杯であった。 


「シ、ドォ……!」


 射殺すような眼差しを、シドへと顔を向ける。

 あの痴態を、さぞや楽しげに観賞しているのだろうと、


「ぇ……?」


 シドは、シャーレを見てなどいなかった。

 彼はこちらを見下ろしている。ずっと、ルヴィアだけを見つめていた。

 その眼差しには、どこか期待するような、試すような色が混じっている。

 何だ、何のつもりだ、シド・ウォールダー。どうしてそのような目で、私を見る。

 

「ひぁっ……えぐっ」


 そのようなことを思っている最中、悲壮な嗚咽が耳に届いた。

 シャーレのものだ。

 思わず目を向ければ、ロルゴの薄汚れた手や舌に汚される乙女の姿。

 その唇が、ロルゴに分厚い唇に奪われた瞬間であった。

 大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、ついには幼い子供のようにしゃくり上げ始める。


「ひぅっ、うぇぇぇぇぇぇぇっ……ふぇぇぇぇぇぇぇぇんっ……!」


「シャァァァレェェェェェェ!」


 シェルシィの、身を引き裂かんばかりの叫び声。

 母の前で、娘の身体は最後の一線を今にも越えようとしていた。

 シャーレは、助けてとは言わなかった。

 だがしかし、必死に噤もうとしていた唇から、ついに絞り出すような言葉が漏れる。


「お母さぁん……ルヴィア様ぁ……!」


「――――」


 ルヴィアは、それを目と耳に刻んだ瞬間、自らの感情のタガが壊れる音を確かに聞いた。


 地獄とは何だ?

 自分を苛む、この狂い死にしそうな激痛と灼熱か。

 違う、違う、違う!

 今、目の前で起きていることこそ地獄。

 守るべき者を守れず、こうして蹂躙されることこそ、この世の地獄ではないか……!

 たかが発狂死しそうな程度で、これを見過ごすというのか、ルヴィア・ルヴィリス!


「あ、あぁぁ……あ」


 脳裏を染めたのは、激怒の赤。

 自らへの、シドへの、“人獣”への。

 しかしそれすらもすぐに超越し、ただ純粋に迸る感情に、白く、白く染まり――


「あっ……ああぁぁぁぁあああぁぁああああああ!」


 ――咆哮。

 全身を蝕んでいた灼痛が逆流していくような感覚。

 すべてを染め上げ、かき消して、ルヴィアは吼えていた。

 王都全域を震わせんばかりの猛りに、同胞や“人獣”たちは身をこわばらせた。


 立ち上がる、構える、弓を引く、矢を番える。


「<颶嵐煌弓ストームブリンガー>――螺旋疾風ワールウィンド!」


 即座に放たれた螺旋の矢が、シャーレを嬲っていたロルゴの頭を消し飛ばした。

 声もなく倒れ痙攣するロルゴ。解放されたシャーレは、何が起こったか分からないという風に、きょとんとした顔をしている。


「ルヴィア様……?」


 彼女だけではない、同胞も、“人狼”も、突然の事態に付いていけずに唖然としていた。

 ルヴィアと、それを見つめるシドを除いて。

 風に煽られる紅髪をかき上げながら、シドは愉快げに口を開く。


「ようやく殻を破ってみせたかよ。やれやれ、手間かけて突いてみた甲斐があったな。やっぱりお前みたいな女には、こういう手が効く」


「シィィドォォォォ……!」


 ルヴィアを中心として、嵐が渦巻いていた。

 それを食らうようにして、<颶嵐煌弓>が変形していく。

 より攻撃的に、より兵器として完成された形へと。

 魔法ゼノスフィアが、進化していた。


 殻を破る。シドの言葉の通り、ルヴィアの力は、その一瞬で急成長を見せていた。

 その身と弓にみなぎる魔道の力は、戦闘の当初とは比較にならないほどだ。

 シドから受けた魔道の毒は、すべて消え失せていた。今のルヴィアならば、あの程度を無効化することは、造作もない。


 覚醒。安っぽい表現を使うならば、そういうことなのだろう。


「シィィィィィドォォォォ・ウォォォォォルダァァァァァ!」


 吼えるルヴィアは、<颶嵐煌弓>を構える。

 番えるのは、颶嵐獣ヴォルテックス

 最大威力の矢に渦巻く暴風は、以前とは比較にならないほどの密度をもって荒れ狂っていた。


颶嵐獣ヴォルテックス!」


 ルヴィアのこれまでの生涯で最大最強であろう暴嵐の矢は、飢えた猛獣のごとくシドへと襲いかかり――




「だが残念だルヴィア。お前には、此処てんへ届くことができなかったみてえだな」


 落胆の声に続くのは、シドの魂を謳い上げる禍々しき詠唱。


「――魔法具象ゼノスフィア――」




 ――そこで、ルヴィアの意識は途絶えた。

過去編はあと2話で終了です。

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