第4話 ―紅狼姫・その4―
ガウラスが旅立ってから、30日ほどが経過していた。
まだ昼も遠い、早朝の時。
ルヴィリス城の国王の自室にて、ルヴィアは病床の母を見舞っていた。
窓の外からは、差し込む朝日とともに今日も同胞たちの活発な声が聞こえている。
それらの声を嬉しげに聞く母に、ルヴィアは気遣わしげに問いかけた。
「お加減はいかがですか、お母様?」
「少しずつだけど良くなっているわ。明日には、水道工事の方に顔を出せると思うのだけど」
「現場の皆で、お母様がいなくともできる作業から順次進めています。どうか焦らずにご養生ください」
母は狼人としては珍しく病弱だ。時おり、こうして床に伏せってしまうことがある。国王である自分がそのような状態にあることをとても申し訳なく思っているようだが、ルヴィリスきっての賢人としてこの国に流行した病を駆逐することに成功した英雄を責める者が、どこにいようか。
「……そんなに心配そうな顔をしないでも大丈夫よ、ルヴィア」
しっとりと微笑みかけてくる母の顔色は、まだ青白い。
この時ばっかりは、ルヴィアは“紅狼姫”と称される女傑ではなく、母を案じる一人の少女であった。
曇った表情のまま、ルヴィアは肩を落として言う。
「無理です。母が床に伏せって心配しない娘などいません」
「ルヴィア……」
母は困り笑顔を見せながら、俯き気味のルヴィアの頭にぽんと手を乗せた。
ほっそりした指が、ルヴィアの赤毛を優しく撫でる。
「あなたは健康に育ってくれて良かったわ。私は、その……普通の育ち方をした狼人ではなかったから。本当はこんな責任ある立場になるべきでは――」
「――そんなこと気にされているのは、お母様だけです」
「……そうね、ごめんなさい。駄目ね、王様なのにこんなに気弱じゃ」
不機嫌顔になるルヴィアに、母は苦笑とともに謝罪した。
母は、生粋のルヴィリス育ちではない。
祖先はルヴィリスの狼人であると思われるが元々はフォーゼルハウト帝国で生まれた孤児であり、帝国貴族に世話係として使われていた奴隷である。病弱なのも、その時の食生活が狼人の体質に合わなかった可能性が高いそうだ。美しいだけでなく明晰な知性を有していた母は、奴隷として過酷な生活を送りながらも貴族の屋敷にあった豊富な書物に触れる機会を与えられ、多くの知識や見識を我が物としていったそうだ。
帝国の政策の一環で奴隷身分から解放されることとなり、ルヴィリスで暮らすことなった母はその頭脳を同胞のために大いに役立てた。その功績としてひとかどの地位を得た母は、同時に父と愛情を育み、結ばれ、そして長い年月を経て、ようやくルヴィアを授かった。
つまり、幼い頃から家族を知らなかった母にとって、ルヴィアは血を分けた世界でたった一人の家族なのだ。
そんなルヴィアのことを、母は可愛くて仕方がないらしい。
二人っきりになると、こうして頭を撫でたりと小さな子供にでもするような接し方をしてくる。
そろそろ大人としての自覚も芽生えてきたルヴィアとしては、いつまでも可愛いルヴィア扱いというのもいささか複雑なものがあった。
「……くぅん」
「ふふっ、身体はすっかり大きくなったのに甘えっ子ねぇ」
「わ、狼人の女は頭を撫でられると身体が反応するようになっているのです」
「あら、それは知らなかったわ」
ぱたぱたとしっぽを振るルヴィアも、それをどうこう言えるものでは無かったけど。
お互いに、国家のための多くの仕事を抱えている身だ。
こうして親子二人っきりで団らんする機会というのは、なかなか貴重なひと時ではあった。
「そろそろ、果実の実りが良い時期ね……元気になったら、久しぶりにパイでも作ってあげようかしら」
味覚オンチ気味で料理が不得手な母が一つだけ得意とする、森で取れた果実を使ったパイ。ルヴィアの小さな頃からの大好物だ。
「私、もう16歳ですよ。食べ物一つでそんな簡単にですね……」
「そう?」
ますます元気になっていくルヴィアのしっぽに、母が優しい笑みを漏らす。
困った。そろそろ仕事に行くべきなのに、離れがたい。
もうちょっと、ちょっとだけ、こうしていよう。
「それにしても、ルヴィアには文才もあったなんて知らなかったわ」
たちまち、ルヴィアのしっぽが奇怪な形状を取りはじめる。
「も、もももっ、もうその話題に触れるの止めませんか……!?」
「あら、私は安心してるのよ? あなたはもっと自分のための時間を作るべきだと思っていたもの。趣味があるなら何よりだわ。ただ、ちょっと、こう……濡れ場の内容は現実味に欠けているような気もしたのだけど。シャーレの教育に心配ね」
「お母様のいじわる……仕方ないじゃないですか、経験無いんですから……」
「そうねぇ、そろそろ経験しても良い年頃なのだけど……決められないのなら、シェルシィが提案していたように、いっそ特定の夫を作らなくても……」
「何でも外の文化を取り入れれば良いというものではないと思います! 破棄! 破棄してください!」
「それはそれで女王に相応しい大物感があるかしらと思ったのだけど」
「そんな器いりません! 私の胸にはたった一人の殿方さえいれば良いのです!」
別に本気という訳ではなく、愛娘をからかっているだけなのだろう。母は楽しげにくすくすと微笑んでいた。母の笑顔を見ていると、ルヴィアの胸にも心地よい温もりが広がっていく。
もう少し、もう少し、あとちょっとだけ。
そんな風に思っていた心安らかな時間は、
「―――――ッ!」
遥か遠くから響く雄叫びに、引き裂かれた。
「これは……!?」
それは獣ではなく狼人のもの。この国では、ある符丁を意味していた。
――緊急事態、すぐに戦力を派遣されたし。
敵勢力や、危険な猛獣が現れた時に発するものだ。
ルヴィアは、立ち上がってその咆哮の主の名を口にする。
「……ラーケス!?」
ルヴィリスの戦士が一人、今は周辺の森林で見回りを担当していたはずの青年のものだ。
母が、険しい顔で言う。
「ルヴィア、任せても大丈夫?」
「はい、お母様」
母の提案により少しずつであるが王としての権限を委譲する準備は進められており、現状でもある程度の権限はルヴィアにも与えられていた。
特に、このような武力が要求される場面では、ルヴィアは国王や将の承認を待たずに判断し、行動することを認められている。
「行って参ります、お母様はどうかご無理をなさりませんように」
本来であれば、ルヴィリス最強の戦士たるガウラスが動くべき局面であった。
だが彼は、今は遥か遠くを旅している。
「武運を、ルヴィア」
「必ずや、ガウラスの代わりを果たしてみせましょう」
今、ルヴィリスで最強の力を有しているのは自分である。
ルヴィアはその自覚のもと一礼し、母の自室を後にする。
質実剛健な意匠の廊下に出ると、臣下が慌てた様子でこちらに駆けてきたところであった。
彼らに対して落ち着いた所作で頷いて、ルヴィアは朗々たる王族の声を響かせる。
「皆にどのような指示を? ……なるほど、ええ、それでいいと思います。後は――」
ルヴィアは状況を確認し、さらに幾つかの指示を彼らに与えていった。
そのまま幾人かの兵を引きつれて、ルヴィリス市街へと出る。
街は、騒然としていた。木造家屋や炊場にいた同胞たちが、血相を変えて飛び出していた。
このような事態は滅多にないのだから、無理もない。
皆に冷静に行動するように呼びかけながら、雄叫びの聞こえた方へと急ぐ。
途中、青ざめた表情で走ってくるシャーレの姿があった。
「ルヴィア様、今っ……!」
「聞こえました。すぐに向かいますので、シャーレは母をしっかりと助けてあげるのですよ」
真剣な表情でコクコクと頷くシャーレの頭にぽんと手を置いて、ルヴィア達は疾風のごとく駆けていく。
王都の出入り口近くにはすでに人だかりができており、どよめきが広がっていた。
彼らは、すぐにルヴィアの匂いに気付き、一斉にこちらに振り返ってきた。
「姫様っ……!」
「私が向かいます。ギウス、ミュレナは引き続き供を」
『はっ!』
凛とした口調で発せられた命令に、同行を命じられた腕利きの戦士2名は即座に応じる。
ラーケスはルヴィリスでも上位の実力者であり、彼の手に余るというのではあれば、やはりルヴィアの力が必要になる可能性が高い。
この場を離れざるを得ないことは気がかりであったが、やむを得ない状況であった。
「他の皆は、まだ家や外にいる者とともに王城へ! 動けないシェルシィも忘れないように!」
『承知しました!』
続いて淀みなく出てくる指示に従い、その場の皆は王都へと散っていた。
それを確認し、必要最低限の装備を身に付けたルヴィアは部下と頷き合う。
「では、行きましょう」
そしてルヴィア達は、森の中へと駆け出――そうとしたが。
「……!?」
ルヴィアのずば抜けた聴覚と嗅覚に届く違和感があった。
だんだんと大きくなる怪音。
ラーケスと、血と、そして不快な汚臭の入り混じった匂い。
彼の遠吠えが聞こえた方角からだ。
“何か”が、安否の知れないラーケスの匂いを付けながら猛スピードでこちらに近付いてくる。
「二人とも、注意を――」
ルヴィアの警告は、
「グェゲゲゲゲァァゲゲゲゲゲゲェェェェ!」
人とは思えぬような、耳障り極まりない怪叫によってかき消された。
いびつで、ずんぐりとしたシルエットが、木漏れ日の揺れる森から迫りくる。
凄まじい速度。両手に持つ何かが、光を反射して煌めいていた。
「避けなさい!」
ルヴィアは咄嗟に、身をよじらせながら叫んだ。
しかし、ギウスとミュレナは完全に反応が遅れていた。
姫の声に、反射的に動こうとはしていたが、
「がっ――」
「きゃっ――」
巨岩めいた身の毛のよだつ圧力が、ルヴィアの紙一重を通り過ぎた。
背後に聞こえた、二人の短い声。
ぞぐり、と寒気のする切断音。
何かがしたたり落ちる、濡れた音。
さらに密度を増す、血の臭気。
その刹那でルヴィアが感じられたのは、それだけであった。
何か起きてしまったのか察するには、それだけで十分過ぎた。
地面を転がるように受け身を取って、ルヴィアは構える。
ギウスとミュレナは、地面に力無く横たわっていた。
「ぁ……っ」
首が、ない。
ドクドクと切断面から血がこぼれ、真っ赤な水たまりが混ざり合っていた。
「ギウス、ミュレナ……」
そしてその向こう。
驚いたような顔をしたまま虚ろに固まっている二人の首を両手に下げ、ずんぐりとした胴体の怪人が立っている。
そしてその首には、もう一人のよく知る人物の頭部が、こめかみに穴を空けられ、まるでネックレスのように下げられていた。
「ラーケス……!」
「ゲゲッ……やっ、だぁ」
男だ。肥えきったぶよぶよに弛んだ丸い頭、見苦しいほどに肥満体の胴体や手足。
瞳は妙につぶらで、まるで幼い子供のように爛々と輝き、その締まりのない口元からは、涎が垂れていた。まともな知性を有しているようにはとても見えない。
「増えたっ……トモダチ、二人も、増えたぁ……ゲゲゲェ」
殺したギウスとミュレナの頭を寄せて、愛おしげに頬ずりする男。
狂っている。ぼたぼた溢れる血が、男の衣服を濡らしていくが意に介した素振りもない。
ラーケスの命もこの男が奪ったであろうことは、想像に難くなかった。
「ラーケス、ギウス、ミュレナ……!」
三人の生前の姿が、彼らとの思い出が、ルヴィアの脳裏を駆け巡っていく。
途方もない喪失感があった。悲しみがあった。自分が指示を出したせいかという罪悪感もあった。
だが何よりも先立つ感情は、
「貴様ぁっ……!」
ルヴィアの胸中に、憤怒の嵐が吹き荒れる。
この異形の男を誅すべしと、ルヴィアの魂は昂ぶっていた。
同時に、幼い頃から受けてきた訓練は、ルヴィアの思考から冷静さを決して奪わない。
戦士としてのルヴィアは、冷徹なまでに現状を分析していた。
異質な匂いは、この男だけではない。
肥満体の男に続くように、無数の足音と金属の混じった匂いがこの王都へと接近しているのを、ルヴィアは感じていた。
森の奥に、醜悪な敵意が満ち満ちている。
それらの状況を、ルヴィアはまたたく間に把握し、対処した。
「ッ―――――!」
ルヴィアは吼える。
王都すべてに響き渡るほどの、高らかな遠吠え。
先にラーケスが送ってくれたものとは異なる符丁を持つ咆哮であった。
これを発することが許されているのは、今のルヴィリスでたった二人。
最強の戦士ガウラス・ガレスと、その弟子たるルヴィア・ルヴィリス。
それが意味するところは、戦争だ。
ルヴィリスを脅かす敵対的存在が、王都に攻め入った。
我が死力を尽くして迎え撃つ。
他の戦士は非戦闘員の保護と防衛、他方向からの襲撃の警戒に注力すべし。
――もう誰も死なせない。
ルヴィアの決意の表れであった。
「来なさい、狂人ども!」
「ゲッゲゲゲゲェェェェ!」
哄笑する男の背後、百人以上に渡ろうかという武装集団が現れたのは、次の瞬間。
「おいおいおい、いい女じゃねえか!」
「馬鹿野郎、この女が“紅狼姫”だ! 構うな、オッゾに任せろ! 殺されなけりゃあ、後から“楽しめ”るぜ!」
「ギャハハハハハハハ! 殺せ! 奪え! 犯せぇ!」
対するは、“紅狼姫”ルヴィア・ルヴィリスの詠唱。
「護りたい、救いたい、されど我は人たる身ゆえ、すべてを抱くには腕は足りず――」
ルヴィアが守りたいのは家族、そしてこのルヴィリスの臣と民のすべて。
この短い二本の腕で抱えるには、あまりにも多く、大き過ぎるもの。
「だが此処にその理を超える存在が在ると知るがいい――」
故に欲する。手の届かぬ者をも護るための力を。
大切なものを害そうとする災いを打ち払うための力を。
「射抜け、穿て、我が指先に番えしは、凶を祓いし嚆矢なり――」
イメージしたのは、弓矢であった。
届かぬならば、届かせればいい。
我が手の先の災い、この一矢によって打ち砕いてみせよう。
護りたい存在が、この手から零れ落ちるほどに多く大きいならば、零れ落ちたものをも救える力が欲しい。
それが、ルヴィア・ルヴィリスの魔法の根源。
「――魔法具象――」
その魂の名は――
「<颶嵐煌弓>!」
ルヴィアの手に、弓が具象する。
彼女がいつも使っている木製のものではなく、金属質な銀の光沢を放つ、鋭利なフォルムを描いていた。
全長はルヴィア身長に比するほど、いわゆるロングボウと言われる大弓。
その弦は、まるで一筋の光明のように照り輝いている。
<颶嵐煌弓>の詠唱から具象まで、刹那の時間も経過していなかった。
ルヴィアは、その手に矢を持たず、間髪入れずに弦を引き絞る。
次の瞬間、弧を描く光の弦から、矢が形成されていく。
いちいち取り出し、番える必要などない。<颶嵐煌弓>の内部には、無限の矢が貯蔵されているのだ。
本体と同じ、艶やかに煌めく銀色の矢。
その矢じりが、渦巻く疾風をまといはじめた。
ルヴィアの唇が、猛りとともにその一矢の名を紡ぐ。
「――螺旋疾風!」
狙うは、敵集団の先頭。
三人の同胞を害した、肥満体の怪人であった。
螺旋疾風――<颶嵐煌弓>が形成できる矢の一つ。
最速を誇り、螺旋状に渦巻く疾風によって対象を抉るように貫く、強力な殺傷兵器である。
魔法により生み出されたそれは、中位魔族ですら一撃で葬るほどの破壊力を有していた。
「ゲッゲェ……」
容赦のない殺意の一矢を、怪人は避ける素振りすら見せない。
涎を垂らし、ニタニタと癇に障る笑いを浮かべながら、ただ両腕をぶらりと下げて棒立ちになっていた。
命中――否。
「――<脂肢粘汁衣>」
怪人の体表を滑るように、螺旋疾風は逸らされる。
明後日の方向へと飛んでいき、家屋の一つに大穴を開けた。
第一射は失敗。しかしルヴィアに動揺はない。
想定の範囲内だったからだ。
「……それが、お前の魔法ですか」
そう、この怪人もまた第三位階。
魔法を具象している強力な魔道師なのだ。
ラーケスが勝てず、ギウスとミュレナが対処すらできない訳である。
男はルヴィアを見て、だらしのない笑みを浮かべながら自分を指さした。
「ゲゲっ……そう、おで、第三位階。オッゾ、“首狩り”オッゾ。“人獣”の……シドざまの、てじだ」
その名を聞いた瞬間、総毛立つような怖気が、ルヴィアの身に走った。
(“人獣”……!)
3年前の、あの外道の集団。今にも王都に踏み入ろうとしている集団も、その一味か。
今になって、このような大規模な襲撃をかけてくるとは……!
同胞たちは、王城に避難しているはず。
報を受け、臣下たちが諸々の指示を出しているだろうが、ルヴィアの先ほどの遠吠えで伝えた意思表示は、原則として王や将の命令より優先すべしということになっている。
ガウラスがいない今、この場で最強の戦士であるルヴィアにはそれだけの権限が与えられているのだ。
何人かは支援と偵察のために回されて来るかもしれないが、ルヴィリスの戦力の多くは戦えぬ者を護るための防衛に回されているだろう。
彼らには、指一本たりとも触れさせない。
我が領地に踏み入れる人の皮を被った獣どもよ、生きて次の一歩を踏み出せると思わぬがいい。
同胞が味わった無念、貴様らの身でもって償わせてやる。
「いけ、いけぇ! この先に獲物はたっぷりと――でびゃっ!?」
「散華」
卑しい顔をしながら声を張り上げていた男が、ルヴィアの放った矢で頭を砕かれる。
着弾地点から破裂し、花弁のごとく薄い風の刃をばら撒く範囲攻撃。
男の周辺にいた幾人かも巻き込まれ、肉と血を散らしていた。
刹那の間に発生した凄惨な死に、次は我が身かと暴漢たちの足が一瞬が止まる。
しかし、意に介さずに動く者が一人。
「ゲゲゲェェェ!」
怪笑を上げながら迫るオッゾ。
地面の上を腹で滑るような、冗談じみた機動であった。
だが、凄まじく速い。
ケタケタ嗤う肉の塊が、疾風のごときスピードで襲いかかってくるのは、悪夢じみた光景だ。
両手に光るは、同胞の首を切り落とした鉈のような大振りの刃物。
「……っ!」
オッゾの動きを常に警戒していたルヴィアは、その身を突風に煽られながらも回避した。
すれ違いざま、怪人のずんぐりとした体躯を間近で観察する。
陽光を受けてぬらりとした照りを見せる、オッゾの胴体を。
(脂……?)
オッゾの胴体から、ドロリとした汁が垂れている。
怪人の全身から、皮脂が染み出たような体液が溢れ出ていたのだ。
あの脂のようなぎとつく液体によって、ルヴィアの矢は滑り逸らされてしまったのだろうか。
自らの体液を変性するタイプの魔法。ルヴィアはそう推察した。
変性型とは、すでに物理的に存在しているものの性質を変化させる具象型だ。
ガウラスの<颶狼鎧>もまた、風に干渉する変性型である。
性質にもよるが、このようなタイプは身体強化においても優れていることが多い。
その推察と、オッゾの見せている身体能力から、ルヴィアはこの怪人のおおよその魔道師としての力量を推し量る。
そして、この怪人の魔法の能力も。
(攻撃を滑らせ、このように地面を滑ることで高い機動力を実現する体液の鎧……それだけでしょうか?)
その間、オッゾの突撃から1秒にも満たない。
ただ見ている場合ではなかった。
このまま怪人の突進を見過ごせば、その機動力からあっという間に中央に到着してしまいそうだ。
ルヴィアを除けば、かろうじて戦闘タイプの第三位階の相手ができる実力があるのはシェルシィだ。
だが彼女は身重。この怪人の接近を許せば、一方的な虐殺が巻き起こることは想像に難くない。
「散華!」
ルヴィアは思考を打ち切って、次の矢を放った。
狙うのは、オッゾ――ではなく、怪人が滑っていく先の地面である。
刺さり、炸裂し、地面が弾けた。
平坦だった地面に、突如として大きな凹凸が発生する。
「ゲグェゲェッ!?」
奇声を発しながら驚くオッゾ。
地面を滑走していた肥満の怪人は、荒れた地面によって軌道を変化せざるを得なかった。
器用にも空中で一回転しながら、着地する。
あんなだらしない身なりで、運動能力は相当に高いらしい。
とりあえず怪人の機動を一時的にでも止めたことを確認し、ルヴィアは“人獣”の悪漢たちの方へと目を向ける。
一人一人の練度はなかなかに高いようであるが、武装に統一感のない集団だ。
仲間意識は薄いようで、仲間の死に悲しんだり怒ったりする様子もない。
だがその眼差しの澱み、濁り、汚れ、あるいは暗さは、明らかな共通点であろう。
この怪人オッゾのように、狂っている訳ではない。だが他者を己が欲望の犠牲とすることに、何ら疑問も痛痒も感じない類の者たちの目であると、ルヴィアは知っている。
殺されて当然の外道たち。
さりとて、彼らを殺す己の行為が当然に正当化されるものだとは、思っていない。
だが番える矢を放つ指には、一切の躊躇も迷いも情けも存在していなかった。
「螺旋疾風!」
絶妙な角度。
10人近い悪漢たちを、まとめて貫き、無残な屍と化した。
中には魔道師も混じっており、魔術で攻撃をしてくる者もいたが、第三位階の力を惜しみなく振るうルヴィアには、傷一つ付けることは叶わなかった。
荒ぶる“紅狼姫”から逃れてこっそりと王都へ進入しようとする者にも、音と匂いで察知し、容赦なく殺意の矢を浴びせていく。
城には、同胞たちには、断じて近付かせない。
ルヴィアは縦横無尽に駆け回りながら、侵略者たちを屠殺していた。
そしてその最中も、最大の脅威である怪人オッゾの動きには注意を払い続けている。
「ゲッゲッゲェェ……ばやい、なぁ……」
この男、考えていることがまったく読めない。
こちらを苛立たせるような笑みで舐めるように見ていたと思うと、突然動き出すのである。
その魔法の全貌も明らかになっておらず、その戦闘能力以上に不気味なプレッシャーを感じずにはいられなかった。
隙を狙っているのだろうか、ならば。
「くっ……!」
魔術による波状攻撃を回避し、その敵手をことごとく打ち抜いたルヴィアは、わずかだが姿勢を崩していた――ように見える動きを見せた。
「ゲゲッゲゲッグゲェェェ!」
嗤うオッゾ。
こちらに向けて、片腕を振るってきた。
その腕にまとわりついていた<脂肢粘汁衣>の体液が、飛沫を散らして飛ばされる。
触れてはいけないという確信。だが半透明で見えづらく、そして速い。
最小限の動作での回避は困難であると判断し、横に大きく飛びずさった。
ルヴィアの背後、<脂肢粘汁衣>の流れ弾を受けた悪漢の身体から、強酸を浴びたような嫌な臭いをともなう煙と、断末魔の悲鳴が上がる。
そんなことは意識の片隅のこと。
わずかな間、空中にあるルヴィアの身体。
極限の集中力で、オッゾを観察していた。
「グゲッゲァァァァ!」
滑る肉塊。
オッゾが、迫る。
足場のないルヴィアには、これを回避する術が――
「<颶嵐煌弓>!」
――ある。
ルヴィアの手にある大弓から、爆発的な大気の噴射が発生した。
それは彼女の身体を易々と持ち上げるほどの推力を実現し、ルヴィアはまるで空中を蹴ったかのように、さらなる跳躍を見せる。
<颶嵐煌弓>の機能は、ただ無限の矢を放てるというだけではないのだ。
「ゲゲッ!?」
一瞬前までルヴィアのいた空間を、オッゾが切り裂いた。
必中を確信していたのか、空振りしたことに目を剥きながら、怪人は頭上を見上げる。
ルヴィアは太陽を背にしながら、空中を泳ぐように姿勢を変え、すでにオッゾへの狙いを付けていた。
そこに番えられる矢は、先ほどまでとは少し違う形状をしている。
より禍々しく剣呑な、兇の矢じり。
まるで見えざる獣の咢のごとく、嵐という概念を凝縮したような暴風が、その先端から生じていた。
「――颶嵐獣!」
放つ。
あの男の身体を穿つことがかなわないことは、最初の一幕で理解している。
では、どうするべきか。その答えが、この暴風の矢であった。
<颶嵐煌弓>の矢のなかでも、最大級の威力を誇る一矢。
「ゲゲっ……おでにば、攻撃、きがない」
オッゾは余裕たっぷりといった様子である。
こちらの攻撃など意に介さぬといったふうに、次の突撃のための姿勢を取っていた。
暴風の矢は、オッゾに向けて飛来して――膨張した。
巨大な猛獣の咢が開いたがごとく。
凝縮された颶風が展開され、周囲の空間と、そこに在る物体を食い千切らんと暴れ狂う。
「ゲグァァァァ!?」
醜悪な悲鳴が響く。
その脂ぎった粘液の鎧が、まるごと消失していた。
肥満体は無傷、即座に粘液の再生がはじまるが――
「――螺旋疾風」
憤怒に凍る、ルヴィアの声。
続けざまに放たれた最速の矢が、<脂肢粘汁衣>を剥がされたオッゾの丸い胴体に吸い込まれるように襲いかかり、
「ゲェアッ――」
心臓を穿っていた。
ふらつき、糸の切れた人形のように崩れるオッゾ。
血反吐を吐きながらしばし痙攣した後、怪人は動かなくなった。
「…………」
それを確認したルヴィアは、冷たい眼差しを悪漢たちへ向ける。
主力を失った彼らは、ひどく動揺していた。たった一人の少女の眼差しに、完全に気圧されている。
「強ぇ……これほどまでか……!」
「う、嘘だろ……? オッゾが勝てねえのかよ……!?」
すでに“人獣”は、1/3近くまで人数を減らしていた。
脅威であった怪人オッゾは死亡。
ここから先は、一方的な虐殺にしかならないだろう。
無意味な戦いだ。自分の抱く虚しい怒りと報復心を満たすことしかできない。
新たな矢を番えながら、ルヴィアは宣言する。
「これ以上続けますか? まだ戦意があるというのなら、引き続き私がお相手仕りますが」
「くっ……」
「……化物め!」
「無理だ、無理に決まってんだろうが……! た、助けてくれぇ……!」
一人の男が、武器を放り出して逃げようとした。
情けない姿で、森へと姿を消し――
「おいおい、そりゃあ無いだろうがよ」
「ひぃっ……!?」
――突如として響く男の声に、足を止めた。
逃げ出そうとした男だけではない。
“人獣”の全員が、凍り付いていた。
「……っ」
そして、ルヴィアも。
何ら前触れもなく発生した未知の威圧感。途方もなく強大な猛獣に睨まれたかのようなプレッシャーに、四肢が震えている。
戸惑うルヴィアの視線の先、森の奥から奔流のような殺意が溢れ出ていた。
人の匂いがする。だが彼女には、それが本当に人と呼べる存在のものなのか、確信が持てないでいた。
「お前はここに、何をするために来た? 奪うために来たんだろう? 今のお前のように逃げ出し、許しを乞う獲物がいたら、お前は見逃していたのか?」
「そ、それは……」
現れたのは、若い男である。
鮮血のような紅の髪。
端正だが危うさのある、耽美なる兇の美貌。
すらりとした長身に、仕立ての良さそうな衣服をまとっていた。
野性的だがどこか優美さを感じる足取りで、硬直する男へと歩み寄る。
「弱肉強食。お前は強者の側として行動していた訳だ。ま、今みてえに勝ち目のない相手が現れるかもしれねえが……たかがその程度のことで、お前は弱者として振る舞うってことだよなぁ? 都合よく強者と弱者の立場を入れ替えるっつうのは、筋が通らねえと思わないか?」
「あひ、ぃっ……」
蛇に睨まれた蛙、いや巨竜に嬲られる羽虫か。
紅髪の男から息を吐くように垂れ流される兇の気配は、山のごとき凶獣を前にしているような錯覚を起こされる。
逃げ出そうとしていた“人獣”の男はそれをまとも受け、失神寸前だ。次の瞬間には、心が死を選んでいてもおかしくはない。
それなのに、紅髪の男の表情は穏やかですらあった。
気安い仕草で、固まる男の肩にぽんと手を置いて、
「知らなかったか? 俺はそういう、自分に都合よく筋を変えるような中途半端な野郎が反吐が出るほど嫌いでな。“人獣”を名乗るなら、ちったあ根性見せてみろや、な?」
「ぎっ!?」
直後、男が赤に染まり、膨張した。
一回りほど膨らんだ体躯、よく見ればその肌には浮き出た血管が今にも破裂しそうなほど脈動しているのが分かる。
白目を剥いた眼球も真っ赤に充血し、今にも飛び出そうだ。
(血液の流れが、操作されている……!?)
「ほら、行けよ。いい女を待たせるのは感心しねえな」
「ギェアアアアアアアアア!」
奇怪な叫びを上げ、人間離れした動きでルヴィアに襲いかかる膨張した男。
猛獣を思わせる、俊敏な動き。
「――螺旋疾風」
が、ルヴィアにとって射抜くのは造作もないこと。
心臓を貫かれ、血流の源を失い、壊れた人形のように地面を転がりながら、男は絶命した。
自業自得。この男への同情心は湧かなかったが、気分の悪い殺しではあった。
鋭かった表情が、さらに険を増していく自覚がある。
パチ、パチ、パチ……と、“人獣”の集団が絶句している中、紅髪の男の乾いた拍手の音が響く。
「いや、見事見事。“紅狼姫”の異名は伊達じゃねえみたいだな、ルヴィア・ルヴィリス」
「……何者ですか、名を名乗りなさい」
男は粗野な笑みを浮かべながら、しかし育ちの良さを感じさせる所作で名乗りを上げる。
「シド・ウォールダー。“人獣”なんて呼ばれてるロクデナシどもの、まあ頭みたいなもんだ。名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃねえか?」
想像通りである。
シド・ウォールダー。
帝国の名門貴族に生まれ、家を滅ぼし、今は悪徒の首領として名を馳せる外道。
3年前、ベアトリスから聞かされていた通りの容姿が、そこにあった。
確かベアトリスの1つ上のはずだから、年齢は23歳か。
「いい見世物だったぜ、ルヴィア」
シドは悠々と王都の敷地へと足を踏み入れた。部下たちは、身動きできずに事態を見守っている。
彼に射掛ける気には、なれなかった。この男の底が、まるで計れなかったから。
“人獣”の長は、地面に転がる肥満の怪人の――部下の死体を一瞥し、愉快そうに笑う。
「大したもんだ、オッゾは頭は足りねえが、“人獣”でもなかなかやる方だったんだがな。まさか傷一つ付けられねえで終わるとは思ってなかったぜ。こいつは期待以上かもしれねえ」
期待……期待だと? 自分に?
聞き捨てならない物言いに、ルヴィアは唸るような口調で問いかけた。
「どういう意味ですか!」
シドは何ら悪びれる素振りもなく、子供が悪戯をした理由を明かすような気軽さで言う。
「いや、何。お前さんに興味があったんでな。力を試すためにこうして遊びに来たって訳だ」
「遊び、にっ……!?」
ルヴィアは、眩暈を覚えた。
同胞が、3人死んだ。あの男の部下を、何十人も殺した。
それが、“遊び”の結果だというのか?
ルヴィアがいたから、こうなったというのか?
「ルヴィリス最強と名高いガウラス・ガレスはいねえみたいだな。お前ほどじゃねえが、興味があったんだが……やれやれ、残念だ」
嘆くように肩を竦めるシド。
ガウラス……そうだ、彼がいれば同胞の犠牲は防げたのかもしれない。
ルヴィリスから離れるべきではないと難色を示していた彼の背中を強く押した一人は、自分だ。
何を今更、その可能性は極めて低いだろうと切り捨てたリスクではないか。
そうは思ってみても、胸中から次から次へと溢れる悔恨の情を止められるほど、ルヴィアの精神は成熟してはいなかった。
だが、後悔に捉われている場合ではない。
これ以上の犠牲は断じて許さない。
“人獣”を、ルヴィリスの地から掃討しなければ。
「くっ……!」
やるべき事は分かっているのに、即座に動くことができなかった。
先ほどからシドが自然体で垂れ流している禍々しい気配。
途方もなく巨大な飢えた獣の咢が、目の前で開かれているような錯覚。
生まれて初めて、ルヴィアは身が竦むという経験をしていた。畏れと怖れが、“紅狼姫”の身を縛り付けている。
駄目だ、呑まれるな。
振り払うように、朗々と声を張り上げた。
「止まりなさい!」
ルヴィアは構え、矢じりをシドへと向ける。
まるで観光にでも来ているような軽い足取りでルヴィリスの街並みを見渡していたシドは、楽しげに振り返った。
番えた矢は、颶嵐獣。オッゾを仕留めた最大威力の矢だ。
しかしシドは、何ら警戒した素振りも見せていない。
「これ以上、ルヴィリスの地を汚すことは許しません! この数多の骸に免じ、今すぐ立ち去るというなら見逃しましょう。しかし、もしこれ以上我が国で狼藉を働くというなら――」
「――いいぜ、射ちな」
「ぁ……」
笑みをともに放たれた言葉に、ルヴィアは絶句した。
そんな反応を愉しげに見下ろしながら、シドは言葉を続ける。
「異例の早さで第三位階に至り、“紅狼姫”と称されるまでになった天才魔道師ルヴィア・ルヴィリス。3年前に一応は“人獣”を名乗ってた連中がやられたと聞いて名前ぐらいは覚えてたが……お前さんがどれほどのもんなのか、この目で確かめてみたくなったんだ」
シドは人差し指で自分の胸板を叩いてみせ、無防備にその身を晒している。
「生憎と、今日は思い付きで動いたんでよ。まともにやれる奴はオッゾしか連れてこなかったんだ。奴が死んじまった以上、俺が相手をするしかねえからなぁ……ま、要は正々堂々勝負しようぜってことだ。安心しな、周りの連中には手は出させねえ。お前を足止めしてる間に他の連中を襲わせるなんて狡い真似もしねえよ。背いたら、俺が殺す」
ゴクリと、シドの部下たちが固唾を飲む込み、身をこわばらせる気配があった。
本気で怯えている。
少なくとも彼らは、シドの言葉に背けば命はないと思っているのだ。シドの真意はともかく、その認識がある以上は彼らは易々とは動けまい。
「ここのロクデナシどもにお前さんに勝てる奴はいねえのは分かってるだろ? どうだ、悪い条件じゃねえと思わねえか?」
能力の詳細は不明だが、この男も第三位階であることは聞いている。
帝国時代、大変に優秀な魔道の才覚を発揮していたことも。今現在においても極めて強力な使い手として長じていることは、一目で分かった。
それに、このただならぬ鬼気。気を抜けば、腰砕けになってへたり込んでしまいそうだった。
この男は、自分より強いのかもしれない。ルヴィアの本能が、そう訴えかけて来ている。
だが、それがどうした。たかだか敵が自分より強い程度のことで、護るべき者を放り出して退けというのか。
ルヴィアの覚悟の眼差しを、シドは了承を受け取ったようであった。
「先に仕掛けさせてやるよ。それを合図にし――」
「――颶嵐獣!」
シドの余裕綽々といった言葉を遮るように、暴風の矢が放たれた。
戦士として恥ずべき行為かもしれないが、この男さえ倒せばルヴィリスは救われるのは事実。
<颶嵐煌弓>の最大威力の矢が、棒立ちのシドへと一直線に飛来する。
命中。直撃。
圧縮された暴風が解き放たれ、シドの上半身を抉り――
「……ッ!?」
「ハハハハァ! さあ始めようぜ、“紅狼姫”!」
――否。
傷一つないシド。
喜悦に満ちた端正な顔立ちが、気付けば目の前にあった。
避けられてはいない。確かに命中した。なのに無傷。正面から防がれた? 馬鹿な……!
疑問と動揺が錯綜するルヴィアに真紅の魔道が襲いかかったのは、次の瞬間であった。




