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第2話 ―紅狼姫・その2―

 ルヴィリスは、人口2000にも満たない小規模国家である。

 森林地帯の奥地を祖先が長い年月を経て伐採し切り開かれた、王都と呼ぶにはあまりにも牧歌的な景観。

 潤沢な木材を用いた木造建築の家屋が建ち並び、中心部にある王城と広場にある炊場だけが頑丈な石造りだ。

 城というよりは砦と表現した方が正確なささやかな規模の建築物だが、これがルヴィリス王都最大の建造物であった。

 すでに深夜、一部の見張りを除けば王都はすっかり寝静まっている頃合いであるが、今宵の王城の眠りは、もう少し先になりそうだった。


「“人獣フェンリル”……?」


「はい、3年ほど前から巷を騒がせている、非合法組織です。我が帝国のみならず、世界各国から警戒視されてはいるのですが……何ぶん、その実態が掴めず、手を焼いているのが現状です」


 文鳥ふみどりによる連絡から、わずか半日。

 その凄まじい健脚により、ベアトリス・アルドシュタインはルヴィリス王都へと到着していた。

 金髪碧眼の、鋭い美貌の女騎士。

 代々、帝国騎士の頂点たる近衛騎士を輩出しているアルドシュタイン家の令嬢であり、“帝都の剣聖”と称される父の後を継ぎ、次期当主、そして近衛騎士となることを嘱望されている女傑である。 


 ルヴィリスのささやかな規模の王城、その会議室でベアトリスは自らの持つ情報を開示していた。

 20人も入れば窮屈に感じられるであろう室内である。内装はつつましく、木製の円柱状のテーブルを囲むように椅子が配置されている。ルヴィリスという国家の規模からすれば、この程度のスペースでも事足りるのだ。

 彼女の話を深刻な表情で聞くのは、当事者であるルヴィア、ガウラス、そしてルヴィアの母親であるルヴィリス国王、その側近である要人たち。

 ……先代国王である父は、5年ほど前に流行った病で亡くなっている。


 本来であれば明日の執務や任務のために眠っているべき時間であるが、尋問を受けた男たちの言葉の不穏さを思えば、要人たるルヴィア達はまだ眠る訳にはいかなかった。


「あの者らは、いずこかの地に“人間牧場”という施設を構えておりまして……」


 そこで、ベアトリスは言葉を切る。

 わずかな躊躇の気配。

 もよおす吐き気をこらえるような嫌悪感を、その美貌に滲ませながら、


「ご気分を害される話になるでしょうがご容赦を。かの施設では、見目や体躯の優れた普人種や亜人種を集め、同族、異種族問わず強引に交配させ、魔道装置による強制的作用によって成長させた子供を商品にするという非道が行われているそうです」


 その内容に、国王ははが反応した。


「……異なる亜人種同士では、子を為すことは極めて難しいはずだけど」


「事例がゼロではありませんし、そのための薬も開発されているとか……珍しい見目の子供は高値で取引されているという話で、何とか売買のルートを見つけだし、撲滅しようという動きはあるのですが」


 答えを受けたルヴィアの母は、唸るようなため息をついた。

 ルヴィアも、他の皆も似たようなものだ。

 義憤や嫌悪、感情はそれぞれ異なれど、暗い憤りの気配を溢れさせている。

 ガウラスが腕組みしながら、狼顔の口元を忌々しげに歪めていた。


「あの男たちの吐いていた言葉は、嘘ではないということか」


 当初はなかなか吐こうとしなかった男たちであるが、尋問係の手慣れた“説得”によって、自分から聞かれてもいない内容まで喋るようになっていた。


 自分たちは、“人獣フェンリル”の一員である。

 “牧場”に、精強と名高いルヴィリスの狼人を売ろうと思っていた。

 目立った手柄を立てれば、「シド様」に目をかけていただけるかもしれないから。


 シド、それが“人獣”という悪逆の徒の首領の名か。

 ベアトリスは、苦渋の滲んだ顔でその疑問に答える。


「“人獣”の中心となっているのは、シド・ウォールダー……邪悪、外道を体現したような男です。およそ、人の犯すことのできる罪で、あの男が犯したことのないものなど無いのではないかと思われるほどです。理解しがたいことですが、あの男と、その所業にかれて、“人獣”に参加する者も見られるとか」


「人の魂は千差万別。どのようなものであっても、突き詰めれば一種の魅力カリスマというものは宿るものよ。そして、そこに惹きつけられる者も現れるでしょうね。さながら、その男は黒く輝く太陽といったところかしら」


 黒い太陽。

 詩的な表現を好む国王ははの言葉を噛み締めながら、ルヴィアはシドとやらに想像を巡らせたが、妄想力――否、想像力たくましい彼女であっても、イメージしきれるものではなかった。

 いわゆる悪党を見たことは何度もある。我が国においても、残念ながらそのような道を踏み外した者もいた。だがそれらは、決してルヴィアの理解が及ばないような精神の持ち主ではなかった。己の欲に負け、あるいはそうせざるを得ない道に追い込まれた弱者たち。咎人であるが、ある一面では哀れな存在だ。

 では、カリスマを帯びるほどの邪悪とは、いかなる存在なのか。


「……まことに恥ずかしい限りなのですが。あの男は、もともとフォーゼルハウト帝国の人間なのです」


 訝しむ視線を受けながら、ベアトリスは鎮痛な表情で話を続けた。


「シド・ウォールダーは、フォーゼルハウト初代皇帝の血を引く名門貴族が一、ウォールダー家の嫡男でした。あの男の両親は、たいへんに立派な人物で、私も尊敬しており……まだ少女の時分は、私もあの男とは幾度か面識を持っています。あのような鬼畜外道であると見抜けなかった私の不明を、悔いても悔い足りません」


 いささか生真面目過ぎるきらいのあるベアトリスらしい物言いであった。

 この場に彼女を責めるような浅はかな者など、誰もいない。

 まずその男の本質に責を負うべきは、彼女などではなく、


「シド・ウォールダーの親御殿は?」


「……すでに亡くなっております。殺されたのです、実の息子に」


 王の問いに、ベアトリスは陰鬱な声で答えた。


「あの男は、5年前に使用人や家臣、そして自らの両親を殺害し、ウォールダー家を滅ぼし、姿をくらませたのです。お二人は、シドのことをとても大切にしてらしたのに」


 親殺し。

 なるほど、犯していない罪などないとまで言われる男なのだから、おかしくはない話ではある。

 辟易へきえきした思考の中で、ルヴィアは深々と嘆息した。

 暗く淀んだ空気の中、臣下の一人が話題を変えようと口を開く。


「しかし、組織の名前も愉快ではありませんなぁ。よりにもよって、“人獣フェンリル”など」


「ええ……そうですね」


 ルヴィアは首肯する。


 フェンリル。

 それは、世界の外側に揺蕩う存在“神格”の一柱として、古い書物に記されている名であった。

 その神格の有する性質は、災厄、暴虐、殺戮、終焉。

 そして、狼。


 狼人ワーウルフとしては、あまり心穏やかではなかった。

 まあ、何らかの組織が、神格から名を借りた名称を掲げることはそう珍しくもない。

 恐らくは、その名につきまとう悪の性質から名を取っただけなのだろうが。


 その後、ベアトリスと必要な情報の交換を行い、より詳細な“人獣”の捜査のためにくだんの罪人たちを帝国側に引き渡すための手続きを行って、その場は解散となった。






「お疲れ様でしたね、ベアトリス。まさか、すぐに走ってくるとは思いませんでした。疲れたでしょう?」


「いえ、これも修行の一環と思えば何ということはありません、ルヴィア様」


 罪人輸送のための小隊の到着は明日になるということで、ベアトリスはルヴィリス王城に泊まっていくことになった。

 いまだルヴィリスの民にはフォーゼ人、それも初代皇帝の血族の一つであるアルドシュタイン家の令嬢ベアトリスに対して厳しい眼差しを送る者も少なくはないが、ルヴィア自身は、彼女のことを友人として好いている。


「このような夜更けにお風呂を借りてしまい、恐縮です」


「こちらから言い出したことなのですから、お気になさらず。このまま寝たら、匂いますよ?」


 全力疾走でルヴィリス王都に到着し、そのまま説明をはじめたベアトリスの身体は汗だくであった。

 もう深夜ということもあり寝るだけであるが、とりあえず身体は清めてはどうかと風呂を勧めたのだ。

 ルヴィリスは田舎である。フォーゼルハウトの都市のように水道や魔道設備は整っておらず、風呂も人力で川から汲んだ水を沸かし、湯船に注ぐという原始的なものだ。狼人の腕力ならば肉体的負担はさほどでもないが、面倒であることは確かであり、フォーゼルハウトの利便性が羨ましくも感じるのが正直なところであった。


 ルヴィア、13歳。

 故郷であるルヴィリスの牧歌的な街並みやその自然豊かな環境を愛してはいるが、そういった都会の生活にも興味津々な年頃である。

 

 ルヴィリスと帝国のパイプ役の一人として国境近くの領地に派遣されていたベアトリスは、帝都の生活についての質問をぶつけられる、格好の相手であった。

 旺盛な好奇心のままに問いをなげるルヴィアに、ベアトリスはいつも誠実に、丁寧に答えてくれた。

 ベアトリスが風呂に入るならと、ルヴィアも付き合いで一緒に入る程度には、二人の個人的な関係は気安いものとなっていた。


「相変らず、素敵な身体をしていますねぇ、ベアトリス」


「そうでしょうか……仕事柄仕方ないとはいえ、筋肉が付き過ぎているようにも思うのですが」


 淡い湯気のなか、二人は一糸まとわぬ裸身である。

 並んで肩を寄せ合い、湯船に身を浸していた。


 苦笑するベアトリスの長身は、しなやかな筋肉のラインが浮き出た見事なスタイルを誇っていた。

 本人の言うとおり、逞しいという印象も受ける肢体であるが、これはこれで一つの理想形のようにルヴィアは思う。

 それに、胸はしっかりボリュームがあり、きちんと女体の柔らかさをアピールしている。

 羨ましい。自分も成長すればあんなふうに育ってくれるだろうか。


 その肌に湯をしたたらせ、ほんのり頬を赤らめるベアトリスは、紛れも無く艶やかな色気を帯びた一人の女性であった。


「私としては、狼人の皆様の体質が羨ましくなることもあります」


 そう言うベアトリスが見下ろすルヴィアの肢体は、まだまだ未成熟。

 胸は膨らみかけ、全体的に凹凸の乏しい華奢なボディラインを描いていた。

 だが、そんなルヴィアの腕力は、魔道の強化に依らずともフォーゼ人の平均的な成人男性のそれに匹敵する。

 狼人の――特に女性は、その筋肉の質が普通の人間のそれよりも非常に高いことが多いのだ。見た目はほっそりとした女性でも、とんでもない膂力を発揮することが少なくない。逆にいえば、鍛えてもその密度ゆえに見た目の筋肉量はあまり変わらないということでもある。

 ガウラスのように、狼人の膂力をもってすら異常な肉体の酷使の結果として筋骨隆々の体躯を獲得する者もいるが、それはあくまで例外だ。


 ベアトリスは、鍛えても鍛えても体型の変わり辛いその特徴を、女性として羨んでいるのだろう。

 しかし何事も一長一短だ。


「でも、意中の殿方が筋肉趣味だったりしたら、ベアトリスの方が有利になりますよ?」


 慰めのつもりであった。

 だが、ベアトリスの表情は、思いっきり曇った。


「殿方、ですか……はぁ」


 虚ろなため息が、湯気に溶けていく。

 ルヴィアは、失言を自覚した。気まずさから、やや躊躇いがちに尋ねた。


「何か……男性関係で悩みでも?」


 そういえば、彼女とこのような色恋の話をするのは初めてだったかもしれない。 

 ベアトリスのため息は、より深く、重くなった。


「悩むほどの関係があれば、まだ良かったのですが……私ももう19、いい加減に婿を迎えても良い年齢になります。なのに、なのに……年下の部下ですら、もう伴侶を得ているというのに……!」


 つまりは、相手が見つからないという訳か。

 その美貌、人徳、家柄を思えば相手に困るような人ではないと思うのだが、フォーゼルハウト帝国ほどの大国の大貴族ともなると、小国の姫では図りかねるような難しい問題があるのかもしれない。

 その原因がどこにあるのか、下手に突っ込めばベアトリスの心に深い傷を与えそうで、ルヴィアは続く言葉に困った。

 すでに幾人もの夫候補が名乗りをあげているルヴィアとしては、真の意味での理解ができないであろう悩みでもある。


「え、えぇと……し、仕方ないのではないでしょうか! 今は帝国の政策的にも大事な時期ですし、子供ができれば、仕事にも支障が出るでしょうし!」


 なので、とりあえず当たり障りのないフォローを口にする。

 果たして、効果はあったのかどうか。

 ベアトリスは、どんよりとした視線をルヴィアに向けて、


「ルヴィア様は、そのお歳でもう何人もの男性から求婚を受けていると聞きますが……」


「……そうですね、まあ」


 ベアトリスの眼差しは、羨望に輝いていた。


「やはり、すでに男性との駆け引きにも長じられているので?」


 13歳にそのような視線を送る19歳というのはいかがなものか。

 そんな思考もよぎったが、それよりもルヴィアの胸中でむくむくと膨らんでいく想いがあった。

 自尊心、自己承認欲求――そんな類の感情。

 ルヴィアはしっとりと微笑んで、頷いてみせる。


「ええ、色々なタイプの殿方と、伴侶に相応しいかどうか試すための語らいを」


「おお……!」


 感嘆するベアトリスの反応に、ルヴィアの濡れそぼった狼耳が、ピクピクと誇らしげに動いていた。

 同時に、後ろめたさが襲ってくる。


 実際には、そんな経験なんてほぼ皆無だ。男性と、そのような関係を前提とした会話などしたことがない。

 まだルヴィアに早いということで、すべて保留の状態である。

 が、しかし、興味津々といった様子で身を乗り出してくるベアトリスを前にすると、口がよく回る。


「どのような会話を? 私は、小さい頃から剣や公務のことばかりで、そういった経験がほとんど無いのです……何か、気を使うべき骨子があれば、是非ともご教授願いたいのですが」


「それはですね――」


 ルヴィアは、ベアトリスを尊敬している。

 戦士としては、ルヴィアの師であるガウラスとも渡り合えるほど。

 まだ勉強中のルヴィアと違い、ルヴィリスとの外交などの公務においても父であるアルドシュタイン当主をよく助けている。

 国家の第一線で働く、オトナの女性だ。


 彼女のようになりたいと、そう思える存在。

 そんな相手に、自分が先んじている――そう思わせられる部分があり、ちょっと上から目線で語ることができるという誘惑。

 まだ13歳のルヴィアには、それを抑えるほどの自制心は、まだない。


「私の場合、基本的に年上の殿方が相手になるのですが――」


 もともと、話や設定を考えるのは得意である。

 ルヴィアの頭の回転の早さとあいまって、次から次へとそれっぽい語りが口から滑り出てきた。

 我ながらあまりにも出来のよい作り話で、当のルヴィアまでもが本当にあったような気がしてくるほどに。


「な、なるほど……!」


 ルヴィアの与太話を、ベアトリスは真剣な表情で聞き入っていた。

 それが、ルヴィアの張りぼての自尊心をよりいっそうくすぐって――


「――見栄をはるのはおよしなさい、ルヴィア。あなたの悪い癖よ」


 苦笑まじりの声が、ルヴィアの話をさえぎった。

 振り返れば、王であるルヴィアの母が、浴場を覗き込んでいた。

 色白だがルヴィアがそのまま成長したような清楚な美貌。もう40代も後半に差し掛かった産経婦とは思えない若々しさである。


「……見栄?」


 きょとんと首を傾げるベアトリスに、母は嘆かわしげにかぶりを振る。


「話はぜんぶ嘘よ、ベアトリス。ルヴィアはまだまだ修行中の身、求婚の申し出は私のところで止めてあります。その娘に男と駆け引きができる舌なんて持ち合わせてないわ」


「な、なるほど……」


 ベアトリスが、戸惑い気味の眼差しをこちらに向け来た。

 ルヴィアは、額に浮き出る脂汗が湯に溶けていくのを感じながら、顔をそらす。

 しばしの沈黙と硬直。

 だんだんといたたまれなくなり、ルヴィアの頬に朱がのぼってきて、


「ごめんなさいぃっ……!」


 ざぱぁっ、と湯船から飛び出たルヴィアは、そのまま身を丸める。

 ベアトリスと母に向けてお尻を向けた亀のような姿勢。

 ふるふる震えるルヴィアの生尻に向けて、母がのほほんとした困り笑顔で言った。


「都合が悪くなって窮するとすぐにそうやってお尻を向けて丸まるのも、悪い癖ねぇ」


 こちらの顔を見せないため、相手の顔を見ないための、切羽詰まったルヴィアの自己防衛行動であった。

 恥ずかしい癖であるというのは分かっているが、小さい頃からどうにも抜けきらない。


 憐れみを誘うようにしっぽをくねらせる桃尻を捨て置いて、母はベアトリスに声をかける。


「ずいぶんと長風呂になってしまっているようだけど、あまり身体を暖め過ぎるのも睡眠に毒よ。そろそろ上がった方が良いと思うけど」


「はっ……恐縮です。陛下じきじきにお声をかけていただけるなど」


「いいのよ、娘と、娘の友人ですもの……ルヴィアも、そろそろ上がりなさいね?」


「……はいぃ」


 濡れそぼったしっぽが、力無く垂れ下がった。






 その翌日、ベアトリスは輸送用の馬車を走らせてきた部下たちとともに、罪人たちを収容してルヴィリスを去っていった。


 “人獣フェンリル”とかいう不愉快極まりない組織のことは気にかかるが、今の自分にできることは、精進あるのみである。

 そして件の悪党どもがルヴィリスに害にをなそうとした時には、ガウラスらとともに身を挺して国を、民を護るのだ。

 今はそのための、力を付けなければならない。

 そんな訳で、ベアトリスを名残惜しさを感じながらも見送った後は、また修行である。


 ルヴィリス王都から少し離れた森の中。

 伐採の痕跡である切り株がそこかしこに見られる開けた場所に、射的用の的が設置されている。

 その中央あたりには、5本ばかりの矢が突き刺さっていた。


 そこから100mほど離れた位置で、ルヴィアは真剣な表情で弓に矢を番えていた。

 狙いをつける。

 風を聞く、風を嗅ぐ。

 放たれる矢の軌道を予測して、狙いを補正していく。

 構えてから、3秒以内。それが制限時間。

 放ち――命中。


「……っ、外してしまいました」


 ただし、その矢が射抜いたのは的の端のあたり。

 あくまでも的の中央のわずかな範囲を狙っていたルヴィアとしては、失敗であった。


 そんなルヴィアの姿を見守っていた女性が、穏やかなハスキーヴォイスで言う。


「矢を放たれる直前、風が乱れましたわね。あれでは精度の高い射撃は困難でしょう。ですが姫様が構えられてから1秒ほど後、あなたの腕なら必中にできるタイミングがありました。ご自覚は、されておりますか?」


「……はい、シェルシィ」


「けっこう。次は逃さないように願いますわ」


 シェルシィ・ガレス。

 黒みがかった赤髪を風にそよがせる、妙齢の美女である。

 ガウラスの妻であり、ルヴィアとは遠い親戚にあたる女性だ。姉のように慕っている。

 第二位階の魔道師であるルヴィリス随一の弓の名手として知られ、最強の武人として名高いガウラスとは顔を合わせる機会も多く、次第に恋仲になっていったと聞かされている。

 結婚すると聞いた時には、ガウラスにシェルシィを取られてしまったと、妬んだりしたこともあったものだ。今となっては、幼い頃の恥ずかしい思い出である。


「では、1からやり直しです。今日は10回連続で成功するまで次の修行には行きませんから、お覚悟を」


「承知してますよ」


 指の痛みも気にせずに、ルヴィアは頷く。

 はじめは1回でも命中すれば良し、危なげなく成功できるようになれば次は2連続、3連続……それが今は10回を目標とするまでになっている。自分の実力が伸びているという実感は、厳しい修行の大きなモチベーションになってくれた。

 現時点でもすでに一人前以上の弓手としての実力はあったが、ルヴィアが目指すのはそのようなところではない。

 いずれはシェルシィのような百発百中の達人の域に達したいものであるが、それはまだまだ先の話になりそうであった。


 そうして幾度かの失敗の後に成功し、ルヴィアの修行は次のカリキュラムへと移る。今度は、素早く移動する対象を目標とした内容だ。その次は、自分も走りながらとなる。

 が、天高く太陽は昇り、時刻はすでに昼を回りつつあった。

 漂ってきた匂いに気付いたルヴィアとシェルシィは、互いに笑みを交わす。


「ちょうどよいですわ。お昼の休憩にしましょう、姫様」


「そうですね」


 匂いは、どんどん近付いてくる。

 大きなカゴを抱えながら、とてとてとこちらに駆けてくる小さな人影があった。

 まだ幼い少女である。


「お母さん、ルヴィア様! お昼でーす!」


「はい、ありがとう。ごくろうさまですね、シャーレ」


「えへへー」


 ルヴィアに頭を撫でられてふにゃりと相好を崩す少女。

 シャーレ・ガレス。ガウラスとシェルシィの間に生まれた、9歳になる娘。

 父に似た青みがかった髪の愛らしい女の子で、ルヴィアは彼女を妹のように思っていた。


 シャーレは籠の中から、その小さな手には少しばかり大きい包みを取り出し、ルヴィアに差し出してくる。

 その顔は、とても誇らしげだ。


「ルヴィア様! これ、シャーレが作りました!」


「ありがとう、シャーレ。それは楽しみですね」


 包みを受け取ると、疲れた指に優しい温かさが伝わってきた。

 シェルシィが、シャーレから昼食を受けとりながら言う。


「シャーレも、一通りの仕事は慣れたようですわね」


「うん、もう洗濯もお掃除もお料理もできるよ、お母さん!」


 いかにも「撫でて撫でて!」と言わんばかりにうなじを近付けてくるので、ルヴィアは望みどおりにしてあげる。

 うなじやお腹を――無防備な弱点を相手に触れさせるのは、狼人の古来からの親愛、愛情の表現である。大人にもなると、恋人や伴侶ぐらいにしか許さないのが普通であるが。

 小さな狼耳はピクピクと心地よさそうに反応し、短いしっぽがぱたぱたと嬉しげに躍っていた。


 包みを開いてみると、肉や野菜をパンで挟んだ簡素な料理が見える。

 やや不格好ではあったが、むしろそれが微笑ましい温もりを感じさせた。

 ひと噛みすると、シャリッという快い野菜の歯ごたえとともに、ルヴィリスで親しまれている特製ソースと肉汁の絡んだ味が、パンにしみ込みながら口の中に広がっていく。

 堪能しながら、ルヴィア達は世間話に興じていた。


「そろそろ、シャーレもガウラスと一緒に狩りに出てもいいかもしれないですね」


「姫様、そのようなこと言われては……」


 シャーレが瞳を輝かせ、身を乗り出してくる。


「本当ですか? 行きたいです! 楽しみです!」


「ほら、すぐその気になってしまいました」


「だってだって、シャーレはお父さんやお母さんみたいな強い戦士になるんだよ! 早く特訓したいよぅ! お父さん達と一緒に出かけたいっ!」


「駄ー目っ。森の中は猛獣だって出るんですから、まずは基本をしっかり学んでからですわ」


「じゃあ、基本したい、今日からでもしたいっ!」


「積極的ですねぇ、シャーレは……」


 シャーレの振る舞いに、ルヴィアは罰の悪い笑みを浮かべて頬を掻く。

 今のシャーレのようなことを、自分も母やシェルシィに言ったことがあるからだ。

 シェルシィの対応も、あの時と似たようなものだった。


「座学はしてるじゃないの。肉体の鍛錬はまだ早いですわ。小さい頃から鍛え過ぎていると、身体があまり大きくなりませんからね」


「うー……」


 不満そうに頬をぷくっと膨らませるシャーレ。

 拗ねたように、ごろんと草むらに転がった。

 シェルシィと顔を見合わせて、ルヴィアは苦笑する。


「それにしても、早いものですね……シャーレも、もう大人に混じって仕事を手伝う歳ですか」


 まだ13歳の自分が言うのも何であるが、しみじみとした実感があった。

 娘を膝の上に乗せ、そのお腹を愛おしげに撫でてやりながら、シェルシィはどこや艶のある表情で言う。


「シャーレも手がかからなくなってきました。そろそろ、もう一人を産めるように励むべきかもしれないですわね」


「励むって……」


 子供を作るために、励む。

 それはつまり、男と女のそういうことをするということだ。

 ガウラスと、シェルシィが。

 想像してしまって、免疫のないルヴィアはもじもじと頬を赤らめた。


「おや、姫様。照れておいでですか? いけませんよ、狼人の女がそのようなことでは」


「そ、そう言われましてもですね……」


 狼人は――といよりも、子供のでき辛い亜人種全般にいえることであるが、そういった男女のアレコレに対しては積極的であることが望ましいとされる。特に女は。

 加えてルヴィリスの狼人は一夫一妻を基本としている以上、女は二人以上の子供を産まなければ人口は減る一方なのだから、切実な問題だ。


 だがルヴィアは、ルヴィリスという小国では収まらない、世界に誇れる人材たれという教育方針のゆえか、狼人の女としてはそういったことには消極的だったのだ。


 例えば、例えばの話だ。

 出会ってから数日の異性に余裕たっぷりに身体を許すとか。

 その後もいつでも求めれられれば応えると誘ってみたりとか。

 平気で一緒にお風呂に入って洗いっこしたりとか。

 すぐ外に誰かがいると知っている個室で情事に耽ってみたりとか。

 そういうはしたないことは、ずっと無理だろうと思う。


「やっぱり、恥ずかしいですよ……」


 ……興味は、ないこともない。

 こっそりと書き上げた小説のワンシーンで、妄想だけでネットリした濡れ場を書き上げる程度には。

 ルヴィア13歳。自覚はないが、ムッツリであった。


 そんなルヴィアの態度は、意識の高いシェルシィのお説教モードのスイッチを入れてしまったようだ。


「いけません! いけませんわ、姫様! 姫様の類稀な才覚を思えば、なおさら一人でも多く子を授かることが求められていることをお自覚ください! むしろかのフォーゼルハウト初代皇帝のように、特定の夫を作らず、相性の良い男を貪欲に探し求めるというのも……! あら、意外とアリかもしれませんわ! 陛下に進言してみようかしら!」


「私の将来にとんでもない可能性開くのやめていただけません!?」


「でもでも、シャーレもルヴィア様の赤ちゃん、早く見てみたいです!」


「シャーレまで、もうっ!」


 ルヴィアは真っ赤な顔で拗ね、つんと顔を逸らす。

 そんなルヴィリスの姫君に、シェルシィ達は楽しげな笑みをこぼすのだった。


 平和な日常、ルヴィアの大好きな穏やかで優しい空気。

 その頃にはもう、ルヴィアの脳裏からは“人獣”という組織についての懸念は、だいぶ薄れていた。

 それでもしばらくは、警戒体制は継続されていた。

 だが警戒の網に“人獣”がふたたび引っかかるようなことはなく、やがては警戒も解かれ、先日の一件は「そういうこともあった」程度の出来事として、日々の中に埋没していくことになる。


 それから3年は、何事もなく平穏に経過していった。

評価ポイントの方、何となく目標にしてた片方でも1000P到達をようやく果たすことができました。

評価してくださった読者の皆様、本当にありがとうございます。大変励みになっております!


次話も明日投降します。

人気投票の方は、やっぱりルルが飛び抜けてますね。

5章はルルが主なヒロインとなる話なので、流れとしては良いことなのかもしれませんがw

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