第1話 ―紅狼姫・その1―
今日からぼちぼち更新再開します。12月いっぱいまでは毎日更新予定です。
「近頃のトウマ様とアヤカ様は、お熱うございますね。見ているこちらまで頬が火照ってきそうです」
「う……うん。ラブラブだよねー……」
「……どうしましたか、ユウ様? 何やら後ろめたそうなお顔をされてますが」
「なっ、何でもないよ!? 何も見てないし聞いてないよ!?」
聖女ファースティが帝都を去ってから、5日が経過していた。
平穏な日々である。
そしてこの日も、何事もなく終わりを迎えようとしていた。
ルルは、いつものように悠と談笑しながら、寝る前のお茶を淹れている。絶妙な温度の湯を注がれた茶葉が、安らかな芳香を悠の個室に広げていた。
「ユウ様、お茶をお淹れしました」
「ありがとう、ルルさん」
第一宿舎、神護悠の自室。すでに日は落ち、帝都には夜の帳が下りている。
ルルは、ティーカップに口を付ける主の姿を、微笑みながら見つめていた。
こくん、と細い喉を鳴らし、彼はふにゃりとした笑みを浮かべる。
「んー、美味し! 寝る前にルルさんのお茶飲むの、すっかり日課だよね。もう飲まないと眠れないかも」
「ふふっ……そう言っていただけると、腕の振るい甲斐がございますね」
「こっちの世界に来てから……ルルさんと一緒に暮らすようになってから、もう2ヶ月ぐらい経つんだねぇ。密度の濃い2ヶ月だったなぁ……」
悠が、遠い目をしながらしみじみと言う。
時の経過を口にする彼の表情に、一瞬だが陰りが見えたような気がした。
憂うような、恐れるような、そんな気さくで人懐っこい彼には珍しい暗さ。
ルルは悠の顔を覗き込むように身を傾げながら、気遣わしげに尋ねる。
「何か、お悩みごとでも? 私でよければ、相談に乗らせていただきたいのですが」
「えっ……い、いや!? 何でもないよ、うん」
「……左様でございますか」
とてもそうは見えなかったが、あまり追及して欲しくはなさそうだったので、ルルはそれ以上は突っ込まなかった。
悠はわざとらしい咳払いの後、ほの見えた陰を振り払うように、満面の笑みでこちらを見つめてきた。
「大変なことも、辛いこともあったけど……良かったこともいっぱいあった2ヶ月だったな。ルルさんにも会えたし」
「私も、ユウ様にお会いできて良かったと思っておりますよ」
「そっかぁ、えへへ……」
彼が嬉しそうに頬を緩めると、自然としっぽがぱたぱた踊る。
優しく穏やかな空気に、ルルも心の底からリラックスしていた。
彼らと出会うまでは、もう二度と過ごすことはないだろうと思っていた心地良さ。
ルルは最近変わったと、悠だけでなく多くの人からよく言われるようになった。
以前よりも、柔らかくなったと。
自分としては、はじめから柔和に振る舞っていたつもりであったのだが、こうも多くの人々から指摘されるのだから、きっとそうなのだろう。
彼らと過ごす日々が、あまりにも楽しいから。
かつての己を知る忠臣との再会が、あまりにも嬉しかったから。
目の前の少年と共にある時間が、あまりにも愛おしいから。
今が、たまらなく幸せで――
「……ユウ様、折り入って、お話したいことがございます」
――それではいけないと、知っていた。
真剣な眼差しのルル。
悠は、ティーカップを両手で包んだまま、きょとんとこちらを見上げてきた。
子犬のように小首を傾げながら、
「ど、どうしたの……? 大事な話?」
「はい、とても重要なお話でございます。ユウ様に、是が非でも聞いていただきたく……駄目でしょうか?」
悠はこちらの表情を見て、その真剣さを察したようであった。
真摯な顔で、こちらを見上げてくる。
「うん……分かった。聞くよ」
「……ありがとうございます」
ルルは、自らの心臓が不快な鼓動を刻んでいることを自覚していた。
肺が、万力で締め付けられるような息苦しさ。
胃が、捻じれるような痛みと吐き気。
じっとりと、脂汗が浮かんでくるのが分かる。
目じりに、涙が浮かぶ。
呼吸が細く、小刻みになっていた。
「ル、ルルさん、大丈夫……?」
「はい、ユウ様。どうか……ご心配なく」
体調に異常を起こすほどのストレスを噛み殺すように歯を食いしばり、ルルはその一切合財を飲み込んだ。
心配そうに眉根を寄せる悠の顔を真っ直ぐに見つめながら、口を開く。
彼に、ある物語を聞かせるために。
「ルヴィリスという小国に、ルヴィアという少女がいました」
ルルの脳裏によぎるのは、懐かしくも痛ましい追想である。
それは、ある少女の破滅の物語――
“紅狼姫”ルヴィア・ルヴィリス。
小国ルヴィリスに、そう呼ばれた姫がいた。
ルヴィリスはフォーゼルハウト帝国の領土に隣接した森林地帯の中にある、小規模な王都を中心として生活をする狼人の国家である。
国家としての規模こそ非常に小さいものの、高い身体能力や知覚能力を誇り、悪地形でのゲリラ戦術に長けたルヴィリスの精強な戦士たちを下すことは列強大国の一つである帝国の軍事力でも容易ではなく、また、犠牲を払ってまで征服統治する意味のある土地ではなかったことから、帝国の世界統一の時代においても、ある程度の独立性を保っていた国家の一つとして知られている。
フォーゼルハウト先代皇帝の治世において、それまで明確な差別対象とされてきた亜人種との融和政策が施策される。
その一環として、帝国はルヴィリスに対しても友好的な外交関係の構築を求めた。
当初は不信や警戒をもって対応していたルヴィリス王家であったが、皇帝自らが危険を冒してまでルヴィリス領地へと赴き、対話を願ったことや、主たる折衝役となったアルドシュタイン家の誠実な外交対応によって次第に、その関係は軟化しつつあった。
ルヴィアは、そんな時代に王とその妻たる王妃の間に生を受ける。
亜人は原則として、生殖能力がとても低い。狼人もその例外ではなく、王と王妃が長らく願い、励み、10年を超える不安の年月の末にようやく授かった愛児であった。
種の存続を優先するために合同婚やそもそも伴侶という概念を持たず、子作りが男女間の恋愛とは無関係の仕事として義務化される文化を形成する亜人種も少なくない中、ルヴィリスの狼人は一夫一妻を基本とする文化を形成していた。その結果として、妻の不妊は、狼人の夫婦の間で深刻な問題として鎌首をもたげる。それが国家の後継ぎに関わるともなれば言わずもがな、だ。
ルヴィアが産声を上げた時、すでに中年へと差し掛かっていた王と王妃が、子供のように落涙したことは、ルヴィリスの民の間で微笑ましくも受け止められた。
父と母、臣下たち、そして民から大いに祝福さえて誕生したルヴィアは、健やかに成長する。
夕日のような赤い髪の、美しい少女へと。
文武両道、容姿端麗。
王族としての優美な所作もそつなくこなしながら、狼人の文化として古くから根付く狩猟も大いにたしなみ、思慮深くも心優しい彼女の人柄と才覚は、多くの臣下と民から愛されていた。
そして彼女の才覚は、それだけにはとどまらない。
魔道の才覚――それも第三位階“法”へと至る稀有な才覚が、彼女の魂には宿っていたのだ。
ルヴィアがそこに至ったのは、若干12歳の時である。いずれは“天”に至ることすら、期待された。
彼女は、天からも愛されている。きっと、ルヴィリス史上最高にして最強の女王になるだろう。
ルヴィリス最強の英雄たる、ガウラス・ガレスすらも超えるのではないか。
国は、彼女の存在に大いに沸いていた。
ルヴィア、13歳。
風が強く、狩猟の実入りが芳しくなかった日。
順風満帆だった彼女の人生の致命的な歪みは、この日からはじまった。
その日は、体術の師であるガウラスと、訓練を兼ねた狩猟に出かけた日であった。
背の高い樹木が生い茂るその森林は、ルヴィリスの狼人が狩場とする地域の中でも迷いやすく、そして大型で凶暴な肉食獣が出ることで知られた場所だ。
日は沈みつつあり、夕焼けが樹木の頭を撫でるように朱に染めていく。
森林が夜の闇に包まれるのは、時間の問題である。
「姫様、本日はここまでにいたしましょう」
精悍な狼貌が、樹上のルヴィアに語りかけた。
極めて大柄な体躯は、巌のような筋肉で覆われており、遠目には鎧で武装した狼面の騎士にすら見える。
ルヴィリス最強の武人、ガウラス・ガレス。
彼は、ルヴィアの血の繋がらない親戚でもある。彼女がたいへんに懐いていた親戚の――ルヴィアの弓術の師でもある――女性を妻として迎えていたからだ。
王家への忠誠心厚き戦士であり、ルヴィアも特に重く信を置いている一人である。
「今日は、あまり実入りがありませんでしたね」
15mを超える高さの枝の上から、ルヴィアは答えた。
直後、お澄まし顔で何の躊躇いも無く飛び降りる。着地も危うげなく、手慣れたものである。
その手には、本日の狩猟の成果である、血抜きされた獣の死骸が吊るされていた。
「仕方ないでしょう。今日はどうも獲物が少ないようです。風で匂いも散りますからな」
「残念です。シャーレへのお土産だったのに……」
風に乱れる赤い髪を手で押さえながら、ルヴィアは目を伏せる。
まだあどけなさをを残しつつも、しっとりとした美しさを備えた容貌。
13歳という年齢には似つかわしくない大人びた雰囲気をまとい、その身体付きは未成熟ながらも女性的な膨らみや丸みを備えつつあった。
艶やかな毛並を誇るふさふさのしっぽが、風に煽られている。
ガウラスとの身長差は、大人と子供どころか、もはや別種の生物だ。
しかし臆するふうもなく、ルヴィアは無邪気な表情でガウラスに狩猟の成果を渡した。
ガウラスは、恭しく受け取る。
「ありがたく、頂戴します」
「育ち盛りのシャーレには、足りないかもしれないですね」
「どうでしょうなあ、姫様が手ずからに仕留めた獲物となれば、あれはたいそう喜ぶと思いますが」
シャーレを――娘を想い、精悍な狼顔の口元が、ふっと緩んだ。
父親の顔である。
それを見上げるルヴィアの頬も、自然と緩んでいた。
「シャーレも、すっかり大きくなりましたね」
「そうですな、4、5年ほど前は私の掌の上に座れるような大きさだったのですが」
「それはガウラスの手が大きすぎるだけの気もしますけど……」
ルヴィアの顔を丸ごと包み込めそうなガウラスの手、それを見上げて苦笑するルヴィアを、彼が微笑ましげに見下ろしていた。
「姫様も大きくなられました。そしてお強くも。私など、いずれ追い抜かれてしまうでしょう」
「それは褒めすぎです、ガウラス。あなたに比べたら、まだまだではないですか。手合せでは、一度も勝ったことがありません」
「そこは超えてみせる、と胸を張って欲しいものですな。その方が、師としても張り合いが出るというものです。それに、姫様の実力はまだまだ伸びておられる。私が姫様の年頃には、たびたび才能の壁にぶつかり、苦悩していたものです」
「……精進します」
ルヴィアは、はにかみながら苦笑した。
ずいぶんと大きく期待されたものだと、ルヴィアは思っている。
たがそれが、心地良くもあった。
誰かに期待される。それに応えてみせる。
師に恵まれた上での、たぬまぬ研鑽と強い意志の結果とはいえ、それが当然となっている程度には、ルヴィアの人生は順調であると言えた。
「さて、そろそろ――」
戻りましょうか。
そう言おうとした時のことである。
荒れていた風がやみ、森が静けさを取り戻したわずかな間。
『……ッ!』
異質な、匂い。
ルヴィアとガウラスは、ほぼ同時にそちらの方向へと顔を向けた。
ルヴィリス王都とは、別方向からだ。
獣ではない。森には本来存在しないはずの匂い。少しずつであるが、強く、濃くなっていた。
風音に混じって、何かを踏むような音。
誰かが、近付いてきている。
ガウラスが、小さく問いかけてきた。
「……“匂い”が、しませんな」
「そうですね、帝国のお方ではないのでしょうか……」
アルドシュタイン家をはじめとした帝国関係者がルヴィリス領に入る場合、こちら側で調合した独特の匂いを発する香料を、身体か衣服のどこかにこすりつけてくることになっていた。
そうすることで、狩人などが間違って弓で射ったりするような事態を防ぐためである。
その匂いが、今はしない。
つまりは、ルヴィリスが領地への立ち入りを認めた相手ではないということ。
いや、早計は禁物だ。
うっかり、ということは考えづらいが、あまりにも危急の事態ゆえに、香料をつける余裕すらなく、こちらに駆けつけようとしている可能性も考えられる。
ルヴィアが逡巡していると、ガウラスが一歩、前に出た。
「私が、行ってまいります。姫様は、ここでお待ちを」
「いえ、私も行きましょう」
「しかし……」
ふっ、とルヴィアは微笑む。
13歳という年齢からは信じがたいほとに威厳のある笑みに、ガウラスは瞠目した。
「私はルヴィリスの女王となる者です。このような事態にも、いずれは一人で対応できるようになるべきだと思いませんか?」
わずかな沈黙。
諦観のにじむため息をつきながら、ガウラスは言う。
「私の指示には、従ってもらいます」
「承知しています。しっかり、私を使ってくださいね、ガウラス。あなたも、いずれは将としてルヴィリスの戦士を率いることになるのでしょうから」
「……承知」
苦笑を浮かべるガウラスを先頭に、二人は暗闇に覆われつつある森の中を駆けていった。
狼人の健脚、そして二人ともが風という概念を生み出す魔術を行使できる。
風に乗り、風の上を滑り、二人はあっという間に、その匂いの元へと辿り着いていた。
それは、8人ばかりの男たちであった。狼人は、一人もいない。
いかにも柄が悪い男たち。人相はそれぞれであっても、その瞳の荒み澱んだ眼光で、ある程度の人となりは知れるというものだ。
おのおの武装しており、その立ち姿も素人ではないようだった。
武装にも統一感はなく、フォーゼルハウト帝国の軍人である可能性は、極めて低い。
国境近辺の村落の民や旅人が迷い込んだ、という訳でもないようだ。
「止まれ」
「なっ……!?」
ルヴィアを背に、ガウラスが彼らの前に出た。
男たちは、突如として現れたガウラスの威容を前に、明らかな警戒を見せる。
リーダー格と思しき髭面の男が、顔をしかめながら口を開いた。
「驚かせやがって、ルヴィリスの狼人か……?」
「然り。この森は我らルヴィリスの領内である。お前たちはそのことを承知で、この地に踏み込んだのか? ルヴィリスは、我らが許可した者しか領地への進入を許してはおらぬぞ」
「……それは、だな」
男たちは、返答に窮しているようだ。
何か、後ろ暗いことがあると察することができる。
さて、どう出てくるか。ルヴィアは事態を見守っていた。
彼らが素人でないならば、ガウラスが単なる巨漢であるだけではなく、どれほど剣呑な武技を誇っているか、その立ち姿から察することができるはずだ。
彼らが、彼我の力量差をどう判断するか、それが今後の事態を大きく左右する。
値踏みするようにこちらをじろじろと観察していた彼らの眼差しは、すぐにガウラスの背にあるルヴィアに気付いた。
赤い髪の、美貌の少女へと。
「へっ……」
にたりと、その口元が吊り上る。
悪辣な、獣欲に満ちた笑みであった。
目の前の餌に釣られ、退くことなど考えてはいない表情。
「上玉だ! “牧場”が高く買ってくれるぜ! 所詮は二人だ、かかれぇっ!」
髭面の男が指示を飛ばす前に、ガウラスとルヴィアは動いていた。
男のたちの筋肉がそのような動きを見せるのを、匂いで感じ取っていたからである。
「ガアァァッ!」
ガウラスの猛り。振るわれる剛腕。
男の一人が、宙を飛んだ。
冗談みたいに跳ね飛ばされ、くるくると回りながら樹木へと激突する。
「ぶべっ」
情けない声を盛らし、地面に落ちて悶絶、やがてぐったりと動かなくなった。
彼ら全員が、第二位階以上の魔道師であることは分かっている。
その肉体は常人より頑強になっており、あれほどの衝撃でも死ぬことはあるまいが、それでも全治には長い時間か多額の費用を要するだろう。
その間にも、戦闘はめまぐるしく進んでいた。
「嘘だろっ!?」
「お、怖気付くんじゃねぇ!」
「囲め、囲めっ!」
男たちがそれでもガウラスに挑もうとしたのは、無謀と蔑むべきか、あるいは果敢と褒めるべきか。
彼らは、それなりに腕利きではあるようだった。
しかしガウラスは、魔法“颶鎧狼”を使うまでもなく、彼らを圧倒している。
ガウラスが全力を出さないのは、魔素が満ちほぼ無制限に魔法を具象できる魔界でならともかく、このような不確定要素のある状況で安易に魔法を使うべきではない、という慎重な判断の結果でもあった。
不意打ちで一人、それでも多対一ということで多少の時間は要するだろうが、ガウラスの勝ちは変わるまい。
そう考えていたのは、ルヴィアだけではなかった。
ガウラスの戦闘から少し離れた、森の中。
「くそっ……なんだあの野郎……! あんなの、勝てる訳がっ――」
「――あら、お一人だけ、逃げられるのですか?」
指示を出しておきながら、こっそりと逃げ出そうとしていた髭面の男。
彼は、ガウラスに勝てる可能性など万の一つもないと悟っていたのだろう。あの指示は、部下を盾にするためか。
やや鋭くなる眼差しを自覚しながら、ルヴィアは言葉を続ける。
「お仲間に、時間を稼がせて? なるほど慎重で賢明で――ひどく気に入らない差配です」
「だから、どうしたよぉっ!」
髭面の男が、剣を突きつけてきた。
何気ないようでいて、確かな基礎の感じられる堂に入った構え。
なかなかの使い手である、あの中では一番腕が立つようだ。
男は、卑しい笑みで顔を歪めながら、舐めつけるような口調で言ってきた。
「はっ……ちょうどいいぜ。お前を“牧場”に連れて行けば、たっぷり褒美をもらえるだろうぜ」
ルヴィアは、鼻先の切っ先に眉ひとつ動かさず、小首を傾げて問うてみた。
「その、“牧場”というのは……何のことなのですか?」
「行けば分かるさ……いいからっ、黙って俺に――」
「――では、後ほど聞かせてもらいましょう」
手を伸ばしてくる男、ルヴィアはふらりと身を後ろへと傾がせた。
そのまま、一回転。
ややつんのめった体勢の男の顎に、爪先を引っ掛けるように蹴り上げる。
いわゆる、サマーソルトキック。
「あがっ……!?」
ルヴィアの可憐な容姿に油断していたのだろう。
顎から脳を揺らされ、よろめく男。
その隙に、ルヴィアは背中に固定していた弓を手に取り、腰の矢筒から矢を番えた。
手足を狙い、発射。
「なめるんじゃねえぇぇぇ!」
すべて、防がれた。
なかなかに巧みな剣捌きによるもの。
(だけでは、ないですね)
男の身体から満ちる、魔道の気配。
暗闇の中、男の周囲の空間が、微妙に歪んでいるのが見える。
放った矢の何本かは、その歪みに掴まれるようにして停止し、へし折れていた。
大蛇のようにうねる力場が、男のもう片方の手から伸びていた。消えるとともに、折れた矢が地面に落ちる。
「それが、あなたの魔術ですか」
「くそっ……油断した、ガキがっ……! “鋼翼”じゃ序列者も見えてた、この俺がっ……!」
「なれなかったんじゃないですか」
「うるせぇぇぇぇぇっ!」
ふたたび、男が魔術を行使した。
その手の先から力場が伸び、地面を叩く。
まるで吸盤のついた触手のように、その力場には地面の小石や折れた矢、枝、葉などが張り付いていた。
「ふんっ!」
力場を振りまわすと、それらがルヴィアに向けて飛来する。
その後ろから、力場が蛇のように襲いかかってきた。
触れたものを接着する、触手状の力場。
目くらましのように放たれた障害物のせいで余計に見えづらく、間合いが図り辛い。
森人ならはっきりと視認できたのだろうが、狼人の目だとかろうじて空間の歪みを確認できる程度だ。
暗闇という状況下では、なかなかに厄介な魔術といえる。
さて、どうするか。
ルヴィアは刹那の時間に思考し、決断した。
魔術を行使、風をまとう。
見えぬなら、触れてみるまでのこと。
力場が、風に触れた瞬間――
「何だとっ……!?」
――ルヴィアが跳んだ。
力場に絡みつくように接着された風の上を、ルヴィアが駆ける。
そして、男の頭上へと。
「しまっ……」
もう遅い。
ルヴィアは、男の頭を、その両脚で挟み込んだ。
そのまま、全身の筋肉と風の流れを利用して、男の身体を地面から引っこ抜くようにして投げ落とす。
逆さまになった男は、頭頂部をしたたかに地面に強打した。
「……うげっ」
潰れた蛙のような声を漏らし、男は昏倒。
それは異世界で、フランケンシュタイナーと呼ばれる技であることを、ルヴィアはまだ知らない。
「ふぅ……」
残心を終え、男が完全に気絶したことを確認し、一息つくルヴィア。
彼女に、感嘆の声がかけられた。
「お見事です、姫様」
とっくに戦いを終えていたガウラスが、満足げに頷いている。
ルヴィアは、微妙な笑顔でそれに応えた。
「……まだまだですね。思ったより手こずってしまいました。ガウラスの方は?」
「全員、縛り上げております」
「ん、けっこうです。ご苦労様でしたね、ガウラス」
狼人は戦と狩猟の種族であるが、無用な流血は好まない。
ルヴィアとていざとなれば己の手を血で染める覚悟はあるが、例え悪党であろうと殺さずに済むならば、それが最上だ。
相手を殺さないことを前提とした戦い方をしたのも、少しばかり手こずった原因であろう。
「さて……とりあえず、この人たちは王都に連れて行きましょう。ちょっと大変ですけど」
「そうですな……尋問と、そして帝国への引き渡しも必要です」
「ええ、今回の件について、あちらの見識も頼りたいですし」
そしてルヴィアは、ルヴィリスと帝国の橋渡し役の一人である人物の名を挙げた。
ルヴィアにとっては、友人の一人でもある娘の名を。
「ベアトリスに、文を送りましょう」




