第12話 ―聖天来訪・その2―
昼下がり、異界兵の生活区画に帰ってきた悠たちを迎えたのは、
「ただいま――」
「悠君! 大変よ悠君!」
「――うわぁっ!? 何ですか玲子先輩!?」
ぱたぱたと駆け寄って泣きながら縋りついてきた玲子と、
「朱音ちゃん達が見知らぬイケメンに寝取られたわ! きっとそのうち、悠君が遊びに行ったら頬を赤らめた朱音ちゃんが顔だけ出して、小さく喘ぎながらどこか素っ気なく――」
「ふんっ!」
「ぐえっ!?」
それに追いつき、鬼のような形相で頭を鷲掴みにして万力のごとく締め上げる朱音であった。じたばたと苦しむ玲子の身体は、少し浮いている。
後からは、ティオや美虎達が気まずげな様子で歩いてくるのが見えた。
悠とルルは、いきなりの展開にきょとんと顔を見合わせる。
「な、何があったんですか? 朱音に彼氏ができたなら、めでたいじゃ」
「あ゛ん!?」
「ひぃっ!?」
朱音の喉から迸ったのは、地獄の底から響いてくるような恐ろしい恫喝の唸りであった。断じて年頃の女の子が出していい声ではない。
一体、何が悪かったというのだろうか。
悠は虎に威嚇されたハムスターのようにふるふる震えながら、苦笑するルルの背に隠れる。
涙目でちょこんと顔を覗かせながら、青ざめた顔で朱音にタップしている玲子に尋ねた。
「で、け、結局、どういうことですか……?」
「ぜえっ、ぜぇぇっ……ええとね、話すとちょっと長くなるんだけど、ブリス商会の方でね、」
「あ、コンテストにお店を出す話ならエリーゼさんから聞きました」
「そう、なら話は早いわ。それでさ、私は目ぼしい子のスカウトに回ってた訳よ。伊織ちゃんとか可愛いどころからはだいたいOK貰えたんだけど」
「ルルさんも参加するそうですよ、ね?」
「ええ、頑張らせていただきます」
朗報であるはずなのだが、玲子の顔は浮かない。
むしろ危機感も露わに訴えかけてきた。
「でもさあ! 朱音ちゃんとティオちゃんと美虎ちゃん達がさあ! ブリス商会のライバルのお店で働くって言ってるのよ! どう思うユウ君!?」
悠とルルは目を見開いた。
「そうなの?」
朱音とティオは、罰が悪そうに口を開く。
「私に糸の使い方を教えてくれている人が出資してる店で、その代わりに働く約束をしてて……」
「わたしもなのデス」
「オレ達は、そいつに直接面識ある訳じゃないんだが……朱音の付き合いで出るって言っちまったからなあ」
皆、気まずそうだ。
特に朱音とティオは顕著である。悲しげに目を伏せる様が痛ましい。
朱音が、おずおずと弱り切った声を上げる。
「知らなかったのよ……まさか、そっちでもそういうことするなんて……」
「……ごめんなさいデス」
しゅんと謝るティオ、あからさまに気落ちしていた。
俯き、上目遣い気味にこちらを見ていた朱音が、沈んだ声で言う。
「やっぱり、今からでも頭を下げて別の条件にしてもらって――」
「――いいんじゃない? 別に」
悠は、その言葉をにこやかに遮った。
玲子は、恐らく悠の存在をダシにその話を断る方向に持っていこうと考えていたのであろう、驚愕の表情で顔を向けてくる。
「ちょっ、悠君……!?」
「そりゃ、一緒にやれないのは残念だけど……でも、勝負っていうのも面白いんじゃないですか? こっちにだって、綺麗な人も可愛い人もちゃんといますよ。ルルさんや伊織先輩、玲子さん……もしかしたらレミルも手伝ってくれるかも」
「まあ、そうだけどお……」
朱音、ティオは、目を丸くして悠を見つめていた。
「悠、いいの……?」
「ユウ様……!」
「約束したのなら、そっちを優先させるべきだよ。先約なんだし」
そもそも悠がいい悪いだの口を挟むことではないような気もするが。
二人とも、気質は違えどとても義理堅い性格だ。交わした約束を自ら反古にすることなど、絶対にやりたくないことであろう。
ましてや、既に借りがある状態であるならば尚更である。
朱音たちとの客寄せ勝負――それはそれで、楽しそうではないか。
「でも、僕もブリス商会の方を手伝うからね。負けないよ」
にっ、と白い歯を見せて微笑む悠に、朱音もティオも、後ろの美虎たちも救われたような顔をした。
朱音が、柔らかに微笑む。
「……ん、あたしも全力でいくから」
「わたしもデス!」
「ま、オレ達も付き合うって言った以上はな。なあ、お前ら」
「ッス!」
「姐さんのおっぱいは、異界兵にて最強……男どもは蛾のように寄ってくる」
そのようなことになった。
「きぃぃ……!」
玲子が悔しげにハンカチを噛んでいる。わざわざそのために出したのだろうか。
どうやら悠は、朱音たちを説得できる最後の人材として玲子に期待されていたらしい。
ひとしきり悔しがった彼女は深々とため息を吐き、肩を落とした。
ちょっと責任を感じた悠は、おずおずと声をかける。
「あの……すみません、玲子先輩。お力になれなくて……僕にできることだったら、何でも手伝いますから」
「まー、いいけど! くそう!」
玲子はがばっと起き上がり、悠の肩に手を回してきた。
気を取り直したのか、にんまりと唇を吊り上げてきた。悪い笑みだ。
「でも、悠君も手伝ってくれるんでしょ?」
「ええ、そりゃ勿論……」
「何でも手伝ってくれるって言ったわよね?」
「ぼ、僕にできることだったらですよ?」
「うふふー、いいのよう。悠君なら十分にできることだからっ」
上機嫌にスキップして離れていく玲子。
口元が、とてもいやらしい感じににやついていた。
「……?」
「それなら何とかなるかなー、ツンデレ巨乳ゴリラとあざといエロフとムチムチ爆乳オレっ娘と愉快な仲間たちがいなくても――あっ」
朱音と美虎たちに包囲され、姿の見えなくなる玲子。
続けて聞こえてくるのはミシミシ何かが軋む音とくぐもった悲鳴。
玲子の手が、蜘蛛の糸を掴もうとする罪人のように突き上げられる。
それを見る悠とルルは、
「行きましょうか、ユウ様」
「そうだね」
ありふれた日常風景を前に、穏やかな表情で頷き合う。
玲子が何を頼もうとしているかは気になるが、それはまた後でいいだろう。
……そのまま、悠は玲子にその内容を聞くことをすっかり忘れてしまった。
その意味を後悔と共に知るのは、まだ先のことである。
自室に戻った悠とルルは、エリーゼから土産として受け取った荷物を置き、服装も少し楽なものへと着替えた。
ルルはお湯を沸かし、お茶を淹れるための準備をはじめていた。
この後も、予定がある。
自室に訪れるはずの客人を、悠は買ってきたお菓子を広げてそわそわと待ち続けていた。
そして、コンコンというノックの音が聞こえてくる。
「おや、来ましたね」
「いいよいいよ、僕が出るからっ」
応対しようとしたルルを制止し、悠はぱたぱたとドアに向かい、開いた。
そこにいるのは、大ぶりなポニーテルを伸ばした黒髪の少女である。
悠よりも小柄だが、つぶらな瞳は猫のような強かさを帯びていた。
もじもじとした感じで立っていた彼女は、悠の顔を見ると表情を輝かせる。眩しいばかりの笑顔、弾んだ声が廊下に響く。
「悠っ、お邪魔するばい」
「どうぞ、伊織先輩」
島津伊織が、ルルに会釈しながら部屋に入ってきた。
その胸元には、一抱えほどの布袋が抱かれている。
椅子に腰を下ろし、布袋を絨毯の上へ。どさっ、と重たげな様子であった。
「けっこう入ってるんですね」
「長編ばい、20冊ぐらいあるとよ」
「へえ……あ、これ借りてたのです。ありがとうございました」
言いながら、悠は本棚に綺麗に整頓していた5冊ばかりの本を袋に入れ、伊織へと手渡した。
彼女は受け取り、悠をじっと見つめながら尋ねてくる。
「で、どうだったと?」
「面白かったです! 隊長さんには生き残って欲しかったですけどね。せっかく悪い貴族に捕まって酷い目に遭ってた幼馴染を助け出して、結ばれたのに……」
「あれだけ死亡フラグ立ってたから覚悟はしてたけん、でも泣ける展開だったとねえ」
そんな風に二人が語るのは、悠の返した本に書かれている物語についての感想である。
地球ではなく、この世界の書物であり、悠たちの世代でも馴染みやすいような、エンターテイメント性の高い物語だ。
この世界で暮らしてそれなりの月日が経てば、フォーゼ言語の基礎的な読み書きを一通り身に付ける者も若干だがいる。
玲子のように持ち前の頭のの良さでごくごく自然に身に付ける者もいるが、その多くは一定の動機から意欲的に学んだ結果である。
伊織もその一人であり、その動機はこの世界のオタク文化を知ってみたいという好奇心の故だったらしい。
悠と創作の趣味が近しいことを知った伊織は最近、悠に自分のお勧めの作品を持って来てくれているのだ。
異世界とはいえ喜びもすれば怒りもする同じ人間、『面白い』と感じるポイントは似通っているらしく、名作と言われるものは悠が見てもだいたい楽しめている。
ちなみに、地球側の名作をこちらの世界に出版するという商売も、玲子が主導でブリス商会の方で行っている。どうやら売れ行きは好調らしいが、本来の作者に対して罪悪感にちくちくと胸を痛める悠であった。
伊織の貸してくれた作品を読み終わっては、新しい作品を貸すために部屋を訪れる伊織と色々と語り合うのは、この数日間に数回繰り返されていた。
どうやら伊織も悠との語らいをとても楽しみにしてくれているらしく、顔を合わせるたびに挨拶の後の第一声が、うずうずとしながら期待に満ちた目で「読み終わったと?」である。
ルルの淹れてくれたお茶の芳香にうっとりとしながら、悠は伊織の足元の袋へと目を落とす。
「今日は、どんな作品を持ってきてくれたんですか?」
「ん、今回のは、今までで一番かもしれなかと。おいはすっかりハマっとったばい!」
「そういえば昨日と一昨日はぜんぜん姿見なかったですね……」
「部屋に引きこもってたとよ! おかげで寝不足気味たい!」
伊織がやや充血した目でどん、とテーブルの乗せるのは、地球でいうところの単行本サイズ程度に相当する、やや古ぼけた書物である。
前面には、手から炎のようなものを出した美丈夫が仲間を従えている絵が、やや色あせながらも確認できる。
その上にはタイトル。いたってシンプルな字面であり、悠にも容易に読むことが出来た。
何気なく、それを呟く。
「竜天戦記?」
ガチャン、という甲高い音が鳴ったのは次の瞬間である。
何事かと振り返ると、別のお茶を淹れようとしていたルルが、茶器を取り落した音であった。
ごろりと絨毯の上に転がる茶器。幸いにも割れなかったようだ。
彼女がミスをするなど、極めて珍しいことである。
「なんしよーと?」
「どうしたの、ルルさん?」
「い、いえ……その」
こわばった美貌。
その声も、微妙に震えているような気がした。
彼女が珍しく動揺している切っ掛けは、明白である。
「ルルさんも、竜天戦記知ってるんだ?」
「え、えぇぇ、まあ」
しっぽが、くるくると丸まっていく。
懊悩するように少し黙り込むルル、やがて諦観めいた感情の混じる小さな吐息とともに、問いに答えた。
「有名な作品ですので……私が知ったのは12歳ほどの頃ですが、年頃の青少年の御多分に漏れず、熱中していた時期もあります。懐かしい名前だったので、びっくりしてしまいました」
思わぬところに同士がいたことを知ってか、伊織の表情が輝く。
期待に満ちた声で、ルルに問いかけた。
「そいなら知ってるかもしれんとね!」
「な、何がでしょうか……?」
「竜天戦記外伝……『吼天の戦姫』たい!」
「――――」
ルルの表情が消えた。
その手から、茶器がふたたび滑り落ちる。
「ル、ルルさん……?」
「……失礼いたしました。いえ、その名前は……ぞ、存じ上げません」
ルルは、青ざめた顔で慌てて茶器を拾う。
覚束ない手つきが危なっかしい。まるでミスをした時のティオを見ている気分であった。
悠は彼女のリアクションに訝しみながら、伊織に尋ねた。
「何ですか、それ?」
「竜天戦記のファンの一人が書いたという……まあ、同人作品みたいなものたい。今となってはけっこうなレア本で、入手困難になってるとよ。近いうちに帝都の古本屋とかブリス商会に在庫がないか探しに行く予定だった――」
カタカタカタ、という危うく甲高い音は、ルルの震える手の中の茶器が、皿に小刻みにぶつかる音だ。
「ルル……どうしたばい? 胸でも苦しいと?」
「汗だらだら垂れてるけど……風邪でも引いたんじゃないの? ほんとに大丈夫?」
胸を押さえて息を荒げるルルは、眉根を伏せながらおずおずと言ってくる。
「……申し訳ありません。微妙に気分が優れないので、少しだけ風に当たって来ても良いでしょうか」
「うん……それは勿論いいけど」
「すぐ、戻りますので」
恭しく一礼して、足早に部屋を去っていくルル。
あんな彼女を見るのは初めてである。
悠と伊織は、ぱちくりと目を瞬かせながら顔を見合わせた。
「……どうしたと?」
「さあ……?」
溌剌とした愛らしさを感じる顔立ちが、目の前にあった。
間近で見つめ合う状態。
その直後。
「あ、ふゃ、ひゃわわ……っ」
伊織の顔が、真っ赤になった。
唇がもにょもにょと妙な動きを見せ、呻きとも喘ぎともつかない声が漏れている。
猫のようにつぶらな瞳が、激しく揺れていた。
「い、伊織先輩もどうしたんですか……!?」
「なな、な……何でもなかと! ちょっと頭冷やしてくるばい!」
跳ねるように立ち上がる伊織。
ルルに続いて、彼女まで部屋を飛び出してしまう。
止める暇も無かった。
「え、えー……?」
その場に取り残された悠は、ただただ当惑して立ち尽くしていた。
次話は執筆中です、できるだけ早めにお届けできればなと思います。




